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続・桐生遊覧日記:のこぎり屋根と成瀬巳喜男と南川潤。吾妻橋の夜。

東京近郊ピクニック

桐生市立図書館の地域資料室で、昔の町並み探索


午前9時。宿を引き払って徒歩数分、イソイソと桐生市立図書館へ向かう。野間清治の石碑をフムフムと眺めてから、館内に足を踏み入れる。子供時分に休日が来るたびに出かけていた、都内のとある図書館(建て替えられて今は新しくなっている)とよく似た雰囲気だなアと、高い天井の下でしばしたたずむ。日本のミッドセンチュリーというような公共の建物がいつも好きだ。壁や床がひんやりと薄暗い。二階の地域資料室へと突進して、南川潤をとりまく戦前昭和の文壇資料を読みふけったあと、桐生の昔の写真が載っている本を眺める。





天利秀雄監修『明治・大正・昭和 思い出のアルバム 桐生』(あかぎ出版、1982年9月)より、《初期の町並み》として見開きに掲載されている写真。通りのずっと奥の右沿いに小さく見える望楼が、成瀬巳喜男の『妻の心』に映っていたのとおんなじだ! とまずは望楼に興奮、手前に大きく見えるモスクのような丸屋根も目を引く。





同書に、《昭和最初期の足利銀行と金善ビル》として掲載されている写真。丸屋根は足利銀行の屋根。《大正に建てられたこの建物も街のシンボルだった》とある。残念ながら足利銀行の丸屋根はもう残っていないけれども、向こうに見える金善ビルは今も桐生の本町通りのシンボル的な存在。今日はこれからこのあたりを歩くのだと、図書館の閲覧室で胸躍らす。





成瀬巳喜男『妻の心』(昭和31年5月3日封切・東宝)の最初のショット。映画の舞台となる桐生の本町通りを俯瞰したショットではじまる。『妻の心』で初めて桐生の町を目にしたとき、この望楼が鮮烈な印象だった。






というわけで、閲覧室で望楼を探し、とりあえず発見したのが、この2枚。上が上掲書より《三丁目の望楼》、下は『桐生のあゆみ』(桐生市役所、昭和36年4月)より《望楼 昭和3・4完成(本町3丁目)》、現在の本町分署とのこと。





吉田初三郎《桐生市鳥瞰図》(昭和9年10月30日発行)より、望楼を探してみると、「警察署」のところに小さいながらもしっかりと描きこまれてある。そして、桐生川に沿って桐生駅に向かって煙をモクモク吐き出して走っている汽車の絵が愛らしい。桐生川から分岐して、線路と平行に流れている川は埋め立てられ、今は「コロンバス通り」となっていて、たとえば「川岸町」という町名や「新川公園」にその名残りを見出すことができる。図書館に来るときに横断した道路もかつては川だったのだなアと、東京や大阪とおなじように、町歩きをしながらかつての「水辺」に思いを馳せるのはたのしい。





《新庁舎の落成》、小林一好監修『写真集 桐生市80年 1921〜2001』(あかぎ出版、2001年5月)より。桐生の市制が始まった大正10年に落成の桐生市役所。「1920年代日本」における桐生、ということを思う絶好の建物、洋風木造瓦葺2階建ての桐生市役所。





昔の町並み写真と初三郎の鳥瞰図を対照するのにすっかり夢中。初三郎の鳥瞰図から桐生市役所を探す。かつて市役所は、西桐生の駅から徒歩数分の「織物同業組合」の建物の北側に建っていた。市役所の建物はなくなってしまったけれども、正確には「織物協同組合」の建物は「桐生織物記念館」として今も健在だ! というわけで、今日帰るときに西桐生の駅に向かう途中、最後に見物に出かけるとしようとハリきる。





などと、昔の写真を眺めているだけで、桐生観光のよろこび全開であったが、昨日の日没前後の錦桜橋からJRの線路下に到るまでの「のこぎり屋根」めぐりの余韻がずっと胸にくすぶっている。なにかよい資料はないかしらとふと思いたって、ガバッと立ち上がり、NDC520 あたりを適当に眺めてゆくと、『のこぎり屋根シンポジウム のこぎり屋根のあるまち桐生からの発信 実施報告書』(ファッションタウン桐生推進協議会/桐生商工会議所/財団法人日本ファッション協会発行、2003年3月)、というA4判の全92ページの冊子を発見、「どれどれ」と手にとってみると、なかなかの充実度で「桐生の町に今もたくさん残る『のこぎり屋根』って、なんだろう?」というようないたってぼんやりした疑問というほどでもない気持ちに、余すことなく対応してくれていて、資料としても読み物としてもモクモクとおもしろくて、これはすばらしい! と大興奮だった。



同書の「前書」は、《ノコギリ屋根は、産業革命の繊維業発展に伴って考案された屋根構造で、日本では明治年間から使われ始めた。おもに工場として、用いられてきたため、工場というと、一般的にノコギリ屋根を連想されるのではないだろうか。》というふうにしてはじまる。次章から、桐生の織物業と、機屋工場としての「のこぎり屋根」工場の明治期から戦後昭和にかけての推移について論じられており、「とりあえず知りたかったことはここに全部書いてある!」とランランと読みふけっては、ノートにあれこれメモ。歴史と伝統のある町の繁栄(その後の「衰退」をも含めて)の歴史・地誌・建物・産業などを自分なりに把握して、近代日本の概観(の真似ごと)をしているつもりになる、というようなことに夢中なのだった。



『のこぎり屋根シンポジウム』の「桐生織物業とノコギリ屋根工場(機屋工場)」によると(p9)、大正期の世界大戦の好況は桐生においても例外ではなく、大正8(1919)年がその絶頂だった。好況を反映するようにして、力織機に電力が普及するようになり、機械性工場の増加が桐生の町なかの「のこぎり屋根」を増加させることになり、ここで1920年代を迎える。桐生の「のこぎり屋根」を語るということは、「1920年代日本」を語ることにもなるのだなアと、近代日本の産業を通した町並みや交通や商業の絡みにワクワク。このあとの町歩きがますますたのしみになるというもの。


第一次大戦の好況の反映としての「のこぎり屋根」の増加は、1920年代の不況期にはいかなる展開を見せたかというと、好況時にも増して、不況時は「のこぎり屋根」がますます増加してゆくこととなった。これは、不況期には価格を安くし量産化する必要からさらに工場化が促進したため。

力織機の上にジャガードを乗せ動力で運転するということは、高い天井を必要とするし、すばやく織り疵を見つけ品質の良い織物を織り出すにも北面からの光を取り入れることが重要であり、のこぎり屋根はうってつけの工場建築であった。(p11)

同書の第2章「ノコギリ屋根の特徴」によると、桐生におけるノコギリ屋根の90%が北面から光を取り入れる構造になっているという。

この北側採光は、直射日光がほとんど入らず、一日中、変動の少ない光環境が得られ、その上、照度分布も均一である。ノコギリ屋根がつくられた、明治から昭和半ばにかけては、今のように電気は普及しておらず、安定した照度は得られなかった。そういった時代にあって、北側採光は、必要不可欠だったといえる。(p16)

昭和初期の大不況を迎えても、桐生の「のこぎり屋根」は減少することなく、むしろ桐生産地では昭和10年に景気の絶頂期を迎えていて、昭和10年という年は「のこぎり屋根」がひときわ急増した年だった(同書に掲載のグラフで昭和10年が群を抜いていることが一目でわかる)。すなわち、《昭和10年代前後は、桐生産地の黄金時代であったし、同時にノコギリ屋根の全盛期でもあった(p13)》。戦時下は織物業は転廃業を余儀なくされたが、戦後復活、昭和30年代は順調に発展していたが、昭和40年代から急速に減退し、現在に至っているという。



……というような、桐生における「のこぎり屋根」をとりまく変遷をきわめて大雑把に概観しただけでも、これまで何気なく通り過ぎては「いいな、いいな」と眺めていた桐生の町並みにいっそう親しみが湧くのだった。桐生に市制が敷かれたのは大正10(1921)年7月2日、このとき上掲写真の市役所が竣工している。単純に図式化してしまうと、「桐生市」のあゆみは、「のこぎり屋根」がますますの増加していった1920年代とスタートをともにしているというわけなのだった。


昨日の夕方に見物した大正6(1917)年竣工の「旧模範工場桐生撚糸合資会社事務所棟」であるところの絹撚記念館は、第一次大戦の大正の好況時、いよいよ桐生の織物業が隆盛しているときに建てられた建物だ。昨日の日没時にワインを飲む直前にたたずんだ、現在は美容室になっているかつての「旧堀祐織物工場」の「のこぎり屋根」は大正10年の建物、『のこぎり屋根シンポジウム』でが概観したとおりに、不況時のますます機械化が増大した時期を象徴するような立派な工場だったと、今になって思う。


昭和の不況時にもグングン成長した桐生の織物業、上毛電鉄とモダーンな駅舎の西桐生駅の開業は昭和3年、昭和7年には東武と連絡するようになった。昭和7年は、桐生の「のこぎり屋根」が最高潮だった年、桐生市の上水道が給水を開始したのも昭和7年だった、と、昨日の午後に大川美術館のあとに水道山排水地の麓をいい気分で歩いたことを懐かしく思い出す。昭和19年3月、南川潤がそれまで住んでいた大森を引き払って夫人の実家のあった桐生に疎開し、昭和30年9月に没するまで桐生の「文化人」として、桐生の町に暮らした。成瀬巳喜男の『妻の心』の封切は翌昭和31年5月。桐生の織物業の戦後の隆盛の時期を迎える頃の桐生の町並みが記録されている。……というようなことを思って、昨日の町歩きがますますよい思い出となって心に残り、そして、今日のこれから日没までの町歩きがますます楽しみになる、図書館の閲覧室のひとときだった。



そんなこんなで、桐生市立図書館の地域資料コーナーを満喫したところで、ふたたび外に出ると、もわっと蒸し暑い。西桐生駅の待合室で昨日入手してからというものたいへん重宝するあまりに、早くもボロボロになりつつある『駅からめぐる近代化遺産 桐生市まちなか散策案内図』(桐生市教育委員会 文化財保護課)を開いてみると、図書館の近くに1軒だけ「のこぎり屋根」が残っている。さっそく行ってみる。





蔦に覆われて廃墟感のただよう「のこぎり屋根」。『のこぎり屋根シンポジウム』に掲載の全リストによると、これは戦前の織物工場、採光面は北を向いている。今日はこのあと、思う存分「のこぎり屋根」をめぐる、その絶好の序奏。





JR両毛線の桐生駅を横断して、駅の反対側へ向かうその途中、高架を湘南電車の車両が走っているので「おっ」となる。緑と橙のツートンカラーの湘南電車が東海道線の線路を走っている光景は2006年3月をもって見ることはなくなったけれども、こんなところで走っていたのだなあとちょっと感激。東武のことしか頭になかったけれども、いつか両毛線にも乗ってみたい気がする。





《昭和30年代の第1踏切付近》、小林一好監修『写真集 桐生市80年 1921〜2001』(あかぎ出版、2001年5月)より。今はなんとなく殺風景な桐生駅周辺だけれど、高架化の前はなかなかの風情。




「のこぎり屋根」を見物しつつ桐生の路地を歩いて、旧レース工場の採光のもとで昼食。

午前11時半。桐生駅前からバスに乗って、本町1丁目の停留所で下車。駅前から末広通りを直進して、本町通りとの交差点で右折して、山に向って直進。ほどなくして目当ての停留所にたどりついた。末広通りはかつては商店がひしめいていたと思しき駅前の繁華街だけれど、今では半分以上が営業をやめている様子、古くて素敵な建物がたくさん残っているので、バスの車窓からの建物見物がたのしい分、これらの店舗が現在も営業中だったらどんなによかっただろうと思う。左折して直進する本町通りは、桐生のメインストリート。こちらもところどころに残る近代建築が見どころたっぷり、あっ、金善ビル! あとで心ゆくまで見物できればいいなと思ったところで、目当ての停留所に到着。降りたとたんに、いかにも古びた木造建築が林立しているのが目にたのしい。ふつふつと嬉しい。





車のたくさん通る本町通りを避けて、これから静かな路地を歩くとしようとした、まさにそのとき、大川美術館の茂田井武のポスターに遭遇して、昨日の大川美術館を思い出して、嬉しい。今回の桐生町歩きにおいては、この茂田井武のポスターにあちらこちらで遭遇して、そのたびにいい気分になっていた。





本町通りの脇の、桐生川に向かった路地へと入ってしばらく歩いたところで遭遇した「のこぎり屋根」。見るからに古びた木造建築はあちらこちらで健在。このあたりは東久方町で多くの「のこぎり屋根」が残っている。戦前の建物が多い。





せっかくなので桐生川を見にゆく。これは稲荷橋の上から桐生川の向こう側に見えた「のこぎり屋根」。川沿いの工場の採光面は法則どおりに北側。『まちなか散策マップ』には「南川潤住宅」の記載もあり、桐生川の向こう側が終の棲家だったのだなあと、稲荷橋に立って「南川潤住宅」の方をしばし眺めた。川沿いに立つと、周囲の山なみがひときわ目にたのしい。





ふたたびもと来た道を戻り、東久方町の「のこぎり屋根」をめぐる。採光面の窓が北面を向いているサマがよく見える。窓の格子が味わい深い。これは昭和30年代の建物であるようだ。





路地の向こうにかろうじて見える「のこぎり屋根」。古い蔵が林立しているのが嬉しい。あの屋根の向こうには桐生川が流れている。採光面が西を向いている珍しい例。瓦屋根のこの工場は昭和23年の建物。





くっきりした瓦が見た目にも鮮やかな「のこぎり屋根」。法則どおりに北面に向かって採光の窓が据えられている。外壁は「南京」。路地沿いの窓の幾何学的配置が美しい建物で、しばし見とれてしまった。





『桐生本町一・二丁目まち歩きマップ』(桐生市都市計画課発行)によると、この建物は「旧住善織物工場」で現存する市内唯一の鉄筋コンクリート造りの「のこぎり屋根」工場とのこと。大正11年の建築で、4つの「のこぎり屋根」が連なる比較的大規模の工場。屋根はスレートとトタン。現在はアトリエとして使用されている。






東久方町界隈のこれまでの「のこぎり屋根」めぐりで、ひときわ感激したのが、この建物。外壁の大谷石がハッとするほどの美しくさ。さいわい駐車場からじっくり見物することができた。昭和2年築の斎憲テキスタイルの工場で、現在はワイン貯蔵庫として使用されている。昭和初期の5棟の大規模な工場は、『のこぎり屋根シンポジウム』で見た昭和初期の桐生織物の隆盛を象徴しているかのよう。





東久方町界隈の「のこぎり屋根」めぐりのひとまずのゴールは、現在「ベーカリーカフェレンガ」として営業中の、「旧金谷レース工業株式会社鋸屋根工場」。『まちなか散策マップ』には、《金谷レース工業の前身である旧金芳織物により大正8年に建築された市内に現存する唯一の煉瓦造鋸屋根工場です。現在はベーカリーカフェレンガのパン工房、店舗として活用されています。》と解説されている。観光と食事と休憩とを同時に満たすことのできる「ベーカリーカフェ―レンガ」、観光客としては見逃すわけにはいかぬのだった。





盆地ならではのねっとりとした温気のなかを練り歩いて、さすがに疲れたかなという頃に、旧金谷レース工業の工場の「ベーカリーカフェレンガ」の建物が見えてきた! 屋根はスレート、外壁はレンガの4棟の工場。採光はやはり北向き。





今まで数件の「のこぎり屋根」をめぐったあとで目の当たりにすることで、桐生唯一の外壁がレンガの「のこぎり屋根」工場で、ちょっと新鮮な感覚。大正8年、第一次大戦の好況時、いよいよ桐生の市制施行がせまって、いよいよ織物業の産地として隆盛をきわめる頃の建物。桐生の「大正」をおもう。





大正8年の「のこぎり屋根」のレンガ工場の隣りの事務所棟は、昭和6年のスクラッチタイル張りの南国ふうの建物。丸窓などの、いかにも昭和初期の細部の意匠が目にたのしい。こちらでは、桐生の「1930年代」をおもう。




建物の前は駐車場、時分どきでもあるので、店内はたくさんのお客さんで賑わっていた。今まで桐生を歩いていて、ここまで活気に満ちている場所は初めてかも。わーいわーいと足を踏み入れて、本日の昼食とする。パンはとてもおいしく、店内はとても居心地がよくて、なにもかもがすばらしかった。






昨日の夕方からずっと「のこぎり屋根」にのめりこんでいたあとで、初めて工場の内部に入ることができて、感激もひとしお。北側に向かう採光面を見上げて、ふつふつと嬉しい。高い天井の開放的な空間で、往年の工場を彷彿とさせる穏やかな採光が美しい。食後のコーヒーをすすりつつ、その空間を心から満喫するのだった。




成瀬巳喜男の『妻の心』のロケ地めぐり。桐生の路地を歩いて、成瀬巳喜男の映画設計をおもう。

旧金谷レース工場の「ベーカリーカフェレンガ」でたっぷり休憩して英気を養ったところで、ふたたび本町通りに出て、ビュンビュン車が通る本町通りの歩道を直進して、次々に目に映る低層の古い建物をたのしみつつ徒歩数分、『桐生まちなか散策マップ 駅からめぐる近代化遺産』にて華々しく紹介されている「有鄰館(旧矢野蔵郡)」と「矢野園(矢野本店店舗及び店蔵」のまん前にたどりついたときは、万感胸に迫るものがあった。しばし陶然とたたずむ。





向って左の煉瓦の建物は、《江戸から大正期に建築され、酒・醤油・味噌などの醸造や商品の保管に使用されていました。現在はまちなみ保存の拠点「有鄰館」として多目的な活用がされています。》と解説されていて、右手の見るからに古い商店建築は《近江(滋賀)より江戸時代に来桐した矢野氏の2代目久左衛門がこの地に店を構え現在に至っています。店蔵は明治23年以前の建築と考えられ南側に接する店舗は大正5年建築の江戸風商家構えとなっています。》とのこと。



と、「有鄰館」と「矢野園」の建物のまん前にたどりついて、万感胸に迫るものがあったのは、これらの建物が、成瀬巳喜男の『妻の心』のスクリーンそのまんまだったから。





成瀬巳喜男『妻の心』(昭和31年5月3日封切・東宝)より、上は映画の冒頭に写る、自転車に乗る桐生の老舗の薬屋の主人・小林桂樹。






こちらは映画のラスト。いかにも成瀬巳喜男の典型という感じに、冒頭と同じロケ地が登場するという円環的手法。上は、本町通りを行き交う妻と夫・高峰秀子と小林桂樹。高峰秀子の左手に見える「矢野園」の建物には「キリンビール」の看板、小林桂樹の背後に見える商店に「明治コナミルク」の看板がうっすらと見える。『妻の心』に登場するビールは瓶や看板のすべてが「キリンビール」。明治製菓タイアップは目を凝らしてやっと発見できる程度だけれど、いくつか見受けられて、にんまりだった。





『妻の心』のラストはひと波乱を経て、和解へと日常へと収束する高峰秀子と小林桂樹を象徴するような、「矢野園」の向かいの通り(恵比寿通り)へと入ってゆくショット。





映画と同じアングルで「矢野園」と脇の路地をのぞんでみる。路地の奥の蔵が『妻の心』当時とまったく変わっておらず、感激なのだった。現在の「矢野園」正面の「キリンビール」の大きな看板が、いかにも古びているのに、しかも「キリンビール」なのに、スクリーンには登場していないのはなぜだろう。





『妻の心』のラストに映る高峰秀子と小林桂樹の背後の路地が、今もまったくおんなじ風情で、いつまでも感激にひたる。しばし歩を進めて、静かな路地を満喫。





「旧金谷レース工場」での昼食をもって、「のこぎり屋根」工場めぐりをひとまず切り上げて、午後は成瀬巳喜男の『妻の心』のロケ地訪問といこうではないかと、「有鄰館」と「矢野園」の建物の前で大いにハリきる。「矢野園」脇の小路からふたたび本町通りへと戻り、上掲の『妻の心』ラストの高峰秀子と小林桂樹のショットそのまんまに、本町通りを横断したその先の「恵比寿通り」を直進する。恵比寿通りを直進すると、「山手通り」に行き当たる。山手通りは、桐生の町の高台と平地の境目に位置する車道で、西桐生駅から大川美術館に向かうときも、この山手通りを左折して高台に入っていたのだった。



このたびの夏休みの桐生ピクニックにあたって、成瀬巳喜男の『妻の心』を舐めるようにじっくりと見直して、桐生町歩きでひときわたのしみにしていたのが『妻の心』のロケ地めぐりだった。映画の冒頭に映る本町通りは、桐生を一度訪れたあとで見れば、今も映画の町並みが濃厚に残っているので、すぐに本町通りであることがわかるのだったが、映画のクライマックスの、高峰秀子と三船敏郎の雨宿りのシークエンスのロケ地について、桐生が岡公園であることと雨宿りをする建物が現存しているということは、「成瀬映画に登場する風景写真(http://www5c.biglobe.ne.jp/~nuage001/photoindex.htm)」の『妻の心』の項(http://www5c.biglobe.ne.jp/~nuage001/photo25tsumanokokoro.htm)のおかげで知ることができて、大感激だった。絶対に行く! と、『妻の心』ロケ地めぐりがますますたのしみになった。


という次第で、桐生が岡公園が待ち遠しい! と、恵比寿通りをズンズン直進し、ほどなくして車がビュンビュン走る山手通りに行きついた。道路を横断した正面が高台になっていて、その崖に沿うようにして、車道の脇に一段高く歩道が敷かれ、ちょっとした散歩道になっている。この散歩道を、『妻の心』の高峰秀子と三船敏郎が歩いていたのだ。と、いざたどりついてみたらいかにも『妻の心』のスクリーンでおなじみの景色が眼前に広がり、いざたどり着いてみると、さらに興奮なのだった。車に轢かれないように気をつけながら、小走りして道路を横断、一段高い歩道へと上がり、崖に沿って歩を進める。





と、山手通りを右折して崖に沿うようにして敷かれた一段高い歩道をしばらく歩いてゆくと、『妻の心』で高峰秀子と三船敏郎が並んで歩いていた場所だと確認できる地点に行き当たる。映画では、向こう側からこちらに向かうようにして、二人は並んで歩いてきたのだった。






『妻の心』より、向こう側から高峰秀子と三船敏郎が歩いて来るところ。映画当時は、丘の斜面がいかにも造成仕立てな雰囲気。今はだいぶ古色蒼然としている。右手に写る歩道から道路に降りる石段の形状はまったくおんなじで、向こうに見える山の斜面の様子も『妻の心』当時とまったくおんなじ、一段高い歩道から見下ろす桐生の町並み、建物の屋根が連なる様子もまったくおんなじだ!





このシークエンスの撮影スナップが、『高峰秀子』(キネマ旬報社、2010年3月30日)の『妻の心』のページに掲載されている。

「三船さんと私がドブみたいな用水路の側を歩いてるシーンを撮る時、三船さんがドブに落っこちゃったの(笑)。二人で話しながら歩いてるのに、三船さんがちっとも私の顔を見ないから、成瀬さんが「三船君、ちゃんと高峰さんの顔を見て!」って言ったら、三船さん、私の顔を見ながらだんだん後ずさりして、しまいにドブにはまっちゃった。そういう真面目な人でした。でもこの時の三船さんはとっても良かったですよ」

という高峰秀子の談話が添えられていて、たいへん微笑ましい。このシーンに限らず、『妻の心』では映画全体で三船敏郎の好演が実にいいのだった。






上掲のショットのあと、三船敏郎と高峰秀子がアップになったあとで、スクリーンはふたたび遠景となる。





と、そんな『妻の心』のシークエンスを胸に反芻しながら、もと来た歩道をいい気分で歩いてみる。今は崖の石垣が鬱蒼となっているけれども、地勢はまったくおなじ。『妻の心』のスクリーンに映る大きな木と、この写真に写る大きな木は同じ木かな、どうかな。





以上のシークエンスの後日、高峰秀子と三船敏郎はふたたび同じ場所を二人で歩いて、今度は丘の上の公園を散歩し、通り雨にあってしばし二人きりで雨宿りをするという、映画のクライマックスを迎える。三船敏郎は前回とおなじ背広姿だけれど、高峰秀子の着物は縞に変わっている。先ほどの石段の斜めに丘の上へと続く坂道があり、この日の二人は丘の上へと登ってゆく。





と、『妻の心』のシークエンスを追憶しつつ、坂道を登ってゆくと、写真の石段がある。あまりに鬱蒼としていて、あまりに人気がなくて、このまま直進して大丈夫なのかちょっと不安になりつつも、ゼエゼエと登ってゆくと……。



石段の先には、ただっぴろい公園というか広場があり、この広場が「桐生が丘遊園地・動物園」の入口になっている。これまで桐生の町を歩いてきて、これほど多くの子供たちを見たのは初めてというくらいに子供たちが大勢ワアワア駆け回っている。家族づれの行楽客が思い思いにくつろいでいるサマがとてもいい雰囲気だった。公園には飛行機などと乗物がいくつか置いてある(電車があったら嬉しかった)。広場の脇に動物園の入口があり、さらに高台にゆくと遊園地があるらしい。昔ならではの遊園地が好きなので、体力と気温と湿度と時間に余裕があったら、ぜひとも行ってみたかった。残念。





吉田初三郎《桐生市鳥瞰図》(昭和9年10月30日発行)より、「桐生岡公園」附近を拡大。土地の造成の感じがリアル。鳥瞰図の裏面に記載されている解説の「市内及近郊の名所旧跡」の項に、「桐生岡公園」は、

宮本町にある丘陵にして勅撰拾遺和歌集に載れる清原元輔の
  朝 ま た き 桐 生 の 岡 に 立 つ 雉 は 千 代 の ひ つ ぎ の は じ め な り け り
と詠ぜし皇家吉端の勝地と稱せらる。櫻、躑躅の名所として世に聞え、造園の巧を極め配する假山奇石四阿を以てし四季の花木妍を競ふて行樂の人を慰め各種の禽獣など飼ひて一人の感興を添へり。又園内には記念碑銅像軍事参考館等諸所に散在せり。

と解説されている。動物園は戦前からあったらしい。






実際に歩いてみると、『妻の心』の高峰秀子と三船敏郎はずいぶん急な坂道を登ったものだと感心してしまうが、二人はここで通り雨に合い、しばし「小憩所」で雨宿りをする。




と、「成瀬映画に登場する風景写真(http://www5c.biglobe.ne.jp/~nuage001/photoindex.htm)」の『妻の心』の項(http://www5c.biglobe.ne.jp/~nuage001/photo25tsumanokokoro.htm)にあるとおりに、『妻の心』で高峰秀子と三船敏郎が雨宿りをする喫茶休憩所の、外枠だけが現存しているのだった。ワオ! とこの建物が視界に入った瞬間、よろこびのあまり思わず小走りしてしまった。この写真の松は、『妻の心』のスクリーンに映る松と同じ木かな、どうかな。







『妻の心』では椅子とテーブルが配置されていて、窓のガラスの形状もなかなか洒落ていて、ここではキリンビールも飲むことができるらしい。高峰秀子と友人・杉葉子とその兄・三船敏郎は、昔は三人でこのあたりをよく散歩したという。懐かしく談笑しているうちに、三船敏郎が何か言いだそうとして、二人の間に緊張が走ったところで、売店のおばちゃんがひょっこり登場して、結局何も言いだせない三船敏郎。雰囲気をぶち壊しにするおばちゃんの右下には「明治オレンジジュース」の箱が置いてある。雨がやんだところのショットでは、壁面にキリンビールのポスター。ロケと思われる売店の店内だけれど、キリンビールに明治製菓としっかりとタイアップ広告がほどこされているのが微笑ましい。





と、ロケと思われるけれども、小道具の配置がなかなか洒落ていて、中古智らスタッフがなにかしら映画用に作りなおしているように見える『妻の心』の喫茶休憩所。今では写真のようにガランとしている。






しかし、休憩所から広場をのぞむと、『妻の心』当時も現在もまったくおんなじ雰囲気の、子供たちの遊び場なのだった。





山手通りを背後に、ふたたび本町通りに向かって、テクテク歩いてゆく。場所の特定はできないのだけれど、いかにも成瀬巳喜男が『妻の心』で記録している桐生の路地を、勝手な思い込みだけれどあちらこちらで鮮やかに体感できて、いつまでも上機嫌。山手通りに沿って、「のこぎり屋根」などいくつか見物に行きたい建物があったというのに、頭のなかはすっかり成瀬巳喜男のことでいっぱいなのだった。『妻の心』の冒頭とラストに映る本町通りを目指して、適当に路地を曲がってジグザグに歩いてゆく。







『妻の心』の十字路のシークエンス。老舗の薬屋の嫁の高峰秀子にはたまに遊びに行くよき相談相手の昔からの友人・杉葉子がいて、そのお兄さんが銀行員(足利銀行?)の三船敏郎。絶妙な距離感で並んで歩いている二人は、とある十字路で分かれる。振り返る三船敏郎と、振り返ることなくスタスタと歩いてゆく高峰秀子。そこはかとなく高峰秀子を恋慕している三船の好演がいい! この十字路はどこなのか、わたしには判断ができなかったのだけれど、もちろん町並みはずいぶん変わっていはいるけれども、背後に写る瓦屋根の民家とか、町の周りの山の感じは今でも鮮やかに体感できる気がする。





こちらは、映画が始まったばかりの頃、桐生の路地を歩く高峰秀子。背後の山の形状が上掲の十字路のシークエンスのときと同じ!





三船敏郎が歩いているこの通りの柱に「カニ川小路」と書いてある。桐生駅から本町通りに向かうバスでしばし走っていたJRの線路と平行の桐生の繁華街の末広通りと平行している、線路寄りの通りであることを事前に調べていたのだけれど、今回は行き損ねてしまった。がっくり。





高峰秀子が友人・杉葉子を訪問するショット。妹と同居している三船敏郎がドブ掃除をしている。こんな感じの路地を、「のこぎり屋根」工場めぐりの折に何度も歩いていたような気がする。





そんなこんなで、恵比寿通りではない道をテクテク適当に曲がったりしながら、本町通りへと向かっていたので、先ほどよりだいぶ駅寄りのところに出た。金善ビルはすぐそこにあった。





『妻の心』の最初のショットは前掲の本町通りを俯瞰したショットで、その次のショットが、この金善ビル沿いの商店を写したショット。





本町通りを横断して、金善ビルを眺める。『桐生市まちなか散策案内図』には、《明治9年創業の金善織物により大正10年頃に地下1階地上5階建てとして建築されました。初期の鉄筋コンクリート製ビルとして建築されました。初期の鉄筋コンクリート製ビルとして貴重な建物です。現在は一部が飲食店として活用されています。》と解説されている。





『妻の心』のショットと同じ角度で、金善ビルを眺めてみるべく、少し遠のいてみると、金善ビルの並びはコンビニエンスストアになっていたりと、瓦屋根の風情は残っていないけれども、靴とバッグを商う「マルカツ」の屋号がいまでも健在で興奮だった。





《桐生市内を走る毛武自動車のバス》、『東武鉄道百年史』(東武鉄道株式会社発行、平成10年9月)の412ページに掲載の絵葉書。表面に「(桐生名物)桐生市本町通」と記載されている。昭和初期の本町通りを写す絵葉書に写る金善ビルの向こうには、モスクのような足利銀行の建物。





成瀬巳喜男が『妻の心』の舞台を桐生に設定した経緯については、たいへん気になりながらも未調査なのだけれど、取り急ぎ『成瀬巳喜男 演出術』(ワイズ出版、1997年7月)を参照すると、『妻の心』の脚本を単独で執筆した井手俊郎は、《あれは東京の街じゃなくて、千葉とか群馬を舞台にしたものがやりたくて桐生へ行ったら、そこが気に入ったんですね。》と証言している。一方、『映畫読本 成瀬巳喜男』(フィルムアート社、1995年1月)の『妻の心』の項で、田中眞澄が、《舞台を地方の小都市に移し、家族の人員をふやし、その結果、ヒロインは妻であると同時に嫁の立場でもある。人の出入りの多い商家の設定は過去の東京下町ものに類似して、東京に薄れつつあった下町的環境を、地方都市に求めたともいえる。》と解説していて、たいへん興味深かった。


桐生の町なかを歩いていると、何度も何度も「東京の昔」を歩いている気分になって、昨日から浮かれっぱなしだった。そして、桐生を歩きながら、『妻の心』に限らず、漠然と成瀬巳喜男の映画を見ているような気分になって悦に入っていた。こんな風景、こんな家屋、こんな路地を成瀬巳喜男の「東京の昔」を写すスクリーンで何度も見ていたような気がする。


成瀬巳喜男と路地というと、大の愛読書、蓮實重彦・中古智『成瀬巳喜男の設計』リュミエール叢書7(筑摩書房、1990年6月30日)の以下のくだりをいつも思い出す。

―――成瀬さんの映画には細い露地がたくさん出てきて、よく、小津安二郎監督が「巳喜ちゃんは、露地がうめえな」と敬服されていたようですが、同じ露地でも、セットの場合とロケの場合と二つあるわけですね。
中古 そういうことになりますな。
―――すると、杉村さんが歩いていて、角をまがるまでがロケーション、まがって細い道になるとセットということが起るわけですか。
中古 そうなんです。そういうときは、キャメラの玉井さんの腕の見せどころで、画面ごとの画調を統一させるわけです。そこらあたりにデザイナーとして私の苦労もあるんです。監督もそうでしょうが、われわれも、ステージのセット装置の発想には、どうしてもロケハンが必要となります。……

と、ここで語られているのは『晩菊』の路地とセットのことだけれど、同じく中古智と玉井正夫コンビの『妻の心』にも見事に当てはまる。「ここまでがロケーション、このあとはセット」という流れが、『妻の心』においても実に見事なのだった。





映画の冒頭、桐生の本町通りのショットが2つ続いたあと、3つ目のショットは高峰秀子の嫁ぎ先の老舗の薬屋のセット。ここでロケから鮮やかにセットへと移行している。





店内から路地をのぞむショットも実によいのだった。薬屋の店内のタイアップ満載と思われる商品の配置も目にたのしく、こちら側を向いている端っこのキューピー人形がチャーミングで頬が緩む。中古智の美術の本領発揮といった感じ。






店の裏の自宅家屋との境目に立つ、薬屋主人・小林桂樹と洗濯ものを干す妻・高峰秀子。と、このお店の裏のセットもすばらしくて、しみじみ感嘆なのだった。





《『妻の心』セット出来上がり見学 右から中古智、玉井正夫、一人おいて成瀬巳喜男、堀川弘通》、蓮實重彦・中古智『成瀬巳喜男の設計』リュミエール叢書7(筑摩書房、1990年6月30日)より。このたびの桐生遊覧にあたって、ロケ地めぐりをすべく『妻の心』を舐めるように見たことで、あらためて「成瀬巳喜男の設計」に開眼した気がして、胸が熱くなった。




「芭蕉」で南川潤をおもう。桐生倶楽部から町を迂回して西桐生駅へ。吾妻橋のビアホールでビールを飲む。


ふたたび本町通りに戻り、金善ビルを眺めたところで、成瀬巳喜男の『妻の心』ロケ地めぐりはおしまい。ここでちょいとひと休みをすべく、かねてからの計画どおりに金善ビルの裏手あたりにある「芭蕉」という名の古い喫茶洋食店へゆく。





「芭蕉」は見るからに古びた民家風のたたずまいで、桐生の路地のあちらこちらで何度も目にしている三角の瓦屋根が嬉しい。『桐生まちなか散策マップ』によると、《昭和12年当初の建物は雪国の夏の作業小屋の材を使用し建てられました。美術、建築に造詣の深い店主により創業から幾多の改装を経て店内は迷路のようです。棟方志功最大の壁画が公開されています。》とのこと。金善ビルの裏手という場所がいいかにも散策に合間に立ち寄るのにぴったりなのだった。



2年前に初めて桐生に行ったのはちょうど、南川潤の戦前都会小説を手当たり次第にホクホクと読んでいた頃だった。南川潤の作品で愛着があるのは、彼が文壇的にもっとも輝いていた昭和十年代の一連の都会小説、つまり大森在住の頃の諸作品で、昭和19年3月に桐生に疎開したっきり東京に戻ることなく、昭和30年9月に急死した南川潤の桐生時代の作品には残念ながらいまのところは好きな作品にめぐりあったことがないのだけれど、南川潤とおなじように昭和十年代の世相のもとで都会小説を書いた文学者たち、すなわち野口冨士男とその周辺を偏愛する身にとっては、当時の若き流行作家で、「三田文学」で嘱目されていた南川潤は常に気になる存在である。「芭蕉」は南川潤が桐生時代に贔屓にしていたお店ということを、前回桐生に行ったときは把握していなかったので、ぜひとも行ってみたいなと思っていた。


そんなこんなで、いつもだったらひるんでしまうたたずまいだったけれども、南川潤を偲びたかったし、そろそろ涼しいところでしばし休憩したかったしで、勇気をだして「芭蕉」に足を踏み入れて、まさに「迷路のような」店内に入ってゆくと、一見の価値ありの稀有な空間。いざテーブルに座ってみたら、いかにも南川潤が座っていたようなたたずまい。まさに時間がとまったような感覚で、そして、不思議ととっても落ち着く。





《女優島崎由起子と芭蕉にて(昭和25年6月)》、『南川潤年譜 ―附 アルバム・追想―』(南川潤文学碑建設委員会、1977年9月)の口絵に掲載の写真。同年、南川潤の『顔役』(初出誌不明)が、衣笠貞之助『殺人者の顔』(東宝・昭和25年4月16日封切)として映画化された際に、『映画ファン』同年7月号で主演女優と対談した際のスナップ。



と、上掲のスナップ写真を2年前から見慣れていたので、「芭蕉」の店内が今でもまったくおなじ印象でジーンと嬉しかった。民芸調で一見したところでは混沌としているけれども、いざ座ってみると、ここまで居心地がよいとは思わなんだというくらいに、居心地がよい。ジャリジャリと荒削りの氷がのどに心地よいシャーベットは素朴な味わいが嬉しく、シャーベットで涼をとったあとで、熱いコーヒーをすすって、スーッと生命が延びるよう。学生の頃に毎週のように長居していた、とある薄暗い喫茶店の穴ごもりの感覚をなんとはなしに思い出して、思えば遠くまで来たもんだ、とちょっと懐かしかった。





2010年がやってきて、冬が過ぎて春になり、初夏が近づいた頃、大川美術館の《茂田井武 ton paris 展》の開催を知り、これを機に桐生を再訪できたらいいなと思った矢先に、絶妙なタイミングで、桐生タイムス社が桐生を舞台にしている南川潤の『窓ひらく季節』(臼井書房、昭和23年9月5日)の復刻版を500円で頒布していることを教えて下さった方があった。こうしてはいれられないとさっそく桐生タイムス社に電話で問い合わせてみると、すぐさまお届け下さり、無事に入手することができて、やれ嬉しや、だった。





『窓ひらく季節 復刻版』(桐生タイムス社、2009年6月発行)。南川潤『窓ひらく季節』女学生文庫第1篇(臼井書房、昭和23年9月5日)の復刻。表紙の挿絵には「NAMIKO」のサインがある。


古本海ねこ(http://www.umi-neko.com/index.html)さんの目録(http://www.umi-neko.com/umi-neko/soleil/himawari.htm)によると、南川潤の『窓ひらく季節』は「ひまわり」昭和22年1月の創刊号より同年末まで連載、雑誌には中原淳一や田代光の挿絵がほどこされている! 桐生に疎開して戦後を迎えた作家と若者たちとの交流を小説仕立てで綴ったもので、たとえば「芭蕉」をモデルにしているお店が

“椿”というその西洋料理店は、本町四丁目の裏通にある。西洋料理店と云えば、ガラス窓の光つている洋風の店がまえを想像するであろうが、この家は知つているものでもうつかり通れば見のがしてしまいそうな、裏通りの家並にまぎれた古風な日本づくりなのである。眞ん中に墨の字で“つばき”と書いた障子格子を二枚立てた片方がいつもあいている。薄ぐらい階下は小間仕切、二階に座敷が二つある。

というふうにして登場している(p43)。



初出誌が「ひまわり」で、臼井書房の「女学生文庫」の最初の本ということで、清く正しく美しい少女小説を期待していたので、作品そのものは肩すかしだったものの、東京から桐生にやってきた南川潤の桐生の町を見つめる実感的な描写に出会えたことはとても嬉しいことだった。南川潤が桐生に疎開直後に最初に住んだ宮本町の高台の吾妻公園に、昭和52年9月、南川潤文学碑が建立された。以下のくだりの一節、「何かしら故郷のようにこの街を愛する心になつている」の文字が刻まれている。

 私が、東京大森から、妻の縁故をたよつてこの街に疎開したのは、昭和十九年の春、もうまる二年以上になる。今では、どうやら住みついたという感じだ。私のように、東京で生れ、東京で育つた人間には、いかに疎開とは云つても、全くの田舎ぐらしは出來ない。この街の、何から何まで東京の殖民地のような、東京のイミテーションみたいな都會風なればこそ、今日のように落付いて暮す氣にもなつたのであろう。その上、東京のイミテーションでほんものゝ東京にすぐれたもの、それは山々がとりまいている惠まれた自然という環境だつた。ことに私の家あたり、東京で云えば郊外の住宅地、そこはもうすぐに、とりまいた山の山裾にあたるのだ。私の家のすぐ裏手には、だるま山という美しい姿の山が北をふさいでいる。そのすぐ下に、サナトリウム、養老院などがあり、山續きに、忠靈塔のある山は、水道山と云つて、配水塔のあるところでもある。このあたり一帯、市指定の風致區域だつた。云わば東京のイミテーションみたいな街が、こじんまりとまるで箱庭みたいに、自然という山脈のとりかこんだ環境の中におかれているといつたぐあいだ。私は東京からの來訪者に、この街を自慢する。
 どうだ、美しい街だろう、
 誰もそれにうなづいてくれる。
 美しい街。わたしはほんとうにそう思つている。今では、疎開者の空々しい気持でなく、何かしら故郷のようにこの街を愛する心になつている。私は、まだ多分しばらくの間は、この街におちつくことだろう。(p3-4)

東京っ子・南川潤が桐生に寄せる思いが率直に語られていて、「東京のイミテーション」という言葉を今の桐生の町でも鮮やかに実感できる気がする。当時の桐生が「イミテート」していた当時の東京、すなわち「モダン東京」を今の桐生のあちらこちらで体感した気になっていたわが桐生遊覧を思い起こしたくなるくだりなのだった。





「芭蕉」ですっかりくつろいで、ふたたび外に出て、本町通りへと戻る。日が暮れるまで、まだだいぶ時間がある。もうちょっと桐生の町を歩きたいなと、「芭蕉」で『桐生まちなか散策マップ』を眺めて、検討の末、旧金谷レース工場の「ベーカリーカフェ レンガ」のあとは成瀬巳喜男の『妻の心』で頭がいっぱいで、坂口安吾が昭和27年2月に転居してきた本町通り沿いの「旧書上商店」の前を何気なく通り過ぎてしまったので、もう一度じっくり見ておきたい気もしたのだけれど、もう残りわずかの桐生遊覧は歩いたことのない道を行ってみようと思って、「桐生倶楽部」の建物を見にゆくことに決めた。本町通りを直進し、末広町通りの交差点を左折して、しばらくすると、右手に「桐生倶楽部」の建物が見えてきた。





古い建物が桐生のあちらこちらに保存状態よく残っているということに、あらためて感嘆なのだった。桐生倶楽部の建物に関しては、『桐生まちなか散策マップ』では《大正8年、社団法人桐生倶楽部により会員のための社交場として建築されたモダンな建物です。明治33年に桐生懇話会として結成した桐生倶楽部は桐生の近代化や文化向上に貢献し現在も活動を続けています。》と解説されている。昭和20年代の桐生の代表的な文化人として尽力した南川潤にいかにも似つかわしいような、モダンな建物。





《桐生倶楽部青年部の仲間と撮る》、『南川潤年譜 ―附 アルバム・追想―』より。桐生倶楽部の前庭で撮影の写真。桐生タイムス社により復刻された上掲の『窓ひらく季節』に描かれている桐生の青年たちとの交流は、昭和22年3月に発足した「桐生倶楽部青年部」の雰囲気をよく伝えている。





おなじく『南川潤年譜』より、《桐生高校の講演後、桐生倶楽部にて十返肇と長編小説「行為の女」について語る南川潤(昭和30年9月)》。昭和30年9月17日、桐生の「文化人」南川潤の懇請で十返肇が講演のため桐生を訪れた。久闊を叙した二人であったが、このあと一週間もしないうちに南川潤は急死する(9月22日歿)。昭和32年の三回忌に、丸岡明と間宮茂輔が講師として招かれ、桐生倶楽部で追悼会が開催されている。





桐生倶楽部の建物を末広町通り沿いからのぞむ。正面のみならず、側面もみどころたっぷり。




勢いにのって、そのまま末広町通りを桐生川に向かって直進する。桐生タイムス社の社屋の前をとおりかかったときは、南川潤著『窓ひらく季節』の復刻版を送っていただいて勝手に親近感を抱いていたので、ちょっとうれしかった。通りを左折して、たくさんのお客さんで賑わっているウチヤマ洋菓子店でお土産をみつくろったあと、ふたたび本町通りを目指すべく、直進。






手持ちの『桐生まちなか散策マップ』には掲載されていないので、思わぬタイミングで遭遇した格好の「カトリック桐生教会」。童話に出てくるような素敵なたたずまいでびっくり。しばし立ち止って眺めていたら、空がどんよりしてきた。




カトリック教会を背後に歩を進めて、今度は、いきなり立派な「のこぎり屋根」群に遭遇した。昨日の夕方から今日の正午前にかけて「のこぎり屋根」工場めぐりに夢中になっていたというのに、成瀬巳喜男の『妻の心』のことで頭がいっぱいになってしまって、「のこぎり屋根」のことをすっかり忘れていたなアと、脇の路地から見上げてうっとり。



この建物は「織物参考館」で、『桐生まちなか散策マップ』によると、《大正13年創業の森秀織物の工場施設を博物館として公開しています。実際使われていた織機に触れ織物や染色等の体験も出来ます。敷地内には森島家の主屋や蔵等も含め機屋の構成が整っています。》とのこと。昭和元年と昭和36年築の工場が同じ敷地にあり、昭和36年の建物が「織物参考館」になっているとのこと。屋根の採光は北向き。



本町通りに戻って、末広町通りをテクテク歩いて、適当なところで右折して、西桐生駅を目指す。このたびの桐生遊覧は「桐生織物記念館」の建物で締めくくられることとなった。








いろいろ寄り道したけれども、桐生といえば「のこぎり屋根」と織物産業、ということで、絶好の締めとなった。吉田初三郎が桐生鳥瞰図を描いたのと同年の昭和9年の建物。「桐生倶楽部」の建物が桐生の「大正」であるとすれば、こちらは桐生の「昭和モダン」。細部の意匠が目に愉しい。もうすっかりボロボロになってしまった『桐生まちなか散策マップ』には《昭和9年、桐生織物協同組合により建設された二階建、屋根は青緑色の日本洋瓦葺き、外壁はスクラッチタイル張りの洋風建築です。現在は桐生織物記念館として織物関係の展示、販売を行っています。》と解説されている。


「織物参考館」と同様に、この「織物記念館」も、今回は時間と体力と気力の都合で、敷地外からの見物にとどめたのだったけれども、今度は張り切って見学してみっちりお勉強したいなと、いつになるかわからないけれども次回の桐生遊覧がたのしみ。近代産業遺産とともに、町歩きをするのはいつも極上にたのしい。





午後4時過ぎ。電車の時間に無事に間に合って、西桐生駅の待合室でふうっとひと休み。駅の売店で「ノコギリ屋根サブレ」なるお菓子を買って、よろこぶ。



桐生の菓子店「青柳」製。なんてチャーミング! と興奮のあまり、帰宅後、撮影。





午後6時50分、浅草駅着。「りょうもう」38号を降りて、わーいわーいと改札に向かって小走り。桐生観光を思う存分満喫しつつも、いざ電車が隅田川に近づいてくると、東京に帰って来たことが、浅草の地に降り立つことが嬉しくってたまらない。




昨日の朝、東武電車に乗りこむ直前に見上げていた松屋の入口に再び立つ。日が暮れて、ネオンが輝いていて、ふつふつと嬉しい。





『輝く日本 輝くネオン』(整電社製作所、昭和12年4月5日)。「コレクション・モダン都市文化」第21巻、西村将洋編『モダン都市の電飾』(ゆまに書房、2006年12月)で知って以来念願だっ本。夜の東京を歩くと、なんとはなしにこの本を思い出す。室内で眺める「モダン都市東京」の輝くネオン。





同書に《浅草吾嬬橋々畔の夜景》として掲載の写真。「浅草松屋」の下に「スポーツランド」の文字。松屋の屋上も電飾が施されていて、隅田川の向こう岸からもよく見えたに違いない。東武ビルディングの浅草松屋の左に位置する神谷バーの電飾もキッチュ。道路の市電の線路も夜の暗闇のなか、まぶしい。桐生の夜みたいにかつては浅草の夜も暗闇が濃かったのかな。




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1930年代の浅草の夜に思いを馳せながら、桐生遊覧の打ち上げはアサヒビールだてんで、「ビールは吾妻橋」の吾妻橋をアサヒビールに向かって歩く。業平橋のスカイツリーを見つめる。





桑原甲子雄《隅田川吾妻橋上》1950年代、桑原甲子雄『東京 1934〜1993』(新潮社、1995年9月より)。巻末の写真家のコメントに《これは好きな写真だ。吾妻橋の上で、おばさんの様子から冬であることがわかる。橋の向うは墨田区。今のアサヒビールは、屋上に大きな金色のシンボルの彫刻が目を引くが、当時はこんな建物だった。》とある。





《吾妻橋ビアホール》、『大日本麦酒株式会社三十年史』(大日本麦酒株式会社、昭和11年3月)より。わたしが吾妻橋を訪れるようになった頃には「大きな金色のシンボルの彫刻」になってしまったけれども、ここに来ると、いつも「吾妻橋ビアホール」の建物が頭に浮かんで、勝手に1930年代気分にひたっている。





「太陽」第313号・1987年11月《特集 モダンシティストーリー[東京・大阪・神戸]》の『東京・大阪レトロ紀行』に掲載の横山良一撮影の吾妻橋ビアホール。《明治半ば以後、カフェと並んで食と結びついた社交場としてビアホールが人気を呼んだ。ここは大正時代の木造ビアホールを一九三一(昭和六)年に改築したもの。下町の憩いの場と言う雰囲気はそのままである。》





アサヒビールの建物のふもとの建物の3階の「ハーモニック」のカウンターでヒューガルデンホワイトの生をクーッと飲みほして数十分、ベルビュークリークで締めて、いい気分でふたたび吾妻橋に渡って、夜風にあたる。




次に浅草から東武電車に乗るのはいつになるかな。吾妻橋の真ん中で、向こうの鉄橋を渡る東武電車をしばし眺める。