銀座線で渋谷へ。地下鉄と東横百貨店と東横電車の1930年代渋谷。

昼下がり、神保町を切り上げて半蔵門線に乗りこみ、表参道で銀座線に乗り換えて、渋谷で下車。丸ノ内線の四ツ谷駅の地上に出る瞬間や、同じく丸ノ内線の御茶ノ水駅に入る直前に聖橋のふもとの神田川の脇に出る瞬間とおなじように、終点の渋谷駅に到着する直前の銀座線がトンネルから高架に出る瞬間もいつも胸躍る。




荻原二郎《1939年8月9日 東京高速鉄道渋谷駅》、荻原二郎著『昭和10年東京郊外電車ハイキング(下)』RM LIBRARY 71(ネコ・パブリッシング、2005年7月)より。





ゾロゾロと人びとが改札の外へと吐き出されていったあとの閑散としたホームで、表参道方面の地下線路をのぞむ。右は普請中の東急文化会館の跡地で、左が宮益坂。青山の高台は地下線路で、銀座線の終点・渋谷駅は山手線の上の高架に位置する。すなわち、まっすぐ進むとおのずと線路のさきは地下線路となり、渋谷は文字どおりに「谷」だということを実感する。現在の渋谷・表参道(当初の駅名は「青山六丁目」)間の開業は昭和13年12月20日。





子供時分から特に気にとめることなく通り過ぎていた、古びた建物のあちらこちらに残っている竣工当時の「1930年代東京」の残骸が嬉しいなと、ここ何年か、折に触れて戦前竣工のターミナル駅とその周辺の見物をたのしんでいる。昭和6年5月竣工の東武ビルディングの浅草駅に夢中になったのを機に(→「日用帳」2009年9月13日付け:id:foujita:20090913)、おのずと思いは、浅草発の地下鉄道がどんどん延びていった「1930年代東京」のありようへと及んでいった。




もうすっかりおなじみの杉浦非水のポスターだけれど、いつ見ても何度見ても大好きなポスター。昭和2年12月に浅草・上野間の開通以後、ズンズンと延びゆく地下線路を思うと、このポスターを初めて見たときとまったく同じ胸の高まりを感じずにはいられない。

 毎日汲み出すといふレエルの間の溝に澱んだ水を眺めてゐると、向うからカアがやつて来た。それが停ると、こちらのカアが警笛を鳴らして、無愛想なセメントの壁のなかを走り出した。墜道の天井の灯がこぼれるやうに車窓の上部から掠めて過ぎる。
 駅々には薬やキネマや醤油などの広告が、生々しいセメントの匂ひにすさんだ薄闇の地下道に色彩的な享楽を与へてゐる。商業主義の広告さへ、ここだけではたつた一つの芸術品だ。「いなりちやう」「たはらまち」「あさくさ」と突進して行く先き先きで、それらは快い色調を発散する。
 我々の頭上の大地では、軍隊が行進してゐるかも知れない。積み過ぎた貨物自動車が撓つて走つてゐるかも知れない。どんな素晴らしい出来事がいつ起るかも知れない。けれども、そんなことには白痴の如く無関心な世界がこゝにある。全線一哩三分、ゆつくり走つて五分時の間は、少くとも我々は現実世界から遊離して、ソロモンの壺にでも封じ込まれてゐるやうな妖精じみた感触を全身に感じながら、はるかに知らぬ世界を旅行してゐるのだ。


【上林暁「地下鉄道見参記」(「改造」昭和3年3月号 - 『増補改訂 上林暁全集第十四巻』(筑摩書房、昭和53年7月増補改訂版発行)より】

上林暁が、東大英文科を経て改造社の公募に見事通過して、「改造」の編集者になったのが昭和2年4月のこと。地下鉄はその年の末に開通した次第だった。杉浦非水のことのポスターも同時代に見ていたかな。



昭和2年12月30日に開通した浅草・上野間の日本初の地下鉄道がどんどん延びていって、延びるごとに、上野広小路(昭和5年1月1日開業)に上野松坂屋、三越前(昭和7年4月29日開業)に三越、昭和7年12月24日開業の日本橋と京橋にはそれぞれ白木屋と第一相互館というふうに、地下鉄の建設とデパートがタイアップすることで、地下通路がデパートに直結していった1930年代ならではの都市風景がおもしろいなとつくづく感心してしまう。昭和9年という年は、3月3日に京橋・銀座間、6月21日に銀座・新橋間がそれぞれ開通し、京橋の明治製菓本社(昭和8年5月に新築)のアクセスがますます便利になった年。昭和9年6月以降の、明治製菓宣伝部長・水中亭内田誠は、

この頃は洋傘も、交通機関を巧みに利用しさえすれば、使わないですむ場合が多くなった。現に、大森から京橋の社に通勤するのに、省線電車を新橋で下り、構内を出ず、地下鉄に乗り換えただけで、ひょっこりと社の前に出られるのである。それで濡れなくてすむ。便利になったものだ。

というふうに、「洋傘」というタイトルの小文に綴っている(『緑地帯』(モダン日本社・昭和13年7月)所収)。




桑原甲子雄《上野駅前 昭和9年》、桑原甲子雄『東京 1934〜1993』フォトミュゼ(新潮社、1995年9月)より。『夢の町 桑原甲子雄東京写真集』(晶文社、1977年8月)にはこの写真の前のページに、同時期に撮影の地下鉄車内の写真がある。下谷車坂町に住んでいた桑原甲子雄は、同書巻末で《浅草から新橋まで、地下を車が走る今で言う銀座線が全通したのは昭和九年、珍らしくてたまらなかった。》というふうに書きとめていて、そんな実感的な回想が嬉しい。階段の脇に、「地下鉄新橋まで開通」の文字の下に「速い 涼しい地下鉄」というポスターが貼ってある。浅草から新橋まで全通した昭和9年6月21日。そろそろ本格的に暑くなってくる時分。




《地下鉄に乗つて銀座へ来た。さてこれからこの娘はどうするか誰も知らない。》、福田勝治『銀座』(玄光社、昭和16年7月5日)より。昭和9年6月に浅草から新橋まで地下鉄道が開通したことで、銀ブラの際に地下鉄が大きな役割を担うこととなった。折に触れて銀ブラをたのしんでいた徳田秋声は昭和14年7月12日の日記に、

 竹葉で食事をし、千疋屋で果物を食べ、中村君ともヂヤアマンベーカレイでしばらく話して別れる。
 この日の暑さ、昏倒しさうである。そこで舞台から奈落へ消えるように、鳩居堂の前から地下へもぐり、上野まで来て、そこから自動車で帰る。地下鉄はちやうど冷房装置の映画館といふところ。

というふうに綴っている(『徳田秋聲全集 補巻』八木書店・2006年7月)。地下鉄を「冷房装置の映画館」に見たてる秋声の都市生活者の視線が素敵(「舞台から奈落へ消えるように」という表現もチャーミング)。銀座に地下鉄が開通して5年、昭和9年の地下鉄の惹句のとおりに「涼しい地下鉄」は東京市民の実感になっていたようだ。




国会図書館の端末で入手した新聞記事《地下鉄と高速線と四年目に直接連絡 中旬から漸次簡便に》。「東京朝日新聞」昭和14年8月3日付け紙面。

 帝都の心臓部を縦貫する渋谷―新橋間の「東京高速線」と新橋―浅草間の「地下鉄」が今秋九月十五日頃から新橋駅の地下ホームで連結し、渋谷―浅草間は乗り替へなしの三十分といふスピード運転が開始される(料金は二十銭)既に両線は通し切符を発行してゐるが現在では相互に新橋に来ると一旦地上へ出て、電車通りを横断して再び地下道に入らねばならぬと云ふ不便があるが来る十五日からは地下売店街を通って両開札口が連絡される、更にその後約一ケ月すると前記の如く両線路が接続され、プラットホームは一ケ所になる。
   地下鉄は延長八キロ三分で車輌は五十四台、高速線は長さ六キロ三分で車輌三十台
 これが一線に結ばれた暁は二分半で間隔で両会社の車が疾走することになる。
 東京高速度鉄道が着工してから丁度四年目に住宅街への交通の中心渋谷駅と歓楽街浅草との握手が完成する訳だが、現在新橋駅での乗り換へ客は一日平均七、八千人と見られてゐる。


という次第で、現在、浅草・渋谷間を走っている「東京地下鉄銀座線」は、昭和9年6月に全通した浅草・新橋間が「東京地下鉄」と、昭和13年12月に開通した渋谷から新橋までの地下鉄である「東京高速鉄道」の二つの路線が合併したものなのだった。上記新聞記事が詳述するように、翌昭和14年9月1日に2つの新橋駅が統合されるまでは、地下鉄の乗客は新橋で乗り換える必要があった、しかも新橋でいったん地上に出なければならなかった。それが昭和14年8月15日からは地下のみの移動となり、9月15日頃からそれぞれの路線の線路が連結されて乗り換えの必要がなくなったというのだから、なんと便利になったことだろう。前掲の荻原二郎氏撮影の「東京高速鉄道渋谷駅」の写真はそんな時期のまっただなかの写真ということがわかると、感慨はひとしお。




上記新聞記事、《現在及び本月中旬、九月中旬の両地下鉄の連絡横断面》の図を拡大。新橋駅の地下は、渋谷からの「東京高速鉄道」と浅草からの「東京地下鉄」の二つの線路があって、「東京高速鉄道」と「東京地下鉄」のそれぞれの終点駅が「省線新橋駅」を挟むかっこうで位置していた。「東京高速鉄道」の方が地上に近い位置にあった。




現在の銀座線新橋駅の地下線路を渋谷方向に向かって撮影。昭和9年6月に浅草・新橋間の「東京地下鉄」が開通後、昭和14年9月「東京高速鉄道」の渋谷・新橋間の線路と接続されるまでの4年間はここが地下鉄の終点だった。線路が微妙にカーブしている左側の壁の向こうに、「東京高速鉄道」時代のホームが残っている。





ふたたび、福田勝治『銀座』(玄光社、昭和16年7月5日)より、地下鉄を写した写真を2枚。車内の運転手の後ろに制帽をかぶった少年が正面を凝視している姿が見えるのが微笑ましい。昭和14年9月に新橋で乗り換える必要がなくなり、浅草から銀座まで乗り換えなしで地下移動ができるようになった……ということを知ったあとに見ると、銀座駅に停車している地下鉄の「澁谷」の文字がぐっと胸にしみるものがある。「東京地下鉄」と「東京高速鉄道」の合併の背後には、五島慶太に敗れる格好となった、「東京地下鉄」の創立者・早川徳次(はやかわ・のりつぐ)の死闘があったわけで、さらにぐっと胸にしみるものがある。




新田潤『東京地下鉄』(富士出版社、昭和17年5月5日)。装釘:牧山京三。早川徳次が東京地下鉄堂株式会社の創設するまでを小説にしたてたもの。ゆまに書房の『コレクション・モダン都市文化 第7巻 円タク・地下鉄』(2005年5月刊)で翻刻されているうえに、かねてよりの愛読書の和田博文著『テクストのモダン都市』(風媒社、1999年6月)で詳述されているのを見て、ムラムラと欲しくなった。新田潤が参照したという『東京地下鉄道史』乾・坤(東京地下鉄道株式会社、昭和9年)もいつか入手したい。

 地下鉄を主題とした小説を書いてみたいと思ったのは大分以前のことである。その頃はまだ新橋から渋谷までの線は開通せず、工事中であった。赤坂に住む私の家には、あの杭打機でI型鉄杭を打ち込むけたたましい金属的な響きが、毎日毎晩、寝しずまった深夜の夜空でさえ震わせて伝わってきた。その音響のために寝つかれないこともあった。散歩に出ては、そのいかにも男性的な、脈々と不思議な血の波打つような工事の現場に長いこと足をとどめて、眺め入ったりした。鉄骨で空高々と組み立てられた櫓の天っぺんから、動力で捲き上げられた重い鉄錘が急速に落されて、I型鉄杭の尻を叩く。と、耳を聾するような激しく金属のかち合う音響と共に、鉄杭は少しずつ地下に入ってゆく。すでに鉄杭の打ち込まれた箇所では、電車通の下に路面打桁を施して切り開く準備にかかったり、それも終った場所では、土揚機が据えられて堀り始めていた。地中から電灯の明りが洩れ、そこらの穴から覗くと人々が地の底で蟻のように動いていた。日支事変のはじまる時分の頃である。工事場附近のおでん屋などにいると、深夜の一時、二時頃になって、そうやって地下で働く人達が上がって来て、ほっと一息いれるので賑わった。十二時頃までは当時附近にあったダンスホール帰りの客などで立て混むその光景や雰囲気と、いかにも強い対照で眺められた。偉大な建設のために汗を流す人々のあけっぴろげな愉快な空気が、さっきまでのジャズ的な匂いの漂っているのを一掃し、隅で酔っている私の眼には何か考えさせられるものとなった。

という、新田潤によるあとがきは、溜池のダンスホール「フロリダ」と新橋・渋谷間を結ぶ地下鉄道の工事が両極的に登場して、「1930年代東京」を感じさせる実感的な筆致であるという点においても、昭和17年という出版年が示すような多分に時局におもねるところがあるという点においても(東京のダンスホールは昭和15年10月をもって当局の指導で閉鎖されていた)、たいへん興味深い。和田博文著『テクストのモダン都市』の「ダンスホール」の項によると、新田潤は《渋谷百軒店の喜楽舞踏場時代からのダンスマニア》だったという(p236)。





さて、表参道で銀座線に乗り換えて、渋谷駅で下車した冒頭に戻る。銀座線の改札から外に出るときのいくつかの通路のなかでは、東横線の改札に向かうこの木造の階段が一番好きだ。階段の脇の窓から後方を見やると、昭和9年11月に開店した東横百貨店の建物がそびえ立っている。現在「東急百貨店東横店・東館」と称されているこの建物は、東京初の鉄道会社直営デパート。昭和6年竣工の東武ビルディングの浅草松屋とおんなじように、多くの補修をほどこされつつも元の建物は竣工当時のまま残っているので、一見したところではゴテゴテと修復された単に古びているだけの建物だけれども、目をこらすとあちらこちらに、竣工当時の姿を見出すことができる。「1930年代東京」の残骸さがしにおいて、絶好の好物件なのだった。



そして、この階段を降りた先には、昭和2年8月に開通した東横線の渋谷駅のターミナル。東武電車の終点の浅草駅が東武ビルディングの2階に設けられているのとおんなじように、東横電車の終点の渋谷駅は東横百貨店の2階の高さに位置していて(そして3階の高さに地下鉄の駅)、東武電車と東横電車はそれぞれの「郊外」へと向かって走っている。現在の東横線渋谷駅の開業は昭和2年8月で(ちなみに小田急新宿駅の開業は同年4月)、東武電車が隅田川を越えて浅草に伸びてきたのは昭和6年5月。1920〜30年代のモダン都市東京が21世紀の現在までつながっていると思うと、感慨がひとしお。浅草はスカイツリーの建設、渋谷は都市計画のまっただなか。都市はどんどん変貌してゆく。野口冨士男の『私のなかの東京』(文藝春秋、昭和53年6月)の最初の章「外濠線にのって」(初出:「文學界」昭和51年10月号)の弁慶橋のくだりにある

幼時から現在に至る推移のなかで、私には常に変化する都市が東京だという考えが固定観念となっていて、ここの風景が高速道路の出現くらいには負けぬだけの力をもっているところが気に入っている。ここの高速道路を自然破壊だと言うような人がいれば、私は外濠自体が江戸時代に自然破壊をして人工的に造成されたものであったことを忘れてもらっては困ると言いたい。

という一節をなんとなしに思い出す。



渋谷は東急文化会館とその前のバス乗り場が子供時分から長らくおなじみで、東横線は人生の一時期通学で使っていたのでちょっとばかし懐かしい。が、その後、年を重ねるごとに渋谷は下車することはあっても、通過するだけの町になってしまった。そうして通過を重ねて幾年月、東急文化会館(屋上が懐かしい)が取り壊され、副都心線が開通したと思ったら、今度は東急東横線の渋谷駅は地下に行ってしまうのだそうで、あれよあれよと渋谷は変わっていくらしい。せめて東横線が地下になってしまう前に、東横百貨店と東横線をじっくり観察しておきたいと、都市開発のことを知ったときからずっと思っていた。という次第で、いよいよ懸案の東横百貨店見物が今日実現するのが嬉しくってたまらない。わーいわーいとまずは、なつかしや東急文化会館に向かう古びた歩道橋を直進する。この歩道橋もいつかなくなってしまうのかな。




東急文化会館跡地まえから宮益坂と明治通りの交差点へと歩を進めて、現在の東急百貨店東横店東館をのぞむ。この建物が昭和9年11月竣工の東横百貨店の現在の姿。一見どうってことがないけれども、骨組は竣工当時のままなのは、浅草松屋の東武ビルディングとまったくおなじパターンなのだ。




《東横百貨店》(渡辺仁・鹿島組・昭9)、都市美協会編『建築の東京 大東京建築祭記念出版』(都市美協会、昭和10年8月20日発行)より。竣工当時は、いかにも「1930年代東京」という感じの簡素な白亜の建物。窓の幾何学的配置がおしゃれ。渡辺仁は前年5月竣工の京橋の明治製菓の本社ビルの設計者でもある。




白亜の建物はピンク色の外装で覆われて、竣工当時の幾何学的窓の配置も今はもう見られなくなってしまったけれども、右奥の角のテラスとその上に掲げられている看板の形状は竣工当時のままだーと、その部分へと接近して興奮する。




ふたたび、昭和9年の竣工当時の写真。《東横百貨店・青山通より背面を見る》、『工事画報』昭和9年11月号より。東横百貨店に隣接する右手前の三階建ての建物の窓には「大渋谷」の文字。この手前の青山通りを通って、宮益坂からの市電は、山手線の高架をくぐって終点の渋谷駅前へと入っていた。




桑原甲子雄《渋谷駅前交差点》昭和14年、『夢の町 桑原甲子雄東京写真集』(晶文社、1977年8月)より。東横百貨店の上から撮影した写真。桑原甲子雄は下谷車坂町の自宅から地下鉄にのって、はるばる「いっこう不案内」だった渋谷駅まで来て、この写真を撮影した。この写真が撮影されたのは年、前述のとおり新橋駅の線路がつながって、浅草・渋谷間を乗り換えなしで地下移動できることになった昭和14年。桑原甲子雄も珍しがって、はるばる渋谷まで来てしまったに違いないと思う。

宮益坂をくだって来た当時の市電は、宮益橋と省線のガード下を越えてから左へカーブした地点――いまのハチ公前広場のところが終点であったが、広場などとは到底よびがたいほど狭隘な一角で、すこし折返しがはかどらないと青山のほうから来る電車が宮益坂の中途まで数珠つなぎになってしまって、私もしばしば徒歩でくだった一人である。

と、これは野口冨士男『私のなかの東京』(文藝春秋、昭和53年6月)の「芝浦、麻布、渋谷」のなかの一節。




『輝く日本 輝くネオン』(整電社製作所、昭和12年4月5日)より。上の写真の渋谷駅前広場をまわれ右して、ふたたび東横百貨店をのぞむと、こんな感じの夜景だった。




ふたたび、『工事画報』昭和9年11月号より、《東横百貨店・並木通より正面を見る》。宮益坂の反対側からのぞんだ、竣工当時の東横百貨店の建物。





上は《建設中の東京高速鉄道(左は宮益坂)》、下が《分断された天現寺線終点・東横百貨店前停車場》、『東京急行電鉄50年史』(東京急行電鉄株式会社、昭和48年4月18日発行)より。上掲の写真の非常階段の手前に継ぎあわされるようにして、現在の銀座線の高架が建設された。高架の下に停車中の天現寺線は大正13年5月に開業し、昭和13年に東京市電に譲渡されるまで、玉川から天現寺まで直通運転をしていた時期があった。社史によると、現在の東急百貨店の東館と西館を結ぶ1階の通路がその名残りだという。今度歩くとき、玉川電車に思いを馳せてみようと思う。

 当時の地下鉄といえば、浅草―上野―銀座―新橋の一本だけで、東洋唯一の地下鉄道といえば喧伝され、目映いようなハイカラな存在だった。文明のシンボルでもあった。
 その地下鉄が、場末の渋谷まで伸びてくるというのだ。山の手第一の繁華地、新宿をさしおいて、わが渋谷を優先してくれるとは。早川徳次(浅草―新橋間の旧東京地下鉄道の創立者)と五島慶太(新橋―渋谷間の旧東京高速鉄道の計画者)との確執など知る由もなかったが、「渋谷に地下鉄」が過分に思われ、その実現の日が待ち遠しくてたまらなかった。あと二年、あと一年……。私の人生は鉄道の開通を待ちわびながら経過したという気がしてならないが、その最初は渋谷への地下鉄だったと思う。
 新橋―渋谷間の地下鉄は、いきなり全線開通とはならず、まず、虎ノ門―青山六丁目(現在の表参道駅のやや渋谷寄り)間で開通した。両端に一駅ずつ未開通区間を残して開通した事情についての詳述は省略するが、とにかく乗りに行った。青山六丁目駅までは渋谷から歩いて十分くらいだったから、わが渋谷の圏内ではあったが、渋谷駅まで通じていないので、いまひとつ物足りなかった。
 年表によれば、
 青山六丁目―虎ノ門 昭和十三年十一月十八日開業
 渋谷―青山六丁目 同年十二月二十日開業
 虎ノ門―新橋 昭和十四年一月十五日開業
 となっている。
 年表と実感は程遠いもので、青山六丁目―渋谷間は、わずか一ヵ月遅れで開通したにすぎないのだが、私は半年ぐらい待たされたような気がしている。よほど待ち遠しかったのであろう。
 かくして、栄えある地下鉄が、渋谷まで来てくれた。
 しかも、渋谷駅の位置!
 渋谷は金シブ(砂鉄)を産する谷、というのが地名のルーツだそうだが、宮益坂と道玄坂にはさまれた谷底にある。だから地下鉄といえども谷底の、さらにその下まで潜る必要はない。それで宮益坂の途中から地上に出て、山手線の駅の上にホームを設けた。山手線は高架、つまり二階にあったから、地下鉄駅は地上三階である。
 これがまた嬉しい。渋谷の地下鉄は、地下ではなく、地上の高いところに発着するのだ。
「東京の渋谷じゃ地下鉄が、ビルヂングの三階から出入りする、ハハのんきだね」
 と唄われたという。……


【宮脇俊三『時刻表昭和史 増補版』(角川文庫・2001年6月)- 第1章「山手線―昭和8年」より】


渋谷に地下鉄がやってきたときを回想する宮脇俊三のとっても実感的な文章はなんとすばらしいことだろう! 「東京の渋谷じゃ地下鉄が、ビルヂングの三階から出入りする、ハハのんきだね♪」と現在の写真。銀座線の高架の手前には、先ほど歩いたばかりの、今はなき東急文化会館へつながる渡り廊下。




『大東京観光アルバム』(東京地形社、昭和12年4月5日発行)より、《省線渋谷駅の隣りにある、東京横浜電鉄の経営になる百貨店。東京南郊の住宅地を控へ、四通八達せる交通網の基点として、渋谷駅附近の繁昌は目醒しい。》。宮脇俊三が待ち望んでいた地下鉄が昭和13年12月に渋谷に開通する以前の東横百貨店の写真。すなわち、地下鉄の渋谷駅が増築増築される以前は、東横線が渋谷駅に近づくと、こんなふうな清新な白亜の建物の側面が迫ってきたのだ。昭和2年8月に東横電鉄の渋谷駅が開通し、山手線と渋谷川の中間の手狭な場所が東横電鉄の発着場所となった。東横百貨店はその渋谷川に蓋をするようにして建設された。渋谷を出発する東横電車は次の並木橋駅までは渋谷川に沿って走っている。




昭和9年11月に東横百貨店が開店し、昭和13年12月には開通し、以後、増築に増築を重ねてゴテゴテ感を増して現在に至っている東急百貨店渋谷店であるけれど、あらためてじっくりと246側から建物全体をのぞんでみる。地下鉄の高架の奥のかつての「東横百貨店」の部分の現在の「東急百貨店渋谷店・東館」の骨組みは竣工当時のままであることをふたたび確認する。




と、ふたたび確認したところで、屋上に注目してみると、浅草松屋の東武ビルディングとおなじように、はじっこの煙突とその脇の階段部分が竣工当時のままの姿で残っているということが見てとれて、大興奮。上掲の昭和12年の『大東京観光アルバム』でモクモクと煙を出している煙突が残っている!





昭和9年11月の竣工当時そのまんまに屋上に煙突が残っているのを発見してしまうと、その近くへ行ってしまいたくなるのが人情というもの。ふたたび明治通りを横断し建物のなかに足を踏み入れて、階段をゼエゼエとのぼる。この階段の内部もたぶん竣工当時のまま。シンプルな階段がなんだかいい感じだ。




階段の先は屋上遊園地。右寄りにさきほど地上から見上げていた煙突。左が先ほどゼエゼエと登ってきた階段の出口部分。




かつての東横百貨店、現東急百貨店東横店東館の屋上の片隅には「東横稲荷」が祀ってある。




屋上のフェンスから、銀座線の高架を見下ろす。東京の渋谷じゃ地下鉄が、ビルヂングの三階から出入りする、ハハのんきだね♪





郊外電車の開通によるモダン都市の拡大という事象を通して「都市とその周縁」といったことを見てゆくのはたのしい。年に何度かの関西遊覧で「すばらしき関西私鉄!」と興奮していたものだけれども、これをそのまま東京に置き換えることで、おのずと関西と対照させることになり、ますます興味深いなあと興奮は続いている。このたび見物の、渋谷の東横百貨店はそのものズバリ、五島慶太が小林一三の阪急百貨店の真似をして建設した、東京初の鉄道会社直営によるターミナル百貨店なのだった。昭和2年8月に渋谷駅に現在の東横線が開通し、渋谷駅にまずは「東横食堂」を開店して、それが発展して、昭和9年11月1日、東横百貨店が開店する。




白木正光編著『大東京うまいもの食べある記』(丸ノ内出版社、昭和8年5月15日再版発行=昭和8年4月30日発行)、和田博文監修/近藤裕子編集『コレクション・モダン都市文化 第13巻 グルメ案内記』(ゆまに書房、2005年11月)より。

東横食堂――ガード下から青山七丁目へ上る坂が宮益坂で、下から向つて右側下の東横電車屋上に東横電車直営の東横食堂があります。一般向の大変感じの好い食堂で洋食も廿五銭均一、其他飲物、すしの類、ビール、日本酒もあるので食事時はいつも満員です。猶ほ目黒駅にも東横直営の食堂があります。

『東京急行電鉄50年史』によると、東横食堂は、梅田の阪急食堂を範に、東横電車が渋谷駅を発着するようになった直後の昭和2年12月25日に開店。好評により昭和4年5月、約2倍に拡張、続いて同年9月に目黒駅に「第2東横食堂」を開店した。



渋谷駅とその郊外電車をちょいと追究してみたいなと思い立ったそのとき、まっさきに思い出したのは、大正15年生まれの渋谷育ちの宮脇俊三のことだった(先に抜き書きした『時刻表昭和史』の第1章のタイトルはそのものズバリ「山手線―昭和八年」だ。)。宮脇俊三は大正15年12月に誕生し、昭和3年の春に一家は渋谷に移住した。昭和2年に東横電車の渋谷駅が開通し、東横百貨店にさきがけるようにして「東横食堂」が開業したのとほぼ時をおなじくして、宮脇少年は渋谷にやってきたということになる。という次第で、宮脇俊三の著書としてそのものズバリ、『昭和八年 澁谷驛』というタイトルの本が刊行されていたことを知り、興奮だった。





宮脇俊三著『昭和八年 澁谷驛』(PHP研究所、1995年12月)。こうしてはいられないとあわてて取り寄せてみると、宮脇俊三がそれまでに書いていた「昭和初期の渋谷駅」にまつわる文章を再編集したアンソロジーという体裁で、

  • 共著『大正十五年(昭和元年)生まれ』(河出書房新社・1980年)所収「幼少期」
  • 『時刻表昭和史』(角川文庫)の第1章「山手線―昭和八年」
  • 共著『世田谷・たまでん時代』(大正出版・1994年)
  • 『汽車との散歩』(新潮文庫)所収「地下鉄と渋谷」
  • 「私の東京論」(初出:「朝日新聞」1994年5月6日朝刊)

の以上5点に収録されている文章を再編集して纏められた本だった。これに、青山師範の同級生、奥野健男と田村明との鼎談が加わる。全178ページ。


自らあとがきで「昭和初期の渋谷駅」について《とても一冊になるほどの量は書いていない。》と記しているとおりに、量の少なさは否めないのだけれど(宮脇の文章は93ページまで)、宮脇俊三自身の文章のあとに、奥野健男と田村明との書き下ろし(語り下ろし)の鼎談が加わることで(96ページから178ページまで)、宮脇俊三の文章を読んで胸躍らせていた実感的な回想が、同級生三人のおしゃべりによってさらに補強される恰好。このたびの「1930年代渋谷」見物において、絶好の参考文献となった。

 時の断面は昭和八年にする。満州事変から二・二六事件への途中の年であるが、巷には「東京音頭」の大流行が象徴するような風潮もあった。
 この年に、帝都電鉄(現在の京王・井の頭線)が開通した。私は六歳、小学校に上がった年である。その翌年、渋谷の最初のデパート「東横百貨店」(現在の東急百貨店東横店)が開業した。
 東横百貨店のエレベーターが珍しく面白く、タダで乗れるので、私は遊び友だちと一緒に幾度も乗りに行った。エレベーター嬢に「乗っちゃダメ!」と追い返されたこともある。
 帝都電鉄も斬新だった。渋谷駅を出るやトンネルに入り、つぎの神泉駅は半地下で、またトンネルに入るのであった。トンネルが珍しい時代だった。帝都電鉄が自動ドアだったのも驚きで、「この扉[とびら]は自動的[ひとりで]に開閉[あけたて]しますので……」と、ふりがなつきで書かれたセロファンが貼りつけてあった。
 東横線はデパートをターミナルとする鉄道となり、急行電車が運転されていた。停車駅は碑文谷(現在の学芸大学)、自由ヶ丘、田園調布……。「急行」は私たち子どもの憧れだった。
 もちろん渋谷の中心をなすのは山手線の駅で、西側、つまり道玄坂側に駅前広場があった。現在の四分の一ぐらいだった。そこは市電の終点で、都心への三方向の電車が折り返していた。……

と、これは「玉電の思い出」として収録されている文章の一節。かさねがさね、宮脇俊三の実感的な回想のなんとすばらしいことだろう! まさに『昭和八年 澁谷驛』のタイトルが象徴するように、「昭和八年という年は興味ある年だと思うのである」という高見順の『昭和文学盛衰史』のなかの言葉が、そのまんま当てはまるような渋谷駅の風景。




師岡宏次《渋谷駅前 1936年》。図録『モダン東京狂詩曲展』(東京都写真美術館、1993年)より。「現在の四分の一ぐらいだった」という道玄坂側の駅前広場を写した写真。『昭和八年 澁谷驛』の座談会(宮脇・田村明・奥野健男)ではこんなふうに語られている。

田村 いまは信じられないけど、渋谷は山手線の両側が、目一杯のところまで全部市街地だったね。そこのところへいろんな細かい店がたくさんあった。だいたい駅前広場っていう考えがなかったんだから。それにクルマもなかったから、駅前広場はいらないんだ。
 いまみたいにあれだけの広場ができたってことは、随分あの辺って変わっちゃったんだよな。一つの空間ごとの建築群がなくなったわけだからね。
宮脇 いまの下北沢みたいなもんだったな。
田村 広場っていうのはクルマのために必要になってくる。だから戦後だね。戦前には広場なんてない。

田村明の言う戦前の渋谷駅前の「いろんな細かい店」のひとつに明治製菓売店があった。明治製菓売店の前を市電が通る。




《ハチ公と市電/渋谷駅前》、『杵屋栄二写真集 汽車電車』(プレス・アイゼンバーン、1977年10月10日発行)より。偶然写ってしまった明治製菓売店に狂喜! の写真。大岡昇平の『幼年』(潮出版社・昭和48年5月→講談社文芸文庫・1990年12月)には、

 市電はガードをくぐると左へ曲り、新設の駅の正面が終点になる。同時に玉電も駅を建てた。国電の駅の対面に、新しく開店した明治製菓(二階喫茶室)と共に、市電の終点を三方から囲む形になった。これが今日の駅前広場の原型である。
 無論広さは今日の半分以下で、道玄坂通りへ出る角は「甘栗太郎」だった……

というふうに綴られている。ちなみに、初代ハチ公の銅像の除幕式は昭和9年4月21日に催され、昭和19年10月12日に戦時下の銅鉄回収により取り壊された。昭和23年8月15日、現在のハチ公像の序幕式が盛大に催された(参考文献:図録『開館記念特別展「ハチ公のみた渋谷」展』(白根記念渋谷区郷土博物館・文学館、2005年7月9日発行))。




明治製菓渋谷売店の全景、『三十五年史 明治商事株式会社』(昭和32年5月発行)より。渋谷売店の開店は大正14年11月3日。それから時は過ぎゆき、昭和19年4月25日の日記に伊藤整は、

今日天皇御親拝が九段にあり、学校は休み。金もないので昼少し前に出かけ、出がけに渋谷駅前の古本屋に寄る。留守。駅前の東京パン、明治製菓等の店々全部とり壊され、火事場のあとのようになっている。駅附近の建物疎開である。東京都の姿は一日一日と変って行く。それらの店でよく茶を飲み、菓子を食べたりしたことも夢のようである。雑炊食堂前に人が長い行列をしているだけで、この間まではあったコブ茶を一杯飲ませる休み場も見当らない。

と書きとめている(『太平洋戦争日記(二)』新潮社刊)。渋谷店は同年1月10日に強制疎開により閉鎖されていたのだった。この日記の執筆時、ハチ公はまだあったのだなあ。ちなみに、その日記を読むと、伊藤整はかなりの甘党であったことが伺えて、銀座や新宿でも明治製菓にも森永に足を運んでいて微笑ましかった。




《昭和9年、建設中の東横百貨店》、『東京急行電鉄50年史』(東京急行電鉄株式会社、昭和48年4月18日発行)より。山手線の高架の右手に東横百貨店の鉄骨。『昭和八年 澁谷驛』の座談会では、大正15年生まれ青山師範学校の同級生が以下のとおりに、当時を回想している。

田村 デパートができる前、斜めに階段がホームに上がってゆくようになっていたね。覚えてる?
 あんなところにデパートができたっていうのは、衝撃的だったね。デパートは市内にしかないという感じだからさ。
宮脇 銀座か新宿までいかないとなかったからね。
田村 いまではターミナルデパートは常識だけどさ。あんな電車にくっついて、ターミナルにデパートがあるというのが、衝撃的だった。
奥野 阪急をまねしたって。
田村 そうでしょ。だから大阪式なのよ。東京にはなかった。まねしたというより、小林一三がこちらに来て指導したんだ。
宮脇 そして地下鉄ができて、浅草とつながった。

東横電鉄の開通直後から渋谷駅を見てきた三人にとって、白亜の東横百貨店はさぞかし輝いて見えたことだろう。三人が青山師範学校に入学したのは昭和8年。まさに東横百貨店が建設のまっただなか。入学当時は「青山五丁目」の市電の停留所のところに位置していた学校が、昭和11年に碑文谷に移転することとなった。東横線で通学することになった宮脇俊三は、

 東横線は諸施設が立派で、速度も速く、急行が運転されていた。その頃、急行用のガソリンカーが投入され、人気があった。私たちは何本もの電車をやりすごしてガソリンカーに乗った。しかも、ターミナルの渋谷駅に百貨店がある。生意気になりかけていた私たちは玩具売場をウロついたりしながら帰ったのである。

と回想している(「玉電の思い出」)。




《沿線案内 東横.目蒲.玉川電車》(昭和12年3月)の表紙。昭和11年9月から急行電車として華々しくデビュウしたガソリンカーが表紙に描かれている。




《東横電車のガソリンカー/東横渋谷駅ホーム》、『杵屋栄二写真集 汽車電車』(プレス・アイゼンバーン、1977年10月10日発行)より。宮脇少年を魅了してやまなかったガソリンカーにはとっくに大人だった杵屋栄二も魅せられていたようで、こんなに素敵な写真を撮っている。




『杵屋栄二写真集 汽車電車』より、《建設中の東京高速鉄道とその電車》。昭和13年12月に地下鉄が渋谷にやってくる前夜の写真。はるか向こうに白亜の東横百貨店が見える。




『杵屋栄二写真集 汽車電車』より、《サボが慶応の校章を模した日吉行き・渋谷駅》。上の二枚の写真と同時代の東横電鉄の渋谷駅のホームの向こう側には、地下鉄建設工事以前の東横百貨店が写る。「趣味の浴衣地陳列」の垂れ幕が下がっている。東急電鉄は沿線に学校を誘致することで拡大していった。昭和9年5月に移転が開始された日吉の慶應予科はその代表的なものだった。『東京急行鉄道50年史』を参照すると、最初の学校誘致はそれまで浅草区蔵前にあった東京高等工業学校(現東京工業大学)で、大正13年4月に大岡山に移転し現在に至っている。





《慶應義塾大学 日吉予科校舎 曽弥中條事務所・清水組・昭10》、都市美協会編『建築の東京 大東京建築祭記念出版』(都市美協会、昭和10年8月20日発行)より。同年に創刊したアオイ書房の『書窓』昭和10年7月10日発行(第1巻第4号)には、上司小剣が「日記より」という文章に、《六月一日。日吉へ苺を摘みに行く。》、《慶應義塾予科の校舎が美しい白亜の色を中空によこたへて、鉄骨鉄筋コンクリートの大建築は、根から生えたやう》と書いている。目黒に住んでいた小剣は東横電車に乗って、日吉にピクニックに出かけたのだった。




おなじく『建築の東京』より、《府立青山師範学校(東京府・上遠組・昭和10)》。宮益坂を上がったところにあった市電の車庫(青山車庫)の近くに住んでいた宮脇俊三は、学校が碑文谷に移転したことで、東横線に乗って通学するようになった。学校の移転と同時に東横線の駅名も「碑文谷」から「青山師範」に改称になった(現在の「学芸大学」)。

自分の学校の名前が駅名になったのが嬉しくて、胸を張って改札口で定期券を見せた。新校舎は鉄筋三階建の立派なもので、駅から歩いて十分ぐらいのところにあった。付近にはまだ畑が多く、私たちは学校の帰り道、石ころを拾っては肥溜めに向かって投げ、ボチャンと飛沫が散ると、ストライクだと言ったり、どうだとばかり腕をあげて力こぶをつくる格好をしたりした。いまで言うガッツ・ポーズだが、これはポパイの影響であった。

と、これは『昭和八年 澁谷驛』に「昭和初期の時代」として収録されいる文章の一節。同級生の三分の二ほどが東横線を利用していたという。「玉電の思い出」として収録されてゐる文章には、《私たち東横線で通学する生徒たちは玉電通学組に対して優越感を抱いていた。それは主として鉄道の差による。》という。モダン都市の象徴のような東横線に対して、急行もなく大半が路面電車の玉川電車は《鄙びて田舎くさかった》。





昭和2年8月に渋谷駅に開通した東横電車、昭和9年11月に開店した東横百貨店、昭和13年12月に渋谷にやってきた地下鉄に思いを馳せたところで、ふたたび東急百貨店渋谷店東館の屋上に戻って、ふたたび外に出る。



と、ここで、246側から建物全体をのぞんで、地下鉄の高架の奥のかつての「東横百貨店」の部分の現在の「東急百貨店渋谷店・東館」の骨組みは竣工当時のままであることをふたたび確認して、ふたたび悦に入る。



東横百貨店は渋谷川に蓋をしてその上に建てられたモダン建築。その渋谷川については、前掲の宮脇俊三『昭和八年 澁谷驛』所収の、大正15年生まれ青山師範学校同級生トリオの、宮脇・田村明・奥野健男の座談会「渋谷での思い出」では以下のように語られている。

奥野 明治神宮というのは、いつできたの?
宮脇 大正九年だったかな。
奥野 広大な土地でしょう。それで全国から木を集めたんだ。だからあれだけ大きな森になったわけだね。
宮脇 あそこには、湧き水もあるからね。清正井といって名水百選になっている。
奥野 加藤清正の下屋敷か何かがあったんだよ。渋谷川はあそこが源流だと言うね。
田村 表参道をいくと、川が下を流れるのが見えてたね。
奥野 参道橋だ。それでずっといって、東横百貨店の地下を通るんだ。そして、線路があって、川っぷちにトン平という飲み屋があったね。トン平の便所というと、下見ると川があってさ、本当の厠なんだよね。ジャーッと処分して(笑)。
宮脇 大きいのをすると、ボーンと落っこっていくのが気持ちよかったよ(笑)。もちろん、戦後のことだけれど。

大岡昇平の『幼年』では、《新宿御苑内の池、明治神宮内の池や、原宿、千駄ヶ谷方面を水源に持つ野川であるが、新宿大木戸から玉川上水の余水を引いていた。末は古川橋、一の橋、二の橋、赤羽橋を経て、名を古川、赤羽川と変えて、竹橋で東京湾に注ぐ。》と端的に解説されている。




『しぶや酔虎伝――とん平35年の歩み』(「とん平」35周年記念文集刊行会、昭和37年7月24日)。宮脇俊三たちの座談でその名が挙がっているように、渋谷川といえば思い出づるは「とん平」のこと。戸板康二がたのしげな筆致でちょくちょく回想している酒場(古川ロッパの「とん平最後の日」でおなじみ)。開店は昭和21年11月19日。演劇人や映画人の溜まり場になったきっかけは筈見恒夫にあったという。戸板康二は『回想の戦中戦後』(青蛙房、昭和54年6月)で、

 そのころ、田園調布に辰野隆、八木隆一郎、筈見恒夫、早川清がいた。自由ヶ丘に、久保栄がいた。緑ケ丘に伊馬春部がいた。渋谷の神泉に三村伸太郎がいた。永福町に伊藤熹朔がいた。
 つまり東横線と帝都線(のちの井の頭線)沿線の住人は、渋谷で飲むのが、いちばん便利なのである。
 そこでたむろしたのが、駅の近くの渋谷川に沿った、とん平であった……

というふうに綴っている。ターミナル駅・渋谷。駅に入る直前の銀座線の高架からは「とん平」の看板が見えた。当時は「川」であった渋谷川はいつのまにか埋め立てられ宮下公園の遊歩道となっている。上掲の座談会で語られているとおりに、この記念文集では何人ものひとがその「厠」について言及している。


現在は埋めたてられた「とん平」沿いの渋谷川は、稲荷橋あたりから姿をあらわし、明治通りと東横線の高架に沿ってチョロチョロと流れている。このあたりは、大岡昇平が『幼年』において仔細に綴っており、また、『私のなかの東京』の「芝浦、麻布、渋谷」では野口冨士男は麻布界隈から渋谷川に沿って歩いて、渋谷に到着している。




『大東京區分圖 三十五區之内 澁谷區詳細圖』(昭和16年1月5日初版印刷)より、渋谷駅から並木橋附近を拡大。東横百貨店のある渋谷駅から東横線と山手線とが渋谷川を挟んで、山手線は地面を東横線は高架を次の停車駅、恵比寿、並木橋に向かって走ってゆく。現在の明治通り沿いには市電の天現寺線。



大岡昇平の『幼年』と野口冨士男の『私のなかの東京』に思いを馳せるべく、渋谷川に沿って、ちょいと歩いてみることに決めた。東横線の渋谷と代官山の間にはかつて「並木橋駅」があった(昭和21年5月廃止)、というわけで、まずは並木橋を目指して歩いてゆく。宮脇俊三著『昭和八年澁谷驛』所収の座談会では、前掲の「とん平」のくだりあと渋谷川へと話題が移って、

田村 そうだ、川と思ってなかったんだな、僕らは。目黒川はまだ川だけど、渋谷川って完全にドブだと思ってたから、川の名前があるというのを、後から発見してさ(笑)。
奥野 あそこにあるお寺は、清流寺。清い流れの(笑)。
宮脇 昔は水車が回っていたって言うけど。
奥野 古川橋のところにいくと、淀んでいるものね。
田村 だから土地利用が、かなり厳しかったんだ。土地を目一杯利用しようという思想だ。要するに。
奥野 渋谷川の川沿いには、小さい工場がたくさんあったね。
田村 そうだね、あそこらへんだね。
奥野 だから高見順なんか、大いに書いてる。
田村 それだけ川を運河として利用してるんだよね、明治初めの工場というのは。輸送のため、道路というのはほとんどないんだから。そうすると川沿いってわりあい便利なの。川でもないような川がけっこう役に立っていた。

というふうにおしゃべりが続いている。なんやかやで読み逃している高見順の『いやな感じ』を読まねばと思う。そうか、明治通りというのは渋谷川に沿っているということなのだなと、しごく当たり前のことに歩いていると、なんだかとってもウキウキしてくる。かつて、渋谷川に沿って走っていた都電「天現寺線」にも思いを馳せる。




明治通りをテクテク歩いて、ほどなくして並木橋に到る。東横線の渋谷駅の次にかつて並木橋という駅があった。宮脇俊三『昭和八年 澁谷驛』所収の座談会で奥野健男が、《東横線、ほんとは恵比寿から出るはずだった。そうすれば、あんな急に途中から曲がる必要がなかった。並木橋のところから、キキーッとあれ、ものすごい音をたてて、曲がってたからね。》
と語っているように、並木橋を過ぎたところで急カーブになるのは今も変わらない。代官山からしょっちゅう歩いている道だけれど、駅はどのあたりだったのだろうと立ちどまったのは今日が初めて。





西尾克三郎『ライカ鉄道写真全集 4』(プレス・アイゼンバーン、1994年4月)より、上の写真が《L-630 東京横浜電鉄 キハ8 下り桜木町行急行 渋谷―並木橋 昭和11/1936-8》、下の写真が《L-631 東京横浜電鉄 キハ8 下り桜木町行急行 キハ6 上り渋谷行急行 並木橋駅 昭和11/1936-8》。杵屋栄二の写真に写っていたのと同じ流線型の電車が東横百貨店を背後に並木橋にやってきた! 線路の右側には渋谷川があって、ここに沿って天現寺線が走っていたけれど、当時は専用線の電車が子供にとってはとってもモダンだった(昭和8年8月開通の現在の井の頭線の帝都電鉄も宮脇俊三は大好きだった)。とにかくも流線型の急行電車は当時最高にかっこよかったのだ。




《山手線を渡る渋谷高架橋工事》、『東京急行電鉄50年史』より。人生の一時期通学に使っていたくらいだし、渋谷発ないし渋谷着の東横線には数えきれないくらい乗っていたけれど、一度も思いを馳せることなどなかった代官山から渋谷間の高架が、今回の観察を機にしみじみおもしろいなと思うようになった。山手線を横断するようにして渋谷に入る東横電車は、延長1083メートルにも渡る鉄筋コンクリートを構築する必要があった。



明治通りを並木橋交差点で右折して、渋谷川を越えて代官山の方向へ直進すると、ほどなくして、山手線の線路の上に架かる陸橋に出る。この陸橋が「猿楽橋」。代官山から渋谷に向かって歩くとき、たまに渡る機会のあるこの陸橋が前々から大好きだった。




その猿楽橋から急カーブを描いた直後の東横線の高架を眺める。





猿楽橋から地面へ。山手線の線路を眺める。大阪町歩きの折に、梅田の次の駅の「高架線の中津」を歩いたときのことをなんとはなしに思い出した。ターミナル駅の次の駅附近の独特のちょっとひなびた雰囲気がいつもなんだか好きだ。





猿楽橋を堪能したあと、山手線と東横線の間の道を歩いて、渋谷駅前に戻る。大岡昇平の『幼年』を思い出しながら、いい気分で渋谷駅に戻る。






先ほど線路をはさんだ反対側に位置する246の歩道橋から東急百貨店東横店をのぞむ。東横百貨店の建物、すなわち現在の「東館」の建物にツギハギのようにして増築に増築を重ねて、現在に至っている東急百貨店東横店。「東館」手前の銀座線の高架駅に沿うようにして増築された「西館」と山手線と東横線の線路に沿うようにして「東館」と「西館」の直角になっているのが「南館」。「西館」の前身が昭和13年竣工の玉電ビル。「南館」は社史では「渋谷駅西口ビル」と表記されていて、昭和45年10月1日に営業を開始している。玉電は前年5月に廃止されているので、この渋谷駅西口ビルの完成をもって、渋谷駅はほぼ現在の姿になったといえる。




《渋谷に進出した東京横浜電鉄(中ほどが本社、後方が東横百貨店)》、『東京急行電鉄50年史』より。昭和11年10月22日、五島慶太の東京横浜電鉄は玉川電気鉄道を傘下に収めた。




《建設中の玉電ビル・東京高速鉄道車庫線》、『東京急行電鉄50年史』より。地下鉄の橋梁工事のサマとその車庫の様子がチャーミングな写真。玉川電車が東急に合併されてまず実施されたのは、昭和12年、玉川線渋谷駅と木造の玉電食堂を改築して玉電ビルを建設することだった。すなわち、昭和13年12月に銀座線が渋谷にやってくるのと連動するようにして、線路の反対側では玉電ビルの建築と東京高速鉄道の車庫が建設されていたのだった。

玉川電気鉄道が東京横浜電鉄に合併された直後の昭和13年12月20日に東京高速鉄道が同ビルの3階へ、翌14年6月1日には東京横浜電鉄の所管となった玉川線が同じく2階へ乗入れた。さらに同年9月20日、帝都電鉄線(井之頭線)との連絡橋も開通した。こうして、玉川電気鉄道が建設に着手した玉電ビルは、東京横浜電鉄によって総合駅としての機能を発揮することになったのである。

と、玉電ビルの建設が現在のターミナル駅としての渋谷駅の基礎となっていることを『東京急行電鉄50年史』は解説している。戦前は4階建てだった玉電ビルは戦後増築されて、現在の東急百貨店東横店の西館となった。




《渋谷二十五時》、『六浦光雄作品集』(朝日新聞社、昭和48年11月20日発行)より。




《スモッグのなかの女》、『六浦光雄作品集』(朝日新聞社、昭和48年11月20日発行)より。《午前7時、渋谷、東横デパート前の往来。早出の勤め人たちが白い息をはきはき、駅をつつんだスモッグのなかに消えてゆく。》。