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秋日和関西遊覧その2:バスに乗ってモダン大阪観光。

寝坊することなく無事に朝食を済ませて、早々に宿をチェックアウト、午前7時過ぎ、いつものように、渡辺橋に立ち、正面から朝日新聞社の建物を眺める。今日も昨日に引き続き、絵に描いたような秋日和。



たまには気分を変えてほかの地区に泊まって、大阪のほかの眺めを楽しみたいという気もしなくはないのだけれど、渡辺橋から見る朝の朝日ビルディングの眺めが大好きなあまりに、大阪の宿はいつも堂島界隈なのだった。いつものように朝日ビルディングをしばし眺めたあとで、くるっとまわれ右をして、朝日ビルディングを背後に梅田駅に向かって、ズンズンと歩を進める。刻々と変化している渡辺橋からの眺めは、次に来るときはどんなふうになっているかな。




阪神バスにのって、野田から中津を経由して天神橋筋六丁目へ。解体中の新京阪ビルディングを眺める。


午前7時30分、梅田駅で阪神電車の各駅停車に乗りこむ。梅田から阪神電車に乗ると、福島の次の野田の手前で地下線路から地上に出て、野田のあと、淀川の大眺望が眼前に開ける瞬間をいつも心待ちにしているのだけれども、今日は残念ながら、淀川の手前の野田で下車せねばならぬのだった。



戦前のリーフレット《阪神電車沿線案内》。スポーツや動物園に花火等々の行楽と合わせて、のこぎり屋根の工場や神社の鳥居など、あらゆる沿線の風物がチャーミングに図案化されているサマに頬が緩む。印行年月日は詳らかではないけれど、御堂筋線が天王寺に達しているので、昭和13年4月以降の印行。



上掲の《阪神電車沿線案内》より、梅田・野田間を拡大。沿線案内を見ると一目瞭然、阪神本線の路線上の野田駅は、路面電車の北大阪線と国道線の起点であり、阪神電車の要といえる地点なのだった。去年の春先、北尾鐐之助の『近代大阪』の真似をして中津を歩いた折に、中津界隈を走っていた路面電車のことを初めて心に刻んだ。その「阪神北大阪線」がこの沿線案内にクッキリと書きこまれている。野田を出発して中津を経由して、天六に到る、淀川に沿って弧を描くように。そして、天六は「新京阪」の始発駅でもある。


「阪神北大阪線」の開業は大正3年8月1日で、昭和50年5月6日に廃止。昭和45年の万博開催の直前の昭和44年12月に地下鉄堺筋線が開通し、阪急千里線に乗り入れることとなり、これを機に天神橋筋六丁目の駅は地下になった(このとき駅名が「天神橋」から「天神橋筋六丁目」に改称)。大正15年6月に「新京阪ビルディング」が竣工する以前からこの地を走っていた「阪神北大阪線」、天六駅が地上から地下になったあとも約5年間存続していた「阪神北大阪線」。かつての「新京阪ビルディング」であるところの「天六阪急ビル」に愛着たっぷりの身としては、近代大阪の名脇役に数えたい「阪神北大阪線」にもおのずと親しみが湧くのだった。




その「阪神北大阪線」とおんなじ道を走るバスが現在も運行されていると知って、ぜひとも乗ってみたいなとずっと思っていた。その夢がいよいよ今日かなうのだ、と胸を熱くしながら阪神電車を野田駅で下車した次第。野田駅から天六駅までの「阪神北大阪線」と同じ道を走るバスは一日に5本しか運行していない。野田発午前6時35分、7時20分、8時10分のあとは18時55分、最終は20時05分。なにがなんでも午前8時10分野田発天六行きのバスには乗り遅れるわけにはいかない! というわけで気合い十分、30分も早くに着いてしまった。



イソイソと改札を出て、歩道橋からバスターミナルを見下ろす。道路の形状がいかにもかつて路面電車の線路が敷設されていたことを彷彿とさせて、ふつふつと嬉しい。向こうの道路のカーブもいかにも路面電車が走っていた感じがするなあと、しばし歩道橋から道路を見下ろす。それにしても今日もいい天気。




《野田阪神(昭和48年9月28日)》、小林庄三『神戸市電・阪神国道線』(トンボ出版、1998年2月1日)より。阪神国道線の廃止(昭和50年5月6日)を間近に控えた野田駅を写した写真。






野田発天六行きの阪神バスがようやくやって来た。イソイソと乗りこんで、発車を待つ。発車時刻の午前8時10分、計5名の乗客を乗せて、バスは出発。




ぼんやりとバスに揺られて、いい気分になりつつも、中津が近づくにつれて、クッと身構えずにはいられない。中津を通過するという決定的瞬間を堪能したかったので、ぼんやりしているわけにはいかない。と、くっと身構えたところで、北尾鐐之助の『近代大阪』でおなじみの線路沿いの鉄骨が眼前に迫ってきたときの歓喜といったらなかった。ワオ! と背後を振り返って、ふつふつと嬉しい。




《1形25号中津(昭和31年2月28日)》、上掲の『神戸市電・阪神国道線』より。そう、まさにこの写真が脳裏にまざまざと浮かんだ瞬間だった。




《中津町附近の線路交錯》、北尾鐐之助『近代大阪』(創元社、昭和7年12月)所収「高架線の中津」に掲載の地図を拡大。

 私はもう十年以上も、毎日の如く朝夕電車の窓から、この辺の風景を眺めてゐるが、私はこの辺における高架電車の上に縦横に張り廻された架空線や、架線柱が、鉄橋の繋桁柱と交錯した複雑な鉄の交響楽に心を惹かれる。
 実際梅田駅引込線の上に高く盛り上つた跨線橋の附近は、中津橋通りの大道路と、阪急電車の二ツの高架線と、も一ツ北大阪線と、この四ツの鉄橋が並行に重なり合つて、貨物線路の上を越してゐるので、その繋桁の重なるところほど、少しばかり位置を変へることによつて、いろいろと異つた線條の構図[コンポジシヨン]を作るところはない。

と、これは北尾鐐之助による「高架線の中津」の一節。




《71形73号天神橋筋六丁目(昭和48年9月25日)》、同じく『神戸市電・阪神国道線』より。バスに揺られながら、かつてここを走っていた路面電車の北大阪線の気分にひたって、大阪市中の道路を満喫してすっかり上機嫌になっているうちに、終点の天神橋筋六丁目に到着。この写真の奥には、大正15年竣工の「新京阪ビル」であるところの「天六阪急ビル」が見える。天神橋の駅が地下になったのは境筋線の開通する昭和44年12月なので(同時に、駅の名称も「天神橋」から「天神橋筋六丁目」に変更となった)、この写真が撮影された時点では天六ビルは駅としての役割はすでに終えていたけれども、その後も長らくこの地にとどまっていた。2007年4月にわたしが初めてこの場所に来た姿のままで。




《新京阪ビルディング》(竣工:大正15年6月、設計:渡辺節建築事務所)、『近代建築画譜』(近代建築画譜刊行会、昭和11年9月15日)に掲載の写真、『復刻版 近代建築画譜〈近畿篇〉』(不二出版、2007年6月25日)より。大正15年の「大大阪」を象徴する近代建築であるところの「新京阪ビルディング」、現在の「天六阪急ビル」はわたしにとっては「関西モダン」に開眼した記念すべき建物である。この建物が取り壊し予定であることを知り、去年12月にあわてて見物に出かけたことはまだ記憶に新しい。




と、この写真は去年2009年12月撮影の写真。わたしがこの建物を初めて目の当たりにしたのは2007年4月のことだった。南森町から天神橋筋商店街をのんびり歩いたあとに到着した天六阪急ビルという名の建物がかつてはターミナル駅だったことを知り、「おお!」と感興が湧いて、建物をじっくり観察してみると、駅の名残りを残す細部の数々がいかにも「関西モダン」だなアと大感激だった。




野田発の阪神バスは中津を経由して、終点の天神橋筋六丁目に到着し、今、天六ビルはどうなっているのだろうと、思わず走ってビルの前に行ってみると、おお! ビル全体が工事幕で覆われている。しかし、すっぽりと覆われつつも、ビルの形状そのものはまだ残っていて、ジーンと感激。正真正銘、今日が本当の見納めかも。



そうだ、今日こそが正真正銘の、天六阪急ビルの見納めなのだと胸を熱くしつつ、2007年4月に初めてこの地に来たときとまったくおんなじように、ビルのまわりをぐるりと一周してみることにすると、正面は幕で覆われているけるけれども、裏手からは建物の残骸をのぞむことができて、大感激だった。



天六ビル裏手から建物内部をのぞむと、むきだしのコンクリートがいかにも駅のホームの残骸であることが見てとれるのが嬉しい。天神橋筋六丁目駅が地上だった往時の名残りをいまだ濃厚に残している。



昭和43年7月17日撮影の天神橋筋六丁目駅の写真。《かつて新京阪の本拠地であった天神橋も支線となって寂しかった。》、『P-6 阪急でんてつ デイ100物語』(プレス・アイゼンバーン、1974年8月20日)より。



上の昭和43年7月撮影の写真に写る「P-6」車両の上部に見える駅のホーム上部の窓の格子が、ここに鮮やかに見ることができるのだ。



こちらは、2009年12月に撮影の写真。ビルが健在だった当時は、ホーム上部の窓の格子はここからはのぞめなかった。取り壊しが始まったことで、それまで隠れていた近代建築の断片が姿を現したというのは、歌舞伎座の別館とまったく同じパターンなのだった。
【備考:歌舞伎座の別館については「戸板康二ノート」に記録:http://toita1214.exblog.jp/14670479/



溝口健二の『浪華悲歌』(昭和11年5月28日封切・第一映画)に「大阪の地下鉄」としてスクリーンに映る車両が実は「新京阪鉄道 P-6 形電車」という車両であること、「大阪の地下鉄の駅」として映る駅が実は「京阪京都駅」、現在の大宮駅であることに気づいたのを機に、現在の「天六阪急ビル」、すなわちかつて「新京阪」の本拠地だった「新京阪ビルディング」にますます愛着を抱くようになった。2007年4月に天神橋筋商店街の終点として初めて目の当たりにした「天六阪急ビル」からつながるいろいろなことにますます興味津々になった。


大正12年に「京阪」の子会社として「新京阪」が発足し、大正15年6月に天神橋筋六丁目に「新京阪ビルディング」が竣工し、ここに本社を置く。昭和5年9月に親会社の「京阪」に合併されたあとも、「新京阪」は天六を本拠地として、どんどん京都へ路線を伸ばしてゆき、昭和6年3月31日には『浪華悲歌』のロケ地の「京阪京都駅」が終着駅になり、それまで終点だった西院から終点までの線路は日本で二番目に古い地下鉄道となった(三番目が昭和8年5月に開通の大阪地下鉄)。現在の阪急京都線はかつて、京阪の子会社の「新京阪」の路線だった(昭和18年10月に国策により京阪と阪急が合併、昭和24年12月に分離するも、新京阪のみ阪急にもとに残った)。その「新京阪」のシンボル的存在だったのが、『浪華悲歌』で「大阪の地下鉄」として登場していた「P-6」車両なのだ。昭和48年3月に廃車となるまで、長らくこの路線を走っていた。極私的「関西モダニズム」の「P-6」にはこの先も関西遊覧のたびに折に触れ、思いを馳せることになると思う。



『旅』第10巻第10号(日本旅行協会、昭和8年10月1日発行)より、「駅スタムプ展覧会」に掲載の天神橋駅のスタンプ。記事には《大阪終点の天神橋駅と地下鉄、工業地帯/京都駅特急電車(三十四分)、嵐山へ、千里山へ》との説明が付されている。「P-6」が天神橋駅を出発、淀川を渡って、淀川に沿って京都へ向かう。スタンプに描かれている天神橋駅のホームのサマが、取り壊し中の「天六阪急ビル」の残骸とまったく同じ形状をしていて、お見事。「P-6」の車両も見事に図案化されている!




と、昭和8年の「駅スタプム展覧会」を胸に、このまま「新京阪」に乗って京都に行きたいところだったけれども、今日のところはイソイソと地下鉄の天六駅の階段を下ってゆく。1日乗車券850円を購入すれば、大阪地下鉄と大阪市バスが乗り放題だ! 次は大阪市内を2本のバスに乗って「大大阪観光」をする予定であるので、谷町線のホームへと小走り、ふたたび大阪駅前へ向かう。


地下鉄の車内では、本日森ノ宮で不発弾の処理をしていますので、電車の運行は云々……というアナウンスが流れていた。なんとはなしに「近代大阪」をおもっているうちに、電車はあっという間に東梅田駅に到着。




大阪市バス62系統に乗って、北尾鐐之助の「乗合バス遊覧記」の1930年代大阪をおもう。空堀商店街から松屋町へ。


天六から谷町線に乗って東梅田で下車して、イソイソと地上に出て、ふたたび大阪駅前にやって来た。このたびの大阪遊覧にあたって綿密に練り上げた自作の行程表の指し示すがままにバス乗り場へと直行し、午前9時41分、大阪市バス62系統、住吉車庫前行きのバスに乗りこむ。


本日2本目のバスは大阪市営バス。先ほどの阪神バスと打って変わって、こちらはだいぶ乗客が多い。2005年の夏以来、年に一回以上、関西遊覧に出かけるようになった。数年目にしてようやく、長らく念願だった大阪バス遊覧が実現して、こんなに嬉しいことはない。記念すべき人生初の大阪市内バス移動である、「阪神北大阪線」の経路を走る阪神バスを「新京阪ビルディング」解体現場見学をもって締めくくり、ふたたび大阪駅前に戻ってきたところで、本日2本目のバスは、大阪駅発住吉車庫行きの62系統なのだった。




北尾鐐之助『近代大阪』近畿景観第三編(創元社、昭和7年12月25日)。装幀:高岡徳太郎。わたしの書棚にあるのは、海野弘の解説が付された『覆刻版 近代大阪』(創元社、1989年3月20日)の方。


さて、大阪バス遊覧の、わが絶好の参考書は、北尾鐐之助著『近代大阪』(創元社、昭和7年12月)所収の「乗合バス遊覧記」。1930年代大阪の北尾鐐之助は案内嬢と二人きりで「十二人乗りの大型自動車」に乗って、午前9時、大阪駅を出発する。まずは阪急百貨店、曽根崎警察署の建築、お初天神の由来がアナウンスされ、天満天神で下車したあと、難波橋を渡って中之島公会堂、土佐堀通りに沿って、株式取引所、大阪逓信局、天神橋、京阪電車停車場、天満橋、大手前、そして大阪城で二度目の下車……という行程をたどる。昭和6年に復元された大阪城は「モダン大阪」のシンボル、したがって、昭和7年12月に刊行の『近代大阪』に登場する大阪城は当時はきわめて現代的なトピックだった(高岡徳太郎の装幀でも、函・本体ともにその表紙にしっかり図案化されている)。北尾鐐之助の乗る「十二人乗りの大型自動車」での大阪遊覧はまだほんの序の口。このあともどんどん南下して、10時半には上六から西にまわって生國魂神社前に降り立ったりする。以降、大阪市中をこれでもかと走りまくり、午後3時に境筋を北上したところで、6時間にも渡る「乗合バス遊覧」が締めくくられる。



《大阪名所遊覧自動車 名所案内》(大阪乗合自動車株式会社発行)。具体的な印行年月日は詳らかでないけれども、1920〜30年代のリーフレット。路面電車とバス等の車両が並行する道路には、自転車や歩行者のみならず、馬車も走っている。そして、大阪市中には様々の近代建築!



上掲のリーフレットを広げると、大阪市内の乗合バス遊覧の行程がチャーミングな絵地図になっている。北尾鐐之助の「乗合バス遊覧」はまさにこの絵地図全体を縦横無尽に駆け巡っている。


1930年代大阪の都市風景、消えた近代建築と今も健在の近代建築、その双方の織りなす都市風景を胸に、北尾鐐之助のルポルタージュの文字を追う快楽といったら! 北尾鐐之助の『近代大阪』を手にして以来、「乗合バス遊覧記」とおんなじ行程で大阪遊覧をしてみたいなとずっと思っていた。北尾鐐之助の6時間におよぶ「1930年代大阪」移動を一度に全部ではなくて、部分部分をピックアップして、小出しに今後の大阪遊覧に採り入れてみたいなと思った。

と、そこで、このたび目にとまったのが、大阪市営バス62系統。大阪駅から御堂筋を南下して大江橋を通り、淀屋橋で左折、つまり東へ曲がり、北浜、天神橋を通り、天満橋で右折してふたたび南下して、右手に大阪府庁、左手に大阪城公園をのぞみながら上町筋を南下……という行程が、昭和7年刊の『近代大阪』における「乗合バス遊覧記」の出だしとまったくおんなじだ!

それから、1930年代大阪の遊覧バスといえば思い出すのは、矢倉茂雄『人生初年兵』(P.C.L.・昭和10年12月封切)という映画。佐々木邦の同名のユーモア小説の映画化で、ムーランルージュにいた伊馬鵜平が永見柳二とともに脚本を担当している。紙恭輔が音楽を担当し、藤原釜足と宇留木浩が主演コンビで、水上玲子や神田千鶴子が出演し、徳川夢声も脇を固めていて、いかにも P.C.L.気分が横溢している。東京が舞台だけど、終盤、新聞社とデパートのタイアップで、新聞記者とデパートの売り子が大勢で大阪へ遊覧に出かける。東京と大阪の両方が登場する1930年代の都会映画として、はたまた広告やデパート、新聞や出版、ユーモア小説、軽演劇等、1930年代をとりまくあれこれを考察する上でもなかなかの逸品で、しかも資料性のみならず、映画的にもなかなかの佳品だった(徳川夢声著『あかるみ十五年』でも好意的に回想されている)。大阪遊覧のくだりでは、まさに北尾鐐之助の「乗合バス遊覧」の実写版の1930年代大阪のバス遊覧が記録されていて、大注目!



矢倉茂雄『人生初年兵』(P.C.L.・昭和10年12月封切)より。一行が大阪駅に到着し、さっそく「乗合バス遊覧」がはじまる。その最初のショットに映るのは阪急百貨店。



新聞社の招待で、デパートの売り子たちが大勢うちそろって、乗合バスに乗りこむ。新聞社(上司は徳川夢声)の新入社員コンビの藤原釜足と宇留木浩、女子社員の神田千鶴子がシートに並ぶ。このあと、「乗合バス遊覧」のシークエンスでは、紙恭輔の音楽に乗って、数々の大阪の都市風景が映し出されて、その楽しいことといったら! 大阪乗合自動車の PR も兼ねているのは間違いない。



北尾鐐之助の『近代大阪』と昭和10年封切の P.C.L. 映画の『人生初年兵』を胸に、午前9時41分、大阪市バス62系統、大阪駅発住吉車庫行きに意気揚々と乗りこんで、バスはいよいよ大阪駅を出発。梅田新道を通り、大江橋に到り、堂島川を渡り、左手には大阪市役所(建て替え前の近代建築を見たかった!)、おなじみの淀屋橋を渡り左折、北浜、天神橋、天満橋に……といった景色を、いつもの歩行者の視点とは違うバスの車窓からの文字どおりの「高みの見物」で、パノラマのように風景が移行してゆく。



《大江橋》、『工事画報 昭和十一年版』(株式会社大林組、昭和11年6月25日発行)より。


と、そんな諸々の「モダン関西」文献で目にした1930年代大阪風景を胸に、秋日和の大阪の町並みを見下ろしてすっかり大興奮。北尾鐐之助の『近代大阪』や P.C.L. 映画の『人生初年兵』を見て大阪のバスにむやみに心ときめかしていたときとまったくおんなじボルテージで大興奮。もう「キャー!」と叫びたいくらいだ。なんて素晴らしいのだろう! もはや写真を撮る余裕はなく、そのパノラマ風景にランランと目を輝かせているうちに、天満橋でバスは右折し、このあとは上町筋を南下、もうあっという間に、左手には大阪城公園、右手には大阪府庁。去年12月にこのあたりを歩いた楽しき時間に思いを馳せて、もう胸がいっぱい。

あ、馬場町角の JOBK の建物があった場所だ、ここを過ぎると、難波宮跡、「国立病院前」のバス停は、大阪市に仮住まいをしていた後藤明生が上本町六丁目行きのバスに乗車したバス停だ! と、急に後藤明生の『しんとく問答』(講談社、1995年10月)のことを思い出して、ふつふつと嬉しい。《大阪の「某私立大学」に新設された文芸学部で「明治大正文学の講義」(月・水・金)》を講じることになった男は、聖マリア大聖堂から100メートルくらいの七階建てのマンションの六階に住んでおり(「マーラーの夜」)、《マンションから市バスの停留所(国立大阪病院前)までの、難波宮跡公園沿いの歩道は、幅もゆったりしており、なかなかのもの》なのだそうだ(「四天王寺ワッソ」)。

大学へ行く日は国立病院前から上六(上本町六丁目)まで市バスに乗りますが、途中、バスの窓から(進行方向右側すなわち西側に)西鶴の墓のある誓願寺の門が見えます。門だけでなく、門の中、正面突き当りのあたりに立っている西鶴の墓石も見えます。(「俊徳道」)

というふうに、「国立病院前」から上本町六丁目までバスに乗っていた後藤明生よろしく、わたしも車窓から専願寺を眺めたいところだったけれども、それは後日のおたのしみ、今日は専念寺の直前の停留所、上本町4丁目で下車。


北尾鐐之助の『近代大阪』所収の「乗合バス遊覧記」めぐりは、今回は大阪駅から上本町4丁目まで。あっという間だったけど、ああ、楽しかった! これから先、何度でも乗りたい!



『大阪遊覧バス』(大阪乗合自動車株式会社、昭和10年7月印行)。上掲のリーフレットは絵地図だったけれども、こちらは全18ページの小冊子。紙面にあふれんばかりにレイアウトされたモノクロ写真がおしゃれ!



と、この『大阪遊覧バス』のページを開くと、こんな感じに「大阪名所」がひしめいている!



戦前の紙もの探索をしつつの年に何度かの関西遊覧、これから先、折に触れてバスに乗って、大阪24区を巡ってみたい、いつも心に北尾鐐之助の「乗合バス遊覧記」を! と、「!」を連発して胸を熱くしたところで、テクテクと谷町筋の方向へと歩を進める。


上本町4丁目でバスを下車したのは、大阪市内の観光地ではないどこかの界隈を歩いてみたいなと、愛用の『でっか字まっぷ 大阪24区』(昭文社刊)を眺めて、空堀商店街を歩いて松屋町筋に到る、という行程がふと目にとまったから。「空堀」という道の名前は、三輪正道さんが川崎彰彦のことを綴った散文を読んで以来、ずっと心に残っていた。「からほり」という軽やかな音とともに不思議と深く印象に残っていた。

三輪正道著『酔夢行』(編集工房ノア、2001年12月)所収「信濃橋だより」に、「夕方、谷町の空堀どおりのすかんぽという店にいるから」と言われて、三輪さんが地下鉄を谷町四丁目で下車して、谷町筋を南下して川崎彰彦をたずねるくだりがある。そして、「すかんぽ」の次の店、谷町筋の「うれしの」のカウンターをあとにした二人は「谷四の改札」で解散する。《物書きという人に初めて身近に接した感激とともに》、三輪正道は谷四のプラットフォームの反対側の川崎彰彦に会釈する。三輪正道は天王寺へ、川崎彰彦は天満橋から京阪に乗って帰宅するのだ。《あの晩、川崎さんは谷四から乗ったが、天満橋まで地下鉄代をけちって、「うれしの」から夜の谷町筋をよく歩いたとか。》。ここに限らず、編集工房ノアの三輪正道さんの3冊の散文集におけるちょっとしたくだりを目にして、実際に行ってみたくなった場所はまだまだたくさんあるので、おたのしみはまだまだこれからなのだった。三輪正道さんの本は、わたしにとっては関西遊覧の手引書にもなっている。



《最新大大阪市街地図》(和楽路屋、昭和13年7月10日発行)より、この界隈を拡大。


と、まあ、ほんの思いつきで歩いてみることにしたこの界隈であったが、いざ歩きだしてみたら、古いたぶん戦前からの木造見物が多数見受けられるのと路面のちょっとした起伏が、とても好ましく、なんだか妙に胸が躍るものがあった。先ほどのバスの車窓からの大阪市中見学と両極に、大阪の路地歩きが嬉しくってたまらなかった。



バス停から通りを直進し、空堀商店街に入るべく右折した路地。写真には雰囲気がうまく写らないのだけれど、一気に大好きになったこの界隈。今住んでいる東京のとある町になんとなく雰囲気が似ている気がして、勝手に親近感を抱く。



上の路地を左折して、向こう側に商店街のアーケードが見える。まだ9時台なので、空いているお店は少ないのだけれど、早商いのお店で食料品を買っている人びとでほどよく賑わっている。いずれまた、違う時間帯に歩いてみたいなと思った。今度はどんな雰囲気なのかな。



ほどなくして大通りに到る。谷町筋だ。谷町筋から松屋町筋まで、商店街は続いて、ただ歩いているだけでたのしくて、気持ちがフワフワしてくる。



歩きながらふと右を見やると、今歩いている商店街がちょっとした高台になっていることに気づく。こんな感じの道路の起伏がなんだか琴線に触れるのだった。



何を買ったわけでもなく、どこのお店に入ったわけでもないのに、空堀商店街の歩行をたんへん満喫したところで、松屋町筋に到着。見た目にも明らかに人形店や玩具店がひしめいているサマにワクワク、ウムなるほど、ここは東京に置き換えると、日本橋人形町ないしは浅草橋といったところなのだなあと納得したところで、松屋町筋をちょっと歩いた先の通りがかりに、よさそうな雰囲気のカフェを見かけたので、ちょいと休憩してゆくことに。店内は、近所の人びとがくつろいでいるサマがとてもよい雰囲気で、空堀商店街に引き続いて、いつまでも上機嫌。ふだんの日曜日、早起きしてちょっとだけ散歩してコーヒーを飲んで本を読んで、そのあと朝市で食料品を調達して帰宅、ということをよくするのだけれど、旅行先の松屋町のカフェで、ふとそんな自らの日常生活を思い出して、「大阪の日常」気分にひたったのがなんとも嬉しく、至福だった。


松屋町はふりがなを振ると「まつやまち」だけど発音は「まっちゃまち」らしい、とカフェで知った。コーヒーをすすりながら、愛用の『でっか字まっぷ 大阪24区』(昭文社刊)を眺めていたら、「まっちゃまち駅」に行く前に、阪神高速道路の高架下のを見に行きたくなったので、ちょいと足を伸ばす。




じっくりと東横堀川の水面を眺めるのは初めてだったかと思う。この橋を渡ると向こうは島之内。島之内も歩いたことのない界隈。

 西横堀は、島之内と船場とでは、多少、河岸の景観が違ふやうである。船場に入ると、さすがに商品のうごきが多いのか、河岸につないだ船の数も、川幅を狭めてゐるばかりでなく、どうかすると、川につくられた護岸のコンクリートの上から、川の中へずつとさしかけをつくつて、春水先生の小石を敷く代りに、何かの細工場を作つてゐるのがある。夜などは、こゝに煌々とはだか電球などが吊り下げられて、夜徹し、何かを削る音などが聞えてゐる。
 しかし、島之内附近は、まだ西横堀川らしい床しい景観を残してゐる。殊に御池橋附近などは、前を漕いで行く船が、さながらに自分の庭の中を通る感じである。それが東横堀になると、川幅もずつと広くなり、橋も高く、両岸の建築も、近代式のコンクリートとか、天幕に磨硝子だとかいふのが倉庫のあちこちに交つて見える。川筋をずつと上つて、本町橋附近になると、例の手拭製造の布さらしがあちこちにある。両岸の家の屋根の上は、見上ぐるやうな高い干場に、柄模様の長い布の瀧が流してある。
 いつたい東横堀に架つてゐる橋はみな高い。土地が高いのと、一つはこゝは大阪城の外濠で、水面までが深いという点もあらう。それにこゝのは、いはゆる公儀橋で、町の費用ではなく、悉く公儀の費用で架けられたものだつた。

と、これは北尾鐐之助『近代大阪』(昭和7年12月)所収の「河川雑記」の一節。




北尾鐐之助の『近代大阪』をおもいつつ、東横堀川沿いを、松屋町駅に向かって歩く。長堀通に架かる末吉橋がいかにも近代建築だ。北尾鐐之助は「河川雑記」の冒頭に、

 橋の架け替へといふことは、河のためでなくして、陸上交通のためにすることである。随つて、陸の上からみれば、道路の高低がなくなり、幅員がずつと広くなり、欄干が立派になる。しかし一面水の上からみると、橋が低くなり、橋脚が大きくなり、川の上が暗くなる。
 大阪は水都だといふが、都市としての交通が発達すればするほど、ある意味に於て、河川は衰退するといふことになる。

というふうに書いている。大阪町歩きの折に橋に遭遇するたびに思い出してしまいそうな、卓見に満ちた一節。




松屋町駅で長堀鶴見緑地線に乗って、心斎橋で御堂筋線に乗り換えて、淀屋橋で下車。いつもいつも、地下鉄御堂筋線のドーム天井が嬉しくってたまらない。2000年12月に初めて大阪に出かけたとき、御堂筋線のモダンな天井に感嘆しきりだった。地下鉄御堂筋線のドーム天井は、わたしにとっての大阪の原風景という感じがする。



杵屋栄二《大阪地下鉄》、『杵屋栄二写真集 汽車電車』(プレス・アイゼンバーン、1977年10月10日発行)より。本書は、昭和9年から昭和13年にかけて撮影した汽車電車の写真集。この写真の脇に、

川の街と言われる大阪の地下鉄は、最初の開業区間の梅田、心斎橋間で堂島、土佐堀、長堀の三つの川の下をくぐるだけに、東京の地下鉄にくらべ深い。その関係もあって梅田、淀屋橋、心斎橋3駅のドーム形のホームは、これまた大阪の自慢の種と言ってよいものであった。

という解説が添えられている。1930年代大阪にやってきた杵屋栄二は、出来たてほやほやの大阪地下鉄のホームを目の当たりして、さぞかし目を輝かせたことであろう。2000年末に初めて大阪の地下鉄に乗った日のわたしもたぶん杵屋栄二と同じくらいに目を輝かせていたものだった。と、御堂筋線のドーム天井には誰もが目を輝かせずにはいられないのだ。銀座線の低い天井に鉄筋がストライプ状になっている東京地下鉄にだって、愛着はたっぷりだけれども。




大江橋界隈を歩いて、堂ビルのプラトン社の山名文夫をおもう。御堂筋をバスに乗って難波へ。


午前10時半。御堂筋線を淀屋橋で下車してイソイソと地上に出て、大阪市バス62系統に乗って走り過ぎたばかりの淀屋橋の上に立つ。先ほどは車窓から見た景色を、あらためて橋の欄干から眺める。



淀屋橋から生駒山をのぞむ。山のてっぺんに林立する鉄塔がかすかに見えて、感無量。昨日あの鉄塔の真下を歩いたのが遠い昔のように感じる。


大江橋を渡りながら、右前方に堂島ビルディングをのぞむ。だいぶ補修がほどこされていて、一見したところでは見逃してしまいがちだけれども、大正9年12月竣工の「1920年代大阪」を代表する近代建築なのだ。



絵葉書《(大阪名所)大江橋畔に聳ゆる堂島ビルディング》。建物の様子は様変わりしているけれども、建物の規模は変わっていないはずで、大江橋を渡りながら、だんだん堂ビルが近づいてくると、この絵葉書の画像がまざまざと脳裏に浮かんできた。



大江橋北詰の信号を渡って、道路の対岸から堂ビルを眺める。ビルのガラス面がキラキラ輝いている。1階にはドトール。



大正9年竣工の堂ビルの隣りには、昭和11年竣工の大阪市交通局曽根崎変電所の建物が見える。曽根崎変電所のコンクリートの建物がいかにもモダン! 道路越しに眺めただけで、早くも惚れ惚れ。あとでじっくり見物するのがたのしみだとメラメラと燃える。



道路を横断して、まずは堂ビルの入口に立つ。あまりにも真新しいので、近代建築だとはにわかにはわからないけれども、エントランスの天井にうっすらとモダン建築の名残が伺える、ような気がする。



ビルの紋章には竣工の年「1920」の文字が刻まれている。


堂島ビルディングというと、ほんの一時期(大正14年5月から大正15年12月まで)、プラトン社が事務所を構えていたビルということで、前々からとても気になっていた。『モダニズム出版社の光芒 プラトン社の一九二〇年代』(淡交社、平成12年6月)によると、堂ビルの5階は中山文化研究所の施設で占められ、夜は「クラブ白粉」「クラブ石鹸」の広告塔が川面に輝いていたという(小野高裕「第一部 プラトン社の軌跡 4 堂ビル・馬渕町時代」p68)。



図録《山名文夫と熊田精華展 絵と言葉のセンチメンタル》(目黒区美術館、2006年6月24日-9月3日)。堂ビルのプラトン社に思いを馳せるきっかけになったのは、この図録に収録されている、山名文夫の熊田精華宛て書簡がきっかけだった。

同図録で翻刻されている、山名文夫が熊田精華に宛てた書簡は、大正12年11月から昭和52年までの計68通で、最後の手紙は昭和52年5月2日付けの綾子夫人への悔み状。ふたりの交友は生涯に渡っていた。その最初の1通、大正12年11月24日付けの書簡は「女性 プラトン社」の封筒と便箋が使用されている(目黒区美術館での展覧会のときにガラスケース越しにうっとり見とれていたものだった)。当時のプラトン社の住所は「大阪市東区谷町五丁目」。

そして、7通目の大正14(1925)年4月17日付けの書簡で、山名文夫は熊田精華にプラトン社の移転を報告する。プラトン社の便箋には「大阪市堂嶋舩大工町堂嶋ビルデイング四階」の文字が印刷されている。

プラトン社も堂ビルに変りました。
こゝには森永のキャンデーストア
があるのでおひるはそこで食べられて便利ですが便利すぎて
ポケットがぐすぐす云つて困っています。

堂ビルの森永キャンデーストア! 続く、同年5月18日付け書簡では、

今キャンデーストアへおひるのパンをたべに行つて来ました。
心配しないで下さい。僕はキャンデーストアで歯のわるくなるほどいろいろ
おいしいお菓子思つてゐるのですが、おひると、それから
だれかが たとへば 森本でも銀行をサボつて訪ねて来た時になどに行く位です。
と云つてキャンデーストアのせいではないのですけども僕はむしばで困つて
ゐます。(中略)
キャンデーストアでよくいつしよになる西洋婦人があります。少し端麗すぎて
近寄りがたいところがあるますがそれは美しい婦人です。

なんて書いている。同書簡には、

久しぶりで夜の町を歩きました。皇太子殿下の奉迎のかざりがまだそのまゝに
なつてゐます。市庁舎のイルミネーシヨン、中ノ島公園の噴水のイルミネーシヨン
みんな風俗なものですがなんとなくそのほのあかるい中を歩いてゐると、
そして逆行でくろく見える人の中の歩いてゐると、かるい気持になります。

というくだりもあり、当時の大阪の都市風景が髣髴とする。そして、次の同月28日付書簡は日記ふうのお手紙、ところどころに堂ビルのキャンデーストアが登場している。

五月二十六日午後 堂ビルにて
今キャンデーストアからかへつてきました。
西洋人はきてゐませんでした。もうながいこと見ないです。
けれどどうだつていいんですよ。
キャンデーストアはきたないところです。夏になつてくるとさらにそんな気がして
アイスクリームだつて ちつともつめたい気がしません。
五月二十八日午後
丁度 四時です 帰りたい気持、つかれた気持にたまらない三時四時。
キャンデーストアで イチゴをたべて来ました
まだ少し若いいちごでおいしくありませんでした。あなたにあげないでおき
ませふ。もつとおいしくなつたらいつしよにたべにゆきませふ。(中略)
今日のおひるの時 あの西洋婦人が来てゐました。今日は一人で そして丁度ぼくの
テーブルからはうしろすがたをみるだけでした。今日は少し黒つぽい服をきて
短い断髪とそのために長くみえる頸すじが美きれいでした。
なんてあまりしやべるといちごだけではすませなくなりますからやめておきます。

森永キャンデーストアにもだんだん飽いてきたところで、初夏から真夏になり、同年7月16日付け書簡では、山名青年は夏バテ気味。

この頃は気候が変ですね。
身体が又悪くて元気がありません。
モリナガにはいい夏の食べものがなくて困つてゐます。
おひるのパンもちっともおいしくない。
アイスクリームと来てはすつかり田舎式です。
心斎橋の丹平ファーマシーのアイスクリームはおいしいですよ。
夏がすぎないうちにあそびにいらつしやい。
けれど等身大のヤンキーの人形が入口に立つてゐて折々ベルを
ならすので恐縮します。

云々と、プラトン社の山名文夫青年の手紙を目にすると、「モダン心斎橋」にも思いを馳せずにはいられない。同年8月末、山名文夫は宝塚まで築地小劇場の公演を見に行ったりもしている。ああ、一九二〇年代日本。



《大阪堂ビルキャンデーストア―》、『森永五十五年史』(森永製菓株式会社、昭和29年12月20日発行)より。

当社は、小売店の指導と製品の宣伝普及のためモデルストアーを設けることにした。大正十二年四月三日、東京丸ビル正面玄関脇にその第一店が森永キャンデーストアーの名称で開かれた。総面積百坪、カウンター、テーブル、椅子陳列棚等設備の大部分をアメリカから輸入し、全森永製品の小売販売は勿論、ココア、コーヒー、アイスクリーム等の飲料からサンドウィッチの軽食まで簡易で衛生的なサービスを行ひ、店員の訓練には特に細心の留意が払われた。つゞいて同年八月大阪堂ビルに、又十二月には銀座六丁目にキャンデーストアが開設された。ソーダファウンテンを持った大規模な直営菓子店の出現は東京、大阪市民を魅了するに十分であった。

ちなみに、心斎橋に森永キャンデーストアが開店したのは昭和4年3月。大阪市内では堂ビルのあとは高麗橋キャンデーストアが開店している(昭和2年12月)。




《堂島ビルディング》(竣工:大正9年12月、設計:竹中工務店)、『近代建築画譜』(近代建築画譜刊行会、昭和11年9月15日)に掲載の写真。



堂ビル見物を満喫したところで(外から眺めただけでも思いこみたっぷりに堪能)、ふたたび大江橋北詰に戻り、堂島川沿いに天満橋の方角に向ってちょいと歩を進める。川沿いに「なかおか珈琲」という喫茶店があって、なかなかいい感じの風情。堂ビルの1階のドトールで森永キャンデーストアに思いを馳せるという当初の計画をあっさり取り下げて、あとでここでコーヒーを飲んでひと休みしたいなと、ますます気持ちがワクワクしたところで左折して、堂ビルの裏道へと入ると、いよいよ曽根崎変電所の建物が眼前に迫って来た!



正面からではなくて、あえて裏手から曽根崎変電所の建物に近づいてゆく。



なんてかっこいい建物! この尋常でない造形美はいったい! と、ただただ感嘆。しばしたたずむ。そして、このような素晴らしい建物がたくさん残っている大阪という都市にあらためて感嘆だ。



と、ジーンと感動しながらたたずんでいたら、変電所の向こうに見える建物がふと目にとまり、「おや?」と思う。



向こう側に見える建物も明らかに特徴的な近代建築。いったいあれは何かしら! と、あわてて『でっか字まっぷ 大阪24区』(昭文社)を取り出して確認すると、どうやら「大江ビルヂング」という建物らしい。



こうしてはいられないと、曽根崎変電所を一周して、大江ビルヂングの正面へ行ってみる。堂ビルと変電所のことで頭がいっぱいで、大江ビルヂングのことは見逃してしまっていたので、思わぬタイミングで未知の近代建築に遭遇した格好だった。



《大江ビルヂング(竣工:大正10年9月、設計:葛野建築事務所)》、『近代建築画譜』(近代建築画譜刊行会、昭和11年9月15日)に掲載の写真。大江ビルヂングは堂ビルと同じく1920年代の建物でありながらも、堂ビルと違って、竣工当時そのまんまの外観であるようだ。ビルの向こうに見える、平屋の木造の建物が味わい深い。建物の前には自転車がたくさん。裁判所はすぐ近く。場所がら弁護士の事務所が多数入居していたという。



大江ビルヂングのまん前にあった古びた町内掲示板が目にとまる。「絹笠町掲示板」とある。現在は「西天満2丁目」というそっけない町名になってしまったけれども、かつてこの界隈は「絹笠町」と言ったらしい。



《最新大大阪市街地図》(和楽路屋、昭和13年7月10日発行)より、堂ビル界隈を拡大。


と、この地図を眺めて、胸にふつふつと思い浮かぶのは、またしても北尾鐐之助の『近代大阪』(創元社、昭和7年12月)だ。この本が刊行されたのは、御堂筋に地下鉄が開通する直前だった。北尾鐐之助の伝える「近代大阪」は、昭和8年5月の地下鉄開通前のそれである。

 阪急前から大江橋までの道路は、地下鉄の工事がすつかり整頓しても、当分は、両側の建築が出来上らないであらう。広い空地と、板囲いが多い。道路ばかり出来ても、これでは都会に遠い郊外の新開地に何等異らない。

 あるとき、梅田新道のカフヱ・ブラジレイロで、熱いコーヒーを飲みながら、相対する四ツ辻の一角を領した、相互保険会社建築地――といふ、大きな板囲ひを何気なくみてゐると、その空地の中から一点の雲なき夏の夕空に向つて、すーつと、一條の煙りが上つたやうな気がした。
 私はすぐ猟奇的な考へに耽り始めた。カフヱを出て、その方に歩きながら、広い板囲ひの周囲をめぐつて、小さな穴から窺ふと、地下鉄工事の響き、ギヤソリンの煙り、油に光つたアスフアルト道、凄じい警笛、さう云つた一切のものは忽然と消え失せて、板囲ひの中にみゆるものは、身の丈けを歿するやうな茫々たる草原であつた。そして、この都会の秘密原野の中程に、何と驚くべきことには、一枚の油紙を屋根とした小屋がつくられ、わづかに上体をそこに突込んで一人の半裸体の女が寝てゐる。茶碗、鍋、バケツ、空缶、薪、一切のものがそこの草のなかに乱雑に投げだされてゐる。
 大都会……大阪の中央道路[メイン・ストリート]。その一角にある秘密原野。

 私は、尚ほ板囲ひの周囲をめぐつて、一体これらの遊牧民が、人知れずどこから入つたかといふことを確かめやうとした。そして梅田新道の交差点、最も交通の輻輳する舗道の一角で、なるほど、地面を一尺あまり低く掘つて、板囲ひの下をわづかに這ひ出るほどの穴が出来してあり、その穴は、用心深く手頃な石でふさいであるのを発見した。

と、このくだりは、「梅田、曽根崎」の幕切れ。



《太平ビルディング(設計:吉武長一、竣工:大正14年5月)》、『近代建築画譜』(近代建築画譜刊行会、昭和11年9月15日)に掲載の写真。上掲の「梅田、曽根崎新地」にあるとおり、ある日の北尾鐐之助は、このビルの1階の喫茶店チェーン「ブラジレイロ」で梅田新道の交差点を眺めていた。

その「ブラジレイロ」が出していたハウスオーガン、日本前線社の『前線』という雑誌に一時期夢中になっていたことがあった。あっと驚く「モダン都市文化」な誌面で、日本近代文学館の閲覧室で実物を目の当たりにしたときの歓喜といったらなかった。詩人をはじめとする文学者との絡み具合がなにかと見どころたっぷりで、ずっと気になっている。「ブラジレイロ」の『前線』のことを知ったのは、富士正晴『竹内勝太郎の形成』(未來社、1977年1月)で、昭和7年6月に、『前線』から竹内勝太郎に「近代フランス文芸の横顔(枚数御自由)」なる原稿依頼が来ているのを見たのがきっかけだった。富士正晴によると、《これは、ブラジル珈琲の宣伝のためのチェーンストア、喫茶店ブラジレイロの宣伝的意味合いの、はなはだ贅沢な、全頁横組のいわゆるモダンな雑誌であった。この註文は尾関岩二の紹介によるものであった。(p513)》とのこと。



杵屋栄二《大阪市電2000形/梅田新道》、『杵屋栄二写真集 汽車電車』(プレス・アイゼンバーン、1977年10月10日発行)より。左に写る建物は太平ビルで、1階の「ブラジレイロ」の看板がわずかに見える。このブラジレイロの店内で、北尾鐐之助も『前線』に載っている竹内勝太郎の文章を目にしたことがあったかもしれない。



絵葉書《(大阪名所)交通街路整然たる堂ビル附近》。地下鉄開通後の「整然たる」御堂筋を、梅田新道の交差点から堂ビル方面をのぞんだ構図。ブラジレイロでコーヒーを飲んだあと堂ビルに向かうととしたら、こんな視覚を目にすることになる。

北尾鐐之助の『近代大阪』所収の「中之島公園夕景」には、

 私は、支庁近くの堂島川に架つた可動堰が、あの辺りの眼界を狭くしながらも、どこか今までにない、モダンな風景を作りだしてゐることに心を惹かれることがある。四辺がだんだんと黄昏れ行つてこの可動堰の上に電燈の点るころ、北に控訴院の赤煉瓦の雄大な建物を背景にして、広い石の面を背景にとつた線の構成には、一種の魅力をもつてゐる。
 また、この橋上から、西の夕やけ空を望んだ景色もすて難い。市庁や、堂ビルや、朝日ビルの美しい燈火と、大江橋、渡辺橋を距てゝ、水に落ちる夕陽と、夕空に描き出される地下鉄工事のクレーヱンの線などが、いくたび、私をして、足をそこに運ばせた

というふうに、大江橋界隈のことが綴られている。1930年代大阪の北尾鐐之助に思いを馳せながら、大阪の町中に立つのはいつだって格別だ。

それから、「赤煉瓦の雄大な建物」の控訴院に絡めて、『近代大阪』所収の「中之島界隈」に以下のようなくだりがある。

……夕陽をうけて真赤に立つてゐる私の好きな控訴院の高塔をみてゐると、あの塔の上に巣をつくつてゐた一羽の鷹のことを想ひ出す。
 いつであつたか、新聞社の伝書鳩が、規則正しく環状線を描きながら、午後の運動をつゞけてゐたとき、突然その列が乱れて、鳩は忽ち見霞むやうな高空に舞ひ上り、更に塵の如く飛散して、悉くいづれかへ姿を消したことがあつた。
 みると、中空高く一点の黒子を描いてゐた一羽の隼は、忽ち弾丸のやうに、大気を突き切つて、生駒方面に逃るゝ二三羽の犠牲者を追ひつゝ、まつしぐらに飛ぶのを見た。
 展開された空の悲劇である。
 ……畜生ツ、またやりをつたー。
 さう云つて、新聞社の鳩係りは、赤い旗を振りながら、口惜しさうに空の一角を眺める。
 その当時、この一羽の隼は、どれほど新聞社の鳩班の脅威となつたことであつたらう。その鷹は、あの高塔の上に巣を作つて、ときどきこの大都会の大空高く、悠々と飛揚しながら、鋭い眼を光らせて下界を瞰下ろしてゐたのである。
 私のために、これほど大きく、これほどすさまじくおもはれた鳥はなかつた。その鷹もいつしかいまではなくなつてしまつた。

鳩、受難! 生駒山を背に堂島川の上の大江橋に立つと、ひとつ先の橋は、今朝にまっさきに立った渡辺橋。渡辺橋の上に立って、正面から朝日新聞社の建物を眺めるのも大好きだし、ちょいと離れて淀屋橋の欄干から朝日ビルディングの建物を見やるのもいつも大好き。堂島アバンザに出かけて、かつての大阪毎日新聞社に思いを馳せるのが嬉しくて、大阪に出かけると、荷物になるというのにいつもついジュンク堂で本をごっそり買い込んでしまう。大阪毎日新聞社には、震災後の大正13年の1月から6月まで、『文楽の研究』前夜の三宅周太郎が通勤していた。その年の6月、築地小劇場が開場し、翌7月に三宅は東京日日新聞に転じた。山名文夫が関西に巡業中の築地小劇場の公演を宝塚で見たのは翌14年の8月末のこと……というふうに、とめどなく思いが及んでゆく。



絵葉書《(大阪)巍然たる大阪控訴院の大景》。



矢倉茂雄『人生初年兵』(P.C.L.・昭和10年12月封切)の大阪バス遊覧のシークエンスより、だぶん難波橋を渡っているときのショット。真ん中に見えるのがたぶん堂ビルで、右手前の建物がたぶん控訴院だ! 堂ビルの左にアドバルーンが高々と掲げられているのが見える。



《大阪大江ビル屋上のアドバルーン》、『味の素沿革史』(味の素株式会社、昭和26年3月10日発行)、「第五章 広告及び宣伝」より。「ゴシンモツは味の素」のアドバルーンが大阪の夜空に輝いている。「味の素」の下にうっすらとクラブ化粧品らしきネオンが見える。この写真に写っている広告塔が、『モダニズム出版社の光芒 プラトン社の一九二〇年代』(淡交社、平成12年6月)に紹介されていた、夜になると堂島川の川面に輝いてい堂ビルの「クラブ白粉」「クラブ石鹸」の広告塔だと思われる。



大江橋北詰には、すばらしき近代建築が3つもひしめいていて、興奮しっぱなしだった。興奮しすぎたので、ちょいと気を鎮めようと、先ほどの計画どおりに、堂島川沿いに位置する「なかおか珈琲」というお店でコーヒーを飲んで、ひと休み。オフィス街の日曜日の喫茶店は閑散としている。平日の店内はどんな感じなのかな、ワイワイガヤガヤしているのかなと、ふだんの店内に思いを馳せながら、静かな店内でコーヒーをすすって、すっかりいい気分。「なかおかブレンド」500円はとてもおいしかった。本日午前中の1杯目のコーヒーの松屋町のカフェと両極的に、閑散としたオフィス街の休日の閑散とした喫茶店での時間も格別だった。町歩きの折にちょいと気が向くと、すぐにいい感じの喫茶店に行き当ってコーヒーを飲むことのできる大阪の町のなんとすばらしいこと!

と、近代建築を堪能したあとで堂島川沿いでコーヒーをすすって、大阪への愛で全身が満たされたところで、時刻はちょうど正午。計画どおりに、本日2本目の大阪市バス、103系統の大阪駅発なんば行きのバスに乗らねばならぬので、乗り損ねたら大変なのでちょいと早めに堂ビル前の大江橋停留所に立つ。御堂筋を南下するバスは本数が少なく、1時間に1、2本なのだった。御堂筋をバスで走りたい! という一念のもと、ぜひとも乗ってみたいバスだった。



先ほどの62系統のバスは淀屋橋で左折してしまったけれども、103系統は御堂筋をそのまま直進。ほどなくして、右手にガスビルの建物が見えてきた瞬間の歓喜といったらなかった。今回はカメラを構えて準備万端、キャッ、ガスビル! と思った瞬間にシャッターを切ったら、なんとか写っていてよかった。またいつの日か、ガスビル食堂に行きたいなと思う。


大江橋から御堂筋をバスで走って、あっという間に終点の難波に到着。こちらもあっという間だったけど、ああ、たのしかった! このたびの大阪市バスはこれにておしまい。今度の大阪遊覧のときは、どの路線に乗ってみようかな。


(つづく)