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野口冨士男の『越ヶ谷日記』のこと。

野口冨士男の生誕百年を記念する『越ヶ谷日記』が今月、越谷市立図書館野口冨士男文庫運営委員会の編集により刊行された。野口冨士男は復員後、夫人の実家のある越ヶ谷への疎開を余儀なくされ、昭和20年10月に越ヶ谷へ転居し、新宿区戸塚町の旧宅跡に新築した家に戻るのは昭和22年3月。『越ヶ谷日記』は、海軍に応召された昭和19年9月14日から敗戦後に復員するまでの昭和20年8月24日までの『海軍日記』(現代社・昭和33年11月/新版:文藝春秋・昭和57年8月)のあとに続く日記が収録されていて、本書が初めての活字化である。表紙にあしらってあるイラストは、昭和21年1月21日に近所を散歩した際に日記帳に写した元荒川に架かる元荒川橋の橋袂の標識。




野口冨士男『越ヶ谷日記』(越谷市教育委員会、2011年11月22日)。編集:越谷市立図書館野口冨士男文庫運営委員会。解説:川本三郎。装幀:中島かほる。中島かほるは『新版 海軍日記』(文藝春秋、昭和57年8月)の装幀者(他に、第2エッセイ集の『断崖のはての空』(河出書房新社・昭和57年2月)の装幀をしている。)。『海軍日記』に続く日々が記録されている『越ヶ谷日記』の装幀を、約30年後に同じ中島かほるが担当している。奥付の11月22日は命日。野口冨士男は、秋声(昭和18年11月18日没)と同じ季節に他界したのだった。


『越ヶ谷日記』は、ウェッジ文庫の武藤康史編『野口冨士男随筆集 作家の手』(2009年12月)でも読むことのできる、「自伝抄「秋風三十年」」(初出:「読売新聞夕刊」昭和55年9月10日から10月4日まで計20回→『作家の椅子』作品社・昭和56年6月)に、

 二十年の十月に入ってから埼玉県の越ヶ谷へ転居を余儀なくされたのは、東京の借家の所有者が東北の疎開先から帰京すると通告してきたためで、私たちは戦後になってから地方へはじき出される結果になった。
 当時の越ヶ谷は日光街道に面した典型的な街道町で、町並の裏側は一面の水面地帯であった。街道から徒歩三、四分の位置に元荒川があって雷魚やナマズが釣れたり、食用蛙の声が聞えたりした。東京生まれの私は流人の心境で、健康のために毎日その岸を歩いた。

と記されている日々を収録している。《戦中より戦後のほうが食糧事情は悪かったから、あのまま東京に踏みとどまっていたら私の命はどうなっていたか。》とあるとおり、越ヶ谷の日々は野口冨士男にとって、流人の日々であると同時に蘇生の日々でもあった。『越ケ谷日記』が始まったばかりの昭和20年9月2日に、

久しく読書というものから離れていた頭脳には、どうやら文学や活字には親しみ得ない間隙といったものが作られてしまっているらしい。このごろでは新聞ひとつ読むのにすら或る程度の努力が要求される。同様わずかな文章、たとえば手紙などを綴ろうとする時にも、きわめて平易な筈の字を思い出すのにさえ、容易ならぬ焦燥が伴うのである。

というくだりがある。野口冨士男はこんなふうに書いているけれども、『越ヶ谷日記』の文章はきわめて理知的で、一貫して「文学者の日記」の香気がただよっている。越ヶ谷の町をよく歩いて体調回復につとめつつ、文学者としての矜持を保っていた日々。人や町や社会の観察者に徹し、さらに本を読んだり買ったり、作品の執筆をしている。野口冨士男の読者にはおなじもの、あの一本筋の通った心意気は健在で、ニヤリとさせられることもしばしば。


『越ヶ谷日記』は文学者の日記に共通する重層的なたのしみに満ち満ちていて、今後読み返すたびに新たな発見や感慨は尽きそうにない。初読時に胸を躍らせたことは枚挙にいとまがない。野口冨士男の愛読者としては、のちの文業に思いを馳せるのがまずたのしい。たとえば、『徳田秋聲伝』、『わが荷風』、『暗い夜の私』、『私のなかの東京』、『感触的昭和文壇史』といった書物を繰り返し読んできた身にとっては、『越ケ谷日記』にちりばめられた「秋声」「荷風」「東京」「文壇」といった要素をあちらこちらの見出すのである。『越ヶ谷日記』の文字を追いながら、野口冨士男の眼に写る「風景」に同化しているうちに、今年生誕百年を迎えた野口冨士男の文学全体に思いが及んでいくのだった。





『感触的昭和文壇史』(初出:「文學界」昭和58年1月から昭和61年2月→文藝春秋・昭和61年7月)の「第六章 昭和二十年代の文学」で、野口冨士男は『越ヶ谷日記』の時代を以下のように回想している。

……私が応召以前に居住していた家屋は昭和二十年四月五日に強制疎開の命令を受けて、日本人の手で倒壊のうきめにあった。そのため、家内はまだ幼児だった一人息子を二人の実妹とともに北軽井沢へ疎開させて、ただひとり東京の借家ずまいをしていた。私が復員したのはその戦災をまぬがれた借家であったが、敗戦とともに借家の家主が疎開先から帰京してきたために、私たちは戦後になってから埼玉県へ転居せざるを得なくなった。つまり、私たちは戦後になってからの疎開者という、実質的には戦災者でありながら通常の戦災者でもない、いわば宙づりのような状態に置かれてしまったのであったが、家屋こそうしなったものの、東京の住居址にはなにかと用事があって、私はそのつど鈴生りと言うよりほかない満員電車に乗って上京せねばならなかった。ついでに付け加えておくと、そんな近郊電車にくらべれば、東京の都電はガラガラであった。前者の混雑は、買出しと家屋焼失による近郊のベッドタウン化のせいであり、後者の閑散は都内がいちめんの焼野原だったためである。

そんな「宙づりのような状態」の日々のまっただなかの、『越ヶ谷日記』の昭和21年2月23日には以下のくだりがある。

西欧流の登山術が招来せられるようになる以前の日本人は、山嶽を下からばかり見上げていて、上から下を見ることを知らなかった(経験しなかった)と言われる。今までの僕は、都会にいて地方を眺めていたが、こんどは地方に来て都会を眺めるようになった。しかし、僕のいま住んでいるこの地方は、いわゆる農村ではなく、独立した小都市でもない。このあたりは、来るべき将来に於いて、大東京都の衛星都市に編入せられるところかもしれないが、とにかく、地方としても、はんぱなところである。此処に、この田舎町の一種特異な点が存している。

『感触的昭和文壇史』の「昭和二十年代の文学」で論じられている、《雨後の筍にたとえられる創刊雑誌氾濫》に象徴される敗戦後の文学界の一種の狂騒を文字どおりにやや距離をおいて眺めつつも、一方で、昭和21年2月27日の日記にて、《新刊雑誌百種類と言われているが、先日中から新聞広告に出ているものを、少しずつ蒐録しておいたら、こんなにある。》として、記録魔の本領をいかんなき発揮している野口冨士男であった。


昭和22年3月に東京に戻るまで、野口冨士男は「鈴生りと言うよりほかない満員電車」の東武電車にのって頻繁に東京に出かけ、さかんに旧知の文学仲間と会ったり、さまざまな所用をこなしたり、新宿戸塚町の自宅を建設する準備もしている。やはりなんといっても野口冨士男は、《どうしても東京へ戻りたかった。》(「自伝抄「秋風三十年」」)。





野口冨士男が「鈴生りと言うよりほかない満員電車」と書くとおりの終戦直後の東武電車の写真が載っている写真集を神保町の書泉グランデで発見して歓喜! この写真は《東武鉄道 デハ55+クハニ26 伊勢崎線の超満員買い出し電車が到着。浅草行き普通電車。運転台は右側で、左側も乗客で満員。北千住 昭和21/1946.8.9》、浦原利穂写真集『終戦直後 東京の電車』(ないねん出版、2006年4月12日)より。





同じく、浦原利穂写真集『終戦直後 東京の電車』より、《東武鉄道 クハニ26+デハ55 北千住 昭和21/1946.8.9》。ちなみに、野口冨士男は昭和21年12月5日には、《走りはじめれば引込むものと思っていたところ、乗客たちは動かず、そのまま、急行のため草加駅までブラさがってゆくより仕方がなくなってしまった》というような目に遭っている。


野口冨士男が東武電車を下車および乗車するのは、たいていいつも北千住である。たとえば、大空襲の1年後の昭和21年3月10日に上京の折は、野口冨士男は移動中に荷風の『冬の蠅』を読んでいる。そして、車窓も見ている。

出京の度ごとに、省線電車の窓外に見かくる焼跡にて、最も多く眼にうつるは、煙突、土蔵、金庫、石灯の四つなり。煙突はその下で火を焚き、煙を通ずるもの、土蔵と金庫とは、煙突と反対に、外部よりの火気を防遏せんとして造られたるものなるに、外形のみ残りて、内部はその機能を喪失せるなり。さらに、石灯籠は、庭前に据えて賞するものなるに、眺むる人の焼出されて、眺めらるる石灯籠ばかり以前の場所に残置せらるるなり。しかも、それらは、現在もう何の役目をも果しおらぬばかりか、焼跡整理のためには甚だ支障を来す邪魔ッ気な、無用の長物となれり。その無用の長物のみ、焼跡には特にいちじるしく人目を惹くも、また皮肉なりというべし。

この「省線電車の窓外に見かくる焼跡」は、北千住・上野間の常磐線の車窓である。このようにして、『越ヶ谷日記』の読者は野口冨士男の見た「風景」を追体験する。





『越ヶ谷日記』当時の東武電車の路線図、『東武 四月号』(東武旅行会、昭和24年3月31日発行)より。浅草・粕壁(昭和24年9月1日に「春日部」となる)間の東武伊勢崎線は現在より駅数が少なくて、沿線のベッドタウン化以前の姿。たとえば、後藤明生でおなじみの「松原団地」は昭和37年12月1日の開業。





昭和24年当時の《東武電車浅草駅発車時刻表》、おなじく『東武 四月号』より。『越ケ谷日記』の当時もこんな感じの本数だったのかな、現在よりも格段に本数が少ないのが一目瞭然。大師前行きの直通電車があるところに時代を感じる。当時の終電車は、浅草発杉戸行き、22時35分。越ヶ谷から浅草までの所要時間は40分となっている。



昭和21年10月28日の野口冨士男は忙しい。北鎌倉の高見順を見舞ったあと、横須賀線を新橋で下車して、能加美出版社で編集者をしている十返肇を訪問。その前日に十返から、千鶴子さんとの結婚通知が届いたばかりだった。十返は結婚の報告とともに、野口に小説の依頼もしていたらしい。そのあと、神田まで地下鉄で移動、森川町の徳田一穂を訪問するため、本郷へと歩く途中の小川町で、荷風の新刊『来訪者』(筑摩書房・昭和21年9月5日初版)を買う。森川町では満州から帰還した徳田雅彦とひさびさに対面。本郷三丁目で徳田一穂とコーヒーを飲んだあと、上野へ歩いて、いつものように常磐線に乗る。

階段を昇りきったトタンに常磐線が出てしまい、(九時五十分)ちょうど三十分待たされて、十時二十分発に乗ったが、十時二十七分発の杉戸行きは定刻どおり出てしまったため、とうとう東武の最終には乗りおくれることとなり、やむなく上野、神田乗換えで市ヶ谷に至り、一雄君の家を叩き起して泊めてもらう。夕刻から、おそろしく冷たい風が吹きはじめて、真冬のように寒い。十二時すぎに街を歩いたのは、久しぶりだった。

と、この日の日記が結ばれている。北千住発10時27分だから、浅草の最終電車の発車はもっと早い時刻。昭和24年3月には終電車は杉戸行き22分35分となっているけれど、それでもまだまだ早い。





前掲の浦原利穂写真集『終戦直後 東京の電車』には、同年8月の横須賀線の写真も載っている。《モハ32037 超満員の東京行き横須賀線電車。昭和7年、川崎車両で13両(32033〜32045)製造された32形最後のグループ 大船 昭和21/1946.8.12》とある。東武電車と同じように、こちらも満員電車。





横須賀線が新橋駅に到着すると、こんな感じの視界を得ていたのかな、ということで、浦原利穂写真集『終戦直後 東京の電車』より、《クハ38010 昭和6年 川崎車両で13両製造の最後のグループ。日車製6両と合わせて計19両が在籍した。その中で唯一クハ38形の連合軍軍用車。38010、12、16.18、22の6両は昭和12〜14年に大ミハ区にて活躍した。朝の横須賀線ホームから撮影 山手線 新橋 昭和22/1947.7.19》。微細にわたる車両解説が素敵だ。いくつかの近代建築とおなじように占領下、連合軍に接収された車両があった。



高見順を見舞った前月の昭和21年9月12日の日記には、《昨日は仲秋の名月であったが、今日もよい月で、東武から見る、荒川放水路の月は、田舎に帰る者の目に、かなしいほど美しかった。》という一節がある。すっかり、「流人」の心境が板についている野口冨士男である。




引き続き、浦原利穂写真集『終戦直後 東京の電車』より、《東武鉄道 デハ103 米軍向けの道路標識は100ヤード先の踏切を表す。荒川放水路 北千住〜小菅 昭和22/1947.7.18》。『越ヶ谷日記』の表紙になっているイラストを日記帳に描いた野口冨士男とおんなじように、米軍向けの標識は、はるばる大阪から鉄道写真撮影にやってきた浦原青年の感興を大いにそそった。




同じく、浦原利穂写真集『終戦直後 東京の電車』より、《東武鉄道 サハ8+クハ1201+デハ73 伊勢崎行き急行、1М2Tの三連。最後部サハは運転台が無いので、必ず後部か中間に連結される。荒川放水路 北千住〜小菅 昭和22/1947.7.18》。急行電車すら当時の東武電車は3両編成。




《常磐線 C50形 下り普通列車 亀有ー北千住 昭和11/1936-2-13》、『西尾克三郎 ライカ鉄道写真全集2』(プレス・アイゼンバーン、1992年11月27日)より。撮影場所は、東武鉄道の鉄橋近くにあった渡し船の上とのこと。北千住駅を出発した常磐線と東武線は、荒川の鉄橋を並行して渡り、次の停車駅はそれぞれ、綾瀬(昭和18年4月1日開業)と小菅。『越ヶ谷日記』の野口冨士男が東京へゆくたびに、眺めていた鉄橋。





野口冨士男の『越ヶ谷日記』で嬉しかったことのひとつが、昭和21年11月8日に野田醤油で「小説読書の必要」という題で講演をしていること。謝礼は、醤油の一升瓶詰め2本と100円、車代10円。越ヶ谷から野田までバスで出かけている。

 講演は三時半からということだったが、その前に工場を見せてもらう約束になっていたため、すこし早く家を出たところ、十二時半ごろ着いてしまったので、野田の町を歩いてみる。大した町でもないが、道路に塵ひとつ落ちていないのは、このごろとして、珍しいことだと思った。これは、いったい、どうした加減なのだろうか。一つも戦災の跡のない町で、戦争は何処にあったかという気にもなる。
 二時すこし前、本社に岡野君を訪ね、間もなく来た根本繁君と両名の案内で、工場を次から次へと案内してもらう。日本全国の需要量の三分の一は、この一工場によって充されるというだけあって、さすがに規模は大きい。自動式によって瓶に詰めたり、レッテルが貼られたりすることには駭かないが、諸味の貯蔵所の広大さだけは、ちょっと駭いてもよい。この付近の町のなかでは、いちばん舗装道路が多いというのも、この会社があるがためだろう。町民は、また、この会社の恩恵を蒙って、どの家にも水道が敷かれているという。

いつもながらにクールな分析にシビれる。「見る人」としての野口冨士男の面目躍如たるものがある。





戦前の沿線案内《総武電車沿線案内》より。総武鉄道は昭和19年3月1日に東武に合併されて「東武野田線」となった。この沿線案内に描かれる「総武電車」の北を走る「東武線」は、越ヶ谷と西新井の駅名しか描かれていない。越ヶ谷には「桃林」が描かれている。野口冨士男の戦前の小説に『桃の花の記憶』(初出:『青年藝術派 新作短篇集』(昭和16年4月)→『眷属』大観堂・昭和17年4月)というのがあって、もちろん越ヶ谷がモティーフになっている。越ヶ谷出身の夫人との結婚後に書かれた小説。





上の沿線案内より、野田の醤油工場附近を拡大。これは戦前の沿線案内だけれど、『越ヶ谷日記』にある野田の描写が彷彿としてくるようだ。



敗戦後の野田といえば、まっさきに小津安二郎のことを思い出すのである。小津は昭和21年2月に復員後、昭和27年2月に北鎌倉に定住するまで、母の疎開先(小津の妹が野田の醤油会社「キノヱネ醤油」の山下家に嫁いでいた)だった野田に居住していたのだった(野田町清水一六三)。『小津安二郎・人と仕事』(蛮友社、昭和47年8月)によると、小津は昭和21年2月12日に帰国、高輪の家にゆくと無人、近所のひとたちから母の消息を聞き、その夜は品川の旅館に停まった。《弟信三は、撮影所へ現われるものと思い、大船で待っていたのだが、あとで「すぐ会社へなんか行くものか」と怒られた。》とのことで、つい頬が緩む。翌日、野田へ移り、昭和27年5月2日に北鎌倉に引っ越すまで、小津は野田の住人だった。


復員後の小津は1年以上、休養。この間の日記は残されておらず、田中眞澄編『全日記 小津安二郎』(フィルムアート社、1993年12月12日)を繰っても、昭和21年11月8日、野口冨士男が野田を訪れたとき、小津はどこにいたのかはわからない。田中眞澄『小津安二郎周遊』(文藝春秋、2003年7月)によると、復員した昭和21年2月のうちに、熱海で清水宏と井上金太郎と会って久闊を叙していて、5月ころには京都へ彼らを訪問しているという。野口冨士男と小津安二郎、復員後のそれぞれの日々を思うと、なにかと感慨深い。日記の翻刻は、その書き手のみならず、その時間を場所を共有しているいろいろな人物にも思いが及んで、いろいろな芋づるがたのしい。


昭和22年5月20日に封切られた『長屋紳士録』が、小津安二郎の戦後第1作となった。そのスクリーンに映る「東京」を見て、『越ヶ谷日記』の野口冨士男が歩いたり見たりしていた「東京」をおもう。敗戦時の久保田万太郎の俳句、《何 も か も あ つ け ら か ん と 西 日 中》を思い出す。







小津安二郎『長屋紳士録』(松竹大船・昭和22年5月20日封切)より、預かっているみなしごの青木放屁を探しに飯田蝶子があてどなく近所を歩くシークエンス。長屋の場所は築地本願寺の近所に設定されている。焼野原のなかにポツンポツンと近代建築が残り、その合間に木造の低層の家屋が点在している。空がなおのこと広く頭上にのしかかる感じがする。この映画の封切の1年前の昭和21年5月16日に、野口冨士男は《このごろ東京に至り、家屋というもののなき焼跡の町を歩くごとに感ずるは、その空気の澄みて光線の明るきことなり。明るさとは、哀しみの紙一重とも言うべき存在にあらざるか、これを疑う。》と書いている、そんな「東京」がここにある。





『越ヶ谷日記』を手にして、まっさきにページを繰ったのは、昭和20年末から21年年明けの、野口冨士男が敗戦後に初めて浅草に行ったあたりの日々。『わが荷風』(初出:「青春と読書」昭和48年3月号から昭和50年2月号まで12回連載→集英社・昭和50年5月→昭和58年3月の中公文庫化に際し大幅に修正)と『私のなかの東京』(初出:「文學界」昭和51年10月から昭和53年1月に断続連載→文藝春秋・昭和53年6月)等でずっと印象に残っていた。昭和20年末から昭和21年年明けという。『私のなかの東京』の「浅草、吉原、玉の井」では、

 永井荷風の日記『断腸亭日乗』昭和二十三年一月九日の記述だが、《仲店両側とも焼けず。》というのは精確さを欠くので、私は拙著『わが荷風』にも《建造物そのものは残っていても内部は焼失していた。》と書いておいた。海軍に応召中東京の家を強制疎開で取り壊されたために、復員後埼玉県の越ヶ谷へ疎開して栄養失調症の回復につとめていた私が戦後はじめて浅草へ行ったのは二十年の暮か二十一年の新春であったが、仲見世の建造物は火をかぶって、罹災者には申訳ない表現ながら、ピンク色に変色していたのを美しいと思ったことが忘れられない。したがって、荷風が《仲店両側とも焼けず。》と記述していることは、彼が《罹災後三年》経ってから浅草をおとずれたとき、すでに仲見世は復興して以前の朱塗りにもどっていた状態を示していることになるのかもしれない。
 そのときの私自身の記憶をもう一つ二つ書いておけば、瓢箪池のほとりには塩でゆでただけのイカを売る店がずらりとならんでいて、吉原遊郭の求人募集の立札がやはり池畔に立っていた。その時分にはすでにパンパンが巷にあふれていたが、その立札は、実質はどうあれ表面的には、親のため家のためという前借による年季制度としての人身売買がなくなって、当人の自由意志による売春の時代に入ったことを物語るものであった。それから、松屋の傍のミルクホールのような店で、妻子とともにバナナの形をした白アン入りのカステラ風な菓子を一人が二個ずつ注文して食べたところ、三人とも甘すぎて一個だけで満腹してしまったことも忘れがたい。いかにわれわれが甘味から遠ざかっていたか、その好例としていまなおわが家では笑い話になっている。

というふうに回想されている。ちなみに、敗戦後の仲見世について、『私のなかの東京』の3年ほど前に書かれた『わが荷風』では、荷風の戦後初の浅草行きの日の昭和23年1月9日の『日乗』を紹介したあと(荷風は浅草橋で省線を下車し、三ノ輪行き電車で菊屋橋より公園に入っている)、

 私が戦後はじめて浅草へ行ったのは二十年の暮か二十一年の新春だが、そのときの記憶によれば、仲見世の建造物そのものは残っていても内部は焼失していた。そのため《仲店両側とも焼けず。》という荷風の記述にも疑問をもって浅草に戦前から住んで現在も在住する旧友に電話で問合わすと、彼も仲見世は焼けなかったといった。しかし、私にはあの朱塗の建造物が火をかぶって、罹災者には申訳ない表現ながら、ピンク色に変色しているのをいい色だ、美しいと思った印象があるのだがと言うと、その意味なら焼けましたよと友人は応えた。荷風が《罹災後三年》経ってから浅草を訪れたとき、仲見世の建物は復興してもとの朱塗にもどっていたのであろう。

というふうに、『私のなかの東京』での記述が、友人に問い合わせた上での確信(文章では「なるのかもしれない」というふうに周到に留保ししつも)であることがここで裏づけられている。戦後初の浅草行きについて《二十年の暮か二十一年の新春》のどちらかはっきり断定していないのは、昭和20年の日記が10月11日をもってふっつりと途絶えて、昭和21年1月10から日記が再開されているからだということが、『越ヶ谷日記』を読んで判明した。ひさびさに日記を書いた昭和21年1月10日はさすがに記述が多いて、読み応えたっぷり。《昨日》、《帰途浅草にまわって電気館にゆき、「グランド・ショウ」という和製のレヴュウ映画を見たあとで東武線の駅へ来ようとした道の暗がりで》、煙草はいりませんかと声をかけられたというくだりがある。





桑原甲子雄の写した1946年の浅草、桑原甲子雄『東京 1934-1993』フォトミュゼ(新潮社、1995年9月25日)より。写真家による巻末の解説には、《「浅草区復興まつり」の看板が見える。背後の斜めのストライプのビルは、浅草地下鉄ビル。戦闘帽姿の人々も見えるので終戦直後の浅草駅前である。昭和22(1947)年に、浅草区は下谷区と合わせて台東区になった》とある。





おなじく、桑原甲子雄『東京 1934-1993』より、《墨田区吾妻橋附近 1945-1950年》。『浮沈』はヒロインが栃木から東武電車で松屋の2階の浅草駅に到着する場面ではじまる。『浮沈』のヒロインとおなじように、越ヶ谷からの東武電車で野口冨士男は戦後初めて浅草に来たのかもしれない。松屋の左に地下鉄ビルの建物が見える。越ヶ谷時代に書かれ、このたび刊行の『越ヶ谷日記』にも収録されている『薄ひざし』(初出:「新文芸」昭和21年6月→『しあわせ』講談社・平成2年11月)に《外側だけは残ったけれども中身ががらんどうになってしまった松屋百貨店》という一節がある。



昭和21年の新春というと、「中央公論」(昭和21年1月1日発行・第61巻第1号(再建第1号))、「展望」(昭和21年1月1日・第1号)、「新生」(昭和21年1月1日・第2巻第1号)の3誌に、永井荷風が戦時下に書きためていた作品が一気に3つ、それぞれ『小説 浮沈』(全6回のうち第1回として「第一」〜「第九」)、『踊子』、『勲章』が掲載されたころにあたる。永井荷風の復活は、『感触的昭和文壇史』にある《戦後日本文学史は老大家の復活からはじまった。》の象徴だった。まさに夜が明けた感じだったに違いない。昭和20年12月21日付けの串田孫一宛て書簡に戸板康二は、

「展望」と「新生」の荷風のものよみました。前者は「踊子」(百枚)後者は「勲章」。「踊子」は「ひかげの花」以上の不思議な筆力で、今様春水とでもいいたいもの。刺激がつよすぎる気がしました。「勲章」の話は川尻清潭翁からきいていた話の方が面白かったようです。

と書いている(串田孫一『日記』実業之日本社・昭和57年7月)。みんな荷風の復活には注目せずにはいられなかったのだ。『越ヶ谷日記』には、荷風の3作品を読んだときの直接の読後感は記されていないけれど、おそらく日記が中断していたときに、野口冨士男は荷風が戦時中に書きためていた作品を読んだのだろう。『わが荷風』で、

あらゆる芸術作品の価値判断が、多かれ少なかれ時代背景によって左右されることはやむを得まい。私個人にかぎっていえば、人間性のひとかけらもない軍隊生活から解放されてきて、眼に触れるものといえば荒涼たる焦土以外になにものもなかったとき、ああ、荷風は戦時中にこういう作品を書いていたのか、書いてくれていたのかと、「展望」誌上ではじめて『踊子』に接したときの感動を忘れがたい。そこには、作品からあたえられた感動と同時に、そういう生き方をした文学者としての荷風への感動が二重に重なっていた。

と、《戦時中作第一等の作品》であるとする『踊子』を初めて読んだときの感動を語っている。昭和20年年末に一挙に世に出た荷風の「戦時中作」はいずれも浅草を舞台にしている。野口冨士男が戦後初めて浅草に行ったのは《二十年の暮か二十一年の新春》だった。昭和20年の年末に『浮沈』と『踊子』と『勲章』に触れたことに刺激されての浅草行きだったかもしれない。そういう想像をせずにはいられない。





『越ヶ谷日記』でもっとも頻繁に登場する文学者は間違いなく永井荷風だろう。最初にその名前が登場するのは昭和21年3月10日。東京までの東武電車の車中で荷風の『冬の蠅』を読んだ5日後の3月15日には、「新生」誌上に掲載の荷風の『罹災日録』を読んで、

同誌にて荷風先生の「罹災日録」を読み、「浮沈」「勲章」「踊子」等の近作よりも、この日誌の上に、より感銘を深くす。
わたくしは日常聞ゆる世間の出来事を記載することを好んでゐる。然しながら之に   就いて是非の議論を試ることを欲しない。わたくしの思想と趣味とはあまりに遠く、過去の廢滅した時代に屬してゐることを自ら知つてゐる故である……。「枇杷の花」(「冬の蠅」所収)
これが、先生の自作に対する渝らざる態度なるも、先生の文章読むことのうれしさは、さらに、先生特有の事物の観方が持つ角度とも言い得べし。即ち、「罹災日録」二月二十五日の項には、次のごとくあり。
日曜。朝十一時半起出るに三日前の如くこまかき雪となりゐたり。飯炊かんとする時隣人雪を踏んで來り午後一時半米國飛行機何臺とやら襲來する筈なれば心せよと   告げて去れり。心何とも知れず落ちつかねば、食後秘藏せし珈琲をわかし砂糖惜し氣なく入れ、パイプにこれも秘藏の西洋莨をつめ徐に烟を喫す。若しもの場合にもこの世に思い殘すこと無からしめむとてなり。
気骨と言わんには、あまりにも弱き反抗なり。されど、この反抗(?)に惹かるる読者こそ、荷風氏の読者なりと言うべし。或はまた、微笑ましく可憐なる江戸ッ児魂と言うべきか、不識。

と綴っている。ちなみに、戸板康二は3月6日付けの串田孫一宛て書簡に、野口冨士男とおなじように『罹災日録』を読んだ感激を、《「新生」の三月号に荷風が去年の元日から六月廿日までの日記を出しています。終戦後みたあらゆるものの最高を行くものといえましょう。》というふうに伝えている(串田孫一『日記』実業之日本社)。東京のまんなかの築地で演劇記者をしていた戸板康二は、越ヶ谷の野口冨士男よりも早くに雑誌を入手できていたようだ。さて、野口冨士男は3月15日に『罹災日録』を読んで胸を熱くしつつも、昭和21年7月28日には、

「展望」誌にて、荷風氏の「問わずがたり」を読む。百五十枚の力作なれど、この一作のみにては特に言うべきものにはあらじ。ただ、氏の作歴をかえりみ、それに思いあわする時、荷風も此処に至りしかと思わるるもののあるなり。痒さたえがたし。

というふうに書いているのだ。『わが荷風』で書かれていることはすでにここに確固としている。野口冨士男はこのあと、『新橋夜話』を読みなおしている。そして、『罹災日録』を初めて読んだ日の日記帳に、「江戸ッ児」という言葉を残した野口冨士男は後年、『わが荷風』の刊行とほぼ時をおなじくして書かれた「荷風メモ」(初出:「ちくま」昭和50年10月→『文学とその周辺』筑摩書房・昭和57年8月)に以下のように書く。

荷風という人は、実に計画性をもった行動人で、宵越しの金を持たないという東京人とは(精神的に)対蹠的な人物だ。私は荷風に江戸ッ児を感じない。彼には淡白なところがまったくない。『日乗』ばかりでなく、作品を読んでいても、いやな奴だと思うことがある。そういう点をふくめて、しかし、けっきょく私は荷風を尊敬し、荷風が好きなのだ。どこかにいやみなところや、アクの強さのない作家など大した作家ではない。荷風は、その象徴的な作家なのかもしれない。

これが野口冨士男の帰結だった。『越ヶ谷日記』からに『わが荷風』へ。野口冨士男の三十年の歳月をおもうと、万感胸に迫るものがある。





徳田秋声『縮図』(小山書店・昭和21年11月20月第二刷=昭和21年7月10日初版)。挿絵:内田巌。樽見博『内田巌−「岩が歌ふ」』(「BOOKISH」第8号《画家のポルトレ》所収)によると、昭和21年7月の初版に9点挿入された挿絵は、11月の再版ではすべて差し換えられているという。初版も手元に置いておかねばと思い続けて数年、いまだにわたしの本棚にはこの第2版しかない(『現代日本文学館8 徳田秋声集』(文藝春秋、1969年)には20点収録されているとのこと。)。


『越ヶ谷日記』のまっただなかの昭和21年8月、秋声の『縮図』が初めて単行本化された。野口冨士男はこの本を8月28日に森川町で徳田一穂から受け取っている。その直前、8月21日と22日に手元にある新聞切り抜きで『縮図』を読んで、

「縮図」読了、ウーンとうなる心地なり。殊に後半より末尾に至るあたり、筆力の冴えは言葉もなきまでなり。

というふうに書いている野口冨士男なのだった。このくだりを目にしたときも万感胸に迫るものがあった。のちに、『徳田秋聲伝』と『徳田秋聲の文学』をものした野口冨士男は、『縮図』を読む直前の8月19日の日記に、《秋聲全集にて「黴」を少し読む。この作、以前にも感じしことなりしが、テンスの錯綜はなはだしく、殊に頭脳の冴えざる今日など、ほとんどその内容つかみがたり》と書いていたりもする。野口冨士男に出会ったあとで、わたし自身、徳田秋声の文学に耽溺して現在に至っているけれども、『黴』を骨の髄まで満喫できた(と自分では思っている)のは、『徳田秋聲の文学』所収の「『黴』とその周辺」のおかげだった。



秋声といえば、『越ヶ谷日記』を読んで微笑ましかったことのひとつが、昭和21年5月31日の日記にある以下のくだり。この日の野口冨士男は、上京の折にフィリップの『若き日の日記』を読んで、徳田一穂を訪問しているのであるが、

白鳥氏の「展望」誌に所載せられしお作のことなど話せしところ、正宗さんは、資生堂なんかで一緒に珈琲を飲んでも、自分の勘定の十銭玉を一つだけ、パチンとテーブルの上に置いていくような人ですよとの一穂氏の話なり。財乏しけれど、何人分の勘定でも支払わんとせし秋聲先生との対比面白し。

このくだりを目にした瞬間は、『私のなかの東京』の「銀座二十四丁」でおなじみのエピソードだ! と頬が緩んだ。秋声を囲む「あらくれ会」の月例会が馬場先門の明治生命本社地階で開催後、タクシーで一同はしばしば資生堂へ行った。

そんなあるとき先客の正宗白鳥も同席したが、白鳥が席を立ったとき自身のコーヒー代として十銭玉と五銭玉とを伝票とともにテーブルに置くと、秋声はそれと私たちの伝票とを一緒にレジスターへ持っていって勘定を支払った。門下の分を支払った秋声と、自分の分だけ支払った白鳥との対比は、当然といえば当然ながら、どこか彼等の文学に通じるものがありはしないだろうか。

というふうに、『私のなかの東京』で徳田一穂の談話が昇華されているのだった。





石川光陽《資生堂パーラー 昭和9年7月》、図録『警視庁カメラマンが撮った昭和モダンの情景 石川光陽写真展』(旧新橋停車場鉄道歴史展示室、2010年10月)より。《モダンな雰囲気の資生堂パーラーでは、アイスクリームやソーダ水、本格的な西洋料理が供され、多くの文化人や新橋の芸者衆、モボ・モガに愛された》という解説が付されている。




《資生堂――殊に二階にロッヂをめぐらし、上と下の部屋を連絡させたあたり、本場の巴里のそれを見るやうで、若い人達を喜ばせてゐます。》、白木正光編著『大東京うまいもの食べある記』(丸ノ内出版社、昭和8年5月15日再版発行=昭和8年4月30日発行)、和田博文監修/近藤裕子編集『コレクション・モダン都市文化 第13巻 グルメ案内記』(ゆまに書房、2005年11月)より。

 晩飯時間の銀座の資生堂は、いつに変らず上も下も一杯であった。
 銀子と均平とは、暫く二階の片隅の長椅子〔ソファ〕で席の空くのを待った後、やがてずっと奥の方の右側のところへ座席を取ることが出来、銀子の好みで此の食堂での少し上等の方の定食を註文した。……

というふうに、秋声の『縮図』は銀座の資生堂ではじまる。



白鳥と秋声のエピソードのみならず、『越ヶ谷日記』には、のちの『私のなかの東京』の萌芽をあちらこちらに見出すことができて、そのたびに胸が躍って仕方がなかった。たとえば、昭和21年6月5日、貯金局での所用のため、子供時分よりおなじみの三田界隈を訪れて、初めてその焼跡を目の当たりにするくだり。

……午後一時、神田橋より目黒行都電にて赤羽橋に至り、元簡易保険局の貯金局に至る、途中、田村町のあたりより、御成門、増上寺、芝園橋、赤羽橋、三田のあたりは、見るも無惨なる焼跡にて、復興も他の地域よりはいっそう遅れおる模様なれど、三田警察署の脇より入りて、第六高女、赤羽国民校、貯金局のあたり、即ち往年の有馬ヶ原址は何らの火害なく、新緑に蔽われて、なつかしき往時のままなり、但し、三井家集会所はミツイホテルとして進駐軍宿所となりてありたり、窓口にて待ちてあるあいだに雨勢そのはげしさを加え、二時半三百円を受取て出でしころは、アスファルトを打つ雨脚も烟りあがるかと見ゆるばかり、ふたたび赤羽橋より都電に投ず、芝公園内には進駐軍用のテニス・コート出来、芝プールもまた接収せられて、美しく塗装されてあり、増上寺には楼門のみ残して本堂のあたりは虚しく灰燼と帰しておりたり、和田倉門にて下車……

このあと、丸ビルへ牧屋善三を訪ねて、旧知の小島ひさ子に再会する。混雑のため都電に乗ることができず牧屋と本郷森川町まで歩いて、秋声旧宅で徳田一穂と水上勉と落ち合い、いつものように上野駅で常磐線にのって、家路をゆく。


『私のなかの東京』は「外濠線にそって」ではじまる。牛込界隈から慶應義塾幼稚舎のある三田界隈まで通学していた子供時分の思い出の「外濠線」から野口冨士男の『私のなかの』ははじまっている。『越ヶ谷日記』の野口冨士男は、昭和21年7月25日と8月1日に牛込界隈の焼跡を目の当たりにすることとなった。6月5日にその焼跡を見た三田界隈から「外濠線」の経路に沿うようにして牛込の地に降り立った野口冨士男。

……万世橋より市電にて新宿にむかう。途次、牛込あたりの焼跡をはじめて目視するも、いっこうに復興の様子なし。過日、芝赤羽橋付近に見たる焼跡は、いまだ整理もつかず惨憺たるありさまなりしも、このあたりは整理のみ終わりてあれば、何かいっそう明るく、その明るさに虚しさをおぼえたり。……

と、7月25日に都電の車窓から牛込界隈を見た野口冨士男は1週間後の8月1日、牛込の地に降り立つ。

……日暮里にて、戸塚に赴く直子とはいったんわかれ、一麦とともに飯田橋駅まで直行。久しぶりにて牛込見附の土手公園にのぼる。鉄柵は取られ、昔の面影は見るべくもあらざるも、眼下の濠にはボートも復活し、ペンキの色剥げたる舟上にはアメリカ兵と同乗の娘子もすくなからずして、ふと、緑色の鳥打帽をいただき、下村玉太郎君と此処に来りてボートに乗りし幼稚舎時代のことなどを思いうかべ、ポツポツと降り来るも陽光輝きてあれば、堤上にて腰を降し、煙草などふかしつつ、一麦とともに小憩。逓信病院脇より坂をのぼりて、女子商業(元、軍医学校)校門の前に至るころより、またしても雨降りはじむ。白百合女学校前をすぐるころ、沖縄基地を発せるB29の連隊、十機ほど飛翔してゆくを仰ぐ。遊就館は焼け残りたれど、近く映画館になる由にて、山階宮邸は門塀のみ残り、囲内に立派やかならざるバラックなど建ちたる様子なり。……

というふうに、このあたりの筆致はまさに『私のなかの東京』を書いたその人の姿が躍如としている。




師岡宏次《終戦直後の銀座通り、走っているのは進駐軍トラックだけ。(1945)》、師岡宏次写真集『オールドカーのある風景』(二玄社、1984年1月10日)より。



『私のなかの東京』の「銀座二十四丁」で、《昭和三、四年にはじまって十三、四年ほどまでをピークとして、太平洋戦争下の十九年秋に海軍へ召集される直前まで続いた私の銀座がよいは、いまからおもえば熱病のようなものであった。》と綴られている野口冨士男の「銀ブラ」時代。

だから、どこの誰とも知らずに視線が合えば会釈をかわす相手も生じてくるわけで、敗戦直後の銀座街頭でそういう一人にゆきあったとき、「やあご無事でしたか、よかったですね」と私は握手をもとめられた。が、それはそれだけのことで、そのときにも私たちは氏名を名乗り合ったりはしなかった。戦前と銀座とはそういう場所で、「銀ブラ」とは、そういうものだった。

と、ここで書かれている敗戦直後の銀座街頭のような、『私のなかの東京』のなかの「東京」が、文字にはなっているかいないかは別にして、『越ヶ谷日記』のあちらこちらにひそんでいる。「銀座二十四丁」で紹介されている野口による芝木好子の『築地川』の書評のマクラ、

学生時代に私は築地小劇場の帰途、何度となく築地川にかかっている亀井橋をわたって銀座へ出た。橋のたもとには小林多喜二が虐殺された築地署があった。川の正面は新橋演舞場で、その左手が東劇である。敗戦直後にも私はおなじ川べりを歩いて、水面に直径三十センチほどもあるクラゲが無数にうかびただよっているのをみた。隅田川にみちる潮がこの掘割川にはいって来るためである。

というような情景を、たとえば東劇の地下へ人を訪ねる日の『越ヶ谷日記』を読んでいるときに頭に思い浮かんだりするのである。



『越ヶ谷日記』で野口冨士男はさまざまな人に会っている。慶應幼稚舎の友人である森武之助(敗戦直後は鎌倉で佐野繁次郎と同居している)、文化学院の友人の山口年臣、紀伊国屋書店出版部の上司の豊田三郎や、十返肇や青山光二に牧屋善三といった「青年藝術派」の仲間や徳田一穂などの文学仲間の名前がさかんに登場する。みんな野口冨士男の読者にはおなじみの名前だ。そんな多くの人びとと、『越ヶ谷日記』に登場するあちらこちらの「東京」、野口冨士男が読んでいる本や買っている本といった、いろいろな固有名詞や風景とが交錯は、のちの野口冨士男の文学の「原石」を見るような感じがする。のちに、いろいろな著作や作品として、「文学」に昇華させていった「原石」は、「原石」しか持っていない生々しさと同時に、「原石」にしかない美しさを持っている。




《富本憲吉の装幀画。「巷の空」のために描かれたが刊行されなかったため、後年『しあわせ』に使われた》、図録『野口冨士男と昭和の時代』(東京都近代文学博物館、平成8年10月21日発行)より。『しあわせ』(講談社、平成2年11月)のあとがきにある、

 なお本書の装画だが、私は戦時中の昭和十八年、八百枚の書きおろし長篇(一部を二、三の雑誌に発表)を擱筆して日本出版会へ企画届を添えて出版許可を願い出たところ、不急不要のゆえをもって用紙割当てがもらえなかった。しかし、戦後それをおぼえていてくれた人があって、関西系の一書肆から出版されることになったとき、私は学生時代から友人として親近していた今は亡き富本陽(筆名=陽子)さんを通じて彼女のご尊父富本憲吉氏にご染筆をお願いしてご快諾を得られた。

とある経緯を、『越ヶ谷日記』でヴィヴィッドにたどることができる。昭和21年9月12日に御影文庫から出ることになった長篇(『巷の空』)の装幀者が富本憲吉と決定し、9月16日に野口冨士男は成城の富本邸を訪問する。富本憲吉は不在であったが、文化学院時代の旧友の富本陽子と久闊を叙し、ことづてを頼む。続いて、この日は「青年藝術派」の井上立士の三回忌の前日にあたっていたこともあって、成城に来たついでに狛江の青山光二を訪問している。しかし、『どん底』の芝居を見るからと言って断る青山光二。そして、翌日の9月17日にはやはり文化学院の旧友の山口年臣に戦後初めて会ったりしている。10月10日、富本憲吉の装幀を受け取った日、

富本氏の装幀は、妙にデクデクしていて、一と目見た時には気に入らなかったが、家に戻って、大きな紙に描かれているのを、本の大きさに畳んだりみたりしているうちに、だんだんよくなって来た。やはり、駆け出しの連中の物とはいっしょにならない。一定の技術水準というものは、イヤになるほどどうにもならないものだ。三流の人間が一生懸命にやったものより、一流のいいかげんにやった物のほうがよいというのは、どういうことなのだろう。「年期」という言葉で片付けてしまってよいのだろうか。もちろん、富本氏の仕事がいいかげんだというのではない。その問題とは別に、そういうことを考えさせられたのだ。

というふうに、野口冨士男は書いている。




昭和21年10月10日に受け取った富本憲吉の挿画は、野口冨士男の最後の作品集となった『しあわせ』(講談社・平成2年11月22日)に使用された。最後の作品『しあわせ』(初出:「群像」平成2年9月)をタイトルとする本書には、『薄ひざし』(初出:「新文芸」昭和21年6月)と『うしろ姿』(初出:「文明」昭和21年9月)の「越ヶ谷」時代に書かれ、「越ヶ谷」を舞台にした作品が収録されている。





先月末、越谷市立図書館の「野口冨士男文庫」の特別展示を見た。このたびの『越ヶ谷日記』の刊行にちなんだ展示のなかに、平成2年11月26日の日付のある八木義徳の書簡があった。『しあわせ』受贈の所感を綴ったもので、


《敗戦直後のあの混乱期にもかかわらず、静謐といっていいほど文章が静かで落ち着いて、気負いらしいものが全くないのに驚きました。》


《その静謐な文章を支えているのは、越谷という町の持つ「自然」も有力であろうけど、それ以上に母上の死に対する悲しみが太い底流として作品の底を流れているからだろうと思いました。》


《「薄ひざし」から「しあわせ」に到る四十四年間の貴兄の作家としての道程に同時代を生きてきた者の一人として、いまさらながら深い感慨》


《貴兄の「人間を見る眼」はこの四十四年間少しも変っていないのではないか、逆に言えば、貴兄は「薄ひざし」で持った眼を四十四年間一貫して持続してきたのではないかという気さえします。》


……というようなことが書かれてあった(帳面に大急ぎで筆写したので語句はこのままではないかもしれない)。『越ヶ谷日記』を読了して、ズシリと思い出したのがこの八木義徳の手紙にある、44年間の野口冨士男の「作家としての道程」のこと。一読者として、わたしも「いまさらながら深い感慨」、この一語に尽きる感じだった。野口冨士男の最後の作品集となった『しあわせ』の奥付のちょうど3年後、平成5年11月22日に野口冨士男は他界した。生誕百年を記念して刊行された『越ヶ谷日記』の奥付と同じ日付である。