上田電鉄にのって別所温泉へゆく。

 

十一月朔日、一泊二日の別所温泉旅行へ出かけた。


まずは、東京駅から新幹線に乗って、正午過ぎ、上田駅で下車。上田駅と聞いて、まっさきに思い出すのは、戸板康二著『役者の伝説』(駸々堂、昭和49年12月25日)に登場する

 信州に疎開するために、汽車に乗ったのが昭和二十年三月、たまたま別の二等車に、別所にゆく花柳章太郎が乗っていた。予めビスケットを届けておき、上田で降りた時、プラットフォームを走って、羽左衛門の客車までゆくと、南京豆を返礼にくれた。
 「市村羽左衛門が花柳章太郎に贈る。ヘッそいつが南京豆、これも戦争のたまものかい、有難くできてらァ」といったと、花柳が追悼文に書いている。
 悲しい話なのに、陰気でないのは、二人の人柄だ。

という、十五代目羽左衛門とは花柳章太郎のエピソードなのだった*1。このとき羽左衛門は終焉の地となる、湯田中へ向かっていた。信越本線の長野駅で下車して、長野電鉄に乗り換えて、その終着駅湯田中へ向かったのであろう。一方、花柳の方は上田で下車して、おそらく上田電鉄に乗り換えて、その終着駅に向かったのであろう。


二年前、2017年10月に初めて湯田中温泉に出かけた。東京駅から長野駅まで新幹線、長野電鉄で長野駅から終点・湯田中駅という経路だった。羽左衛門の終焉の宿・よろづやはたいそう素晴らしかった。長年の念願だった湯田中温泉行きの次はぜひとも、昭和20年3月、羽左衛門が疎開に向かうときに同じ汽車に乗り合わせていた花柳章太郎の目的地だった別所温泉に出かけたいなと思った。が、去年は行き損ねてしまい、今年ようやく、実現の運びとなった。


湯田中温泉と別所温泉は、名優ゆかりの温泉というのみならず、新幹線の駅で下車してローカル私鉄に揺られて終着駅の温泉に向かうという経路という点でも共通している。2007年10月に福島県の熱塩温泉へとはるばる出かけたことがあった。当時、熱塩温泉が紹介されている山口瞳著『温泉へ行こう』と、日中線が紹介されている宮脇俊三著『終着駅へ行ってきます』を二冊合わせて読んで、「温泉へ行こう」と「終着駅へ行ってきます」の二点が同時に実現する温泉旅行は格別だなあとしみじみ思ったことだった(日中線はすでに廃止されていたので、バスで行ったのだけれども……)。2年前の湯田中温泉に引き続き、このたびの別所温泉旅行もまさしく、「温泉へ行こう」+「終着駅へ行ってきます」の同時実現である。


しかし、なんということだろう、台風19号による災害で10月13日、上田電鉄の千曲川橋梁が倒壊してしまった。上田電鉄は、10月15日から下之郷・別所温泉間で運転が再開され、上田・下之郷間は代行バスが走ることになった。というわけで、上田電鉄別所線に全線乗ることは叶わぬのだったが、下之郷から終点の別所温泉までは上田電鉄に乗ることができる。いつか全線再開の折の再訪を楽しみにしつつ、このたび、初めての別所温泉旅行の実現とあいなった。全線ではないけれども、長年の念願だった上田電鉄に乗れる! 花柳章太郎ゆかりの別所温泉に行ける!

 


毎年の秋の楽しみが、神田古本まつりの青空古本市。とりわけ、日没後の夜の鋪道の外灯のもとでの古本市めぐりが格別で、なんとはなしに戦前戦後の銀座の夜店に思いを馳せたりもする。今年は、別所温泉旅行の直前に、別所温泉の紙ものを買うことが出来て、嬉しかった。神津牧場と常磐ホテルの案内冊子と合わせて購入。

 


そして、甲府湯村の常磐ホテルの戦前の案内冊子の裏のヱビスビールと三ツ矢サイダーの広告の「湯上りにまづ一杯」を目の当たりして、ますます温泉気分が盛り上がるのであった。



上田駅へ向かう新幹線の車内にて、宮脇俊三著『終着駅へ行ってきます』(新潮文庫、昭和61年8月25日)をひさしぶり繰って、しみじみいい気分だった。素晴らしきかな、宮脇俊三! この本は、月刊誌『旅』昭和57年1月号から翌年12月まで「終着駅へ」というタイトルで連載された24篇の文章を編んだものであり、「別所温泉[上田交通別所線]」の初出は昭和58年10月号である。


宮脇俊三が別所温泉へ取材へ行ったのは昭和58年8月1日、その冒頭は、

 信越本線に乗って軽井沢を通ると、草軽電鉄を思い出す。
 ここから草津温泉まで軌間七六二ミリの線路が敷かれ、小さな電気機関車が馬車のような客車を牽いて走っていた。
 私は草軽電鉄に幾度か乗ったことがある。浅間山を望み、ススキをかき分けながらコトコト走る、のどかな高原列車だった。
 あのときは、当然あるべき鉄道として、有難味を感じずに乗っていたが、昭和三七年に廃止になり、この世から消え失せてしまうと、惜別の情に駆られる。あと一度でいいから乗りたい、見たいと思う。けれども、駅の跡地はバスターミナルになり、喫茶店が建ち、路盤は道路に化したり草に被われたりして、もう取り返しがつかない。

というふうになっている。軽井沢からはかつて草軽電鉄が走っていたのか……と思いつつ、鞄からおもむろに『鉄道旅行地図帳 6号 北信越』(新潮社、2008年10月18日)を取り出す。たまの鉄道旅行のたびに愛用している「鉄道旅行地図帳」であるが、発売から十年以上経ってしまった。2012年4月1日をもって廃止となった長野電鉄屋代線が刊行当時は現役だったのだあ……と思いながら「廃線鉄道地図」のページを繰り、宮脇俊三が懐かしがっていた「草軽電気鉄道」の路線を眺める。この電車に乗って草津温泉にゆき、「温泉へ行こう」と「終着駅に行ってきます」を実践できたらどんなに素敵だっただろう……というようなことを思っているうちに、新幹線はいつのまにか軽井沢を通過している。

 





日活ロマンポルノ、小沼勝監督・高田美和主演『軽井沢夫人』(昭和57年8月6日公開)より、冒頭の信越本線のシーン。宮脇俊三の『終着駅へ行ってきます』とほぼ同時期の信越本線と軽井沢駅! 1997年の新幹線開通により消えてしまった風景、碓氷峠を通過する電車と軽井沢の旧駅舎が美しく映し出されている。

 

軽井沢を通り過ぎた宮脇俊三は、大屋駅を通過すると、今度は丸子鉄道に思いを馳せる。

……大屋からも丸子鉄道というのがあって、製糸の町、丸子へ通じていた。この私鉄にも戦時中に乗ったことがある。地元の人や食糧の買出し客で超満員だった。
 丸子鉄道は、その後、上田電鉄と合併したが、これも昭和四四年に廃止になった。

そして、「ここに踏みとどまって頑張っているローカル私鉄」である上田交通別所線(現・上田電鉄別所線)の始発駅・上田駅に到着する。

 特急「あさま7号」は定刻12時40分、上田に着いた。(中略)
 きょうは八月一日(昭和五八年)、夏は信州の季節だ。「あさま7号」から降りた客は多く、階段は雑沓している。
 その客の大半は、階段を上ると跨線橋を右、つまり北へ向かう。市街地に面した駅舎や駅前広場は北側にあり、菅平や蓼科、美ヶ原方面へのバスもそこから出る。
 跨線橋を左へ向う人は少ない。こちらは上田交通別所線への通路である。幅が狭く、床も木張りであった。
 狭くて年季の入った跨線橋を渡り、階段を下りると、上田交通の切符売場があって、風格のある初老の駅員が、物足りなそうに坐っている。上田丸子電鉄時代の全盛期に入社した人ではないかと思う。

 新幹線の開通した今、駅は当時と様変わりしているのであろう。宮脇俊三の渡った「狭くて年季の入った跨線橋」に思いを馳せつつ、正午過ぎ、新幹線の改札口を出て直進して、左手にある階段を上った先に、上田電鉄の切符売場があった。ひとまず別所温泉駅行きの切符590円を購入、昔ながらの厚紙の切符が嬉しい。上田駅から下之郷駅までの代行バスの発車時刻は13時51分、14時31分、15時06分……というふうになっている。

 


西尾克三郎『ライカ鉄道写真全集 5』(株式会社エリエイ、1998年3月1日)より《L-550 上田温泉電軌 103 信越本線下り普通350列車内より 上田駅 昭和12/1937-1-17》。

 L-550は12時57分、上田駅を発車して間もなく右側の車窓をかすめた上田温泉電気軌道北東線のデナ101形である。上田を中心に千曲川流域には大正から昭和の初頭にかけ、丸子鉄道と上田温泉電軌によるいくつかの電車路線が開業し、これらは後に統合して上田丸子電鉄となったが、上田温泉電軌の北東線は後の真田線でその支線として傍陽(そえひ)線があった。昭和2/1927年11月20日、上田ー伊勢山間7.0km、翌3/1928年1月10日、伊勢山ー本原1.6km、同年4月2日に本原ー傍陽3.1km、続いて5月1日、本原ー真田間4.2kmが開業した。
 デナ101形はこの北東線の開業に備えて、昭和2/1927年10月に川崎造船所でデナ101-104の4輌が造られた荷物室合造の半鋼ボギー車で、荷物室の戸袋窓は楕円形となっていた。上田丸子合併後、モハ101-104を経てモハ4251-4254となった。
 上田駅には省線をはさんでそれぞれの側に上田温泉電軌の別所、青木線と北東線のホームが別個にあった。写真後方に見えているのは北東線のホームで、留置線まで覆った上屋が車庫を兼用する珍しい例であった。

奥に、信越本線のホームに並行するようにして、上田温泉電軌の北東線のホームが見える。

 


齋藤晃「私の銀河鉄道………上田丸子の思い出」(『鉄道ピクトリアル』2000年4月号)に掲載の地図。この地図を見ると、省線の線路に並行するように上田電鉄真田・傍陽線のホームが位置していたことが窺われて、上掲の昭和12年1月17日に西尾克三郎が撮影した写真、信越本線下り列車が「上田駅を発車して間もなく右側の車窓を」上田駅北口から伸びていた上田電鉄真田・傍陽線の「留置線まで覆った上屋が車庫を兼用する珍しい」ホームを実感することができる。

 


別所温泉の戦前の案内冊子に掲載の沿線案内図。上田の北東には真田線、上田・別所温泉間の別所線の途中駅、上田原から青木まで青木線(昭和13年7月25日廃止)が描かれているので、それ以前の案内冊子ということがわかる。下之郷からは別所温泉に向かう電車と西丸子に向かう西丸子線が出ている。別所線の線路の上の電車と道路の上の自動車の絵がかわいい。

 

ここで、上田電鉄別所線の歴史を大まかに概観してみよう。まず、大正9年(1920)1月5日に上田温泉軌道株式会社が設立され、同年11月15日に上田温泉電軌株式会社に商号変更、

  • 別所線(大正10年6月17日に信濃別所(現・別所温泉)・上田原間で開通、その後、大正13年8月15日に省電の上田駅まで延伸)
  • 青木線(大正10年6月17日に青木・三好町間で開通、昭和13年7月25日廃止)
  • 西丸子線(大正15年8月12日に下之郷・西丸子間で開通)
  • 真田・傍陽線(真田線は昭和2年11月20日に上田・伊勢山間で開通、昭和3年5月1日に真田まで開通。傍陽線は本原・添陽間で昭和3年4月2日に開通)

一方、上田温泉電軌よりも早く、丸子鉄道は大正7年(1918)11月21日設立、丸子町・大屋間が開通、大屋・上田東間は大正14年8月1日に開通。昭和18年(1943)10月21日に上田温泉電軌と丸子電鉄が合併し、上田丸子電鉄となり、長らく当地でおなじみのローカル私鉄であった。

  •  昭和36年6月29日、西丸子線、二ッ木峠トンネルの落盤事故および依田川の鉄橋の倒壊により休止
  • 昭和38年10月31日、西丸子線廃止
  • 昭和44年4月19日、丸子線(元丸子鉄道の路線)廃止
  • 昭和47年2月19日、真田・傍陽線廃止

 

齋藤晃「私の銀河鉄道………上田丸子の思い出」(『鉄道ピクトリアル』2000年4月号)に、

 上田駅から路線を延ばす上田温泉電軌(のちの上田電鉄)は、丸子鉄道に刺激さえ、3年遅れで1921年に千曲川の対岸塩田平に開通した。最初から電車で営業したのはローカル私鉄として最も先進的な部類である。千曲川に鉄橋を架けて上田駅に乗入れ、当初の計画を形づくったのはさらに3年を要した。このうらには当時鉄道院にあり後に東急の社長となった五島慶太の生まれ故郷であったことが大きな支援になったことは言うまでもない。生家の青木村へ、当時の松本に抜ける街道の上を併用軌道(1938年廃止)で行くのが本線だった。

というくだりがある。現在は東急のグループ会社となっている上田交通株式会社の運営する上田電鉄であるけれども、東急との縁は開業当初から始まっていたのだった。青木は五島慶太の生まれ故郷だったのか! その青木へ伸びる上田温泉電軌青木線は路面電車だったのか!

 


1960年後半の上田丸子電鉄、『毎日グラフ増刊 日本の私鉄』(昭和44年3月31日)より。昭和44年4月19日に丸子線の廃止を経て、同年5月31日、上田丸子電鉄株式会社から上田交通株式会社へと商号を変更した。この『毎日グラフ 日本の私鉄』が刊行されたのは上田丸子電鉄時代の終わる直前。宮脇俊三著『終着駅へ行ってきます』に、

現在はバス会社のようになってしまったが、かつては上田を中心にして四方に鉄道を張りめぐらしていた。社名が上田温泉電軌→上田電鉄→上田丸子電鉄→上田交通と変ってきているので、ややこしいが、全盛期は丸子鉄道と合併して上田丸子電鉄と改称した昭和一八年からで、路線は別所温泉へ、傍陽へ、真田へ、丸子町へと放射状に伸び、営業キロは四八・〇キロに及んだ。

とある、全盛期だった上田丸子電鉄時代が終わろうしている頃の写真なのだった。



正午過ぎ、上田駅の南口に降り立ち、代行バスの時間までのひととき、上田市立美術館に出かけて、そのあと千曲川橋梁まで散歩した。


上田といえば、かねてより上田市山本鼎記念館図録『山本鼎生誕120年展』を愛読していたので、まっさきに山本鼎を思い出していたものだったけど、上田城址公園の山本鼎記念館は2013年9月をもって閉館し、同年10月に誕生したサントミューぜ内に開館した上田市立美術館(https://www.santomyuze.com/museum/)に引き継がれている。コレクション展示として、山本鼎と石井鶴三をいつでも見ることができるのが、嬉しい。

 



上田市山本鼎記念館図録『山本鼎生誕120年展』(2002年)。今も上田市立美術館のミュージアムショップで定価(1,500円)で販売されている。

 


石井鶴三の木版《東京駅夕景》昭和3年(1928)。図版は、図録『東京駅一〇〇年の記憶』(東京ステーションギャラリー、2014年)より。同図録に、《本作品は〈東京驛の夕〉という題で、『大東京風景版画』(創作錦絵刊行会)の第1回頒布作品として読売新聞朝刊(1927年12月17日)で図版入りで紹介されている。》とある。上田市立美術館でひさびさに対面できて嬉しかった作品のひとつ。野村俊彦が彫りを担当したことに今回初めて気づいたのが、極私的には大収穫だった。

 


かねてより愛蔵している野村俊彦*2の版画作品。おそらく1920年代後半の東京駅前の都市風景が描かれている。石井鶴三の《東京駅夕景》と同時期。

 




上田市立美術館はミュージアムショップも素晴らしかった。とりわけ、店頭で初めて知った阿部春弥さんの陶器と角居康宏さんのの錫器にすっかり魅了されてしまって、しばし惚れ惚れ。さんざん迷った挙句、今回は小皿とスプーンという、しごくささやかな買い物を。旅行後、一ヶ月が過ぎても、棚に大切にしまって愛でつつも、それぞれほぼ毎日使用もしていて、とびきりのお気に入りとなった。

 

と、上田市立美術館を満喫して、青空の下、いい気分で千曲川の河岸へゆくと、美しい鉄橋が眼前に現れて、大感激だった。

 


土手の前まで歩いて、上田電鉄の踏切と鉄橋が視界に入った瞬間の歓喜といったらなかった。



上田温泉電軌の別所線が大正10年(1921)6月17日に別所温泉・三好町(現・城下)間で開通し、その3年後、大正13年(1924)8月15日に省電の上田駅まで延伸した際に、千曲川に架けられた橋梁。



10月13日、台風19号による災害で倒壊してしまい、現在、復旧作業のまっ最中。



橋に見とれて、何度も行きつ戻りつする。



山の風景にもしみじみ和んでしまい、生命が延びるようなひとときだった。今度来るときは、上田電鉄に乗って、この鉄橋を渡りたい。



上田駅前に戻って、午後2時31分発の代行バスに乗り込む。

 


上田駅で購入した電車の切符。上田駅から下之郷駅まで代行バスが運行されていて、上田電鉄別所線は下之郷から終点の別所温泉までの運行であった。その後、11月16日からの上田の次の駅、城下から電車に乗れるようになり、代行バスの運行は上田駅から城下駅までとなった。前述のとおり、上田温泉電軌の開業は大正10年(1921)6月、千曲川橋梁が完成したあと、大正13年(1924)8月に終点上田駅まで開通したのだった。現在は、開業当初3年間の城下・別所温泉間の運行となっている次第である。

 


代行バスが出発して最も楽しみだったのが、先ほど見物に出かけた千曲川橋梁をバスの車窓から眺めるひととき。

 


長島正典「別所線の丸窓」(『鉄道ピクトリアル』1982年8月号)より、昭和55年(1980)7月20日撮影、上田・城下間の千曲川橋梁を走る別所線。《アユ解禁の千曲川は太公望たちで賑わう》とある。

 

『終着駅へ行ってきます』の宮脇俊三が別所線に乗ったのは、昭和58年8月の夏まっさかり。上掲の写真と同じように、釣り人で賑わっていた。

 上田交通の老朽電車は発車した。
 キイキイとレールをきしませて左へ急カーブする。
 たちまち信越本線の架線が右に遠ざかり、千曲川の鉄橋にさしかかる。
 河中には胴長を着こんだ釣人が糸を流している。鮎を釣っているのであろう。

このとき宮脇俊三が乗っていた「上田交通の老朽電車」も丸窓電車だった。

 左手に木造の屋根をのせた短いホームがあり、一見してローカル私鉄とわかる古びた電車が一両、ポツンと停っている。外装は、下半分が紫と紺を混ぜたような色で、上部は淡クリーム、前後の扉の戸袋に楕円形の窓がある。
 円形の窓は大正の末から昭和の初期にかけて流行したデザインではないかと思う。私の子どものころ、場末のカフェやミルクホールなどによく見かけたものである。
 この「丸窓つき車両」は五二五〇型といい、現在は三両が稼働していて、上田交通のシンボルのようになっている。昭和三年の製造だから、当時は流行の先端を行く電車として、沿線の人たちの眼を瞠らせたにちがいない。

大正13年(1924)竣工の千曲川橋梁と昭和3年(1928)製造の丸窓電車。まさに、1920年代モダニズムの産物だった。丸窓電車のこと「モハ5250」は昭和61年(1986)10月に引退したから、昭和58年8月に宮脇俊三が乗っていたときはその末期のことだった。

 


長島正典「別所線の丸窓」より、昭和56年(1981)7月24日撮影、中野・舞田間の稲田地帯を走る丸窓電車!

 

千曲川橋梁を渡ったバスの車窓から、当初は別所線の線路が見えていたのだけれど、次第に見えなくなり、見えなくなったとたんに、いつのまにか寝てしまったようで、下之郷駅に到着したときは完全に寝起き状態であった。

 


宮脇俊三著『終着駅へ行ってきます』(新潮文庫、昭和61年8月25日)の「別所温泉[上田交通別所線]」のページに掲載の地図。

 上田から八分で、電車区のある上田原に着く。
「うわあ、すごい電車区ですね
と、編集部の秋田さんが言う。
 じっさい、すごい電車区で、羽目板がはずれ、傾きかけたような木造の車庫の内外に、五二五〇型をはじめ、さまざまな形や色の電車が置かれている。凸型の小さな電気機関車もある。廃車になったまま放置され、草むしているのもある。時代が何十年も逆戻りしたようで、巧まずして鉄道博物館にもなっている。
 上田原は、かつての分岐駅で、ここから松本街道の上を走る軌道が八・五キロ先の青木まで通じていたが、昭和一三年に廃止になっている。
 分岐駅の栄光を思い出させるかのように、上田原を発車すると、電車はグイと左に曲って南へ向かう。

と、このくだりを読むと、羨ましくてたまらない!

 


『終着駅へ行ってきます』の初出誌『旅』昭和58年10月号、宮脇俊三「終着駅へ 連載22 上田交通・別所温泉」に掲載の写真。「まるで鉄道博物館のような、かつての分岐駅上田原」。

 

 

寝起き状態で代行バスを下車して、わーいわーいと、宮脇俊三が《上田原から小駅を三つほど過ぎると、下之郷という、やや大きな駅がある。西丸子への依田窪線が分岐していた駅である。》と書いていた下之郷駅のホームへ小走り、もしすぐ念願の別所線に乗れる! と歓喜にひたる。

 


と、歓喜にひたっていると、向こうにかつての西丸子線のホームとおぼしきものが残っているのが見えて、ちょっとだけ興奮。

 


昭和28年(1953)8月の下之郷駅の西丸子線の専用ホーム。齋藤晃「私の銀河鉄道………上田丸子の思い出」(『鉄道ピクトリアル』2000年4月号)に掲載の写真。《西丸子線を走っていたのは丸子鉄道生え抜きのガソリンカー・キハ1を電車化した3122と東急からきたモハ1の残党3211、3212だった。共に車体幅は狭く、二ツ木トンネルを通過するのに相応しいように見えた。》とあるから、この電車は「東急からきたモハ1の残党3212」らしい。

 


昭和3年(1928)12月、目黒蒲田電鉄大井町線東洗足駅に停車する電車、高田隆雄写真集『追憶の汽車 電車』(交友社、1998年2月20日)より。《目蒲開業時に登場したモハ1形で、当初はトロリーポール付きの直接制御車であった。》とある。渋沢栄一による「洗足田園都市」を走っていた1920年代東京のモダン車両。

 


上掲の下之郷駅に停車している「東急からきたモハ1の残党3212」は、かつて「洗足田園都市」を走っていた車両を改造したものなのかな……と、厳密なことはよくわからないのだけれども、上田電鉄のあちらこちらで東急の歴史がオーヴァーラップするのであった。



別所線がやってくるまでの数分の間に、かつての西丸子線に思いを馳せるべく、線路を眺める。右をゆくのが別所線、このあと急カーヴを描いて、別所温泉に向かって走ってゆく。そして、左の線路の向こうにかつて西丸子線の線路があった。

 


下之郷駅の車庫には、無造作に東急の車両が停まっていた。宮脇俊三が《廃車になったまま放置され、草むしているのもある。》と書いていた当時の上田原と同じように「放置」という言葉がぴったり……などと、当初はあまり深く考えていなかったのだけれども、後日、この車両は、昭和33年(1958)完成した日本初のステンレス電車「東急5200形」の残党と知った。宮脇俊三は上田原駅のことを「まるで鉄道博物館のような、かつての分岐駅上田原」と書いていたけれども、現在の下之郷も「まるで鉄道博物館のような、かつての分岐駅下之郷」といってもよかろう。もっときちんと凝視しておけばよかった!



念願の電車がやってきて、別所線は下之郷駅を出発。バスの直後だと、電車に乗れるというのがしみじみ嬉しいのだった。電車は下之郷を出るとカーヴして、塩田平を西へまっすぐ山に向かって、スイスイと進んでゆく。

 



ああ、なんて長閑なのだろう! 絵に描いたようなローカル線の歓びに心ゆくまでひたるのだった。中塩田、塩田町、中野と通り過ぎる無人駅がまた味わい深い。

 

と、感激にひたっているうちに、電車はあっという間に終点・別所温泉駅に到着。宮脇俊三著『終着駅へ行ってきます』に、

 線路際に立てられた勾配標は「一〇〇〇分の四〇」、相当な急傾斜になった。前方に山が立ちはだかり、塩田平は西の果てに尽きかけて、耕地の区劃が狭くなり、段々畑になった。鉄道敷設の限界に近づいてきた。
 左前方の一段小高いところに電車が停まっている。留置線であろう。その右側に急勾配の線路がある。わが電車が上べき本線なのだが、スイッチ・バック駅のように見える。
 電車は上り勾配に強い。事もなげに登りきると、平らになり、駅舎とホームが現れて停車した。
 コの字形に囲まれた駅で、もう線路はない。行く手は植込みの土手になっていて、その上に白い築地塀がある。お寺の境内に突っ込んだような趣だ。

とあるように、「鉄道敷設の限界」に位置するコの字型のなんともチャーミングな終着駅。わーいわーいと改札の外に出て、モダンでチャーミングな駅舎に惚れ惚れ。なんて素晴らしいのだろう! 駅に貼ってあった案内によると、別所温泉駅は大正10年(1921)に開業し、昭和25年(1950)に大規模改築されて、現在の姿になったのだという。

 



 

そして、駅舎とおなじくらい大感激だったのが、駅の向こうの空き地に「丸窓電車」が保存展示されていたことだった。




宮脇俊三が乗っていた当時は「老朽電車」だった丸窓電車だけれど、今はこうしてピカピカに磨かれて、別所温泉駅の背後にこうして君臨するかのように大切に保存されている。



ぐるっと一周して、あらためて眺めてみると、田園風景のなかを颯爽と走っていた現役時代の姿がイキイキと想像できる気がする。


終着駅・別所温泉を出ると、「鉄道敷設の限界」から一段高台になっていて、別所温泉に向かう道は緩やかな上り坂になっている。いつのまにか道幅が狭くなり、絵に描いたような鄙びた温泉町の風景が眼前に広がる。



振り返ると、先ほど電車で通ってきた、塩田平を眼下に見下ろすことができて、わあ! となった。



かつて別所温泉にあった「和泉屋旅館」の戦後の案内冊子に載っている写真。

この写真を見るとなんとはなしに、小沼丹の「別所行き」というエッセイを思い出す。ちょうど一年前、幻戯書房の「銀河叢書」のなかの一冊として刊行された、小沼丹の全集未収録の随筆を編んだ『ミス・ダニエルズの追想』(2018年11月9日)で初めて読んだエッセイで、初出は『温泉』昭和37年(1962)9月号。

小沼丹のエッセイのときと、雰囲気はほとんど変わっていないのだろうなあと思う。別所温泉は適度に鄙びていて、理想の温泉だった。上田電鉄が全線復旧したら、絶対に再訪しようと固く決意するのだった。



このたび宿泊したのは、かしわや本店。北向観音の隣りに位置する、花柳章太郎と川口松太郎ゆかりの宿であった。




食堂の個室からは北向観音のある常楽寺の境内を上方から望むことができて、朝食の時間は格別だった。


北向観音の花柳章太郎の句碑を見にゆく。



昭和40年1月6日に他界した花柳章太郎の一周忌に建てられた句碑で、「北向にかんのん在すしぐれかな」の句が刻まれている*3


句碑の向かいには、川口松太郎の『愛染かつら』ゆかりの市指定文化財の「愛染桂」が枝を広げている。花柳章太郎と川口松太郎! 新派好きにとっては、この並びだけで大興奮であった。


二日目は、別所線を塩田町で下車して、長年の念願だった無言館(https://mugonkan.jp)へ出かけた。


山へ向かって、徒歩30分。無言館の行き帰りの塩田平の道はどこまでも長閑だった。宮脇俊三は『終着駅へ行ってきます』に、

 塩田平は降雨量の少ないところで、地図を見ると、灌漑用の溜池だらけである。その溜池で鯉が養殖され、「塩田鯉」として特産物になっている。けれども、畦道のような低い路盤を走る電車の窓からは見えない。見えるのは溜池を囲った土手だけである。
 溜池も鯉も見えないが、火の見櫓はよく見える。それがじつに多い。半鐘は下っていないが、形は昔のままだ。亡くなった谷内六郎さんの絵を見る思いがする。

というふうに書いている(実際に当地を訪れると、宮脇俊三の文章に唸りっぱなし。素晴らしきかな宮脇俊三、つい何度も抜き書きしてしまうのであった。)。青空の下、昨日は電車の窓からぼんやり眺めていた田園地帯のまんまんなかをテクテク歩くのは実にたのしかった。無言館への道中にも大きな溜池があって、そこを沿ってあるときはひときわ楽しかった。電車からは見えなかった溜池。今も、火の見櫓が多く、通りかかるたびに、つい見上げてしまう。どこまでも長閑な塩田平だった。





無言館の帰りは、足をのばして、往路で下車した塩田町の隣駅、中塩田駅へ。別所温泉とそっくりの駅舎! 昨日は車窓から眺めていた駅舎。



中塩田駅に到着したとき、ちょうど別所温泉駅行きの電車が発車していった。別所線は単線なので、今度乗るのは、あの電車が戻ってきたとき。




中塩田から下之郷へは一駅。上田から別所温泉まで全線、別所線に乗る日を心待ちにしつつ、このたびの晩秋の小旅行はおしまい。

 

*1:花柳による羽左衛門の回想は、『雪下駄』(開明社・昭和22年11月10日)所収「若衆かつら―羽左衛門の思ひ出―」でたっぷり語られている。戸板康二の『役者の伝説』の挿話は、以下の「ビスケツト南京豆」と題された一節を典拠にしているとおぼしい。曰く、《三月八日、私は別所の北向観音へ参詣と、軽井沢へ川口君が行つてゐるので、用事があつて、東京を出発した。/春とは名ばかりの、殊に高原の軽井沢は往来一ぱい氷が張つて、本通りから脇道へ這入ると雪は根強く硬直して居て歩くのに実に困りました。用事を済せて、再び駅へ引返へす時は実に耳をとられる様な浅間颪。/駅へ辿り着いても、ストーブは毀れ、クツシヨンは破れてゐる様。わびしい情景でした。/下りの二等車の割合空いて居るなかで、私は意外にも、時蔵君夫婦に会つたのです。/前車の方の二等に、市村さんが居ることを教へて呉れ、上田に着く迄の一時一寸を、時蔵君と話した時。市村さんは当分芝居も出来ないらしいので、これから長野へ善光寺詣りにゆき、渋温泉でしばらく疎開がてら様子をみるのだと云ふことでした。/私が、リユツクから出したビスケツトを、丁度居合せた市村さんの妹さんに、市村さんに届けて貰ひ、のち程顔を見にゆきますと言づけして、時蔵君と話しつゞけて居るうち、早くも列車は上田へ着いてしまひました。/私は慌てゝホームへ降り、歩いて行くと、機関車の近くの二等車から、市村さんがニコ/\しながら、窓から顔を出し、しきりに私を呼んでます。/近よると懐かしさうに、「そつちへ行かうとしても、三等が満員で行けなかつた、どこへ行くんだい」「川口君に用があつて軽井沢へ……そしてこれから別所へ行くんです」/「僕は渋の万屋に居るから是非二三日したら来たまへ、絵を描かう、君との合作は一つもねヱぢやねえか、……映画は秋になつたよ、そんな話もいろ/\ある、是非ね」発車信号のベルが、けたゝましく鳴り出しました。/「先刻はありがたう、コレ、市村羽左衛門が、花柳章太郎に贈る、ヘツ、そいつが、南京豆。コレモ戦争のたまものかい、有難く出来てらァーー」何か私は、市村さんの窓から渡して呉れる紙包を握つて、頭の中にズキンとしたものを感じたんです。/汽車は動き出しました。/見送つた私。窓から出してゐる市村さんの笑顔も程なく夕闇の中へ吸はれて、汽車は山陰へ隠れてしまつたんです。/現でも、その時の眼尻に皺の寄つた市村さんの笑顔が眼に残つて居ます……。》。

*2:図録『日本近代の青春 創作版画の名品』(宇都宮美術館、2010年9月18日)には、野村俊彦のプロフィールとして、《1904(明治37)-1987(昭和62)。東京に生まれる。義兄であった河野通勢の勧めで、伝統木版の彫師、宮田六左衛門のもとで修行に入り、1年後に木村荘八の書生となる。日本創作版画協会展、春陽会展、帝展、日本版画協会展に出品する。のちに挿画に転向。戦後は記者や編集者として活躍する。》と記載。同展では、木村荘八画・野村俊彦刻の作品、『荒都図絵』第2集(東京市本郷区森川町一木村方野村刀、大正13年発行)が展示されていた。と、後日のためにメモ。

*3:この句碑については、『演劇界』昭和41年1月号に「句碑も一周忌も無事に…」の記事がある。曰く、別所温泉の句碑については、《花柳章太郎の供養碑が、生前信仰していた長野県小県郡塩田町別所温泉の北向観音境内に建てられました。絵馬を形どった高さ一・一五メートル、幅一・五八メートルの黒御影石に、昨年一月三日書きのこした「北向に、かんのん在すしぐれかな」の絶句を拡大して刻んであり中央に日展審査員竹田不忘氏作の『逢坂の辻』の章太郎の舞台姿がはめこまれています。友人永田雅一、川口松太郎氏ら二十五人の発起で建てられたもので、十一月二十五日にはその除幕式が盛大に行われました。》とある。