都電20系統のバスに乗って、池之端七軒町で下車。上野から浅草へ。

今日は早起きして、上野まで歩くことに前々から決めていた。高速道路の高架下の神田川を渡り、前を通りかかるといつもそこはかとなく嬉しい川口アパートメントを見物したあと、野口冨士男の真似をして永井荷風の『狐』に思いをはせつつ金剛坂から伝通院へ向かい、蝸牛庵を左手に善光寺坂をくだって、秋声の『新世帯』や『黴』や三島霜川を思い、春日駅に出て菊坂の左の道をゆき、本郷森川町の秋声旧宅の前を通って、本郷三丁目から湯島、上野に到る……という、前々からのお気に入りの歩行コースをひさしぶりに歩いてみたいなと、ここ数日、この土曜日を心待ちにしていた。


そんなこんなで、いざ当日の朝を迎えて、まずは神田川方面へと歩いてゆく。強風のなかを必死の形相でゼエゼエと歩いて、向かい風に全身を襲われ、「あゝ おまへはなにをして来たのだと、吹き来る風が私に云ふ……」というような心境になったところで、高架下の神田川にさしかかったのだったが、こんな強風ではとてもではないけれど落ちついて歩けないなあ、無念ではあるけれども予定を変えた方がよさそうだ、あ、そうだ、ひさしぶりにあのバスに乗ってみようかなと思いついた。江戸川橋の停留所から音羽通りを通り、護国寺前で右折後、不忍通りをひたすら直進し、上野松坂屋が終点の都バスはかねてからのお気に入りであった。と、予定変更を思いついたとたん、にわかに元気を取り戻し、江戸川橋のバス停へと意気揚々と歩を進める。


都バスに乗るたのしみは、かつての都電に思いを馳せるたのしみでもある。神田川に架かる江戸川橋は、江戸川橋から須田町を結ぶ20系統と早稲田と厩橋を結ぶ39系統が交差していた。江戸川橋が始発の20系統は、江戸川橋から護国寺に到り、右折して、大塚仲町、氷川下町、丸山町、駕篭町……というふうに不忍通りをひたすら直進し、千駄木、上野公園、広小路、万世橋、終点の須田町に到る。現在の都バス「上58」系統(早稲田〜上野松坂屋)は、江戸川橋から先がかつての都電20系統をそのままなぞっている恰好なのだ。




《東京日日新聞附録 大東京最新明細地図 隣接町村合併記念》(昭和7年11月1日発行「東京日日新聞」第20197号 東京市内附録)より、江戸川橋界隈を拡大。当時の東京市電20系統は、矢来下から護国寺前が「音羽線」、護国寺前から駕篭町が「護国寺線」、駕篭町(千石1丁目)から上野公園が「動坂線」という名で呼ばれていた。


さて、大塚仲町の交差点の右下に「文理科大学」の文字が見える。この地図の発行される1年前の昭和6年10月、英国留学から帰国した福原麟太郎は東京文理科大学の助教授に就任している。この年の8月、帰朝直後の福原麟太郎は小石川区第六天町に一家を構え、敗戦時までこの町の住人だった。第六天町は、大塚仲町の交差点をこの地図でいうと右斜め下を行った先。春日通り沿いはわたしはあまりなじみのない界隈だけれど、戦前の福原麟太郎の生活圏だなと思うと、それだけで愛着が湧いてくる。




《文理科大学》、『大東京写真案内』(博文館、昭和8年7月)の「小石川区」のページに掲載。《大塚窪町の新緑の樹林に囲まれた一廓にある。昭和四年、広島の文理大と同時に開設されたもので、従来の高等師範と併置され、我が国師範教育の最高権威。近く市電大塚線を超えた向側茗荷谷に後藤新平男創設になる拓殖大学があり、お茶の水高師も、やがてお向ひの兵器支廠跡へ引越の筈。》という解説が添えられている。市電の「大塚線」は、大塚から伝通院を春日通りをまっすぐに走る路線。大塚駅から「都02」のバスに乗って、終点の錦糸町までゆくのもたのしそうだな、と明日のバス遊覧の夢が広がる。




昭和7年10月、東京市が郊外の隣接町村を合併して15区から35区に広がったのを記念して発行された版画集、『大東京百景 版画集』(日本風景版画会、昭和7年10月1日)より、横堀角次郎による版画と小文、《御茶の水高女の候補地》。

 竹早町に下車すると、すぐ前に高等小学校の建物がそびえてゐる。屋上にサイレンの装置がして有る、これから植物園の方へ下つて行くと共同印刷の新建築が有るとのことだ。電車道をそのまゝ大塚の方へ進む。文理科大学前、右がはがその入口で女子アパートがそびえて居る。左がはは、市営バスの車庫大きなタンクが目につく。一寸先へ進むと右がはに窪町小学校、左に茗渓会館、坂道を下つたところが窪町、右がはに高大な新築の建物が見える。女子高等師範である。庭に入つて今歩いて来た道を望んで、この図とした。
 図の右がは、新築中の茗渓会館、煙突は女子アパートと窪町小学校、木の間の坂道を自動車や電車が通る。この庭は草原で、子供が蟲を追つたりして遊んで居る。職工の住むバラツクは震災直後を想ひうかべる風景だが、工事の出来上がつた暁には、立派な物にならう。又この附近は学校街として落付た発展ぶりを見ると思ふ。

当時の町並みが髣髴としてくる気がする。



と、戦前昭和の福原麟太郎の生活圏ということで、「学校街として落付た発展ぶり」を見せていたこの界隈をちょいと追ってみたくなった。紙上のモダン東京探索の際にいつもたいへん重用している都市美協会編『建築の東京 大東京建築祭記念出版』(都市美協会、昭和10年8月20日発行)を参照すると、この界隈はやはり四角い学校の建物がたくさん登場している。




《同潤会女子アパート》(同潤会・大阪橋本組・昭5)。1930年代のはじまりとともに誕生した大塚の同潤会の女子アパート。こちらのサイト(http://www.metropolis-tokyo.com/doujunkai/ap/otsuka/01.html)を眺めてにうっとり。





上が《茗渓会館》(曾禰中條建築事務所・戸田組・昭7)で、下が《東京女子高等師範学校》(文部省・清水組・昭7)。いずれも、上掲の『大東京百景』当時、すなわち、35区の「大東京」成立時には竣工直後の真新しい建物だったわけだ。福原麟太郎がこの界隈に居を構えたのは、古い原っぱや職工のバラックと荘厳な近代建築とが混在している時期で、それは「東京35区」の縮図だったのかもと思う。




《大塚消防署》(警視庁・水内長吉・昭和6)。そして、上掲の大塚仲町の交差点の近くに大塚消防署のチャーミングな建物がそびえたっているのだった。これも1930年代東京!




路上観察学会『昭和の東京 路上観察者の記憶』(ビジネス社、2009年1月)の60ページを開くと、林丈二さんが旧大塚消防署であるところの「小石川消防署」を紹介している!

藤森先生に聞くと、ロマネスク建築の真似みたいな様式に、ルネッサンス風の装飾がついて、とにかくデタラメでおもしろい建築だという。デタラメでおもしろいから保存されないのか、残念ながら現存せず。

林さんの絶妙な解説ににんまり。



そして、大塚といえばまっさきに思い出すのは、野口冨士男の小説『風のない日々』のこと。野口冨士男著『いま道のべに』(講談社、昭和56年11月)の一篇、「狐――大塚」(初出:「群像」昭和56年4月)では、

「伝通院のあたりまで行ってください」
 私はN君と眼の前に地下鉄丸の内線の駅もある新大塚のバス停あたりまで歩いてからタクシーを拾うと、運転手に告げた。
 取材のための歩行にあたって私はタクシーを利用することはめったにないので、それは例外中の例外であったが、大塚から伝通院までの間にはなんの関心もなかったからでもある。

荷風の生家のあった金剛寺坂から伝通院に到る道を歩くのは、野口冨士男の文章を読んで知ったたのしみなのだったが、伝通院に向かうときに横断する春日通りの左方向、すなわち福原麟太郎が戦前に住んでいた界隈のことをいままでほとんど気にとめたことがなかったのは、野口冨士男の《大塚から伝通院までの間にはなんの関心もなかった》に無意識のうちに感化されていたせいかも。しかし、例外的にタクシーで通過しつつも、伝通院の手前の界隈について、上掲の一節のすぐあとに、

大塚の花柳界あたりにも地形の高低があるが、春日通りも通り自体は平面でも左右はかなり落差のある低地で、いわゆる馬の骨の背の部分にあたる。小石川四丁目から左へくだる大きな坂は一名禿坂ともいわれる吹上坂で、坂下には徳永直が『太陽のない街』に書いた共同印刷がいまでもあるし、反対に右側の社会福祉会館と茗台中学の間をくだる幅の狭い石段の急坂は庚申坂で、坂下から逆に正面へ登る急坂が切支丹坂だから、そのあたりはまさに坂のある町々である。

と、緻密にヴィヴィッドに綴ってくれるのが、いかにも野口冨士男なのだった。この庚申坂と切支丹坂のある町がまさに福原麟太郎が戦前に居を構えていた「第六天町」。





午前9時半、「池之端二丁目」で下車。停留所のまんまえに「旧都電停留所(池之端七軒町)」の看板とともに、「都電7500形(7506号車)」の車両がフェンスの向こうに鎮座していて、「おお!」と思わず小走り。都バスに乗ってかつての都電に思いを馳せた直後に目の当たりにすると、ひときわ嬉しくって、頬が緩む。

 昭和30年代の都電全盛期の時代には、20系統(江戸橋〜須田町)、37系統(三田〜千駄木二丁目)、40系統(神明町車庫前〜銀座七町目)と三つの路線が走っていた区間でしたが、昭和42年(1967年)12月に37、40系統が廃止、昭和46年(1971年)3月には20系統も廃止になり、池之端七軒町(廃止時は池之端二丁目に改称)の停留場は姿を消しました。
 平成20年3月、都電停留所だったこの場所に都電車両を展示し、地域の歴史が学べ、まちのランドマークとなる児童遊園として整備しました。

という説明書きをフムフムと読む。




看板の解説に添えられていた写真。「20系統」が停車中。「昭和45年1月1日撮影」とあった。雑誌『東京人』2007年5月号《特集・昭和30年代、都電のゆく町》にて、加藤丈夫さんが20系統に乗った通学時を、《私は千駄木小学校と開成の中学高校に通った七年間、東大赤門前から19番に乗って上富士前町に行き、そこで20番に乗り換えて道灌山下まで行った。帰りはその日の天候と気分次第で、団子坂を上り森鴎外の観潮楼の横を抜けて家まで徒歩で帰ることもあったし、道灌山下から池ノ端七軒町まで行き、そこから東大の構内を歩いて抜けることもあった。》というふうに回想している。いいなあ……。20系統は、お父上の加藤謙一の通勤コース(大日本雄辯會講談社)でもあったのは確実。





と、本棚の奥に眠っていた雑誌『東京人』2007年5月号《特集・昭和30年代、都電のゆく町》をひさびさにとりだしてみると、たいへん充実した誌面に感激だった。表紙は、《建設中の東京タワーを背景に、赤羽橋を走る3系統。昭和33年5月撮影(写真・伊藤昭)》。


このたび、ひさびさに『東京人』の都電特集を参照してみたら、20系統がちょくちょく登場しているのがとても嬉しかった。昭和26年に神明車庫前に転宅した近藤富枝さんは、《叔母の嫁いだ菊富士ホテルには20番の江戸川橋行に乗り、次の上富士前町で19番に乗りかえ本郷三丁目によく通った。》とのこと(p34)。この文章の隣りに、《上富士前町を走る20系統。昭和43年12月撮影(写真・荻原二郎)》が配置されていて(p35)、いつもながらに荻原二郎先生の写真はなんとすばらしいのだろう! そして、神明車庫の建物がなんとなくモダンなのが嬉しい。神明車庫は現在「神明町車庫跡公園」になっていることを知ったことも興奮だった。さらに、この公園には「乙2 昭和16年製造。木製2軸電動貨車乙1形の2両のうち1両」と「6043 昭和24年製造。荒川線で走り続け、53年に廃車」が保存されているのこと(p104)。いつか絶対に行く!


都電20系統は「コレクター訪問」のページでも詳述されていて(p64-65)、そして圧巻が、出口裕弘さんの『都電、市電、ポンポン蒸気 ある遠景』(p86-91)。書き出しからして、

「上野公園」で乗って「音羽三丁目」で降りる。これが行き、帰りはその逆だ。系統番号20の都電が、前後三年間、私の通勤の足だった。

というから、たまらない。昭和26年から29年の三年間、堀切菖蒲園駅から京成線で上野へ出て、公園下の停留所で20番の都電に乗る、という通勤コースだった。

……二十二歳の新米教師は、「上野公園」と記された停留所で須田町から来た20番の都電に乗った。電車は不忍池のすぐ東側をしばらく専用路線で北西に向かって走り、まず「池之端七軒町」に停まる。ここまでが台東区、次の「根津宮永町」から文京区になる。「根津八重垣町」「団子坂下」「駒込坂下町」「道灌山下」「駒込動坂町」「神明車庫前」「上富士前町」「駕籠町」「丸山町」「氷川下町」「大塚仲町」「護国寺」そして「音羽三丁目」(この路線、みごとに文京区の北半分を縁取っている)。

そして、このあと、《都電ならぬ都バスが、まことに忠実に、昔の道を走り、昔のとおりに乗客を運んでいた》ことを報告している。まさにそのとおり、現在の都バス「上58」系統(早稲田〜上野松坂屋)がかつての都電20系統をそのまんまなぞっているのは、かえすがえすもたのしいことだ。





野口冨士男『白鷺』(大日本雄弁会講談社、昭和24年5月15日)。装幀:岡鹿之助。「池之端七軒町」と聞いて、すぐに思い出すのは野口冨士男の短篇小説『池ノ端七軒町』のこと。初出は「日本文学」昭和24年1月号で、本書『白鷺』に収録され、『野口冨士男自選小説全集』(河出書房新社、平成3年7月)に再録されている。初出誌の「日本文学」は和田芳恵が編集していた雑誌。『池ノ端七軒町』執筆当時について、野口冨士男は、

 敗戦直後のことだが、私は凧屋の娘が少女時代に凧揚げをしていて知り合った少年と、戦争を間にはさんで恋仲になるというプロットの小説を書くために、東京の地図をひろげてみたことがある。その地図は、戦災で焼失した地域がピンク色で示されているものであったが、私は作中人物に凧揚げをさせるためになるべく宏大な感じのする広場をさがしものとめて、代々木練兵場でもない、戸山ヶ原でもないと迷った末に不忍池をえらんだ。
 不忍池で凧揚げをするなどという設定は私に関するかぎり、実際に上野を歩いたのではとうてい想いつかない。地図から得たヒントであり、その上にふくらんだロマンであったから、原稿を書いている途中で何度か現地へ行ってみたい誘惑にかられても、ついにその欲望をおさえ通して、記憶のなかにある上野だけで書き上げてしまった。自身のイメージを、大事にしたかったからであった。

と書いている(「都内あるき」(初出:「朝日新聞」昭和48年3月10日-『断崖のはての空』(河出書房新社・昭和57年2月)所収)。





野口冨士男が愛用していた『コンサイス 東京都35区区分地図帖 戦災焼失区域表示』(日本地図株式会社、昭和21年9月15日発行)の復刻版(日地出版株式会社、1985年3月10日発行)より、池之端七軒町界隈を拡大。こうして部分だけ取り出すとわかりにくいけれども、上野公園のまわりが「戦災焼失区域」のピンク色に覆われている一方で、上野公園だけがすっぽりと抜けている。隣接する「池之端七軒町」はピンクに染まっていて、戦災で焼失してしまった町のそのすぐ隣りの上野公園一帯は戦前のままの風景だった。その鮮やかなコントラスト。そんな東京地誌を根底にした小説の効果は見事なほど。





『建築の東京』で見つけた《池の端 松方日ソ給油所》の写真、竣工年月日記載なし。この道路の向こう側の斜め右あたりに池之端七軒町の停留所があった模様。このガソリンスタンドも戦災にあってしまったのかな。





そんなこんなで、午前9時半、池之端二丁目で下車して、上野公園の敷地に沿って、本日最初の目的地「国立国際こども図書館」に向かって、ゆっくりと歩いてゆく。




前掲の《東京日日新聞附録 大東京最新明細地図 隣接町村合併記念》より、池之端七軒町と上野公園を拡大。この地図の左端の池之端七軒町から、最上部真ん中に位置する図書館に向かう。


この道は前々から大のお気に入りの散歩コースなので、たまに歩く機会があるとそれだけで嬉しい。バス停の先の森鴎外旧居跡の「水月ホテル鴎外荘」のところで左折し、ほどなくして並びに、昭和4年竣工の「旧忍旅館」の建物。清水坂をのぼって、芸大の脇に出る。風に揺れる木々の葉のザワザワした音だけがかすかに響いていて、空気はひんやりと頬に心地よく、そしてどこまでも静寂で、ここ二週間というもの気が滅入ってばかりだったけれども、こうして静かな路地を歩いていると、だいぶ気持ちが平静になってくる気がする。たとえて言うならばチェーホフを読んでいるような感覚。なんとはなしに『ワーニャおじさん』のラストのソーニャのセリフが頭に思い浮かんだ。


近代建築もよいけれども、お寺の木造の建物もいいな、いいなと歩を進めて、いい気分で遠回りをして、寛永寺の手前で右折して、図書館の前に到着。今日は通常より30分遅れの午前10時の開館と貼り紙があり、それまでの数分、並びの黒田記念館を眺めて、道路を横断して、博物館動物園駅の建物をゆるりと見物して、ふたたび図書館に戻ると、ちょうど扉が開いたところ。




博物館動物園駅の壁の向こうに黒田記念館の建物が見える。このランプは去年2010年に復元されたものだという。ランプの下の解説プレートに、昭和8年の竣工時は6灯の照明器具が三方に開いた出入口を照らしていたのが、戦時下に金属供出により撤去された、とある。




ふたたび、路上観察学会『昭和の東京 路上観察者の記憶』の66ページを開くと、またもや林丈二さんが今度は「京成博物館動物園駅」を紹介している。

石の壁にピラミッド状の屋根。国会議事堂を真似たような駅だが、実際はこの駅のほうが議事堂より三年早く完成した。一度だけホームに下りてみたことがあるが、戦前の匂いがした。地下にあった駅は廃止されたが、駅舎は現在も保存されている。

京成が日暮里から延びて上野に達したのが昭和8年12月10日、「上野公園駅」の開業と同時に博物館動物園駅と寛永寺坂駅が誕生した。上野の地下の「東京昭和八年」。




展覧会図録『高梨豊 光のフィールドノート』(東京国立近代美術館、会期:2009年1月20日-3月23日)の76ページを開くと、「戦前の匂い」がする博物館動物園駅のホームの写真(1986年撮影)。隣りのページの銀座線稲荷町駅の写真が配置されていたりと、グッとくる写真のオンパレードで宝物の図録なのだった。博物館動物園駅は1997年4月1日に休止され、2004年4月1日に廃止となったというから、結構最近まであったのだなあ。一方、「寛永寺坂駅」は昭和28年2月23日、小津安二郎の『東京物語』と同年に廃止されている。




正午過ぎ。カリカリと図書館で調べものを済ませて、ふたたび外に出る。あいかわらず風は強いけれども、よいお天気。あいかわらず空は真っ青だ。博物館の前の道を直進し、両大師橋を渡って、旧下車坂町の地に降り立つ。







小津安二郎『東京物語』(昭和28年11月3日封切)より、寛永寺の門前に座って、南京豆を頬張っていた笠智衆と東山千栄子が、両大師橋を渡って、代書屋をしている同郷の旧友・十朱久雄を訪ねるまでのシークエンス。両大師橋の下の広大な線路は映らず、おなじみのローアングルでのショットで、東京の空が引き立つ感じ。橋梁はまったく別になってしまっても、両大師橋を渡っているときは、いつもこの映画そのまんまの高大な空を感じる。




前掲の『コンサイス 東京都35区区分地図帖 戦災焼失区域表示』の「浅草区、下谷区」のページより、上野から浅草までの道のりを拡大。戦災焼失区域を示すピンク色の浅草と、ピンクに染まっていない上野とのコントラスト。




桑原甲子雄《下谷区上野両大師橋》(昭和11年)。下谷区車坂町の住人だった桑原甲子雄にとって、両大師橋は庭のようなもので、何枚も写真を撮っている。桑原甲子雄『東京 1934〜1993』フォトミュゼ(新潮社、1995年9月)の巻末の著者解説で、《この階段を上がった橋の上から、レールが何十本も流れているのを見おろし、往き来する汽車や電車を眺めて飽きなかった》と回想して、両大師橋を《上野公園の高台から線路をまたいで下町へ降りてゆく陸橋》と定義づけている。




両大師橋からぐるっと、旧下車坂町の地に降りたち、浅草に向かうべく、「かっぱ橋本通り」の入口に差しかかると、目の前に建設中のスカイツリーがそびえたっていて、それはそれは見事な光景だった。業平橋のスカイツリーがここからこんなに間近に見えるとは思わなんだ。にぎやかで古びた商店街の光景が目に愉しく、途中ちょっとしたおやつを買ったりなんかしつつ、スカイツリーを眼前にいい気分で浅草に向かって、通りを直進する。この「かっぱ橋本通り」を直進すると、国際通りの公園六区入口に行きつく。ここから、浅草に入るコースが前々から大好きだーと思わず小走りになって信号を渡って、六区に入る。おなじみの250円の弁当屋の前を通るとそれだけでいつもなぜかニヤニヤしてしまう(買ったことはないけど)。


両大師橋をくだって、上野から浅草まで直進してきた「かっぱ橋本通り」は、浅草区の旧町名の「芝崎町」と「田島町」の境界になっている。荷風の『ひかげの花』(初出:「中央公論」昭和9年8月)に登場する、《浅草芝崎町の天岳院に日輪寺という大きな寺のあるあたり、重に素人家のつづいた横町》の《洗濯屋の二階》のことを思い出して、六区に入り、続いて《横町の片側は日輪寺のトタンの塀であるが、彼方に輝く燈火を目当に、街の物音の聞える方へと歩いて行くと、じきに松竹座前の大通に出る。》というくだりを思い出しつつ、ひさしぶりに、ローヤル珈琲店にゆく。




ふたたび桑原甲子雄の写真、《浅草公園六区帝国館横》(昭和10年)。桑原甲子雄『東京 1934〜1993』フォトミュゼ(新潮社、1995年9月)の巻末の著者解説は、《現在の ROX ビルが建っているあたり。左は松竹座。帝国館の隣は富士館。富士館のサイレントのチャンバラ映画には耽溺した。町田旭昇、鈴木梅龍といった弁士の名をおぼえている》。




ローヤル珈琲店でコーヒーを飲んで、サンドイッチをつまむ。ローヤル珈琲店はずいぶんひさしぶりだったけれども、あいかわらず居心地がよいなあ! と上機嫌になって、ふたたび外に出て、浅草名画座の前を通りかかり、メラメラと近日の来訪を決意しつつ、本日2番目の目的地、浅草三業会館へとズンズンと歩を進めて、午後2時より「雲助蔵出し」。本日は『やかん』『佐野山』『お若伊之助』の三席なり。


午後4時過ぎ。ふたたび外に出て、雲助さんの落語会があんまりすばらしかったので、すっかりハイになってしまい、吾妻橋に向かって、駆け足。叫びたいくらいにすばらしかったので、思わず走ってしまった次第であった。前々から琴線に触れて仕方のない東武ビルディング裏手の東武線の高架下を通り、吾妻橋を渡ると、スカイツリー見物の人びとで歩道は結構混みあっている。本所吾妻橋から、ふたたびバスに乗る。業平橋・新橋間を走る「業10」の都バスは、これまたかねてよりお気に入り路線。のんびり銀座へと小一時間揺られてゆくのだった。朝からハリきって疲れてきたのかいつのまにかスヤスヤと寝入ってしまい、目を覚ましたら、バスはちょうど晴海にさしかかったところ。銀座4丁目の2つ手前の築地6丁目のバス停で下車して、のんびり歩を進めて三原橋に到着したところで、日没。いい一日だったなあと、午後6時。




前掲の『コンサイス 東京都35区区分地図帖 戦災焼失区域表示』の「日本橋区、京橋区」のページより、月島と築地界隈を拡大。「業10」のバスにのって勝鬨橋や月島を通ることで体感する「水の東京」が格別なのだった。月島や築地界隈は大部分が戦災の被害にあっていない。






小津安二郎『長屋紳士録』(昭和22年5月20日封切)より。築地本願寺の裏手の水辺で釣りをする子供たち。