冬休み関西遊覧日記その1/1930年代の阪急梅田駅。淀川の鉄橋

2011年12月29日。今年はなんやかやで、ここ数年来のおたのしみ、年に何度かの関西遊覧に行かれずじまいだった。という次第で、年末になってやっと、ちょうど1年ぶりとなる関西行きが実現して、こんなに嬉しいことはない。午前9時00分東京駅発の新幹線は、定刻どおり午前11時36分に新大阪に到着。




新大阪でイソイソと在来線に乗り換えて、大阪駅へ向かう。小津安二郎の『彼岸花』のラストの鉄橋を胸に、先頭車両に乗り込むのがいつものお決まり。この淀川を渡る瞬間はいつだって「大阪に来たなア!」と全身で歓喜。大阪遊覧がいよいよ幕を開ける瞬間はいつだって全身で歓喜。








小津安二郎『彼岸花』(昭和33年9月7日封切・松竹大船)の終盤のショットより。蒲郡の竹島の桟橋、京都祇園の旅館「佐々木」の裏口、広島に向かう車内で佐分利信が電報を依頼するボーイ・須賀不二男、ラストの淀川の鉄橋。蒲郡で中学のクラス会のあとに、「ついでに大阪まで来たもんだから」と京都祇園の浪花千栄子・山本富士子親子を訪れた佐分利信が、結婚と同時に広島に越した娘の有馬稲子とその夫佐田啓二を訪ねるべく、急行「かもめ」に乗り、大阪に入る直前にボーイに打電を依頼する(広島14時18分着)。京都から大阪に入る直前の電車が淀川を渡ったところで、完。蓮實重彦・厚田雄春『小津安二郎物語』(筑摩書房、1989年6月)所収「お召列車に敬礼」によると、電車のボーイ役は当初田浦正巳が予定されていたものの、チョイ役なので断られて、須賀不二男に話を持っていこうとしていたけれども遠慮していて、ほぼ厚田雄春が引き受けることに決まりかかったところで、一応須賀にきいてみたら、「ぜひ出させてください」と喜んで出演したという。この挿話が昔から大好き。




大阪駅に到着直前。ちょうど1年ぶりとなる大阪駅。去年はあちらこちら普請中だった大阪駅は1年前とすっかり様変わりしていた。


昭和9年の梅田駅に思いを馳せながら、阪急電車の改札口へ向かう。

正午前、大阪駅の外に出る。2年前の関西遊覧の折に初めて間近に立って、その直線美に見とれるばかりだった大阪中央郵便局のもう使われていない建物が健在で嬉しい。あらためてじっくり建物を眺めたあとで、堂島の定宿に荷物を預けて、身軽になってほっと一安心。ドージマ地下街(寺島珠雄!)でうどんを食べて腹ごしらえを済ませて、さらにほっとひと安心。さあ、これから宝塚へと出かけるといたしましょう! と大いにハリきって、阪急梅田駅へ向かって、人混みをぬってズンズンと歩いてゆく。




《最新大大阪市外地図》(和楽路屋、昭和13年7月発行)より、大阪駅周辺を拡大。省電大阪駅前に沿った大通りに、阪神前・大阪駅前・阪急前というふうに、大阪を起点とする3つの路線の改札の最寄りとなる市電の停車場がある。ドージマ地下街から阪急前の停車場に向かって歩くときはいつも、阪急電車に乗って堂島の大阪毎日新聞に通勤していた北尾鐐之助のことを思い出す。その著書、『近代大阪』近畿景観第三編(創元社、昭和7年2月)での、梅田新道の太平ビル1階のブラジレイロでコーヒーを飲んでいる場面を思い浮かべてみると、さらにこの地図に感興がわいてくる。




大阪市電気局発行の《電車 乗合自動車 案内》。大阪駅構内の「市内交通案内所」で配布されていた印刷物。



その《大阪市電 市営自動車 路線図》の裏面は「阪急電車」の広告。《花よりも美しい新緑のみのお公園》と《日本の名所宝塚》、箕面の滝と武庫川沿いの屹立する宝塚大劇場の建物のイラスト。まさにこれから行く宝塚線沿線の風景が印刷されているのが嬉しい。


北尾鐐之助がちょくちょくコーヒーを喫していた、1階がブラジレイロの太平ビルがあった梅田新道の交差点の市電一駅に「阪急前」の停留所がある。阪急電車の広告として発行されていたと思しき、この大阪市電の路線図の裏面に「市電阪急前下車阪急電車ヲ利用シ得る名勝地左ニ」としてまっさきに挙げられているのは、もちろん「阪急百貨店」。《阪急前停留所下車スグ大阪駅にならんだ宏壮なビルデングで毎日午前九時より午後九時まで営業し、七、八階は食堂、神戸、宝塚、みのお行き、阪急電車は此処から出る》というふうに紹介されている。




というふうに、2011年は一度も関西遊覧に出かけられなかった分、古書肆から戦前の印刷物をいろいろと仕入れて、悦に入っていた。紙上の関西遊覧。こちらは、「阪神急行電鉄株式会社直営阪急百貨店」の包装紙。威風堂々、阪急百貨店の建物が全面に描かれ、その下に沿線図が配置。いったい何が包まれていたのかな、足袋とか手袋とか半襟とかネクタイとか、そんなところかな。シールの痕が残っているのが嬉しい。





さて、いままで特に気をとめたことがなかったのだけれど、昭和42年に移設工事は始まるまで、阪急梅田駅の改札は国鉄の線路の南側に位置していたのだった。北尾鐐之助の『近代大阪』にまさるとも劣らぬほど関西遊覧のたびに重宝している、高山禮蔵『大阪・京都・神戸 私鉄駅物語 写真・資料でたどるターミナル駅の変遷』JTBキャンブックス(JTBフォトパプリッシング、2005年10月)の79ページに、明治43年の開業時から昭和42年に現在の地に移設されるまでが、「阪急梅田駅 駅ビルと構内配線 変遷」として図になっていて、これがたいへんありがたい。モダン関西トピックとして興味津々なのが、

  • 大正15年、大阪市内高架線化により梅田駅も高架化。梅田〜十三間複々線化 昭和4年に阪急ビルが竣工し四代目駅に
  • 昭和9年、国鉄大阪駅高架化による上下切替えで地上駅に戻り。阪急ビル順次増築

の2つの時期。昭和9年6月の省電の高架化および阪急の地上化先立つ、昭和7年2月に刊行された『近代大阪』のなかで、北尾鐐之助は《東海道線が、いよいよ高架になる。阪急電車が下に下りて、縦についていた跨線橋が今度は横につく。阪急百貨店のちょうど二階位の高さに、汽車が煙りを吐いて走る光景を想像することは愉快である。》と書いている(「高架線の中津」)。




《阪急線が国鉄線を乗り越し高架の梅田駅に入っていた時代の航空写真。国鉄大阪駅付近では高架化の工事が進行中》、高山禮蔵『大阪・京都・神戸 私鉄駅物語』の77ページに掲載の写真(写真提供/阪急電鉄)。周囲に高層の建物が見当たらないなかを阪急百貨店の建物が威風堂々とそびえたっているさまが鮮やかに写し出されている。『日本鉄道旅行歴史地図帳 10号 関西私鉄』(新潮社、2011年2月)所収の原武史「阪急梅田クロス問題」では、

1934年までは高架駅で、宝塚線と神戸線の複々線線路が、梅田駅ターミナルを出るや東海道本線をオーバークロスしていた。梅田〜十三が複々線化されたのは1926年だが、東海道線線路の上を阪急の線路をまたぐという光景自体は、1910(明治43)年に阪急が前身の箕面有馬電気軌道が開業した当初からあった。創業者の小林一三は、この光景を「往来ふ汽車を下に見て 北野に渡る跨線橋」という歌詞に詠んでいる。

というふうに、この時期の梅田駅が語られている。『逸翁日記』等の小林一三文献を鋭意チェックしたくなってくる。




国鉄線の高架の下を阪急の線路が梅田駅のターミナルへといたるところを写した素敵な写真、《L-220 阪神急行電鉄 神戸線 951+921 梅田駅 昭和10/1935-36頃》、『西尾克三郎 ライカ鉄道写真全集1』(プレス・アイゼンバーン、1992年6月)より。西尾氏は昭和9年6月の阪急梅田駅の地上化のときを、《省線の高架線を潜るかたちで完成した阪急電鉄梅田新ターミナルも神戸線と宝塚線の複々線にひっきりなしに出入りする電車たちが大いにライカの写欲をそそった。》というふうに回想している。新しい都市風景が誕生した瞬間。



原武史「阪急梅田クロス問題」によると、昭和9年6月に阪急梅田駅が地上駅となったのは、昭和6年6月に鉄道省大阪鉄道局が《国有鉄道の電化と高架化が決定したから、交差している阪急の高架線を、新たに敷設する東海道本線および城東線(現・大阪環状線)の高架線の下にし、地上線にせよという通達を、突然一方的に送りつけた》ことがきっかけだった。高山禮蔵『大阪・京都・神戸 私鉄駅物語』によると、昭和9年6月1日に一晩で省線と阪急の上下入れ替え工事がやり遂げられたというから、なんともドラマチック。大正15年に「大阪市内高架線化」により梅田駅も高架となったあとで、ふたたび地上駅に戻った昭和9年という年は、小林一三にとっては、東京宝塚劇場が開場した年であり、おのずと、1930年代東京の「丸の内・有楽町」へと思いが及ぶ。同時期の古川ロッパの活躍がありように胸躍らせているうちに、高架線の風景はモダン都市の都市風景のシンボルでもあるのだなあと、昭和10年に失踪した藤牧義夫がさかんに描いた高架線が心に浮かんだりもする。……というようなことにふらふらと思いを馳せつつ、今回の関西遊覧でも、有形無形のモダン都市風景めぐりをしたいのだった。





《阪急ビルディング》、『近代建築画譜』(近代建築画譜刊行会、昭和11年9月15日)に掲載の写真、『復刻版 近代建築画譜〈近畿篇〉』(不二出版、2007年6月25日)より。建主:阪神急行電鉄株式会社、位置:大阪市北区角田町、設計・施工:竹中工務店、起工:第1期昭和2年12月・第2期同5年6月・第3期同6年12月・第4期同9年11月、竣工:第1期昭和4年3月・第2期同6年11月・第3期同7年12月・第4期同11年3月というふうに記載されている。長らく親しまれていた阪急百貨店の建物は昭和2年から10年間に渡って少しずつ増築がなされ、この『近代建築画譜』に掲載されている写真の姿となった。




『近代建築画譜』の阪急百貨店の建物の隣りのページにに掲載されている《阪急ビル1階ホール》の写真。左に「改札口」の文字が見える。なんてモダーンなアーチ形の天井! と感嘆するしかない。この伊東忠太設計のコンコース跡は近年まで残っていたのだけれども、わたしは見たことがなく残念至極。高山禮蔵『大阪・京都・神戸 私鉄駅物語』によると、《コンコース北側のアーチ型開口部に改札口が並び左右に出札口が設けられ、乗降場へとむかう。乗車客と降車客で一日中混雑するが、小林一三はこういった人の流れがターミナル駅の賑わいを醸し出すのだと割り切っていた。》、《この時期の新京阪の天神橋、京阪の天満橋、阪和の天王寺が、乗車と降車のホームや通路を画然と分離していたのと対照的である》とのこと。モダン関西のそれぞれのターミナル駅考察の上でたいへん興味深い。




そして、『近代建築画譜』のアーチ天井のコンコースと同じページに掲載の《乗降場》の写真。コンコースの左、すなわち北側にはこんなに素敵な改札口! これもまた、なんてモダーンな流線型の鉄筋! と感嘆するしかない。改札口から電車の先頭部分、線路の部分まで直線距離が結構あって広々としている。当時の車両は2両か3両編成だったから、ホームは短かったという。




そんな小林一三の時代から長らくこの地のシンボル的存在だった建物の取り壊され、阪急百貨店界隈はいまだ普請中。梅田駅のホームに向かう中、改装中のため天井のコンクリートが露わになっている箇所がある。古い建物の残骸なのかなと上を見上げて、ちょっと嬉しい。




《梅田阪急前》、『西日本現代風景』(「大阪毎日新聞」昭和6年9月5日発行附録)より。《大阪の交通地獄は、年とともに益々烈しくなつて、平均一日二三十件の交通事故を惹き起してゐる、写真は阪急前の「ゴー・ストツプ」で名物の田中巡査が、けふも勇ましく街頭の勇士として列日に躍つてゐる》。右に阪急百貨店の建物の角が写っている。昔も今も、梅田阪急界隈はたくさんの人でひしめきあっている。




大阪駅前に停車する市電の停車場に立つ徳山たまき【王+連】、『映画朝日』昭和15年1月1日発行(第17巻第1号)所載「三都の盛り場を行く三銃士」より。金語楼が京都を歩き、大辻司郎が神戸を廻るなか、大阪をめぐる徳山たまきは、《市電の車体、及び郊外電車は、東京には絶対にない位、豪華なものであることをほめてをく》と言っていて、微笑。その遺稿集『徳山たまき随筆集』(輝文館、昭和17年8月)でも、徳さんの鉄道好きがそこはかとなく推察できるのだった。



徳山たまきと小林千代子の歌う「大大阪地下鉄行進曲」を口ずさみながら地下鉄に乗りたくなってくるけれども、今日は阪急電車に乗らねばならぬ。徳山たまきの歩いていた頃の阪急電車の乗降場は省電の線路の南側に位置していたけれど、今は線路の向こう側なので、堂島から歩いてくると結構距離があるなあと、テクテクと人混みをぬって歩き続けて、ようやく改札口手前の階段の前にたどりついた。


阪急電車にのって宝塚へ。モダン大阪の象徴としての淀川鉄橋と高架駅の中津。

昭和42年に国鉄の線路の北側への移設が開始され、昭和48年に現在の姿となった阪急梅田駅のあの素晴らしき広大なホームにはいつも大興奮、のみならず、阪急電車に乗りこんだ直後の神戸線・宝塚線・京都線の3本の電車が並行して淀川をわたって、十三で三つ又に分岐するという流れにしょうこりもなくいつも大興奮。あの一連の時間をひさしぶりに体験できると思うと、それだけで嬉しくてたまらない。改札口に到る階段の前に到着したん、さあ、あの上は阪急電車のホームだ! と思わず小走りに、というか全速力でズンズンと駆け上がる。




宝塚線・神戸線・京都線がそれぞれ3本ずつ計9本の線路が、宮脇俊三の言葉だと「巨大な櫛」のように並ぶ。このなんという素晴らしく広大なこと! と、何度来てもそのたびにしょうこりもなく大興奮。阪急梅田駅の広大なターミナルの素晴らしさは十分承知しているのに、それなのに来るたびに、そのあまりの素晴らしさにびっくりしてしまう。マルーン色の車体はいつもピッカピカ、そして、いつだってピッカピカに磨かれて黒く輝いている床のなんと美しいことだろう。誇り高き関西私鉄の威容が今もここに見事に体現されている。





『杵屋栄二写真集 汽車電車 1934/38』(プレス・アイゼンバーン、1977年10月10日発行)より、《阪急電車宝塚行普通と急行/梅田》と《宝塚線ホーム 新聞売場》の写真。

大工事だった省線の高架化と阪急の地上への切替え工事が終り、阪急の大ターミナルが完成して間もない頃、私鉄でこれだけのターミナルステーションは、類を見ない規模であった。ガラス張りのドームはヨーロッパのターミナルを思わせ、関東の鉄道ファン羨望の的であり、大阪のファンには御自慢の種となった。

という解説が写真の横に付されている。これらの写真をホクホクと撮影していたに違いない杵屋栄二。杵屋栄二が昭和9年6月1日の切替え工事のあとのモダーンな大ターミナルに魅了されてやまなかったのとまったくおんなじように、2011年12月のわたくしは、現在の梅田駅のホームに魅了されっぱなし! ずっとここに立っていても飽きなさそうな感じがする。



しかし、時間に追われる観光客であるので、名残惜しいけれども、そろそろ電車に乗らねばならぬと、ソワソワと宝塚線のホームに停車中の12時50分発の宝塚行きの急行電車(停車駅は豊中から終点宝塚駅の各駅)の先頭車両に乗りこむ。宝塚線に乗るのはずいぶんひさしぶり。宝塚線というとまっさきに思いだすのは、2005年7月に出かけた池田の逸翁美術館のこと。実にすばらしい空間だったなあと追憶にひたりつつ、小林一三は偉大なり、としみじみ思う。その後、池田文庫と逸翁美術館は合併し、池田文庫の土地に新しい逸翁美術館が誕生し、かつての逸翁美術館は小林一三記念館になってしまったのだけれど、いつかまた池田の地を訪れたいものである。




阪神急行電鉄株式会社発行《御沿線案内》。裏面に押印の「五月廿日以降上筒井支線廃止」のスタンプから判断すると、昭和15年5月20日以前の印行。これから向かう宝塚大劇場の建物が表紙に描かれているこの沿線案内を参照しながら、本日の午後は、1930年代モダン都市探検、有形無形のモダン都市とその周辺めぐりをいたす所存。




戦前の阪急電車の《御沿線案内》の梅田駅附近を拡大。沿線案内でも威風堂堂の阪急百貨店。その右に北野劇場と梅田映画劇場が描かれている。阪急直営の北野劇場は『古川ロッパ昭和日記』(晶文社刊)でおなじみ。昭和13年8月18日の日記では、

北野劇場の地理的条件の悪さが、段々分って来た。この一角を丸の内の興行界と思ったら大まちがひ、丸の内は銀座を抱えてゐるし、邦楽座、日劇の歴史も古い、漸くお盆の客がよべるやうになったところだ。北野はさうなる迄に何年かゝるか、又、さうならないかもしれない。

というふうにロッパは書いている。小林一三の阪急を軸に1930年代モダン都市の東西のありようを思ううえでたいへん興味深い。北野劇場で公演のたびに、いつもロッパは京阪神のあちらこちらへ出かけて、東京にいるときとおんなじように、外食、買い物、映画芝居見物をしていて、その文字を追っていると、東西のモダン都市が彷彿としてくる。たとえば、昭和15年3月のロッパ一座の公演時には(「ロッパと兵隊」等)、公演の合間に大阪と神戸でさかんに買い物や外食、3月15日には阪急百貨店で藤山一郎への結婚祝いにボストンバックを購入後、梅田映画劇場で夢声主演の千葉泰樹『彦六なぐらる』(南旺映画)を封切初日に見て、「中々いゝ、夢声の進境大いに認む」と日記に書き残している。



現在の京都線は戦前は阪急ではなく新京阪だったので、当時、十三まで並走する阪急電車は神戸線と宝塚線の二路線だった。この図の十三から淡路へつながる細い線が新京阪。阪急の経営下となったあと、昭和34年2月、戦前は新京阪だった京都線が梅田まで延びた。『日本鉄道旅行地図帳 関西2』によると《梅田〜十三間は宝塚線の複々線扱いで、京都本線の正式な起点は十三。》とのことで、なるほどと思う。梅田から北野まで伸びる線は、大正15年7月から運行されていた梅田・中津間の路面電車の北野線(昭和24年1月1日休止)、『日本鉄道旅行地図帳 関西2』によると《1959.2.18 に免許を宝塚線の複々線化(実態は京都線)の一部として利用。》とあって、再度なるほどと思う。現在の阪急京都線の背後には、しっかりと戦前の新京阪と北野線の痕跡が残っているともいえるわけで、京都線とともに戦前の阪急電鉄に思いを馳せてたのしい。




絵葉書《梅田付近の高架線》、『鉄道ピクトリアル』1998年12月増刊号《特集 阪急電鉄》所収、「絵葉書に見る阪急電鉄の昔」(所蔵と解説:白土貞夫)より。《1926(大正15)年7月に完成した梅田―十三間の高架複々線区間の風景。3両編成は宝塚線梅田行きの51系+300系+51系。昭和10年代の撮影であろう。道路上にセンターポールの建つ道路はかつて本線であった北野線。》という、痒いところに手が届く懇切な解説が付されている。昭和15年以来休線していた北野線の用地が京都線が梅田に乗り入れる際に活用されたことは、同書所収の青木栄一「阪急電鉄の歩み〔戦後編〕」で語られている。





さて、阪急宝塚線の急行電車は12時50分、梅田駅を発車し、中津を通過して、いよいよ淀川を渡る。今回は運よく、京都線・神戸線ともに梅田駅を発車し、3本の電車が並んで淀川の鉄橋を渡るという絶景を味わうことができて、歓喜にむせぶ。感動のあまり、もうすっかり涙目だ。




と言いつつ、観光客は写真撮影も忘れない。向かって右には京都線(神戸線・宝塚線の二路線より線路の位置がやや高い)、左が神戸線、その向こうに見えるアーチ型の鉄橋は十三大橋! と涙目になって、歓喜にむせぶ。淀川の鉄橋は、神戸線と宝塚線は三角の鉄鋼が幾何学的美しさを醸し出す「鉄鋼ワーレントラス構造」だけれど、京都線だけは戦後に架橋の一段高い線路となっている。阪急電車が淀川を渡っている時間は、そんな神戸線・宝塚線と京都線の違いをしみじみと味わう時間ともいえる。





『阪神急行電鉄二十五年史』(昭和7年10月)より、《宝塚・神戸両線の分離運転/宝塚、神戸両線の新淀川新橋鉄橋 上は側面より、下は正面より見たるもの》。「関西最初の高架複々線市内乗入れの計画」がはじまったことで、神戸・宝塚線の分離運転がはじまり、かつて併用軌道だった神戸線と宝塚線は専用軌道となることで格段に輸送能力が向上してゆく。大正11年11月1日、新淀川鉄橋の架橋工事が着手され、同13年2月6日に完成後に直ちに旧鉄橋工事の工事が開始され、高架複々線の建設準備が着々と進められていった。その高架複々線の建設とともに開業したのが、梅田・十三間の中津駅。




同じく『阪神急行電鉄二十五年史』より、《高架線、中津停車場の改札口》。中津駅は大正14年7月、まずは宝塚線の駅として開業した。同年11月に梅田駅の場所が移動したあとで、大正15年7月、それまで十三が発着駅だった神戸線が晴れて梅田駅に延びた。先ほど梅田駅の歴史に思いを馳せたときに垣間見た《大正15年、大阪市内高架線化により梅田駅も高架化。梅田〜十三間複々線化》がまさにこのとき。大阪の都市風景のうち、かねてより愛着たっぷりだった高架線の中津、北尾鐐之助の『近代大阪』でも大きく取り上げられている高架線の中津は、「梅田〜十三複々線化」の産物だったわけだ。




『西尾克三郎 ライカ鉄道写真全集1』より、《L-222 阪神急行電鉄 宝塚線 328+331+320形 大阪梅田行急行電車 昭和10/1935-36頃》。



いつも大興奮していた阪急電車の淀川の鉄橋、神戸線と宝塚線のワーレントラスの橋は、「大大阪」成立の年である大正15年の7月に高架の梅田駅の完成、すなわち梅田・十三間の複々線化の象徴する存在である。昭和4年3月に竣工した阪急百貨店の建物は建て替えられてしまったけれども、淀川の鉄橋および高架線の中津駅の建物は今も健在。今は消えてしまったものと今も残るものの組み合わせとしてのモダン都市遊覧にもう夢中。なくなってしまった建築を惜しむのは当然にしても、いたずらに惜しむだけではつまらない。昔の写真や紙ものを参照しながらの、モダン都市の建築めぐりは無形有形ともに、とてもたのしい。