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夏休み遊覧日記:名古屋市博物館で吉田初三郎展。1930年代名古屋に思いを馳せて、松坂屋へ。

2014年8月10日日曜日。午前8時東京駅発の新幹線は台風の影響をかろうじて免れて、定刻どおり9時40分に名古屋駅に到着。人生初の名古屋来訪! の感慨にふける間もなく、イソイソと地下鉄に乗り込んで桜山駅で下車、出口から博物館までの徒歩5分の暴風雨を切り抜けて、なんとか無事に名古屋市博物館に到着、特別展《NIPPON パノラマ大紀行 吉田初三郎の描いた大正・昭和》を見物して、大満喫。五十年以上にわたって吉田初三郎の鳥瞰図の収集と研究に打ち込んでいた愛知県一宮市出身の小川文太郎氏(明治31年〜昭和60年)のコレクション、その質量ともに極上のコレクションが一堂に会し、関連資料とともに編集・配列されている。全国津々浦々の吉田初三郎による鳥瞰図が一堂に会することで、大正から戦前昭和にかけての「観光」が定着していった時代、交通網の整備や遊園地やホテルなどの建設、博覧会の開催、当地の産業、軍事施設、それらにともなう広告・宣伝のありようといったものが体現する「近代日本」が会場全体に通底していて、芋づる式にどこまでも興趣が尽きない感じでとにかくも大興奮、とても素晴らしい展覧会だった。



図録『特別展 NIPPON パノラマ大紀行〜吉田初三郎の描いた大正・昭和〜』(名古屋市博物館、2014年7月15日発行。会期:2014年7月26日〜9月15日)。出品物の図版がすべてオールカラーでギッシリ掲載されている上に、解説や論考等の文章もギッシリ。図録の編集・執筆および展覧会の企画は名古屋市博物館学芸員の井上善博氏によるものとのことで、素晴らしい労作。さらに、図録(1200円)のデータをPDF化した電子版図録の CD (800円)が合わせて発売されており、こちらは細部を拡大して楽しむことができて、感動。図録の表紙の鳥瞰図は、《木曽川と大同電力鳥瞰図》(大同電力発行、昭和12年12月20日)。大同電力に深く関係していたのが、あの福澤桃介!

《大正13年以降、初三郎が鳥瞰図制作の拠点としたのは、木曽川沿いにあった名古屋鉄道所有の建物「蘇江倶楽部」であった》(図録、p.30)。吉田初三郎は関東大震災を機に、名鉄の支援を受けて犬山を第二の拠点とする。大正10年に銀座に「大正名所図絵社」を設立していた初三郎は、犬山で会社を再興し、今度は「観光社」と名づけたのだった。「名所図絵」から「観光」へ。その後、全国各地の鉄道網の形成、市制の施行、観光事業の活発化に連動するようにして、ますます多くの鳥瞰図が制作され、初三郎は全盛時代を謳歌する。震災を経ての犬山での日々は、初三郎の仕事という点においても日本の鉄道や観光のありようという点でもひとつの転換点としてとらえることができるかも。小川文太郎氏は愛知県一宮市出身で電話局勤務、昭和3年に養老公園へ行楽に出かけた際に土産物店で養老公園名所図絵を入手したのを機に初三郎に魅せられて、翌年に犬山に初三郎を訪ねたとのこと。つまり、小川氏の収集と研究は初三郎の全盛時代と連動するようにして始まったのであった。その生涯をかけたコレクションは今も大切に保存されていて、こうして名古屋の地で素晴らしい展覧会が実現しているということに、ひたすら感動。


この展覧会は名古屋の地で見ることでさらに格別の時間になった。わたしにとってこれまで未知だった名古屋と名古屋からはじまる行楽への招待にもなって、いろいろと将来への遊覧への思いがかきたてられた。とにもかくにも名鉄に乗りたい! と、同時に、これからまさに出かけようとしている伊勢参宮をはじめとする三重県のいくつかの鳥瞰図が臨場感たっぷりで、たいへんワクワク。遊覧の前奏としてもとても嬉しい時間だった。

《地方自治体関係では、まず愛知県庁が昭和2年(1927)11月、県下で開催される陸軍の特別大演習にあわせて県域の鳥瞰図を制作しているが、これは全国の県域鳥瞰図制作の嚆矢となった。(図録、p.34)》。名古屋市の鳥瞰図は昭和8年と11年と12年のものがあり、その背景には、昭和8年10月竣工の新庁舎、昭和12年3月から5月にかけて開催の「名古屋汎太平洋平和博覧会」、その博覧会に合わせて建設の名古屋駅の新駅舎、市電や市バスの交通網の整備……といった、典型的モダン都市の諸相があった。



とりわけ、解説に《終戦末期に名古屋が空襲で大きく被災する前のもっとも繁栄した時期を鳥瞰図として記録したものである》とある昭和11年発行の鳥瞰図にジーンとなって、あちこち凝視。「日文件 所蔵地図データベース(http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/)」に画像データ(http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/santoshi_2024.html)があって、嬉し。昭和12年2月1日に開業する工事中の名古屋駅、造成中の東山公園、名古屋城の近くに放送局、市役所、県庁。松坂屋をはじめとするデパート、ビルディングが集中する栄地区の繁華街。そして、初三郎独特の遠近法をもって描かれる、四日市、津、伊勢神宮を通る大軌・参宮電車。



上の鳥瞰図とほぼ同時期の名古屋の繁華街の写真として、《名古屋広小路通り》の夜景写真、『輝く日本 輝くネオン』(整電社製作所、昭和12年4月5日)より、明治製菓名古屋売店のネオンの写る1枚。他のページには、カフェーコロンビヤ、森永キャンデーストア、大日本ビール直営ビアホール。銀座でもおなじみの店舗がひしめいていた広小路通り。



明治製菓の名古屋売店は昭和4年12月27日開設、昭和20年3月19日に戦災により全焼(『三十五年史 明治商事株式会社』明治商事株式会社三十五年史編纂委員会・昭和32年5月2日)。この写真は明治製菓広報誌『スヰート』第5巻第2号(昭和5年4月20日)に掲載の広小路の明治製菓名古屋売店(誌面レイアウトの都合で左下に欠落あり)。開店直後の明治製菓名古屋売店は、右上の塔が特徴的な低層の建物だった。その後の1930年代、どんどんネオンがひしめいていった広小路であった。



『スヰート』第9巻2号(昭和9年7月5日)に掲載の、小川武『名古屋明菓売店の宵』。

 名古屋広小路、明菓売店のプロフヰール
 赤、緑、黄、ネオンの交錯、電車、自動車の雑音に時折交る『そうでなあも』の中京弁。白亜の建物に若山出征部隊慰問袋募集の大看板を掲げた男振り! 東京と少しも変らぬ近代感覚を盛つた吾等の明菓も中に入ればハンチング万能の広小路兄さんと下ぶくれな中京美人が楽しそうにオレンヂシャアベツトを囲んでいる。
 だが皆さん流石にスローモーション的です。にこやかな明菓嬢のサービスもいと優しく、尾張名古屋の城でもつ! 落ちつきを示してサービス致します。
 二階の集会室からもれてきた笑ひ声!
 卓上のチューリップもゆらゆらと首を振つて踊つてゐるやう――
(東海道ドライヴから)

小川武は時折『スヰート』に全国各地の明治製菓売店にちなむ漫画漫文を寄稿している。その著書『流線型アベツク らんでぶうのあんない』(丸ノ内出版社、昭和10年5月)は、『近代庶民生活誌 10 性と享楽』(三一書房、1988年7月)にも翻刻されている絶好のモダン東京文献で、小川武には前々からそこはかとなく愛着がある。


 
 
 
名古屋の菓子店・喫茶店のマッチラヴェルを無造作に並べてみる。喫茶店、菓子店から見る1930年代名古屋。『森永製菓五十五年史』(森永製菓株式会社、昭和29年12月20日)によると、森永キャンデーストアは広小路には、明治製菓よりやや遅れて昭和6年8月1日に開業している。そして、昭和12年2月1日に新築移転した省線の名古屋駅構内には、明治製菓と森永製菓、両方の売店があった。森永が2月8日、明治は3月22日に開店している。


1930年代に新しく完成した名古屋駅というと、喜多村緑郎の日記がずっと印象に残っていた。昭和12年5月16日、京都南座の千秋楽のあと、喜多村は午後8時45分の新京阪で大阪へ行き、翌日9時半の列車で名古屋へ向かう。同月18日より、御園座で初日を迎える喜多村だった。その折の5月17日の日記にて以下のように綴っている(『新派名優 喜多村緑郎日記 第三巻』八木書店・2011年3月25日)。

駅つくと、今までの名古屋とは雲泥の差のあるホームが吾等を待つて居た。――大阪などよりホームは綺麗だつた。――だが、駅の前の広場が、前の普請場のもろもろが、残つて居る。――大分以前の駅より北へよつて居る。

と、ただこれだけの記述なのだけれども、新派のモダン老優の目を通した昭和12年の出来たてホヤホヤの絢爛たる名古屋駅のことがずっと印象に残っていて、吉田初三郎展で昭和11年制作の名古屋市鳥瞰図をガラスケース越しに見て、建設中の名古屋駅を目の当たりしたときまっさきに思い出したのは、この喜多村の日記だった。

昭和12年2月1日に開業した省線の新しい名古屋駅に喜多村が初めて降り立ったのは同年5月のことであり、3月15日から開催されていた「名古屋汎太平洋平和博覧会」が終わろうとしていた頃。興行場所へと頻繁に移動する役者の日記は、その移動のありよう、それぞれの町の雰囲気やレストランやホテル、汽車電車のちょっとした感想に触れることもできて、旅日記としても楽しみが尽きない。ちなみに、古川緑波が新しい名古屋駅に降り立ったのは喜多村の2か月後、『古川ロッパ昭和日記 戦前篇 新装版』(晶文社、2007年2月10日)の昭和12年7月11日、京都から名古屋に移動してきた日の日記に、《名古屋駅立派になった。》の一言を残している。


明治27年に日本橋檜物町に生まれ、明治45年三代目杵屋栄蔵の門に入り、大正10年28歳で立三味線となった杵屋栄二は、昭和12年以降は中村吉右衛門劇団の邦楽部長だった。と、長唄三味線方として本業でも立派な業績を残した杵屋栄二は、汽車電車の写真を写すことを趣味としていて、『杵屋栄二写真集 汽車電車』(プレス・アイゼンバーン、昭和52年10月10日)という極上の写真集が刊行されている。旅興行の合間に嬉々と撮影に出かけたのだと思うととっても微笑ましい。ちなみに、この本の出た翌月の昭和52年11月の歌舞伎座は『仮名手本忠臣蔵』の通しが上演されていて、杵屋栄二が四段目の城明渡しの送り三重を弾く姿を松竹より市販の DVD で見ることができる。『汽車電車』が刊行された頃の最晩年の杵屋栄二なのだなあと DVD を見るたびに、由良之助の八代目幸四郎そっちのけでいつもジーンとなるのであった。



と、昭和9年から13年にかけて撮りためた全国の汽車電車の写真を収めた『杵屋栄二写真集 汽車電車』(プレス・アイゼンバーン、昭和52年10月10日)で昭和12年1月末日をもって役割を終えた名古屋旧駅の素晴らしい写真が収録されている。この写真は、《改札口越しに見る関西線の C55 形/名古屋駅》。杵屋栄二の写真は「汽車電車」のみならず周囲の人や町の写り具合がいつも素晴らしいのだった。

現在の名古屋駅の開業は昭和12年2月1日で、それ以前の旧駅は今の名古屋駅よりも、約200メートルほど東南寄りにあった。駅の本屋と本線との関係は、京都駅とよく似ている。大都市の駅が街の発展につれて鉄道が高架化するため、改札口からホームが見える駅は少なくなった。言うまでもないが、この頃は省線(国鉄)はまだ蒸気機関車全盛で、C53 は第一線の主役として君臨し、さらに新しい蒸気機関車が望まれているような時代であった。

という解説に、なるほどと思う。改札口越しに見える機関車のなんと美しいことだろう。余情たっぷりのとても素晴らしい写真。



こちらは、《明治橋から見た名古屋駅構内》としての掲載の写真の左部分。建築中の新名古屋駅の鉄骨が蜃気楼のよう。

名古屋駅の構内に架けられた明治橋は、街の交通路であったが、鉄道ファンにとって格好の撮影場所であった。さすがに幹線東海道と関西線の分岐駅だけに、列車や出入する機関車の往来は激しい。C51 の停まっているのは関西線ホーム。手前に伸びているのが東海道線下りホームで、C50 形の牽く列車が到着した。本屋側のホームが東海道線の上り、左遠くに建築中の新名古屋駅が見える。

と、綴じ部にかかっているのでここではカットした右部分に駅舎と東海道線の上りホームが写っている。ほかのページには、取り壊された後の旧名古屋駅の写真、その跡地に市電が敷設されていく姿を記録した写真も収録されていて、旧名古屋駅の在りし日の姿と消えゆく姿を記録した杵屋栄二だった。



名古屋市博物館を後にして、暴風雨のなかをひとっ走りして、地下鉄の駅に戻ったときはちょうど時分どき。名古屋というと、戸板康二著『旅の衣は』(毎日新聞社、昭和59年7月20日)の「名古屋」の項にある、《味噌で煮たうどんを食べるのもたのしい。》という一節がずっと心に残っていた。そうだ、味噌で煮たうどんを食べにいこうと思った。が、人生初の名古屋、まったくの土地不案内であるので、とりあえず松坂屋へ行ってみようと、地下鉄を2回乗り換えて、松坂屋の最寄駅の矢場町駅に到着。駅から直通なので、暴風雨でも大丈夫、9階の「山本屋総本家」で煮込みうどんを食べて、本日の昼食とする。そう、名古屋といえば、松坂屋! と、松坂屋に来ただけでとても嬉しい。



《南大津通ぶ移転した名古屋店》、『松坂屋百年史』(株式会社松坂屋、2010年2月発行)より。名古屋の松坂屋がそれまでの栄町から300メートル南の中区南大津町2丁目すなわち現在地に移転、鈴木禎次の設計により新築開業したのは大正14年5月1日、このとき「いとう呉服店」から「松坂屋」へと商号変更した。

……震災の整理が一段落し、銀座店の準備が軌道に乗り始めた1924年3月に竹中工務店の手により着工し、翌1925年4月に竣工した。総面積約2万平方メートル、耐震・耐火鉄筋コンクリート建て、地下2階、地上6階の建物は、名古屋城と比肩する高層建築物であった。

銀座復興の先陣をきって、松坂屋銀座店が開店したのは大正13年12月1日のこと。国光生命保険のビルのテナントとして開店した銀座6丁目の松坂屋は、名古屋店開店と同日の大正14年5月1日に屋上に動物園を開設している。萩原朔太郎の詩「虎」(『氷島』所収)に詠まれた動物園。その銀座松坂屋が去年休業したときは、戦前の銀座松坂屋の歴史に愛着のあった身としては、ちょっとばかし寂しい気持ちになったものだった。


『松坂屋百年史』によると、昭和初期の名古屋は他の都市に比べて不況の影響が少なかったため、近隣から人びとが移住、昭和3年には人口が3年前よりも10万人増の約87万人となった、その急激な人口増加を背景に、松坂屋も店舗の拡張をはかり、同年9月15日に本館北側に2階建ての北館を増築した。その少し前の昭和3年5月には、月刊宣伝広報誌として『マツサカヤ』が創刊されている。『松坂屋百年史』に《各季節の商品紹介、催物案内の他に、名古屋市内における映画やイベント等のガイドブックとしての役割も果たした。》とあるように、『マツサカヤ』は百貨店の広告でありながらも名古屋の町そのものが体感できるグラフ誌にもなっている。



その『マツサカヤ』昭和7年8月号には、《まつさかやとごふじんの一生》と銘打ったグラビア記事。赤ちゃん用品、玩具・絵本売場にはじまり、6コマ目の「サンチマンタアル」と名付けられたグラビアでは、

此齢頃のお嬢さんは断然センチです。高畠華宵描くところのレターペーパーの表紙に随喜の涙をこぼし、若草と令女会は兎に角お読みになり手提鞄の中には米澤順子ものする詩集がテキストと同棲遊ばす……アッ! 只今ふかきため息もて次の詩集を手にとられました……おゝサンチマンタール。

とかなんとかいう解説がハート型にくりぬかれた写真の脇に添えられている(図書雑誌は5階)。



サンチマンタアルな女学校時代を終えて、9コマ目の「女学校は出たけれど……」では、アフタヌーンドレスをお召しになったご令嬢が仲良く二人連れでレコードの新譜をご用命(楽器売り場も図書と同じ5階)。



令嬢のモデルは「コロムビアの香代子嬢」。日ごとにお美しくなられるお嬢さまは、11コマ目ではお友だちと休憩室で待ち合わせ。休憩室は1階、2階、5階。松坂屋の休憩室といえば、野口冨士男が昭和5年5月末に慶應義塾文科予科から文化学院文学部に中途転校する際に、文化学院で教鞭をとっていた石浜金作宛に提出する作文を書き上げた場所として、ずっと印象に残っていた。

……その足で銀座へ出ると、その時分の百貨店にはどこでもそういうコーナーがあって女店員が煎茶をサービスしてくれていたものだが、松坂屋の休憩室で机の前に腰をかけて備えつけの便箋に三枚ほどの走り書きをして、松坂屋の筋むかいにあった三等郵便局から速達を送ると、折返し入学許可の速達がきた。

といういふうに、野口冨士男は当時のことを、『いま道のべに』(講談社、昭和56年11月20日)所収「吹き溜り――神田」で回想している。名古屋の休憩室も銀座と同じような施設だったことがこの写真からも如実に伺える。さて、《まつさかやとごふじんの一生》ではその後、お見合い、結婚を経て、人生は続き、お買い物も続き、最後の24コマ目では老齢のご婦人が4階美術部にて美術品を物色しているのであった。百貨店の女の一生。



大正14年1月、現在地に松坂屋が新築開業したときは約76万8000人だった名古屋の人口は、昭和9年には100万人を超えた。『松坂屋百年史』の記述は以下のように続く。

 名古屋店は、都市の発展につれて小規模な増築を重ねてきたが、いよいよ木造2階建ての北館を取り壊して大拡張工事を行うことになった。
 1935年8月24日から、本館の売場改装と並行して工事を進め、翌1936年9月19日には7階ホールが完成した。その後7階には婚礼儀場、美容室など諸施設が揃い、これらを「松坂屋倶楽部」と総称した。
 1936年12月1日には、各店街の先駆けとなった「東西名物街」を地下1階に設けた。京都・とらや黒川店(和菓子、羊羹)、大阪・松前屋(昆布)、東京・有明屋(佃煮)、東京・コロンバン(洋菓子)から成る名物街は、業界でも評判だった、
 1937年3月1日、総面積3万3000平方メートルの増改築が完成し、売場のみならず店内の諸施設も飛躍的に充実した。開店にあたり「全館完成記念福引大売出し」を開催するとともに、3月15日からは「名古屋汎太平洋平和博覧会」(主催名古屋市)協賛の「新日本文化博覧会」(〜5月31日)を繰り広げた。
 この博覧会を機に名古屋市は新興都市として大きく発展したが、名古屋店も増築によってその地位を更に強固なものとした。

名古屋市にとって、昭和12年という年は、2月の省線の名古屋駅新築移転を皮切りに次々と都市整備が整い、3月から5月にかけて博覧会が開催、10月には従来の中・東・西・南に加えて、千種・中村・昭和・熱田・中川・港の6区が加わり10区制となり、都市として大いに発展した年であった。松坂屋の増築は、名古屋の都市の発展とパラレルであったということがイキイキと実感される。百貨店は都市を映す鏡でもある。



と、これはその「大拡張工事」を記念して編まれたグラビア小冊子、『新館明粧』(名古屋松坂屋、昭和11年9月19日発行)。名古屋の写真家により撮影された新興写真ふうのスタイリッシュな写真がアート紙に美しく印刷、レイアウトされて綴じられた全32ページの小冊子。1930年代名古屋のモダンな雰囲気がいい匂いのようにしてただよってくる。



1ページ目には、新館の外観。成田光彌撮影。従来は6階建てだった建物に7階部分が増築されていることがわかる。北館はまだ工事中の鉄骨(増改築の完成は翌12年3月1日)。建物の左端にあしらってあるガラスの張り出し窓が特徴的。『新館明粧』の表紙の図案がこの張り出し窓にちなんでいるということに気づいて、あらためてシゲシゲと表紙を眺めて、うっとり。



張り出し窓とともに、『新館明粧』の表紙のモティーフになっているのは、建物の2階と3階の境い目に配置されている街灯。紅村清彦撮影。夜になると、美しく名古屋の鋪道を照らす。



入口ウィンドウより街路をのぞむ。子ども服のウィンドウと街路の女学生たちとが調和する心憎いまでに洒落た写真。撮影者の三國庄次郎は三國一朗のお父さん。濱田研吾著『三國一朗の世界』(清流出版、2008年5月5日)によると、三國庄次郎は明治28年、その名のとおり福井県三国に船員の子として生まれ、写真家を志して16歳で名古屋市内の中村写真館に入門、写真修行に励みメキメキと腕をあげて、大正9年に独立し、名古屋市中区広小路に「みくに写真館」を開業、翌10年1月、一朗が生まれる。



上の写真の階段を下ると、松坂屋自慢の食堂街。『新館明粧』にも多くの写真が収録されていて、写真とともに清水崑による挿絵が添えられている。《地下食堂街への階段は超満員・さすがに『食欲の秋』を思わせます。》とある。この小冊子、新興写真ふうのスタイリッシュな写真とともに、杉浦幸雄、吉田貫三郎、小関まさき、近藤日出造、益子しげを、矢崎茂四、中村篤九、片岡敏夫の一コマ漫画がとっても楽しい。



引き続き三國庄次郎撮影による、一階東大階段。伊東胡蝶園主催の懸賞写真の当選作を収める『御園のおもかげ』(大正12年3月刊)で、三國庄次郎撮影の写真を見つけたときは「おっ」だった。名古屋市博物館の吉田初三郎展に展示されていた観光社の広報誌にも三國撮影の写真が大きく掲載されていて、あらためて三國庄次郎の名を心に刻んだ。存分に才能を発揮して大活躍していたモダン名古屋の写真家として。



中二階には「銀サロン」という名の喫茶室がある。撮影は上が永田二龍、下が三國庄次郎。照明とガラス窓が印象的なモダンな内装。映画のショットのような写真にうっとり。「銀サロン」というと、久保田万太郎門下の大江良太郎が編集に携わっていた銀座松坂屋の宣伝誌『新装』昭和10年10月号に、《銀サロン 新装成る上野松坂屋中二階の瀟洒な喫茶室 松竹キネマの久原良子さん・小櫻葉子さん・高杉早苗さん》のグラビアが掲載されていた。上野店に喫茶室「銀サロン」が新設されたのは昭和10年9月19日(『松坂屋百年史』)。翌年に竣工の名古屋松坂屋の新館でも東京上野広小路と同様に、中二階に「銀サロン」という名の喫茶室があった。そして、「銀サロン」という名称は実は今も上野店の本館5階に洋食レストランの名称として健在。



六階から下った階段の踊り場で窓の外をのぞきこむ少年。紅村清彦撮影。



1階エレベーター前。武井不撓撮影。近藤日出造の漫画に《松坂屋へスーツと入つたトタン、スーツと音もなく上下するスマートなエレベーターが皆様の胸をスーツとさせます。》と書かれている。スーっとするエレベーターとともに、エレベーターガールも松坂屋の自慢だった。『松坂屋百年史』によると、エレベーターガールの始まりは松坂屋が最初で、それは昭和4年4月1日に新店舗が開業した上野店でのこと。《「昇降機ガール」が日本にも出来た 上野松坂屋の新刊で初試み 婦人職業の新進出》という見出しの、同年4月8日付け「讀賣新聞」の紙面が紹介されている。



一階エレベーター前の照明。紅村清彦撮影。《近代フランス様式を取入れ壁面と天井に応用せる豪華な電燈装備・ホワイトブロンズ金具に腐蝕模様入硝子の大シヤンデリヤ・壁面は入江谷大理石張り》というふうに説明がある。



昭和12年3月1日、松坂屋は同月15日より開催の「名古屋汎太平洋平和博覧会」に合わせて、全館の増改築を完成させる。これにさきかげて、昭和11年9月19日、本館の売場改装を記念して発行された『新館明粧』には典型的なモダン都市の気分がただよっていて、うっとりするばかりなのだったけれども、名古屋が都市として飛躍した昭和12年という年は、日中戦争が勃発した年であり、また「名古屋汎太平洋平和博覧会」もそんな時局を反映した一大イヴェントであった。近代の名古屋は軍事産業の中心地でもあったのだった。よって、アメリカ軍の空襲のもっとも重要な爆撃目標となり、敗戦時には市域の約40%を焼失した(図録『名古屋400年のあゆみ』名古屋市博物館・2010年1月8日)。



『松坂屋百年史』より、《炎上する名古屋店》。昭和20年3月19日の夜半の大空襲により、名古屋店は、地下2階を除き全館および木造付属建築焼失する。明治製菓名古屋売店が焼失したのも3月19日の大空襲であった。



同じく『松坂屋百年史』より、《名古屋店(右下)周辺(1945年)》。右下の松坂屋をはじめ、いくつかの近代建築の外壁が焦土のなかで点在している。



今回は暴風雨で屋外の歩行は諦めざるを得なかったものの、「味噌で煮たうどん」を食べに松坂屋にゆき、1930年代名古屋にちょっとだけ思いを馳せることができただけでも、ずいぶん楽しかった。戸板康二は『旅の衣は』の「名古屋」の項で、《味噌で煮たうどんを食べるのもたのしい。》と書いていたのだったけれども、実際に食べてみると、この戸板さんのなにげない一節がしみじみいいなと思う。そう、「おいしい」というよりもむしろ「たのしい」のだった。また、戸板康二は、

帰りには納屋橋まんじゅうを買う。このまんじゅうの皮の酒のにおいが好きだ。子供のころ、名古屋の親類がよく送って来て、親の会話を聞きかじり、ぼくはこれを「悩ましまんじゅう」だと思っていた。

とも書いている。戸板さんの好物の「納屋橋まんじゅう」に思いを馳せて、ソワソワ。そして、販売元の「万松庵」さんのウェブサイト(http://www.7884.co.jp/index.html)にうっとり……。納屋橋(http://www.7884.co.jp/history/index.html)を渡りたい! と、今度は好天の名古屋にて町歩きとモダン都市探索(のようなもの)をたのしみたいなと、百貨店の窓から暴風雨の名古屋の町をしばし見下ろしながらふつふつと思ったところで、イソイソと名古屋駅へと戻る。台風の日の博物館と百貨店、人生初の名古屋は大満喫だった。