東京に三本のテレビ塔が立っていた時代(1)テレビ塔ができるまで

東京タワーが完成する昭和33年(1958)12月まで、東京の空の下には三本のテレビ塔が立っていた。日本テレビ(NTV)、日本放送協会(NHK)、ラジオ東京テレビ(KRT、現TBS)がそれぞれ自局のテレビ塔を持っていた。集約電波塔である東京タワーは、東京では四本目のテレビ塔ということになる。



東京タワー完成前、三本のテレビ塔が煙霧に霞む東京を見下ろしていた、『アサヒグラフ』昭和33年(1958)6月15日号より。手前が赤坂一ツ木町の KRT(TBS)のテレビ塔、その向こうに紀尾井町の NHK のテレビ塔、左奥が麹町二番町の NTV のテレビ塔。



『乗りもの早わかり 東京案内』(観光展望社)の内「東京観光案内図」より、3本のテレビ塔の位置を拡大。

 二十世紀の目といわれるテレビの時代に入って、東京には、にょきにょきと、三本のテレビ塔が建てられて遊覧バスの寄りどころとなっています。
 日本テレビは東京の中心で高級地ともいわれる麹町の二番町に、NHK はそのむかし、紀州や尾張の殿様の邸宅や井伊大老の邸宅があったとかで、その名も紀尾井町とよばれる高台に、ラジオ東京は、帝国陸軍はなやかなりし頃の赤坂連隊の跡、眼下に待合政治の中心基地ともいわれる、赤坂の料亭街を見おろす赤坂一ツ木町の高台にでんとそびえています。
(高野一夫「相撲・テレビ塔・生花〈直線の数学〉」、『科学画報』昭和33年2月号)

昭和28年(1953)2月にNHKがテレビ放送を開始したあと、同年8月、民間放送最初のテレビ局、日本テレビ放送網(NTV)が開局した。続いて、ラジオ東京(KR、現TBS)が昭和30年(1955)4月にテレビ放送を開始し、日本最初のラジオ・テレビ兼業の放送局となった。この時点で、東京の空の下には、NHK・NTV・TBS の三本のテレビ塔が立っていた。


と、三本のテレビ塔が建てられた時点では、東京のテレビ局は、国営一局・民間二局の計三局だった。この先、テレビ局が増えるごとに、いちいちアンテナが建つのは経済的にも景観的にも無駄ではないか……と誰もが思ったことだろう。テレビ塔が二本建った昭和28年(1953)の秋の時点で、早くも

一本あれば間に合う筈のテレビの鉄塔を NHK と NTV がそれぞれ五百米と離れない場所におッ立てた愚行を某週刊誌の漫画ルポが嗤う。至極もっともだが似たりよったりの週刊誌が四冊も並んでいる方はどうなりますかね。

 という記事が出ていたし(『テレビ』第2号・昭和28年10月)、現に名古屋では、昭和29年(1954)6月に日本初の集約電波塔である名古屋テレビ塔が完成していた。

昭和30年(1955)4月に KRT(TBS)が開局したあとになって、管轄省庁である郵政省は、今後開局されるテレビ局と既存三局のテレビ塔を一か所にまとめようという方針を打ち出した。その結果、昭和32年(1957)5月に設立されたのが、集約電波塔の東京タワー建設を目的とする日本電波塔株式会社であり、その設立者は産業経済新聞社長の前田久吉だった。



『アサヒグラフ』昭和33年(1958)7月6日号「マンモステレビ塔をつくる人々」より。この年の12月23日に完工式が催された東京タワー。この時点では三分の一の高さまで出来上がっていた。

……郵政省のきもいりで、東京の芝公園に、高さ330mのマンモス塔を立てることとなり、その工事が着々と進行し、新設の富士TV、日本教育TVはもちろん、NHK の第二テレビもこれに乗ることとなり、すでに、この三局は調印まですんだ。NHK のテレビ・アンテナは最上段に乗る関係ですでにアンテナ・エレメントは完成、塔下に横たえられ、地上調整を行なっている。
 ところが、既設者のラジオ東京、とくに NTV はがん強に、芝タワーに合流を拒みつづけた。ラジオ東京は、一時スタジオを新設と増力計画を発表、芝移転が実現するかにみえたが、このところ、赤坂の150mの塔を、極彩色に塗り替え、その上、NTV の中継局発表となるや、それに同調し、NTV とともに芝タワーをき避しはじめている。

と、これは東京タワー完成直前の『ラジオ科学』昭和33年(1958)10月号の記事。NTV と KRT(TBS)には民間テレビ局のパイオニアとしての矜恃と意地があった。自社のテレビ塔は彼らの誇りだった。郵政省の肝煎りで始まり、後発のフジサンケイグループが中心だった東京タワー計画に抵抗があったのは当然だった。

しかし、「長い物には巻かれろ」とはよく言ったもので、KRT(TBS)は東京タワー完成の一年後、昭和35年(1960)1月、送信所を自社の赤坂のテレビ塔から東京タワーに移した。一方、正力松太郎率いる NTV は十年以上も抵抗を続けていた。正力が他界した翌年の昭和45年(1970)、NTV はようやく東京タワーに合流し、東京の三本のテレビ塔がすべて予備となった。

テレビ放送と送信アンテナであるテレビ塔について、敗戦後の流れを東京を中心に時系列に示すと、以下のようになる(『日本放送史』『民間放送史』『放送五十年史』『民間放送十年史』『三十年史 日本放送協会技術研究所』『NHK年鑑1954年版』『NHK年鑑1955年版』『テレビラジオ年鑑1956年版』『東京放送のあゆみ』『大衆とともに25年』等の書籍と合わせて、雑誌『放送』『放送文化』『放送技術』『電気通信』『無線と実験』『キネマ旬報臨時増刊 テレビ大鑑・一九五八年版』の記事、当時の新聞記事を参照)

昭和21年(1946)

  • 6月、砧の NHK 技術研究所において、戦争で中断していたテレビジョン(以下、「テレビ」)の研究が再開される。

昭和22年(1947)

  • 9月1日、正力松太郎、巣鴨拘置所から釈放される。

昭和25年(1950)

  • 6月1日、電波法・放送法・電波監理委員会設置法の「電波三法」が施行される。放送法の施行により NHK は一般社団法人から特殊法人へ。民間放送事業者の設置が認められる。電波三法施行とともに免許行政を司る電波監理委員会が設置。
  • 11月、NHK 技術研究所、テレビ定期実験放送を開始。

昭和26年(1951)

  • 1月1日、読売新聞、元日の紙面にテレビ実験局の設置を申請する旨を発表。
  • 4月21日、電波監理委員会、民放初予備免許を16社に与える。
  • 5月26日、第10国会の衆議院本会議で「テレヴィジヨン放送の実施促進決議案」が可決。日本テレビ放送網、ラジオ東京などからテレビ会社の設立計画が発表される。
  • 7月20日、日本民間放送連盟発足。
  • 8月6日、正力松太郎の公職追放令が解除される。
  • 8月13日、正力松太郎、日米提携の「日本テレビ構想」を発表。
  • 8月21日、郵政省大臣官房文書課から電波監理委員会の「テレビジョン標準方式の決定方針」が示される。
  • 8月21日、渡欧中だった NHK の古垣会長が急遽帰国。以降、時期尚早としていた従来の方針を転換して、テレビの本放送の準備を進めることに。
  • 9月1日、中部日本放送(CBC)、新日本放送(NJB)開局。日本で最初の民間ラジオ放送局。
  • 9月4日、正力松太郎と本田親男毎日放送社長、アメリカ人顧問三名、工業倶楽部で記者会見。「テレビジョン事業計画の概要」を発表。「正力テレビ構想」の全容が明らかに。
  • 10月2日、日本テレビ放送網株式会社、電波監理委員会に免許申請。
  • 10月18日と19日、NHK、第16回経営委員会において、NHK テレビ五ヶ年計画が正式決定。
  • 10月27日、NHK、東京・大阪・名古屋各テレビ局および7中継局の本放送の免許を申請。
  • 11月11日、大阪の朝日放送(ABC)開局。
  • 12月1日、福岡のラジオ九州(RKB)開局。
  • 12月24日、ラジオ東京(KR)開局。東京で最初の民間ラジオ放送局。京都放送(KHK)開局。4月21日に予備免許の下りた全16社のうち6社が年内に開局にこぎつけた(以下、ラジオ局の開局は略)。

昭和27年(1952)

  • 1月17日から三日間、電波監理委員会で「白黒式テレビジョン放送に関する送信の標準方式案」をめぐる聴聞会が開かれる。周波数帯幅をアメリカ式の6メガとする NTV の案が採用される。NHK や無線通信機械工業会が主張する7メガ案が退けられる。
  • 6月10日、電波監理委員会、NHK らの「異議申し立ての件」を却下し、6メガ方式を標準とすることに決定。
  • 7月31日、日本テレビ放送網株式会社に予備免許が与えられる。民間テレビ放送の認可第一号。NHK とラジオ東京は留保となる。
  • 8月1日、電波行政が郵政省電波監理局に移る。前日付で電波監理委員会廃止。
  • 10月1日、内幸町の NHK 放送会館の屋上にアンテナが設置され、テレビ実験放送の拠点が砧から内幸町に移転。
  • 11月7日、郵政省、「三大地区(京浜・名古屋・京阪神)テレビジョン放送用チャンネル割当計画」を決定。東京3、大阪2、名古屋2、それぞれ1をNHKとすることに決定。東京2、大阪1、名古屋1が民放に割り当てられる。
  • 11月14日、NHK東京テレビ実用化試験局に予備免許、翌日に本免許が与えられる。
  • 11月15日、NHK東京テレビ実用化試験局、実用化試験放送を開始。
  • 12月26日、NHK東京テレビ放送局に予備免許が下付される。

昭和28年(1953)

  • 1月16日、ラジオ東京に予備免許。
  • 1月26日、NHK 東京放送に本免許。
  • 2月1日、NHK 東京放送、テレビの本放送を開始。内幸町の放送会館屋上のアンテナを使用。
  • 8月3日、麹町二番町に日本テレビ放送網(NTV)の本庁舎およびテレビ塔が完成。
  • 8月27日、NTV に本免許。
  • 8月28日、NTV、開局。日本最初の民間テレビ放送局。
  • 11月3日、紀尾井町の千代田テレビ放送所の NHK のテレビ塔、稼働開始。

昭和29年(1954)

  • 1月16日、ラジオ東京テレビ(KRT)、テレビ鉄塔建設起工式。
  • 3月1日、NHK、大阪と名古屋のテレビ本放送開始。
  • 6月19日、名古屋テレビ塔完成。NHK と CBC の共用アンテナ。日本初の集約電波塔。
  • 10月5月、KRT の局舎の鉄塔にアンテナが搭載され、テレビ塔、完成。

昭和30年(1955)

  • 1月17日、ラジオ東京テレビ(KRT、昭和36年12月1日に「TBSテレビ」に社名変更)、赤坂一ツ木町の局舎落成式。
  • 1月28日、KRT に本免許。
  • 4月1日、KRT 開局。NTV に次ぐ日本で二番目の民間テレビ放送局で、日本初のラジオ・テレビ兼業の民間放送局。

昭和31年(1956)

  • 3月1日、NHK。仙台と広島のテレビ本放送開始。
  • 4月1日、NHK、福岡のテレビ本放送開始(以下、NHKの地方局の開局を略)。
  • 12月1日、中部日本テレビ(CBC)、大阪テレビ放送(OTV、現・朝日放送テレビ)開局。東京以外では初の民間テレビ放送局。

昭和32年(1957)

  • 5月8日、日本電波塔株式会社設立。集約電波塔(東京タワー)建設計画。
  • 7月8日、富士テレビジョン、日本教育テレビ(NET、現・テレビ朝日)、大関西テレビジョン(関西テレビ)に予備免許(以下、免許関係を略)。

昭和33年(1958)

  • 3月1日、ラジオ九州(現・RKB毎日放送)、福岡でテレビ本放送開始。
  • 6月1日、山陽放送、岡山でテレビ本放送開始。
  • 11月22日、関西テレビ、本放送開始(以下、東京以外のテレビ局開局を略)。
  • 12月23日、東京タワー完工式。

昭和34年(1959)

  • 1月10日、NHK 教育テレビ開局。東京タワーから送信。
  • 2月1日、NET(現・テレビ朝日)開局。東京タワーから送信。
  • 3月1日、フジテレビ開局(以下、テレビ開局を略)。東京タワーから送信。
  • 4月5日、NHK 総合放送、教育テレビと入れ替えに東京タワーからの送信を開始。教育テレビは総合放送と交代して紀尾井町の千代田放送所から送信。

昭和35年(1960)

  • 1月17日、KRT、送信所を東京タワーに移す。赤坂のテレビ塔は予備に。
  • 1月17日、NHK 教育テレビ、東京タワーからの送信を開始。千代田放送所のテレビ塔は完全に予備に。

昭和43年(1968)

  • 5月10日、NTV、「正力タワー構想」を発表。東大久保一丁目の社有地に550メートルのテレビ塔を建てる計画。

昭和44年(1969)

  • 2月、NHK、代々木の放送センターの敷地に650メートルの塔を建てる計画を発表。
  • 10月9日、正力松太郎他界。

昭和45年(1970)

  • 1月、郵政大臣のあっせんにより NTV と NHK のタワー計画の一本化が決まり、正力タワー計画頓挫。
  • 11月10日、NTV、東京タワーに送信所を移設。麹町のテレビ塔は予備に。

昭和55年(1980)

  • 8月、麹町二番町の NTV のテレビ塔、解体完了。

平成3年(1991)

  • 3月、紀尾井町の NHK のテレビ塔、解体完了。

平成7年(1995)

  • 3月、赤坂の TBS のテレビ塔、解体完了。

……以上、自分用の覚書きのためにこしらえたつもりが、ことのほか長大になってしまったが、要するに、昭和26年(1951)9月に大阪と名古屋で民間ラジオ放送が始まったのとほとんど時を同じくして、東京でテレビ放送の準備が NHK と民放の双方で始まり、NHK と NTV が熾烈な競争を展開して、昭和28年(1953)に開局にこぎつける。そのあとを追いかけるようにして KRT(TBS)が昭和30年(1955)に開局する。この時点で、東京の空の下にテレビ塔が三本立った次第だった。

*

以下、画像とともに1920年代から50年代のテレビ局開局までの放送史を概観してみよう。

 


《愛宕山上の一大奇塔(八分通り出来た東京放送局)》、「東京朝日新聞」大正14年(1925)6月7日付。7月1日に本放送開始。NHK の前身である東京放送局(JOAK)によるラジオ放送は、まず大正14年(1925)3月22日に芝浦の東京高等工芸学校の仮スタジオで始まり、四ヶ月後の7月12日、愛宕山の新局舎から本放送が開始された。日本放送史の幕開けである。


《東京中央放送局》、『東京横浜復興建築図集 1923-1930』(丸善・昭和6年2月)より。


《東京中央放送局》内藤多仲、木子七郎設計・清水組施工・大正14年(1925)、『建築の東京』(都市美協会・昭和10年8月)より。

1920年代東京の代表的な都市風景のひとつ、標高26メートルの愛宕山の山頂に建つ放送局はどこかキッチュで、一年前に開場していた築地小劇場の舞台装置を彷彿とさせる。これら二本の鉄塔の高さは45メートルだった。大正14年(1925)に早稲田を卒業して、開局早々に放送局に就職した久我桂一は後年、《この鉄塔には梯子が取り付けられてあるので、天気のよい静かな日などには頂上まで登った事もあった。》と回想していて(「東京放送局開局前後の思い出」、『放送技術』昭和49年4月号)、実に微笑ましいのだった。さぞ絶景だったことだろう。


《東京中央放送局新郷放送所》内藤多仲設計・清水組施工、『建築の東京』より。

東京放送局と同年の大正14年(1925)、6月に大阪放送局、翌7月に名古屋放送局が開局した。翌年、東京(AK)・大阪(BK)・名古屋(CK)の放送局は逓信省の方針で統合されることとなり、大正15年(1926)8月6日、社団法人日本放送協会が成立している。東京放送局においては、昭和3年(1928)5月、現在の埼玉県川口市に新郷放送所が完成し、放送網が全国的に広がった。

甲子園の野球の模様がゐながらにして東京でわかり東郷元帥や濱口さんの声も行儀の悪い者なら畳の上にねそべつて聞くことが出来、又最近には、国際放送に成功して海の彼方のロンドンでしやべつてをる若槻軍縮全権の声が聞え、海山万里の異郷にありながらこれを聴いた若槻さんの奥さんは喜びに喜んだという、まるで地球を跨いだやうな素晴しい話ぢや。

と、昭和5年(1930)刊行の東京案内記、『新東京俺らが見物』(交蘭社・昭和5年7月)の東京見物のご老人が語っている。

幸ひ倅の知人が放送局に勤めてをるといふので怖いもの見たさにノコ/\行ツて見学を申し入れると、快く承知してくれて、講演用の放送室、邦楽用の放送室、洋楽用の放送室などを見せてくれた。何でも新郷放送所が出来てからは放送設備は廃止になつて只演奏所として使われとるそうぢや。つまり愛宕山の演奏室で徳川夢声やら井上大蔵大臣などが、マイクロフォンに声を吹き込む。と、その声が線を伝つて新郷の放送所に送られ、こゝで改めて五十メートルの高塔から十キロワツトの電力で、全国各地の家庭へゆくといふ装置なのぢやさうな。

と、わかりやすく解説してくれているご老人は放送局の外に出ると、今度は愛宕山の階段を下り、《山の下の舗装道路を南へ向ふ。恰度放送局の真下あたりで、フト右側を見ると、しきりに穴をあけとる。》と、びっくり仰天。

このときちょうど、愛宕山トンネルの工事の真っ最中だった。それまでは愛宕山の周囲をぐるっと迂回する必要があったため、愛宕山を挟んでの東西の交通の便宜のために掘られたトンネルは、昭和5年(1930)8月12日に完成した(『港区の文化財 第8集 新橋・愛宕山付近』東京都港区教育委員会・昭和47年3月)


『〈東京朝日新聞市内特別附録〉帝都復興記念写真帖』(昭和5年3月24日発行)より、工事中の愛宕山トンネルの写真。


《新東京風景十二景(其の六)愛宕山トンネル道》、『建築画報』昭和5年10月号。


藤森静雄《愛宕山放送局》昭和4年(1929)、『新東京百景』(平凡社・昭和53年4月)。


小泉癸巳男《愛宕山放送局》昭和7年(1932)8月作、『版画東京百景』(講談社・昭和53年3月)。

創作版画において、昭和4年(1929)の藤森静雄は鉄塔をメインに描いているのに対し、昭和7年(1932)の小泉癸巳男はトンネルの方をメインに描いているのが面白い。大正15年(1926)10月から嘱託職員として週一回愛宕山に通っていた久保田万太郎は、昭和6年(1931)8月に東京中央放送局演劇課長兼音楽課長に就任し、常勤職員として毎日出勤することになった。愛宕山の都市風景の変化を目撃していたであろう万太郎は、昭和7年(1932)に「愛宕山」の前書きで「石段の涼しき高さみ上げけり」の句を詠んでいる。このとき万太郎の目の前には愛宕山トンネルがあったのだろう。


『コドモノテキスト』昭和7年(1932)4月号。放送局による子供向けテキストは、昭和2年(1927)8月に大阪中央放送局が夏期特別講座開設に際して発行したのが最初で、その後、御大典に合わせて昭和3年(1928)11月5日に全国中継放送網が完成したのを機に、東京中央放送局から全国的に月刊誌として刊行されることになった(『日本放送協会史』日本放送協会・昭和14年5月)。ちなみに、ラジオ体操も「ご大礼記念事業」の一環で始まっている。


『コドモノテキスト』は、1920年代の日本における児童文学の成立期(上笙一郎「〈子どもの本〉の裾野 1920年代の大衆的児童文学」、図録『子どもの本 1920年代』)を体現するような、当代きっての童画家たちが綺羅星のごとく集う上質の誌面にうっとりするばかり。


昭和7年(1932)4月13日に、工学士・大石義郎による「コンクリート」をテーマにした談話が放送されていて、その紹介のページには、聖橋(昭和2年7月竣工)、出来立てほやほやの省線上野駅(昭和7年4月竣工)とともに、東京放送局の真下の愛宕山トンネルの写真が掲載されている。大石先生は、今わたくしのいる放送室の真下にあるトンネルです……と全国の子供たちにマイクロフォン越しに語りかけていたのかな、と想像してみる。


東京中央放送局跡地には現在、NHK放送博物館がある。放送局が昭和14年(1939)5月に内幸町に移転後、愛宕山の建物は放送文化研究所として使用され、昭和31年(1956)3月3日に放送博物館が旧JOAK演奏所(放送局)の2階と屋上を使用するかたちで開館。その後、昭和41年(1966)に老朽化により取り壊しとなり、昭和43年(1968)9月11日に現在の建物が竣工した(『放送博物館の60年』)。その一方、愛宕山トンネルは1930年代東京の遺構として今も健在。

NHKの全国中継線は、昭和3年(1928)11月の昭和天皇の御大典に合わせて整備された。その後、共同編成が次第に本格化し、満州事変後の昭和9年(1934)5月、支部制が廃止され、東京、大阪、名古屋、広島、熊本、仙台、札幌の各中央放送局が設置されて、ここに NHK の中央集権化が完成した。



ついでに、参考画像として、絵葉書《御大典奉祝 京都駅前奉迎門》。


……と、1920年代から30年代にかけて、新しいメディアであるラジオ文化が花開いている一方で、テレビの研究も着実に進められていた。昭和5年(1930)4月に東京府北多摩郡砧村の地に NHK 技術研究所が竣工し、6月に業務を開始していた(『三十年史 日本放送協会技術研究所』日本放送協会・昭和36年8月)。そして、テレビ研究ががぜん本格化するのは、昭和十年代に入ってからだった。


昭和9年(1934)11月6日付「東京朝日新聞」夕刊の記事《研究団体握手してテレヴイ実用時代へ前進〉。《世界のテレヴイジヨン界で決してひけをとつてはゐないといふ日本テレヴイジヨンをこの上進歩させるのには是非研究家の団結協力が必要だといふので、今まで寧ろ競争的にそれ/″\研究をすすめてゐた浜工、早大、電気試験所、東京電気、日本電気のテレヴイジヨン研究諸家が八日午後六時から丸之内鉄道協会で始めての合同後悔講演会を開くころになつた》。


昭和11年(1936)5月30日付「読売新聞」朝刊の記事《テレヴイの本山 いよ/\店びらき》。NHK技術研究所は浜松高等工業学校の高柳健次郎を迎えて陣容を一新し、既存の砧の研究所も大増築し、テレビ研究に邁進するとの記事。青葉の武蔵野に尖端科学の殿堂!

昭和11年(1936)8月1日付けの新聞各紙が東京オリンピック開催決定を報じた。昭和15年(1940)のオリンピックが東京で開催されることが決定したことで、テレビ研究は、オリンピック中継という格好の目標を持つこととなった。


昭和12年(1937)8月6日付「読売新聞」朝刊の記事《本社機上から撮影した〝村〟の建設地砧台》。オリンピック村が、NHK技術研究所と P.C.L.撮影所の中間を占める空き地に建設予定と報道されている。《地勢は高燥で眺望もよく道路の改修により外苑まで自動車行程約廿分と予定されてゐる》とある。が、翌年、オリンピック村は入江雄太郎の設計で駒沢に建設されることが決定された(夫馬信一『幻の東京五輪・万博1940』原書房・2016年1月)

戦前のテレビ研究について、『テレビラジオ年鑑1954年版』の序説では、以下のように解説されている。

昭和2年に浜松高工の高柳健次郎氏、早稲田大学の山本忠興氏、逓信省電気試験所の曾根有氏、安藤博氏などが独自で研究を始め、それに NHK、東京芝浦電気株式会社などが加わり、東京で開催を予定された、世界オリムピック大会のテレビ実況放送の実現を目ざして、全力をあげて研究を進めた

官民双方の研究者がそれぞれにテレビ研究に邁進しており、テレビ研究の目標となっていた東京オリンピックの中止は昭和13年(1938)7月15日にすでに報道されていたものの、昭和15年(1940)には定期的に実験放送が実施されていたりと、テレビ研究は着実に進展していた。



《JOAK…こちら東京中央放送局であります……が出来上りました》、『セメント工業』昭和13年11月号より。昭和13年(1938)12月、内幸町に JOAK の放送会館が落成。愛宕山での放送は翌14年(1939)5月12日をもって終了し、翌13日から内幸町から放送が開始された。放送会館の落成式に際して、テレビの実験放送が実施されることとなる。


昭和14年(1939)5月12日付「読売新聞」朝刊の記事《テレヴイけふ開眼》。《芝居や野球が居ながら見られる〝科学の脅威〟テレヴイジヨン放送を目指す日本放送協会では世田谷区鎌田町の技術研究所に百万円テレヴイスタヂオを設置 着々と準備を進めてゐたが、百メートルの大鉄塔も去月工事完成し、劃期的なテレヴイ電波を放射する短波用指向性アンテナはけふこの大鉄塔の尖端に取りつけられることになり、こゝにテレヴイの諸施設は完了》。そして、5月15日午前11時に実験放送は開始され、内幸町の放送会館の屋上の「テレヴイ受像室」にて画像をキャッチ、実験成功! 放送会館でテレビの試写を見た小林秀雄は、

影像は、思つたより鮮明なものであつた。二ユース映画が映つたり、砧村の技師が映つたりした。技師はいかにもテレ臭さうな恥かしさうな顔をして、こちらは安定してをります、いかゞですか、よく映りますか、と繰返し繰返し同じ事を言つた。
(中略)振返ると砧村から見に来た友人の技師であつた。彼はいかにも嬉しさうだつた。僕の肩を叩き乍ら興奮した早口で、いろいろ僕にはわからぬ説明をした。僕はわからぬ儘に愉快であつた。

と当日のことを綴っている(「東京朝日新聞」昭和14年5月21日付朝刊)


このとき、砧のNHK技術研究所は100メートルの三角鉄塔を新築、『テレビ放送アンテナ五十年史』(テレビ放送アンテナ50年史編集委員会・1989年3月)より。


昭和14年(1939)9月20日付「読売新聞」朝刊の広告、日本橋髙島屋の8階で芝浦電機株式会社主催により《テレビジョン完成発表会》が開催されている。


昭和15年(1940)1月11日付「東京朝日新聞」夕刊広告。文化映画『テレヴイジヨンの話』が上映されている。


昭和15年(1940)の東京オリンピック中継を目指して盛り上がったテレビ研究は、昭和13年(1938)7月に東京オリンピック中止が決まってからも停滞することなく、着実に進展していた。しかし、昭和16年(1941)には NHK 技術研究所は時局向きの研究に重点を移行することとなって、テレビ研究は中断を余儀なくされる。テレビ研究は敗戦後、NHK 技術研究所では昭和21年(1946)6月に再開され、東京芝浦電気株式会社、日本ビクター株式会社、日本コロムビア株式会社、日本電気株式会社などでも研究が進められていたという。

 


『子供の時間』昭和23年(1948)10月号「NHK 技術研究所をたずねてー勇君の日記よりー」。

十一月○日 天気 晴
 今日は、同級の進君とその妹さんのヒロミちやんの三人で、NHKの技術研究所を見学した。
 新宿から小田急電車で約三十分、祖師谷大蔵駅におりると、すでに高いアンテナ塔が左の方に見えている。

勇君と一緒に見学していた進君は、「アメリカではもう、三〇ものテレビ放送局があつて、毎日、スポーツやドラマ、ニュースなどの放送をやり、各家庭では、たのしくこの放送を見聞しています」という技師さんのお話を聞いて、「日本でも早く、テレビジョン時代が来るといゝなあ」と強く思うのだった。このとき、所長さんは子供たちにテレビ放送は、「日本ではまだ大分先の話」と語っていたけれど、この記事の五年後、昭和28年(1953)に実現する。

昭和25年(1950)6月1日の電波三法の施行により民間放送事業が認められ、翌年民間放送局が次々に誕生した。と、民放元年となった昭和26年(1951)8月、正力松太郎がアメリカと協力して民間テレビ局を開設するという構想を発表したことから、NHKと熾烈な対立が生じた。その結果、NHK が当初想定していたよりもずっと早くにテレビ放送が実現することとなった。


昭和26年(1951)9月、中部日本放送と新日本放送の二局が開局、日本初の民間放送局は名古屋と大阪で誕生したのだった。新日本放送(NJB)のスタジオは阪急百貨店の屋上に設けられた、中部日本放送編『民間放送史』(四季社・昭和34年12月)より。


昭和28年(1953)、銀座四丁目交差点の服部時計店に「祝 NHK東京テレビジョン二月一日開局」の垂れ幕、『NHK年鑑 1954年版』より。

 昭和28年2月1日の日曜日は、わが国の放送文化史上に、忘れることの出来ないものとなった。すなわちこの日を期して、日本ではじめての、テレビジョンによる、本格的な放送が開始されたのである。
 午后2時「JOAK-TV。こちらはNHK東京テレビジョンであります……」というコールサインのアナウンスから、NHK古垣会長の挨拶に始まって、内閣総理大臣、郵政大臣、衆参両議院長、東京都知事の祝日が終ると、尾上梅幸、尾上松緑、坂東彦三郎ほか、菊五郎劇団の方々による、舞台劇「道行初音旅」でスタートした。(『NHK年鑑 1954年版』)

この半年後、同年8月28日に NTV が開局した。この年の2月と8月に立て続けに東京でテレビの本放送が開始された背後には、 NHK と NTV の熾烈な攻防があった。東京にテレビ塔が三本も立ってしまったのも、NHK と NTV の攻防の産物だったともいえる。NHK には戦前から地道にテレビ研究に邁進してきたという意地と矜持があった。

昭和28年(1953)2月に NHK、同年8月に NTV が競うようにして、テレビの本放送を開始した東京の空の下、昭和28年(1953)8月に麹町二番町の NTV、同年11月に紀尾井町の NHK、翌29年(1954)10月に赤坂一ツ木町に KRT(TBS)のテレビ塔が完成し、2キロに満たない直線上に三本のテレビ塔が鼎立していた。高さは三本ともほとんど同じ、てっぺんのアンテナを含めると、約180メートルだった。


昭和30年(1955)1月7日付「朝日新聞」朝刊「テレビ三つどもえ」。同年4月1日に開局する KRT(TBS)のテレビ塔は半年前の前年10月に完成、1950年代東京の空の下、テレビ塔が鼎立する新しい都市風景が誕生した。

アメリカの RCA から買った十二段スーパーターン・スタイルのアンテナをのせた地上百七十二メートルの鉄塔が銀色のペンキでお化粧、東京のスカイラインに優美な線を描いて、先輩の NHK テレビ、日本テレビ(NTV)の鉄塔と高さを競っている。

 手前が KRT(TBS) 、右端が NHK、中央に小さく見えるのが NTV のテレビ塔。

そして、この二年後に、昭和32年(1957)5月に日本電波塔株式会社が設立され、翌33年(1958)12月には東京タワーが華々しく竣工する。約180メートルの三本のテレビ塔は、全長333メートルの高さを誇る東京タワーの影に霞む存在となってしまった。はじめから集約電波塔が作られていれば、三本のテレビ塔など不要だったのだ。結果的にはそうなってしまう。


『乗りもの早わかり 東京案内』(観光展望社)の内「東京観光案内図」より。三本のテレビ塔と東京タワーの位置関係。

東京タワー完工式の数ヶ月前、『中央公論』昭和33年(1958)4月号に「テレビ塔の風あたりー編集局長の言い分ー」と題する座談会が掲載されている。ラジオ東京テレビ編集局長・今道潤三、日本テレビ放送網編集局長・久住悌三、NHK編集局長・前田義徳が出席、三本のテレビ塔の当事者による座談会である。文芸評論家の十返肇が司会を務めている。

「ところで、非常に高いテレビ塔が各所にできているわけですが、ニューヨークでさえ一つしかないのに、日本ではやたらにテレビ塔が立つのは無駄でぜいたくなことではないかという世論があるようですが、これはいかがですか。」

 というふうに、司会者が東京タワー問題について言及している。ニューヨークの場合は、エンパイア・ステート・ビルディングに電波塔が設置されている。十返肇の問いに対して、三本目のテレビ塔の当事者であるラジオ東京テレビの今道編集局長は、

「東京では、一番先に NTV が許可をとつて塔を建てたわけですね。次に NHK が鉄塔を作つた。当時、共同で使つたらいいじやないかという声がやかましかつたので、われわれもテレビ塔を作ろうと思つたが、NHK がテレビ塔を作つたときに、うちも乗つけてもらえないかとお願いしたわけです。ところが、NHK では NHK しか使えないような鉄塔になつているから、僕らの方は乗せられないというわけなんです。仕方なくうちでも作つたというわけなんで、これは政府の責任です。最近、今までのどのテレビ塔よりも高いテレビ観光塔というのができるんで、その方がエリヤ(電波の及ぶ範囲)が広がるから、お前らもこつちに移つてこないかと郵政省がいつている。これはおかしな話なんで、かつて政府の希望によつて NTV、NHK、KRT ともに高さ百五十メートルの鉄塔にした。今になつて、テレビ観光塔の乗つけないかというのは無茶な話ですよ。移るといつても、そのためには今までのものをとりこわしたりなんかで、二億五千万円から三億円の金がかかる。その金は自分たちで出して、こつちへ移れという、こんな無茶な話はないですよ。」

と憤懣やるかたない思いを吐露している。公式の社史である『東京放送のあゆみ』(昭和40年5月刊)においても、昭和28年(1953)2月当時のテレビ放送施設計画では送信アンテナ施設は NHK と鉄塔を共用する計画となっており、この発言を裏付けることができる。

KRT(TBS)の編集局長は NHK を非難しているわけではなく、国営放送と民間放送が互いに協力するという仕組みが、テレビ塔建設当時の東京では整っていなかったということを言いたかったのだと思う。一方、NTV の言い分を見てみると、

 日本テレビ放送網のテレビ塔の塔脚日一日と点に向かって延びて行くに従って、その威容は世間の人の目をみはらせると同時に、この東京に同じようなテレビ塔が2本も3本も建つということは、いかにもむだ使いだという声がささやかれた。
 暮れも押し迫った昭和27年12月に、「この鉄塔をNHKと共同で使用してはどうか」と、正力松太郎は、同郷のよしみで NHK の小松繁副会長に申し入れた。その際、小松副会長は検討を約した。
 しかし、日本テレビが第1号予備免許を獲得して以来、NHKは敵意を燃やしていたこともあり、表面上は「法律上、商業放送と設備共用は不可能」と回答し、裏面で「日本テレビは資金難から、鉄塔の共用を申し入れてきた」といううわさを流し始めた。正力の国益を配慮しての意は、ここでも曲解された。
(中略)
 こうした経緯から、その後、 日本テレビ、KRT(現TBS)、NHKと3本の鉄塔が散在する結果となり、この例にならって、福岡市などでも個々バラバラにテレビ塔が建てられるということになる。

というふうに、公式の社史である日本テレビ放送網株式会社社史編纂室編集『大衆とともに25年』(昭和53年8月)において、NHKに対する敵意むき出しの書きぶりなのだった。

麹町二番町と紀尾井町に二本のテレビ塔が完成した翌年、昭和29年(1954)6月19日に竣工式が挙行された名古屋テレビ塔と、東京タワーの前年、昭和32年(1957)に完成した札幌のテレビ塔は完成当初から NHK と民間放送局の共同のテレビ塔だった。


名古屋テレビ塔、『国際文化画報』昭和34年(1959)2月号より。《こんど東海テレビが開局すると、NHK、CBC と三局になり、テレビ塔から流れる電波合戦は華やかになる。塔の展望台からはアルプスや伊吹山、岐阜が望める。》とある。

名古屋テレビ塔株式会社は昭和28年(1953)7月1日、NHK、CBC、愛知県、名古屋市、名古屋経済界の主要企業が結集して設立された。日本で初めての集約電波塔は、NHKと民放、官民が一体になって完成したものであった(『名古屋テレビ塔 50年の歩み』名古屋テレビ塔株式会社・2004年6月)。ちなみに、札幌テレビ塔の設立を目的とする北海道観光事業株式会社は昭和31年(1956)6月、名古屋テレビ塔にならって設立されており、昭和32年(1957)8月24日に竣工式が催された(『札幌テレビ塔二十年史』北海道観光事業株式会社・昭和53年3月)

テレビの送信アンテナはなるべく高い方がよい。東京や名古屋のような平野の都市では町中の高台にテレビ塔が建てられ、関西のように近くに格好の山のある都市では、山頂にテレビ塔を建てることになる。



よって、関西の場合は、生駒山の山頂に各放送局の鉄塔が林立している。入江泰吉撮影「寒冷線上のテレビ塔群」、『真珠』第35号(近畿日本鉄道会社、昭和35年7月)より。

寒冷線生駒山は、海抜642メートル。山上には左から NHK、NHK教育、毎日、関西、朝日、読売の6本のテレビ塔が聳え、中央にあかるく輝いているのが、生駒山のシンボル東洋一の飛行塔。左手の山を縫って見えがくれしているのが、大阪、奈良を結ぶドライブウェイです。

昭和29年(1954)3月1日、NHK 大阪局の開局式の際に稲葉 BK 局長は「近畿日本鉄道が生駒山頂に400坪の土地を提供され、東芝苦心の作である初の国産10kW放送機が据え付けられたのをはじめ、山頂には50米の鉄塔が設置され、優秀な施設が完成しました」と挨拶し、東芝と近畿日本鉄道に感謝状が贈られている(『NHK年鑑1955年版』)


アサヒビールの広告課員だった三十代の三國一朗は、昭和28年(1953)にテレビの民間放送が始まったことで急に仕事が増えた。《放送局や、広告代理店と協力して、毎週三つずつテレビ番組をつくらなければならないことになった》三國一朗は、当初はビール会社の広告課員として裏方の仕事をしていたが、昭和28年(1953)12月にアサヒビール提供番組『何でもやりまショー』の司会者を務めることになった。


三國一朗『私は司会者』(角川書店・昭和36年12月)。装幀・カット:おおば比呂司。

民間放送の黎明期の現場にいた三國一朗は「レコードにまたがる人たち」という一文に以下のように書いている。

 昭和二十五年初頭、東京をエリアとする二つの割当電波をめぐって、民間放送出願各社がはげしい争奪戦を演じていたころ、内幸町二丁目の放送会館(NHK)四階の CIE ラジオ課には、アメリカ商業放送出身のベテランが顔をつらねていた。(中略)その中に放送技術専門のウィリアム・ヘイムスという男がいた。皆から〝ビル〟〝ビル〟とよばれるこのヘイムスは、非常に無口で、大きなロイド眼鏡を鼻から少しずり落ちるようにかけ、いつもゆっくり歩きまわっている猫背のやせた大男であった。
(中略)
 ビルの仕事は、民放開始についてお伺いをたてにやってくる日本人技術者の相談にのってやることと、きたるべき日本民間放送ネットワークの実施案をつくるために、日本中をくまなく旅行して歩くことだった。
 彼は一見なにもしない男のようであったが、日本民間裏面史にのこる大仕事を少なくとも二つはやってのけている。一つは正力松太郎氏の私的コンサルタント(相談相手)として、正力氏が日本でのテレビ放送の認可第一号を獲得する手助けをしたこと、もう一つは一〇〇パーセント絶望視されていたラジオ東京の「十二月二十四日出力五〇キロワット処女電波発射」を、太平洋、東南アジア両地域をまたにかけての一大暗躍によって実現させたことである。いま埼玉県北足立郡戸田町に立っている JOKR の送信塔[トランスミツター]は、実はこの、猫背のビル・ヘイムスの打った大芝居によって、アメリカからギリギリに届いたものである。

 ビル・ヘイムスは、ラジオ東京の『イングリッシュ・アワー』の発案者でもあった。

KRT(TBS)の公式の社史である『東京放送のあゆみ』でも、昭和26年(1951)5月の創業当初から連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)と接触していたことが明記されており、三國一朗が回想している戸田町の「送信機用真空管五六七一」の到着が「GHQのかげの尽力」によりギリギリ間に合ったこともしっかり記録されている。テレビの事業化を目指す人びとにとって、アメリカの協力が必須だった。

敗戦後の占領時代 CIE の本部が内幸町の放送会館に置かれ、NHK の番組編成も検閲と直接指導を受けていた。占領下の不遇時代、NHK は再三 GHQ に陳情し、放送事業に邁進していた。NHK と KR がそれぞれに GHQ との密接な関係を築いていた一方で、GHQ のみならず GHQ を飛び越えてアメリカと直接連携するという、怪物じみた政治力を発揮して、日本のテレビの実現のために奔走したのが正力松太郎だった。

NHK と NTV の攻防の原因となった「正力テレビ構想」とは、《占領当局、日本政府、NHKなどの間で支配的だったテレビ尚早論を避け、米国との技術提携の下に、全国単一のテレビ放送網をつくろうというもの》(『民間放送50年史』)だった。

中部日本放送編『民間放送史』(四季社・昭和34年12月)には、

この一片の計画の前に、実際には NHK はもちろん、中央、地方の新聞はじめ言論界、映画界など関係筋が、がくぜんいろを失ってしまったのには理由があった。それは正力氏らの工作が GHQ をとびこえて米本国の国際・外交政策の中枢に及び、共和調印後の日米提携の太い協力な政治ラインに係わりをもつ計画となっていること、それだけにテレビに関する米国内の技術水準が文化様式ぐるみで一挙に導入され、過去の日本テレビ研究歴などそんなものに何の顧慮もなく、むしろまったく断絶したかたちで移植される可能性がにわかに身近に感じられたためであった。

というふうに生々しく語られている。戦前から地道にテレビの研究に励んでいた NHK や各メーカーの面目は丸つぶれであった。「正力テレビ構想」では《朝日・毎日・読売3新聞が協力し、またNHKや民放ラジオ各社とも手を握る意向》(『民間放送50年史』)であったが、NHK や KRT(TBS)はそれぞれ独自にテレビ局を開局することとなり、NHK は「NHK一本、民営反対」をスローガンに公共放送としての立場にこだわり、東京のテレビ局は三つ巴の状態となった。その結果が三本のテレビ塔だった。

最初から協調体制がとられていたならば、名古屋のように、東京にもはじめから集約電波塔が建てられていたことだろう。三本のテレビ塔は、占領下の東京の混沌の産物だったといえるかもしれない。しかし、ほどなくして東京タワーが建てられたにしても、昭和28年(1953)から翌年にかけて、東京の山の手の高台に次々に建てられた三本のテレビ塔は、敗戦と占領期を経て新しい時代へ向かって行くようにして、青空にのびゆく三本の鉄塔として人びとの目に映ったことだろう。



虎ノ門方面から霞が関ビルの工事現場をのぞむ、『カラー版 新しい東京』(現代芸術社・昭和42年7月)より。《日本で最初の三十六階建ての超高層ビルの工事現場。耐震研究の発達で、続々と超高層ビル建築が計画されている。》とある。

日本で初めての超高層ビル、霞が関ビルディングは昭和42年(1967)3月に着工、翌43年(1968)4月に竣工した。それまでの法律では建物の高さが31メートル(9階から10階程度)に制限されていた。昭和36年(1961)6月5日の建築基準法改正による特定街区制度の制定、および柔構造と呼ばれる耐震技術の開発により高層建築への道が開けたことから実現した霞が関ビルディングは、東映映画のタイトルのとおりに「超高層のあけぼの」となった。


田沼武能撮影《東京上空に高くそびえるのは東京タワーと霞が関ビルだけであった。(1968)》、田沼武能写真集『東京の戦後』(筑摩書房・1993年8月)より。

最後まで意地を張っていた NTV が東京タワーに合流したのは、昭和45年(1970)11月だった。同年6月1日、建築基準法改正で絶対高さ規制が廃止されていた(諸星智章、加藤仁美「建築基準法・都市計画法における絶対高さ規制の変遷に関する研究(https://www.jstage.jst.go.jp/article/journalcpij/40.3/0/40.3_265/_pdf)」、『都市計画論文集 40.3巻』2005年10月)。NTV の社史は、霞が関ビルディングの竣工した昭和43年(1968)頃から、《都心部のビル高層化ラッシュにより、ビル陰や反射電波によるゴーストのため難視聴地域が生じていた。》と報告している。

都電廃止の翌年に竣工した霞が関ビルディングを皮切りに、高層ビルがどんどん建っていく1970年代の東京の空の下で、三本のテレビ塔はますます影の薄い存在となり、やがて、ひっそりと消えてゆくこととなった。

川島雄三の映画をきっかけに、東京タワーより先に立っていた三本のテレビ塔がそこはかとなく気になるようになった。『続飢える魂』のロケ地として登場する日本テレビのテレビ塔、『 「赤坂の姉妹」より 夜の肌』に幾度か印象的に映し出される KRT(TBS)のテレビ塔……。赤坂台地の直線にすると2キロに満たない地点に立っていた三本のテレビ塔、かつてテレビ塔のあった町はいずれも、日ごろから大地の起伏を楽しみつつ歩いているおなじみの界隈だった。

今も近くを通りかかるたびに、かつてのテレビ塔のある都市風景を空想する。昔の映画やテレビドラマを見るたびに、その界隈のロケーション撮影のシーンになるとひょっこりテレビ塔が映るかもと目を凝らす。古い本や雑誌で東京風景が現れると、まずはテレビ塔を探す。1950代東京のあだ花のような三本のテレビ塔に対する、わたしの愛着は増すばかりなのだった。

というわけで、東京の三本のテレビ塔について、一度じっくり書き留めておきたくなった次第だった。

次回は「テレビ塔のある風景」と題して、東京タワー以前に建てられた東京の三本のテレビ塔について、その都市風景を中心に個別に書き連ねてゆく予定。



麹町二番町のNTVのテレビ塔(1953年8月~1980年8月)

一番早くに完成して、一番最初に取り壊されたテレビ塔。展望台を無料で開放して、一時期観光名所にもなっていた。この絵葉書はその売店に売られていたものと思われる。

 


紀尾井町の NHKのテレビ塔(1953年11月~1991年3月)

『増補 写された港区 四(赤坂地区編)』(港区教育委員会・2008年3月)より、昭和36年頃の赤坂見附。交通の要所である赤坂見附の近くに建っていたので、無意識のうちに一番多くの人びとが目にしていたテレビ塔だったかもしれない。昭和29年(1954)封切の映画『ゴジラ』のなかで破壊されるテレビ塔も、この塔が想定されているらしい。

 


赤坂一ツ木町のTBSのテレビ塔(1954年10月~1995年3月)

東京放送社史編集室編『東京放送のあゆみ』(昭和40年5月)に掲載の写真。もっとも遅くに完成し、最後まで残っていたテレビ塔。長らく近衛歩兵第三連隊のあった高台に、戦後は民間テレビ局が建てられたという変転がしみじみ味わい深いのであった。