浅草松屋のスポーツランド

1930年代のカメラ指南書や写真雑誌を見かけると、その当時の都市風景が写っている写真をまっさきに探してしまう。撮影場所の記載がないときは、「ここはどこだろう?」と逡巡の末にようやく判明する瞬間は格別だし、その一方で、一瞬で場所が特定できたときの爽快感もたまらない。

 

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この写真は、『アサヒカメラ』昭和9年(1934)6月号の月例懸賞の入選作品、「のりもの」というテーマで募集されたもの。これは一目見て、浅草松屋の屋上遊園地のロープウェイとわかった。

 

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図録『写真展 下町の記憶』(台東区立下町風俗資料館・2007年9月)に《昭和6年(1931)頃の浅草松屋の屋上風景》として掲載されている写真。奥に上掲の写真に写るロープウェイがぶら下がっている。

 浅草松屋の屋上遊園地のロープウェイは、長年愛着を抱いている1930年代東京風景のひとつだった。同図録には、同じく昭和6年(1931)年頃の浅草松屋の屋上から撮影された写真が掲載されている。

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隅田川の東武電車の鉄橋の向こうには、昭和3年(1928)2月架橋の言問橋が見える。

川端康成の『浅草紅団』(「東京朝日新聞」夕刊に昭和4年12月12日から翌年2月16日まで連載)に、《隅田公園は大地に描いた設計圖のやうに、装飾が少く、清潔なHだ。つまり向島堤と淺草河岸との日本の直線の眞中を、言問橋が結んでゐるのだ。》と描写されている言問橋が見える(『川端康成全集 第四巻』新潮社・昭和56年9月)。『浅草紅団』の連載当時は東武電車の鉄橋は工事の真っ最中だった。『清水建設二百年 作品編』(清水建設株式会社・2003年12月)によると、昭和5年(1930)3月に橋梁の基礎部分が竣工している。

 

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『アサヒカメラ』昭和13年(1938)2月号所載、昭和12年(1937)12月7日午後2時に東武ビルディングの浅草松屋屋上のロープウェイ乗り場から撮影した写真。手前から駒形橋、厩橋、その奥にうっすらと蔵前橋。冬晴れの隅田川がまばゆいばかり。

と、浅草松屋の屋上のロープウェイの写真を見るたびに、ロープウェイから見えたであろう1930年代当時の隅田川の眺めを想像してうっとりせずにはいられないのだった。

昭和6年(1931)11月に開店した浅草松屋には、屋上および七階、すなわち屋外と屋内双方にまたがるスポーツランドという名の遊園地があった。

 

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昭和9年(1934)の宣伝カード、《一日楽しく遊べる スポーツランド 浅草松屋》。

 

竹屋の渡しの跡に言問橋が架けられた三年後の昭和6年(1931)、東武電車が初めて隅田川を渡った。

昭和6年(1931)5月25日、東武ビルディングの二階に現在の浅草駅が開業した。それまでは業平橋(現・とうきょうスカイツリー駅)が終点だった東武電車が初めて隅田川を渡った。今年2021年は浅草駅開業九十周年である。東武ビルディングのテナントとして浅草松屋が開店したのは、同年11月1日だった。

 

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《東武鉄道浅草雷門駅ビルディング(浅草松屋)》、『清水建設二百年 作品編』より。 

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『新建築』昭和6年(1931)12月号(第7巻第12号)より、《東武鉄道浅草停車場全景》。

東武ビルディングは、鉄道省初代建築課長を昭和2年(1927)に退任した久野節による設計で、久野建築事務所は東武ビルディングの翌年、昭和7年(1932)に竣工する南海ビルディングも手がけている。『松屋一五〇年史』(株式会社松屋・2019年11月)では、

東武ビルは「近世復興式(ネオ・ルネッサンス様式)」の当時有数の大建築で、地下一階、地上七階、間口三十六・四m、奥行百五十四・五m、高さ三十・三m、総床面積約三万七千㎡の鉄骨鉄筋コンクリート耐震耐火構造である。客用エレベーター十二台、従業員用二台、エスカレーター二人立ち一基、一人立ち三基、その他通風、暖房、採光、冷熱換気装置、除塵、衛生設備などを完備していた。

 というふうに解説されている(「第三章 第三節 浅草店の開店」)。

昭和6年(1931)11月の開店当初から、浅草松屋の屋上および七階には「スポーツランド」と名づけられた遊園地が設けられいた。屋上のロープウェイは「航空艇」と称されていた。八人乗りのロープウェイが二台運行していて、それぞれ「筑波」と「富士」という名がついていたという(「第八天国 浅草松屋の巻」、『旅』昭和11年4月号)。

昭和6年(1931)10月31日付「読売新聞」朝刊に、《ビルデング屋上にケーブルカー 浅草新名物・松屋の尖端ぶり》という見出しの記事が出ている。《高いビルデイングの屋上へ更に四十尺余の鉄柱を立てゝ、それに張つたロープにケーブルカーを懸垂し空中遊覧気分を味はせようという近代都市風景の出現》とある。ロープウェイが警視庁保安課の認可を得たことを伝える記事である。

浅草松屋の開店広告、昭和6年(1931)11月1日付「読売新聞」朝刊より。屋上に《動物園を初め最新電気式汽車、電車滑り台ケーブル飛行器等いろ/\楽しい遊園》が設けられている旨、告知されている。

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『新建築』昭和6年(1931)12月号に掲載の写真、《屋上にーー現代都市生活の消費方面の中心としてのーー百貨店建築としての尖端性を表徴する如くケーブルカアーが浅草の観客の好奇心を満足さしてゐるにも微笑される一情景である。》とある。

 

浅草松屋が開店してちょうど一年後に発表された、川端康成の『浅草の姉妹』(初出は、『サンデー毎日 臨時増刊新作大衆文学』昭和7年11月10日号)に、

「淺草の繁榮を滅ぼすもの」と、小賣商人の、怨みの目を集めてゐる、新築の淺草松屋の屋上には、飛行艇といふものが、針金につるされて、空を渡つてゐる。隅田公園と浅草観音とを、左右に見おろして。

 というふうに、浅草松屋の屋上のロープウェイが登場している。『浅草の姉妹』の少女たちはスポーツランドの「飛行艇」には乗ることはない。彼女たちが乗るのは、浅草仲見世裏の空地の箱車を改造した人力の「飛行機」の方であった(『川端康成全集 第四巻』)。

 浅草松屋開店に際して「東武ビルデパート進出反対期成同盟会」が結成されて、激しい反対運動が繰り広げられたことが『浅草一五〇年史』にも記録されている。

 浅草松屋と地元商店街との攻防は、東映任侠映画『博徒対テキ屋』(小沢茂弘監督・昭和39年12月公開)のモチーフにもなっている。

 

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昭和12年(1937)の浅草松屋の屋上風景、図録『桑原甲子雄写真展 東京・昭和モダン』(東京ステーションギャラリー・1995年)より。「富士」と「筑波」、二代のロープウェイがすれ違うところ。

 

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同じく、桑原甲子雄撮影の昭和12年(1937)の浅草公園、図録『桑原甲子雄写真展 東京・昭和モダン』に《仁王門の上からやや左(東南方向)に目をやるとこうした風景が展開する。左に今はない弁天堂、遠景は花川戸、昭和6年にできた浅草松屋デパートが見える。》というコメントが付されている。

 地元の商店から激しい反対運動があったことに思いを馳せてみると、東武ビルディングは浅草の古くからの町並みを見下ろす巨大な要塞のようにも見えるのだった。

 

 東武ビルディングは、浅草松屋が開店した直後に出た『新建築』昭和6年(1931)12月号にて、

吾妻橋畔、隅田公園近くに建つ本建築は久野節氏の設計になる東武電車の終端駅としての大建築で、地上七階厖大なる延長を有するもので隅田川をへだてて浮んだその姿態は実にすばらしいものである。かゝる郊外電車の終端駅としての大ビルデイングの建設は大阪方面に於ては既に数年以前から二三完成されてゐるものであるが、東京に於ては最初の例であり、殊にそれが地下鉄に連絡してゐる点に於て、本邦最初のもので、その点、実に最も現代的な建築課題であり、今後に於ても相当に行はれるものであらふ。

というふうに讃えられている。『東武鉄道百年史』(東武鉄道株式会社・1998年9月)には、

隅田川沿いに細長く建築された同ビルは、左岸から見て、巨大な船が川に浮かんでいるようで、その腹部から電車が出発していくさまは、空母の射出装置カタパルトから航空機が飛び出てくるさまにたとえられた。

という一節がある。東武ビルディングは、隅田川に沿って白亜の巨大な建物がそびえ立ち、さらにその二階部分に電車がすっぽりと覆われるようにして発着するという独特の都市風景を現出していた。

 

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『松屋グラフ』昭和6年(1930)11月1日号のグラビア、浅草松屋の開店日11月1日から3日までの三日間、浅草雷門駅までの往復料金が二割引サービス!

 

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昭和6年(1931)11月、浅草松屋開店時のフロアガイド、『松屋一五〇年史』に掲載の図版。四両編成の電車の絵がかわいい。

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『新建築』昭和6年(1931)12月号に掲載の図版より、まずは東武ビルディングの二階平面図。

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浅草松屋を吾妻橋側の正面入口から入り、東武ビルディングの二階が浅草駅(開業時の駅名は浅草雷門駅)だった。

 この構造については、小野田滋「東武鉄道浅草雷門駅と川端康成の都市文学」(『鉄道ピクトリアル』1990年12月臨時増刊)に、

浅草雷門駅における構造上の特徴は、高架橋とビルディングを一体化させ、停車場設備をその内部に収めた点にある。こうした構造は、すでに渡辺節により新京阪鉄道天神橋駅において試みられていたが、浅草雷門駅のそれはさらに徹底しており、長大なプラットフォームすべてをビルディングの中に内蔵してしまった点に特色がある。このため、ビルディングはそのファザードに対し縦に細長い特異な形態となり、1階は出入口が多く、公道が2箇所で横断し、また停車場設備が2階にあるため1階と3階以上が分離した構造となるなど百貨店としてはいささか使い勝手が悪かった。

というふうに端的に解説されている。『新建築』の記事で《カタパルトから航空機が飛び出てくる》とたとえられた東武電車の始発駅の構造は、東武ビルディングが事務所用の貸しビルとして設計されてていたのが、急遽デパートが入居することになったということに起因している。

同じく久野節の設計により、東武ビルディングの翌年の昭和7年(1932)に完成する南海鉄道の難波ビルディングが当初からターミナルデパートとして設計されていたのとは対照的だった。浅草松屋は一階から七階までの売り場が、駅のある二階部分により遮断される設計になっていることが、デパート内の動線という観点からのちのちまで障害となっていた。

 

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東武電車の発着所の二階にあがる階段およびエスカレーターを改札を背にして撮影。

 

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東武電車の改札の手前には、休憩室が設けられていた。川端康成の『浅草の姉妹』に、《松屋の正面の廣い階段を昇ると、右側に少しばかりの木のベンチ、つまり東武電車の待合室。》と当時の情景が描写されている。

 

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六階から七階には吹き抜けに演芸場が設けられていた。『松屋一五〇年史』に、《発表会用としても貸し、婦人客の誘致を狙った》という意図で設置されたとある。

ちなみに、昭和25年(1950)3月旗揚げのかたばみ座が、昭和27年(1952)2月に浅草に初お目見得したのは、スミダ劇場と称していたこの演芸場であった。戦後、この演芸場の裏に隅田小劇場という名の小劇場が設けられていて、かたばみ座は二回目からは小劇場の方で公演していた(阿部優蔵『東京の小芝居』演劇出版社・昭和45年11月)。

 

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昭和7年(1932)1月5日付「読売新聞」夕刊。開店から二ヶ月後の昭和7年(1932)1月3日から六階の演芸場で「浅草松屋の御園メドレー」なるイヴェントが催されている。御園化粧品を持参すれば無料で「御園メドレー」と題されたプログラムを見ることができた。『満洲事変』、『ミソノ オン パレード』、『中村福助鏡獅子扮装』のフィルムのあとに、千恵蔵プロの『春風の彼方へ』を上映、そのあとに化粧品の宣伝がある。これも「婦人客の誘致」の一環であろう。

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フロアガイドを見ると、演芸場の設置により、六階と七階は他のフロアより面積が狭くなっている。六階は大食堂、七階は博覧会場と表記されているが、この博覧会場となっている場所に遊戯施設が集められ、屋上と合わせてスポーツランドと名付けれた。

 

昭和6年(1931)11月の開店当初から、六階の大食堂と七階および屋上のスポーツランドは、浅草松屋の名物だった。

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昭和10年(1935)から昭和16年(1941)にかけての新聞広告(いずれも「読売新聞」、上から、昭和10年7月13日付朝刊、昭和13年7月17日付朝刊、昭和15年1月14日付朝刊、昭和16年7月15日付夕刊)。六階の「味の食堂 自慢の眺め」を謳った直営大食堂と七階と屋上の「一日楽しいスポーツランド」がアピールされている。

 

 浅草松屋の大食堂は、地階と六階に設けられていた。関東では初のデパート直営の食堂だった。そのモデルとなったのは、昭和4年(1929)4月に開店した阪急百貨店の大食堂だった。『松屋一五〇年史』に、

 浅草店の目玉は、なんといっても直営の大食堂だった。(中略)当時、呉服店系の百貨店は、サービス部門として食堂を付設していたものの、呉服からは縁遠い商売のため、食堂を直営していたのは大阪の阪急百貨店だけだった。
 二代・古屋徳兵衛社長は、浅草店の食堂には思い切った方式を取り入れる方針で、従来の委託経営ではなく、自己経営にすること、調理人も調理人の組織から採らず自社で養成すること、使用する肉や野菜の自給を図ること、思い切って大きなスペースを取ること、別室を設け、そこで高級な宴会もできるようにすることなど、具体的な構想を立てた。
 食堂課の担当者はおよそ一カ月間、阪急百貨店で実地見学し、多くを学んできた。その担当者が中心になって準備を始め、地階に調理場と食堂、六階はほぼ全てを使って合わせて約一千名を収容できる大食堂にし、宴会や集会に使える別室も備え、大きさ、設備とも都内随一の直営大食堂が誕生した。

というふうに語られている。

 

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『松屋グラフ』昭和6年(1931)11月1日号、開店当初から「千人を入るる六階大食堂」が喧伝されている。

 

ところで、浅草松屋の大食堂が範にした阪急百貨店のそもそもの出発点が食堂であった。大正9年(1920)11月に旧阪急ビルディングが竣工、翌月に開店した食堂を発展させるかたちで、大正14年(1925)6月に「阪急マーケット」が開業し、昭和4年(1929)4月15日、阪急ビルディングが新築落成して阪急百貨店が誕生した(『阪神急行電鉄二十五年史』阪神急行電鉄株式会社・昭和7年10月)。

 

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『大・阪急』(百貨店新聞社・昭和11年4月:https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1090051/1)にも、

マーケツト時代には洋食堂はマーケツト全体を代表してゐたやうな観があり、従つて今日の阪急百貨店の基礎もこの洋食堂に依つて固められたと云つても必ずしも過言ではなからう。

とある。阪急百貨店のルーツは大正9年(1920)12月に開業した阪急食堂だった。

 

ちなみに、旧阪急ビルディングの阪急食堂を範としたのが、東急の前身の東横電車が昭和2年(1927)12月に開店した東横食堂であった。阪急百貨店とおなじように、東横食堂を発展させるかたちで、昭和9年(1934)11月、東京初の鉄道会社直営のデパートである東横百貨店が誕生する。浅草松屋のちょうど三年後だった。

 

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時事新報家庭部編『東京名物食べある記』(正和堂書房・昭和5年9月第七版:https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1176069/1)に東横百貨店開業以前の東横食堂が紹介されている。

大阪では名物となつてゐる郊外電車直営の食堂、これが東京での唯一たる東京ー横浜電鉄直営の渋谷駅構内二階東横食堂へ。タツタツタと狭い階段を上り切ると「いらつしやい」とカウンターに陣取つた美人(として置く、註但久夫の挿絵ほどでなし)二人、仲々愛嬌と親切気のあることはこの食堂の第一印象をよくさせる。けれど内部はさして広くもなく、装飾家具その他可成りに安チヨクを極めたもので、浅草街に散財するバーを思はせる。

云々とあり、《会社通ひの郊外シングル生活者が、簡単に朝食晩食を済ませるには、それがこの食堂の目的の一つだらうが、もつてこい》とある。

 

浅草と銀座をつなぐ地下鉄が現在のように一本化されたのは、昭和14年(1939)9月だった。現在の東京メトロ銀座線は、昭和9年(1934)6月に全通した浅草・新橋間の「東京地下鉄」と昭和13年(1938)12月に開通した渋谷から新橋までの「東京高速鉄道」の二つの路線が合併したものだった(翌年9月に二つの新橋駅が統合されるまでは、地下鉄の乗客は新橋で乗り換える必要があった。)。

戦前では東京唯一の地下鉄で結ばれていた浅草と渋谷の地上にそびえたつデパートには、それぞれに小林一三の阪急の影響が色濃く反映していたという1930年代都市のありようが面白いと思う。

 

……と、浅草松屋の大食堂は阪急百貨店に倣ったデパート直営の大食堂であったが、スポーツランドのルーツをたどってゆくと、1920年代の宝塚の遊戯場にたどりつくと言ってもいいかもしれない。

小林一三から直接のアドバイスを得たわけではないし、多摩川園のような土地開発会社による大規模な遊園地というわけでもないし、電鉄会社経営の百貨店というわけでもなかったけれども、浅草松屋のスポーツランドも宝塚の影響を受けて誕生した遊戯施設だった。

 浅草松屋の大食堂がデパート直営であったのに対し、スポーツランドは直営ではなく、委託経営だった。のちに日本娯楽機械株式会社を設立する遠藤嘉一が企画と機械搬入を全面的に請け負っていた。

遠藤嘉一は明治32年(1899)生まれで、スポーツランド開業当時は三十代前半だった。中藤保則著『遊園地の文化史』(自由現代社・昭和59年9月)に「アミューズメント産業の先駆者達」のひとりとして登場する遠藤嘉一は、同書で

自動販売機、自動木馬の考案者であり、数多くの小型遊戯機械を考案し、後に大型機械もてがけて、日本のアミューズメント産業をリードしてきた。その半世紀を越える歩みは、この業界の歴史そのものといって過言ではない。

と紹介されている。その遠藤嘉一に遊戯器具製造のインスピレーションを与えたのが、1920年代後半の宝塚だったのだ。

 

 阪急宝塚線と箕面線の前身が開通したのが明治43年(1910)3月10日、小林一三は同年11月1日にさっそく箕面の地に箕面動物園、翌44年(1911)5月1日に宝塚の地に宝塚新温泉を開業する。明治末期に誕生した箕面動物園と宝塚新温泉は、鉄道会社経営のレジャー施設として日本最初のものだった。

 

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明治44年(1911)5月に宝塚新温泉が開業した翌年、明治45年(1912)7月1日にパラダイスという名の洋館が落成した。パラダイスの中身は、屋内プールと娯楽設備であった。しかし、プールは時代が早過ぎて失敗、プールの跡地を活用するかたちで宝塚少女歌劇が誕生する。

四十五年七月一日には近代的な構造の洋館を増設して、これをパラダイスと名づけ室内水泳場其他種々の娯楽設備を設けたけれど、此室内水泳場は時勢に早すぎて失敗、不得止これを利用し、其水槽を客席とし脱衣場を舞台とし茲に今日の宝塚少女歌劇の創立に着手する等漸次に諸設備の完備するに従つて、来遊者も又累年増加し、宝塚線建設の目的を着々として達成するに至つたのである。(『阪神急行電鉄二十五年史』)

大正2年(1913)7月1日に宝塚唱歌隊が組織され、翌大正3年(1914)4月1日に宝塚少女歌劇の上演が開始されたのだったが、その劇場のもとはプールだった。

 

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「パラダイス劇場」の写真、『レール&ステージ 小林一三の贈り物』(公益財団法人阪急文化財団・2015年9月)より。この劇場は元はプール! と思って見てみると、まさに元はプールだ! プールにしか見えない!

箕面動物園は大正5年(1916)3月31日をもって早々に閉鎖されたものの、宝塚新温泉の方は宝塚少女歌劇を含む一大娯楽施設としてますます発展してゆくことになった。そして、大正期に発展した宝塚新温泉は、昭和期のアミューズメント産業に多大な影響を与えた存在であった。

 

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大正9年(1920)3月20日、宝塚新温泉内に新築歌劇場が誕生した。箕面公会堂を移設改築した劇場だった。『宝塚少女歌劇廿年史』(宝塚少女歌劇団・昭和8年7月:https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1234678/1)では「公会堂劇場時代」として記録されている。公会堂劇場への通路の入り口の左には図書室への階段がある。この図書室が、昭和7年(1932)1月に開館する宝塚文芸図書館の前身なのだろう。

公会堂劇場時代の始まった大正9年(1920)という年は、7月16日に神戸線本線が開通し、11月には梅田には旧阪急ビルディングが竣工したりと、阪急がますます躍進していった年だった。

が、わずか三年後、大正12年(1923)1月22日、宝塚新温泉は浴場のみを残して全焼、パラダイス、公会堂劇場、食堂も全部焼けてしまった。しかし、宝塚はくじけることなく、わずか二日後に温泉のみ営業を再開して復興に邁進し、二ヶ月後の3月20日に仮設劇場として中劇場が落成し、少女歌劇の公演が再開される。

大正13年(1924)7月19日に大劇場が竣工するまでの二年未満の期間は「中劇場時代」と呼ばれている。前年の関東大震災での市村座焼失を受けて、大正13年(1924)の2、4、6月に六代目菊五郎の市村座公演の興行がなされたのも、この中劇場であった。

 

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『宝塚少女歌劇廿年史』に《復興せる新温泉》として掲載の写真。右が中劇場、中央が焼失を免れた浴場、左がパラダイス及び食堂。大正12年(1923)3月20日に中劇場が落成、7月19日の夏季公演に間に合わせるようにして、食堂、遊園地その他新温泉内のすべての設備が復興した。

 

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大正12年(1923)9月2日付「大阪朝日新聞」朝刊の広告。関東大震災の翌朝の新聞に、同年1月の火災から復興した宝塚新温泉の広告が載っている。阪急電車をかたどった図案。「宝塚新温泉の新設備」として児童遊戯室、婦人室、陳列室、新聞雑誌室、図書室、囲碁室、音楽室、写真室、理髪室、球突室、化粧室、和洋食堂、弁当使用室といった至れり尽くせりの設備があり、さらに温泉と歌劇、音楽会もあり、家族全員の「一日の清遊」にもってこいだった。阪急電車に乗って宝塚新温泉に行こう!

 

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そして、大正13年(1924)7月19日に宝塚大劇場が竣工し、7月25日には宝塚ルナパークが開業する。ルナパークの三階には小劇場が作られ、宝塚は大劇場・中劇場・小劇場と三つの劇場を有することとなった。同年2、4、6月に中劇場で興行していた市村座の六代目菊五郎一座は9月には大劇場の方で公演している。そして、翌大正14年(1925)4月の宝塚大劇場が菊五郎一座の最後の宝塚出演となった(寺田詩麻「二長町市村座年代記」、『歌舞伎 研究と批評 23』歌舞伎学会・1999年6月)。

 

スポーツランドの生みの親・遠藤嘉一が宝塚新温泉を訪れたのは、大劇場時代が軌道に乗っていた昭和3年(1928)のことだった。当時、宝塚新温泉に設置されていた遊具はすべて輸入品だった。中藤保則著『遊園地の文化史』によると、屋外に「単式飛行塔」が一機設置されていて、屋内の遊戯場には、力試し機、マストコープ立体写真回転装置(いわゆるのぞきめがね)、玉遊び機(パチンコ)、占い機、香水自動噴霧機などが置かれていたという。一階の遊戯場は100坪くらいの広さだった。そして中二階には、ドイツ製の面白い遊戯機があった。

……昭和3年、宝塚に遊戯機械が設置されていることを知った遠藤氏は、仕事もそっちのけで出かけていった。アミューズメント機械の意識を抱いていた人間のアンテナに敏感に感じる何かがあったのであろう。
 遠藤氏が注目したのは、中二階にあったドイツ製の遊戯機械である。女性の係員が2銭の料金を取るとスイッチを入れ、アヒルのような形をした鞍が2分間上下するものであった。それを見ているうちにひらめくものがあった。この乗物を自動式にして馬の形にすれば、面白い機械になると感じたのである。早速製作にとりかかり、2銭入れると40秒間自動的に動く装置を作って、木馬をとりつけた。完成後、ヒントを与えてもらった縁で、宝塚新温泉に2台納入した。昭和4年7月のことである。そしてこの年が、日本独自の自動木馬誕生の年でもあるわけだ。当時の担当の課長は、後に東京テアトルの会長になった吉岡重三郎氏であった。(中藤保則著『遊園地の文化史』、「第二部 第一章 遠藤嘉一氏の偉大な足跡」)

 

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パラダイス二階に設けられてた「子供の国」、『阪神急行電鉄二十五年史』より。遠藤嘉一にインスピレーションを与えたドイツ製の遊戯機械が設置されていたのはこの部屋なのかはよくわからないけれども、おおよそのイメージ画像として。

遠藤嘉一は、宝塚の自動木馬をきっかけに遊戯器具の製作事業に着手することになり、昭和3年(1928)4月に実兄と自動機娯楽製作所を設立した。

昭和5年になると、飛躍のきっかけとなった良い話がもたらされた。浅草松屋のオープンにあわせて、遊戯場を開きたいという依頼である。その話を大阪までもってきたのは、東京松屋食堂課長佐久間氏であった。遠藤氏は依頼に応じて上京それが東京への本格的進出、定住のきっかけとなる。浅草松屋の開店は翌6年11月、遠藤氏は設計技師の浜田、亀田両氏と相談の上、浜田氏の意見に沿って七階に置かれる遊戯場をスポーツランドと名づけることにした。(中藤保則著『遊園地の文化史』第二部「アミューズメント産業の先駆者達」第一章「遠藤嘉一氏の偉大な足跡」)


『松屋一五〇年史』には、浅草松屋の大食堂を直営にすることとなり、阪急百貨店に実地見学に行ったことが記録されており、《食堂課の担当者はおよそ一カ月間、阪急百貨店で実地見学し、多くを学んできた。》というくだりがあった。この「食堂課の担当者」はもしかすると、遠藤嘉一に遊戯場の話をもってきた「東京松屋食堂課長佐久間氏」なのかもしれない。

 

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明治から戦前昭和まで、さまざまな分野で国産化への流れが見て取れる。たとえば、化粧品は当初は輸入品のみだったのが、輸入品を模倣あるいは凌駕することで、資生堂をはじめとする国産メーカーが続々と誕生していった。近代日本産業史は舶来の製品が国産化されてゆく過程であった。

日本のアミューズメント産業も、明治期にスロットマシン、ジュークボックスといった小型遊戯機械が日本に輸入されることから始まった。そして、大正末から昭和初めにかけて、すなわち1920年代に続々と国産化していった。浅草松屋のスポーツランドをつくった遠藤嘉一はその第一線に立っていた。

遠藤嘉一が宝塚の地で自動木馬の研究に励んでいたのは、宝塚にレヴュー時代が到来していたのと同時期のことだった。大正15年(1926)1月に欧米へ視察に出かけた岸田辰弥は、昭和2年(1927)1月に帰朝、そして、同年9月に日本における最初のレヴュー上演と謳われる『モン・パリ』が宝塚大劇場で華々しく上演された。

『モン・パリ』上演後、昭和3年(1928)秋に白井鐵造が欧米に派遣され、その帰朝公演は、昭和5年(1930)8月の『パリゼット』だった。昭和8年(1933)8月の『花詩集』で宝塚のレヴュウはひとつの頂点を迎える。1930年代に入り、日本のレビュウはますます盛んになるのだったが、それは、遠藤嘉一が浅草松屋のスポーツランドを計画立案し、開業にこぎつけて、人気のスポットとなっていたのとまさに同時代だった。

 

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昭和7年(1932)4月上演の白井鐵造・水田茂作のレヴュー『春のをどり』、『宝塚少女歌劇廿年史』より。背景に描かれている阪急百貨店は、この上演の前年12月に第二期工事竣工により拡張したところで、第三期工事に着手中だった。

 

浅草松屋のスポーツランドの誕生は、レヴュウ時代の進展と同時代の事象であり、スポーツランドという名称にもなんとはなしに1930年代の時代相がただよっている。

1920年代から1930年代にかけて「浅草もの」と称される作品群を書いた川端康成は『浅草の九官鳥』で浅草松屋とスポーツランドを登場させている。『浅草の九官鳥』は、昭和7年(1932)の『モダン日本』に7回にわたって発表された作品である(以下、引用は『川端康成全集 第四巻』より)。

七階、隅田公園の若い櫻がほころびる頃、もう五月人形を陳列してゐて、今年の新しい武者人形は、爆彈三勇士。その陳列場の裏に、ロオラア・スケエト。そして、松屋スポオツランド。

その第一回は昭和7年(1932)6月号に掲載された(同じ号に、中村正常の『スポオツ娘商売』という名のコントが掲載されている。)。表題の「浅草の九官鳥」とは浅草松屋の六階の美容室にその鳥籠があるという設定。

 さて、綾吉は三月ぶりに舞ひもどつて來た淺草だ。
 スケエト場の横の窓際に坐つて、
「まるで大阪になつちまやがつた。」
 と、大川を見下しながら、昨日までの大阪暮しを思ひ出してゐる。兩岸の水の公園、吾妻橋、東武鐡橋、言問橋、本所の花曇りの煤煙、それらが、中之島や堂島あたりの大阪景色に似てゐるのだ。

このあと、《百貨店の七階とは思へぬ、西洋の裏町の遊び場じみた陰気さ》のスポーツランドがスケッチされている。スポーツランドをあとにした綾吉は同行の少女に「寶塚好みサルタンバンクといふ、白く光る金にガラス玉の花簪」を買い与えるのだった。白井鐵造作のレヴュウ『サルタンバンク』の初演はこの年の1月の宝塚大劇場、3月から4月にかけて新橋演舞場で公演されたばかりであった。

 

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『週刊朝日』昭和7年(1932)4月1日号、グラビア「浅草スナツプ一品料理」より。楽屋で食べ物を頬張るレヴュウの踊り子、言問橋を渡って浅草に向かうモダンガール、そして、スポーツランド。

 

レビュウ時代とスポーツランドの同時代感がよく表れているのが、昭和8年(1933)11月23日公開の P.C.L. 映画『純情の都』で、失業中のレヴュウ関係者、竹久千恵子、堤真佐子、藤原釜足、岸井明の四人が《百貨店の七階とは思へぬ、西洋の裏町の遊び場じみた陰気さ》のスポーツランドで明るく楽しく遊ぶシーンがたっぷり盛り込まれている。

『純情の都』は、ムーラン・ルージュで上演された島村龍三作『恋愛都市東京』の映画化で、島村龍三も主演の竹久千恵子もムーラン・ルージュに移る前はカジノ・フォーリーに所属していた。香取俊介『モダンガール 竹久千恵子という女優がいた』(筑摩書房・1996年9月)によると、昭和8年(1933)の夏、竹久千恵子は三ヶ月契約でムーラン・ルージュから P.C.L. へ借り出され、『純情の都』の撮影に入った。竹久千恵子は当時のことを、《松屋デパートにあったボーリング場のシーンをいれたり、舞台とはまた違った楽しいものでしたよ》と回想している。カジノ・フォーリーのレヴュウガールであった竹久千恵子は、昭和8年(1933)には山の手から浅草に遊びに来るモダンガールになっていた。

『純情の都』のスポーツランドのシークエンスは、ベティ・ブープの姿が映し出されるところから始まる。スポーツランドでは、ベティ・ブープやミッキーマウスが(おそらく無断で)使用されていて、アメリカ感のようなものが意図されていたらしいということがスクリーンからも窺える。

 

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四人はまず、ベティ・ブープの絵が描かれたコーヒーカップのような遊具で遊ぶ。

 

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ベティ・ブープの次はミッキーマウス。「ミッキー横丁」と題された遊具は、電動で不規則に動く円形の鉄板の上をバランスを取りながら渡ってゆくという趣向の遊具。

 

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天井低しと動き回る象さんの遊具。周囲には、映画の撮影を見物していると思しき多数の人びとが映る。

 

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ボーリングコーナー。「SPORTLAND」の文字がよく見えるようになっていて、タイアップであったことが窺える。

 

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「豆自動車」が所狭しと走る。

 

中藤保則著『遊園地の文化史』によると、スポーツランドは当初は大人向けの施設として企画されたのだったが、スポーツランドにやってきた大人たちは照れてしまって遊具で遊んでくれないので、開店二ヶ月後の、昭和7年(1932)年明けに、遠藤嘉一は親子で遊べる遊具に取り替えてみたという。

一部機械を取り払い、新たに屋上には汽車を設置し、七階には豆自動車、ベッティハウス、ミッキー横丁、子供専用の象乗り機を設置した。この象乗り機は、ベニヤ板で作った象が8台取りつけてあり、8人の女子店員が押して回った。また、5間の直径をもつ円盤に椅子をつけ、モーターで回転させて、上下の動きもあるコーヒーカップのようなものを置いた。この新企画はみごとに成功し、スポーツランドは大盛況となった。(中藤保則著『遊園地の文化史』第二部「アミューズメント産業の先駆者達」第一章「遠藤嘉一氏の偉大な足跡」)

 『純情の都』が撮影された昭和8年(1933)はスポーツランドが親子連れで大盛況になっていた時期だった。映画に映る象乗り機はなんと人力であった。

 

昭和8年(1933)の『純情の都』の一年数か月後、昭和10年(1935)3月1日公開の同じく P.C.L.映画の成瀬巳喜男初のトーキー映画『乙女ごころ三人姉妹』には、屋上の方のスポーツランドが登場している。川端康成の『浅草の姉妹』を成瀬巳喜男が脚色している映画であるが、川端の原作には登場するのは東武電車の改札口で、松屋の屋上は登場しない。

 

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浅草の家を出て、病臥している滝沢修と夫婦暮らしをしている長姉・細川ちかこは生活に疲れていた。気怠げに煙草を燻らせながら、浅草松屋の屋上から隅田川を見下ろすのだった。

 

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ここに来れば家を出て行ってしまった姉に会えるような気がして、妹の堤真佐子はちょくちょく浅草松屋の屋上に立ち寄っていた。そんなある日、目論見どおり、屋上の上で妹は姉に会うことが出来た。堤真佐子の頭上に「航空艇」が移動している。速度は非常に遅かったということがわかる。

 

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浅草松屋の屋上のシークエンスでは、お客さんがたくさんいる中でロケされている。檻の中の猿が元気に動き回っているところも記録されていて、1930年代の浅草松屋の屋上遊園の喧騒が伝わってくるようだ。

 

昭和8年(1933)2月に、遠藤嘉一の日本娯楽機製作所は浅草区駒形に移転し、遊戯機械の開発事業をさらに本格化させた。
こちらのサイト(http://www.ampress.co.jp/archive.htm)で、日本娯楽機製作所の商品カタログ『日本娯楽商報』PDFファイル(https://www.ampress.co.jp/pdf_file/nichigo_catalog.pdf)を見ることができる。遊具の納入先として各都市のデパートの名が列挙されている。1930年代後半はデパートの屋上遊園地が全国的に広がっていたということがわかる。

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中藤保則著『遊園地の文化史』で指摘されているように、納入先として、国際劇場が挙がっているから、昭和12年(1937)7月以降の印刷物である。同書によると、遠藤嘉一は国際劇場の地下を使って機械を設置したという。日劇の地下にも遊戯機械が設置されていた。

 

浅草松屋のスポーツランドはデパートの屋上遊園の嚆矢となった。

この成功で、同様な遊戯施設を設ける百貨店が急増。1933(昭和8)年に実施された「全国百貨店統計」調査において、5階以上の建物および1,650㎡以上の営業面積を有する百貨店は44店舗(最大は3万~5万㎡規模の4店舗)あったが、その多くが数年のうちに屋上遊園地をもつようになった。(『アミューズメント産業の歩みと展望』日本アミューズメント産業協会・2009年12月)

萩原朔太郎の詩「虎」でおなじみの銀座松坂屋屋上のように、もともとデパートの屋上には、従来から小鳥や動物の小屋があったり、ブランコや滑り台程度の遊具が設けられていて、庭園設備を備えていた。これらを活用することで、急速に遊戯施設が普及し、屋上遊園ができあがっていったのが1930年代だった。

 

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昭和10年(1935)1月20日付「読売新聞」夕刊の広告。「お坊ちゃまや、お嬢様は言ふ迄もなく大人の方も一日楽しく遊べる東京の新名所」と書かれている。

 

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「第八天国 浅草松屋の巻」、『旅』昭和11年4月月号の挿絵。浅草松屋屋上スポーツランドの「飛行艇」が描かれている。

 例の飛行船には「筑波」「富士」の名がついてゐます。こゝだけに、ぴつたりと来た命名です。
 西に富士、東に筑波、その間を清く流るゝ隅田川ーとはすぐ目と鼻の六区の小屋で未来の雲右衛門氏が親不孝声で唸る浪花節の枕言葉です。その隅田川もすぐ目の下なんだから、富士号、筑波号の名が益々生きてきます。(中略)
 隅田川も今ぢや紺屋の甕みたいで、清く流るゝウが聞いて呆れさうですが、屋上から見る分には、倫敦のテームス、紐育のハドソン位の眺めはあるさうですよ。これだけは何といつても他のデパートでは叶ひません。それから観音様ーーおつと、勿体ない観音様をこゝから下に見下すなんてーー

 

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サトウ・ハチロー『僕の東京地図』(有恒社・昭和11年8月)の「名物スポーツランド行」の挿絵。

 

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『大東京観光アルバム』(東京地形社、昭和12年4月)では、「浅草松屋」について、《吾妻橋畔にある浅草松屋。東武本線の発着ホームを店内に持ち、屋上のケーブルカー、スポーツランド等小児娯楽設備の完備して居るので有名な百貨店》と解説されている。

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1930年代後半の浅草松屋の正面には、「浅草松屋」と「スポーツランド」のネオンが輝いている。『輝く日本 輝くネオン』(整電社製作所、昭和12年4月)より。

 

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石津良介撮影《遊園地の子供》、『アサヒカメラ』昭和14年(1939)3月号「早春の写真傑作集」より。デパートの屋上遊園地でお馬に乗るお嬢ちゃん。デパートの屋上遊園は1930年の新しい都市風景だった。

 

1930年代後半、浅草松屋はスポーツランドや大食堂の新聞広告を出すと同時に、昭和13年(1938)に「皇軍慰問品」、昭和14年(1939)に「国防色 警防・国民服」や「防空防護用品」の新聞広告を出すようにもなっていた。やがて、戦時色の強まりとともに、スポーツランドの設備も縮小してゆくことになる。船山馨の短篇『スポーツ・ランド』(『風と虹の物語』世界社・昭和22年4月)には「電力の戦力化」によりすでに動かなくなっている1940年代の「ミッキー横丁」が登場している。

 

 『松屋一五〇年史』によると、東武ビルディングは東京大空襲の被害を受けたが、浅草松屋は、昭和21年(1946)12月にまずは一階でのみ営業を再開した。売場とスポーツランド計2,310㎡での再開だった。三階と四階の改修工事を経て、昭和22年(1947)12月にスポーツランドは四階に移転、屋上遊園地が再開するのは、昭和26年(1951)9月であった。

中藤保則著『遊園地の文化史』では、戦後のスポーツランドについて、

昭和21年12月、浅草松屋再開。当初は一階から三階までをとりあえず開くこととなり、一階の一角150坪がスポーツランドにあてられた。株を買った後のことで資金がなかったので、松屋から5万円借り、豆汽車5台、木馬3台、ボール投げ1台を製作、スポーツランドの再開にこぎつけた。戦後一年余りで、子供や家族連れの遊び場などまだどこにもなかったので、再開当初から大人気となった。翌年には、四階のスペースの半分がスポーツランドにわりあてられた。今度は間に合わせの台数ではとうてい埋めきれない。そこで60万円借り、不眠不休で製作。設置は松屋の四階で泊まりこみで行った。オープンは昭和23年。日本のレジャーの歴史にその名をとどめる浅草松屋のスポーツランドは、完全に復活したのである。
 24年には屋上に複式飛行塔を設置、また25年には、塔屋の上に60人乗りのスカイクルーザ―を設置した。

とある。『松屋一五〇年史』には、昭和26年(1951)9月21日に屋上が再開されたのと同時に、屋上スポーツランドも再開されたとある。このときに豆汽車や観覧車、飛行塔などが登場し、屋内のスポーツランドは四階から五階に移転したと記録されている。

 

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長野重一写真集『東京1950年代』(岩波書店・2007年11月)より「屋上遊園地 浅草松屋 1952年」。『遊園地の文化史』にある「複式飛行塔」とある「ロケット塔」は戦後の浅草松屋の屋上の名物だった。隅田川にかかる東武の鉄橋と言問橋は1930年代と変わらぬ眺め。

 

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田沼武能写真集『東京の戦後』(筑摩書房・1993年9月)より「松屋デパート屋上のスカイクルーザー 昭和29年」。1954年のこの写真ではロケット塔が「明治牛乳」の広告になっている。スカイクルーザ―は、『遊園地の文化史』では昭和25年(1950)に設置とあるが、『松屋一五〇年史』では昭和27年(1952)頃に設置され、《60人程が乗ることができた。スリリングな乗り物として当時話題に》とある。


川島雄三『とんかつ大将』(松竹大船・昭和27年2月15日公開)に1950年代のスポーツランドの喧騒が記録されている。

 

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浅草松屋とのタイアップであることが歴然のオープニング、病院長・津島恵子の乗る自動車のサイドミラーに浅草松屋が映る!

 

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クリスマスシーズンで賑わう松屋で買い物する佐野周二は、かつての恋人・幾野道子に再開する。幾野道子は徳大寺伸と結婚して、男の子が生まれていた。

 

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屋上にゆく三人、坊やは佐野周二に買ってもらった機関車を持って「豆汽車」に乗って、大はしゃぎ。「豆汽車」の後ろに「ロケット塔」が見える。

 

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かつて「飛行艇」の発着所だった高い所で坊やを見守りながら、佐野周二と幾野道子は積もる話をする。


『とんかつ大将』には「スカイクルーザ―」は映っていない。久保田万太郎は「スカイクルーザ―」と題した小文を残している(『久保田万太郎全集 第15巻』中央公論社・昭和43年6月)「執筆年月、発表誌未詳」)。

 空の散歩、快適なスリル、(といふ文句をもつて広告してゐる)スカイクルーザ―に乗りに、浅草のある百貨店の屋上にのぼつたとき、途端にぼくの思つたことは、この屋上、むかし浅草にあつた十二階とどッちが高いだらうか、といふことだつた。
 同行の、ともにみんな東京に育つた、中老年の紳士三人のうち、二人は、十二階のはうが高いといつた。一人は、いゝえ、さうぢやない、さう思ふのはいまの地上の建物がすべて大きく高くなつて、むかしのやうに小さく、遠く、霞んでみえなくなつたのに気がつかないからだ、といつた。
 やがて、スカイクルーザーは。ゆる/\と、ゆら/\と、しかも、じつは気忙しく、事務的にまはりはじめた。浅草寺の境内の、意外のひろ/″\とした感じにひろがつてゐるのにおどろいたぼくは、隅田川の流れと、及び適当な間隔をもつて、その水の上にかゝつた、橋、橋、橋のかげの美しさに目をみ張つた。……それにしても、その高みからみえる東京の一部の、あゝ、何んと、遠く、そして近くたのものしき木々の緑の斑点でいろどられてゐることよ……
 途端にまた、ぼくはおもひだした。……むかし、子供の時分、十二階の何階目かのマドから、吉原田圃に咲いてゐる蓮の花の群をゆくりなくみつけたときのよろこびを……

 

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浅草松屋の東武ビルディング屋上のロープウェイに乗る男女、『週刊サンケイ』昭和31(1956)年10月14日号。

 

1930年代ののロープウェイ「飛行艇」は八人乗りで2台の乗物がゆっくりと移動するというものだった。戦後は二人乗りになっている。1930年代も1950年代も隅田川の眺めはさぞかし絶景であったことだろうと、やっぱり想像しただけでうっとりしてしまう。

 

その後、『松屋一五〇年史』の記録によると、五階のスポーツランドが昭和32年(1957)に閉鎖、昭和35年(1960)に屋上遊園の名称が「ドリームランド」となった。昭和35年(1960)は宝塚ファミリーランドが開園した年でもあった。

昭和55年(1980)から58年(1983)にかけて、浅草松屋は大規模リニューアル工事を敢行、昭和6年(1931)竣工時の外壁がすっぽりと覆われ、ロケット塔などの大型遊戯施設は各種法規制により撤去され、昭和58年(1983)3月に「童話ランド」という名の屋上遊園が誕生した。その後、平成元年(1989)7月に「ファミリーランド」に改名してリニューアルオープンしている。

浅草松屋の屋上遊園は時代が平成になっても、遠藤嘉一の日本娯楽機株式会社が一貫して運営していた(『アミューズメント産業』1990年7月号、「あの浅草松屋の屋上はいま…」)。しかし、平成はデパートの屋上遊園地がどんどん消えていった時代でもあった。浅草松屋は2010年2月末をもって3フロアの営業となり、屋上も5月末日で営業終了している。

 

その後、東武ビルディングは2011年3月に外観補修工事を開始、とうきょうスカイツリーの開業に合わせて、2012年5月に補修工事が完成して、現在に至っている。

 

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今年の五月の連休中、稲荷町で墓参りのあと、ひさびさに浅草まで散歩した折に、ひさびさに東武ビルディングを目の当たりにして、嬉しくなって思わず撮影した写真。

 

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東武ビルディング竣工九十周年。喧騒と遮断されたこの階段の空間がいつも大好き。今も九十年前の気分を感じられるような気がする。