冬休み大阪遊覧ダイジェスト(後篇)四ツ橋文楽座の跡地からそごうの跡地へ歩き、溝口健二の『浪華悲歌』をおもう。

ひとまず四ツ橋の記念碑を凝視したところで、高速道路の高架下を東へと戻り、鬼貫と小西来山の句碑が並んでいるさまを無事に見届けたところで、いざ四ツ橋文楽座の跡地へ行かんと、イソイソと道路をわたって、佐野屋橋で右折すると、そこは、がらんとした駐車場。本当にここなのかなとまったく実感がわかず、ぽかんと立ちつくすのだったが、ここは紛れもなく四ツ橋文楽座のあった場所であるはずなのだった(ぽかんとするあまりに写真を撮り損ねてしまった)。



まずは、『大阪市パノラマ地図』(大正13年1月5日発行)の世界へ。長堀川の心斎橋と四ツ橋(のひとつの炭屋橋)の間に架かる佐野屋橋南詰の南西角に注目。大阪町名研究会編『大阪の町名』(清文堂出版、昭和52年9月1日)の「鰻谷西之町」の項に、

佐野屋橋南詰の南西角、現在の鰻谷西之町十二番地に文楽座があった。この場所は、永く文楽座に対抗してきた非文楽系―彦六座―稲荷座―明楽座―堀江座―の残党によって明治四十五年一月建てられた近松座が、大隅太夫の死、伊達太夫の文楽入り、経営の失敗等で大正三年に閉場したあとである。文楽座は明治十七年松島から御霊神社内に転じ、明治四十二年以来松竹合名会社の経営するところとなったが、大正十五年十一月焼失したため、当時四つ橋ホテルとして営業していた近松座跡に改築移転した。昭和四年十二月の竣工であった。

と記されているように、昭和5年1月に新開場した四ツ橋文楽座は、明治45年1月に開場した近松座の跡地に建てられた劇場なのであった。大正15年11月29日に御霊神社の文楽座が焼失し、翌年の昭和2年1月より文楽は道頓堀弁天座で仮宅興行を開始、鴻池幸武編『吉田栄三自伝』(相模書房、昭和13年11月20日)によると、弁天座の興行も最初は大入りでもそう長くは続かず、文楽の人びとは巡業にやられがちであった。そんななか、旧近松座の建物を文楽に改築するため松竹が買収したという話を、栄三は吉野頭取から聞いた。《その頃は、ビルヂングになつて居て、中の人に出て貰ふのに大分隙が掛かつたやうでした。》と栄三は語る*1。この『大阪市パノラマ地図』の佐野屋橋南詰の南西角に描かれている白亜の建物がまさしく、四ツ橋文楽座が建つ前にこの場所にあった近松座の建物を改築したビルディングであると思われる。



近松座(位置:大阪市南区鰻谷西ノ町12、設計:設楽建築事務所、施工:田中仙吉、起工:明治44年7月、竣工:明治44年12月、階数:2階1部地階付、構造:煉瓦造)、『近代建築画譜』(近代建築画譜刊行会、昭和11年9月15日発行)=橋爪紳也監修『復刻版 近代建築画譜〈近畿編〉』(不二出版、2007年6月25日)に掲載の写真。

まずは、近松座のとってもハイカラな外観にびっくり! 倉田喜弘著『文楽の歴史』(岩波現代文庫、2013年6月14日)の第6章「輝ける明治」、「(四)近松座の夢」(p173-178)によると、近松座の発起人は浄瑠璃を愛する関西の財界人たちで、劇場は東京の有楽座を模した構造、外部は洋風、内部は白木の御殿造りだったという*2。明治45年1月開場の近松座は大阪の財界の義太夫愛好家の紳士たちを発起人とする劇場であった*3。上の写真の2階バルコニーに並んでいるのがその紳士たちかな。開場直後の『演芸画報』第6年第2号(明治45年2月1日)の「芸信」欄に、

昨夏建築中なりし近松座は愈竣工、一月十三日から大隅一座の人形浄瑠璃で開演、人形浄瑠璃といへば朝の八時から開ける旧慣を破つて、午後一時からとしたのも改良の一つでしやう、併しルネツサンス式の建物の中で、あの古い人形を踊らせる対照は、いさゝか異様に感ぜられないでもありません

とあるから、やっぱり当時もそのハイカラぶりは特筆に値したようだ。が、早くも大正3年11月には休場してしまったのだから、近松座の末路はあまりにもあっけなかった。植村家が文楽座の興行権を松竹に譲渡したのが明治42年3月(翌4月が松竹合名会社第1回興行で二代目古靭太夫襲名披露)、大正3年11月に近松座がなくなったことで、非文楽系の最後の本拠が消滅した。大ざっぱにまとめると、人形浄瑠璃=文楽=松竹となっていたのが近代の文楽の歩みであった。



文楽座(建主:松竹土地建物興業株式会社、位置:大阪市南区鰻谷西ノ町12、設計・施工:大阪橋本組、起工:昭和4年4月、竣工:昭和4年12月、様式:内部装飾室町式、構造:鉄筋コンクリート1部煉瓦造)、『近代建築画譜』に掲載の写真。

かわいそうな大隅太夫! とかなんとか近松座に思いを馳せたあとで、あらためて四ツ橋文楽座の建物の写真を見てみると、これまでのような単に「モダーン!」というのとはまた違ったしみじみとした感慨が湧いてくるのであった。石割松太郎著『人形芝居雑話』(春陽堂、昭和5年10月8日)には、上掲の『近代建築画譜』の近松座と同じ写真が掲載されていて、《今度文楽座と対抗して嘗て没落した四ツ橋々畔の近松座が、その外廓を残して四橋ビルヂングになつてゐたのを、松竹で買収して、こゝに文楽座を再興するといふことです。》というふうに語られている。そして、木谷蓬吟『文楽史』(全国書房、昭和18年2月20日)の末尾に、《今の文楽座の場所が會ての近松座の本城であり、そして稲荷座一黨将兵の討死の跡と想ふと、著者自身に最も因縁が深かつただけに……夏草やつはものどもが夢のあと……の感傷めいた気持にさへなるのである。》とあるように、近松座の跡地に松竹の手で文楽座が新築されることとなったという因縁にしみじみとなる。現在の四ツ橋文楽座跡地、今は駐車場になっている殺風景な光景を目の当たりにすると、ますます「夏草や兵共がゆめの跡」という感じなのだった*4



《初開場文楽座の外景》、早稲田大学坪内博士記念演劇博物館『図録 第2集』(昭和53年10月27日)より。昭和5年1月のこけら落とし公演を前に、昭和4年12月26日に開場式が挙行された。そして、この開場式の模様がラジオ中継されているというのが、いかにも昭和モダンの時代を象徴している感じなのだった。

文楽座の中継実現 けふが開場式
大阪文楽座は四ツ橋々畔に改築中の処愈々新装成つて二十六日開場式が挙行さるゝ事となつたのでBKでは過般の南座顔見世中継に好成績を収めたので再び此文楽座中継を計画し、古典芸術をあまねく全国に紹介の意味をもつて開場式当日の余興である人形浄瑠璃「寿式三番叟」の中継をやる事になり多年秘境とされてゐた文楽座にマイクロフオンの進出が実現する事になつた、中継放送時間の都合上一番最後の出番である古靭太夫、道八、歌助等十数名の大掛合義太夫に確定したが、試験の結果は至極良好だつたさうです。

と、当日の『都新聞』の「ラヂオ」欄に紹介がある。午後7時20分開始の『趣味講座』で上山草人の談話「ハリウツドの映画生活」、その次に講談、清元の放送があり、文楽座の中継はそのあと。《多年秘境とされてゐた》とあるから、文楽の生放送は本邦初だったのかな。そして、記事にあるとおり、四ツ橋文楽座の竣工した昭和4年12月は、京都の南座が新築成って華々しく顔見世興行を挙行していた月でもあり、文楽座と同様に南座も椅子席と相成った。さらに、奇しくも文楽座の開場式が挙行された昭和4年12月26日という日は、帝国劇場の経営が松竹の手に渡った日でもあった、つまり、全歌舞伎俳優が松竹傘下となった日であった*5。そして、松竹自前の東京劇場が開場するのは翌昭和5年3月29日のこと。四ツ橋文楽座の落成は、松竹がいわば天下をとった年月のまっただなかのことだったという事実が、明治末から昭和初期の演劇史の流れとともに深く胸にしみいるのであった。松竹に敗れ去った者たちの系譜のようなものをなんとはなしに思い、山口昌男の「敗者の精神史」的なことを思ったりもする。



今回、四ツ橋文楽座の跡地に立ち寄ってみようと思い立ったのは、演博の山城少掾展に深い感銘を受けた直後の冬休みだったからなのだけれども、明治から戦前昭和にかけての文楽の歴史にも思いを馳せることにもなって、思っていた以上に格別のひとときだった。今は何もなくても、やっぱり実際に行ってみるものだと思った。昭和5年1月に新築開場したモダーンな四ツ橋の文楽座は、山城少掾や栄三の時代を象徴する存在であるとともに、モダン大阪の都市生活のトピックのひとつとして前々からとっても愛着があった。



《豊竹山城少掾》展チラシ、早稲田大学坪内博士記念演劇博物館(http://web.waseda.jp/enpaku/)にて2013年9月21日から12月21日(11月24日から期間延長)まで開催。見台に向かう山城少掾(昭和22年3月27日、秩父宮邸にて「道明寺」を語る山城少掾。河竹繁俊旧蔵)の写真の上下に、四ツ橋文楽座のプログラムの表紙をちりばめたデザイン。展覧会場では山城旧蔵で現在は演博所蔵のプログラムがガラスケースのなかにズラリと並んでいて壮観だった。なかには山田伸吉による松竹座のプログラムと見紛うかのような斬新なデザインのものもあって、モダン大阪における四ツ橋文楽座というものをイキイキと実感した気がして、たいへん胸躍るものがあった。



《文楽座四月興行 人形浄瑠璃》、昭和5年4月の四ツ橋文楽座のブログラム。売店で10銭で販売されていた筋書で大きさはA5より一回り小さく、番附も綴じ込まれている。と、この表紙、一見したところモダン味は薄いように見えるけれども、ロゴに注目してみると、山田伸吉による松竹座のそれとよく似た雰囲気! 午後3時開演で、この月は『絵本太功記』の「本能寺」と「尼崎」、『義経千本桜』の「鮨屋」と「道行初音の旅路」、『艶姿女舞衣』の「酒屋」、『増補大江山』の「戻り橋」、午後10時45分終演*6


大正15年11月29日に御霊の文楽座が焼失し、翌昭和2年1月に道頓堀の弁天座で仮興行をした文楽であったが、演博の山城少掾展では、その弁天座の番付の展示に付された「御霊文楽座の焼失が繁華街に出て文楽が新たな観客層を獲得する契機となった」という内容の解説がとても印象的だった。昭和初期の弁天座での文楽興行といえば、『蓼喰ふ虫』に登場する文楽見物のくだり、小出楢重により描かれている挿絵がまさしくその弁天座であった。『蓼喰ふ虫』は「東京日日新聞」「大阪毎日新聞」の夕刊に、昭和3年12月4日から翌4年6月19日まで全83回にわたり連載されている(「東京日日新聞」の紙面を実見すると、時々、5日から長いときは2週間の休載がある)。『蓼喰ふ虫』の作中、弁天座では『心中天網島』が上演されている。『義太夫年表』を参照すると『心中天網島』は昭和2年3月に上演されているから(1日初日、23日打上げ)、谷崎はこの興行を見ているのかな……と思っていたら、小谷野敦氏による「谷崎潤一郎 詳細年譜(http://homepage2.nifty.com/akoyano/tanizaki.html)」の昭和2年3月1日の項に、《谷崎夫婦、佐藤夫婦と芥川の五人で、弁天座の人形芝居「心中天網島」を観て、その夜は谷崎と芥川で大阪の旅館千福に行き、語り合って一泊。》とあって、感動。谷崎はこの興行の初日を見物していたのであった(さらにこの翌日、根津松子と初めて対面していることがわかって、興奮)。谷崎が作中に《今日の寒さは廊下よりも客席の方がひとしお》、《見わたしたところ、小屋は相当の広さであるのに四分通りしか入りがない》というふうに書いているのをそのまま受け取ると、1月に弁天座の興行が始まって、早くも3月に客席は閑散としてしまっている*7



《辨天座》(位置;大阪市南区道頓堀、設計・施工:大阪橋本組、起工:昭和4年7月、竣工:昭和4年8月、構造:木造、備考:本工事は改装せしものなり)、『近代建築画譜』に掲載の写真。キング・ヴィダーの『薔薇はなぜ紅い』が上映されているので、この写真は昭和11年5月下旬から6月上旬くらいに撮影されたらしい(あとで詳述する溝口健二の『浪華悲歌』の封切と同時期の写真)。


道頓堀弁天座が松竹の直営となったのは大正5年5月で、大正12年8日改築されている(『松竹七十年史』昭和39年3月20日/『松竹百年史』1996年11月22日)。昭和2年1月に文楽の仮宅興行を開始後、弁天座での文楽興行は昭和4年5月をもって終わり、その後文楽は巡業を続け、昭和4年12月26日の四ツ橋文楽座の開場式を迎えることとなる。そして、弁天座の方は、同年夏に改築工事に入り、8月31日に新開場。『道頓堀』昭和4年9月号(第4年第36輯)に、《モダーン姿に変つた辧天座》の写真とともに、常務取締役福井福三郎名義で《欧米映画の封切を中心として、演劇、舞踊、音楽、レビュー等の素晴しき陣容のもとに、特に大衆的なる事を眼目として、料金の低廉を計り、あくまでも、みなさまがたの辧天座を標語下に営業政策を致して行く所存で御座ゐます。》というふうに、意気揚々と告知されている。

ちなみに、ちょうどこの夏、岡田時彦が日活から松竹に移籍していて(同年9月には及川道子が松竹入り)、松竹座チェーン実演の巡業のあと、同年10月に蒲田入りした(『松竹七十年史』)。『道頓堀』昭和4年8月号(第4年第35輯)に、岡田時彦が眉目秀麗の極致のポートレートとともに、「自己を語る」を寄稿している。《何しろ大阪の夏は始めてで、それが今年は選りに選つて数十年来の暑さだと云ふのだから、かてゝ加へて一方にはこれも臍の緒切つて始めてのレヴューの稽古場通ひといふ、放つて置いたつて当然冷汗ものに違ひない苦行を背負つてゐるのだから、僕の此の度の暑気あたりと来たら土台お話にならない。》という身体を押して、松竹座の稽古場(3階だが、地下に下りてから上り直すから実質4階という)に通っている岡田時彦であった。

宿に帰るともうグツタリとなつてしまつてまるで白痴の様に喘いでゐる。それに第一宿といふのが、地の利を説明すると大黒橋北詰、しかも僕の座敷は道頓堀の河ツ淵に開けてゐるので、日がな終日円タクの警笛や市電の軌音やモーター・ボートの往来や其の他一切の盛り場の雑音を吸収して遺憾ないために、体を憩めるどころが一層気鬱が重なるばかりである。

というくだりが、モダン時代のまっただなかの道頓堀の喧噪を彷彿とさせて、大好きだ。今度大黒橋附近を歩くときに思い出したいくだり。


……などと、大きく寄り道してしまったが、レヴューと映画の時代を象徴するような昭和初年代の松竹の経営のありようを、楽天地、朝日座、弁天座、角座、松竹座、中座、浪花座の小さな広告を眺めて実感することができるのも、四ツ橋文楽座の筋書きの見どころのひとつなのかもと、現時点で唯一手元にある上掲の昭和5年の筋書を眺めて思った。千日前楽天地の跡地に大阪歌舞伎座のこけら落とし興行がなされるのが昭和7年10月。その大阪歌舞伎座の広告も華々しく掲載されていたことだろう。四ツ橋の場所で、道頓堀や千日前に思いを馳せる、山城少掾や栄三、文五郎が活躍していた時代の文楽。


それから、演博の山城少掾展では、プログラムの表紙も多く手がけていた斎藤清二郎による木版多色刷の絵葉書が展示されていて、肥田晧三先生が四ツ橋文楽座の思い出として綴っていたのがこの絵葉書なのだなあと、うっとりだった。

私がはじめて文楽を見たのは昭和十三年の五月興行である。いま記憶を呼びさまして書いているが、「伽羅先代萩」の竹の間と御殿(駒太夫)、「新版歌祭文」の座摩社頭、油屋(古靱太夫)、野崎村の通しが、その時の演目であった。先代津太夫の「沼津」を見たのは、この時であったか、あるいはやや後のことであるが、当時私はまだ小学生であったが、たちまち人形芝居が好きになって、その後も、文楽座がつい近所のせいもあり、一人で見に出かけたことが何度もあった。夜の部のハネたあと、島之内の暗い町をわが家へ小走りに帰路を急いだ。冬夜は、その頃の小学生がみんな着ていた黒の外套、金ボタンが前で二列になっているダブル型の外套のポケットに両手を突っ込み、暗い町を駆けて帰ったことを思い起こす。宮尾しげをの『文楽人形図譜』を愛好して、少年ながらいっぱしの文楽通であった。文楽座の売店では斎藤清二郎画伯の筆になる木版多色刷の絵ハガキを売っており、それは文楽に夢中だった少年には何より魅力の品であった。一枚三十銭という飛びきりの高値で、大抵三枚一組の袋入りになっている。私らは一枚を買うのがやっとのこと、それも三度に一度、ようやく買えるくらいの高級品であった。

(肥田晧三「なにわの文化――文楽」(初出:「関西大学通信」105・昭和55年11月)、『上方風雅信――大阪の人と本』(人文書院、昭和61年10月30日)所収)

肥田少年の住まいは島之内の鍛冶屋町だった。吉田栄三の住まいは鰻谷東之町の鍛冶屋町筋で、肥田晧三先生は《夏の夕、床几で夕涼みする栄三の姿を私は少年時代に何度も見ている。》と書いておられる(「鍛冶屋町の思い出」)。その栄三は四ツ橋文楽座までテクテク出勤しており、

鰻谷のもとの高島屋の真裏にあつた間口の狭い、昔風に表二階の屋根の低い、いつもひッそりとしていたしもたやの、出格子に「百草根」というリュウマチの薬の黒に金文字の看板を掛け、柳本栄次郎と表札の出ていた栄三さんの家は、通りすがりの眼に久しい馴染だつたし、たまにはその附近の途上で、文楽座へ出勤するらしい、むッつりした表情の小柄な栄三さんが、羽織に角帯の着流しに、無帽で歩いているのに出逢うこともあつた。風采のあがらない、それに芸人らしいところの微塵もなかつた栄三さんは、堅気な、どこか佐野屋橋へんの中どこの古着屋の主とでもいつた風躰に見えた。……

と、こちらは、入江泰吉写・茶谷半次郎文『文楽』(創元社・昭和29年4月25日)所収の「栄三の憶い出」の書き出しの一節。戦前まで、佐野屋橋南は古着の問屋街で多くの人びとでに賑わう界隈だった。


……という次第で、肥田少年と吉田栄三に思いを馳せつつ、四ツ橋文楽座のあった場所から御堂筋に向かって東へと歩を進めてゆくのが、この冬休みのかねてよりの計画だった。



と、御堂筋に出た瞬間、今は大丸北館となっている旧そごう跡地、かつて村野藤吾設計のそごうがあった場所のまん前に出て、大興奮だった。四ツ橋文楽座とそごうがこんなにまで至近距離だったということを実際に足を運ぶまで迂闊にもよくわかっていなかった……ということがよくわかって、大興奮だった。



入江泰吉写・茶谷半次郎文『文楽』(創元社・昭和29年4月25日)に掲載の、敗戦後の文楽座の写真。左端に写っている、村野藤吾設計のそごうの御堂筋沿いの外壁に注目。この場所に文楽座のあった時期(昭和5年1月開場、昭和21年2月に復興開場。その後、弁天座跡に本拠を移し、昭和31年1月に道頓堀文楽座開場)は高層の建物が少なかったから、文楽座の前からは、御堂筋にそびえ立つ村野藤吾のそごうの建物がすぐ近くに見えたことだろうと思う。



四ツ橋文楽座と村野藤吾設計のそごう、といえば、溝口健二監督の『浪華悲歌』(昭和11年5月28日封切・第一映画)でいずれもたっぷりとロケされており、その点でも長年たいへん思い入れがあった。溝口健二の『浪華悲歌』は、大阪町歩きに夢中になった当初からいつも思いを馳せる大好きな映画であり、ここ数年、大阪に行くたびに見返してはそのたびになにかしら発見がある。ここに登場する1930年代大阪の都市生活のトピックには長年愛着たっぷり。戎橋の雑踏、築港の景色、大阪パンシオンをモデルにしたアパートメント、四ツ橋文楽座、心斎橋筋のそごう、地下鉄……。という次第で、四ツ橋文楽座の跡地から村野藤吾のそごうの跡地に出た瞬間は、『浪華悲歌』の都市風景をイキイキと体感して、大感激だった。やっぱり、実際に歩いてみるものだなあとあらためて思った。

というわけで、この冬休み、『浪華悲歌』の都市風景をイキイキと体感した記念に、以下、『浪華悲歌』の文楽座とそごうのロケシーンをじっくり見なおしていくとしよう。



『浪華悲歌』における、文楽座のシークエンスでは『野崎村』が上演中。人形遣いが栄三だったら貴重な記録映像になったところであったが、残念ながら映画撮影用に人形遣いは全員黒子姿。久松に肩を揉んでもらっている久作が「こたへるぞ、こたへるぞ」と言っているところから始まり、お光が久松を追ってきたお染の姿を見て悋気する場面へと続く。文楽の舞台と映画のストーリーをオーヴァーラップさせているという凝った脚本。


次は、2階の下手から上手桟敷席をのぞんだ構図。天井のシャンデリアが素敵。



昭和4年12月26日の文楽座開場式の配りもの『昭和四年十二月竣工 文楽座建築概要』より、文楽座の天井。《内部観覧席は郷土芸術の殿堂に応しく、古風に天井は格子に極彩色で室町時代の紋様模様を画き絢爛なもの、材料は統て特選の檜材を用ひ、壁勾欄窓、電燈、器具等に至るまで日本固有の高雅優美を旨として本邦古典芸術の王座として、大阪のもつ世界的誇りである偉容を見せ……》とある。



カメラは一階席の後方席を写したあと、上手側桟敷席で観劇する丸髷に結った山田五十鈴と志賀廼家弁慶を写す。道修町の製薬会社の主人(婿養子)・志賀廼家弁慶と彼の妾となっている山田五十鈴が文楽座に観劇に来ている。天井のシャンデリアのみならず、各所に配置されている電燈がとってもモダンなのが印象的。現在よりも、客席はだいぶ薄暗い感じがする。



『昭和四年十二月竣工 文楽座建築概要』より、《舞台より観覧席を望む》。二階正面中央に貴賓席が用意されている。《観覧席内部は純日本風二階造りで各桟敷には勾欄を廻し天井に二重折上格天上に極彩色の紋様模様を画き左右及正面には檜皮葺庇をつけ桟敷は一階左右二階正面より左右へと三十間の座席を設け、一階中央全部及二階後方の一部は椅子席で、舞台前には必要に応じて取設け自在のオーケストラボツクスを設備し、一階後方にはトーキー映画上映のための電気設備も御座います》。



『溝口健二作品シナリオ集』(文華書房、昭和12年5月15日)所収の脚本によると、志賀廼家弁慶の本妻・梅村蓉子と主治医・田村邦男とその細君が別の席で観劇していたという設定。二階から一階をのぞんだショットのあと、主治医・田村邦男が「えらいこっちゃ、えらいこっちゃ」と志賀廼家弁慶の席に飛んできて、二人を廊下へひっぱりだす展開となる。舞台の『野崎村』は、お光が「久松様には振袖の美しい持病が有て。招いたり呼出したり。にくてらしい、アノ病ひづらが這入ふ様に。敷居の上へ大きふしてすへて置たい」と悋気を起こしているところ。



桟敷席を出たところの上手側ロビーにて立ち話、本妻が来ていることを二人に告げる主治医・田村邦男であったが、ほどなくて、本妻・梅村蓉子が登場。しまいには、「ええつ、口惜しい、みんなして寄つてたかつて、あてをなぶりもんにして……」と、廊下にべったり座り込んでしまう梅村蓉子。ここで、カメラは舞台へと切り替わり、人形のお光も「いえいえ構ふて下しやんすな、今の様な愛想づかしも、みんなアノ病面めが云はしくさるのぢやわいなあ……」とヒステリーのまっ最中。



『昭和四年十二月竣工 文楽座建築概要』より、《外観全景》。客席は南方向で、上手桟敷を出た側面、すなわち劇場の西側に別棟の食堂があった。《本館の西側付属館の一、二、階に南一直営の大食堂があります。一階はお通りがかりのお方でも自由にお入りを願う公衆食堂、二階は御観客様本位の食堂に充てゝゐます。和洋欧風料理の粋をつくし統て一定の代価を附けてをります》とのことだから、一階食堂は文楽座の客でなくても利用できたようだ。少女時代の岡部伊都子は文楽座の食堂ではいつもチキンライスと三ツ矢サイダーが決まりだったと語っている(『上方風土とわたくしと』大阪書籍・昭和59年11月)。


引き続き、《表二階廊下(貴賓席御入口)》。二階正面中央に、《貴賓席を設けて内外高貴のお方の御観覧に備へてあります。》。正面入口から文楽座のなかへ入ると、まず目に入る色彩は絨毯の燕尾色だった。本妻・梅村蓉子がツカツカと歩いてきたロビーの床も燕尾色だったことだろう。



絵に描いたような修羅場! というところで、脚本のト書きの《主治医が株屋の藤野をつかまへて口説いている》の場面となり、株屋・進藤英太郎登場。「悪い役廻りやなあ……」「落目やで、しようむないこと頼みないな……」と、梅村蓉子の方に「ワイのこれやがな」と山田五十鈴のことを取り繕って、その場は収まって、ひとまず一件落着。映画では文楽座のシークエンスはここでおしまいなのだけれども、シナリオでは進藤英太郎が山田五十鈴を口説くシーンが続く。舞台に画面が切り替わり、「そなたは思ひ切る気でもわしや何んぼでも切らぬ……」。廊下では進藤英太郎が「君はいつ見ても奇麗やな……どや、わいと浮気せんか」「あて失礼します」、アヤ子その手をふり払つて逃げる。藤野舌打して「あかんたれやなあ……」。最後に、「逢ひに北やら南やら……」と続いている舞台が映し出されて文楽座のシークエンスは締めくくられる。



そして、文楽座の直後にそごうのシークエンスとなる。シナリオによると、文楽座の数日後の昼の出来事。あいかわらず丸髷に結っている山田五十鈴が化粧品売り場で買い物していると、電話交換手時代の恋人・原健作にばったり対面。



勤め先の社長の囲われ者になっていた山田五十鈴は自身の丸髷を、美容院に勤める友だちの練習のためだと原健作に言い繕う。このシーンで初めて、「そごう美粧室 三階」のネオンが映し出されて点滅し、この百貨店がそごうだということがわかる。と同時に、観客はこれはタイアップだなと察知するのであったが、それは、『オール松竹』第15巻第6号(映画世界社、昭和11年6月1日)に掲載の、小倉武志「横から眺めたロケーシヨン 「浪華悲歌」の巻」にある、

 心斎橋筋の十合デパートは今日が公休日である。その公休日を拝借して、山田のアヤ子が恋人の西村進(原健作)とランデヴーの楽しい一日の撮影である。(中略)
 十合デパートとタイアツプしたんで(高橋梧郎宣伝部長のお手柄である!)一階から七階まで自由に使へることになつてゐたし、それに十合デパートの店員が特別出演するといふんだから、仲々面白い。デパート・ガール総数百五十人、仲々キレイな娘さんがゐる、山田と、何れがスターか一寸判断しにくい位の美人もゐる。オツトこれは失言。……

というくだりで明確に裏付けられるのであった。



「十合デパートの店員が特別出演」する公休日の店内を移動する二人をやや遠くからとらえた、このシーンが大好き。3階の美粧室にいたはずの二人はいつのまにか、1階にいて、エレヴェーターで上にあがってゆく。橋爪節也著『モダン心斎橋コレクション』(国書刊行会、2005年9月7日)を眺めながら、この映画を見ると、臨場感たっぷり! このエレヴェーターは同書の110〜111ページの見開きで紹介されている、島野三秋作の漆螺鈿によるエレヴェーター。



エレヴェーターで上がった二人は、2階と3階の吹き抜けで心斎橋筋側に位置していた「そごうパーラー」で語り合う。シナリオのト書きに「小鳥の囀ずる声が賑かである。飲物を置いて西村とアヤ子。」とあるとおりに、小鳥のさえずりをバックに語り合う二人。長谷川堯著『村野藤吾の建築 昭和・戦前』(鹿島出版会、2011年2月28日)に、《階段を昇り切って右に折れて進むと喫茶室の中に入り、明るく軽快な雰囲気の空間に包み込まれる。この部屋の明るい雰囲気を決定づけているのは、高さが八m近くもある天井画の東端一列の、ガラス・ブロック板を通して落ちてくる外からの明るい透過光であるに違いない。》とあるが、そんな自然光の明るい雰囲気が映画でもなんとはなしに漂ってくる。電燈も素敵。


というふうに、第一映画の「高橋梧郎宣伝部長のお手柄」により、そごうとのタイアップが実現し、『浪華悲歌』において、とびきり素敵なそごうの店内映像が残されることとなった次第であった。当時は単に「宣伝」の一環に過ぎなかったタイアップであるけれども、後世に絶好の映像資料を残しているという典型がここにある。長谷川堯著『村野藤吾の建築 昭和・戦前』によると、昭和6年10月に始まった第一期工事が完了して「新装仮オープン」したのが昭和8年8月、その後、第二期工事が完了し「新館完成オープン」したのが昭和10年10月1日だった(昭和8年5月20日に梅田・心斎橋間で開通した地下鉄が、昭和10年10月30日に難波まで延びている)。第一期工事は《御堂筋に面した北側の敷地に新館完成》、第二期工事は《御堂筋に面した南側と心斎橋筋を繋ぐ新館完成》であるので、昭和11年5月28日封切りの『浪華悲歌』が記録しているのは、華々しく新館完成オープンがなされてから間もない時期だったということになる*8

『浪華悲歌』撮影当時、溝口健二が所属していた第一映画社は、日活を退社した永田雅一によって昭和9年9月に設立された撮影所であった。このとき永田雅一と行動をともにした高橋梧郎は、日活撮影所生え抜きの宣伝マンだった。そして、同年11月に松竹が日本映画配給株式会社を創立することで、第一映画の配給を手がけるようになる。『キネマ旬報』第528号(昭和10年1月1日号)に掲載の、池田照勝・友田純一郎「一九三四年業界決算」では、《十月末設立された資本金百二十万円の松竹キネマ姉妹会社日本映画配給株式会社は大谷、白井、城戸、町田等現松竹お歴々諸氏が相談役、重役として列し、(中略)自由配給を標榜して内に松竹勢力の拡張、侵出を企図し、松竹資本進出の積極的意図の一端を具現した。》というふうに総括されている。

という次第で、『浪華悲歌』も配給は松竹によってなされているから、そごうと同様に、文楽座のシークエンスもタイアップの一環とみて間違いないだろう。映画のためにわざわざ『野崎村』の舞台と満席の客席が用意されて、じっくりとロケされることで、先に見てきたように、モダン大阪の名所としての今はなき四ツ橋文楽座の姿がとびきり素敵な映像として今も残ることになった。松竹キネマの島津保次郎『隣の八重ちゃん』(昭和9年6月封切)に映る帝劇をはじめ、松竹の映画にしばしば歌舞伎座や国際劇場、東劇が映ったりする。同様に、P.C.L.や東宝映画には、しばしば東京宝塚劇場や日劇や有楽座が映ったりする。これらの映像を見ることで、昭和モダン時代における演劇と映画の大型資本化の一端を現在も垣間見ることができるのだった。そして、映画に映る劇場はすべて現在は消えてしまった建物であるから、モダン都市の気分をスクリーンを通して体感する、そんな「まぼろし」のモダン都市にひたるひとときはいつもとても甘美。森鴎外の『青年』における自由劇場の有楽座を典型として、劇場は、都会の文化生活(のようなもの)を謳歌する紳士・淑女の社交場であり、また、えてして偶然の出会いによってストーリーの展開をうながすきっかけをもたらす場面にもなり得る。近代日本の都会小説における劇場と同じように、昭和モダン時代における演劇と映画の大型資本化により、戦前日本映画に劇場が印象的に記録されている。


『浪華悲歌』は昭和11年5月に完成し、同月28日に封切られた。批評家筋には評判がよかったものの、興行的にはあまり振るわなかったようで、『キネマ旬報』第578号(昭和11年6月11日)の「映画館景況調査」によると、東京浅草の帝国館(松竹直営)では5月28日に封切られて、『下田夜曲』(松竹ネオ・スーパー・トーキー)、『姿なき魔刃』(下加茂サウンド版)、尾上房子の舞踊実演と合わせて、6月3日まで上映された。《今週は洋画に押されて全く振はない》という状況であり、『浪華悲歌』に関しては、《本年度日本映画中の白眉であるが、いまゝでの第一映画作品が観客に好意を持たれてゐない為に、ひとつは宣伝不足の為に、なんらの威力も発揮しな[か]つた。想へば惜しい映画を殺したものである。》とある。丸之内松竹劇場と新宿松竹館での封切も同じような状況で、《地方の館にあつては是非ともこれが本年度屈指の名画であることを極力客に知らすべきである》と力説されている。

一方、大阪での様子はというと、大阪劇場(千日前、白井直営)にて5月29日から6月4日まで、『姿なき魔刃』(下加茂サウンド版)とレヴュウ『大阪踊り』、実演『火山人間』とともに上映されていて、《『浪華悲歌』を呼び物にしての盛沢山の番組であるが、之は相当にヒットして、日曜、月曜など共に好況を極めた。》という。



《大阪劇場(元名:東洋劇場、建主:千日土地建物株式会社、位置:大阪市浪速区河原町1丁目1550、設計:八木工務所、施工:矢島組、起工:昭和6年1月30日、竣工:昭和8年8月30日、様式:近世復興式、構造:鉄骨鉄筋コンクリート造)》、『近代建築画譜』に掲載の写真。


大阪千日前の東洋劇場が白井松次郎の手に渡り、松竹経営となったのは昭和9年8月1日。大阪劇場と改称して、従来の道頓堀朝日座に代わって、松竹映画の封切とともに、松竹歌劇等のアトラクションを定員予約制で上演していたという(『松竹七十年史』/『松竹百年史』)。千日前の大阪歌舞伎座が竣工したのは昭和7年9月で、翌10月がこけら落とし興行だった。戸板康二はのちに、

 大阪の歌舞伎座は千日前にあって、道頓堀からぶらぶらと南に歩いて行く道中が何となく楽しかったが、劇場がハイカラな建築の大伽藍で、外見は温泉の大浴場を何倍にも拡大したような、歌舞伎にはあまり似つかわしくない小屋だった。
 だから、新派だの、五郎劇だの、休暇で関西に行くたびに何か見には行ったが、中座や浪花座のようには、落ち着かなかった。

と回想している(『思い出の劇場』青蛙房・昭和56年11月20日)。慶應義塾の文科に学ぶ戸板康二が長期休暇のたびに関西で観劇を楽しんでいたのは、昭和7年から12年にかけての5年間だったから、北尾鐐之助著『近代大阪』(創元社、昭和7年12月25日)の「千日前附近」の結びに、

歌舞伎座が新築されて、千日前の空気は一変した。人の流れはこの巨壁に当つて、ぐるぐると四辺に奔流した。やがて東洋劇場が建ち、御堂筋線が完成すると、当然、南海ビルの地下鉄停留場が、もつと強く、千日前の人の流れを左右するであらう。さうなつた暁、十銭の萬歳劇場が、どうして大資本的色彩に染めかへられないものでもない。

と書いているまっただ中の時期ということになる。この背後には、昭和7年7月に全店開店した難波の高島屋の存在があった。昭和8年5月に梅田・心斎橋間で開通した地下鉄が難波まで延びたのが昭和10年10月30日で、同月1日に開業したそごうは、大阪地下鉄が梅田・心斎橋間で開通した昭和8年5月に全館完成した大丸とともに、御堂筋拡幅ないし地下鉄の開通と連動して新装したのであった。『浪華悲歌』が描いていたのは、地下鉄の開通が体現するところの1930年代大阪風景であったとも言えるかも(ちなみに、『浪華悲歌』の地下鉄シーンは設定は大阪だけど電車と駅のロケは京都で新京阪、地上の出口のみ大阪で撮影されている)。




『内藤多仲作品譜』(城南書院、昭和19年3月28日)より、そごうの「鉄骨建方完成」写真と第二期工事中の写真。馬も大活躍。同書の巻頭言には、《構造の面白さは意匠の面白さに何ら変りはないと思ふ。唯それは縁の下の力持の様に外面に顕はれぬ場合が多い。けれども一朝風とか地震とか云ふ場合に覿面にその効果が顕はれる。……》とある。第一期工事が昭和6年10月に始まったそごうの鉄骨、どんどんできあがってゆく建物は、四ツ橋文楽座の外からよく見えたことだろうと思う。



同じく『内藤多仲作品譜』より。大丸もそごうも構造設計は内藤多仲であった。ヴォーリズの大丸、村野藤吾のそごう……というふうだけでなく、内藤多仲目線での建物見物もいつも大好き。



グラビア口絵『大阪八景』(詩:小野十三郎、撮影:小石清)より「御堂筋」、『銃後の大阪』第3報(大阪市社会部軍事援護課、昭和16年5月31日)掲載*9

御堂筋は
大阪を南北に貫く。
道幅廣く街路樹青く
市民のラヂオ体操場として理想的である。
ときに行はる
軍楽隊の大行進は
沿道を熱狂せしむ。

という、小野十三郎の詩が添えられた、小石清撮影の銃後のそごう前の御堂筋。そごうの南端に地下鉄の入口。ここから空を見上げると、そごうの御堂筋側の5階から6階部分の外壁を飾っていた藤川勇造のブロンズ像《飛躍》が見えたはず。



その藤川勇造作《飛躍》は現在、そごうの跡地に建つ大丸北館の屋上に移築保存されている。四ツ橋文楽座の跡地からそごうの跡地へと歩いて、『浪華悲歌』の都市風景を体感したあとで、たどりついたのがこの屋上。文楽座もそごうもなくなり、《飛躍》だけが今もここに残っている。《飛躍》をじっくり観察したあとで、冬晴れの青い空の下、大丸北館の屋上から大阪の町を眺める時間はとても格別だった。

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*1:『義太夫年表 昭和篇 第1巻(昭和2年〜昭和11年)』(和泉書院、2012年3月30日)の昭和3年12月の項で紹介されている『浪花名物浄瑠璃雑誌』第276号の記事に、《文楽座は四ツ橋に確定/大阪名物の文楽座は御霊神社境内の同座焼失以来道頓堀弁天座その他で興行してゐたが、大阪市四ツ橋ビルデング(旧近松座)を改築して同座の定小屋とすべく御大典までに改築する計画でその筋に書類を提出してゐたが、書類不備のため延引してゐたところ大阪府保安課では近く認可する所となつた。(以下略)》とある。

*2:『岩波講座 歌舞伎・文楽10 今日の文楽』(岩波書店、1997年12月19日)の垣内幸夫「2 近代との摩擦 大正期の文楽」に、『浄瑠璃雑誌』第100号(明治45年1月)所載の記事「近松座初舞台」が紹介されている(p56)。曰く、《遠大の抱負と高尚なる理想を以て組織せられたる近松座株式会社が地を佐野屋橋南詰に相し劇場の建築に着手したるは昨四十四年1月なりし[中略]敷地の総坪数三百五十六坪、建坪百九十八坪にして煉瓦建二階建、屋根はルネヱーツサンス式、嶄然として鰻谷の天空に聳ゆるもの是れ即ち文豪近松翁の姓を冠する近松座の外観なり、此の地所を購うに三万円の価を払ひ、建築費の総額は実に十七万円と称せらる、内部は総て檜造り純日本式にて優に七百三十余りの聴客を容るべし、舞台の間口は六間にして奥行五間、文楽座よりも広きこと各半間宛なり[中略]開場は毎日午後正一時を遅れず閉場は十時を出でざる抔も聴衆の業務と衛生を慮りたる跡を見るべし》。

*3:『道頓堀』第5年第40輯(昭和5年1月1日)に掲載の、竹本土佐太夫「新文楽の竣成と 思ひ出るまゝ」では、《これは曽て文楽座に対抗して覇を争つた彦六座の一派が敗れては興り、浮んでは沈んだ結果、堀江座によつて残党が旗揚してゐた処斯道に御熱心であつた八木与三郎[、]緒形正清、島徳蔵、桐原捨三、岡田茂馬の諸氏が全く斯道救済のお考へで、日本で初めての株式会社を以て、あやつり興行を企てられたのでありました。最も其以前彦六座後も合名組織はありましたが、株式といふ程には至りませんでした。此の近松座が即ち今度新文楽座の建つた土地でありまして、此の土地はよくよくあやつり座に縁の深い処と見へます。近松座は其頃にあつては先づ古来無比の上小屋即ち良劇場でありまして、と迚も御霊文楽座などはお傍へもよれぬほどのものでありました、……》というふうに、近松座のことが回想されている。

*4:近代の佐野屋橋筋の町並みについては、『幕間』第126号(第10巻第12号・昭和30年12月1日)の記事「さよなら、四ツ橋文楽座」所載、鷲谷樗風「四つ橋文楽の歩んだ道」に、《「四つ橋文楽座は場所がわるい」とよく云われる。然しこれは沿革から一寸説明して、今はわるいが昔は悪くなかつたことを承知してもらいたい。この座の前に佐野屋橋がある。佐野屋橋から北は座摩前筋に出て北に一すじ御霊神社の南鳥居に行くことが出来た。その鳥居を入ると御霊文楽の三味線が聞えてかきもちの角を曲ると文楽の表に出たのである。佐野屋橋筋、座摩前は古着屋街で田舎の人達が買物に来る大阪の名物街、佐野屋橋南は古着の問屋街であつた。こうした外に新町、堀江の花街、横堀の材木、石屋などを控えた目ぬき場所であつたから、此処に近松座が建てられ、文楽座が出来た。それが戦争でスッカリ壊滅した形でポツンと文楽座だけであるから、いよいよ場所が悪るくなつたのである。新町堀江の復興はパッとせぬ。昔の佐野屋橋筋、座摩前の特長もない、砂をかむような味気ない町並がつづいている。文楽座々主植村の妻女が古着屋で目を引く切れを買つておいて人形衣裳に工夫をした逸話も夢である。文楽座の周囲は広場と自動車とトラックで気持をイラ立たせるだけである。尤も昭和五年新装の文楽座が出来たときは、昔の面影だつたから、文楽のヒンターランドとなる町と人があつた。……》とある。

*5:昭和4年12月5日付け『都新聞』の記事「帝劇の興行は今後一切松竹の手で経営 完全に掌握した松竹王国の躍進 各方面に大波瀾」に、《創立以来二十年、松竹王国に対抗してわが劇壇の一方に雄飛し、旧劇に新劇に、海外芸術の紹介に幾多の功績を遺した帝劇も、震災後続々新築落成した歌舞伎座、明治座その他の大劇場の影響を受けて毎月の興行成績も兎角思はしからず欠損に欠損を重ねて対策について大いに腐心してゐたが、先月二十日頃より俄に松竹との提携問題が持ち上り根津嘉一郎氏が中心に立つて大谷松竹社長、山本帝劇専務との間に種々交渉が重ねられた結果、話はトントン拍子に進んで、帝劇は現在歌舞伎座と松竹との関係の如く、劇場を松竹に賃貸して興行一切を松竹の手に委ねるとことに決定したよつて山本専務は昨四日午後二時東京會舘に俳優並びに主たる関係者を集めてその経過を発表し、更に近く株主総会を招集して承認を求める筈であるが、帝劇の座付俳優は目下開演中の女優劇に残つてゐる連中を除き、梅幸、幸四郎、宗十郎等の大幹部全部は京都南座の顔見世興行に出演してゐるので、山本専務はそれ等幹部俳優の諒解を求むべく昨夜京都に急行した、市村座が没落して菊五郎一座が松竹の懐に飛び込んで以来、東京、大阪、京都の大劇場で松竹の自由にならぬものは僅に帝劇一つだけであつたが、これで愈々わが劇壇は完全に松竹の手に掌握された訳で、これから松竹が如何に帝劇を経営し、松竹王国全体に亘つて如何に俳優を動かして行くかは非常に興味ある問題である》。そして、同月26日付け同紙の「帝劇最終の一夜」の記事、《昨夜は二十年来の歴史を持つた帝国劇場が松竹の経営にうつる最終の日であつた、兎にも角にも、帝劇従業員にとつては二十年の歳月を暮して来たお名残として、思ひ出多い別盃をあげやうと、昨夜打出しの後、十時半を期して、帝劇従業員一同下足番に至るまで場内の花月食堂に集まつた、そして名は忘年会であるが、実は悲壮な留別の宴を張つたのである》、翌27日付けに「きのふ帝劇の城明渡し」、《向う十年間の契約で松竹の経営に移された帝国劇場に於いて昨日午後四時十五分引渡しの式が行はれた、場所は帝劇事務所の三階稽古場で 松竹側から大谷社長、井上、城戸の各重役、帝劇側から西野社長、山本、平塚、益田の各重役に梅幸、幸四郎、宗十郎、勘弥、律子、菊江、浪子、嘉久子等男女幹部以下従業員百名出席、先づ西野氏が今日に至る経過を述べ、更に帝劇の経営を松竹に任した事は諸君の技能を一層発揮する余地を広げたので、大谷氏も諸君の事を一切引受けて下さつたのだから従前同様に活動してもらひたいといひ、松竹側代表者を一同に紹介し 大谷氏は今回光輝ある帝劇を私どもの手で経営するに当り心よく御同意下すつた事を感謝します、どうぞ従前同様にと丁寧な挨拶をする、そこで梅幸と律子がそれぞれ男女優を代表して、われわれも帝劇の名を辱めないやうに働きますと遉に涙を飲んで挨拶した、この間僅に三十分、これで帝劇二十年間の歴史は一転機を画したのである……》。

*6:『演藝月刊』第11号(昭和5年4月20日)に掲載の、石割松太郎の劇評「古靭の「太十」――四月の文楽座――」の冒頭が振るっている、曰く、《四月は花見月、興行にとつては御難であるといふので、例のビラの利く出し物が選ばれた。興行としては尤もの話。且つ新築以来文楽座のお客が一変した。いろいろな理由で、人形芝居を見た事のない人が、今日の文楽座の主なるお客である事を思ふと、実はビラが利くも利かないもない、「酒屋」でも「太十」でもが初めてのお客が多い。人形の舞台に接する事のウブなお客が今日の文楽座のお客だから、この客がどれだけ文楽の好き者となるかゞ問題だ刻下の文楽の施設の機微がこゝに存在する》。

*7:石割松太郎著『人形芝居雑話』(春陽堂、昭和5年10月8日)にある、《弁天座へ焼出されての第一、第二興行あたりまでの弁天座には、相当の入を見た。御霊の末期よりは、弁天座が好成績であつたのです。――年代をいふと、昭和二年正月、二月などがさうです。盛り場だけに『切見』――立見が賑つたのですが、これはほんの束の間の人気でした。》という証言と見事に合致する。谷崎はちょうど閑散としだしたタイミングに弁天座に来てしまったのだった。

*8:『キネマ旬報』に毎号掲載の「本邦撮影所通信」の記事を追ってゆくと、昭和11年2月21日号で「タイトルが『浪華悲歌』と決定」、3月1日号で「まず大阪ロケーションにより撮影開始」、3月11日号で「松竹系よりスター応援のオール・メンバーにて愈々近日セット撮影に着手」、3月21日号で「キャスト決定」、4月1号で「大阪市内ロケを終えて目下セット撮影中」、4月11号は「撮影進行中」、4月21号は「四月下旬完成の予定」、5月1日号で「撮影終了、目下整理中」、5月11日号で「『浪華悲歌』を完成」となっている。

*9:『銃後の大阪』第3報に掲載の、小野十三郎「大阪八景」について、酒井隆史著『通天閣 新・日本資本主義発達史』(青土社、2011年12月10日)に、《「大阪八景」は、さびしいおもいをしている前線の兵士たちに、詩人の言葉によってふるさとの匂いを届けようとしたのだろう。選ばれた八つの場所は、戎橋、安治川口、安治川、末吉橋、四天王寺、地下鉄動物園前、御堂筋、そして新世界である。この場所がどのようにして選択されたのかはよくわからないが、詩人の意図が介在しているのはまちがないない。小野は「短歌的抒情の否定」という理論の展開と実践のなかで、『古き世界の上に』では、まだ比較的ランダムであった自分なりの大阪地図を作成していったようにもみえる。その特徴を挙げるとすれば、まず、「大阪らしさ」の紋切り型を形成しがちな場所を避けるということである。》とある(p25)。また、《一九七九年に公刊された『定本 小野十三郎全詩集 一九二六〜一九七四』には、その「大阪八景」のなかから「新世界」、「安治川口」、「末吉橋」、「地下鉄動物園前」の四編が選ばれ、『著作集』では第1巻の補遺で、四編であることはかわりがないが末吉橋が戎橋に入れ替えられて掲載されている。》という(p162)。