秋日和関西遊覧その3:武庫川から阪神国道へ。住吉と御影。

(※前回の2010年9月26日付けの関西遊覧日記の続き。午前のバスに乗ってモダン大阪遊覧のあとに続く、午後の阪神間遊覧日記です。)

武庫川から阪神国道へ。大庄町の村野藤吾。浜田車庫発野田行きのバスに乗り、「阪神国道線」に思いを馳せる。


正午過ぎ、大阪市バスを難波で下車したところで、本日の大阪町歩きはおしまい。午後からは、極私的「阪神間モダニズム」探索なのだった。という次第で、まずは難波から阪神なんば線に乗って、尼崎方面へ向かう。かつて「西大阪線」という名称だった阪神電車は、尼崎から西九条まで運行していた。以前に一度だけ乗ったことがあって懐かしいのだったが(2008年6月)、その西大阪線は今や大阪難波にまで伸びて、2009年3月に「阪神なんば線」となり、近鉄電車と連絡して奈良と神戸を1本で結んでいる。




午前中に掲載の戦前の《阪神電車沿線案内》の反対側の表紙。阪神沿線の風物が表と裏の全体にチャーミングに図案化されている。



この《阪神電車沿線案内》より、千鳥橋・尼崎間を拡大。阪神西大阪線はかつては「伝法線」という名称で、大正13(1924)年1月に大物・伝法間が開通し、同年8月に伝法・千鳥橋間が開通し、昭和3(1928)年12月28日に大物・尼崎間が開通した。昭和39年5月に伝法・西九条間が開通して「西大阪線」となるまで、ながらく「伝法線」がこの経路を運行していた。


難波からの電車は近鉄の車両だった。大混雑だった車内は大阪ドームの最寄り駅で一気に閑散となったところで、九条にさしかかり、安治川を渡る。いつか安治川界隈を歩いてみたいものだなあと、車窓をたのしみつつ将来の大阪町歩きに思いを馳せているうちに、伝法駅を発車して、電車は新淀川を横断。

 姫島、大和田の村々は、昔から川魚の本場で、特に大和田の「鯉つかみ」は有名であつた。昔はこゝを大物と呼んで、大阪における船舶の集散地であつた。それに大野、福、難波、九條、野田など……みな川魚が盛んであつた。勝間浦の海苔、野田のうなぎ、九條、野田の蜆貝、木津難波の蛤……と「摂津志」は書いている。
 しかし、いまでは、魚の棲むやうな川筋は全くなくなつてしまつた。諸川から吐き出す土砂のため年々海は浅くなつて行く。石油船の音響で魚類は追ひまくられる。工場からは油を流して、川といふ川はみな汚水を湛へる。それに地形の変遷、新淀川の開墾、埋立、或ひは閘門の築造など自然水流は澱んで動かなくなり、魚の棲息によい條件は何一つとしてなくなつてしまつた。

と、これは、北尾鐐之助の『近代大阪』(創元社、昭和7年12月刊)所収の「新淀川漫歩」のなかの一節。海に程近い新淀川の水面の上をゆきつつ、工場の密集地帯を車窓からのぞむのはそれだけでたのしい。ここに限らず、電車で新淀川を渡るのはいつだって特別の瞬間で、いつもクッと身構えてしまう。



大物で阪神本線に合流して、次は尼崎。いつもなぜか心惹かれる旭硝子の工場を車内から撮影。尼崎駅界隈から海の方向の眺め、工場の眺めがいつも大好き。尼崎駅直前のどこかの工場では煉瓦ののこぎり屋根工場をはじめとして、見どころたっぷりの工場を散見できて、「おお!」と興奮だった。あっという間に通過してしまい、残念。



阪神電車を武庫川で下車。この駅を下車するのは5年ぶり。武庫川の上に架かるという独特の駅構造が嬉しい。



改札の外に出ると、ホームの裏手が武庫川に架かる橋になっている。




駅の外に出て、さア、5年ぶりに古本屋さんの「街の草」へ参りましょう! と、日曜日の午後ののんびりした駅前の雰囲気に和みつつ、テクテクと歩いてゆく。



5年ぶりに訪れた「街の草」は5年前に初めて訪れたときとまったく変わらないたたずまい。その変わらない風情にたいへん和む、昼下がりのひととき。あれこれ迷った末の、本日のお買い物は、竹内勝太郎と秋山清の詩集。昨日の長瀬の古本屋の小野十三郎に引き続いて、詩集ばかり買っている。



街の草を背にふたたび元来た道を戻る。商店街のアーケードの端っこの酒屋さんの「アサヒビール」の看板が素敵。


そのアーケードを直進し、左折すれば武庫川駅という線路沿いの道を右折して、阪神電車の高架をくぐって、隣駅の尼崎センタープール前駅の方向へとテクテク歩く。「尼崎センタープール」というのは、競泳場ではなくて競艇場なのだそうだ。


今朝、阪神電車で野田へゆき、野田から天六行きの阪神バスに乗って、かつての「阪神北大阪線」の路線をたどって、近代大阪を走っていた路面電車を頭に思い浮かべて悦に入っていた。北大阪線には、2009年3月の関西遊覧の折に、北尾鐐之助の『近代大阪』所収の「高架線の中津」の真似をして中津を歩いたときに、初めて思いが及んだのだったが、その一方、2009年12月に、戦前の《阪神電車沿線案内》を参照しながら、梅田から三宮に移動したときには、東神戸から野田の間を運行していた路面電車、すなわち「阪神国道線」の存在に初めて目を見開かされて、いつの日か、阪神国道を走る阪神バスに乗って、阪神国道線に思いを馳せてみたいなとフツフツと思ったものだった。都バスに乗りながら、かつての都電に思いを馳せるのとおんなじように。と、将来の「阪神間モダン探索」のたのしみに胸は躍るばかりだったのだけれど、このたびの秋日和関西遊覧においては、北大阪線のバスに乗るという長年(でもないが)の夢が実現をみたわけで、勢いにのって、阪神国道線の方も実行に移せないものかどうかと思いついたところで、本日午後の行程表が綿密に練り上げられたのであった。


という次第で、阪神電車を下車し、阪神バスに乗るべく阪神国道に向かって歩いてゆくことになったのであるが、なんとまあ嬉しいことに、阪神電車の線路と阪神国道の間に位置する、水明公園と蓬川公園という名の公園に阪神国道線の往年の車両が保管されているというではありませんか(Wikipedia を参照して知った)。阪神国道を走る阪神バスに乗って「阪神国道線」に思いを馳せる、その前に往年の車両を見ることができるのはもオツなことだなア! と、知ったとたんに大喜びだった。これは行かないわけにはいかない。



武庫川からテクテク歩いて、阪神電車のガード下をくぐり、隣駅の尼崎センタープール前駅近くにたどりついた。競艇場を右手に阪神国道の方向へちょいと直進した先、ちょうど競艇場の裏手に位置するように水明公園がある。



本当に阪神国道線の電車が保管されているのかしらと不安になりつつ、おそるおそる園内に足を踏み入れる。もしここに電車がなかったらその絶望からわたしは立ち直れるだろうかと心配だったのだが、すぐに、隅にひっそりと阪神国道線の車体らしきものがあるのが視界に入り、心配は一瞬で払拭し、思わず小走り。ずいぶん色褪せていて、哀愁すらただよっているが、電車は本当にあった!



間近で見ると、ますます色褪せている阪神国道線の車体。これは「71形」という車体。《この阪神電車は、昭和2年7月西野田〜東神戸間が開通して以来、昭和50年5月までの48年間、私達の足として長年親しまれてきたことを記念し、郷土の歴史の一環として保存、展示するものです。この電車は昭和12年2月汽車会社で生まれました。…(後略)…》という説明書きが付されている。



《71形77号甲子園線(昭和11年11月3日)》、小林庄三『神戸市電・阪神国道線』(トンボ出版、1998年2月1日)より。阪神間モダンを体現するかのような写真。車内にはたくさんの帽子をかぶった子供たち。阪神パークに行楽に出かける家族連れ。



上掲の《阪神電車沿線案内》より、甲子園附近を拡大。戦前の阪神沿線でもっとも胸躍るのは、もっともにぎやかな甲子園界隈だ。上甲子園駅から国道線の支線というかたちで「甲子園線」というのがかつて運行していた。



《完成せる浜甲子園健康住宅経営地》、『工事画報 昭和十一年版』(株式会社大林組、昭和11年6月25日)より。上掲の「71形」と同時代の浜甲子園の住宅地。



同じく、小林庄三『神戸市電・阪神国道線』より、《71形71号甲子園テニスコート前(昭和12年5月16日)》。出来たてほやほやの「71形」は、庭球場の近くを走っている。たぶん「71形」が一番輝いていた時代。



と、ここで、今朝、野田から天六まで阪神バスに乗って思いを馳せていた北大阪線の「71形」を思い出して、小林庄三『神戸市電・阪神国道線』に掲載の《71形73号天神橋筋六丁目(昭和48年9月25日)》を再掲。こちらは昭和50年5月の引退を間近に控えている時期。



一見ごくありふれた住宅街という雰囲気だけれど、尼崎センタープール前駅から阪神国道に向かって歩く途中に位置する尼崎市大庄町は、絶好の「阪神間モダニズム」スポットなのだった。1930年代の阪神間と大阪市中の道路を走っていた「71形」が保存展示されている水明公園だけでも大喜びなのに、水明公園を出て阪神国道に向かって歩を進めて二番目の交差点の左先に位置する「尼崎市立大庄小学校」はきれいに補修されてはいるけれども、1930年代阪神間モダン建築のありようを濃厚に残しており、さらに、その大庄小学校の隣りには「尼崎市立大庄公民館」が、すなわち昭和12年竣工の村野藤吾の設計による旧大庄村役場が鎮座している。



水明公園を出て阪神国道に向かって歩を進めて二番目の交差点を右折して、歩道橋の上から大庄小学校と大庄小学校をのぞむ。建築もすばらしいけれども、阪神間に来るといつもまっさきに感激するのは、低山の連なりの眺め。しばし眺めて、いつも心がスーッとなる。



大庄小学校を正面からのぞむ。このいかにもモダンな形状と窓の配置が嬉しい。阪神間モダン探索のわが必携書、「阪神間モダニズム」展実行委員会編『阪神間モダニズム』(淡交社、1997年10月)所収の、梅宮弘光氏の論考「阪神間の公共建築 ポピュラリティーの表象」がかねてより大のお気に入り。

 日本の近代化過程でポピュラー・アーキテクチャーが出現する時期は、阪神間では都市化に拍車がかかる時期である。鉄道や私鉄の敷設など明治初期以降順次進められてきた阪神間の交通整備は、昭和二年(一九二七)の阪神国道開通で基本的骨格が完成する。こうした基盤の上に、ポピュラー・アーキテクチャーとしての公共建築が出現するのである。

かねてから思い入れたっぷりの御影公会堂も阪神国道沿いだったことを思い出す。

 急激な人口増加にともない、昭和期に入ると阪神間でも多くの鉄筋コンクリート造の小学校校舎が建築された。その設計が基本的には標準化されていたのは、すべての子どもの就学を求め、階級、男女、貧富の差のない単一的な教育課程がめざされた小学校という施設は、教科書やカリキュラムと同様に国民化のための装置だからである。阪神間の小学校校舎の設計には、清水栄二や古塚正治といった自営建築家も関わっていて個性的な意匠もみられるが、そうした微差をはるかに超えて国家規模のポピュラリティ―が覆っていたのである。

と、大庄小学校はまさにそんな「阪神間モダニズム」の典型の建物。同書に紹介されている学校建築を眺めて、今後も折に触れ、学校建築を軸に阪神間を歩くのもいいかもと将来の遊覧のたのしみが広がる。



村野藤吾の大庄村役場(左)と大庄小学校(右)の間の道路に架かる歩道橋から、右手の大庄小学校を望む。昭和2年5月18日に阪神国道が開通し、やや遅れて同年7月1日に阪神国道線が開業した。モダンな外観を残している小学校を遠くから眺めながら、上掲の1930年代の「71形」の車内に乗って甲子園に行楽に出かける子供たちのことをなんとはなしに思い出すのだった。



歩道橋に立って右手には大庄小学校、そして左手には旧大庄村役場、現・尼崎市立大庄公民館。



村野藤吾による昭和12年設計の大庄村役場は、村野にとって最初の庁舎作品であった(『村野藤吾 建築案内』)。ワオッと路面に降りて、大庄村役場の建物に向かって小走り。上の写真に写る左の塔の真下に行ってみると、歩道橋上から眺めていたときは想像もできなかったような曲線になっていて、いざ目の当たりにすると、その流線型が実に見事に道路の形状と調和している。



その脇道を直進して、まわれ右。背後からのぞむと、またもや想像もしていなかったような複雑な造形が目にたのしい。『村野藤吾 建築案内』(TOTO 出版、2009年11月)によると(越後島研一氏の解説)、

小規模だが造形は複雑で、方向により異なる表情が目を楽しませる。背後の西側では、階段状を目立たせ、その足下の平屋部分の壁面が、敷地に沿って流れていた水路(現在は道路)をなぞって湾曲。塔も、頂部は打ち放しコンクリートの櫓となり、側面にはレリーフがある。外装が当時の彼が好んだ塩焼きタイルで、基本は焦げ茶色だが、近づくほどに、赤っぽくも、黒っぽくも見える。

とのことで、フムフムとうなづくことしきり。かつて小川が流れていたという道路から建物をのぞむと、建物全体が船舶のような表情をも見せる。



左端の塔の真下に立って、建物を見上げる。



やや後ろに下がって、大庄村役場の入口をのぞむ。『村野藤吾 建築案内』所収の解説によると、高くない塔が立ち前面に中庭のある設計は、村野が渡欧した折に感動したストックホルム市庁舎(ラグナル・エストベリ設計・1923年)に似ているとのことで、気になって取り急ぎ Wikipedia を参照してみたところ、ストックホルム市庁舎は早稲田大学の大隈講堂の建築にも影響を与えていると知った。大隈講堂も正面左の塔が目に愉しい建物。近代建築の影響の連鎖がおもしろいなアとしみじみ。



上の写真の右端に写るエントランスの天井は、いざその真下に行ってみると、またもや想像もしていなかった曲線を描いている。



このエントランスの後ろにゆき、建物の左手にはこんなレリーフが。



そして、エントランスの正面上部にあるレリーフ。細部の尽きない面白さに建物見物の興奮も尽きないのだった。


炎天下の下、武庫群大庄村界隈における「阪神間モダニズム」に興奮のあまり、阪神国道沿いに向かうその前にちょいと足を伸ばすことにして、大庄小学校の裏手の道をテクテクと武庫川を背中に、蓬川に向かって歩く。せっかくなので、蓬川公園の「71形」の見物にも行ってみることに決めた。村野藤吾に興奮のあまりボルテージがあがり、思わず足を伸ばしてしまったが、炎天下のこれといった視覚的たのしみの見当たらない直線道路を歩いて、蓬川公園に到着するころには息も絶え絶え、園内にひっそりと保存されている「71形」を目の当たりにしても、先ほどの水明公園のときほどには意気はあがらない。



「71形」の近くのベンチでちょいと休憩。静かな日曜日の午後。



蓬川公園をあとにして、阪神国道に向かってテクテク。「崇徳院」という住居表示を目にしたとたん、頭のなかが落語の『崇徳院』一色になる。「瀬をはやみ〜」という志ん朝の声が頭のなかに鳴り響く。



と、「瀬をはやみ〜」を頭のなかで鳴り響かせながら、炎天下の道路を無心に歩いて、ようやく念願の阪神国道に到着。特になんということもないような国道沿いの殺風景な町並みであるが、いざ目の当たりにすると、万感胸に迫るものがある。それほどまでにわたしの阪神国道に対する思いは深い。



武庫川駅を下車して、尼崎センタープールから阪神国道に向かってテクテク歩いて、旧大庄村役場から蓬川公園に向かって歩いて、崇徳院を経由して、阪神国道に到着し、歩道橋の上に立つ。



阪神国道の歩道橋から六甲の山なみをのぞむ。住居表示ではここは「尼崎市浜田町」。阪神国道沿いの、あえて浜田町まで歩いてきたのは、その地名に親しみが湧いたというわけではなくて、阪神国道線に思いを馳せつつ、阪神国道を通るバスに乗ってみたいなと思いついたあとで、「浜田車庫」の存在を知ったのがきっかけだった。阪神国道線には昭和2年7月1日の開業当初から「浜田車庫前」という駅があり、それが現在の阪神バスの停留所の名として残っているのを知って、ちょいと興奮だった。



《浜田車庫(昭和49年3月16日)》、小林庄三『神戸市電・阪神国道線』(トンボ出版、1998年2月1日)より。かつて「浜田車庫」には国道線の車両がたくさん停まっていた。先ほど、水明公園と蓬川公園で立て続けに目にした「71形」もこの車庫にたくさん停まっていた。



感激だったのは、かつて国道線の電車がたくさん停まっていた浜田車庫は現在は阪神バスの車庫としてそのまま継続しているということ。そして、さらに感激だったのは、かつての浜田車庫の広大な土地の一部が「阪神タイガース浜田球場」という名の野球場になっているということ。阪神電車沿いの甲子園球場のことは知っていたが、阪神国道沿いにも阪神の球場があったとは、このたび阪神国道来訪を決意するまでまったく知らなかった。



関西に来ると、いつもなぜか、現存、非現存を問わず、球場のある(あった)場所をちょいと遠くからのぞむのがたのしい。前々から、阪神電車の車窓から甲子園が見えてくる瞬間が大好きだったけれど、南海電車の難波から見えた球場跡、阪急電車から見えた西宮球場の跡地、森ノ宮駅の近くの日生球場に、うっかり寝てしまい見逃してしまった近鉄電車の藤井寺球場……。阪神本線沿いに甲子園球場が威容を誇る一方で、殺風景な阪神国道沿いには車庫の裏手にひっそりと阪神の球場があるというのがいいではありませんか、と阪神国道から浜田球場をのぞむのをたのしみにしていたものだった。念願かなって、やれ嬉しや。



歩道橋の上から浜田球場をのぞんで、道路を横断して、次は現在の「浜田車庫」をのぞむ。外からはよく見えないけれども、阪神バスの車庫。



前掲の《阪神電車沿線案内》より、阪神国道線の浜田車庫・野田間を拡大。画像不鮮明ではあるけれども、左端の浜田車庫の隣駅は西難波で、その手前に蓬川が流れている。朝の「北大阪線」の野田・天六間に引き続いて、本日2本目の阪神バスは昼下がりの「国道線」の浜田車庫・野田間のバス。「北大阪線」と同様に、こちらの「国道線」も野田までゆくバスは本数が極端に少ない(午後は12時40分、14時30分、16時20分で、最終が19時30分)。「阪神杭瀬駅北」「阪神尼崎」行きは本数が多いのだけれど、ここはぜひとも野田行きにこだわりたかった。



バス停前のベンチにぼんやり腰かけて、浜田車庫発野田駅行きのバスが来るのをを待つ。御堂筋を通る大阪市バス103系統に乗る前は、堂島川沿いの喫茶店でコーヒーを飲むことができたけれども、こちらはこれといった店は見当たらない。大阪の「都市の中心」と阪神国道沿いの「都市の周縁」という、「モダン関西」当時そのまんまの感覚をヴィヴィッドに体感したひとときだったともいえる。



時刻表が指し示す14時30分が近づいてもバスがやってくる気配はまったくなく、本当にバスは来るのだろうかと不安になっていたら、時計の針が2時半をまわったとたんに何の前触れもなく正面の浜田車庫からものすごい勢いでバスが突進してきて、びっくりであった。


ともかくも、浜田車庫発野田行きのバスに無事に乗りこんで、ほっと胸をなでおろす。ほかに乗客はおらず、貸切状態でバスは阪神国道を淀川に向かって、疾走してゆく。かつての阪神国道線の路線図の上を走るバスに乗って、野田へと向かう。



《阪神国道》、『西日本現代風景』(「大阪毎日新聞」附録、昭和6年9月5日発行)より、《大阪西野田から、神戸敏間まで、二五・九キロ、中央には阪国電車、高速度、緩速度二ツの車道、それを区切るプラタナスの並木、日本一の近代的大道路である》。



さて、阪神国道といえば、まっさきに思い出すのは、なんといってもダンス・ホール!



《尼崎ダンスホール》、照明学会編『照明日本』(社団法人照明学会、昭和11年11月28日)に掲載の写真、ゆまに書房「コレクション・モダン都市文化」第21巻『モダン都市の電飾』(2006年12月15日)より。



《阪神会館 ダンスパレス(竣工:昭和5年12月、設計:貞永直儀)》、『近代建築画譜』(近代建築画譜刊行会、昭和11年9月15日)に掲載の写真、『復刻版 近代建築画譜〈近畿篇〉』(不二出版、2007年6月25日)より。住所は「兵庫県川辺郡小田村杭瀬」。


北尾鐐之助著『近代大阪』(創元社、昭和7年12月)に、「国道筋の夜に」と題した章がある。

 ……ダンス・パレス!
 さう云ひさへすれば、タクシーは黙つてハンドルを西に切る。
 大阪では、いま猶ほダンス・ホールは許可されてゐない。しかし、大阪のどこにゐても、ホールの名さへ云へば、タクシーは、直ちに阪神国道に向つて走る。それほど国道筋のダンス・ホールは普遍化されてゐる。
 車が野田阪神の踏切を越して、愈よ国道筋に出ると、急に速度を増して、真暗な淀川大橋の上を辷る。神崎大橋=左門殿橋を越しさへすれば、すぐそこが杭瀬。……兵庫県である。

 大阪に近いところ……自動車の走るによいところ……地所の安いところ……附近の静かなところ、さういふ條件が、ダンス・ホールの殆どすべてを阪神国道筋に集合させた。
 壮快なドライヴ。スピードを享楽しつゝ、微醺の顔に冷たい風を受けて、久しぶりにポルモールでも吹かせながら、夜の闇を辷つて行くと云つたやうなことは、なるほど、いかにもダンス・ホールへ!。といふ安価な人生修業にぴつたり来る。
 車がとまる。
 田舎のホテルか、乃至は診療所と云つた形ちの白い建物が、国道筋から少し離れて、夜の闇の中へぼんやりと描き出されてゐる。低い照明が少し下へ落ちて、苅稲のつゞみと、引つ傾いた案山子などが照らされてゐる。かういふ場合、その白い建物の中から、やゝ急テムポな、フオツクス・トロツトでも響いて来ると、本当の狐の棲家でもあるらしく、あはれにも、をかしくなつて来るのだが、彼等はいさゝか傾いた靴の踵を苦にしながら、鷹揚に、田圃の間を通ずる広い小石にステツプを踏んで行く。

関西モダニズムを語る上ではずせないトピックのひとつが、大阪の周縁のダンス・ホール。瀬川昌久著『増補決定版 ジャズで踊って 舶来音楽芸能史』(清流出版、2005年10月)によると、《大正十四年春ごろの大阪のダンスホールは、東京よりもむしろさかんだった》(p115)。大正15年には、大阪のダンスホールは爛熟を極め、年末の天皇崩御の際も「ジャズで踊って」というありさま。昭和2年に大阪府警は取締に乗り出し、同年3月24日に規制により大阪市内のダンスホールが閉鎖され、以後、昭和15年の全国のホールが閉鎖されるまで大阪市内にダンスホールが復活することはなかった。そして、昭和2年の規制以降、「大阪との行政区域の境界スレスレ」に次々とダンス・ホールが誕生していった。

昭和三年以降、兵庫県の杭瀬、尼ヶ崎、宝塚、奈良県生駒などの数カ所に、豪壮なダンスホールが続々建設されたが、その経営者はすべて大阪人、ダンサーもほとんどが大阪を根城とし、お客も九分どおりは大阪から吸収しよう、という計画だった。この作戦はみごと図に当たって、人里離れた県境筋に、いくつかの華麗な踊りの殿堂が不夜城のごとくに現出したのである。(p115)

北尾鐐之助の『近代大阪』の「国道筋の夜に」はまさにそのまっただ中のルポルタージュ。


一方、東京でも警視庁の取り締まりはあったものの、都内にダンス・ホールは数カ所残され、その頂点に君臨していたのが、昭和4年に開業した溜池の「フロリダ」。玉川一郎『CM漫談史 附 欧米CMのぞき』(星書房、昭和38年10月)には、《東京のダンス・ホールが目立ちはじめたのは、昭和三年頃であったろう。大阪で先に流行り出していたのだが、その筋の弾圧を受けたダンサーが、大挙東上したものだという。ひと頃は四十ヶ所もダンス・ホールが出来たが、色々の弊害が起こり、昭和五年頃には、八ヶ所に整理され、健全な? 発達を遂げたのである。》という証言がある。


すなわち、大阪における昭和2年のダンス・ホール規制が、東京におけるダンス・ホールの発展と、大阪の周縁のダンス・ホールの乱立とを同時にもたらし、東京と関西のそれぞれの1930年代を特徴づけていったということになる。昨日は、生駒ケーブルに乗って、昭和4年10月の大阪市内でのカフェーの規制を受け、昭和5年4月に生駒舞踏場が開場し、生駒の「歓楽地」としての側面が増したことに思いを馳せていたばかり。大阪での規制により、「大阪との行政区域のスレスレ」の地域が歓楽地化していったという事象は、「関西モダニズム」を思ううえで興味津々のトピックで、モダン大阪を歩くのと同じ比重で、大阪の周縁をあちらこちら歩くことで、極私的「関西モダニズム」探索(の真似ごと)を続けていきたいなと思わずにはいられない。



《ダンス・ホール(阪神方面)》、同じく『西日本現代風景』より。写真の隣りに添えられている解説は、《大阪では許されないので、今では兵庫県の名物のやうになり尼崎に四ツ、宝塚に一ツ、西宮に一ツ、神戸に四ツほど開かれ、数十名のダンサーが脂粉の香を漂はせて、ジャズに合せて踊り狂ふ、一階ホールに入れば爛熟した世紀末的な匂ひがプンと鼻をつく》。



上の写真の左上にある、舞台上のジャズバンドの写真が嬉しい。ジャズで踊って!



川西英《ダンスホール》(昭和7年6月2日)、図録『特別展 川西英と神戸の版画』(神戸市立小磯良平記念美術館、1999年10月)より。昭和6年の『西日本現代風景』に写っているダンス・ホールと同じホールをスケッチしたものと思われる。ダンサーたちが待機している椅子の背もたれ、ステージの周囲の装飾がまったくおんなじ。



ダンス・ホールとジャズに思いを馳せながら、阪神国道をバスに揺られてトロトロと、野田へ向かう。これまでの歩行の疲れでトロトロとなっていたが、いよいよ本日の何度目かの決定的瞬間、淀川大橋を渡る瞬間がやってくる! と、淀川の直前で急に目が覚めるのだった。



絵葉書《淀川大橋 阪神国道電車沿線》。



淀川大橋を渡りながら、向かって右手に見えるのは、阪神電車の鉄橋。



《新淀川の架橋線》、北尾鐐之助『近代大阪』(創元社、昭和7年12月)の「新淀川漫歩」のページに掲載の図版。関西遊覧の大きなたのしみのひとつが、淀川に架かる橋を渡ること。新幹線で新大阪に到着した直後に渡る東海道線の鉄橋、阪急電車が並走して十三で分岐する直前の淀川の鉄橋(逆方向の十三から梅田に向かうときに収束する鉄橋)、先ほど乗ったばかりの阪神電車の伝法から福に到るまでの鉄橋。



さて、淀川大橋を渡ったのは今日が初めてだった。橋を渡って興奮しているうちに、あっという間に対岸に来てしまい、後ろを振り返って、淀川大橋を見つめる。


午後3時過ぎ。淀川大橋を渡れば、野田はすぐそこ。今朝に「北大阪線」に思いを馳せるべく乗った天六行きのバスが停まっていたバス停に、浜田車庫発の「国道線」が到着した格好なのだった。



杵屋栄二《阪神電車野田駅、左は北大阪線、右は阪神国道線》、『杵屋栄二写真集 汽車電車』(プレス・アイゼンバーン、1977年10月10日発行)より。《自転車の少ない時代は、電車の価値も高く阪神間では、阪急、省線、阪神が並走しているところに、さらに阪神国道にまで電車が走り、それぞれに利用された時代だった》と解説されている。阪神電車の要ともいえる野田の地には、昔も今も阪神の本社がある。



『大阪バス』第3巻第10号(大阪乗合自動車株式会社、昭和12年10月)の裏表紙の見返しに掲載の「阪神ホテル」の広告。野田の北大阪線沿いに位置していたらしい。


阪神電車を住吉で下車して、高架下を御影まで歩く。御影から阪神国道を歩いて、御影公会堂で夕食。


浜田車庫発野田阪神行きの阪神バスにのって淀川大橋を渡る、という本日午後の一大イヴェントを心ゆくまで満喫したところで、このたびの関西遊覧の全行程が終了し、残りのスケージュール表は白紙だった。

さて、日没まであと2時間ほど間がある。大阪でのんびりするという手もあったけれども、せっかく阪神電車の要ともいうべき野田の地に立っているのだから、あともう少し阪神電車を味わいたいという気になってきた。と、ここでふと思いついたのは、これまでずっと懸案だった、昭和4年の高架化当時のモダーンな姿をそのままに残す住吉駅の駅舎見物。そうだ、阪神電車に乗って、住吉に行こう! と、野田からイソイソと三宮行きの阪神電車に乗りこむ。



朝に梅田から阪神電車に乗ったときは、淀川を渡る直前の野田で下車したのだったが、今度はいきなり野田から阪神電車に乗るという人生初の経験を心ゆくまで満喫する。先ほど、阪神国道線に思いを馳せつつバスで横断した淀川大橋が向こうに見える!



阪神電車の淀川の鉄橋は海に近いこともあって、ひときわ絶景だ。電車が川を渡るだけでハイになる身にとっては、いつだってこの鉄橋には大興奮だ! と淀川大橋を見つめる時間が長く続くということがただただ単純に嬉しい。


と、淀川を渡り、歌舞伎や文楽でおなじみなのでいつもその駅名を聞くだけで嬉しい大物と尼崎をふたたび通ることができて、尼崎附近の工場の眺望をふたたび堪能することができて、なんて嬉しいことだろう! 先ほど近くを通った尼崎センタープール、正午過ぎに下車した武庫川……というふうに、同日二度連続の阪神電車での移動がたのしくて仕方がない。そして、いつもながらに、甲子園球場が見えると気持ちがフワフワだ。



そんなこんなで、阪神電車の車内ではボルテージがあがりっぱなし。途中で各駅停車(だったかな)に乗り換えて、住吉に下車。


東京山の手育ちの戸板康二の実家が、父の転勤により昭和7年から昭和12年までの約五年間、阪神間の住吉にあった、というくだりに前々から愛着たっぷりで、「阪神間モダニズム」のまっただなかの時期に、年3度の休暇に阪神間に「帰省」していたという「阪神間の戸板康二」にまつわる諸々のことを追究したいと思い続けて、幾年月。戸板康二の阪神間の「実家」があったのが、ここ住吉。初めて下車することができて、こんなに嬉しいことはない。




電車が行ってしまうと、住吉駅はいたって静かだ。去年12月末に、梅田から阪神電車に乗って三宮に向かったときに、『阪神電気鉄道百年史』(阪神電気鉄道株式会社、2005年12月)を参照して、昭和4年7月15日の大石―住吉間の高架化は、阪神電車にとってきわまてエポック・メイキングなことだった、ということを学んだ。




その昭和4年の高架化当時の姿がそのまま残っているのは、なんと嬉しいことだろう。写真で見ただけでもうっとりだったけれども、実際にこのモダーンな丸窓が施されている階段を下ってみると、さらに胸は躍る。



昭和7年から昭和12年までの戸板康二は、通っていた三田が長期休暇に入ると、そのたびにここ住吉に「帰省」して、関西遊覧を満喫して、大阪のいい芝居をたくさん見ることができた。その足場である「実家」に行くときにいつもこの階段を下っていたのだ。……と、前々から愛着たっぷりの「阪神間モダニズムの戸板康二」を思って、静かな住吉駅の階段にて万感胸に迫るものがあった。



ただ、住吉駅に下車することだけが目的だったので、住吉駅を降りると、これといった用事はなく、とりあえず先ほど下った階段を外側から眺める。



昭和4年の高架化をかみしめるべく、ちょいと離れた場所から、その高架線路をのぞむ。



戸板康二の実家が、父の転勤により昭和7年から昭和12年までの約五年間、阪神間の住吉にあった当時の「実家」の住所は、当時の慶應義塾の名簿には「神戸市外住吉村畔倉」と記載されている。「畔倉」は現在の住吉宮町の2丁目と3丁目にあたるそうなので(未確認)、とりあえず、その住居表示の地点を適当に歩いてみる。



これといった特徴のない住宅街なので、あまり実感は湧いてこないのだけれど、やはり六甲の連なりには心がスーッとなるなあと、山に向かうといい気分。1930年代阪神間にて、東京育ちの戸板康二もこの山を見て、「ああ関西だなあ」と思っていたに違いないと思う。



取り急ぎ、図書館でコピーしてきた「大正十二年側図昭和七年修正側図」の地図より、住吉と御影のあたりを拡大。戸板康二の「実家」は、阪神電車の住吉駅と阪神国道の間の地点か?


1930年代の阪神電車沿線の新興住宅地の、住吉と御影に関しては、宇野浩二の『大阪人間』(初出:「文藝春秋」昭和26年2月、『宇野浩二全集 第9巻』所収)に、1930年代当時の実感がヴィヴィッドに活写されている。時は昭和7年10月、主人公は東京駅を午前8時に出る「ツバメ」に乗って、午後4時大阪に到着。「戎橋の北詰の『あしべ屋』という宿屋」に到着後、道頓堀界隈を歩いていると、天王寺中学の同窓の友人にバッタリ遭遇。彼は京町堀の京町ビルの2階に一室借りて、建築私財を扱う商社を経営している実業家で、御影に邸宅を構えており、阪神電車で大阪へ通勤している。久闊を叙した二人は新地で飲み明かしたあと、阪神国道で御影の邸宅へと向かう。興味深いのがその翌朝のくだり。

深見が、大阪に帰るために、建設社に出る竹木と一しよに、竹木の家を出たのは、午前九時頃であつた。家を出てしばらく行つたところで、竹木は、「途中で茶アでも飲んでいこか、」といつた。……
 さて、駅まで行くうちに、喫茶店らしきものは一軒もないばかりでなく、あれから後、竹木が『茶』のことを一と言もいはないので、深見はますます妙な気がした。
 やがて、駅につくと、竹木は、やはり、だまつて、(自分はパスを持つてゐるので、)深見のために、大阪までの切符を買つた。
 電車に乗つてからも、竹木は、まだ、だまつてゐたが、電車が次の駅につくと、「おい、ここで、ちよつと、おりよ、」と、竹木が、いつたので、深見は、ますます、不思議な気がしたが、竹木につづいて、電車をおりた。住吉といふ札が出ていた。
 その住吉の駅からまつすぐつづいてゐる道を、深見は、竹木とならんで、あるきながら、竹木がさきにいつた『茶ア』をのむ所(喫茶店)はこの町にあるのかしら、と思つた。 まつすぐな、長い、広い、一本道であつた。両側は、生け垣つづきで、みな同じ形をしてゐるやうに見える家が並んでゐる。
 さて、その長い道を、無言であるいてゐる間に、竹木が、いきなり、
「……御影を、社長重役級の住んでる町にすると、(おれも社長や、)ここは、中流のサラリイマンの住んでる町や、」といつた。
 それきり、二人は、無言で、長い広い町を、あるきつづけた。さうして、町ははづれらしいところまで来た時、突然、また、
「ここ、左、」と、竹木は、いひながら、横町にまがつた。
 その横町は、今まであるいて来た単調なほど規則ただしく家のならんだ町の裏にはひると、こんな所に草のはえたあき地があつて、そのあき地に、はなればなれに、むさくるしい家のたつてゐる場所があるのか、と思はれるやうな所であつた。あき地が広いわりに、家は四五軒たつてゐるだけで、その中で二階のあるのは一軒だけである。……

友人(竹木)は、自宅のある御影の隣りの住吉に妾宅を構えているのだが、その御影と住吉の描写がヴィヴィッドで、絶好の「阪神間モダニズム」資料となっている。



そんな1930年代の阪神電車沿線の住吉と御影に思いを馳せつつ、住吉から隣駅の御影に向かって、高架沿いを歩いてゆくことに。



御影駅前でちょいと休憩のあと、勢いにのって、今度は阪神国道を神戸方面に向かって、テクテク歩いてゆく。阪神電車の御影の次の駅は石屋川。石屋川といえば、御影公会堂の最寄駅。今日はコーヒーばかり飲んでしまって、昼食を食べ損ねてしまった。午後5時半の開店と同時に、御影公会堂地下の食堂へ夕食を食べにゆくことに決めた。そして、阪神国道をテクテク歩いて、ふいに右手に御影公会堂の建物が登場した瞬間の歓喜といったらなかった。


「阪神間モダニズム」展実行委員会編『阪神間モダニズム』(淡交社、1997年10月)所収の、梅宮弘光氏の論考「阪神間の公共建築 ポピュラリティーの表象」に、

日本の近代化過程でポピュラー・アーキテクチャーが出現する時期は、阪神間では都市化に拍車がかかる時期である。鉄道や私鉄の敷設など明治初期以降順次進められてきた阪神間の交通整備は、昭和二年(一九二七)の阪神国道開通で基本的骨格が完成する。こうした基盤の上に、ポピュラー・アーキテクチャーとしての公共建築が出現するのである。

というくだりがあるのだけれど、御影公会堂が阪神国道沿いの建物だということをこれまでうっかり見落としていたことに気づいたのだった。阪神国道を歩いてたどりついたことで初めて、阪神国道沿いの近代建築、ということを実感した。この「実感」はとても得難い体験だった。




前掲の《阪神電車沿線案内》より、住吉・御影・石屋川間を拡大。御影公会堂に沿って阪神国道線が走っていて、この路線図から判断すると、御影公会堂の最寄りの駅は、石屋川沿いに位置する「上石屋」。国道線をここで下車すると、まん前に公会堂の建物があったのだなあと夢想して、それだけでたのしい。



無事に日没前に御影公会堂に到着できたので、思う存分建物見物をたのしむことができた。2005年7月に初めて阪神間遊覧に出かけたとき、もっともたのしみにしていたのが、この御影公会堂の地下食堂だった。昭和8年竣工の御影公会堂は「阪神間モダニズム」を象徴する近代建築。初めて出かけた御影公会堂があんまり素敵だったので、以来ずっと愛着たっぷりだったけれども、今回の来訪は二度目、実に5年ぶり。



開店まで間があるので、石屋川沿いを散歩。いつもながらに、川辺を歩いて低山の連なりを正面にのぞむのが眼福。



《御影公会堂(竣工:昭和8年3月、設計:清水栄二)》、『近代建築画譜』に掲載の写真。




午後5時半の開店と同時に、御影公会堂の地下の食堂(正式名称は「御影公会堂食堂」)に入り、早めの夕食。洋食の定食と赤ワインを1杯だけ。食堂は5年前の夏に昼食に訪れたときとまったくおなじように、近所の人びとがきままに食べに来ていて、とてもよい雰囲気。そのまったく変わらないたたずまいに心が洗われたところで、外に出ると、あたりはすっかり暗闇。と、ここでこのたびの阪神間遊覧の幕が閉じた。



さる方がご提供くださった、御影公会堂食堂の写真より。



阪神国道と直角に石屋川を背に、御影公会堂を左側面から見上げた写真。清水栄二の斬新な建築。



建物正面の左端の円柱部分が吹き抜けになっていて、地下食堂から見上げるとサンルームのようになっている。いざ地下の食堂の椅子に座ると、日中はその日当たりに驚くくらい。地下なのに自然光がふりそそぐ。



地下食堂の入口。古びた半円の天井と円柱とともに、昔の洋食屋のように、食品サンプルの並んだひなびたショウケースが味わい深い。



食堂の店内は、入口からは想像もできなかったような、シックな空間。この写真は日中の写真。天井のシャンデリアとともに、上の写真の吹き抜け部分から自然光が降り注いでいる。



紙ナフキンの紋様と「御影公会堂食堂」の文字もシック!