箱根日記:小田急ロマンスカーと箱根登山鉄道、富士屋ホテル、御殿場線

取り壊し中の小田急百貨店を見上げて、1960年代の新宿西口に思いを馳せる

毎年5月下旬は箱根富士屋ホテルへ静養に出かけることにしている。毎年といっても今年で2年目であるが、今年も小田急ロマンスカーに乗って、いざ箱箱へ! と、5月19日午前10時過ぎ、曇天の新宿駅にやってきた。

去年は小田急百貨店の地下で昼食を買ったのだったが、小田急百貨店本館は去年(2022年)10月2日をもって閉店してしまった。今年は京王百貨店の地下へ昼食を買いにゆく、その前に、取り壊し中の小田急百貨店本館の建物を見上げる。東京の都市風景は常に変化している。常に普請中である。


かつてここに、小田急百貨店新宿店本館があった。子供の頃から当たり前の風景で特に気に留めていなかったのに、なくなってしまうと、そこはかとなく寂しい。

1962年11月3日、現在のハルクの地に小田急百貨店は初めて開店した。新宿西口最初の百貨店であった。小田急がターミナルデパートの経営に乗り出したのがこのときが最初だった。その5年後、1967年11月23日に小田急百貨店本館が開店、このとき、それまであった小田急百貨店はハルクと改称した。


1961年2月4日、荻原二郎撮影《改良工事が進む新宿駅を甲州街道の陸橋から眺める。》、山田亮著『小田急電鉄 昭和~平成の記録』(アルファベータブックス・2022年12月)より。はるか向こうに、建設中の小田急百貨店(ハルク)がうっすら見える。

1960年3月28日に起工式が挙行され、小田急の新宿駅全面改良工事がスタートしていた(『小田急50年史』小田急電鉄株式会社・1980年12月)。地上地下二層式への工事が進められていた。お隣りの京王線も地下化工事の真っ最中。着々と現在の姿へと近づいている。


同じく1961年、小田急百貨店(ハルク)建設時の新宿西口広場の写真、『新宿風景ー明治・大正・昭和の記憶ー』(新宿歴史博物館・2009年3月)より。左端の建築中の建物が小田急百貨店(ハルク)。正面の線路の向こうに東口が見渡せる。国鉄新宿駅の3代目駅舎も1962年3月に取り壊され、1964年5月に新宿ステーションビルが落成する。1960年代は新宿駅前の都市風景が大きく変貌してゆく時期だった。


1961年12月、新宿駅西口から青梅街道をのぞむ。正面に建設中の小田急百貨店(ハルク)をのぞむ。だいぶ完成に近づいている。池田信著『新装版 1960年代の東京』(毎日新聞社・2019年2月より)。


1962年3月、国鉄の新宿駅駅舎が取り壊された、『新宿風景ー明治・大正・昭和の記憶ー』より。新宿駅改修工事の起工式は1961年12月、新宿ステーションビルとして新駅舎が完成したのは1964年5月だった(『新宿区史』)

一方、1962年11月3日に小田急百貨店が開店、1963年4月1日、京王新宿駅が地上から地下へと移動し、京王ビルが竣工して翌1964年11月1月、京王百貨店が開店した。そして、1967年11月23日、小田急百貨店本館が開店し、旧館を「ハルク」と改称した次第であった。


1963年初頭とおぼしき頃の新宿西口風景(荻原二郎撮影)。1962年11月に開店した小田急百貨店(ハルク)から京王、小田急、国鉄の線路を見下ろす。鎌田達也構成・文『小田急線沿線の1世紀』(世界文化社・2009年6月)より。小田急と京王が地上ホームだった時代の末期。左から国鉄(1-8番線)、小田急(9-12番線)、京王(13-16番線)であった。

1963年4月1日、京王線の併用軌道の地下移設工事が完成し、地下駅の使用が開始された。その地下ホームの上に、翌年1964年11月に京王ビルが完成し、京王百貨店新宿店が開店した。


1964年の新宿西口バスターミナル、『新宿風景ー明治・大正・昭和の記憶ー』より。まだ小田急百貨店本館がないので、西口から国鉄の線路の向こうの東口を見通せた。8階建ての真新しい駅ビルが見える。1962年3月に国鉄新宿駅の3代目の駅舎が取り壊されており、1964年5月に新しい駅舎が竣工した。

渋谷、新宿、池袋。東京の各ターミナル駅に鉄道会社のデパートがある(あった)。その駅前風景はいずれもバス乗り場となっている。ターミナルデパートのある風景はバス乗り場のある風景でもある、ということが実感される。


1964年9月8日撮影の空中写真、『富岡畔草・記録の目シリーズ1 消えた街角 東京』(育岡社・1992年5月)に掲載の写真を一部抜粋。ほぼ完成している京王ビル。西口ビル群の場所には淀橋浄水場がまだ残っている。1965年3月31日、淀橋浄水場は新宿副都心建設のため閉鎖され、東村山に移転した(『新宿区史』)。


新宿西口駅前風景、春日昌昭写真集『40年前の東京』(生活情報センター・2006年7月)より。京王百貨店が1964年11月1日に開店し、小田急百貨店本館が建設中の時期。

1964年2月に小田急改良工事が完了し、現在の地上地下二層式のホームとなった。翌1965年に淀川浄水場が閉鎖され、跡地は高層ビル群となってゆく。


1966年10月、1964年11月に着工した新宿駅西口立体広場の工事がゴールに近づいている。『新宿風景ー明治・大正・昭和の記憶ー』より。翌年11月に開店する小田急百貨店本館が建設中。

1966年12月1日、新宿駅西口の立体広場が完成し、ちょうど1年後の1967年11月23日、小田急百貨店新宿本館が開店し、ここに西口広場が完成した。それから55年、去年(2022)10月2日、その歴史に幕を閉じた。思えば遠くきたものである。


小田急ロマンスカーに乗って、箱根へ。映画のなかの小田急

5月19日午前10時45分。無事に昼食を調達して、あとは電車に乗るだけ、さあ、いよいよロマンスカーだ! と喜び勇んで、小田急のホームにやってきた。


これから乗る「スーパーはこね17号」。車体はEXEα(30000形)らしいと、ウェブサイト(https://www.odakyu.jp/romancecar/features/line_up/30000/)でふむふむと確認を怠らない。

ホームに集う乗客の数はコロナ禍にあった去年とは雲泥の差。外国人観光客の姿が目立つ。みんないっせいに記念写真を撮っていて、とても楽しそう。つい便乗して、いそいそと写真を撮ってから、いざ車内へ。


11時00分発のロマンスカーはゆっくりと新宿駅を出発。わざわざ持参した戦前の小田急電車の沿線案内を愛でるひとときが至福。この瞬間をどんなに心待ちにしていたことだろう…!

小田急は1927年4月1日、新宿・小田原間を全線電化で開業した。1927年から1928年にかけて、新宿をターミナルとする小田急・京王・西武の各私鉄路線が出揃っていったのだったが、小田急はその先陣を切った格好だった。


織田一磨画《新宿すていしょん》1930年、『新宿:織田一磨自画石版画集』[https://dl.ndl.go.jp/pid/2541721]より。1920-30年代新宿を思うとき、いつもまっさきに思い出すのは織田一磨の石版画集。この省線の駅舎は1925年4月竣工の3代目の新宿駅。


織田一磨の石版画と同時期の新宿東口風景、和田博文編『コレクション・モダン都市文化37 紀伊國屋書店と新宿』(ゆまに書房・2008年6月)より。新宿三越(1930年10月開店)が建設中。新宿ホテルの後方に見える屋根は1929年9月開場の新歌舞伎座(1934年9月興行の松竹歌劇団公演から新宿第一劇場と改称)。


上掲とほぼ同じアングル、1932年の新宿東口風景(絵葉書)。新宿三越が完成して、東京パンが1930年代風建築に姿を変えている。

浅原六朗の「新宿ところどころ」と題した文章(『愛慾行進曲』大東書院・1930年5月刊)は、なんとも胸躍る書き出しだ。

地中海に面したナイル河の三角洲に、世界最古のエジプトの文明が生れたやうに、新宿駅を中心とする京王、小田急、西武の交通の三角洲は、昭和の新文明を催進すべき自然の運命にあると言つていゝ。

浅原六朗言うところの「京王、小田急、西武の交通の三角洲」に1920年代後半から30年代にかけて、『新宿 : 織田一磨自画石版画集』の都市風景が形成されていった。紀伊國屋書店、中村屋、高野フルーツパーラー、カフェー街、三越に伊勢丹、ムーラン・ルージュ……といったような新宿の都市文化が花開いていったのだった。


『沿線名所案内 小田原急行鉄道』(1935-37年発行)。箱根登山鉄道が小田原まで延びている様子が描かれているから、1935年10月1日以降の印行。1937年7月1日に「小田急本社前」と改名している現・南新宿駅が「千駄ヶ谷新田」となっているから、それ以前の印行。


『沿線案内 小田急電車』(1938年7月発行)。こちらの沿線案内は「昭和十三年七月」と刊記が明記されている。


戦前の小田急線新宿駅構内(1932年刊『大東京都市写真帖』に掲載の写真)、図録『新宿歴史博物館特別展 特急電車と沿線風景 ~小田急・京王・西武のあゆみと地域の変遷~』(2001年10月発行、以下「図録『特急電車と沿線風景』」と記す。)より。

1927年4月の開通時に誕生した小田急の地上4線ホームは、1950年代まで使われていたが、1960年に改良工事を開始、1964年2月、現在おなじみの地上と地下の二層式ホームとなった。




市川崑『恋人』(新東宝・1951年3月10日公開)のクライマックスは終電が行ってしまったあとの小田急新宿駅。別れを惜しむ池部良と久慈あさみ。


1958年12月、辻阪昭浩撮影《新宿駅9番ホームにて発車を待つ1700形急行箱根湯本行き》、山田亮著『小田急電鉄 昭和~平成の記録』に掲載の写真。同書に、

右隣の線路は国鉄の中央電車線で当時の新宿駅は国鉄の中央急行線ホームを1番線として4面8線あった国鉄新宿駅のホームから連番で番線が振られており、小田急は櫛状頭端式4面4線であったが乗車ホームだけ番号が振られ9~12番ホームだった。またこのまま京王線にも続いておりこちらは13~16番線となっている。

と解説が付されている。


1960年5月3日の新宿駅、図録『特急電車と沿線風景』より。

国鉄中央総武緩行線に接した9番線は急行用ホーム。就役まもない2400形の急行箱根湯本行が停車中。右側の10番線は急行箱根湯本行が停車中。右側の10番線は特急用ホームで、全盛期のSE車が発車を待つ。11、12番線は各駅停車専用ホームだった。昭和2年の開業以来、基本的な構成に変化がなかった。

と解説されている。同年、地上地下二層式の改良工事が始まっている。


1964年2月に小田急線の新宿駅改良工事が完了し、現在の姿となった。ロマンスカーは地上ホームに停車。画像は、田中登『安藤昇のわが逃亡とSEXの記録』(東映東京・1976年10月1日公開)より、ロマンスカーで逃亡をはかる安藤昇一行。本作の題材は1958年6月の横井英樹銃撃事件であるが、1963年3月に運転を開始したNSE車のロマンスカーがドキュメンタリーチックに登場する。

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戦前の小田急沿線案内でもっとも心が躍るのは、なんといっても向ヶ丘遊園のあたり。向ヶ丘遊園、一度も行ったことなかったのに大好き!



向ヶ丘遊園地は小田急の開通と同日の1927年4月1日に開業した。開業当初の正式名称は「向ヶ丘遊園地」、戦後に復興して、1952年4月1日に有料の遊園地して開業後、同年7月1日に「向ヶ丘遊園」と正式に改称した。図録『特急電車と沿線風景』によると、

戦前の向ヶ丘遊園地は桜・ツツジなどを植樹した自然公園で、入園料も無料であったが、入園客は春の花見の季節に集中するなど、娯楽施設としての要素は少なかった。戦時中は近衛騎兵連隊の訓練場となり、戦争の被害を受け、園内は見る影もなく荒廃してしまった。

とのことで、戦前の向ヶ丘遊園地は入園料も無料で、近場のちょっとしたピクニックにぴったりの自然公園だった。戦前からすでに最寄りの稲田登戸駅(向ヶ丘遊園駅)から向ヶ丘遊園地正面まで豆汽車が走っていて、微笑ましい。


小田急電車の戦前の観光チラシ。「秋の健康地  御案内」「小田急の秋」と書かれた四つ折りのチラシ。



「秋のアルバム」として、大山阿夫利神社、丹沢山塊、箱根芦ノ湖とともに、向ヶ丘遊園地附近の梨もぎ。

武蔵野の香りも濃かな展望美の自然公園です。丘あり、谷あり、面積十万坪、子供遊園、運動場、テニスコート等完備されて居り附近の梨もぎ、栗拾ひ、芋掘りなど、ピクニックの好適地です

向ヶ丘遊園地の秋の行楽は、梨もぎ、柿もぎ、栗拾い、芋掘りであった。


1937年5月、向ヶ丘遊園地への豆汽車、図録『特急電車と沿線風景』より。《開園間もない昭和2年6月14日に開通した豆汽車。産業用ガソリン機関車が、オープン客車を牽引。》とある。


《開業当時の稲田登戸駅とゲートを結んでいた豆汽車(絵葉書より)》、『小田急線沿線の1世紀』より。満開の桜の下の豆汽車。

1950年3月、戦前の豆汽車は「豆電車」となって復活した(動力は蓄電器)。稲田登戸駅(1955年4月1日に向ヶ丘遊園駅と改称)と向ヶ丘遊園地正門を結ぶ約1キロメートルの距離を行き来していた。


《豆電車乗り換え口(昭和26年)写真提供/小田急電鉄》、『小田急線沿線の1世紀』より。


1955年4月10月撮影、桜の花の満開の下の豆電車(荻原二郎撮影)、『小田急線沿線の1世紀』より。豆電車は子供30人乗りの7両編成だった。1966年4月23日に道路拡張により豆電車は廃止され、代わって、向ヶ丘遊園モノレール線が開通した(2001年2月1日廃止)。

豆電車が走るようになって2年後の1952年4月1日、向ヶ丘遊園地は有料の遊園地として再スタートをきった。その2ヶ月後に封切られた、成瀬巳喜男の映画『おかあさん』に再スタート直後の向ヶ丘遊園地が映し出されていて、もう眩いばかり…!




成瀬巳喜男『おかあさん』(新東宝・1952年6月12日公開)の向ヶ丘遊園地のシークエンスは豆電車で始まる。


本格的な遊園地としてリニューアルする前年の1951年7月、園内に空中ケーブルが架設されていたが、1967年12月に廃止された。1966年から翌年にかけて、豆電車と空中ケーブルが向ヶ丘遊園から姿を消したのだった。この時期がひとつの転換点だったのかもしれない。新宿西口の変貌と同時期のことであった。



向ヶ丘遊園といえば、この飛行塔! 昭和の遊園地でおなじみの飛行塔!


成瀬巳喜男の『おかあさん』の翌年に公開された、東宝初のカラー映画の山本嘉次郎『花の中の娘たち』(東宝・1953年9月15日公開)に向ヶ丘遊園のポスターが映るショットがある。空中ケーブルの絵がとてもかわいい。桜ではなく桃満開。

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小田急が大々的に登場する映画に、渡辺邦男『ウッカリ夫人とチャッカリ夫人 やりくり算段の巻』(東宝・1954年3月10日公開)がある。



主人公の佐野周二は小田急線沿線で郊外生活を送るサラリーマン。最寄駅の成城学園前から丸の内に通勤している。満員の小田急で新宿まで揺られて、そのあとは国鉄に乗り換えて東京駅という経路だったのだろうか。





一方、仲間たちでロマンスカーに乗って箱根へ向かうシークエンスでは、ロマンスカーの名物「走る喫茶室」が映っているのが嬉しい。電車の揺れで、ティーカップから紅茶がこぼれそうなのがはっきりと見てとれる。

1950年代小田急の象徴としてのロマンスカーと「走る喫茶室」。小田急が新宿から箱根湯本まで直通運転をするようになったのは1950年8月1日だった。1948年6月1日、箱根登山鉄道は小田急の関連会社となった。その2年後、小田原~箱根湯本間を小田急が乗り入れて(三線軌条使用開始)、悲願の新宿・箱根湯本間の直通運転が実現したという経緯だった。


1950年8月1日に箱根湯本への乗入れを開始した小田急。車両は1910形特急。図録『特急電車と沿線風景』より。

軌間1067mm、電圧1500Vの小田急の電車を軌間1435mm、電圧600Vのうえ急曲線、急勾配の存在する箱根登山鉄道に乗入れるため、様々な技術的課題を解決し、レールを3本敷設する3線軌条化を行って、戦前からの念願であった新宿から箱根への直通運転が実現した。

技術的なことはよくわからぬのだけれども、その営為に胸が熱くなる。



1949年「躍進する小田急 ニュールックロマンスカー毎日運転」ポスターと1950年8月1日「小田急箱根湯本乗入」ポスター、生方良雄・諸河久著『小田急ロマンスカー』(JTBキャンブックス・2012年4月)より。

小田急がロマンスカーの言葉を使い出したのは、昭和24年(1949)である。1910形(後に2000形)が特急車として登場した時、酒匂川鉄橋の上を走る1910形のポスターが作られた。

とのことで、この「ニュールックロマンスカー」というのが小田急が「ロマンスカー」を名乗った最初であるらしい。この翌年、小田急が箱根湯本に乗り入れした。その車両は1910形であった。



『ミニ・ヒストリー 京阪電車・車両70年』(京阪電気鉄道株式会社・1980年4月)に、《日本最初のロマンス・カー600型(旧1550型)》として掲載の写真。クロスシートのモダンな車内。同書序文で、十三代目片岡仁左衛門(1903年生まれ)が

進取の気象に満ちた京阪の技術陣は、時代を先取りして次々と日本一といえる名車を誕生させてきましたが、その中で私が最も好きな車両といえば、なんといっても600型です。昭和初期、日本最初の全鋼製1550型ロマンス・カーとして製造され、乗り心地もよく、実にいい車両でした。

と熱く語っている。ロマンスカーを名乗った最初の電車は1927年の京阪電車であるようだ。現在、ロマンスカーは小田急が商標登録をしているけれども、ロマンスカーという言葉を耳にするとき、京阪電車のモダンな車両のことも十三代目仁左衛門とともに思い出さずにはいられない。

「走る喫茶室」が初めて設置されたのもこの1910形だった。『図録  特急電車と沿線風景』によると、

小田急初の特急専用車である1910形を設計するにあたって、特急車内でコーヒーなどの軽い飲物を提供してはどうかという話が持ち上がった。小田急がこの話を二、三の業者に持ちかけたところ、採算が合わないということで断られたが、日東紅茶が紅茶の普及・宣伝のため、赤字覚悟で引き受けることになったのである。かくして昭和24年(1949)9月、1910形の就役とともに「走る喫茶室」は誕生した。

中間車の端部に専用の喫茶カウンターが設けられ、接客係の女性が車内をまわって注文を受けて、乗客の席まではこんでいたという。十三代目仁左衛門が1920年代京阪を評した「進取の気象に満ちた」という言葉は、そのまま小田急にも当てはまる…!  

1951年2月1日、1910形につぐ特急車、1700形が登場した。『図録  特急電車と沿線風景』によると《途中無停車の特急車両のため出入口扉を極端に減らし、座席はオール転換シート、窓幅を広げた大窓を採用》とのことで、『小田急ロマンスカー』(JTBキャンブックス』によると、《初のロマンスカーらしい特急車》がこの1700形であった。


1953年の成城学園前駅、『小田急線沿線の1世紀』より。片瀬江ノ島行きの1700形ロマンスカーが停車している。1910形と同じく、黄色と青のツートンカラーが実にチャーミング。


1953年の新宿駅、『小田急線沿線の1世紀』より。《指定席特急の走りとなった1700形はこねとチョコレート色の普通車1600形》、特急列車と普通車の鮮やかなコントラスト。

前述の映画『ウッカリ夫人とチャッカリ夫人 やりくり算段の巻』に登場するロマンスカーはこの1700形で、白黒映画なのでわからないけれども、実はこんなチャーミングな塗装だったのだ。


1956年8月15日撮影、1700形の喫茶カウンター、図録『特急電車と沿線風景』より。1910形で導入された「走る喫茶室」は1700形では、喫茶カウンターは中間車両の車内中央に設けられて、スペースが広くなっている。


ロマンスカーの紅茶の座席サービス、図録『特急電車と沿線風景』より。1951年頃の広告用の写真。映画『ウッカリ夫人とチャッカリ夫人 やりくり算段の巻』を見ると、走行中の電車は結構揺れていて、ティーカップから紅茶がこぼれそうで、このイメージ画像のように優雅に紅茶を楽しむのはちと無理そうである。

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『おかあさん』(新東宝・1952年6月12日公開)と並んで、成瀬巳喜男の映画に登場する小田急といえば、岸田國士の戯曲を原作とする『驟雨』(東宝・1956年1月14日公開)の梅ヶ丘を思い出すが、極私的に愛着があるのが、和田伝の小説を原作とする『鰯雲』(東宝・1958年9月2日公開)の厚木。




わたしが初めてロマンスカーに乗ったのは十年以上前に、厚木在住のご夫妻のお宅へ遊びに行ったときのことで、初めて降り立つ厚木の町歩きも楽しく、今でもとてもよい思い出だ。『鰯雲』には1950年代の厚木の懐かしい風景が映し出されているけれども、すっかり市街地化した現在も味わい深い風景をあちらこちらに見出せるできる気がした。ああ、いい町だなあ……と思ったことであった。


『小田急線沿線の1世紀』より、昭和30年代の本厚木駅前、中央通り商店街。


『鰯雲』は成瀬巳喜男の初のカラー映画。厚木の田園の向こうを颯爽と走るロマンスカーが映る瞬間がたまらない。本作公開の前年、1957年に登場した新型特急 SE車……! 


1957年5月23日、車両メーカーから経堂工場に到着したSE車、図録『特急電車と沿線風景』より。新型特急車3000形SE車のチャーミングなカラーリングは宮永岳彦によるデザイン。


SE車の喫茶カウンター、図録『特急電車と沿線風景』より。SE車にももちろん日東紅茶提供の「走る喫茶室」が設置されている。

……というふうに、たまに小田急ロマンスカーに乗ると、1910形から始まる歴代の車両を思い起こして、胸が熱くなるのであった。「走る喫茶室」はもうないけれども、昼からビール片手にいつも上機嫌なのだった。


箱根登山鉄道の1950年代車両にのって

5月19日午前11時00分新宿駅発のロマンスカー(スーパーはこね17号)は、12時10分に小田原駅に到着。

小田原と箱根湯本の鉄道で結ばれたのは1935年10月だった。それまでは、小田原駅で下車して、路面電車に乗り換えて箱根湯本へゆく必要があった。


1936年2月、小田原駅に停車中の箱根登山鉄道。西尾克三郎写真集『ライカ鉄道写真全集2』(プレスアイゼンバーン・1992年11月刊)より。


『沿線名所案内 小田原急行鉄道』(1935-37年発行)の箱根登山鉄道の部分を拡大。箱根登山鉄道が湯本から小田原まで延伸している。

小田原・箱根湯本間は車両は小田急でも、線路は箱根登山鉄道線となる。小田原から箱根湯本の線路は単線、小田原から箱根湯本までの15分間はそれまでとはまた別の気分となって、箱根が間近に迫ってきたことへの心の高揚とあいまって、このひとときがいつも大好きだ。



斎藤正夫監督・源氏鶏太原作『サラリーマン手帖 夢を失わず』(松竹大船・1961年7月26日公開)より。箱根湯本に向かって走るロマンスカーSE車。箱根湯本に到着直前の風景は、今とほとんど同じ雰囲気。

12時24分に箱根湯本駅に到着。次の、強羅行き箱根登山鉄道は12時38分であった。

大好きな箱根登山鉄道…! 親切な車内アナウンスとともに車窓を愛でて、3度にわたるスイッチバックを経て、山のなかへと入っていく。急勾配の線路を登ってゆき、ケーブルカーのようでもある。ケーブルカーと違って、線路はクネクネと何度もカーブを重ねて、そのたびに遊園地の乗り物に乗ったかのような気分になる。その箱根登山鉄道の歓喜がいよいよ間近に! と、ふつふつと嬉しい。

と、歓喜にひたりつつも、たまの箱根登山鉄道、せっかく乗るなら、1950年代の古い車両に乗りたい…!  という願望がいつも脳裏をかすめる。

1950年代の古い車両というのは、具体的には「モハ1形(https://www.hakonenavi.jp/hakone-tozan/type_moha1/)」と「モハ2形(https://www.hakonenavi.jp/hakone-tozan/type_moha2/)」。モハ1の製造年は1950年、モハ2は1956年。戦後の電車だけれども、戦前の車両の香気がある。現在現役なのは、モハ1形104号車(赤)、モハ1形106号車(青と黄のツートンカラー)、モハ2形108号車(赤)の計3両。箱根登山鉄道に乗るたびに、この3両が連結してやってくるのを切望しているのだった。

という次第で、1950年代の古い車両に乗れたらいいなあ……と祈る思いだったが、残念、ほどなくしてやって来た12時38分発の箱根登山鉄道は新しい車両だった。往生際悪く、次の12時52分の電車を待ってみることにする。しかし、12時52分発の電車も新しい車両だった。今回は縁がなかったと諦めることにする。

ま、箱根登山鉄道はどの車両でも歓喜なのだ。気を取り直して、箱根登山鉄道の歓喜のひとときがやってきた! いそいそと乗り込んで、車内アナウンスとともにウキウキと車窓をのぞむ。塔ノ沢のトンネルを出た電車は、最初の絶景区間にさしかかる。


この写真ではなんだかよくわからぬが、早川橋梁(出山鉄橋)を渡っているときに撮影した一枚。雨もよいの新緑が実に美しかった。


公式サイト(https://www.hakonenavi.jp/hakone-tozan/)の路線図を転載。

塔ノ沢と宮ノ下間には3度のスイッチバックがある。早川橋梁をわたったあと、出山信号場の1回目のスイッチバックを経て、電車は大平台駅に到着。この駅では箱根湯本行きの電車と並行して停車して、それぞれの電車が次なるスイッチバックに備えることとなる。と、電車が大平台に入ったとき、ほぼ同時に隣りの線路に入ってきた箱根湯本行きの電車が切望していた1950年代の車両なのでびっくり…!  なんということであろうか!!  と、驚きのあまり思わず大平台で下車。


大平台駅を出て、塔ノ沢駅に向かう1950年代の車両を見送る。あの電車に乗りたい…。大平台駅ホームの時刻表を確認すると、あの電車は大平台13時08分発の箱根湯本行き電車である。

大平台駅の時刻表は、上り下りとも平日の13時台は「08・28・41・55」となっている。上り下りの電車が同じ時刻に発着する。13時08分発の電車が箱根湯本駅を折り返して、強羅行きとなって大平台に戻ってくるのは13時41分ということになろうか。13時41分になったら、1950年代の古い車両の強羅行き電車に乗れるかもしれない……!

という次第で、13時41分までの約30分間、改札を出て、小雨のぱらつく界隈を散歩をすることにする。ズンズン歩いてスイッチバックの線路を駆け足で見に行ったりした。


乗り遅れたら大変だ。早々に散歩を切り上げて、大平台駅に戻ってきたら、ちょうど13時28分発の上下電車が出発するところだった。


待つこと10分、13時41分にやってきた強羅行きの電車は目論見どおりに先ほど見送った1950年代の車両…! 念願だった車両に乗ることができて、こんなに嬉しいことはない。大興奮してしまい、写真を撮る余裕はなかった……。

切望していた1950年代の車両に乗って、残りの2回のスイッチバックを噛み締めるように味わって、至福の時間が過ぎてゆく。下車駅は宮ノ下駅であるが、せっかく乗った電車をもう少し味わいたいので、もう少し先まで乗っていくことにする。宮ノ下駅を13時52分に出発した電車の車窓の下方に、今日泊まる富士屋ホテルが見える。次の小涌谷を13時58分に出て、早川の支流を渡ったとあと、電車は急カーヴを描く。


14時01分に彫刻の森駅で下車。改札の外に出て、しばし散歩したあと、もう一度ホームに入る。1950年代の車両は箱根湯本行きの上り電車となって、14時10分に彫刻の森駅に戻ってきた。たまの箱根登山電車を心ゆくまで満喫したところで、14時18分に宮ノ下駅で下車。

公式サイトの箱根登山鉄道の歴史(https://www.hakonenavi.jp/hakone-tozan/history/)に、

1919(大正8)年6月1日、登山電車は箱根湯本-強羅間8.9キロの運転を開始しました。 

「箱根の山は、天下の嶮として滝廉太郎先生の名曲によって、豪快勇壮なメロディで天下に謳いはやされたように、徳川300年夢安からしめた要害であったが、今や文化の威力に征服されて、我国唯一の登山電車が開通し、ために山上山下の交通上に一大センセイションを起こして観光ルートを一変するに至らしめた。(中略)ここに、天嶮と謳われた箱根の難所も、今は自然公園とも一大遊園地とも謳われるほどに大衆化されて、同年6月1日から近代文化を表象したスマートな登山電車が走り出し、乗客はそのスリルと車窓からの展望美を賞賛したことであった」

現在当社に残っている記録には、当時の模様をこのように伝えています。

とある。まったくもって、箱根登山鉄道の「スリルと車窓からの展望美」は100年経った今も健在。


1958年の箱根登山鉄道、生方良雄著『箱根登山鉄道 125年のあゆみ』(JTBキャンブックス・2013年10月)より。《小田急特急色とSE色に塗られた車両が連結》とある。

同書によると、箱根登山鉄道に黄色と青色のツートンカラーの塗装車両が登場したのは、1950年8月、1910形の小田急ロマンスカーが箱根湯本に乗り入れてきたときに、1910形に刺激されるようにして、黄色と空色に塗り替えられたのが始まりだったという。同様に、1957年にSE車が華々しく登場した際には、赤と灰色、白色塗装に塗り替えられた。

というわけで、箱根登山鉄道で唯一、青と黄のツートンカラーの車体であるモハ1形106号を見ると、1950年代の小田急ロマンスカーに思いを馳せることができるのだった。ロマンスカーとセットでこの先何度でも乗りたい箱根登山鉄道である。

 

箱根登山鉄道を下車して、富士屋ホテルへ

菊池寛の『真珠夫人』は、1920年6月から12月にかけて「大阪毎日新聞」「東京日々新聞」で連載された。終盤、前年の1919年6月1日に営業を開始した箱根登山鉄道が登場する。

 自動車が、小田原の町を出はづれた時だつた。美奈子は何気ないやうに云つた。
「お母様。湯本から登山電車に乗つて御覧にならない。此間の新聞に、日本には始めての登山電車で瑞西スヰツルの登山鉄道に乗つてゐるやうな感じがするとか云つて、出てゐましたのよ。」
 美奈子には、優しい母だつた。
「さうですね。でも、荷物なんかが邪魔ぢやない?」
「荷物は、このまま自動車で届けさへすればいいわ。特等室へ乗れば自動車よりも、楽だと思ひますわ。」
「さうね。ぢや、乗り換へて見ませうか。青木さんは、無論御賛成でせうね。」

開業当初の箱根登山鉄道には「特等室」があったのか! と驚いてしまうが、『箱根登山鉄道 125年のあゆみ』(JTBキャンブックス)によると、箱根登山鉄道はもともと《箱根に避暑や清遊にくる外国人を対象に計画された鉄道であり、日本人も相当な富裕層しか利用しなかった。》という。



『真珠夫人』文中に登場する箱根登山鉄道、チキ1形の外観と車内の絵葉書。『箱根登山鉄道 125年のあゆみ』(JTBキャンブックス)より、《中央に大きなパンタグラフを搭載していた製造当初のチキ1形6号・正面・側面腰板の四隅に金色の唐草模様が描かれている。》とある。中央の荷物室をはさんで、前後を並等と特等に分けていた。

『真珠夫人』で箱根登山鉄道が登場するのは、物語のクライマックス、一行が富士屋ホテルで避暑生活を過ごすくだりであるが、彼らはまず「赤煉瓦の大きい建物」の東京駅から汽車で国府津へ向かう。東京駅の開業は1914年、『真珠夫人』当時はまだ新しかった東京駅。そして、国府津駅に到着すると、

 国府津のプラットフォームに降り立つた時、瑠璃子は駆け寄つた赤帽の一人に、命令した。
「あの、自動車を用意させておくれ!――さう、一台ぢや、窮屈だから――二台ね、宮の下まで行つて呉れるやうに。」
 赤帽が命を受けて馳け去つたときだつた。今まで他の赤帽を指図して手荷物を下させてゐた青年が驚いて瑠璃子の方を振り顧つた。

このあと自動車で小田原に行ったところで、トラウマで自動車に恐怖心を抱く青年を思いやる心優しい美奈子の提案で、湯本から箱根登山鉄道に乗ることになったという経緯だった。ここに登場する自動車は富士屋自動車で、『真珠夫人』の物語の発端も国府津駅から乗る富士屋自動車であった。


富士屋自動車発行『箱根 湯ヶ原 熱海 伊豆山  御案内』。1923年7月1日改定の「東京・国府津・小田原・真鶴間汽車時刻表」とともに「富士家自動車汽車連絡乗り合い自動車時間表」とともに、箱根の観光案内、真鶴の温泉案内が掲載されている。


明治製菓前身の東京菓子、三越呉服店、クラブ白粉等々の広告がいかにも1920年代の都市生活者の気分。

『真珠夫人』における富士屋ホテルの避暑生活は、

富士屋ホテルの華麗な家庭部屋の一つの裡で、美奈子達の避暑地生活は始まつた。
『暮したし木賀底倉に夏三月』それは昔の人々の、夏の箱根に対する憧憬[あこがれ]であつた。関所は廃れ、街道には草蒸し、交通の要衝としての箱根には、昔の面影はなかつたけれども、温泉[いでゆ]は滾々[こんこん]として湧いて尽きなかつた。青葉に掩はれた谿壑[けいがく]から吹き起る涼風は、昔ながらに水の如き冷たさを帯びてゐた。
殊に、美奈子達の占めた一室は、ホテルの建物の右の翼の端にあつた。開け放たれた窓には、早川の対岸明神岳明星岳の翠微が、手に取るごとく迫つてゐた。東方、早川の谿谷が、群峰の間にたゞ一筋、開かれてゐる末遥に、地平線に雲のゐぬ晴れた日の折節には、いぶした銀の如く、ほのかに、雲とも付かず空とも付かず、光つてゐる相模灘が見えた。

というふうに始まる。100年前の『真珠夫人』のモダン都市生活者よろしく、箱根登山鉄道にのって、14時18分に宮ノ下駅で下車して、箱根富士屋ホテルへ。




丘の上に立つ富士屋ホテル。急勾配の坂を登って、正面玄関からフロントに入る。



このたび泊まるのはこの本館。



チェックインのため、まず向かうことになるフロントは欅の一枚板のカウンターであり、全面に富士山の彫刻が施されている。『富士屋ホテルの営繕さん』(トゥーヴァージンズ・2022年5月)によると、《源頼朝により狩競の「富士の巻狩り」が描かれて》おり、《1930年(昭和5)の食堂棟の拡張工事をした際に取り付けられたもの》という。




正面の階段を登って、2階の客室へ。時間ごとにさまざまな表情があって、毎回行き来するのがたのしい。


まずは、ラウンジでしばし喫茶のひととき。ロビーに隣接するティーラウンジ「オーキッド」。大倉陶園の陶器がいかにも似つかわしい。窓からの緑の眺め、庭園の水のせせらぎ。先ほどまでの電車で興奮のひとときとは一転、静かな時間がしみじみ至福。









食堂棟は1930年竣工。本館からの渡り廊下を歩くひとときがいつも大好き。日暮れどき夜と朝……と時間によって、景色や雰囲気が変わる。





食堂棟の1階のバーに初めて行った。以前はビリアード場だったらしい。戦前松竹映画のような気分になる。ちなみに、同じフロアのトイレのタイルが見ものであった。





本館から食堂棟に行くたびに必ず通るロビー。





本館の玄関からフロントへの階段の欄干の竜の彫刻をいつもしみじみ眺める。ロビーからは別の階段で部屋に戻る。


ポーラ美術館のあと、御殿場線に乗る。黒岩保美と杵屋栄二

翌5月20日土曜日。ホテルをチェックアウトして、宮ノ下駅で強羅行きの電車を待つ。雨上がりのホームがよい風情。



強羅行き電車がやってくる直前にホームに入ってきた箱根湯本行きの電車は昨日乗った1950年代の古い車両(モハ1とモハ2)だ……! また乗れたらいいなあと、その姿にしみじみ見惚れたところで、強羅行きの電車に乗り込む。

強羅からバスに乗って、ポーラ美術館へ。特別展『部屋のみる夢 ― ボナールからティルマンス、現代の作家まで』と常設展示をたっぷり満喫しているうちに午後になった。「部屋のみる夢」という文脈で見る現代アートも素敵で、とりわけ、佐藤翠+ 守山友一朗の展示室にすっかり魅了されてしまった。


髙田安規子・政子《Inside-out/Outside-in》2023年


守山友一朗《Rose at Night》2022年

カフェでソオダ水を飲んで休憩後、美術館からふたたびバスに乗る。御殿場駅に向かうべく仙郷楼で下車、新宿行きの高速バス(小田急箱根高速バス)をしばし待つ。人っこ一人いないバス停で果たしてバスは本当にやって来るだろうか。『ゴドーを待ちながら』のような心境にもなるのだったが、やがて、無事に新宿行きのバスがやってきた。強羅からポーラ美術館、仙郷楼経由で御殿場駅前まで。バスで山をぐるりと一つ越えてゆく。

*

バスで無事に御殿場駅に到着。このあとは、いよいよ念願の御殿場線。

御殿場線のことを知ったのは、宮脇俊三の文章、黒岩保美の絵による絵本『御殿場線ものがたり』がきっかけだった。この絵本に感動のあまり、いつの日か、国府津から沼津まで御殿場線に乗りたいと思い続けて数年であったが、箱根帰りの今回は、その予習として、御殿場から国府津まで乗ってみようという計画であった。というわけで、バスに揺られて、箱根の山を降りて、御殿場駅までやってきた次第であった。


『御殿場線ものがたり』に出会ったのは、神保町の書泉の鉄道売り場で出会った。初刊は1992年、福音館。2015年12月に復刊ドットコムで刊行されたときに初めて手に取った。


宮脇俊三・黒岩保美『御殿場線ものがたり』は、1889年2月1日から丹那トンネルが開通する1934年12月1日の前日まで約半世紀にわたって使用されていた東海道線の「御殿場まわりルート」の物語。

時は、東海道本線の超特急「つばめ号」が登場した1930年以降。東京駅を発車した東海道本線の超特急「つばめ号」は、国府津駅で後押しの蒸気機関車を展望車の後ろに連結する。

「つばめ号」が国府津につくとすぐ、となりの線路でまちかまえていた後おしの蒸気機関車が、うしろの一等展望車にガチャンと連結します。そして、すぐ発車、国府津についてから、わずか30秒でした。

展望車に乗っている親子づれが見物しているさまが描かれている。


国府津を発車した汽車は急勾配トンネルをいくつか通過してゆく。最後尾で補機の機関車が後押しして、汽車はせっせと山を登ってゆく。そして、もっとも標高の高い御殿場にさしかかると、後押しの機関車は切り離される。汽車は停車することなく、走りながら補機を切り離す。この絵本を手に取るたびに、このページにさしかかると、胸がじーんと熱くなる。

 補機の役目はおわりました。ここで切りはなしです。しかし先をいそぐ特急や急行は、御殿場にはとまりません。走りながら補機を切りはなすというはなれわざをやるのです。
 後おしの機関車の連結器がはずされ、みるみる遠ざかっていきます。
 ごくろうさまでした。

黒岩保美の絵が素晴らしい上に、宮脇俊三の抑えた筆致も素晴らしい。


1934年12月に丹那トンネルの開通により、東海道線は国府津・沼津間は現在の熱海を通るルートに短縮化された。それまでの国府津から御殿場、沼津までの線路は「御殿場線」となり、後押しの機関車を連結するという重要な任務を担っていた国府津駅は通過駅となる。

 御殿場線の地位をうばった東海道本線も、新幹線にはかないません。「つばめ号」もすがたをけしました。
 急勾配とけむりになやまされた日々も、丹那トンネルのたいへんな工事も、むかしのことになりました。

という結びにしみじみ……。丹那トンネルの開通により、1934年12月1日、東京・大阪間の8時間運転が実現した。東海道本線全線の電化が完成するのは1956年11月19日、この日、東京・大阪間8時間から7時間半に短縮された(『タイムスリップ 東海道線』)。獅子文六でおなじみの「七時間半」である。

『御殿場線ものがたり』の絵を担当した黒岩保美は、日本橋の悉皆屋の次男坊として1921年に生まれて、1947年から1977年まで国鉄にデザイナーとして勤務していた。




2018年8月、旧新橋停車場鉄道歴史展示室の第47回企画展『没後20年  工業デザイナー黒岩保美』が開催されたときは、喜び勇んで出かけたものであった。

そのとき、国鉄を退社した黒岩保美がプレス・アイゼンバーンに入社して最初に手がけたのが、長年の愛蔵書であった杵屋栄二写真集『汽車電車』(1977年10月刊)と知って、大感激だった。





そもそも、わたしが黒岩保美の名前を初めて知ったのは、『汽車電車』の装幀者・編集者としてだった。三味線のバチとレールをあしらった装幀が実にかっこいい。

その杵屋栄二写真集『汽車電車』に箱根越えの写真が掲載されている。1894年生まれの杵屋栄二は長らく「御殿場まわり」ルートを体験していた世代だった。


杵屋栄二写真集『汽車電車』より、《“つばめ”を牽くC51 208、発車前の点検/東京駅8番線》。


杵屋栄二写真集『汽車電車』より、《C51171 のひく下り“つばめ”/有楽町-新橋間にて》。

蒸機牽引時代とは言っても、昭和9年はその末期に近く水槽車は連結していない。外濠に沿ったこの付近は、後に新線が増設され、今は高速道路・新幹線とひしめき合って並んでいる。つばめが走っているこの線路は、現在京浜・東北南行が走っている。機関車C51171号はお召機のように手摺やボイラバンドなどが磨いてあった。

と、黒岩保美は解説を添えている。


杵屋栄二写真集『汽車電車』より、《下り“臨時つばめ”新橋通過/新橋駅ホーム、前照燈の白い円板は臨時列車の標識。》。



杵屋栄二写真集『汽車電車』に、《下り特急“富士”に連結されたD50351/国府津》として掲載されている写真。

東京・国府津間は1925年12月13日にすでに電化されていた(吉川文夫・巴川享則・三宅俊彦『タイムスリップ 東海道線』大正出版・2006年2月)。『御殿場線ものがたり』に、

 東京を9時00分に発車した「つばめ号」は、10時09分、国府津につきました。国府津は電気機関車をはずして蒸気機関車につけかえる駅です。
 しかし、スピードが自慢の超特急「つばめ号」にとっては、国府津でとまる時間をできるだけみじかくしなければなりません。それで、機関車つけかえの手間をはぶくために東京から蒸気機関車でひいてきたのでした。

とあるように、丹那トンネル以前、東京駅を出発した「つばめ号」を牽引するのは蒸気機関車であった。杵屋栄写真集『汽車電車』にはその蒸気牽引時代の末期の1934年の美しい写真が収録されている。

もともと、1925年の東京・国府津間の電化以降、国府津駅は「蒸気機関車と電気機関車をつけかえる駅」として重要な駅であった。


杵屋栄二写真集『汽車電車』に《上り“富士”は国府津から EF50 に代わった。》というキャプションとともに掲載されている写真。

東海道を上ってくる列車は、ここで蒸気機関車と縁が切れて、電気機関車牽引となる。乗客にとって国府津から耳にきく電気のホイッスルは、東京に近づいた感をいちだんと強く味わうことになる。

という、黒岩保美による解説がとてもいい。杵屋栄二も「東京に近づいた感」を味わいつつ、この写真を撮影したことだろう。



杵屋栄二写真集『汽車電車』より、国府津駅を出発したつばめ号が「御殿場まわりルート」で沼津へ向かうとき写真。《投影、下り“富士”を押すD50351の影》と《鉄橋 第3相沢川鉄橋を渡る。》。

鉄道が越える箱根越えの難所は、下り列車では山北から駿河(現在駿河小山)までの連続する七つのトンネルと急勾配区間であった。途中の谷峨は当時は信号場でここを通過すると、上下線は相沢川をはさんで分かれ、第3相沢川鉄橋付近で再び合流し、駿河まで25‰が続く。

と解説が付されている。

杵屋栄二はボーイさんにチップをはずんでガラガラの展望車に乗せてもらって、しばしば、国府津から沼津までの箱根越えを展望車で楽しんでいたという。


杵屋栄二は、「補機の連結器解錠装置」の写真を残していて、そのマニアックさに感動してしまう。

国府津から付いた補機は、御殿場まで押しつづけ、構内に入って平坦線に入ったところで、走行中に解放する。この区間で補機として使用される国府津、山北、沼津庫のD50やC53形の前部連結部には、自動解錠装置が取り付けられている。補機解放地点にくると、このシリンダーが給気して解錠し、補機はブレーキをかけて停止する。

『御殿場線ものがたり』を開くたびに感動する《走りながら補機を切りはなすというはなれわざをやるのです。》の場面である。

「機関車がサーットさがるんですね。向うが停まるから、あれが面白くてね。」と補機切り離しの思い出を語る杵屋栄二、黒岩保美は、杵屋栄二の談話のあとに、

お話しのように見るのが面白くて撮る機会を逸されたのか、補機解放直後の写真は無かった。

と書き添えている。補機解放直後の写真、見たかった…!


国府津から御殿場まわりルートで沼津に到着した特急電車。国府津に次ぐ停車駅であった沼津に到着し、補機が吐き出した煙によるバックサインの汚れをぬぐう駅員さんの姿を写真に撮る杵屋栄二。つくづく、そのマニアックさに感動してしまう。漫画みたいに偉そうな姿勢で立つ展望車の紳士の姿も微笑ましい。

*

宮脇俊三と黒岩保美による絵本『御殿場線ものがたり』に感動した身としては、いつの日か、国府津から沼津まで御殿場線に乗りたいのであったが、なかなか機会がやってこない。

というわけで、ふと思いついて、箱根帰りの今回、御殿場から国府津まで乗ってみることにした。御殿場線に乗るのが初めてであるのはもちろん、長らく東海道線の要所の駅であった国府津駅に下車するのも今回が初めてであった。



御殿場駅のホームにて国府津行き電車を待つ。ローカル感みなぎる時刻表、電車は三両編成。乗客は多い。もっと車両もしくは本数を増やしてもよいようにも思えるが…。



14時19分発の国府津行きである。山を徐々にくだってゆくところをしみじみ味わう。杵屋栄二が写していた橋はどこだったのだろう? 見逃してしまった…。


国府津行きの御殿場線を山北駅で下車。走ってきた線路を振り返ると、山を降りてきたことが実感できる。



山北駅で下車したのは、宮脇俊三・黒岩保美『御殿場線ものがたり』に機関車区のあった時代の山北がとても印象的に描かれていたから。せっかくなので、ちょいと下車して、駅周辺を散歩してみることにした。

『山北町史』(山北町・2009年3月)から鉄道関係の記述を拾ってみる。山北駅の開業および山北機関庫の創設は1889年2月1日、東海道線の国府津・静岡間(単線)の開通と時を同じくしている。国府津・沼津間は東海道線最大の難所で2時間35分を要した。

東京側からの鉄道の難所の玄関口である山北駅は重視されていた。この駅には東京車掌所山北支所が設置され、さらに山北機関区が設けられたのである。たとえば、東京駅からの下り列車は、山北駅で機関車をすべて取り変え、後押し用の補助機関車(補機)を連結して御殿場までの長い登り坂にいどんでいったのである。また上り列車も、山北駅で石炭を積み(貯炭)、給水した後に東京に向ったのである。

こうして、山間の小さな村は鉄道の拠点として脚光を浴びることとなった。山北機関庫は「箱根越え」の基地だった。1901年6月11日、国府津・小山駅間の複線化、1904年には山北駅付近に芸妓屋が続々開業し、町の繁栄を物語っている。1907年の新聞記事に、山北駅前を「足柄上郡の倫敦」と呼んでいる見出しがある。煤煙の町・山北。

1911年10月1日、山北機関庫は扇形車庫に改築され、1922年2月、山北駅と機関庫の拡張と改築が完了した。この間に転車台が東と西に2つ設置され、18本の収容線を備えた扇形の大規模車庫が誕生した。所属機関車は40両、補機の付け替えは1日あたり145回に及び、ますます鉄道の町として発展していった。

1934年12月1日、丹那トンネルの開通により、山北駅は御殿場線の駅となり、1936年9月1日、山北機関庫は山北機関区と改名。1943年5月15日、山北機関区は廃止されて国府津機関区に継承され、同年7月11日、御殿場線が単線化、国策のためレールや橋梁の一部が供出されていった。



かつて機関車区の人びとで賑わっていた山北は、今は静かな町。改札を出ると、機関車区のあった時代の近代建築が健在。右は美容室、左は現在は居酒屋になっている。初夏の陽気。この界隈をひととおり散歩したあとは、あのお店でビールを飲もう! と大喜び。




駅前で左折。かつての賑わいを彷彿とさせる旧商店街。



このあたりは桜の名所で花見の季節は大賑わいなのだそうだ。と、陸橋を渡って、線路の向こう側へ。右手に山、左手は山北駅。単線だった線路が分岐している。

橋を渡って左折すると、山北鉄道公園がある。



山北鉄道公園の一角に「D5270号」が置かれている。園内の案内板によると、この機関車は1944年4月生まれで、山陽線や東海道線で働いたあと、1951年2月に国府津機関車区に配属となり、以降、御殿場線で働いていたという。『タイムスリップ 東海道線』によると、御殿場線は急勾配を登る必要から強力な蒸気機関車が必要とされていて、D52形は関東では珍しかったという。1968年8月1日に御殿場線は全線で電化となり、その役割を終えた。阿川弘之作・岡部冬彦画の絵本『きかんしゃやえもん』を思い出す。

さて、気もそぞろに、元来た道を歩いて、ふたたび山北駅前へ。



先ほど目をつけておいた居酒屋でビールを飲む。このモダン建築はかつては薬局だったらしい。調剤室の跡が目に愉しい。かつて、駅前の薬局はさぞ賑わっていたのだろうなあ……と昔の喧騒に思いを馳せながらビールを飲むひとときは、それはそれは至福だった。

山北駅に戻ると、そろそろ夕刻が近づいている。山登り帰りの人びとが見受けられて、皆とっても楽しそうだ。と、いい気分になったところで、ふたたび御殿場線に乗って、無事に国府津駅に到着。




国府津17時05分発東海道線で帰路につく。

 


東海道線に乗るたびになんとなく思い出してしまう広告。1925年8月26日付「都新聞」に掲載のカルピスの広告《鉄道旅行の芸術化とカルピスの呼売》。横浜、大船、名古屋、大阪の各駅で7倍に薄めたカルピスを1瓶15銭で販売中。国府津ではカルピスは買えなかったのか……。

 


杵屋栄二写真集『汽車電車』より、1930年代半ばの東京駅、《特急“つばめ”発車前のホーム》。

 

と、東京駅に到着したところで、この度の小旅行はおしまい。