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久保田万太郎と竹屋の渡し。上林暁の「浅草」小説。昭和はじめの上林暁のモダンな散文と京都の天野忠のこと。


8月最後の金曜日の夜、浅草見番で文学座有志による万太郎戯曲公演《久保田万太郎の世界》を見た。第10回となる今回は『不幸』(初出:「演劇新潮」大正13年4・5月合併号)と『一周忌』(初出:「中央公論」昭和3年9月)が上演された。浅草は年明けの浅草歌舞伎以来だったから、ちょっとばかりごぶさたをしていた。久保田万太郎の戯曲を見に浅草を訪れるというだけで特別な一日だった。



午後6時過ぎ、日の入りの直後に地下鉄から浅草の地上に出て、公園裏の浅草見番に向かう。ひさしぶりに見る浅草寺の本堂が嬉しく、大きな屋根の向こうの日没の空にしばし見とれる。その右手、浅草神社の境内はもうだいぶ暗くなっていた。初代猿翁、初代吉右衛門の碑は暗くてかすかにしか見えない。と、そんな宵闇のなか、久保田万太郎の「竹馬やいろはにほへとちりぢりに」の句碑を眺めて、胸がいっぱい。この句碑の建立は万太郎三回忌の年の昭和40年、万太郎の誕生日の11月7日に除幕式が催された。今にも雨が降ってきそうなどんよりとした曇り空の日だったという。翌年1月号より「文學界」で連載された戸板康二の『久保田万太郎』はこの句碑の除幕式の光景からはじまる。龍岡晋が大切に所蔵していた色紙から万太郎の直筆をとったという句碑の文字を、浅草見番へ行くまえにぜひとも見ておきたかった。文学座有志による《久保田万太郎の世界》は龍岡晋の遺産ともいうべき催しなのだから*1


さて、このたび《久保田万太郎の世界》で上演された『不幸』は、大正7、8年頃の3月2日、宵節句の向島の住居を舞台とする一幕物。劇中もっともセリフの多い「石町の伯父さん」はこのうちにはしばらくごぶさたしていたと言い、「……吾妻橋から、真つ直、言問まで来てしまへばいゝ奴を、蒸汽でもあるまい、久しぶりに竹屋をわたつてやれ。……さう思つて、此奴、わざわざ山谷ばしをまはつたやつよ。」、「水の上は、まだ、寒からうと思つたわりにはさうではなかつた。……陽気は正直だね。風のあたりがすつかりもう春だ……」と言う。




小寺健吉による竹屋の渡しのスケッチ、「読売新聞」大正2年3月16日掲載。


荷風の『すみだ川』*2の冒頭でもおなじみの「竹屋の渡し」について、龍岡晋は、《待乳の渡舟ともいう。聖天の下、今戸橋から向島三囲稲荷へ向う渡舟。竹屋は船宿の名》というふうに注釈している*3。今戸、竹屋の渡し、向島、百花園……といえば江戸情緒として長らくおなじみの風物だった。たとえば、博文館に在籍していた生田蝶介は大正3年当時、『末枯』の鈴むらさんと同じ今戸に住んでいて、自身が編集に携わっていた「演藝倶楽部」に掲載の日録『生活日誌の一面』の大正3年4月4日のところに、

朝の程所用ありて我宿に近い竹屋の渡しをかりて向島に行く。堤の桜は三分通りほろこびて、雪は降りては消え、降りては消ゆ。かゝる春の雪解静かな春の日を、小ぢんまりとした屋根船に行火して、微酔の口に一中節か歌沢を低唱し、静かに流す風流子はなきか、あゝ趣味は日に日にすたれて行く。貴きこの隅田の雪と花の眺めかな。

と綴って、すっかりご満悦。上掲の小寺健吉と同時代の生田蝶介の日記をみると、大正初期の時点で「竹屋の渡し」が体現するところの向島情緒はすでにノスタルジーの対象となっていたようだ。そして、向島と江戸情緒というと、まっさきに思い出すのはなんといっても淡島寒月であるけれども、『梵雲庵雑話』(岩波文庫、1999年8月18日)所収「滅び行く江戸趣味」のなかには、

向島は桜というよりもむしろ雪とか月とかで優れて面白く、三囲の雁木に船を繋いで、秋の紅葉を探勝することは特によろこばれていた。季節々々には船が輻輳するので、遠い向う岸の松山に待っていて、こっちから竹屋! と大声でよぶと、おうと答えて、お茶などを用意してギッシギッシと漕いで来る情景は、今も髣髴として憶い出される。この竹屋の渡しで向島から向う岸に渡ろうとする人々の多くは、芝居や吉原に打興じようとする者、向島へ渡るものは枯草の情趣を味うとか、草木を愛して見ようとか、遠乗りに行楽しようとか、いずれもただ物見遊山するもののみであった。

という一節があって、「いいなあ……」と、寒月翁語るところの竹屋の渡しにうっとりするばかり。この淡島寒月の『滅び行く江戸趣味』は大正14年8月24日から26日まで「日本新聞」に掲載されたものであるから、震災後の談話。荷風が《向島は久しい以前から既に雅遊の地ではない。》と冒頭に書いた『向嶋』は、昭和2年6月の「中央公論」に「荷風随筆」として掲載された。言問橋が架橋されたのはその翌年、昭和3年2月のこと。そして、言問橋が架橋されたのは、久保田万太郎は『春泥』を執筆していた時期とまさに同時期なのだった(「大阪毎日新聞」昭和3年1月5日より4月4日まで連載、単行本は春陽堂より翌年1月1日刊。)。『春泥』は三人連れの新派俳優が舟を下りて、「既に雅遊の地ではない」向島をほっつき歩くところからはじまる。




小村雪岱《墨田川西岸一覧》全21図のうち山谷堀や竹屋の渡しが描かれた第8図の右半分、「新家庭」第1巻第7号(大正5年9月1日発行)より。南千住の尼崎紡績の工場から柳橋の神田川までの隅田川西岸が全21枚にわたって精緻に描かれている。この絵については、のちに「春泥」第1巻第2号(昭和5年4月1日発行)に『墨田川』と題した座談会が掲載されている(昭和5年2月23日、於:三谷重箱、出席者:小村雪岱、悟道軒圓玉、増田龍雨、小泉迂外、大場白水郎、長谷川春草(筆記)、槇金一・内田誠(春泥社)、ほかに「飛入」1名)。

大場「隅田川の渡場はずゐぶんありますね。」
増田「中の渡はいまでも残つてゐます。上が白髭下が竹屋です。今は、中の渡船を白髭とも、橋場の渡しとも云つてゐます。」
飛入「竹屋はいつ頃出来たんだらう。」
増田「竹屋の人と呼小鳥つて云ふ端唄がありますね。文政頃でせう。」
小泉「もつと実際は古いでせう。」
増田「向島から吉原へゆくことを「向ふ越し」つて云つたさうですよ。」

雪岱曰く、《「墨田川西岸一覧」が新家庭に出ましたのは、何の意味もなく、たゞ同誌にカツトとして墨田川西岸の絵を使ひたいと云ふのが話のもとで、玄文社の三井玉輝さんと云ふ人が大変熱心でした。同誌の方ではもつと霞か何かでぼかした、大まかな絵かなんかを期待して居たらしい処へ、軒数まで合はせた絵を送つたので、急に考へ直して私に相談もなしに、三井氏が船に乗つて、絵に名前を入れていつたのです。当時はいやでしたが今になつて見ると参考になつて却つて好かつたやうな気もします。》。この《墨田川西岸一覧》は、東岸を1週間歩いて、描くのにもう1週間、計2週間かけて仕上げたという。予定されていた東岸図の方は結局描かれずじまいだった。




遅塚麗水『東京大観』(有文堂書店、大正5年1月2日)の表見返し、《小村雪岱展 遥かな江戸の面影》(資生堂アートハウス・2009年10月2日-12月20日開催)の展覧会カタログ(株式会社資生堂企業文化部発行)に掲載の図版。雪岱が「新家庭」に《墨田川西岸図》を描いた大正5年、同年1月に出たこの本の見返しにも雪岱は墨田川西岸を描いている。この浅草観世音本堂と五重塔の間のあたりに「山の宿の渡し」の舟つき場があった。




《松屋屋上より隅田川上流/手前に東武線鉄橋、奥は昭和3年(1928)年に架橋された言問橋》、図録『写真展 下町の記憶 アマチュアカメラマン加藤益五郎が写した風景』(台東区立下町風俗資料館、2007年9月15日)より。


上掲の小寺健吉のスケッチから約二十年後、松屋の屋上からかつて竹屋の渡しのあった言問橋の方角を望んだ写真。隅田川河岸は大震災の復興を経て昭和6年5月、同年11月に開店する浅草松屋をテナントとする東武ビルディングが竣工して、東武電車は隅田川の鉄橋を渡り、東武ビルディング2階に浅草雷門駅が開業。東武ビルディングが竣工して初めて、人びとはこんなに高くから隅田川を見下ろすという新たな視覚を得たという面があったのかなと思う。東武電車が隅田川の鉄橋を渡る昭和6年5月の直前、同年3月16日付け「都新聞」には「亡びゆく江戸情緒」として、

 時代の姿といへば、昔は矢張隅田川の名物であつた竹屋や言問の渡もいつか無くなつて山谷堀に旧態なく、僅に残るのは橋場の渡と上流水神汐入の渡だけで橋場も休み勝で、少し風があると大抵は船を出さず、下流の渡は大抵石油発動船は引いて行く(中略)
 言問橋は、昔の竹屋の渡よりはぐつと南よりになつてゐる、即ち新小梅旧水戸邸の北から、浅草側の山の宿停留脇に達してゐる、この橋復興局自慢の橋で工費二百二十万、昭和三年に竣工したもの、左右の橋下が公園の遊歩道路となつてゐるのも面白い

というふうに「隅田川新景」が綴られている。




《吾妻橋際馬道辺の高楼競べ》、「都新聞」昭和6年1月19日の第5面に「浅草の新風景」として掲載の写真。地下鉄ビルディング、神谷バー、建設中の東武ビルディングの高楼競べ。昭和6年5月の東武ビル竣工後、敗戦後まで浅草ではながらくこの3つの建物がめだって高層だった。


昭和4年竣工の地下鉄ビルディングは2009年に解体されてしまったけれども、浅草松屋の東武ビルデイングは去年に昭和6年の竣工当時の姿に改装され、そして今年2013年は、神谷バーが「平成の大修繕」の真っ最中で、10月末竣工予定とのこと。無事にあと3か月、2013年を乗り切って、去年みたいに今年もまた神谷バーで忘年会ができるといいなと思う。



さてさて、去年の忘年会の神谷バーでは、上林暁の戦前の小説のなかで浅草が舞台のものがあって、それが実にいいらしいというお話をうかがって、、上林暁の「浅草」小説ってどんなだったけかなと、電気ブラン片手にうっとりだった。わたしは上林暁の小説は戦前、特に改造社時代の昭和初年代の作品が一番好きだ。そして、忘年会から数日後、年末年始の休日は昭和初年代の作品が収録されている『上林曉全集 第一巻』を繰って、上林暁のモダーンな短篇小説群の風韻にひたっていた。


その上林暁の「浅草」小説とはどの作品のことなのだろう? タイトルを見るかぎりでは、『淺草のジョン・フォートランド氏』(初出:「新科學的」昭和5年8月号→『薔薇盜人』昭和8年7月15日)なんて、そのものずばりな感じ。「嘗ては、二十年くらゐ以前には、映画界の王者であつた」ジョン・フォートランド氏が夫妻で日本来朝したときの一挿話。

 活動街には旗がはためいていた。震災後新築されて「殿堂」と呼ばれてゐる映画館も、ロスアンゼルスやハリウッドの大映画劇場を見た眼には、盛装した田舎娘としか思はれないけれど、雜然紛然とした空気は楽しいものであつた。得体の知れない物音の下に、ラフカヂオ・ハーンもボリス・ピリニャークも心に留めた下駄の音がペイヴメントから跳ね返つてゐた。それが耳を聾にした。
 二人はゆつくりとした足取りで両側の映画館を見て歩いた。TEIKOKU-KAN, DENKI-KAN, FUJI-KAN, ……。どこの入口にも白粉で顔をまつ白に固め、エプロンを掛けた、矮小な日本娘が控へてゐる。いつさいの映画館は、赤や緑や青の極彩色を使つた看板、幔、幟などで一様に塗り潰されてゐる。しかし前に立つてみると、皆それぞれ、キートンを、ロイドを、リリアン・ギッシュを、クララ・ボウを、古馴染みのチャップリンを、更に少年ジャッキイ・クーガンを掲げてゐる。彼の故国で人気を背負つてゐる人達が、ここでもまた異国人の熱狂的な人気に迎へられてゐる。ここに集つてゐる人たちは、恐らくジョン・フォートランドのことは夢にも思つたことはないであらう。ただ孔雀館に集つてゐる少数の人達だけが、現在彼に関心を持つてゐてくれるであらう。フォートランド氏は憂鬱に襲はれた。かくも多数存在し得る人気者達の間に、一片の存在權すら主張し得ない自分を考へた。廃者の意識が氷のやうに胸に刺さつて来た。
 フォートランド氏は、もう同国の驕兒たちを羨むまいと決心した。気分を外らすために、西洋物の映画館から日本物の映画館へ注意を向け更へた。彼には、彼の同国人を一生懸命になつて模倣してゐる日本の近代的男性や女性の絵はちつとも面白くなかつた。それに引き替へ、髷を結ひ、刀を二本差し、誇大な表情で眉や眼や口を歪めてゐる封建時代の人たちが、魅入るやうな魅力をもつてゐる。彼はそんな絵姿を人形のやうに賞美した。……


浅草六区を歩くバーナード・ショー、『アサヒグラフ』第12巻第12号(昭和8年3月22日発行)掲載の記事「シヨウ翁のばら捲いた警句と皮肉」より。「ジョン・フォートランド氏」の3年後、昭和8年3月8日の「浅草のジョージ・バーナード・ショー氏」。この記事によると、「もうわしは日本に待望しない、貧民窟……工場……それから煙……わしは厳かに諸君に告げたい。わしはまるで地獄に来たやうなものだ」と横浜港ブリテン号内で捨て台詞を吐いて日本を去ったショウ翁であったという。



それから、『花茣蓙』(初出:「風車」昭和4年6月号、単行本未収録)には、アパート住まいの若夫婦の細君の珠子さんが同じアパートの住人の「お妾さん」の佐伊子さんに浅草に連れられてゆくくだりがある。

 珠子は午過ぎ佐伊子に誘はれて、浅草の松竹座へ活動を見に行つた。金放れのきれいな佐伊子は、行きの電車賃も入場料もさつさと払つて呉れた。(中略)
 それから佐伊子は珠子を引つ張つて、映画館に挟まれた舗石道から、池の端に出、池の上の橋を渡り、観音堂の裏をブラブラ歩き、千束町の大通りまで出、又引つ返して路次から路次へ、性懲りもなく歩き廻る。佐伊子は途すがら気の利いた小料理屋を褒めたり、名物の櫛屋を教へて呉れたり、親しげに待合の屋号を読んだり、其他鮨屋、カフェ、一々が彼女の経験の濾過した存在であるらしい。珠子は全く圧倒された。不気味な思ひで咽喉を涸しながら、默つて従いて歩いた。灯の点くまでの閑な時間を、ボンヤリと煙草吹かしてゐた射的屋の女と佐伊子が立ち話をはじめた時、珠子の不安は絶頂に達した。彼女は人の流れに肩先を突つ衝かれながら、離れて待つた。話は長かつた。いつまでも佐伊子のあとについて行つたら、取り返しのつかぬ恐ろしい所へ誘惑されるのではあるまいか、茫々とした不安が次第にからだを包んで來るのを感じた。射的場の女が、時々こちらへ視線を流すのも、何か密計をたくらんでゐるやうで氣持が惡い。今や彼女には、淺草全体がまるで人浚ひ場に変つてしまつた。夕暮の空は翼のやうにおつ被さり、群集はたつた一人ゐる彼女を見遣りつゝ默々と動き、複雜な騒音の響きは彼女の氣を遠く悲しくしながら、空に向つて、舞ひ上つてゐた。(中略)
 ……それから、佐伊子と珠子は又路次を曲り曲つて、お汁粉屋へはひつた。そこも佐伊子は來たことがあるらしく、無雜作に註文して、お汁粉を三杯食べた。甘い物好きな珠子も三杯食べた。(中略)
 汁粉屋を出て、路次を折れて二町ほど歩くと電車通りへ出た。思ひ掛けなく、眼の前には、上野広小路の広告塔が明滅してゐた。珠子には何處をどう歩いたのか、少しもわからなかつた。



桑原甲子雄『東京 1934〜1993』(新潮社、1995年9月25日)より、浅草公園六区(昭和12年)と下谷区上野駅前(昭和11年)。巻末の著者解説に、《上野駅とわが家のある車坂町とのあいだにある昭和通りの市電上野駅前停留場だ。新聞売りの姿もビールの広告塔も昨日のことのようにおぼえている。》とある。



……などと、つい長々と抜き書きせずにはいられないくらい、昭和初期の上林暁が作品のなかに描いた浅草の街頭風景にうっとりしてしまう。浅草を頻繁に歩いていたに違いないからこその、このみずみずしい筆致!



上林暁は東大英文科卒業後、円本ブームまっただなかの時期であった昭和2年4月に改造社に入社し、雑誌「改造」の編集記者となる。その後、昭和8年11月に創刊された「文藝」の編集責任者となり、翌昭和9年4月に改造社を去る。つまり、昭和初年度の上林暁は、本名・徳廣巖城として文芸編集者として昭和文学史の現場に立つ一方で、上林暁の筆名で同人誌で文学修業をしていた。


と、そんな改造社時代の上林暁の浅草との関わりは、川端康成のことを綴る際にヴィヴィッドに回想されていて、おのずと彼の戦前の短篇小説群に封入されているモダン都市東京風景に思いが及んでゆく。昭和47年4月に川端が自殺した直後に「文藝」に寄稿した『上野櫻木町』(初出:「文藝」昭和47年7月→『ばあやん』講談社・昭和48年5月刊、全集第13巻)では以下のような回想がある。

 川端さんといへば、上野桜木町時代の川端さんを私は思ひ出す。川端さんが鎌倉へ移つてから、私は一度も訪ねない。川端さんが上野桜木町にいた時分に、私は雑誌「改造」の編集記者であつて、しよつちゆう川端邸に出入りしてゐた。単に出入りしたのではなくて、「禽獣」「末期の眼」など、川端さんの初期の代表作を取つたのである。自分でも思ひ出が深いし、日本文学史にも貢献したことが大きいと思ふ。

上林暁が川端邸を初めて訪れたのは、大森馬込の臼田坂に川端が住んでいた時分*4。「改造」では新しい作家に原稿をたのむ場合、小説より先に随筆をたのむ習慣があったとのことで、このときは『伊豆温泉記』という随筆をもらったという(「改造」昭和4年2月号に発表)。

 私が通ひはじめたのは、「浅草紅団」の続きを書いてもらふためだつた。「浅草紅団」は朝日新聞の夕刊に連載されて、浅草ブームを引き起した。われわれ文学青年の間では、二言目には必らず「浅草紅団」が口を衝いて出るほどであつた。新聞では一応打ちきつてゐたが、「改造」編集部ではその続篇を熱望したのだつた。たしかに、三、四章を書き加へて、おしまひになつた。単行本としては先進社から出した。先進社は、もと「改造」の編集主任の上村勝弥氏(旧名、清俊)が独立して始めた出版社だつた。それが出た時、私は署名本をもらつた。
 上野桜木町の川端邸から浅草までは近かつた。寛永寺橋から鶯谷駅へ下りて、そこから歩いて行けば、浅草は直ぐだつた。浅草へ行くのに便利だから、大森馬込から上野桜木町に移つて来たのにちがひない。川端さんは手帖をふところにして、朝となく夜となく、浅草をほつつき歩いた。雨が降つても日が照つても、一日も欠かさず浅草へ日参した。その丹念な写生が、川端さんの文学に生き生きとしたいろどりを与へた。映画館を三十館以上も見たさうである。
 そのころ「カジノ・フォーリー」といふ軽演劇の一座が、水族館のステージに出演して、評判だった。川端さんは浅草へ行つて、カジノの文芸部員や踊子たちと親しく交つて、それを「浅草紅団」に書いた。「浅草紅団」はカジノの全盛時代を出現さした。川端さんは、「いわゆる『カジノ・フォーリー花やかなりし頃』は、一生私になつかしいだらう」と書いてゐる。
 踊子では、榎本健一(エノケン)、二村定一、竹久千恵子、梅園龍子などが売り出してゐた。なかでも、川端さんが力こぶを入れてゐたのは、少女つぽい梅園龍子だつた。「わが舞姫の記」といふ文章も書いてゐる。しまひにはパトロンとなつたほどである。
 私も時折カジノ・フォーリーを見に行つた。あるとき埃つぽいステージを見てゐるとき、長身の人がうしろの壁によつかかつて、ステージを見てゐた。それは多分高見順ではないかと思はれた。まだ高見順を知らない時分だから、はつきりしたことはわからないが、そんな感じであつた。川端さんにはカジノで一度も会つたことはない。
 私は一度川端さんについて浅草を歩いたことがある。堀辰雄君も一緒だつた。堀君は向島に住んでゐたので、度々一緒に浅草を歩いてゐたらしい。私はほかのことは何んも覚えてゐないが、観音さんの近くの鳥料理屋に連れて行かれたことを覚えてゐる。それは名高い鳥料理やであるし、川端、堀氏は馴染みの店だつたらしい。私は恐縮しながら、小さくなつてご馳走になつた。

上林暁が「改造」に書いてもらった川端の作品は、『「鬼熊」の死と踊子』(昭和5年5月)、『浅草紅団』の続篇51〜61(昭和5年9月)、『水晶幻想』(昭和6年1月)、『鏡』(昭和6年7月)、『落葉』(昭和6年12月)、『それを見た人達』(昭和7年5月)、『慰霊歌』(昭和7年10月)、『二十歳』(昭和8年2月)、『禽獣』(昭和8年7月)などであった。《このうちで、一番傑作であり、書いてもらふのに苦心したのは、「禽獣」(改造・昭和八年七月号)である》と上林暁はいう。昭和8年11月に「文藝」の創刊が決まり編集主任に就任した上林暁が川端に依頼したのは「永井荷風の『小説作法』のやうなもの」、そして、それはの『末期の眼』というタイトルのエッセイとして、「文藝」昭和8年12月号に掲載された。




伊坂梅雪編『五代目菊五郎自傳』(先進社、昭和4年2月18日)。装幀:島田訥郎。吉田謙吉の装幀でおなじみの『浅草紅団』の初版本は、昭和5年12月5日に先進社から刊行された*5。その先進社の社主上村勝弥は元『改造』の編集主任であった。わたしの書棚にある唯一の先進社の本がこの『五代目菊五郎自傳』。ちっともモダンではないけれども、大好きな本。この本は五代目菊五郎の二十七回忌を記念して刊行されていて、奥付の2月18日は祥月命日。平成も25年の今から思うと、明治36年から昭和4年までの年月はなんと濃密なことだろう。ちなみに、五代目菊五郎が死んだ明治36年2月18日は岡田時彦が誕生した日*6。この本が出た昭和4年2月はちょうど溝口健二の『日本橋』が公開されたころ、この年岡田時彦は松竹蒲田撮影所に移籍するのだなあ……などと同時代の映画にも及んでゆく。



改造社時代の上林暁は駒込アパートメントに住んでいたので*7、上野桜木町の川端を訪れるには、鶯谷から行くと便利だった。この時期のことを、上林暁は『私のサラリーマン時代――赤い屋根が目にしみる――』(初出:「電信電話」昭和30年11月号、『増補決定版 上林曉全集第19巻』に収録)で以下のように回想している。

 社が新橋にあつたから、帰りにはいつも銀座を歩いた。若い者はみな、モダーン・ボーイやモダーン・ガールの風潮に卷き込まれてゐた。私も赤いネクタイこそ結ばなかつたが、ダブダブのズボンをはいた。縞物のワイシャツも着た。アッシュ(とねりこ)のステッキも突いた。ダブル・ボタンのオーバーもこしらへた。
 当時は、サラリーマンの黄金時代だつたと言へるかも知れない。いはゆる小市民[プチ・ブル]的な生活を、サラリーマンが享樂した時代だつた。郊外に赤い屋根や青い屋根の「文化住宅」といふものが建ち、そこからダンス・レコードの音が聞えて来るといふふうなのが、彼等の生活形態だつた。その哀歡は、ラジオの「なつかしのメロデー」で歌はれる「心の青空」といふ流行歌に象徴されてゐる。
 私も新婚間もなくで、或るアパートメントに住んでゐた。アパートに住んでゐると言へば、まだハイカラなひびきをもつてゐた時代だつた。そこの一室で、一応プチ・ブル的な生活を営んだと言へる。ボーナスをもらふ度に、レコードやギタアやデッキ・チェアなどを妻に買うてやつた。籐椅子や円テーブルなども備へた。そのテーブルの上には、英国製の電気スタンドが置いてあつて、淡紅色のシェードで室を照らした。それらの中で、今も残つて役に立つてゐるのは、レコードだけである。……

ここで回想されている情景はまさしく、『上林曉全集 第1巻』のモダーンな短篇小説群の雰囲気そのもので、たとえば『アパートの葬式』(初出:「風車」昭和5年11月号→『薔薇盗人』)の舞台であるところの、《「東京のへり、池袋か目黒か、そんな所に情けない裝飾の、やわなアパートメントがよくある」と、村山知義氏は言つてゐる。戯曲「スパイと踊子」の書出しのト書きだ。これは、云はば、そんなアパートメントの一つでの出來事である。》の室内が髣髴とする。アパートメントといえば、『花園の向いた部屋』(初出:「文藝首都」昭和7年9月号→『薔薇盗人』)での情景も大好き。それから、上林暁の戦前の短篇小説というと、楽器や音楽の登場具合が不思議と印象に残っていたものだった。その最たるものが、『手風琴は古びた』(初出:「新科學的」昭和6年4月号→『薔薇盗人』)。この小説、科白が多いこともあって、なんとなく映画的。これだけでなく、昭和初年代の上林暁を読むと、同時代のサイレント映画のことをどうしても思い出さずにはいられない。




その同時代のサイレント映画のほんの一例として、ここでは小津安二郎『淑女と髭』(昭和6年2月7日公開)のスチールを。この『淑女と髭』の一場面もやたらと楽器がちりばめてある! この写真は『映画と演藝』第11巻5号(昭和9年5月1日発行)所載「銀幕へのスタート ―スタアと初期の映画―」より。岡田時彦とその友人の男爵令息・月田一郎のお屋敷の一室。月田一郎の妹役の飯塚敏子のデビュウ作であった。飯塚敏子は文化学院出身のモダンガールだったという。


上林暁の昭和はじめの小説では、下宿生活の若者たちのなにげないおしゃべりがとてもよくて、『雪の日の一團』(初出:「風車」昭和3年6月号、単行本未収録)も大好き。ここに登場する文学志願の大学生で来年に卒業を控えている山野君は、下宿の隣りの部屋の画学生・北川君の絵について、

北川君は苦笑に紛らせながら言つた。春の展覧会に二度出品して、二度とも落選したのである。紅白會に出したのは靜物と「旗のある風景」だつた。出品の前日、彼は風景の方を推賞した。が、二つとも落ちた。その時も、下宿から大風呂敷を借りて受取りに行つた。落選畫を貰ひに行くのは苦しいことに違ひない。二度目は新進會だつた。「池袋風景」と自畫像とを描いてゐた。「池袋風景」と言へば、山野君にはなつかしい題名だつた。まだ故郷にゐた時分、雜誌の口繪やコマ繪などで、池袋風景、巣鴨風景、目白風景などと言ふ題を見て、新鮮でハイカラな東京の郊外を夢みたことがあつた。その時分にはまだ、田園都市、中野高圓寺も、田舎の者には知られてゐなかつた。……

というようなことを思う。この「山野君」には多分に上林暁の心境が反映しているのは間違いなく、《新鮮でハイカラな東京の郊外を夢みたことがあつた。》というくだりがとても実感的。年明けに、世田谷美術館で松本竣介展を見たときに、なんとはなしにこのくだりを思い出した。1912年生まれの松本竣介は1902年生まれの上林暁とちょうど10歳違いで、竣介描く郊外風景は上林暁の小説に登場する「新鮮でハイカラな東京の郊外」の少しあとの風景ではあるけれども、上林暁の散文の風合いとまったくおんなじ雰囲気。




松本竣介《郊外》昭和12年8月(第24回二科展発表)、図録『生誕100年 松本竣介展』(2012年)より。数年前宮城県美術館の「洲之内徹コレクション」の展覧会に出かけたときに初めて見て大好きだった絵。昭和11年に結婚して、下落合の高台に住んだ竣介は《田園と都市の境界に生まれた新しい風景を描いた》という一節が図録40ページの解説にある。「田園と都市の境界に生まれた新しい風景」という言葉はまさしく上林暁の散文の風景そのもの! と思う。



浅見淵は昭和14年8月に、上林暁の第2創作集『田園通信』(作品社・昭和13年9月17日)に収められている作品群について、《それらが傑れてゐる理由は、農村を自然発生的に平板に書き流さずに、素朴な感受性と共に、作者の近代神経の漲つた叡智で濾過して描いてゐるからである。》というふうに書いた(『現代作家卅人論』竹村書房・昭和15年10月20日)。「叡智」という言葉に英文学の系譜を思う。上林暁の第一作品集の『薔薇盗人』は金星堂から昭和8年7月に刊行された。当時、金星堂にいた伊藤整の肝いりだったという(『文學の二十年』-「文學界」昭和26年10月号、全集第15巻)。そして、その伊藤整は昭和24年に《自分の師匠は、ジョイスと上林暁である》と書いたのだそうで、上林暁は大いに照れているのだった(『伊藤整』-「風雪」昭和24年9月号、全集第15巻)。浅見淵が用いた「濾過」という言葉は上林暁の田園小説をさしているのだけれども、『薔薇盗人』に収録されているモダンな小説群にただよう独特のふんわりとした気品にも当てはまるような気がする。


上林暁は自身の初の作品集を編むとき、「薔薇盗人」をタイトルに選んだ。表題となった『薔薇盗人』は、楢崎勤が編集をしていた「新潮」の昭和7年8月号に掲載された、改造社時代の上林暁のひとつの到達点となった作品だった。そして、この『薔薇盗人』について評した川端康成の「文藝時評」が素晴らしい。涙が出てくるくらい素晴らしい。

上林暁氏の「薔薇盗人」(新潮)は、農村の「欠食児童」を描いて、農村小説の類型を脱し、多くの真実をとらへてゐる。この作者は田園をしばしば描いて成功し、また都会を描いても、好んで牧歌の匂ふ風物を取り入れ、生活の土の重みをかぶせ、素朴な哀感を漂はす。文章もものの見方も、決して新奇ではないが、牧歌を古い歌に止めず、新しい意味を宿さうとする。この作品でも、村にただ一輪の薔薇、餓ゑた幼い妹の胸にしぼむ薔薇、薬売りの三十女を思ひ出させる薔薇は、勿論いろいろな象徴なのだが、その意味を物語る喜びを、作者は抑へ過ぎるくらゐ心の底に隠してゐる。云ひたいことを実によく裏に押しこめながら、反つてよく貧苦を浮ばせ、目に見えぬものを追ふかのやうな少年の感情を生かしたことは、生活を見てゐる眼の誠実の手柄である。

【『文藝時評』昭和7年8月、「讀賣新聞」昭和7年8月2〜5日、『川端康成全集第三十一巻』(新潮社、昭和58年8月20日)】

『上林曉全集 第1巻』巻末の初出一覧を見ると、作品は断続的に発表されていて、昭和2年に改造社入社後の忙しいなかで、勤勉に文学修業しているさまに感動する。『薔薇盗人』(金星堂・昭和8年7月15日)のあとがきに、上林暁は、

今これらの作品を一本に纏めて世に送ることの出來るのを、私は無上の喜びとしてゐる。これらの作品を書きつつ――正確に言へば、これに三倍四倍する作品を書きつつ、私は相當多忙なサラリイマンであつた。私の餘暇の大部分は、これらの作品を書き上げるために小心翼々として費されたのであつた。忙しいのによく書けますねえ、と言つて感心して呉れる人もあつた。さうして書き溜めた小説どものが今一册の本になるのだから私は嬉しい。

と書いた。徳永康元は『上林暁全集』の月報8に寄稿した「上林さんの作品と風土」と題した文章の冒頭に、《上林さんの小説をはじめて読んだのは、『新科学的』という雑誌だったか、『新潮』だったか、とにかく私の旧制高校時代だから、昭和五、六年ころだと思う。その上林暁という名前は、その作品に接するたびに、いつもすがすがしい印象で私の心に生き続けて来た。》と書いている(『ブタペストの古本屋』ちくま文庫・2009年6月10日)。徳永康元が「本当に熱心な上林ファン」になったのは、戦後の紀行風の小品に出会ったあとだったというけれども、徳永康元は、上林暁が昭和初年代からの愛読者だった。




上林暁『文學の歓びと苦しみについて』(圭文社・昭和22年11月10日)。この本の昭和21年9月24日付けの自序に上林暁は、

京都からわざわざ東京に出向いて来られた圭文社編集部の天野忠氏に、この原稿をお渡ししたのは、去る九月八日午前のことであつた。天野さんは、僕がまだ同人雑誌に小説を書いてゐる自分から、よそながら僕を知つてゐられたさうである。爾来二十年を隔てて、天野さんの手を煩はして、僕の本が京都から出ることになつたのも、さういふ因縁が糸を引いてゐるにちがひない。

と書いている。徳永康元とおなじように、昭和初年代の京都の天野忠は上林暁の戦前からの愛読者だったのだなあと思って、ジーンとなる。天野忠も、徳永康元の言う「上林さんの文章の不思議な魅力」にとりつかれていたのだと思う。この『文學の歓びと苦しみについて』、奥付は昭和22年11月だけれど、上林の自序は昭和21年9月、予定よりもだいぶ刊行が遅れたことを伺わせる*8




天野忠・野殿啓介・大澤孝『詩集 聖書の空間』(白鮑魚社、昭和5年2月10日)。

 私はいま、赤い表紙のうすぺらい一冊の詩集を机の上に置いて眺めている。ただ眺めているだけでも、私にはいろいろな感慨がわいてくる。それはのろのろとした、たいぎな身振りで、すこしばかり陰気な思い出をつれてやってくる。
 『聖書の空間』というこの書物は、三人の合著詩集である。即ち、野殿啓介、大沢孝、それに天野忠の三人、タテ十四糎ヨコ十一糎の四角ばった体裁のこの赤い表紙には、右横書で、詩集、聖書の空間とあり、その下に右タテ書で三人の名前、そしてその全部を裏ケイのふとい枠で二重に囲んである。見事なばかりに何の意匠もない、ただ赤字に黒文字のぶあいそで、どこかひたむきな稚さ、右下隅っこに一九三〇年の数字が小さく入っている。その一九三〇年、私たちは最下級の貧しい月給取であった。
 野殿啓介と私は百貨店の売子であり、大沢孝は日赤系の病院の事務員であった。私は紳士服用品売場に立っていたが、野殿啓介の持場は呉服売場で、客の前でいつも、帯や着物の反物をクルクルとまいたりひろげたりしていた。……

【天野忠「Moment Musical――野殿啓介のこと」-『我が感傷的アンソロジイ』(書肆山田、昭和63年3月25日)】

川端が「東京朝日新聞」に『浅草紅団』を連載していたのとまさにおなじ時期に世に出たこの「赤い表紙のうすぺらい一冊の詩集」を、わたしもときどき机の上に置いて眺めたり、そーっとページを開いたりしている。三人の先頭を飾る天野忠のページには、

  • 一日(景色 mechanically)
  • 東ーへの悲運
  • 百貨店にて
  • シネマにー merry-go-round
  • はりねづみ
  • 秋の海景譜
  • 目的を愛す
  • 靴下
  • 百貨店奉仕日の犠牲

といった詩が並んでいる。その美しい活字を見ながら、昭和3年9月から昭和18年秋まで京都大丸で働いていた時代の天野忠、彼が夢中になった文学や映画のことを思う。そして、それらが行き交う都市の移ろいのようなものをぼんやり思ったりもする。昭和23年、圭文社を退社後、天野忠は、自分の蔵書を並べて古本屋「リアル書店」を開業した。単行本でざっと800冊あったという蔵書のなかに、上林暁の『薔薇盗人』もあったのかもしれない。タイムマシンに乗ってリアル書店へ『薔薇盗人』を買いに行ったつもりで、『薔薇盗人』の初版本を買う日が来るといいなと夢想したりもする。


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*1:当日会場で配布されたリーフレットに『不幸』の演出を担当された鵜澤秀行氏が「4回目の『不幸』」と題する一文を寄せている。そのなかの、《私が文学座研究所に入所した昭和42年に文学座創立者の一人でもあった久保田万太郎すでに亡く、研究所の授業の教材として初めてその作品と向き合いました。先生は座の重鎮龍岡晋…明治大正期の東京下町に生きた人々の生活[くらし]の言葉を、その韻律抑揚によってどう表現するか…龍岡先生は懇切丁寧に、そして熱心に指導して下さいました。そして昭和55年、当時の中堅、若手の座員が龍岡さんを演出に引っ張り出し、勉強会という形で上演したのがこの『不幸』…龍岡さん逝かれてから何度か勉強会で取り上げられ、この「久保田万太郎の世界」のシリーズで黒木仁演出で上演したのが平成18年…そして、今度は、演出も担当しながら、私としては4回目の出会いとなります。》というくだりを、開演前の浅草見番の座布団の上で目にするひとときは格別なものだった。浅草見番の入口の並びには、宮戸座の碑と旧町名の象潟町の碑がある。久保田万太郎を見る直前に、万太郎作品でおなじみの固有名詞を記念する碑を立て続けに目の当たりにしたその直後でもあったからなおのこと嬉しい時間だった。

*2:『すみだ川』は明治42年8月初めに起稿、10月末に脱稿、同年12月『新小説』に発表された。『すみだ川』は、明治36年9月の渡米直前の明治35〜36年に時代設定がなされている。ちなみに、明治41年7月の帰国のすぐあとの同年9月半ば、木曜会の人びとが荷風の帰朝の祝宴のため、午後4時に上野停車場に集合、浅草で遊んだあと、竹屋の渡しで向島へゆき、百花園の木母寺で句会を開催している。『桑中喜語』(「苦楽」大正14年4、5月に『猥談』として発表、単行本『荷風文稾』(春陽堂、大正15年4月刊)に収録に際に改題、岩波版全集第15巻)の「八」のその日のことが書かれてある。

*3:龍岡晋『切山椒 附久保田万太郎作品用語解説』(慶應義塾三田文学ライブラリー・昭和61年7月15日)。「竹屋の渡し」の注釈は全集第1巻所収の『続末枯』に付されている。『続末枯』は「三田文學」大正7年3、4、8、11月号に『老犬』として掲載されたものをのちに改題したもの。『続末枯』の冒頭、五秋は向島堤から竹屋の渡しをわたって、今戸に住む鈴むらさんを訪問する。

*4:川端康成は昭和3年5月に尾崎士郎に誘われて大森の小母沢に移ったあと、馬込の臼田坂に転居。近隣には、尾崎一雄宇野千代夫妻、萩原朔太郎、広津和郎、室生犀星、牧野信一らが住んでいて、「文士村」華やかなりし時代だった。上野桜木町に転居したのは翌昭和4年9月17日。昭和9年6月に谷中坂町に転居を経て、鎌倉に居住したのは昭和10年12月5日。以後川端は終生鎌倉に住んだ。『川端康成全集第三十五巻』(新潮社、昭和58年2月20日)所収、川端香男里編「年譜」を参照。

*5:「文学」2013年7,8月号《特集 浅草と文学》所載の十重田裕一氏の論考『「浅草紅団」の新聞・挿絵・映画』に、《「浅草紅団」は、新聞に連載された前半と雑誌発表の後半からなる。より具体的に記せば、『東京朝日新聞』夕刊の三十七回連載(一九二九年十二月十二日ー一九三〇年二月十六日)、『新潮』第二十七巻九号(一九三〇年九月)、『改造』第十二巻九号(一九三〇年九月)に分けて発表されており、タイトルは『東京朝日新聞』『改造』掲載分が「浅草紅団」で、『新潮』掲載分が「浅草赤帯会」であった。その後、これらが加筆・修正のうえ統合され、一九三〇年(昭和五)十二月に先進社から『浅草紅団』として上梓された。》

*6:「キネマ旬報」昭和8年1月1日(第457号)の「新年特別寄稿」に掲載の『楽屋噺』と題した文章に、岡田時彦は《私が生まれた明治卅六年二月十八日は、恰も五代目菊五郎のなくなつた日で、長ずるに及び私自身芸人稼業でいつぱし身をたてるやうになるにしたがひ、此の奇しい因縁を私はたいへんかたじけなく思ふやうになつた。だからと云つて、私のはげしい六代目贔屓がとりもなほさずそのやうな偶然の暗合にあやかりたいと念ずるこゝろとばかり蔑んで貰つては困るのであつて、私が今の菊五郎に心酔してゐる仔細にはこれでなかなかの根拠があるつもりである。》と綴っている。岡田時彦ははげしい六代目贔屓だった!

*7:大正13年4月東大英文科入学を機に上京後、上林暁は本郷区台町1丁目の千鳥館に下宿、昭和3年8月に結婚、同年10月に小石川区戸塚13番地に間借り、同年12月市外巣鴨町駒込アパートに移転。昭和8年に市外滝野川町西ヶ原306番地に転居。昭和9年4月改造社を退く決意を固め、同年10月に妻子をともなって帰郷。昭和10年4月改造社を正式退社。昭和11年2月再上京、同年3月に杉並区天沼2丁目319番地の貸家に落ちついた。『増補決定版 上林曉全集 第十九巻』所載「上林曉年譜」を参照。

*8:『二銭のハガキなど』(昭和52年6月執筆、『そよかぜの中』(編集工房ノア、昭和55年8月1日)に収録、山田稔選『天野忠随筆選』(編集工房ノア、2006年10月17日)に再録。)に、伊藤整からの葉書のことが出てくる。それは昭和23年の消印が消えかかっている小さなハガキで、その文面は《その後お元気ですか、小生の本の件はどうなりましたでしょうか?》。上林暁はおそらく圭文者の編集者として日野の伊藤整を訪問し、そのときに貰った原稿が闇紙の手筈がつかず、刊行がのびのびになっていた。結局、伊藤整の方は出せずじまいで社長と喧嘩別れして退社したという。荻窪の上林暁を訪問したのと同じ日に日野の伊藤整を訪問したのかな。上林の方は無事に出たのだった。