大阪遊覧2012年5月:堂島から松竹座まで歩く。紙上のモダン心斎橋。


2012年5月11日金曜日。午前8時、堂島の宿を出て、昭和6年竣工の朝日ビルディングとその向かいの昭和33年竣工の新朝日ビルディングの跡地に完成間近のフェスティバルタワーを正面に渡辺橋を渡る。平日の大阪は3年前の夏休み以来なので、よろこびはひとしお。




迫りくる朝日ビルディング! と、これは去年年末に撮影の写真。数か月後の5月、フェスティバルタワーはさらに完成に近づいていて、以前の建物を彷彿とさせるレリーフがほどこされているのが嬉しかった。大阪遊覧に夢中になった当初から、四ツ橋筋を挟んで昭和6年竣工の朝日ビルディングと昭和33年竣工の新朝日ビルディングが並立する肥後橋の都市風景が大好きだった。大阪町歩きを緩慢に楽しむようになった2005年から2012年までのほんの数年間のなかで、新朝日ビルディングは取り壊され、フェスティバルタワーの建設工事がはじまっていると思ったら、いつのまにやら完成間近。いつの日かフェスティバルホールへ音楽を聴きにゆきたいなアと、新しい大阪都市風景もそれはそれでたのしみなのだけれども、でも、昭和6年の朝日ビルディングがなくなってしまうのはやっぱりとっても残念。




『六十年の回顧』(竹中工務店、昭和34年2月16日発行)に掲載の朝日ビル写真。竹中工務店が明治32年に神戸に店舗を設けて60年となる記念に刊行した全72ページの大判の写真集。この写真の下に、《昭和6年(1931)の竣工で、近代的事務所建築の先駆として建築界を刺戟した。一般建築物の高さの制限を越えて認可されたことも当時の大きな話題であった。》という解説が添えられている。新朝日ビルディングの場所にスケート場があった頃の昭和20年代の写真。




同じく、竹中工務店の『六十年の回顧』に掲載の新朝日ビルの写真。大阪遊覧に夢中になった当初からこの屋上の鉄塔が大好きだった。

 地下と地上と塔屋を加えて19階建、延面積22,930坪(75,786平方メートル)軒高45mの上に塔屋18m、更に鉄塔のデッキまでが40mで、合計103mであるが、その軒高45mが認可されたのは日本最初である。
 内容は多彩で、フェスティバルホール、ABCホール、朝日文化ホール、朝日放送などの文化施設と、一般賃貸事務所と更にホテルの三つに大別されているが、屋上にヘリポートがある。
 西側と南側の全面に巾4mのアーケードを設けてあることや、必要があれば建物の外装を1週間で自由に取り替えられて全く新しい姿になり得る仕組みになっていることなど、この建物の話題はつきない。

というふうに、この本の刊行の前年の昭和33年の竣工、出来たてホヤホヤの新朝日ビルが誇らしげに紹介されている。竹中工務店は、昭和2年竣工の数寄屋橋の東京朝日新聞社、昭和6年の大阪朝日新聞社、戦後の昭和33年の新朝日ビル……というふうに、東西の朝日新聞を一手に引き受けていた。そして2012年、普請中のフェスティバルタワーの工事幕にも「竹中工務店」の文字がある。




ついでに、昭和6年竣工の朝日ビルディングの南側の肥後橋北詰にかつてあった大正5年竣工の大阪朝日新聞社の建物。《正月の肥後橋にて1001形1016号》(昭和33年1月2日撮影)、『高橋弘作品集3 路面電車』(交友社、2005年11月15日)に掲載の写真。この建物の四ツ橋筋をはさんだ向かいにはかつて大阪中央郵便局があり、昭和14年に大阪駅前に移転した。その大阪中央郵便局のモダンな建物は現在解体工事の真っ最中。かさねがさね、大阪都市風景の変遷にしみじみとなる。


北から南に向かって歩いて、中尾書店で《心斎橋 きもの モダン ―煌めきの大大阪時代》


と、いつものとおりに肥後橋の都市風景を思う存分満喫したあとで、土佐堀川沿いを淀屋橋に向かって歩いて、さらに上機嫌。土佐堀川可動堰、住友ビル、淀屋橋を渡って日銀大阪支店、中之島図書館、中央公会堂……というふうに、この界隈のおなじみの近代建築群をぐるりと一周したところで大江橋を渡って、堂島ビルディングの裏手の堂島川沿いの喫茶店で朝食がてら、ひと休み。休暇中ならではのゆったりした時間がしみじみ至福だなあと宿から持参の朝日新聞をじっくり読んでいたら、先ほど思いを馳せていた大阪中央郵便局の解体工事に関する記事が出ていて、まじまじとその写真を見つめたりする。と、そんなこんなで、ふたたび外に出て、大江橋と淀屋橋を渡って、御堂筋を歩いてゆく。北から南へ向かいながら、御堂筋と境筋の間の道をクネクネと歩いて、芝川ビルをはじめとするおなじみの建物を適当に眺めつつ南下して、ふわふわといつまでも上機嫌。



堂島から御堂筋に出て、北から南に向かって歩きながら、おのぼりさん気分を満喫しているうちに本町に到り、「せんば心斎橋筋商店街」をさらに南に向かって歩いてゆく。開店準備の真っ最中の商店街の空気がいつも好きだ。ここを初めて歩いたときに大喜びだった三木楽器をひさびさに眺めてよろこぶ。南久宝寺町を過ぎると、商店街の名称は「心斎橋筋北商店街」となり、長堀通の心斎橋の横断歩道を渡ると「心斎橋筋商店街」となる。と、心斎橋を横断したところで、時刻はちょうど午前10時。『新菜箸本撰』の未所持の号を根こそぎ購入するという目的で足を踏み入れた開店直後の中尾書店で予定外の買い物もしてしまったあとで、向かって大丸百貨店を横目に福寿司で本日の昼食、長崎堂で本日のおやつを買って、もうすっかりひと仕事終えた気になってほっとひと息、戎橋にほど近いコーヒーショップで小休憩。このあと、午前11時から午後3時まで、大阪松竹座で團菊祭五月大歌舞伎の昼の部なのだった。





図録『開館10周年記念 特別展 心斎橋 きもの モダン ―煌めきの大大阪時代―』(大阪歴史博物館、2011年10年15日)。表紙は、高橋成薇の《秋立つ》(昭和3年)に描かれた断髪姿のモダンガール。去年結局行き損ねてしまった展覧会の図録を中尾書店で見かけて、「あっ」と手に取ってみると、たいへん胸躍る素晴らしい図録。タイトルだけ見ると着物が中心みたいだけど、実際に図録を見ると「心斎橋モダン」の資料がふんだんに掲載されていて、実際の展覧会もさぞかし素晴らしかったことだろうと思う。


そして、この図録に、『寫眞心齋橋』(心斎橋新聞社、1935年7月)が全ページ復刻されていることを中尾書店の店頭で初めて知ったときは狂喜乱舞だった。『寫眞心齋橋』に掲載の写真は、その多くが橋爪節也編『モダン心斎橋コレクション』(国書刊行会、2005年9月)で紹介されている。『モダン心斎橋コレクション』は大阪遊覧のたびにじっくりと眺めているとびきりの愛読書だから、何度も見ている写真ばかりのはずなのに、『寫眞心齋橋』の原本をあらためて大判のグラフ誌として国会図書館で現物を目の当たりにしたときの驚きというか、心のときめきは今でもとっても鮮烈。思えば、4年前に国会図書館で『寫眞心齋橋』を閲覧したのは、初めて心斎橋に出かけた直後のことだった。心斎橋をゆっくり歩いたのは、今回が2度目。と、そんな4年ぶりの心斎橋で、『寫眞心齋橋』の復刻に出会ったというえにしが嬉しかった。





『寫眞心齋橋』(心斎橋新聞社、昭和10年7月)の表紙、図録『特別展 心斎橋 きもの モダン』(大阪歴史博物館、2011年)より。本図録の「『写真心斎橋』複製 解説」で、昭和10年発行の本誌に写る店舗写真の特徴として、ショーウィンドウとディスプレイが際立っていることとともに、電灯の多用が指摘されている。

……昭和初期、大都市の夜は「白日街」に変わったといわれるが、心斎橋筋も同様の傾向をたどった。しかしここにあるのは、電飾・ネオンサインではなく、ショーウィンドウの明るさであった。本書掲載の店舗外観も、そのほとんどが夜間に撮影されたものである。これが意図的であることは、本書の表紙をみればわかる。当時の観光案内書は、大阪の夜の散歩道に道頓堀と心斎橋筋をあげるが、それはこのような照明の普及と不可分であった。また、この明りは、道頓堀の芝居帰りの客をも吸引した。
 『写真心斎橋』には、近代化した商業と消費のあり方が、写真によって記録されている。

と、こんな一節を、松竹座の芝居見物の直前のコーヒーショップで目の当たりにして臨場感たっぷり。今度は、松竹座の昼の部のあとに夜の心斎橋を歩いてみたいなと思う。




北尾鐐之助『近代大阪』(創元社、昭和7年12月25日)の「心斎橋筋の一考察」のページに掲載の《心斎橋筋の夜》。「明治キヤラメル」のネオンサインが見える。《誰でも気のつくことであるが、心斎橋から戎橋まで、あの七町ほどの狭い道筋の両側には、六十九本の「あやめ燈」と呼ぶ街燈が点つてゐる。》とある、その「あやめ燈」のなんと眩しいこと!




習田敬太郎《道頓堀夕景 新戎橋より戎橋附近を望む》、『大大阪現代風景』(大阪毎日新聞社、昭和8年4月5日発行)より。この小冊子は、大阪毎日新聞で「近代大阪風景」の課題で懸賞募集した際の応募作品をその入賞作品を中心に全市15区にわたるように全32点抄出して収録したもの。選考には北尾鐐之助が絡んでいたのかな。水辺、橋、工場、そして夜景の写真が多いのがいかにも「近代大阪」。


1930年代心斎橋の製菓会社売店


道頓堀の芝居帰りの客が夜の心斎橋を歩いたのとおなじように、木挽町の芝居帰りの客は夜の銀座を歩いた。と、そんな感じに、戦前の銀座と心斎橋を対照させて、モダン都市の東西に思いを馳せるのはいつもとてもたのしい。心斎橋を初めて歩いた4年前、戦前昭和の製菓会社経営の喫茶店は銀座とおなじように心斎橋でも、不二家、森永キャンデーストア、明治製菓売店がそのモダーンな店舗を展開していることに胸躍らせたものだった。製菓会社経営の菓子舗を通して見る東西のモダン都市。北尾鐐之助は、『近代大阪』(創元社、昭和7年12月25日)所収「心斎橋筋の一考察」の冒頭に、

 一口に心斎橋筋というが、大体これを四つに分ける。
 長堀川に架つた心斎橋から、北の方新町橋通り附近に至るものを心北。それから心斎橋を渡つて南へ、大丸百貨店の、もう一つ南の辻、周訪町までを心斎橋筋一丁目。それからまた南へ、道頓堀川に架つた戎橋までを同じく二丁目。戎橋からさらに南へ、難波までを戎橋筋。
 かう分けてみると、世にいふ=心ぶら=とは……その一丁目及び二丁目がもつところの、凡そ七百メートルほどの小売商店街を覗きながら歩くことをいふのである。しかし、何と云つても、心斎橋の魅力といふものは、このうちの二丁目が、その代表的な明朗さをもつてゐることにすぐ気がつく。

というふうに述べている。まさに北尾鐐之助が「代表的な明朗さをもつてゐる」としている二丁目に製菓会社経営の喫茶店が3軒もあった。と、わたしにとって心斎橋筋を歩くということは、大丸南の心斎橋筋二丁目一帯、西側にある森永キャンデーストア、東側の不二家洋菓子店、丹平薬局、明治製菓売店のあったころの戦前昭和の町並みに思いを馳せるということにどうしてもつながってしまうのだった。




『寫眞心齋橋』の巻末の折り込み地図より、心斎橋筋の二丁目附近を拡大。八幡町の角に「不二家洋菓子店」。銀座と心斎橋のいずれにおいても森永と明治の店舗はもうないけれども、不二家のみ戦前と同じ場所に長らく不二家レストランがあり、現在は銀座と心斎橋のいずれも不二家経営のダロワイヨになっている。




『寫眞心齋橋』を国会図書館で閲覧したとき、大判のグラフ誌で見る不二家洋菓子舗のモダーンな天井照明にうっとりだった(『モダン心斎橋コレクション』の「〈明治製菓売店〉〈不二家洋菓子舗〉」(p.174-175)の背景にあしらわれている。)。店舗の写真に添えられた「せつめい」には、《銀座と横浜で名高い不二家が、心斎橋進出を敢行して数年、今では完全にしんぶらまんの素通りの出来ぬオアシスとなった、豪快で衛生的な店内設備、うまい料理、茶、殊に菓子はなんといつても一流で、批評の限りでない、店主は藤井林右衛門氏。》とある。




不二家のモダーンな天井照明の下の1階店内はこんな感じだった。『寫眞心齋橋』の翌年に刊行の、「モダン都市の電飾」を写した写真集である照明学会編『照明日本』(社団法人照明学会、昭和11年11月28日)に掲載の写真。ゆまに書房「コレクション・モダン都市文化」第21巻『モダン都市の電飾』(2006年12月15日)より。




森永キャンデーストアは不二家菓子舗のやや北の東側にあった。自家製純正白粉を扱っていた「いづ勘」の隣り。『寫眞心齋橋』の「せつめい」には《説明の要なき著名な森永製菓会社の分身株式会社森永キャンデーストアの経営で本社は東京、全国にチエーン二十五店がある。社長は松崎半三郎氏。常務大串松次氏、相談役森永太一郎氏。》とある。




同じく『寫眞心齋橋』に掲載の写真。橋爪節也編『モダン心斎橋コレクション』の〈心斎橋森永キャンデーストア〉のページには(p.172)、《キャンデーストアも夜になると大人ばかり》というコメントが添えられている。同書の図版、『食通』昭和10年12月号に掲載の特集記事「代表的喫茶店とフルーツパーラー」では、山東卯吉の「家族的な森永」という文章に、《心斎橋へ出懸けた帰りに、それが家族づれであつた場合、私達は何の躊躇もなく森永キャンデイストアーで休むことに決めてゐます。森永と云へば妻も子供も嬉んで、入つて呉れます。》、《レコードの演奏は間断なく、軽快なメロデイを送つて呉れます。これが土曜日曜ですと舞台では写真と漫画を上映して呉れるので子供達は大嬉びです。》というふうに書かれている。




このたびの心斎橋来訪を記念して購った紙もの・その1、森永キャンデーストアのチラシ。店内の舞台をモチーフにしたイラストに「舞台と喫茶」のキャッチコピーをあしらったデザイン。『森永五十五年史』(森永製菓株式会社、昭和29年12月20日)でも、《日本で初めてステージを設け音楽・映画の提供》というふうに誇らしげに語られている心斎橋筋の森永。森永キャンデーストアは大正12年4月3日の丸ビル店を皮切りに、同年8月13日に堂ビル、同年12月20日に銀座6丁目1番地に開設された。大阪では、大正12年の堂ビルのあと、昭和2年12月27日に高麗橋、そして、昭和4年3月1日に心斎橋店が開業した。



こちらは、《森永の菓子 鳴門観潮御招待》のチラシ。大正15年3月15日から6月15日までの期間、五十銭お買い上げごとに抽選券1枚進呈、6月20日に新聞紙上ならびに販売店で当選発表、当選者は6月30日までに「観潮優待券」を堂島ビルディングに置かれていた森永の大阪出張所(森永製品関西販売会社)で受け取り、7月11日日曜日に大阪商船の鳴門丸と音戸丸の両船で航海に出発。外れた人も抽選券を持参すれば、堂ビルの森永キャンデーストアでココアをご提供とのこと。大正15年の時点では、高麗橋も心斎橋もまだ開店しておらず、大阪の森永キャンデーストアは堂ビルだけだった。その草分けの販売促進のキャンペーン。



図録『山名文夫と熊田精華展 絵と言葉のセンチメンタル』(目黒区美術館・2006年)所収の熊田精華宛て書簡で、大正12年春から図案家としてプラトン社に勤めていた山名文夫が、堂ビルの森永に入りびたっている様子を伺うことができて、たいへん微笑ましい。大正14年4月にプラトン社は谷町から堂ビル4階に移転していた(早くも同年秋、自前の印刷工場が完成、その浪速区馬淵町の敷地内に雑誌社も再移転する)。しかし、だんだん森永にも倦んで、大正14年7月16日宛て書簡では、

モリナガにはいい夏の食べものがなくて困つてゐます。おひるのパンもちっともおいしくない。アイスクリームと来てはすつかり田舎式です。心斎橋の丹平ファーマシーのアイスクリームはおいしいですよ。夏がすぎないうちにあそびにいらつしやい。けれど等身大のヤンキーの人形が入口に立つてゐて折々ベルをならすので恐縮します。

というふうに書き送っている。橋爪節也編『モダン心斎橋コレクション』を初めて繰ったときにまっさきに心躍ったのは、第七章「丹平ハウスと、をぐらやビルディング―美術と文芸の拠点」だったと思う。丹平薬局の小売部門として大正13年に建設された「丹平ハウス」とその向いにあった落語の『三十石』でおなじみの鬢付け油の「をぐらや」。山名文夫が熊田精華に手紙を書いた大正14年、丹平ハウスはまだ出来たてホヤホヤ。さぞかし光輝いていたことだろう。




と、その心斎橋の丹平薬局は、不二家洋菓子舗より2軒先の戎橋寄りにあった。『モダン心斎橋コレクション』の〈丹平ソーダファウンテン〉によると(p.202)、カウンターの上に掲げられているのは赤松麟作の《静物》(昭和5年)。丹平ファーマシーの階上にあった「赤松洋画研究所」(大正15年開設)と「丹平写真倶楽部」(昭和5年結成)を思うと、いつもたいへん胸躍る。





このたびの心斎橋来訪を記念して購った紙もの・その2、「丹平ソーダファウンテン」のチラシ。見るからに涼しげなおしゃれなチラシの裏面は「丹平タイムス」という名の薬局の広告、あまりおしゃれではない実用的な宣伝記事が印刷されている。ソーダ水を飲んで涼みつつ、薬局でお買い物して暑い大阪の夏を少しでも衛生的に……といった感じかな。





《心斎橋を心ゆくまで味つて、足の向くまゝ気まゝ歩き。》と心斎橋筋を歩く徳山[たまき]。徳さんが大阪、柳屋金語楼が京都、大辻司郎が神戸をゆく「三都の盛り場を行く三銃士」、『映画朝日』第17巻第1号(昭和15年1月1日発行)より。ちょうど綴じ部にかかってしまって真ん中が黒くなっているけれど、後姿の徳さんの視線の行き先のご婦人グループの背後に「マツダランプ」の看板が見える。というわけで、徳さんの左手あたりが丹平薬局だ!



庄野潤三『野鴨』(初出:「群像」昭和47年1月から10月。昭和48年1月・講談社→講談社文芸文庫・2011年2月)に、主人公・井村が死んだ長兄を回想するシーンに「製菓会社の出している店」が登場している。

 兄が映画をみに井村の兄を連れて行ってくれたことがある。あれは中学の二年くらいか。それくらいだろう。
 たとえ父兄が同伴であっても、中学生は映画館への立入りを禁じられていた。兄が映画好きなものだから、彼はうまいことをいってせがんで、連れて行ってもらった。
 待合せをすることになった。繁華街の通りにある喫茶店で、分りのよい店がある。そこで待っているようにいわれた。
 決められた時間までに井村は行った。そこは製菓会社の出している店であった。制服制帽の中学生はどういう種類の喫茶店であっても、大っぴらに入ってはいけない規則になっているが、ここなら先ず安心であった。
 ただ、彼はそんなところで待合せをしたことがないので、入口からは見えない。奥の方の席で、壁を向いて坐った。
 約束の時間になっても、兄は現れない。
「おい」
 と声をかけてくれない。
 几帳面な兄が、時間に遅れるとは考えられない。どうしたんだろう。会社で出がけに何か用事が出来たのだろうか。(兄は染料を扱っている会社に入っていた。野球部の選手で、休みの日によく試合があった)
 そろそろ心配になりかけたころに、やっと兄が来てくれた。
「いつ来た」
 と聞くから、もう大分前からここにいたと井村は言った。
 何時ごろだというので、来た時間をいったら、それなら兄はもう来ていたという。中を覗いてみたが、いないので、そのあたりを少し歩いてから引返した。
 二度目に覗いてみたが、いない、三度目もいない。これでは映画に間に合わなくなる。困ってしまった。最後に念のため、店の奥まで入ってみたら、こんなところで入口に背中を向けて、ひとごとみたいな顔をして坐っている。
 これでは見つかりっこない。
 人と待合せをしている者が、どうしてわざわざ見え難い席にいるのか。もう少しで兄ちゃんは諦めて、家へ帰ってしまうところだった。
 そういって叱られた。
 実際、井村は入口の方をまるで見なかった。はじめにそこのテーブルに坐ってから、多分、一回もうしろを振り返らず、周囲を見まわしもしなかった。
「こういう待合せの時は、入口の近くの、相手が通りかかっただけで、一目で分るところにいるものだ。相手が気が附かない先に立ち上って、声をかけるくらいにしないといえない。隠れているやつがあるか」
 兄からいい聞かされた言葉は、耳に痛かった。
 年が九つも開いているので、いつでも兄はかばってくれるものの、かりに文句をいったにしても決して本気では怒らないものという頭が、彼にはあった。
「あれはまずかった」
 いまでも井村は、たまに誰かと待合せをするような時、決して隅っこの分りにくいところにはいない。なるべく先に来ていて、こちらから相手に声をかけるようにする。少なくともそういうふうに心がけている。

庄野潤三と兄・鴎一の思い出が多分に反映されているに違いないこの挿話は、小説のなかでは、《朝がた、なくなった長兄に会って、何かひとこと、ふたこと話す夢を見た。》、《夢の中の兄は、亡くなる前の、病気の苦しみを耐えていた兄ではなく、元気な時の兄であったのがよかった。》というくだりのあとに登場していて、このくだり、いつ読んでも胸が詰まる。特に明記はされていないけれども、これは心斎橋筋の森永か不二家か明治のような感じがする。庄野潤三は昭和8年に大阪府立住吉中学校に入学し、昭和14年に大阪外国語学校英語部に進学している。勝手に心斎橋と決めつけてしまって、兄と弟の思い出の1930年代モダン心斎橋を思うのだった。




『松竹座グラヒツク』第10巻第2号・昭和4年2月1日発行。表紙:津村英夫《ベチイ・カムプソン嬢》。洋画紹介とともに、岩崎昶「映画芸術家列伝」、川口松太郎「レヴュウ・レヴュウ・レヴュウ」、長沖一「ヤニングス余談」、正岡容「続映画人物記 夢声とあたし」等の記事がある。




裏表紙は住吉菖蒲園の広告。2月は梅見の季節!



ちなみに、この号の『松竹座グラヒツク』には、長沖一(ながおき・まこと)の名前が目次にあるのが極私的に嬉しい。藤沢桓夫が昭和21年1月に創刊した『文学雑誌』の編集実務をになった長沖一で、庄野潤三はその創刊号から寄稿していた。さてさて、中学生の庄野潤三が兄・鴎一に連れて行ってもらった映画館は道頓堀の松竹座だと勝手に決めつけてみると、一番近い「製菓会社の出している店」は心斎橋筋の戎橋のほど近い明治製菓売店ということになる、かな?




手持ちのマッチラヴェルのなかで、心斎橋の明治製菓売店が1枚だけあった。昭和7年3月10日の新築開店時のものと思われる。心斎橋筋の明治製菓売店は昭和3年11月25日に開店、昭和5年11月11日に火事で喫茶部を焼失後、昭和7年3月10日に新築開店。昭和20年3月14日、空襲で全焼(『三十五年史 明治商事株式会社』明治商事株式会社・昭和32年5月2日発行)。




『寫眞心齋橋』の明治製菓売店のページに掲載の写真。ライトに照らされる「Meiji」のガラスがほんの少しだけライト風装飾なのが微笑ましい。《明治製菓会社の分身、明治商店の経営、大量製産は、良品を斯くも安く売れるという事を、顧客に知って頂くため、東京の十三店始め、全国の二十八のチェーンストアが設立されてある、社長は相馬半治氏。》という「せつめい」が添えられている。




1階店内にはたくさんのお菓子が陳列されていて、さながらお菓子の国。




その1階奥の喫茶室。高い天井と照明の配置、床のタイルの形状がそこはかとなくモダン。




階段を上がって、2階喫茶室へ。中尾書店で頒布されている『新菜箸本撰』(http://www.nakaoshoten.jp/shin_honerami/index.html)の第七号《石橋心斎橋“一〇一”年号》(2010年1月2日発行)所載の、高橋俊郎「表紙絵の心斎橋――昭和十六年から、心斎橋筋書肆の子、田村孝之介と雑誌「大阪文学」・輝文館―――」の書き出しに、

 昭和十六年(一九四一)と言えば、戦時下に風俗壊乱に問われて文芸作品の発禁処分が続出し、織田作之助『青春の逆説』、九条安治川が舞台の徳田秋声『西の旅』も発禁となった年である。十二月八日には真珠湾を攻撃し、太平洋戦争が始まった。
 さて、その十六年春の心斎橋筋明治製菓売店二階喫茶室に、大阪の主だった同人誌の面々が十五、六人集まった。「新文学」の小野十三郎、田木繁、名木皓平、「上方文学」河原義夫、「海風」織田作之助など。

というふうに、昭和16年12月1日に創刊された『大阪文学』のはじまりが記されている。心斎橋の明治製菓売店がまさにその舞台だった。




心斎橋の明治製菓売店の3階は集会室。昭和16年春に大阪の同人誌の面々が集まったのは明治製菓売店2階喫茶室とのことだけど、総勢十数名だから、3階の集会室だった可能性もありそう。『大阪文学』の表紙絵を描いた田村孝之介は明治36年に心斎橋北の書肆の子として生まれ、発行元の輝文館は西横堀川の呉服橋の近くにあったという。『新菜箸本撰』に掲載の高橋俊郎さんによる、昭和16年12月に創刊した『大阪文学』をめぐる論考にある大阪の文学者たちの交錯とその舞台の大阪の町を思うと、いつも胸が躍る。いままで何度読み返したことだろう。





『大阪文学』創刊号(昭和16年12月1日発行)の田村孝之介による表紙絵、『新菜箸本撰』第七号(2010年1月2日発行)所載、高橋俊郎「表紙絵の心斎橋――昭和十六年から、心斎橋筋書肆の子、田村孝之介と雑誌「大阪文学」・輝文館―――」のページに掲載の図版。

 この創刊号の絵は川面の家並みに浮かぶ船と、まるでヴェネツィアのような風景で、私は道頓堀川かと思っていたが、左遠景が馬場町に移転した大阪中央放送局だとすると、西横堀川だろうか。いずれにしても水都を象徴するスケッチである。
 発行所の輝文館は東区横堀二丁目十六、西横堀川に架かる呉服橋の近くにあった。
 輝文館が発行していた雑誌「大阪パック」の当時の編集長格は秋田実で、自分も『笑ひの研究』を連載していた。ここに長沖一や藤沢桓夫や小野十三郎、そしてその表紙絵も描いていた田村孝之介がいつも顔を出していた。
 その頃、秋田実は吉本興業の文芸部長も兼務していて、ここに集まった面々は、昼下がりになると連れもって心斎橋を抜けて、大丸を東に入った東清水町にある吉本興業芸能部をのぞいて、夜には道頓堀にたどりついて騒ぐのが常だった。

というふうに綴られている。秋田実、長沖一、藤沢桓夫、小野十三郎、田村孝之介……。この顔ぶれがたまらない! 馬鹿のひとつ覚えで「モダン大阪」だと、たまに大阪の町を歩くとそれだけで気持ちが高ぶってしまうのは、この顔ぶれが体現するところの文学や美術やデザイン、演劇や演芸の交錯の象徴としての「大阪地図」にずっと夢中だからなのだった。




と、吉本興業の文藝部長の秋田実の名前も登場したところで、彼が編集していたとってもモダーンな『ヨシモト』の復刻版(1996年11月3日発行)を取り出す。創刊号(昭和10年8月1日発行)のみ田村孝之介による表紙絵。発行所の吉本興業合名会社の住所は「大阪市南区東清水町三〇」。


最後に、ガスビルに寄り道を


『新菜箸本撰』第七号に掲載の高橋俊郎さんの「表紙絵の心斎橋――昭和十六年から、心斎橋筋書肆の子、田村孝之介と雑誌「大阪文学」・輝文館―――」には、「大阪文学の道」と題した地図が付されている。

「大阪文学」の編集長格になった織田作之助はと言うと、当時は日本工業新聞社に勤めていたが、ここが昭和十六年三月に、堂島から江戸堀下通り一丁目五十三に移転した。つまり、西横堀川を挟んで輝文館に毎日のように顔を出していた。その輝文館サロンとも呼ばれるべき環境の中から「大阪文学」が生まれたのである。
 朝日ビル→日本工業新聞→輝文館→ガスビル→[き]文堂→心斎橋→吉本芸能部→道頓堀、これが当時の大阪文学の道とも言えるのではないか。

堂島から心斎橋まで、朝日ビル、支庁、図書館、中央公会堂、西横堀川を挟んで日本工業新聞と輝文館、御堂筋沿いのガスビル、田村孝之介の生家である心斎橋筋の書籍卸商・[き]春堂から、十合、大丸、東清水町の吉本興業が書かれている。このあとの、《皆んながぞろぞろ心斎橋に向う時も、将棋好きの織田作之助は途中で抜け出して、ガスビル七階にあった学士会倶楽部で指していたようである。》の一節が嬉しい。




《昭和十三年大改正版 最新大阪電車地図》(和楽路屋、昭和13年3月20日発行)より、「大阪文学の道」の界隈を拡大。この地図はボロボロだけれど、西横堀川をはじめとする数多くの河川のあった頃の大阪地図が好きで、その橋のひとつひとつの名前が目にたのしい。




北尾鐐之助《西横堀川=御池橋附近》、『近代大阪』(創元社、昭和7年12月25日)所収「河川雑記」のページに掲載の写真。御池橋は、輝文館の近くの呉服橋のだいぶ南、四ツ橋の文楽座の近く。





《ガスビル御案内》(大阪瓦斯株式会社発行)。全10ページのリーフレット。館内断面図、1階から最上階の8階までの案内記事。






ガスビル講演場で開催されていた「ガスビル映画鑑賞会」リーフレット。「これからだ出せ一億の底力」というような「新体制標語」や「掛けよ一億防諜マスク」といった「防諜用語」が余白に書いてあるから、大東亜戦争以後のもので、紙そのものはいたって粗末。『旅する人々』、『スパイ戦線を衝く』、『未完成交響楽』、『少年の町』等々の洋画がニュース映画とともに上映されている。主催は夕刊大阪新聞社。「夕刊大阪」は日本工業新聞社と同系で、昭和14年に日本工業新聞に入社した織田作之助は翌年「夕刊大阪」の社会部に異動し、昭和17年春まで勤めていたのだった。




上掲の《ガスビル御案内》のグラビアより、《ガスビル講演場》。舞台正面上部の文様については、『大阪瓦斯五十年史』(昭和30年10月19日)で《舞台正面プロセニアム・アーチの上の文様はギリシア神話の神々をシンボルとする象形文字をもって天体を表わし 左から海王星 火星 土星 金星 太陽 天王星 月 水星 木星の順 左右両端は星雲説からきた文様である》というふうに解説されている。上掲の「ガスビル映画鑑賞会」の粗末なリーフレットにもあしらわれいるガスビルホールのシンボル。




上掲の《ガスビル御案内》のグラビアより、《屋上の眺望(露台)》。大阪城が見える。《東に錦城を望み西は遠く大阪湾の水平線まで眺め時にガス燈の光の下に、静かに夜の化粧をして行く大都会を見下ろす壮快さは当ビル独特のものです》とある。8階建てのガスビル。織田作之助が将棋を指しに通っていた7階にあったという学士会倶楽部からの眺望はどんな感じだったのかな。