大阪市立電気科学館のパンフレットを買って、昔の四ツ橋界隈をおもう。

師走の古書展で、大阪市立電気科学館の案内プログラムを見つけた。




「大阪の新名所」と高らかに謳っている、このぼろぼろのプログラムは昭和12年(1937)3月の開業時のものであろうか。

開業時のものかどうかはさておき、真ん中の路線図が「省線」「新京阪電車」「大軌電車」「大鉄電車」となっているから、戦前の印行であることは一目瞭然。この路線図を見るだけで、素晴らしき関西電車をしみじみと実感できる気がして、胸が熱くなる。

大江橋のところにある市章は大阪市役所を示すのだろう。と、ここを見ているうちに、大江橋界隈を歩いているときの胸の高まりを思い出すのだった。


《大江橋》、『近代建築画譜』(近代建築画譜刊行会・1936年9月)より。設計:大阪市土木部、施工:大林組、起工:昭和5年(1930)5月31日、竣工:昭和10年(1935)4月30日。北詰の堂島ビルディングが見える。


大江橋北詰の堂島ビルディングの全景、『近代建築画譜』より。設計・施工:竹中工務店、起工:大正9年(1920)12月、竣工:大正13年(1924)年7月。



『工事年鑑 昭和十一年版』(株式会社大林組・1936年6月)に掲載の、昭和10年(1935)4月竣工当時の大江橋の写真。西側から橋の全体を望む写真には、北詰の堂島ビルディングとその向こうの裁判所の建物が見える。北詰から南の淀屋橋を望む写真には、大阪市役所と中之島図書館。近代大阪の都市美が結集している感がある。


大江橋から四ツ橋へと視線を転じてみる。この路線図は、直線が市電、点線は御堂筋の地下を貫通する大阪地下鉄である。地下鉄が難波から天王寺まで伸びるのは、電気科学館開館の翌年、昭和13年(1938)4月21日であった。

大阪市立電気科学館は昭和12年(1937)3月13日に開館、1989年5月31日に閉館し、現在は大阪市立科学館に継承されている。

大阪市立科学館の公式ウェブサイト[https://www.sci-museum.jp/about/history/denki_kagakukan/]は、前身の電気科学館について、

電気科学館は、大阪市電気局が電気供給事業10周年の記念事業として計画した施設です。初期の建設計画案によると、館内設備は美容室、大衆浴場、大食堂、スケートリンクという内容で、電気利用のショールームとして考えられていました。その後、建物の建設と並行して、電気の原理と応用に関する展示物を陳列する展示場とプラネタリウムを設置することが決定され、1937(昭和12)年3月13日にオープンしました。

と解説している。

電気科学館開館の前年に刊行された『近代建築画譜』には、建設中の写真が掲載されている。


同書の記載では、設計=大阪市建築課、施工=清水組、起工=昭和9年4月、昭和12年竣工予定、となっている。そのふもとの路上には市電が停車中。

そして、完成直後の写真は、『工事年鑑 昭和十三年』(株式会社清水組・1938年3月)に華々しく掲載されている。


四つ橋筋と長堀通が交差する四ツ橋交差点は、東西南北から市電と自動車が行き交う交通の要所だった。市電の架線が迫力たっぷり!



大阪市立科学館のサイトに、

電気科学館の6階は「天象館」と名づけられたプラネタリウムホールでした。18メートルの丸型天井(ドーム)を持ち、その中にドイツのカールツァイス社製のⅡ型プラネタリウムが設置されました。この装置は、肉眼で見ることができる約9,000個の星を投影し、さらに地球上のどの地点における星空でも再現できる機能、さらには過去から未来までの星空を再現できる機能も持っていて、当時の科学技術の粋を集めた装置でした。
電気科学館のプラネタリウムは、世界で25番目の導入といわれ、国内では初めてお目見えしたものです。

と誇らしげに語られているように、竣工当時の写真帳にも、建物全景の写真に添えられるのは「天象館」の写真、「塔屋と地球儀」、「天象館内部」である。1937年の竣工時の地球儀に描かれているバルト三国は1940年にソヴィエト連邦に併合されることとなる。


6階から8階までを天象館(プラネタリウム)、さらにその上部、9階から15階には防空塔が設けられていた。防空塔は《軍部との密接な連絡をもちその要望によつて生れた》と、『電気科学館二十年史』(大阪市立電気科学館・昭和32年3月)[https://dl.ndl.go.jp/pid/2518215]は伝えている。また、当初の計画では、6階と7階はスケートリンクとする予定だったという。

ちょうど十年前、2013年の年末に初めて四ツ橋界隈を歩いた。かつてあった川と橋、大阪市立電気科学館と四ツ橋文楽座に思いを馳せたのはとてもよい思い出となっていて、以降、たまに大阪市に出かけると、時間に余裕があるときは、わざわざ地下鉄を四ツ橋で下車して、ぶらっと心斎橋方面へと歩くのがお決まりになった。

十年前の冬休みの大阪町歩きの記録

かつては、冬休みになるたびに、年末の関西遊覧を楽しんでいたものだったけれども、ここ数年は年末年始は冬籠りを決め込み、せいぜい家の近所をのんびり散歩するくらいが関の山になってしまった。

と、かつての冬休みの関西遊覧を懐かしみつつ、以下は、四ツ橋と大阪市立電気科学館にまつわるメモ。

まずは、自分のなかで実はよくわかっていなかった四ツ橋について、再確認。


市電が開通している大正中期、『大阪市街全図  実地踏測』(大正7年(1918)6月発行)の四ツ橋界隈を拡大。国際日本文化研究センター・日本所蔵地図データベース[https://lapis.nichibun.ac.jp/chizu/index.html]より「大阪市街全圖 : 實地踏測」[https://lapis.nichibun.ac.jp/chizu/map_detail.php?id=002464881]。


こちらは、御堂筋開通後の地図『大大阪市街地図 最新』(昭和10年(1935)8月発行)。国際日本文化研究センター・日本所蔵地図データベース[https://lapis.nichibun.ac.jp/chizu/index.html]より「大大阪市街地圖 : 最新」[https://lapis.nichibun.ac.jp/chizu/map_detail.php?id=002462539]。

四ツ橋は、南北を流れる西横堀川と東西を流れる長堀川に架かる、以下の4つの橋を総称したものである。

  • 東:炭屋橋
  • 西:吉野屋橋
  • 南:下繋橋
  • 北:上繋橋

上繋橋のみ市電が通る橋だった。大阪市立電気科学館は、四ツ橋の北西、すなわち四ツ橋交差点の北東に建設されることとなる。1935年の地図を見ると、四ツ橋交差点は、南北を3系統、東西を2系統の市電が走っていたということがわかる。交差点の南、長堀川に架かる橋は西長堀橋である。


《四ツ橋から大阪市立電気科学館を望む》昭和30年(1955)11月。


《四ツ橋と大阪市立電気科学館》昭和35年(1960)8月。

この2枚は、『昭和の大阪 昭和20~50年代』(産経新聞社・2012年8月)に掲載されている写真である。同書によると、長堀川の埋め立ては昭和35年(1960)、西横堀川の埋め立ては昭和39年(1964)に始まり、ともに昭和46年(1971)に完了したという。

1970年代の始まりとほぼ時を同じくして、井形の四ツ橋は完全に姿を消したのだった。

次に、徳川時代から大正期の四ツ橋を大まかにたどってゆく。


『摂津名所図会』寛政8-10年(1796-98)第4巻上より「四ツ橋」[https://dl.ndl.go.jp/pid/2563463/1/21]。

河合乙州の句「四ツ橋の角立てけるよ冬の月」とともに、北東から南西をのぞむ構図で描かれている。手前の北東側は材木店が連なっている。南西方向には本文でも語られている名物の煙管の店。その向こうの堀江には「市の側芝居」。東西南北の川に多くの舟が往来しているさまが床しい。本文では、おなじみ小西来山の句「涼しさに四つ橋を四つわたりけり」が紹介されている。

『摂津名所図会』は四ツ橋が語られる際に必ず紹介される図版かもしれない。

松村博著『大阪の橋』(松籟社・1987年5月)の「四つ橋」の項でもこの図版が使われている。同書によると、4つの橋が架橋されたのがいつ頃かははっきりしないけれども、長堀川の開削が完成したとされる元和8年(1622)からそう遅くない時期であるらしい。四ツ橋は徳川時代の始まりとともに誕生したと言っていいだろう。

松村博著『大阪の橋』では、

井原西鶴の『好色一代男』の一節に登場する。世之介は遊山舟を四つ橋につけ、陸へ上ってその足で新町へ向かうことになっている。四つ橋のたもとは舟着場となっており、ここは淡路島に通う洲本船などの発着場でもあった。橋の下は多くの舟が行き交い、橋の上の往来もはげしかったが、橋からながめられる周辺の風景は非常にすぐれ、都市の中の貴重な散策の場となっていた。納涼や観月の名所ともなっており、俳句や漢詩に多くとり上げられている。

と解説されている。『摂津名所図会』でもさかんに舟が往来しているさまが描かれている。徳川時代から今日に至るまで四ツ橋界隈は交通の要所だった。


芳瀧画「浪花百景  第二十四景 四ツ橋」[http://collections.mfa.org/objects/460186/yotsubashi-bridges-yotsubashi-from-the-series-one-hundred]。制作年代は文久頃(1861-63)と推測されている。

橋爪節也編『「浪花百景」集成』(創元社・2020年11月)の解説に、《画面は四ツ橋南西から船場方面を眺め、大きな建物は南北の御堂である。》とある。北東から南西を望む構図の『摂津名所図会』とちょうど逆方向の図ということになる。のちに市電が通る橋となる上繋橋がいかにも細い。


初代貞信画「なには百景の内 四つばし」[http://collections.mfa.org/objects/461105/yotsubashi-bridge-from-the-series-one-hundred-views-of-osak]。

明治初期の開化の時代を描く初代長谷川貞信の四ツ橋も、交通の要所としての姿を伝える。橋上と水上、双方に人びとが行き交う。民家の屋根の上に「物見台」が描かれているのが見える。物見台を見ると、1930年代の北野恒富の絵を思い出さずにはいられない。



北野恒富《星(夕空)》昭和14年(1939)とその大下絵、図録『没後70年 北野恒富展』(2017年6月)より。

自宅の屋根の上で星を見るお嬢さん。図録『北野恒富展』(2003年)の橋爪節也氏による解説に以下のくだりがある。

大阪の商家では屋根の上に高台を設け、そこでの夕涼みが夏の風物詩であった。大阪育ちの織田一磨も「大阪市中人家の物干台生活」を特色にあげ、「写生の材料も従つて屋上に迄在る事にある。夏の夕べ屋上の納涼も大阪の生活の面白味と云へよう」とする。再興第二十六回院展に《夕空》の名で出品された《星》も、大下絵では足元に屋根瓦が描かれ、船場あたりの商家の物見台であることがわかる。その意味でこの絵は、大阪独特の都会生活を描いた作品なのである。

というふうに、北野恒富の《星(夕空)》を「大阪独特の都会生活を描いた作品」と読み解くくだりがたいへん魅惑的なのだった。織田一磨は東京芝生まれだが、明治27年(1894)から約十年、大阪に住んでいた。明治15年生まれの織田一磨は十代を大阪の町中で過ごしたのだった。


織田一磨の石版《大阪風景 四ツ橋雨景》https://dl.ndl.go.jp/pid/12109256/1/12。図録『織田一磨展」(町田市立国際版画美術館・2000年9月)所収の年譜(小池智子編)によると、この石版の制作時期は大正7年(1918)4月。

上掲の初代貞信と同様に、橋の柳と屋根の上の物見台が描かれている。商家の看板には煙管が描かれている。徳川時代からこの時期まで一貫して煙管が四ツ橋の名物だったようだ。

と、貞信の錦絵から約50年、織田一磨の「大阪風景」は徳川時代から変わらぬ四ツ橋の情趣を伝えているのだったが、実は明治末期、四ツ橋界隈の都市風景は一変していた。市電の開通である。

大阪市における大阪市営路面電車事業、略して市電事業は明治36年(1903)9月12日に開通した「築港線」(花園橋西詰・築港桟橋間)を端緒とする。『大阪市交通局七十五年史』(大阪市交通局・1980年3月)はこれを「第1期線」としている。

四ツ橋が関係するのは、明治39年(1906)9月に工事が始まった「第2期線」である。明治41年(1908)8月1日に「東西線」(九条中通・四ツ橋間)と「南北線」(梅田・恵比須町間)が開通、同年11月1日に「東西線」は四ツ橋から末吉橋まで伸びた。

この「第2期線」建設の際、明治41年(1908)6月、四ツ橋の上繋橋が鋼桁に架け替えられた。ほぼ同時期に、南北線用に長堀川に架かる西長堀橋が吉野屋橋の西側に架設される。ここに、東西南北に市電が行き交うこととなる四ツ橋交差点が誕生した。

この開通により四ツ橋に初めて軌道の交差点が生まれ、渡り線も登場して幾何学模様が珍しがられた。

と、『大阪市交通局七十五年史』は伝える。松村博著『大阪の橋』は、

(西長堀橋の)北詰の交差点は大阪で最大の交差点となった。以後、地名としての四つ橋といえばこの交差点を指すことになった。

としている。


明治末期の絵葉書《(大阪名物)四ツ橋大交叉点》[http://collections.mfa.org/objects/417004/o-193-yotsubashi-at-osaka-from-an-unidentified-series]。明治末期、四ツ橋交差点の市電のダイヤモンドクロッシングは「大阪名物」となった。架線が大迫力…!

そして、1920年代半ば、いわゆる「大大阪」が成立し「関西モダニズム」の全盛期を迎えた…というふうに語られる時代を迎えることとなる。

大正十四年(一九二五)四月一日、第二次市域拡張で大阪市は、隣接する東成、西成の両郡を編入した。人口も二百万人を越え、面積・人口ともに東京市を抜いて日本第一の都市が誕生した。ニューヨーク、ロンドン、パリ、ベルリン、シカゴに次ぐ世界第六位の大都市の誕生である。日本最大のマンモス都市となった大阪市は、市域拡張の意味で “大大阪” と呼ばれ、名市長と謳われた第七代大阪市長・関一[はじめ](一八七三~一九三五)を中心に、「第一次大阪都市計画事業」による街路拡幅の一環として御堂筋建設や橋梁の整備、日本最初の公営地下鉄の開通、築港整備など都市計画が進められ、日本有数の近代的な商工業都市として、様々な社会問題をかかえながらも発展の基盤を固めていく。また、「心ブラ」など都市を遊歩する習慣も定着して、モダンライフが市民に広まり、文化芸術も栄えた。“大大阪” の成立は、近代大阪の黄金時代を開くことになったのである。

この一節は、橋爪節也編著『大大阪イメージ 増殖するマンモス/モダン都市の幻像』(創元社・2007年12月)の「はじめに」にある《よく言われる一般的な “大大阪” の説明》である。


『大阪市パノラマ地図』(大正13年(1924)1月5日発行)のほぼ中央の四ツ橋界隈を拡大。国際日本文化研究センター・日本所蔵地図データベース[https://lapis.nichibun.ac.jp/chizu/index.html]より「大阪市パノラマ地図」[https://lapis.nichibun.ac.jp/chizu/map_detail.php?id=003023231]。

「大大阪」前夜の大阪市を記録する『大阪市パノラマ地図』の四ツ橋界隈。交差点にはやはり市電が行き交っている。交差点の北東(四ツ橋の北西)に建つことになる大阪市立電気科学館の場所にあるのは、大阪市電気鉄道部四ツ橋事務所と思われる。


『大阪市交通局七十五年史』に掲載の、《電気鉄道部四ツ橋事務所(大正12年当時)》。『電気科学館二十年史』に、

最初の第一案を以て、大阪府保安当局の諒解を得て昭和八年十一月に建築認可の申請を大阪府知事宛に行い、同年十二月上旬早くも建築認可あつて、越えて昭和九年五月二十七日愈々四ツ橋元運輸部事務所跡に工を起した。同年六月一日には地鎮祭を行い株式会社清水組の施工によつて工事を進めた。

とある。

『関西電力五十年史』(関西電力・2002年3月)を閲すると、電気科学館建設の機運は、昭和3年(1928)の交通電気博覧会にはじまったと言ってよさそうである。昭和初期の「大阪市の電気に関する啓蒙活動」の起点である。

昭和天皇の即位と大阪市の電気軌道創業25周年ならびに電灯経営5周年を記念して昭和3年10月1日から12月2日まで(会期を2日延長)まで大阪市天王寺公園と、近接する茶臼山旧住友別邸とを会場として交通電気博覧会が開催された。

かねてより「御大典ブームをとりまく京阪神モダン都市文化の形成」というようなことをぼんやり思っていたものであった。昭和3年(1928)という年は大阪市電の25周年でもあった。

そして、大阪地下鉄開通と同年の昭和8年(1933)に、大阪市電気局は電気供給事業満10周年を記念して、電気科学館の建設を決めた。

昭和初期の「大阪市の電気に関する啓蒙活動」である交通電気博覧会とほぼ同時に、「第一次大阪都市計画事業」により、四ツ橋と西長堀橋は「第一次都市計画事業」により、新しい橋に架け替えられた。ちょうど天王寺公園では交通電気博覧会が開催中だった。

  • 上繋橋:昭和2年(1927)12月
  • 下繋橋:昭和3年(1928)2月
  • 炭屋橋:昭和3年(1928)2月
  • 吉野屋橋:昭和3年(1928)11月

の順番で四ツ橋が整備され、四ツ橋交差点の南の西長堀橋も架け替えられ、昭和4年(1929)12月に新しい橋が竣工する。

四つ橋は全て二ヒンジアーチで、約三〇㍍の川幅をひと跨ぎする構造であった。各橋の長さは二五~三四㍍で、幅員は上繋橋が二七.四㍍であった他は約九㍍であった。
   橋の構造にアーチが採用されたのは舟運のことを考えてのことであろう。昭和の初期には両河川とも舟の運行が多かったことを示している。西長堀橋がアーチと単純桁の組合せになっているのは、単純桁の架かっていた北側が交差点に当り、市電のレールがカーブしていることや車を回りやすくするため橋端を拡げ、バチ形に架ける必要があったためであろう。アーチ橋では部分的に拡幅することは難しく、舟運への影響が少しばかり生じても二径間にして桁橋を適用したのであろう。
(松村博著『大阪の橋』)

『大大阪橋梁選集』全3輯(創生社、1929年9-12月)の写真を収録している、伊東孝編著『水の都、橋の都 モダニズム東京・大阪の橋梁写真集』(東京堂出版、1994年7月)より、昭和初期の出来立てほやほやの四ツ橋と西長堀橋を見てみよう。


昭和3年(1928)11月にすべて新しい橋となった四ツ橋を一望。南東から北西をのぞむ。大阪市電気鉄道部四ツ橋事務所とおぼしい建物が見える。この地に、昭和12年(1937)3月に大阪市立電気科学館が開館することとなる。


上繋橋(昭和2年12月)。市電の通る上繋橋が最初に架け替えられた。橋の上部には架線。


炭屋橋(昭和3年2月)と下繋橋(昭和3年2月)の間の橋台地。


下繋橋(昭和3年2月)と吉野屋橋(昭和3年11月)との橋台地に小西来山の句碑は設置されていた。


下繋橋(昭和3年2月)の上の橋灯と高欄。四ツ橋を特徴づけていた灯具。高欄廻りは御影石と青銅鋳物で仕上げられていた。


《四ツ橋の渡り初め 昭和3年(1928)》、図録『特別展 大阪/写真/世紀ーカメラがとらえた人と街』(大阪歴史博物館・2002年8月)に、同年11月6日に挙行の渡り初め式の写真が掲載されている。

続いて、四ツ橋の西の橋・吉野屋橋の西隣り、四ツ橋交差点の南側に架かる西長堀橋も新しい橋に架け替えられる。


西長堀橋(昭和4年12月)。工事中の写真。


西長堀橋の橋灯。


西長堀橋の高欄。半円の中の棒には「ねじり」が入っている。高欄の向こうに吉野屋橋の灯具が見える。

西長堀橋とほぼ同時期に、四ツ橋の南東、佐野屋橋の南西角、鰻谷西之町十二番地に四ツ橋文楽座が竣工し、翌昭和5年(1930)1月にこけら落とし興行が催された。


《初開場文楽座の外景》、早稲田大学坪内博士記念演劇博物館『図録 第2集』(1978年10月)より。

と、四ツ橋界隈にモダン大阪都市風景が現出して、「第一次大阪都市計画事業」と「第二次大阪都市計画事業」を経て、昭和5年(1930)に御堂筋が着工し、昭和8年(1933)にはその地下に地下鉄が開通し、1930年代大阪モダン都市風景が現出した。そして、昭和12年(1937)3月に大阪市立電気科学館が開館した次第だった。


千葉かずのぶ作画の絵葉書『滑稽漫画 大阪見物』より「大阪四ツ橋」。小父さんは「ほらみい橋四つならんだるやろが だから四つ橋や。むこうに電気化学館(ママ)がみえるで 早う見に行ふ」。大阪市立電気科学館の向こうの空に高らかにアド・バルーン。

そして、当時としては高層の建物(8階建)であった電気科学館は内部を見物するのみならず、外の景色、すなわちモダン都市大阪風景を見物する場所ともなった。


『杵屋栄二写真集 汽車電車』(プレス・アイゼンバーン・1977年10月10日)より、長堀川沿いの四ツ橋停留所を電気科学館上から撮影した写真。

昭和9年(1934)から13年(1938)にかけての鉄道写真を収録した写真集である同書は、《昭和初期の頃から、ファンの間では "電車は関西" の定評のあった土地柄だけに、当時の市電でも最も多彩で活発だったのが、大阪の市電であった。》と大阪市電への賞賛の言葉を惜しまない。大の鉄道ファン・杵屋栄二にとっては、電気科学館は絶好の撮影スポットの誕生だった。杵屋栄二が四ツ橋交差点の「ダイヤモンドクロッシング」に大興奮している息遣いが伝わってくるような気がする。


北村今三《四つの橋》昭和初期・木版色摺(京都国立近代美術館蔵)、図録『特別展 関西学院の美術家~知られざる神戸モダニズム~』(神戸市小磯記念美術館、2013年7月18日)より。


初めて見たときから心惹かれた四ツ橋界隈の都市風景を描いた版画であるが、左右を反転させてみると、上繋橋の市電の線路と、南東角の句碑のある吉野屋橋と下繋橋との橋台地が実際の視覚の風景となる。電気科学館のなかから四ツ橋をのぞんだ風景である。

建物が切り絵風に配置されている。左上、すなわち電気科学館から南東方向に心斎橋の大丸の「大の字」が見える。電気科学館からは四ツ橋文楽座の建物も見えたことだろう。杵屋栄二が胸を轟かせた四ツ橋交差点のダイアモンドクロッシングとともに、電気科学館から見えた往時の大阪の都市風景を想像するだけでも楽しい。

昭和12年(1937)3月に開館した大阪市立電気科学館は戦時体制の産物でもあった。


玉澤潤一《四ツ橋》、『銃後の大阪』第5報(大阪市役所市民局軍事課・1943年7月)の色刷口絵。

「涼しさに四ツ橋四つ渡りけり 來山」の句碑がわづかに昔時の情緒を追想せしるのみ。電気科学館の近代的な建築をバツクに忙しげな産業戦士の姿が足早やに句碑の前を通り過ぎる。

という画家による短文が添えられている。

戦時中の大阪市立電気科学館というと、やはり、織田作之助の『わが町』を思い出さずにはいられない。『織田作之助全集』第3巻(講談社・昭和45年4月)の青山光二による解題によると、『わが町』は、『文芸』昭和17年(1942)11月号に発表の短篇[https://dl.ndl.go.jp/pid/10988123/1/46]を改稿して、昭和18年4月に錦城出版社より書下ろし長篇として刊行された[https://dl.ndl.go.jp/pid/1134799/1/1 ]。

短篇の『わが町』[青空文庫:https://www.aozora.gr.jp/cards/000040/files/53808_50752.html]の末尾には、《この作品は、溝口健二氏演出映画の原作として書いたものを、短篇小説として書き改めたものであります。》との附記がある。

文楽でも見ようということになり、佐野屋橋の文楽座の前まで来ると、夏の間は文楽は巡業に出ていて、古い映画を上映していた。
「なるほど、わざわざ大阪で見なくても、東京に居れば、見られた勘定やな。」
 次郎はちょっとがっかりしたが、ふと想い出して、「そや、あんたの喜ぶもん見せたげよ。」
 と、君枝を四ツ橋の電気科学館へ連れて行った。
 そこには日本に二つしかないカアル・ツァイスのプラネタリウム(天象儀)があり、この機械によると、北極から南極まで世界のあらゆる土地のあらゆる時間の空ばかりでなく、過去、現在、未来の空までを眺めることが出来るのだ、実は昨日偶然来てみて驚いたという次郎の説明をききながら、君枝はあとに随いて六階「星の劇場」へはいった。
 円形の場内の真中に歯医者の機械を大きくしたようなプラネタリウムが据えられ、それを囲んで椅子が並んでいる。腰を掛けると、椅子の背がバネ仕掛けでうしろへそるようになっていた。まるで散髪屋の椅子みたいやと君枝が言うと、次郎は天井を仰ぎやすいようにしてあるのだと言った。
「――今月のプラネタリウムの話題は、星の旅世界一周でございます。」
 こんな意味の女声のアナウンスが終ると、美しい音楽がはじまり、場内はだんだんに黄昏の色に染って、西の空に一番星、二番星がぽつりと浮かび、やがて降るような星空が天井に映しだされた。もうあたりは傍に並んで腰かけている次郎の顔の形も見えぬくらい深い闇に沈み、夜の時間が暗がりを流れ、団体見学者の群のなかから、鼾の音がきこえた。
 しずかにプラネタリウムの機械の動く音がすると、星空が移り、もう大阪の空をはなれて、星の旅がはじまり、やがて南十字星が美しい光芒にきらめいて、現れた。流星がそれを横切る。雨のように流れるのだ。幻灯のようであった。説明者は南十字星へ矢印の光を向けて、
「――さて、皆さん、ここに南十字星が現れて、いよいよ南方の空、今は丁度マニラの真夜中です。しんと寝しずまったマニラの町を山を野を、あの美しい南十字星がしずかに見おろしているのです。」
「あ。」
 君枝は声をあげて、それでは祖父はあの星を見ながら働き、父はあの星を見ながら死んだのかと、頬にも涙が流れて、そんな自分の心を知ってプラネタリウムを見せてくれた次郎の気持が、暗がりの中でしびれるほど熱く来た。

『織田作之助の大阪』(平凡社〈コロナ・ブックス184〉・2013年9月)所収、加藤賢一「佐渡川佐吉がみた南十字星」に、

   南方戦線に関係した人たちのアイデンティティーの一つが南十字星であった。この時代、ベンゲットの他あやんと同じ心境でプラネタリウムの南十字星を仰ぎみた人たちは少なくなかった。たとえば当時、プラネタリウムの解説員であった原口氏雄氏は、自身が南方戦線体験者で、それをもとに『星と兵隊』(偕成社、一九四三年)を出版していたし、電気科学館七十年記念誌に寄稿された石田清司氏は帰還してきた父親に連れられてプラネタリウムで南十字星を見て以来、それが親子を結ぶ絆になったことを熱く語っておられる。ベンゲットの他あやんは真にリアルな存在だったのである。織田作が活躍した時代とプラネタリウムが元気に動いた時代は、日中戦争や太平洋戦争という嫌な出来事を糊のように背中合わせになっているように見える。

という指摘がある。加藤氏は、大阪市立電気科学館の後身の大阪市立科学館の館長を勤めておられた方で、そのウェブサイトで電気科学館の思い出を語っておられる[https://www.sci-museum.jp/study/staff/53/]。

戦時下、溝口健二監督による映画化を想定して書かれた織田作之助の『わが町』は、戦後、昭和31年(1956)に川島雄三によって映画化され、それは在りし日の大阪電気科学館の貴重な記録映像にもなった。







川島雄三監督『わが町』(日活・昭和31年8月28日公開)。

大阪市立電気科学館は戦災は免れたものの、電気科学館の展示は昭和20年(1945)5月から、プラネタリウムは翌6月から閉館し、荒れ果てた状態で終戦を迎えたという。その後、プラネタリウムと映画の上映会や団体見学のみの開室を経て、昭和23年(1948)10月1日に再開場した。そして、昭和29年(1954)7月から8月にかけて新装工事が施され、同年9月15日に新装会館とあいなった(『電気科学館二十年史』)。


1952年、難波から御堂筋を北に望んだ写真。安藤政晴撮影《御堂筋》、『光画月刊』昭和27年(1952)10月号。右上に心斎橋の大丸、左上に四ツ橋沿いの特徴的な建物、大阪市立電気科学館が見える。電気科学館が大阪市中で高く聳えるさまが印象的。

以下、昭和31年(1956)の写真は、新装開館以降ということになる。川島雄三の『わが町』封切り同年の写真である。


北西角の大阪市立電気科学館をバックに四ツ橋交差点に差し掛かる大阪市電901形908号(1956年8月)、吉川文夫・塚本雅啓『なつかしの路面電車 視録』より。四ツ橋のうち、唯一市電の通る上繋橋を颯爽と渡って、四ツ橋交差点に向かっている。


マツダ三輪トラックの広告「あの橋この橋」第23回は大阪の四ツ橋、『週刊朝日』昭和31年(1956)8月26号より。おそらく電気科学館から撮影した写真。西横堀川と長堀川在りし日の四ツ橋の勇姿。東南の心斎橋大丸の手前には、前年の昭和30年に閉館したばかりの四ツ橋文楽座の建物が見えるはず。

上掲2枚と同じく、昭和31年(1956)発行の『アサヒ写真ブック37 大阪』(朝日新聞社・昭和31年10月)にのる四ツ橋界隈。


《大阪の名橋四ツ橋》として掲載されている。


《北堀江上空より北望した西横堀川 中央の高塔が電気科学館 その下に有名な四ツ橋》とある。南から北をのぞむ。


《心斎橋上空から西望した西長堀川 上部右岸が新町 左岸が堀江》とある。東から西をのぞむ。


《周防町からみた大丸とそごう》。低層の建物の向こうに心斎橋の百貨店がそびえたつ。電気科学館からもこれらの建物が見えたことだろう。

織田作之助は、『わが町』のほかにも、『世相』や『星の劇場』で大阪市立電気科学館のプラネタリウムのことを綴っている。

『星の劇場』は、『定本織田作之助全集 第六巻』(文泉堂出版・1976年4月)に初出誌不明の掌篇小説して収録されている。

「歩哨に立って大陸の夜空を仰いでいるとゆくりなくも四ッ橋のプラネタリュウムを想いだした……」と戦地の友人から便りがあったので、周章てて四ッ橋畔の電気科学館へ行き六階の劇場ではじめてプラネタリュウムを見た。
 感激した。陶酔した。実に良かった、という外よりはない。既にして場内アナウンスの少女の声が、美しく神秘的である。それが終ると、場内にはにわかに黄昏の色が忍び込んで、鮮かな美しさだ。天井に映された太陽が西へ傾き、落ちると、大阪の夜の空が浮び出て来る。降るような星空だ。月が出て動く。星もいつか動く。と見る間に南極の空が浮びあがって、星の世界一周が始まったのだ。
 などとこんな説明で、その浪慢的な美しさは表現できぬ。われを忘れて仰いでいると、あろうことか、いびきの音がきこえて来た。団体見学の学生が居眠っているのだった。たぶん今は真夜中だと感ちがいしたのだろう。それほど、プラネタリュウムが映しだす夜のリアリティは真に迫っていたのである。

(青空文庫:https://www.aozora.gr.jp/cards/000040/files/47837_36047.html

このごく短い掌篇は戦時下の夕刊紙の片隅に掲載されたのかな、とその誌面を想像してみる。

同じく戦前の文章の、織田作之助『大阪の顔』(明光堂書店・1943年9月)所収「大阪の詩情   プラネタリウム」[https://dl.ndl.go.jp/pid/1130316/1/40]より。

……南側に明治大正の大阪の詩情の象徴である文楽座の櫓を見ながら、四つ橋の電気科学館まで急がう。
   急いだ序でに、昇降機に乗れば、六階の星の劇場まで二足もないのである。
  星の劇場とは、いみじくも名づけたものである。はいつて、神妙に待つてゐると、
「只今よりこの星の劇場でプラネタリウム(天昇儀)の実演をごらんに入れます。今日のプラネタリウムの話題は、星の旅世界の一週でございます。」
  美しい女性の声で、場内放送がはじまる。
(中略)
  プラネタリウムは、独逸のカアルツアイスの製作したもので、世界に二十七しかない、その第二十五番目の機械が、大阪の四ツ橋へ来て、昭和の大阪の詩情を、瞬かせてゐるのである。

戦後の小説、織田作之助の『世相』(初出:『人間』昭和21年4月号)より。

なるべく彼女と離れて歩きながら心斎橋筋を抜け、川添いの電車通りを四ツ橋まで歩き、電気科学館の七階にある天文館のバネ仕掛けで後へ倚り掛れるようになった椅子に並んで掛けた時、私ははじめてほっとしてあたりに客の尠いのを喜びながら汗を拭いたが、やがて天井に映写された星のほかには彼女の少し上向きの低い鼻の頭も見えないくらい場内が真っ暗になると、この暗がりをもっけの倖いだと思った、それほど辟易していたのだ。ところが、べつの意味でもっけの倖いだったのはむしろマダムの方で、彼女は星の動きにつれて椅子のバネを利用しながらだんだん首を私の首の方へ近づけて来たかと思うと、いきなりペタリと頬をつけ、そして口に口を合わせようとした。私は起ちあがると、便所へ行った。そして手を洗ってから昇降機で一階まで降りると、いつの間に降りていたのか、マダムは一階の昇降機の入口に立って済ました顔でこちらを睨んでいた。そして並んで四ツ橋を渡り、文楽座の表まで来ると、それまでむっと黙っていた彼女は、疳高い早口の声で、
「こんど店へ来はったら、一ぺん一緒に寝まひょな」とぐんと肩を押しながら赧い顔もせずに言った。

(青空文庫:https://www.aozora.gr.jp/cards/000040/files/737_43615.html

織田作之助は『わが町』『大阪の顔』『世相』にて、電気科学館と一緒に四ツ橋文楽座を登場させている。四ツ橋文楽座は、電気科学館が新装するよりも前、昭和30年(1955)12月興行を最後に早くも閉館してしまう。

橋としての四ツ橋がなくなり、昭和とともに電気科学館も閉館し、いつのまにか、そごうも大丸の旧建築もなくなってしまったけれども、今もたまにこの地に降り立つといつも、とりわけ1930年代から40年代、織田作之助の歩いていた時期の四ツ橋界隈、行き交う市電と電気科学館の威容、四ツ橋文楽座とその東に見える大丸とそごうに思いを馳せずにはいられない。

 

今年も何度か大阪へ出かけて、地下鉄を四ツ橋で下車して、のんびり散歩できたらいいなと思う。

大阪市立科学館は今年夏に新装開館するという。実は一度も行ったことがなかった。新装開館の暁には、「カールツァイスⅡ型プラネタリウム」を目の当たりにしたあと、ぜひともプラネタリウム上映を見てみようととても楽しみにしている。実現したら、子供時分に渋谷の東急文化会館の五島プラネタリウムに行って以来、40年ぶりのプラネタリウムということになるのだった。