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冬休み関西遊覧日記その3/阪急西宮北口と阪神間モダンの残像めぐり

2011年12月29日。宝塚ホテルのアップルパイの午後を心ゆくまで満喫、さて、これから宝塚南口駅から西宮へと向かうとするかというところで、武庫川の鉄橋を渡る今津線の車窓を眺めたい! という誘惑にはどうしても勝てなくて、いったん宝塚駅へと戻ることにする。という次第で、宝塚南口から宝塚行きの今津線に乗って、武庫川を渡る鉄橋からの車窓に見とれてその電車が折り返して、今度は西宮北口行きとなり、阪急電車はふたたび武庫川を渡った。2回も武庫川の鉄橋を渡った! と歓喜したあとで、西宮へと向かった次第であった。




西宮北口行きの今津線の車窓から武庫川河畔をのぞむ。今はすっかり住宅地の宝塚だけれども、武庫川ののんびりした眺めは永遠だなあと、本日の午後はこの武庫川の眺めにしみじみくつろいだことであった。




《宝塚をあとにする2000系の今津線経由梅田行き阪急〈宝塚南口〜宝塚〉》(写真:諸河久)、『日本の私鉄3 阪急』カラーブックス512(保育社、昭和55年10月初版)より。旧宝塚大劇場と宝塚ファミリーランドがありし頃の写真。大劇場と遊園地の間に「多聞」のお酒の工場があるというのがなんだか嬉しい。宝塚ファミリーランドの観覧車からの眺めはどんなだったのだろう。




《武庫川畔より大劇場を望む。》、『阪神急行電鉄二十五年史』(昭和7年10月)より。こちらは戦前の武庫川の鉄橋の下から大劇場をのぞんだ写真。




宝塚ホテルの絵葉書、『鉄道ピクトリアル』1998年12月増刊号《特集 阪急電鉄》所収、「絵葉書に見る阪急電車」(所蔵と解説:白土貞夫)より。《正面の大きな建物が宝塚ホテル、その右後方が(旧)大劇場。画面右側の2本のホームと停車中の宝塚行電車が見えるのは宝塚南口駅。この1枚に歌劇の街に君臨する阪急王国の姿が集約された昭和初年の風景》と懇切に解説されているように、宝塚ホテルと大劇場、宝塚南口駅のホームと電車が雪景色の1枚に収まっている絶品の絵葉書。



『鉄道ピクトリアル』1998年12月増刊号《特集 阪急電鉄》所収、「宝塚線における高架化事業について」によると、かつては地上駅だった宝塚駅は、旧宝塚大劇場が最後の公演を行った1992年12月の3年前から着手されていた高架工事が1994年10月に完成、高架化により宝塚線は50500メートル、今津線は90900メートル延長されたというから、実は現在の宝塚駅は以前の宝塚駅よりも位置がだいぶ異なっているのであった。




東宝の機関誌『エスエス』昭和12年9月1日発行(第2巻第9号)所載、三太郎「宝塚るーまあ・らんど」のページに掲載のグラビアより、宝塚駅の改札を出るタカラジェンヌ二人(名前はわからぬ)。改札の向こうにうっすらと阪急電車が見える!

宝塚の非常時風景
北支の風雲愈々急を告げ、非常色が益々濃厚になつて来た今日この頃は、宝塚の桜トンネルに千人針のおばさんが一間置き位に立つてゐて生徒達に一針づゝ縫つてくれと頼むので、生徒は毎日、停留所から学校まで行くのに卅分位時間がかゝり、登校時間を半時間早めねばならぬという異風景を現出したが、遂には生徒達も人のを縫ふだけでは満足出来ぬ様になり、自ら千人針を計画し、慰問袋に入れて送るものが、ぐんぐん増え、教室も楽屋も千人針の大氾濫、而も流石に芸術家の集まりとて、たゞ千人針を並べるだけでなく、「祈武運長久」とか「大日本帝国万歳」とかの文字を描いたデザイン入りの千人針を特製し、銃後の花としての働きを遺憾なく発揮してゐる。


同じく、『エスエス』所載「宝塚るーまあ・ランド」のグラビアより、大劇場の前を武庫川に架かる「迎賓橋」を渡るタカラジェンヌ。昔の宝塚の写真ですっかりおなじみになった「迎賓橋」。ロッパも公演後もしくは公演の合間にこの橋を渡って、定宿の「川万」に戻ったり、宝塚ホテルのグリルへ食事をとりに行ったりしていた。



武庫川を渡った先の宝塚南口駅付近の高架工事は昭和39年6月に着工され、昭和46年3月に完成。上掲の絵葉書を見ると、現在の高架の宝塚南口駅よりも、以前の地上の宝塚南口駅の方が、宝塚ホテルの入口からやや距離があることが見てとれる。武庫川を渡る鉄橋も以前の場所とは異なるのかな、ま、このあたりの細かいことはひとまず脇へおいて、宝塚駅を出発した今津線は、ひとまず西宮北口駅に向かって、走ってゆくのであった。
(追記:高架化工事の際には、武庫川の下流側に西宮方面の新しい橋を建設されて、宝塚方面の新しい橋はそれまでの西宮方面の線路の場所に移設されている、すなわち現在の武庫川の橋の位置は下流側に線路一本分ずれていると、後日ご教示いただきました。6月19日記)




阪神急行電鉄株式会社発行《沿線御案内》より、阪急今津線を拡大。宝塚と今津を結ぶ阪急今津線は、大正10(1921)年9月にまずは宝塚・西宮北口間で開業。大正15(1926)年12月に今津へと延びて、阪神電車との接続がなされ、乗客はますます便利になった。西宮北口・今津間の阪神国道駅の開業は昭和2年5月で、阪神国道を走る路面電車・阪神国道線の北今津駅に乗り換えることができた(北今津駅の開業は昭和2年7月。「北今津」の停留所の名は今は阪神バスの停留所の名として受けつ継がれている。)。この沿線案内を見ていると、夙川から甲陽園まで2駅の甲陽線(大正13年10月開業)にもなんだかそそられる。いつか乗ってみたい! などと、各路線の開業年月日をちょっと確認しただけでも、鉄道網の整備からみる「1920年代日本」に胸が躍るものがある。


さて、阪急今津線は、西宮北口から今津までは一度だけ乗ったことがあったけれど、宝塚から西宮北口を乗るのは今回が初めて。以前、神戸線から今津線に乗り換えるべく西宮北口で下車したときに、駅のまん前にかつて西宮球場があったという事実にたいへん感銘を受けた。ちょうどその前日に、南海難波駅で南海電車に乗り、かつてこんな町中に大阪球場があった! という事実に感嘆していたばかりだったから、たまたま二日連続で消えた球場跡に遭遇して感無量だった。阪急電車と球場といえば、マキノ正博総指揮のオムニバス映画の『学生三代記 昭和時代』(昭和5年4月10日封切・マキノプロダクション)の「野球の巻」に、宝塚行きの阪急電車と野球場が映っていたことを思い出す。しかし、西宮球場の工事は、昭和11年に小林一三の肝入りで誕生した大阪阪急野球協会(今はなき阪急ブレーブスの前身)のホームグランドとして、昭和11年12月に着工されて、翌年4月に竣工し、翌月の5月1日に開場式を迎えた(小野田滋「阿部美樹志と阪急の構造物」、『鉄道ピクトリアル』1998年12月増刊号《特集 阪急電鉄》)。よって、マキノの映画に登場していた球場は残念ながら西宮球場ではない。




《阪急西宮球場五月一日開場 ポスター 作者不詳》(昭和12年)、展覧会図録《関西のグラフィックデザイン展 1920〜1940年代》(西宮市大谷記念美術館、2008年)より。出来たてホヤホヤの西宮球場の開場を告げるポスター。西宮球場のモダーンな石造りの建築とピッチャーをあしらったダイナミックなグラフィック。「行きよい球場・見やすい環境」と惹句にあるとおり、大阪(梅田)からも神戸(三宮)からも西宮北口までは12分。そして、球場は駅のまん前! ちなみに、小石川の陸軍砲兵工廠跡に後楽園スタヂアムが同年の昭和12年9月に開場していて、こちらの開業にも小林一三が絡んでいる(と、このあたりの諸々は、坪内祐三『極私的東京名所案内』(彷徨舎・2005年10月)所収「後楽園スタヂアム」がとっても面白い!)。




ナイターの真っ最中の西宮球場の写真、『関西の照明』(社団法人照明学会関西支部、昭和32年8月)より。左上方に西宮球場の外観を特徴づけていたモダンな建築が見える。キラキラと光り輝くような満員の球場の熱気が伝わってくるかのようで、なんてよい時代だったのだろうとしみじみ思わずにはいられない、たいへん素晴らしい写真。




《球場前踏切を通過する今津線用2000系〈阪神国道〜西宮北口〉》(写真:諸河久)、『日本の私鉄3 阪急』カラーブックス512(保育社、昭和55年10月初版)より。四角の窓が幾何学的に配置され、そのてっぺんには丸窓が並んでいる。この壁面のなんてモダンなこと! 西宮球場のまん前を通る今津線は長らく地上の線路を走っていた、ということを示しているという点でも、たいへん素晴らしい写真。





現在の阪急今津線は、西宮北口で南北に分断されている。宝塚から今津線に乗って西宮北口に到り、今津方面へと南下する場合はいったん西宮北口駅で乗り換える必要があるのだったが、阪急今津線が南北に分断されたのは昭和59年3月25日であって、それ以前は1本で行くことができた。なぜ、今津線は南北に分断されてしまったのか。『鉄道ピクトリアル』1998年12月増刊号《特集 阪急電鉄》所収、青木栄一「阪急電鉄のあゆみ〔戦後編〕」の「(4) 西宮北口駅の大改良工事」に、

西宮北口駅は神戸線と今津線が交わる駅であったが、文字どおりの平面交差があって、阪急の路線のなかでは広く知られたスポットであったが、高速鉄道同士が直角に交差する形式の平面交差は全国的にも珍しく、ここでは1980年代初頭のラッシュ時には10分間で神戸線9本、今津線3本が通過するという過密状態にあったという。

というふうに、今津線が分断されていなかった往事が語られている。かつて、神戸線と今津線のいずれも地上の線路が直角に交わるという平面交差、いわゆる「ダイヤモンドクロス」が西宮北口の名物だった。が、ラッシュ時の安全確保と西宮北口の神戸線のホーム延長工事の必要性とで、昭和59年3月25日にダイヤモンドクロスは撤去され、今津線が南北に分断され、神戸線のホーム延長により昭和60年11月18日に特急車両の10両運転が開始、《広い橋上駅方式のコンコースを上に設けて、地上の線路によって分断されていた市街を連絡できるようにし》、昭和62年4月6日に橋上駅舎が完成され、西宮北口駅は現在の姿になった。




《平面クロス 今津線314号と919号本線各停 西宮北口 1952-12-12》、『高橋弘作品集2 関西の私鉄 懐かしき時代』(交友社、昭和54年6月発行)より。西宮北口駅には球場のみならず、「ダイヤモンドクロス」というものが存在していたなんて! と、ダイヤモンドクロスの存在を実はこのたび初めて知って、大興奮だった。地上の線路が直角に交るサマの独特の感じ、二つの阪急電車が直角に停車し、電車の上の架線も直角に交差する、もちろん線路そのものが直角に交差している! のみならず、架線も直角に交差している! と大興奮せずにはいられない、素晴らしきダイヤモンドクロス!




《通学生が多かった西宮北口今津線ホームの戦時中の風景(昭和16年)。8号は宝塚行き、97号は今津行き。》(撮影:久保田正一)、橋本雅夫『阪急電車青春物語』(草思社、1996年8月)所載の写真。向かって右のホームが阪神国道と今津へ向かう電車で、左が宝塚行き。たくさんの学生でひしめくホーム。




《西宮北口の平面交差を渡る今津行の1形2両編成(昭和17年)》(撮影:久保田正一)、おなじく『阪急電車青春物語』に掲載の写真。西宮北口を発車した今津線が今津に向かって、ダイヤモンドクロスを通過する瞬間。





《958+934 神戸線上りホームから下り電車を撮影。今津線との平面交叉ダイヤモンドクロスを渡る。西宮北口 昭和21/1946.5.11》、『終戦直後 大阪の電車 浦原利穂写真集』(ないねん出版、2004年8月)より。そして、こちらは、上掲の今津線と直角に交わる西宮北口の神戸線の写真。神戸線の上りのホームと下りのホームとがダイヤモンドクロスをはさむ格好で離れて位置していた。神戸線の西宮北口は神戸線と同時の大正9年7月に開業している古い駅(神戸線は十三・六甲間で開業し、大正15年7月に中津へ、大正15年7月に梅田に延びた。)。




宝塚のあとの次なる目的地は、今津線の阪神国道駅だった。阪神国道駅は今津線沿い、宝塚南口から今津線に乗ってみたらその電車の終点が西宮北口だったので、いったん下車し、さて今津行きの電車に乗り換えるとするか……といった感じに、特に深い考えもなく乗り換えただけだったので、今津線がかつては西宮北口で南北に分断されることはなく1本につながっていたということは、実は帰京後になって知って、深く感動した次第。『鉄道ピクトリアル』1998年12月増刊号《特集 阪急電鉄》所収、吉川文夫「阪急沿線観察学」に、《時計塔と電車の絵のある西宮北口駅のコンコース》を写した写真が掲載されている。かつてダイヤモンドクロスのあった場所の上部に作られた《2階コンコースは快適さを求めて、中央部をドーム形とした明るい天井とするとともに周辺には壁画を配し、時計塔も置かれている。》という。阪神国道駅に急ぐあまりに周囲には目もくれず一心不乱に今津駅行きのホームへと早歩き、そのコンコースを深い考えもなく移動してしまったのは、たいへんもったいないことだった。今度行くときは、このコンコースの時計塔の前でかつてのダイヤモンドクロスに思いを馳せたいものだと思う。そして、駅前の「高松ひなた緑地」に保存されているダイヤモンドクロスの線路を見物したいなと思う。それにしても、すばらしきダイヤモンドクロス!





宝塚大劇場の旧建築や西宮北口の平面交差と西宮球場が消えた「関西モダン」である一方で、宝塚ホテルと並んで本日最大の目的地である今津線の阪神国道駅は、現在も健在の「関西モダン」名所である。阪急今津線は、大正10年9月2日にまずは宝塚・西宮北口間で開業し、次いで、西宮北口・今津間が大正15年12月18日に開通、宝塚・今津間での運行となった。その半年後の昭和2年5月10日に、西宮・今津間に阪神国道駅が開業し、今津線は現在の姿に……と復唱してみると、阪急今津線の存在そのものがまさしく「関西モダン」だなあと、しみじみ。そして、阪神国道駅は今津線で唯一、開業当時の姿を現在も濃厚に残しているのだった。





《西宮北口今津間の高架陸橋》、『阪神急行電鉄二十五年史』(昭和7年10月)より。西宮北口から今津へと到る高架線は大正15年12月の開業当時の姿を現在に残している部分とのちに高架化された部分とがつながっている。西宮北口駅から阪神国道駅の高架は大正15年12月の開業当時のままである。




同じく『阪神急行電鉄二十五年史』より、《阪神国道停車場》と《阪神国道停車場への昇降口》。阪神国道を走る路面電車・阪神国道線の北今津駅との乗換駅として、昭和2年5月に開業した阪神国道駅。周囲はいたって殺風景ななかにそびえたつ高架駅に「大阪 みのお 宝塚 甲陽園 苦楽園 神戸」という看板。



という次第で、宝塚から今津線に乗って、阪神国道駅に行きたいなと思ったところで、ブログ「近代建築Watch(http://hardcandy.exblog.jp/)」、2010年12月06日付けの「阪急電鉄今津線の橋梁・高架軌道」(http://hardcandy.exblog.jp/15114034/)のため息が出るような美しい写真を拝見して、その都市風景に琴線が触れてしかたがなくて、次なる関西遊覧の暁にはぜひとも訪れたい場所の筆頭となっていた。阪神国道駅の建築と麦酒工場と、阪急の高架とJRの地上の線路とが交差する、この一連の都市風景。




昭和10年の阪神国道駅の周辺地図。『西宮市街全圖』(赤西萬有堂、昭和10年発行)、国際日本文化研究センター(http://www.nichibun.ac.jp/graphicversion/dbase/database.html)内の所蔵地図データベース(http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/)にて入手。


西宮北口から一駅の阪神国道駅。西宮球場のあった場所からやや南下したところ、東海道線と阪急電車の線路と阪神国道に囲まれるようにして、古くから「ユニオンビール会社」の工場があり、それが現在は後身のアサヒビールの西宮工場となっている。西宮球場がすでに消えてしまった今も、依然この地に麦酒会社の工場がある(しかし、もうすぐなくなってしまうらしい。)。さらに、東海道線の地上の上を交差する今津線の高架の鉄橋も戦前のものが現在もそのまま残っているのだった。阪神国道駅の高架と麦酒会社の工場の存在と阪急今津線の鉄橋が、戦前から現在までずっとそのまま残っている! という事実は、「関西モダン」探索者にとっては、いくら強調してもし足りないくらい素晴らしい事実である、ということを何度も強調しておきたい。




『大日本麦酒株式会社三十年史』(大日本麦酒株式会社、昭和11年3月発行)より、西宮工場の写真が掲載れているページ。斜めにレイアウトされた写真で、工場が阪急電車の高架が沿っているさまをかろうじて確認できる。




『大日本麦酒株式会社三十年史』に掲載の清涼飲料水のラヴェル。同書所載の「当社の工場と麦酒試験所」では、西宮工場は「清涼飲料水工場」に分類されている。吹田工場が当時も大規模なビール工場であった一方で、この社史が発行された昭和11年当時、西宮工場ではビールではなくて、リボンシトロンや三ツ矢サイダーといった清涼飲料が製造されていた。



昭和9年6月1日に阪急梅田駅が高架駅から地上駅になったのは、昭和7年7月に着工された東海道本線の電化と連動する動きだった。吹田・須磨間の電化開始は昭和9年7月20日で、その阪神間電車開業を告げるポスターには《省線電車 阪神間運転開始 大阪・三の宮間 急行(無停車)25分、普通(各駅停車)34分》という文字がある。本日(2011年12月29日)の関西遊覧は昭和9年6月1日に地上駅となった梅田駅にはじまり、同年7月20日に電化した東海道本線で幕を閉じるというコースだったといえる。




《上り普通西ノ宮発車、昭和10/1935頃》(撮影:高田隆雄)、大那庸之助・沢渡健一編『大阪の省電 Vol.2』(プレス・アイゼンバーン、昭和54年6月)より。JR の線路(甲子園口・西宮間)の線路の上に交差する阪急今津線の高架のトラス橋が写っている、たいへんすばらしい写真。





さて、ブログ「近代建築Watch(http://hardcandy.exblog.jp/)」でうっとりと見とれていた都市風景を見物に参りましょう! と、西宮北口でイソイソと乗りこんだ今津行きの阪急電車は高架線路を走って、あっという間に東海道線の線路の上を越えて、宵闇迫れる阪神国道駅に到着した。




これまで乗っていた今津行きの電車は向こう側へと走り去り、向かいのホームに西宮北口行きの電車がやってきたところ。念願の阪神国道駅にやってきた! 宵闇迫れる冬の駅のなんと美しいこと! とジーンとたちすくむ。




今津行きホームの向かって左側、すなわち東側一帯に「アサヒビール西宮工場」の敷地が広がる。改札口へと降りる前に背伸びしたら、麦酒工場が見えた!




阪神国道駅の改札を出ると、いかにも古びたコンクリートが今も健在。「国道」つながりというわけではないのだけれど、そこはかとなく、鶴見線の国道駅を思い出した。





阪神国道を横断する阪急電車の高架。




線路の真下の駅名表示。昭和2年の竣工時からこの形状は今もまったく変わらない。




阪急電車の高架をくぐった先の橋の跡があり、大正15年4月の日付が刻んであった。埋め立てられて、橋だけが残っている。この橋のあたりにかつて阪神国道線の北今津駅があった。この写真は橋(の跡)を渡って、先ほど見上げた高架を振り返ったところ。




橋(の跡)を渡ったところで左折、すなわち北に沿って、すなわち麦酒工場の敷地に沿って、東海道線の線路へと向かう。まん前に先ほど下車した今津方面のホーム。




東海道線の線路に向かって、すなわち西宮北口の方向へと上の道をズンズンと歩くと、やがて右に先ほど高架のホームから見えた麦酒工場が見えてくる。ここは今津線の高架の真下。




今津線の高架をくぐって、東海道線の線路が見えてくる直前に歩いてきた道を振り返ったところ。静かな道。




東海道線の線路がまん前に迫ってきたところで、右手に念願の阪急電車の鉄橋が! 『大阪の省電 Vol.2』で見とれていた、そのまんまの姿! ジーンと立ちすくんでいたら、ゴーッと今津線がやってきて、あわてて写真を撮る。




地下通路をくぐって、東海道線の線路の向こう側に出て、阪急今津線の鉄橋に向かって、歩いてゆく。




東海道線の線路沿いを歩いて、阪急今津線の鉄橋をくぐったところで、麦酒工場をみやる。宵闇迫れる冬のツンと済んだ空気と古びた鉄橋とビール工場の都市風景とが絶妙な調和して、かえすがえすもなんともいえない美しさ。




しばらく歩を進めたところでまわれ右をして、ふたたび、阪急電車の鉄橋の下をくぐって、東海道線の線路を西宮方向へと向かう。なんとか日没前に間に合って、かねてよりの念願だった、阪神国道駅と麦酒工場と阪急電車の鉄橋の都市風景を心より満喫することができて、こんなに嬉しいことはなかった。




ふたたび東海道線の線路の下の地下道をくぐって右折して、線路に沿うかたちでテクテクと歩いてゆくと、ほどなくして駐車場の向こうに西宮駅のホームが見えていた。そこはかとなくうらぶれた感のただよう西宮駅のホームの景色がなんだか好きだった。JR の西宮駅の周辺は高層住宅が連なる住宅地でだいぶ静か。阪神の西宮駅はどんなかな?





関西遊覧をたのしむようになったここ数年、梅田と神戸は阪急か阪神ばかりで、JR はほとんど乗ったことがなかったのだけれど、去年12月に初めて大阪から神戸方向へ JR で移動した。阪神と阪急にまさるとも劣らないくらい、JR の車窓にも興奮だった。大阪から尼崎に近づくとにわかに工場が連なり、グリコのお菓子工場に喜んでいたら、そのあとは、のこぎり屋根の工場が見てたりするといったような、工場が迫りきて手狭感すらただよう、阪神工業地帯の風景が大好きだった。そして、住吉あたりで六甲の山の連なりが迫ってきて、風景がゆったりしてくる、大阪から神戸に近づくにつれての車窓の変化具合が大好き。……というわけで、ちょうど1年ぶりに JR の車窓を見ることができて嬉しい。去年に大阪から神戸に向かう途中で満喫した阪神工業地帯の風景を、逆方向から味わうひととき。という次第で、西宮から東海道線に乗りこんで、車窓を凝視していたら、さきほど間近で見とれていた阪急今津線のトラス橋の下をくぐり、右手にはアサヒビールの工場、と思った直後にさっそく「ニッカウヰスキー」の工場が見えて、歓喜!




そして、去年12月に大興奮していたノコギリ屋根の工場! ここはたしか、尼崎・塚口間だったかな。




「ビスコ」のロゴが見えて、江崎グリコの工場も見逃さずに済んで、歓喜! 明治も森永も関西に工場があるけれども、やっぱり関西のお菓子会社といえば、なんといってもグリコ!




などと、興奮しすぎて疲れたなあと、あっという間に大阪駅に到着。去年は普請中だった大阪駅はすっかり様変わり。ホームの古い屋根の上に吹き抜けのように広大な屋根が覆っている。ホームの向こうに大阪中央郵便局の建物が見える!




2011年12月29日、午後5時。冬休み1日目の関西遊覧を無事に締めくくることができてよかったなと、神戸のご夫妻との待ち合わせまで小一時間ほど時間があったので、これ幸いと、「阪急古書のまち」へとテクテク。今まで深く考えたことはなかったのだけど、阪急梅田駅の高架の下にある「阪急古書のまち」は、梅田駅が現在の姿になった昭和48年のすぐあとに開業している。




《最新大大阪市街地図》(和楽路屋、昭和13年7月10日発行)より、大阪駅と阪急百貨店のあたりを拡大。「阪急古書のまち」は JR の線路の北側に位置する。阪急百貨店は JR の南側。この地図の「阪急」に向かって描かれてる赤い線は、神戸線と宝塚線の複々線と路面電車の北野線(中津・梅田間)の線路。かつて存在した阪急電鉄の路面電車・北野線は、梅田・茶屋町・北野・中津の4駅。




《戦時中の梅田東口。今のナビオ阪急前(昭和17年、梅田映画劇場前)。大正5年に南海鉄道から譲り受けた34形・北野線用の路面電車が停車。》(撮影:久保田正一)、『阪急電車青春物語』より。北野劇場と隣接する梅田映画劇場、その地下には梅田地下劇場。それらの劇場のまん前が、北野線の北野駅。北野劇場の向こうにうっすらと東海道線の線路が見えて、その向こうが中津駅。梅田映画劇場には、マキノ正博の『ハナ子サン』(昭和18年2月25日封切)の看板!


戦前の古川ロッパ一座の関西での本拠地だった北野劇場を含む、阪急百貨店の隣りの阪急経営の劇場と映画館は現在、屋上に赤い観覧車のあるビルになっている。今まで深く考えたことはなかったけれども、梅田の地で赤い観覧車が視界に入ったら戦前のロッパに思いを馳せたいなと思う。……というようなことを思いながら、「阪急古書のまち」までテクテク歩いて、今年最後のお買い物を満喫。杉本梁江堂でポンポンと景気よく本を買って、気持ちよかった。このところ、古書展か目録ばかりで、古本屋で買い物するということが少なくなっていたから、ひさびさに古本屋の空間を満喫。そして、最後は、時間までリーチアートとで絵葉書を物色するのが、いつものお決まり。




杉本梁江堂で数冊買った本のうち、新国劇文藝部長竹田敏彦編著『新国劇 沢田正二郎 舞台の面影』(かがみ社、昭和4年4月)より、トルストイ原作・島村抱月氏再脚色『復活』(ネフリュードフ:沢田正二郎、カチューシャ:久松喜世子)。阪急電車の駅、構内および車内にこれでもかと元日に初日の宝塚大劇場花組公演の『復活』のポスターを見ていて、ふつふつと沢田正二郎のことを思い出していたところで、杉本梁江堂で見かけてふらふらと買ってしまった。大阪で沢正本を買うというえにしが嬉しい。





リーチアートではいつもご当地の関西の絵葉書探しに夢中になる。数枚買った絵葉書のうちの1枚、《大阪毎日二百万突破》。大阪毎日新聞にまつわるあれこれもいつも大好きなのだった。