夏休み桐生遊覧:東武電車と大川美術館と上毛電鉄。錦桜橋に立つ。

午前7時50分。銀座線を終点の浅草駅で下車。改札を出て、吸い込まれるようにクネクネとひなびた地下通路をつたってゆく。この地下通路ひさしぶり、と心持ちよくウカウカと突きあたりの階段をあがりアーケードの下に出て、角のエクセルシオールカフェでひと休み。窓の向こうの浅草松屋の東武ビルディングの建物をいい気分で眺める。


今年の夏休みは、桐生ピクニックに出かけることに前々から決めていた。桐生に出かけるのは、今回が2度目。初めて桐生を訪れたのは2008年3月、浅草から東武電車に乗ってどこか遠くへ行きたいなと思い立って、かねてより気になっていた大川美術館だけを目当てに出かけみたら、ことのほか桐生の町並みが気に入ってしまって、以来ずっと桐生のことが心に残っていた。雨が降っていてあまりじっくり町を歩けなかったという心残りがあったので、いずれ再訪して今度は思う存分歩いてみたいものだと思い続けて幾年月、2年数ヶ月後にこうしてめでたく実現とあいなった。
【→ 前回の桐生遊覧日記:id:foujita:20080320】



電車に乗っての遠足のたびに、その行程や行き先にちなんだ戦前の紙モノをいくつか見繕うのが毎回のお決まり。戦前の紙モノから浮かび上がる「モダン都市の行楽」のようなものに、勝手な思い込みで夢中になっている。このたびの桐生ピクニックに際しても、張り切っていろいろと入手していて、かばんのなかのクリアファイルには、このたび購った紙モノがはさみこんである。窓の向こうの浅草松屋の建物を見やりながら、コーヒー片手にクリアファイルの紙モノを広げて、しばし眺めて悦に入る。赤城行きの東武電車の特急は8時50分発。まだちょっとばかし時間がある。





このたび購った紙モノその1。東武電車発行《浅草雷門より 日光と鬼怒川 川治温泉へ》。戦前の東武電車発行の、日光、鬼怒川温泉、川治温泉の観光案内のリーフレット。両面印刷の一枚の大きな紙が十等分に折りこんである。





上掲の観光案内を広げると、浅草雷門駅(昭和20年10月に「浅草駅」に改称して現在に至る)が2階に入る東武ビルディング(昭和6年5月竣工)をとらえた航空写真があしらってある。この写真が実に見事。隅田川沿いにそびえたつ白亜の大建築の東武ビルディングが浅草の古い町並みのなかでかなりの異彩を放っている。浅草通り沿いの神谷バーと地下鉄浅草駅のビルも目立っている。





2階の窓の向かいに見える東武ビルディングの眺めが嬉しかったエクセルシオールカフェは、上掲の観光案内の真ん中の折り目にかかっている、真新しい白い建物の並びに位置している。道路をはさんだ向かいは竣工当時の東武ビルディングビルで、2階の駅部分にアーチ形の大窓が連続して並んでいるのが大きな特色だった。今は補修されて、このアーチ形の大窓は外からは見えない。




コーヒーを飲んで遠足に向けての英気を養い、戦前の紙モノを眺めて遊覧気分を盛り上げたところで、電車に乗るまでの間、ちょっとだけ浅草松屋の東武ビルディングを観察すべく、外に出る。昭和6年5月竣工の東武ビルディングをテナントとして松屋が開業したのは同年11月のこと。そんな「浅草昭和6年」にはかねてから愛着たっぷり。
【→「日用帳」関係記事:id:foujita:20090913】





エクセルシオールカフェの2階の窓から見えたネオン看板。だいぶ黒ずんでいる昭和感ただようネオン看板が前々からなんだか好きだ。ブラインド状の鉄筋で全面補修されたビルディングだけれど、目をこらしてみるとうっすらとかつての半円アーチの大窓が見えるような、見えないような……。





吾妻橋交差点から東武ビルディングを望む。この交差点に立つのは、今年のお正月休みに松屋の古本市に出かけて以来。毎回たのしみにしていた年2回の古本市は今年1月をもって終了したのみならず、浅草松屋は営業を縮小し、今は3階までの営業になってしまった。特にありがたがったりもせずに、古い階段を嬉々と7階までのぼって古本市に出かけていた頃がなつかしい。古本市のあと、閑散とした屋上から隅田川を眺めていた頃がなつかしい。とにかくも、昭和6年竣工の東武ビルディングよ、永遠なれと心から願わずにはいれれぬ。





荻原二郎《浅草 東武浅草駅前》(昭和44年8月2日撮影)、三好好三編著『よみがえる東京 都電が走った昭和の街角』(学研パブリッシング、2010年5月)に掲載の写真より。この画像は途中で切れてしまっているけれど、同書に掲載されている写真は、2階の浅草駅から隅田川の鉄橋に向かう東武電車がビルの奥からにょろっと出てくる瞬間をとらえている実にすばらしいもの。昭和44年当時は、建物の左右両面にあしらってある半円アーチの大窓が外部からも見えていて、竣工当時の姿を誇示していたことがわかる。





現在の東武ビルディングは、ストライプ状の鉄筋で覆われていて、一見したところでは竣工当時の石造りのモダン建築の姿は隠れてしまっているけれども、その分、はるか遠くから覗きこむようなモダン東京の残骸探索がいつもたのしい。ビルの先端部分には、昔も今も、半円アーチ状のネオンサイン。上掲の昭和44年当時、ネオンサインは「日光 鬼怒川・川治」というふうに今回購った戦前の沿線案内とまったく同じ行楽地となっている。補修がほどこされた現在は「浅草駅 東武電車」の表示の下に長方形のネオンサインが増設され、「日光 鬼怒川 会津高原 伊勢崎 桐生」の文字がある。これから出かける桐生の文字もここに華々しく掲げられているのが嬉しい。



そんなこんなで、いよいよ東武ビルのなかに足を踏み入れて、エスカレーターをあがって2階の浅草駅ホームへ。売店でおやつ(エヴィアンと森永ミルクキャラメル)を買って、イソイソと改札を抜ける。






電車に乗る前にホームを見渡す。建物の内部に入ると、補修前は外側からも見えた半円アーチ形の窓を見ることができる。内部に入ると、昭和6年の竣工当時の姿を鮮明に体感できて、たまに浅草から東武電車に乗る機会があるとそれだけで嬉しい。ホームの半円状の太い柱にも、竣工時の「1930年東京」を感じる。





本日乗車の8時50分発浅草発赤城行き特急「りょうもう5号」はすでにホームに停車中。電車の正面の、「伊勢崎線全通100周年」の文字とともにスカイツリーがあしらってあるヘッドマークに目がとまる。この特急「りょうもう5号」に乗って2時間、終点の赤城駅で下車、赤城で上毛電鉄に乗り換えて10分、本日の目的地は終点の西桐生なり。




東武電車とモダン東京の周縁。浅草から東武電車にのって桐生へ向かう。

午前8時50分。浅草発赤城行き特急「りょうもう5号」に乗りこんで、折りたたみ式のテーブルをえいっとセッティングし、買ったばかりのエヴィアンを置いて、座席を軽くリクライニングさせて遠足気分を盛り上げたところで、電車はゆるやかに出発。あともう少しで、隅田川の鉄橋を渡る瞬間がやってくる! と思うと、しょうこりもなく嬉しくってたまらない。





このたび購った紙モノその2。《東武鐡道(電車)沿線案内》、鉄道交通社印行。伊勢崎線の終点がまだ業平橋の浅草駅である一方、日光線はすでに開通しているので、昭和4年4月以降、昭和6年5月以前の印行の沿線案内。だだっ広い関東平野をひたすら走る東武電車。関西私鉄と違って山は遠い。




今年2010年は「伊勢崎線全通100周年」であるということを、浅草駅のホームに停車中の特急「りょうもう5号」のヘッドマークで初めて知って、モクモクと感興がわいてきた。これはよい機会と、このたび購った《東武鐡道(電車)沿線案内》を眺めながら、東武伊勢崎線の百年を概観するとするかなと、『東武鉄道百年史』(東武鉄道株式会社発行、平成10年9月30日)をフムフムと参照してみると……。



東武鉄道の設立は明治30(1897)年にさかのぼり、明治32(1899)年8月に、北千住・久喜間で営業を開始、開業当初は西新井、草加、越ヶ谷、粕壁、杉戸の5駅だった。草加以下4駅は日光街道の宿場をそのまま踏襲し、西新井は参拝客への便宜をはかって創設されたもの。以降、文字どおりの紆余曲折を経て、明治43(1910)年7月13日、《主計画路線の浅草〜伊勢崎間113.1kmを、東京から両毛機業地への最短距離として完成させた》。





上掲の沿線案内より、浅草附近を拡大。この沿線案内の印行当時、伊勢崎線の始発は現在の業平橋の場所にあり、ここを長らく「浅草駅」と称していた。昭和6年5月に東武ビルディングの竣工とともに、伊勢崎線の始発は現在の浅草駅に伸びて、このとき初めて東武電車は隅田川を渡ることができた。



現業平橋の浅草駅は、明治35(1902)年の開業当初は「吾妻橋」という名称だった。明治32(1899)年8月に北千住・久喜間で開業を開始した伊勢崎線は、明治35(1902)年4月に、堀切、鐘ヶ淵、白鬚、曳舟、吾妻橋の5駅を新設して、第2ステージに入った。東武電車はグングンと東京の中心を目指す。



が、明治35年(1902)年に新設された吾妻橋停車場は、明治37(1905)年4月5日にいったん廃止されている。これは、同日に曳舟・亀戸間の東武亀戸線が開通し、《総武鉄道亀戸から本所(現錦糸町)〜両国橋(現両国、37年開設)へと列車直通乗り入れ運転を開始し、同時に曳舟〜吾妻橋間の営業をいったん廃止した》ことによる(『東武鉄道百年史』)。開業間もない一時期、伊勢崎線の始発駅は両国橋だった。上掲の沿線案内の、曳舟・亀戸・両国橋の点と線は、その名残りととることもできる。両国橋駅の近くに描かれている、辰野金吾設計の国技館がチャーミング!





《国技館 辰野葛西建築事務所 大8》、都市美協会編『建築の東京 大東京建築祭記念出版』(都市美協会、昭和10年8月20日発行)より。





小泉癸巳男《版画東京百景 第五十九景 春場所の国技館》(昭和10年1月作)、『版画東京百景』(講談社、昭和58年3月25日)より。同書巻末の、飯沢匡の解説に、

当時新聞記者たちは、国技館と言わずに、大鉄傘と言っていた。つまり鉄骨の傘という意味で、これも近代を現していた。相撲は二場所しかなかったので、その間、秋は菊人形などの催し物会場であった。階段を登らずにラセン式に高い場所に上っていったり、降りたりして、菊人形を楽しむ仕組みになっており、最後に「十二段返し」という芝居の名場面をジオラマ風に展開して見せる「だし物」があり、国技館の菊人形は東京名物であった。現在は日本大学の講堂になっている。

とある。モダン都市の祝祭空間だったのだなアとうっとり。昭和33年に日本大学の所有になった「大鉄傘」は、この本が刊行された頃に解体工事が始まっている。この場所に今はシアターΧの入っている建物がある。




ついでに、同じく小泉癸巳男の『版画東京百景』より、小泉癸巳男《版画東京百景 第六十六景 両国の川開き》(昭和10年7月作)。川の向こう、花火の空の下、ネオンで輝く「大鉄傘」。




明治37(1904)年4月、東武亀戸線の開通と同時いったん廃止された吾妻橋駅は、明治41(1908)年3月に、まずは貨物駅として復活した。

明治39年(1906)3月、前述のように鉄道国有法が公布され、40年から41年にかけて、日本鉄道(現JR高崎線、東北本線、常磐線ほか)、総武鉄道、房総鉄道、甲武鉄道など、主要な私設鉄道が次々に買収されていった。この前後の当社の経営には、すさまじい努力が見られた。

というくだりが、『東武鉄道百年史』にある。日露戦争は、日本の近代史にとってもエポックメイキングであったのと同様に、東武電車にとってもエポックメイキングだった。鉄道国有法が公布は、戦時下の軍事輸送に鉄道を国有化する必要があったため。東武鉄道と密接な関係のあった総武鉄道が国有化されたことで、伊勢崎線は、両国駅始発を廃止することになる。2年前に貨物駅として復活していた吾妻橋停車場を、明治43(1910)3月に浅草停車場と改称し、ここに曳舟・浅草間の旅客運送を再開した。

 37年2月から39年9月にかけての日露戦争に際しては、遊興的な行事が全般にわたって廃止されたため、これに類する旅行なども中止されることになり、旅客は減少した。ただ動員令の発布で、兵士の見送りに沿線各地から東京へ往復する旅客が増加したほか、曳舟〜亀戸間の開通で総武鉄道との連絡が可能になり、また房総鉄道との連絡運輸も始まったため、旅客は急増した。
 また当社はこれを機に、創業以来初めて、通勤客のために朝夕2本の急行列車旭号および夕号を運転することとした。沿線各地で催される戦勝祝いのための臨時列車や、捕虜輸送の軍用旅客列車を久喜〜北千住〜亀戸間に運転するなど、旅客運輸が活況を呈し、さらに沿線に近接する地域からの誘客を図るため、幸手町および岩槻町に乗車券発売所も設置した。

というふうに、東武電車の経営はいたって順調だったけれども、明治39年以後は、《鉄道国有化が強力に実施されはじめたため、これへの善後策は当社経営の中心とならざるをえなかった》。当初は「千葉方面と東海道の短絡線」という構想のもと、北千住〜亀戸〜越中島の免許を取得し、さらに京橋や新橋への延長を視野にいれていたという。



明治期の東武鉄道と総武鉄道の密接な関係をこのたび初めて知って、「近代日本における鉄道」といったものが面白いなアと、モクモクと感興が湧いてくる。総武鉄道の設立は1894(明治27)年7月20日で、明治40年9月に買収国有化された。開通の年に正岡子規が総武鉄道にのって、本所から佐倉へ遠足に出かけている。子規の『総武鉄道』(初出:「日本新聞」明治27年12月30日)を全集で読んで以来、わたしも真似して、総武線にのって佐倉へ遠足に出かけてみたいと思い続けて、幾年月なのだった。それから、日露戦争時の北関東と繊維産業というと、徳田秋声の『あらくれ』をなんとはなしに思い出すのだけれど、ヒロインのお島が乗っている電車は残念ながら東武ではなくて、日本鉄道。総武鉄道と同時に買収国有化された日本初の私鉄。



さてさて、くじけることなく「すさまじい努力」を怠らなかった東武鉄道は、明治43(1910)年3月に、それまでの両国橋始発を廃止し、吾妻橋停車場を浅草停車場と改称し、貨物営業に加えて旅客営業も再開した。翌明治44(1911)年3月には、東武鉄道は本社を、それまでの本所区横網町(総武鉄道両国橋駅と至近距離)から、本所区小梅瓦町(浅草駅の敷地内)に移転し、ここで名実ともに、東武電車の中心地は、業平橋となった。東武伊勢崎線が全通した明治43年は、始発が吾妻橋停車場(明治44年に「浅草」、昭和6年に「業平橋」に駅名を改称し、現在に至る)に復帰した年でもあるので、今年2010年は「業平橋の浅草駅」100周年でもあるのだった。『東武鉄道百年史』の第2章「鉄路は北関東をめざす」は以下の一節で締めくくられている。

明治43年3月、遠くに浅草寺五重塔、近くに川舟を曳く船頭の影、そして墨堤の花見客、競艇の応援客、寺社巡りの人々、小梅田圃に積もる雪景色などの向島の四季とともに西の富士、東の筑波を借景にして、29駅に増加した当社路線のかなたへ、列車は長い汽笛の尾をひいて、浅草駅を旅立っていくことになった。

「東武伊勢崎線全通100年」の歴史とともに、「浅草駅」はあるのだなアと、今まで昭和6年竣工の東武ビルディング2階にばかり目が向いていたけれども、このたび初めて、業平橋の浅草駅に目を見開かされた……と、一人胸を熱くするのだった。ジーン。





《浅草(現業平橋)駅に設けられたドック》、『東武鉄道百年史』より。明治43(1910)年3月、曳舟・浅草(現業平橋)間の旅客営業を再開した東武鉄道は、隅田川舟運と鉄道貨物の連絡を図るため、同年5月に浅草駅の敷地の、北十間川沿いに船渠(ドック)を設置し、同時に「東武橋」が建設された。業平橋駅近くの東武橋の成り立ちを初めて知って興奮、北十間川の水辺の東京風景にうっとり。今はスカイツリー建設の真っ最中。





《東京日日新聞附録 大東京最新明細地図 隣接町村合併記念》(昭和7年10月1日発行)より、業平橋・隅田公園・浅草附近。昭和6年5月25日、東武ビルディングの竣工とともに「浅草雷門駅」が誕生、それまでの終点「浅草駅」が「業平橋駅」と改称されるととも、業平橋と終点浅草雷門の間に「隅田公園駅」が開業している(昭和18年12月に休業、昭和33年10月に廃止)。





硲伊之助《業平橋(本所区)》、『大東京百景 版画集』(日本風景版画会、昭和7年10月1日)より。

 今の業平橋は名に似合はない無恰好な橋だが、私など子供の頃は木橋で、両国の花火の時はあの袂から伝馬船に乗つて一家挙つて繰り出したものだ。
 橋の上から南側を眺めると、製氷会社の音も単調に鳴り続けてゐるし、向側には、博物館の陳列棚に置かれてある船の模型みたいな古くさい蒸気船が白く、あたりの煤に染んだ工場から脱けて見える。起重機も煙突も、遠くの空へ針を立てたような竹屋の姿も昔のままだ。

というふうに綴ったあとで、硲伊之助は《これでは新東京百景の責任が果たせない。》という一文を交えている。昭和6年5月に東武ビルディングが竣工し、翌昭和7年の10月には、東京市は郊外の隣接町村を合併して15区から35区に広がっている。そんな「1930年代東京」を記録している『大東京百景 版画集』のなかにあって、業平橋は、明治大正の頃からあまり印象が変わらない水辺の東京風景の姿をとどめているようだ。





《隅田公園より見た隅田川橋梁と建設中の浅草雷門駅(東武ビルディング)》、『東武鉄道百年史』より。

 隅田川橋梁は、右岸および左岸沿いに設けられた隅田公園の風致を損ねないような工夫を、復興局と協議するよう、鉄道省から命じられていたため、ここでも最大の配慮が必要であった。とくに左岸では、もと水戸家下屋敷の広大な庭園跡を公園としたため、そこに停車場(隅田公園駅)を設けることになっており、隅田川の架橋について、その設計指導にあたっていた東京帝国大学土木工学科田中豊教授に、設計を依頼した。
 設計は、複線トラス型下構桁で、突桁式鉄鋼桁全長は径間166.1m、川心との交叉角度は左85度22分であった。これを3支間とし、中央支間64.0m、両岸はおのおの51.05mとして、動荷重はE33を採用した。桁下の高さは東京湾中等潮位プラス5.82m、横桁主桁の高さを6.44mとし、軌条面から主桁の上端までの高さを1.83mとしたため、フラットな形で公園への景観を損ねず、乗客からも隅田川ないし隅田公園の景観を満喫できるようにした。

というふうに、隅田川橋梁の建設と合わせて、東武ビルディングでの浅草雷門駅開業にあたっては、《浅草(現業平橋)からの鉄筋コンクリート高架橋、また道路上の第一および第二花川戸橋梁、浅草河岸橋梁》が建設されていて、業平橋から東武ビルディングに至る都市風景は一変している。





《浅草松屋と東武電車》、『大東京写真帖』(好文閣、昭和7年10月1日発行)、『コレクション・モダン都市文化 第31巻 「帝都」のガイドブック』(ゆまに書房、2008年1月)より。隅田川の手前の隅田公園駅から隅田川と川の向こうの東武ビルディングをのぞむ構図がすばらしい! 『大東京写真帖』は上掲の『大東京百景 版画集』と同じく、東京35区を記念して刊行されたもの。

隅田公園の新名物はなんと云つても、言問橋をならんで架けられた東武電車の鉄橋で、これは浅草吾妻橋に新築された松屋呉服店の中に駅を持つてゐる。浅草の松屋は七階建の大建築で銀座の本店に劣らぬ立派なもの、東武電車の乗客を吸引して中々勢力がある。

という解説がこの写真に添えられている。





上掲『大東京百景 版画集』より、同じく硲伊之助の《枕橋(本所区)》。

三囲神社の淋しい姿や秋葉神社の大きな松や銀杏がなくなつたのは惜しい……だがさう云うものに代るのがこの頑固な東武線の鉄橋だらう、たしかに此処に活気を添へてゐる。橋の下にある貸船屋からは、モボやモガの諸君が赤いパラソルなど差して、ボートを乗出すのが上潮に映つて鮮やかだ。

と、硲伊之助は綴る。業平橋とは打ってかわって、枕橋附近はモダン東京風景。





小泉癸巳男《版画東京百景 第二十五景 隅田公園言問》(昭和7年4月作)。『版画東京百景』(講談社、昭和58年3月25日)より。隅田川左岸の隅田公園、川の向こうにかすかに東武ビルディングが見える。そして、今日も空にはアドバルン。





浅草から東武電車に乗るのは、去年9月に2年ぶりに東向島の東武博物館に出かけて以来なのだったが、あの日は博物館に足を踏み入れてまっさきに遭遇する《東武鉄道が初めて1924(大正13)年10月1日に浅草(現業平橋)〜西新井間を電化した時に走った木造電車》を目の当たりにしたとたんに、そこに展示されてある「デハ1形」が体現するところの「東武電車とモダン東京の周縁」を思って、むやみやたらに興奮だった。2年ぶり3度目の東武博物館来訪にして、「デハ1形」に開眼! などと、震災後の東京の復興、郊外の拡大といったことが通底している「デハ1形」の時代に思いを馳せているうちに、昭和6年5月に初めて東武電車が隅田川を渡ったことはすごいことだったのだ、本当にすごいことだったのだ、ということが初めて実感をもって胸に迫ってきた気がした。昭和6年に「デハ1形」が隅田川を渡った瞬間に勝手に感激し、その昭和6年の東武ビルディングの建物が今も残っているのはなんという歓喜と一目散に東向島から浅草へと戻って、東武ビルディングの観察にいそしんだのも、よい思い出。
【→「日用帳」関連記事:id:foujita:20090913】





去年2009年9月のある日曜日に東武博物館にて撮影した写真。東武博物館に展示の《東武鉄道が初めて1924(大正13)年10月1日に浅草(現業平橋)〜西新井間を電化した時に走った木造電車》。わたしが「デハ1形」に開眼した瞬間。





《電化開業当時の浅草(現業平橋)停車場。2階は本社事務所》、『東武鉄道百年史』より。大正13年4月竣工の浅草橋停車場。この画像では不鮮明だけど、屋根の最上部に、右読みに「佐野 足利 桐生 伊勢崎 近道」と記されたネオンサインが設置されている。オール電化の東武日光線の開通は昭和4年10月。

 当社は13年2月大震災で遅れていた電化工事を再開し、同時に浅草停車場待合室内に市内電車引き込み線を設け、運転を開始し、同年4月には震災で焼失した本社社屋を復旧して、階下を駅に、階上を本社事務所として、万全の準備を整えた。

まずは浅草〜西新井間10.1kmが東武電車の電化の始まりで、昭和4年12月に全線電化が実現した。大不況もなんのその、波に乗る東武鉄道、昭和6年5月にはいよいよ、浅草花川戸の地に東武ビルディングが誕生する。





昭和4年12月の全線電化の広告、《東武鉄道本線電化開通広告ポスター/このポスターでは前面5枚窓のデハ1形が紅葉のなかを疾走する様子と、当社路線の観光案内鳥瞰図を組み合わせており、当時の手法としても大変珍しいものである》、『RAILWAY 100 東武鉄道が育んだ一世紀の軌跡』(東武鉄道株式会社、平成10年3月31日)より。デハ1形はまだ隅田川を渡っていない。





同じく『RAILWAY 100 東武鉄道が育んだ一世紀の軌跡』より、絵葉書《隅田川橋梁を渡る電車(デハ1形)》。デハ1形が隅田川を渡っている。デハ1形と昭和6年に竣工の東武ビルディングと隅田川橋梁、このダイナミックな構図がたまらない!





さてさて、2010年8月へと戻り、午前8時50分発の特急「りょうもう5号」は、浅草駅をゆるやかに出発し、隅田川橋梁を渡ってゆく。「伊勢崎線全通100周年」をとりまく日本の近代に思いを馳せようではないかと、上機嫌に車窓を眺める。東武ビルディングを出発した東武電車がジワリジワリと隅田川の鉄橋に近づいて、橋をゆっくりと渡ってゆく数分間。たまにした乗る機会のめぐってこない東武電車であるので、この特別な瞬間を心ゆくまで満喫しなければならぬと身構える。





……と身構えつつも、浅草行きの東武電車とすれ違ったのが嬉しくて、車窓から背後の東武ビルディングを振り返る。





そして、電車がジワリジワリと鉄橋に近づいてゆく。鉄鋼が上掲の絵葉書とまったく同じ形状だ!





東武電車の車窓から吾妻橋をのぞむ。『東武鉄道百年史』の隅田川橋梁のくだりにあった、《フラットな形で公園への景観を損ねず、乗客からも隅田川ないし隅田公園の景観を満喫できるようにした》という一節を身をもって実感できる、隅田川を渡る東武電車の車窓はいつもたいへんすばらしい。





隅田川を無事に渡り終えると、徐々に速度を増す東武電車。次は、前方にそびえ立っているスカイツリーに近づいてゆき、そのふもとを通過する瞬間が待ち遠しかった。伊勢崎線のかつての終点だった業平橋。明治43年の北十間川沿いの船渠をおもう。





特急「りょうもう」はいざ乗ってみたら、座席の座り心地がよく、椅子から窓をのぞむ角度もいい感じ。台風の影響で、天候不安定。どんよりした空には、変わった形の雲があちらこちらに点在していて、目にたのしい。伊勢崎線の浅草から北千住までの都市風景がなんだか好きだ。と、機嫌よく車窓を眺めて、今度は電車が荒川を渡る瞬間が待ち遠しい。そして、小菅の東京拘置所をワオ! と眺めたところで、伊勢崎線の車窓のハイライトはこれでおしまい。あとは、ひたすら関東平野を走り続ける。いつもとおなじように、小菅を過ぎたところで、急に眠くなってしまい、いつのまにかスヤスヤ居眠りしてしまうのだった。





目を覚ますと時刻は9時50分、浅草駅からちょうど1時間経過していて、ここは館林附近。寝覚めでぼんやりしながら車窓を眺めていたら、徳田秋声の『黴』の終盤、主人公が日光今市へ向かうシーンのことが急にヴィヴィッドに胸に浮かんできた。

 その日は雨がじめじめ降つてゐたが、汽車から眺める平野の青葉の影は、暫く家を離れたことのない笹村の目に、すがすがしく映つた。汽車は次第に東京の近郊から離れて、廣い退屈な関東の野を走つた。笹村の頭には今までの渦のなかにゐるやうに思へた自分の家、家族の團欒、それらの影が段々薄くなつてゐた。そして今行かうとしてゐる町の静さと自由さが、沈殿したやうな頭に少しづつ分明してゐた。(『黴』第七十七回より)

『黴』に書かれた秋声の日光行きは明治40年初夏のこと。東武はまだ開通していないので、秋声が乗っているのは上野発の汽車。上野から路線を伸ばしてどんどん北上していった日本鉄道が宇都宮から分岐する形で日光に達したのは明治23年8月のこと。昭和4年に東武が開通するまで日光への直通電車はなく、宇都宮で乗り換えねばならなくて、上野からは4〜5時間かかったという。





《東武鐡道(電車)沿線案内》より、館林附近を拡大。利根川が埼玉県と群馬県の県境になっていて、川を越えて、茂林寺前、館林に至る。東武動物公園前(杉戸)が伊勢崎線と日光線の分岐点で、館林は伊勢崎線と佐野線の分岐点になっている。館林と太田を結ぶ小泉線が東武の経営になったのは昭和12年1月。





このたび購った紙モノその3、絵葉書《上毛鳥瞰図》、財団法人軍人援護会群馬県支部発行。軍用機から上毛を鳥瞰している絵葉書。いかめしい発行元とは裏腹なチャーミングなイラストが嬉しい。浅草から1時間、今日は埼玉県下ではスヤスヤと眠ってしまったけれど、群馬県に入ったところで目が覚めたということになる。藤牧義夫の生れた館林は群馬県の最南端に位置する。『相生橋煙雨』を読み返してみると、野口冨士男は11時40分発の「りょうもう9号」に乗って館林を訪れて、館林市立資料館にて、藤牧義夫の隅田川絵巻の「第四巻」を見ている。





上掲鳥瞰図より、館林・太田間を拡大。館林には茂林寺の文福茶釜が描かれていて、太田といえば中島飛行機。太田は伊勢崎線と桐生線の分岐点。





《東武鐡道(電車)沿線案内》より。特急りょうもうは昭和8年、無料急行列車(ロングシート車)にて浅草駅・新桐生駅間で運行を開始したのがはじまり。東武桐生線の起源は、明治44(1911)年5月開業の藪塚石材軌道で、同年9月に太田軽便鉄道として敷設されたあと、藪塚から先の駅を東武が新設し、大正2(1913)年3月に「東武桐生線」となった。昭和7年3月に新大間々(昭和33年に赤城に改称)が開設するまで、相生が桐生線の終点だった。





太田から東武桐生線になると、ようやく車窓に山の風景が迫ってくる。写真は、新桐生の手前の車窓から見えた吾妻山(たぶん)。時刻は午前10時30分。あと10分で終点の赤城駅に到着する。





午前8時50分浅草発の特急「りょうもう5号」は、午前10時42分、終点の赤城に無事到着。ここで上毛電鉄に乗り換えて、終点の西桐生に向かう。次の上毛電鉄の到着まであと10分。今まで乗っていた特急「りょうもう」をしばらく眺める。明日の帰京時までしばしのお別れ。




上毛電鉄に乗って西桐生へ。大川美術館で茂田井武と石内都に見とれる。

関東近郊の未知の町を訪れるのは、美術館目当てということがほとんどで、2008年3月に初めて桐生に出かけたのも大川美術館が目当てだった。海野弘の『都市風景の発見』や『東京風景史の人々』といった著作を、そのまんま体現している近代美術の膨大なコレクションを静かな館内をゆっくりゆっくり歩きながらじっくりじっくり見てゆくという時間は期待どおりにすばらしくて、大川美術館だけでも桐生を訪れる甲斐があるというもの。2年前に初めて桐生を訪れたときは、大川美術館の最寄りの西桐生駅に下車することを目的に、特急「りょうもう」の終着駅の赤城で上毛電鉄に乗り換えて終点の西桐生に到る、という行程をとった。……と、特に深い考えもなくほんのなりゆきで乗ることになった上毛電鉄は、かつての井の頭線の車両が再利用されているということで、過去に井の頭線で通学していた人生の一時期がある身としてはそれだけで愛着がわくし、二両編成のワンマン運転で単線電車ののんびりした車内になごんだところで到着する終点の西桐生の駅舎は、昭和3年11月の上毛電鉄の開通時そのまんまの駅舎で、そのモダーンぶりにびっくり。桐生の町へと足を踏み入れるこれ以上ない絶好の序奏だった。
【→「日用帳」関連記事:id:foujita:20100320】



そんなこんなで、あのときのたのしいひとときよ再び、というわけで、午前10時42分、東武電車を下車して、イソイソと上毛電鉄のホームへと移動。30分に一度の上毛電鉄、西桐生行きの上毛電鉄は10時50分に赤城に到着。




上毛電鉄の車体。なんとなく愛らしかったので、あとで気が向いて西桐生駅で撮影したもの。ウェブサイト(http://www15.wind.ne.jp/~joden/700kei/700keisyoukai.html)によると、現在の上毛電鉄は、《かつて京王井の頭線で活躍していた3000系を、京王重機で2両編成に改め》た「上毛電気鉄道700型車両」を使用しているとのこと。車両により塗装の色が異なり、ウェブサイトで一望すると、そのヴァリエーションがなかなかチャーミング。実際に乗っているときは特に気にとめていなかったのだけれど、あとになって、もうちょっとじっくり観察しておくべきだったと悔やまれる。唯一手元に残っているこの写真に写る車両は「4号車(714-724編成)」のサンライトイエロー。「はしる水族館」なるネーミングの内装がほどこされているらしい。乗ってみたかったような、そうでもないような……。





ワンマン運転、二両編成の上毛電鉄。途中駅の乗車および降車は運転手のいる先頭車両のみなので、ただでさえ乗客の少ない車内、後部車両は無人ということがしょっちゅう。







赤城から上毛電鉄にのって10分で終点の西桐生に到着。わーいわーいと改札口へと向かう。





上毛電鉄の開通は昭和3年11月。その開業当時の駅舎が今もそのまんま残っているとはなんとすばらしいことだろう! とあらためて感嘆しつつも、駅舎の観察は大川美術館のあとでじっくりするとしよう、あとのたのしみにとっておくのだ、というわけで、ササッと横切りようにして早々に外に出て、駅の裏手から大川美術館の方向へと早歩きをする。





上毛電鉄を終点の西桐生駅で下車して、駅の裏手を直進するとほどなくし前方に古びた幼稚園が見えてくる。ここで左折して、幼稚園の裏手の急勾配の坂道をゼエゼエと登ってゆく。と、二度目の来訪なので、道順はバッチリ。しかし、急勾配の坂道をゼエゼエと必死になって登っていたので、前回の来訪時に目にとまった「添田唖蝉坊隠遁の地」の碑を見逃してしまったことに、坂道が終わりかけるところで気づいたのだけれど、しかし、もう一度もと来た道を戻る気力も体力ももうわたしには残っていなかった。





やっとのことで大川美術館に無事にたどりついて、やれ嬉しや。海野弘著『美術館感傷紀行』(マガジンハウス、1997年12月)の大川美術館の項のタイトルは「モダン都市の発見」。

大川美術館が、松本竣介、野田英夫、清水登之などの絵を集めていることは、私たちが今生きている都市の表現、つまり<日本の>近代美術に強い関心を持っていることを示している。桜並木の道のかたわらにある入口を入ると最上階で、階段を下りながら斜面に建てられた展示室を見てゆく。もとはある会社の山荘であったのを改築したというが、部屋から部屋へ、まるで個人の邸宅にあるコレクションを見てまわっているような気楽な雰囲気が、展示された絵をより親密に感じさせる。

という一節に、大川美術館のことが端的に言い表されている。





今回の一番のお目当ては特別展の《茂田井武『ton paris』展》。急勾配の坂道をのぼった先にある美術館、入口が最上階で、展示室ごとに階段を下りてゆくという独特の設計。テーマごとに区切られたいくつもの常設展示室を練り歩いて、最終地の最下部が特別展示の会場となっている。



初めての美術館を訪れるのもたのしいけれども、好きな美術館を時間をおいて再訪する方がずっと好きだ。再訪の機会が魅惑的な特別展示であれば、もう最高だ。正午前に大川美術館に到着し、展示会場をゆっくりと練り歩いてずいぶん満喫だった。前回は改装中だった「松本竣介特別室」も今回晴れて見ることができた。と、上掲の海野弘の「モダン都市の発見」という言葉が端的に示すような画家による作品群は、再会するごとに前回とは違った感慨を抱くということが多くて、そのたびにハッとさせられる。



そして、思いがけない歓びだったのが、《作家特集展示 石内都×池田良二》と題した展示。展示されている石内都の写真を、なんの予備知識もなく見つめているだけでも、そこに写る都市と郊外の風景が琴線に触れて仕方がなくて、むやみやたらに興奮だった。浅草から東武電車にのって、はるばる桐生までやってきて、大川美術館の順路に沿って常設の近代日本の画家による都市風景を概観したあとで、石内都の「上州の風にのって」に対面したというタイミングが、わたしにとっては完璧だったのだと思う。





図録『石内都 上州の風にのって 1978/2008』(大川美術館・2009年4月発行)。去年に「企画展 No.80」として催されていた《石内都展 上州の風にのって 1976/2008》の図録(会期:2009年4月4日〜6月28日)。



昭和22年に桐生市相生町に生まれて、昭和28年に横須賀に転居した石内都にとっての、幼少時の桐生のほとんど唯一の鮮明な記憶として、渡良瀬川にかかる錦桜橋を一人で渡ろうとしているときのことを綴っている。

石内都「ワーレントラスの橋」より


 私は川を渡っていた。時刻は夕方に近く、川の流れは激しくて水しぶきがはね上がっている。滑らないように注意深く足元をみながら、ゆっくり渡っていた。この川の向こう岸に行かねばならない理由があった。こっそり家の裏から外に出て歩きはじめる。母と何度か歩いた道だ。このまま行けば川があって、鉄の橋を渡れば向うの町に行けるはずだった。しかし橋は途中で切れてしまってしかたなく川原へおりていく。
 1951年(昭和26)、台風で1925年(大正14)に開通した2代目錦桜橋は一部が流出してしまい、修復工事をしていた。4歳の私は一人でその工事中の渡良瀬川を必死な思いで渡ろうとしていたところに“どこへ行くの”と声をかけられる。そこでプッツンと記憶の糸が切れてしまう。


 この物語は鮮明すぎるほど鮮明に、ついこの間の事のようによみがえる。過去の出来事とか幼い頃の思い出という範疇からはずれていて、くっきりと焼きついた光景が時としてカタカタカタと音をたてて上映される 8mm フィルムの映画をみている感覚だ。それはひとつも古びることなく、色あせずに。
 幼い少女が川を渡る。その横で少女に話しかける私がいて、それを俯瞰している私がいる。3人の私が同時にそのシーン登場する。この川はかつて足尾銅山から流れ出た鉱毒を運んでいて草木が生えず石だらけの川原だ。分断された鉄の橋の下を一人で歩いている少女がいる。そのファーストシーンの時間軸が大きな輪を描いて2009年、桐生に舞いもどる。


 見渡せば風景は変り、ワーレントラスの鉄骨で組まれた錦桜橋の姿は消え、単なる普通の橋となり、人は次々と去り、空気の匂いは希薄になり、時間の長短が身にしみる歳になって、ようやく自分の発端に触れようとしている。父と母が出合った上州の地で、私が生まれた事実をもとにしてデビュー前の習作と最新の写真を発表する今回の展示は、ミステリーを読み解くような気分である。どんな事になるのか不安と期待が大きい。

というふうに、渡良瀬川の錦桜橋を「ファーストシーン」として、2009年、桐生の地で《上州の風にのって 1976/2008》と題した展示が催された。





上掲図録より、石内都《錦桜橋》2002年。この年、錦桜橋は老朽化により架け替えられた。図録巻末に収録の、大川美術館学芸員の小此木美代子さんの「石内都展について」と題した一文に、今回の展覧会のことが論じられていて、今回の大川美術館来訪を機に、石内都という作家をこれから先ずっと見つめていきたいという気持ちになる文章だった。

 桐生は、橋に立たずとも見渡す限り山に囲まれた土地である。四季の気候差がはげしい起伏にとんだ街だ。そして、景観の変化がとても穏やかな街だろうともおもう。今、ここで、石内は、眠る何かにみずから手を伸ばそうとしているようにも感じられる。写真をめぐる記録も記憶も、空気も人も、うずくまっていたものが動く風の感触のなかで。

このたび、《作家特集展示 石内都×池田良二》の展示室に足を踏み入れた瞬間に、まっさきに目を奪われたのがこの作品だった。なんの予備知識もなく初めて見た瞬間に心を奪われた。図録を参照して初めて錦桜橋が桐生の橋だと知って、桐生の地でこの写真に出会ったことが身にしみて、至福だった。



日常のなかで見るのではなくて、はるばる訪れる場所で見るという非日常のなかで対面することで、気持ちが研ぎ澄まされたり、作者や作品の風土に実感がわいたりする。石内都の初めて見る写真に感激する一方で、二度目の邂逅となる、茂田井武の『ton paris』展もとっても幸福だった。こちらは「既知との遭遇」だけれど、あらためて原画を目の当たりにすると、わかっていたはずなのに、目がウルウルだった。なんてすばらしいのだろう!


茂田井武は2年前の2008年10月にちひろ美術館で見学した展覧会がすばらしく(当時の「日用帳」:id:foujita:20081013)、茂田井武に開眼、だった。そして、去年は神奈川近代文学館の特集展示を満喫、一年前のちひろ美術館での歓びを胸に反芻するとともに、文学館ならではの「書物」との関連としての茂田井武にあらためて開眼、そして今年で3年目、ちひろ美術館で見とれるばかりだった『ton paris』に所蔵先の大川美術館で再会できる運びとなり、茂田井武に導かれるようにして、このたび晴れて二度目の桐生訪問が実現したのだった。





茂田井武『トン・パリ』(講談社、2010年7月7日)。広松由希子さんの解説が間然するところのない素晴らしさで、さらに《原画は、展示のために本の形では存在しない。復刊に際し、茂田井自身が手にしていた当時のイメージを今に蘇らせるため、判型をほぼ原寸とし、印刷にも細心の配慮をした。》とあるように、造本も間然とするところがない。本全体がすばらしい。購入と同時に宝物の1冊となった。



これは夢ではないかしら、という思いで『トン・パリ』を手にして、茂田井武のスケッチブックをメロメロになって何度もページを繰っていた。その歓びが鮮明ななかで、桐生で原画の展示をまのあたりにできたことはかえすがえすも幸福なことだった。階段を下りるようにして順路をたどって、最後にたどりついた特別展示の会場は大川美術館の建物の最下部に位置している。最後は階段をまっすぐにのぼって、出口を目指す。




吉田初三郎の鳥瞰図片手にモダン桐生探索・その1。上毛電鉄にのって前橋文学館へ。


昼下がり、ずいぶん長居したあとで美術館の外に出ると、先ほどまでパラパラと降っていた雨がやんで、空気がひときわモワッとしている。海野弘著『美術館感傷紀行』(マガジンハウス、1997年12月)の大川美術館の項にある、

 この美術館もまた、それが位置する桐生の街と共に生きている。この美術館のすばらしさを知るとともに、私は桐生について知りたいと思った。桐生の街は美術館へのアプローチであるだけでなく、美術館は、この街への入口になっているのだ。

というくだりに共感することしきり。桐生の町を初めて訪れたのは大川美術館が目当てで、桐生の地に足を踏み入れてまっさきに向かったのは大川美術館だった。高台の美術館の窓からはさながら鳥瞰図のように桐生市内を見渡すことができる。大川美術館は桐生の町の導き手であるとともに、桐生の町への送り手でもある。





大川美術館の展示室の窓から桐生市内をのぞむ。真ん中に見える黄色い建物が、大川美術館への経路の目印の幼稚園の建物。その右上にかすかに西桐生の駅が見える。




電車に乗っての遠足のたびに、その行程や行き先にちなんだ戦前の紙モノを購うことがここ1年の道楽になっているなかで、このたびの桐生遊覧にあたっては奮発して、あこがれの吉田初三郎の鳥瞰図を買って、ホクホクしていた。





吉田初三郎《桐生市鳥瞰図》昭和9年10月30日発行。

 西に西陣、東に桐生、本邦二代織都として其名天下に冠絶するところ而かも桐生は地形に於ても、何処やら京都に似ているのが面白く、渡良瀬川の流れを西に、市内はさらに鴨川情緒、千鳥の声もさゝやくらしい桐生川が静かな姿も懐かしいものだ。
 比べて一段興味あるもの、桐生は京の西陣よりも、遥かに輝やく前途を約され、気魄に於て地勢に於て近き将来、必ず東洋第一の繊都たるべく運命を持つてゐる。……そは何故か。……聞く迄もない。その新進たる鋭気を見よ。その颯爽とした武者振りを。彼の老成を安んずる、西陣なんど何のその。時代は正に黎明桐生の天下であらう。

と、これは鳥瞰図の裏面に印刷されてある、桐生の紹介記事の末尾に添えられた初三郎による「絵に添へて一筆」の冒頭。全国各地の鳥瞰図を作成した吉田初三郎にとって、その依頼主である全国各地の市区町村は大切なお客様。いくばくかの誇大広告は大目に見ないといけない。この鳥瞰図の原画は現在、桐生市立郷土資料展示ホールに所蔵されているという。





鳥瞰図の表紙を広げると、機を織っている女性がふたり。初三郎の一筆の隣りには、北原白秋作詞、山田耕作作曲、石井漠振付の「桐生音頭」の歌詞が載っている。「ハア 桐生よいとこヨイヨイ/後生楽男ヨイヨイヨイヨイ/(中略)/染屋の織屋の女の天下だ/セセツトセツセト/キリハタトントン」……といったような適当な歌詞であるが、石井漠の振付もきっと適当だったのだろうなあと思いつつも、とにもかくにも桐生は一にも二にも繊維産業の町! そんなモダン都市の周縁、地方のモダニズム、といったことに思いを馳せてみたい。






全長80センチ弱に及ぶ桐生市鳥瞰図の、ほぼ中心部分。吾妻山の麓に桐生の町の中心部。桐生駅を通る両毛線の線路が赤色で描かれていて、鳥瞰図の右に両毛線の小山、宇都宮、日光方面、左には前橋、高崎、ひいては大宮、東京までが絶妙の遠近法をもって描かれている。





本日下車した上毛電鉄の西桐生から大川美術館のあたりの場所を拡大。大川美術館の場所はよくわからないけれども、大川美術館へ目印となる幼稚園、西幼稚園が昭和9年の鳥瞰図にしっかりと「幼稚園」と描かれているということにまず感激だった。「中学校」は2008年に閉校した桐生市立西中学校。そして、さらに感激だったのは、「水道配水場」が鮮やかに描かれているということ! 水道配水地の整備は昭和7年のことなので、この鳥瞰図の昭和9年当時はまだ出来たてホヤホヤだったのだ。




昭和9年秋印行の鳥瞰図に掲載の桐生の紹介文に、《斯して織物の都桐生は愈々産業の助長促進を計ると共に理想的なる上水道の完備、電気瓦斯の普及、主要道路の舗装等、内外共に近代都市としての面目を整へつゝ栄光ある大桐生建設に向つて……》云々と書かれているのを裏づけるようにして、大川美術館を出ると、そこは吾妻山の麓に近い高台で、歩を進めてしばらくすると、昭和7年4月1日に給水を開始した水道山排水地の施設がある。




大川美術館のあとは、吉田初三郎の鳥瞰図片手にモダン桐生観光に繰りだすことにして、さっそく遭遇する近代建築は「水道山記念館」。駅の待合室で入手した『駅からめぐる近代化遺産 桐生市まちなか散策案内図』(桐生市教育委員会文化財保護課発行)によると、旧配水事務所が現在「水道山記念館」として遺されていて、《昭和7年に桐生市上水道の配水事務所として建設され外観はスクラッチスタイル、屋根はスペイン瓦を用いて山荘風のデザインになっています。桜の名所として市民の憩いの場となっています。》というふうに紹介されている。



水道山記念館の建物をぐすっとひとまわりしつつ、向って左手の急勾配の坂道を下ってゆくと、鬱蒼とした樹木の下、浄水所の設備が目にたのしい。




昭和7年からずっとここにあると思しき、浄水場の施設。苔の生えたかまぼこ屋根が嬉しい。




排水地を見物したりしつつ、坂道を適当にくだってゆくと、写真の分岐点にたどりつく。



昭和7年4月1日に給水を開始した当時の水道山排水地の写真。小林一好監修『写真集 桐生市80年 1921〜2001』(あかぎ出版、2001年5月)より。今みたいに鬱蒼としていなくて、いかにも造成したばかりという雰囲気がただよっている。当時は、かまぼこ屋根も真新しい。



というふうに、大川美術館の外に出て、西桐生駅方面へと戻るというだけで、さっそく吉田初三郎の鳥瞰図の昭和9年当時の桐生に思いを馳せることが出来るのだった。





機嫌よくテクテク歩いてゆくと、大川美術館への経路の道しるべの「西幼稚園」の前に出て、ほっと一安心。行きは幼稚園の裏手の坂道をゼエゼエと登って行ったのだけれど、帰りは水道山記念館の建物を見物しつつ、のんびりと車道をくだって、今度は幼稚園の正面に出た。



そんなこんなで、ふたたび西桐生駅に戻る。昭和3年竣工のモダーン駅舎を満喫すべく、正面からじっくりと観察しつつ、歩を進める。






あらためてなんてチャーミングな駅舎なのだろう! としみじみ感嘆であった。江戸東京たてもの園の遺跡のようでありながらも、今もしっかり現役というのが嬉しい。




構内はペンキで塗り直されていて、全体の風合いがテカテカしている。駅の待合室ならではの高い天井の下では、扇風機がまわっている。上毛電鉄は30分に一度の本数であるので、たくさんあるベンチに座って、のんびり次の電車を待つ。




大川美術館を心ゆくまで見物したあとの昼下がりは、好きになってしまった上毛電鉄を心ゆくまで満喫すべく、始発の西桐生から終点の中央前橋を往復するのだと、張り切って往復切符1190円(片道は660円)を券売機で購入。券売機の隣りの骨組みの意匠がおしゃれ!







図録『石内都 上州の風にのって 1978/2008』より、西桐生駅を写した写真のページ。いずれも1976年の撮影。





前回の桐生遠足のよい思い出として、心に残っていた上毛電鉄は2年数か月を経た今もまったくおなじたたずまいで、中央前橋と桐生の間を運行している。





荻原二郎『昭和10年 東京郊外電車ハイキング(下)』RM LIBRARY 71(ネコ・パブリッシング、2005年7月1日)。「モダン都市東京の周縁」のなにかよい文献はなにかしらと、ある日ふらりと足を踏み入れた書泉グランデ6階の鉄道本コーナーにて、こんな素晴らしい本が刊行されていたなんて! と感激、もちろん上下合わせてガバッと買った。1915年生まれの荻原二郎先生は戸板康二と同い年。その鉄道写真の背後にある、モダン都市とその周縁にはいつも眼福なのだった。「昭和10年 東京郊外電車ハイキング」という書名もいいなア。




上掲書より、昭和14年8月18日に富士山下にて撮影の上毛電鉄の車両(デニハ50形51号)。『昭和10年 東京郊外電車ハイキング(下)』にはしっかりと上毛電鉄も紹介されていて、こんなに嬉しいことはなかった。

 中央前橋〜西桐生間を結ぶ上毛電鉄の歴史は比較的新しいもので、1928(昭和3)年11月に開通している。北関東の両都市と、途中の町村を結ぶ都市間連絡鉄道の小型版の性格を持っていた。
 運転も、両ターミナルを定時発車の30分間隔とし、貨物も貨車によらず、電動貨車のみで運転するものであった。また、1932(昭和7)年3月に、途中の新大間々(現・赤城)まで開通してきた東武鉄道に乗り入れ、中央前橋〜太田間の直通運転も実施していた。

と、簡にして要を得た解説がすばらしい。



昭和3年11月の開業当時と変わらず、今も30分間隔で運転している上毛電鉄。昭和3年11月の開業時そのまんまの西桐生駅から上毛電車に乗って、終点の中央前橋までのんびり揺られてゆくとしようと心穏やかに車窓を眺めて、西桐生の次は丸山下、その次の駅の富士山下の間に渡良瀬川を渡る、この渡良瀬川の鉄橋のたたずまいが、赤城から西桐生にやって来たときしみじみいいなアと思った。……というわけで、中央前橋に向かう上毛電鉄に乗って、まず注目は渡良瀬川の鉄橋だ、と気を引き締める。





上毛電鉄のウェブサイトで「渡良瀬川橋梁」は上毛電鉄で最も大きくて長い鉄橋だと知った。写真は、渡良瀬川の鉄橋を西桐生の方向に向かって撮ったもの。この単線と鉄橋と川と山、車窓からは山寄りに橋がもうひとつ見える、これらの視覚のハーモニーが素晴らしいのであった。





上掲の昭和9年の吉田初三郎《桐生鳥瞰図》の渡良瀬川の鉄橋附近を拡大。車窓から見える山寄りの橋は「赤岩橋」という名前。



渡良瀬川のあとも3つの川を渡って、大胡駅には車庫があるらしい。それにちなんでか、ホームの向こう側には「デハ101形」の模型が置かれてある。電車の模型には特に関心はないのだけれど、上掲の荻原二郎著『昭和10年 東京郊外ハイキング』を知ったあとだと、上毛電鉄に乗りながら昔の電車の模型を眺めるのは、昭和10年にタイムスリップしたような気分にもなって、ちょっとたのしかった。



西桐生から約50分で、終点の中央前橋に到着。





大川美術館を出たときは雨があがったばかりだった。上毛電鉄を下車してイソイソと中央前橋駅の改札の外に出ると、青い青い空。雨上がりならではの雲が独特の形状をしていて、そして空気は雨上がりなのでいっそう湿度が高く、モワッとジリジリと気温もいっそう高くなっている。





上毛電鉄の中央前橋駅で下車して前橋の地に足を踏み入れるという経路のすばらしいところは、駅のまん前に広瀬川が流れていて、川沿いを歩いてほどなくして、前橋文学館があるということ。





川沿いを5分ほど歩いて、左手に朔太郎が詩碑の前で銅像になってなにやら考え事している。道路をはさんだ向こうにあるのが前橋文学館。入場料100円を支払って、2階の展示室へ小走りする。萩原朔太郎は十代のときにもっとも夢中になっていた文学者で、図書館で勉強をさぼって筑摩書房の黄色い全集をあちらこちら読みふけっていたものだった、前橋にも行ってみたいと思いつつも実行することなく朔太郎熱も冷めてしまって幾年月、懐かしいなア! とマンドリンの旋律の流れる展示室をぐるりと一回りしたあとで、音声ブースに座って、朔太郎の詩の朗読を試みに聴き始めてみたら、ことのほか熱中してしまい、岸田今日子や幸田弘子の朗読をあれこれ、ねこそぎ聴いてしまって、ちょいとひと休みのつもりが、ことのほか長居してしまった。


ふたたび外に出て、広瀬川沿いをもと来た道を戻る。せっかくの前橋来訪だというのに、なんの予備知識もなく、前橋文学館しか頭になく、でもまあせっかくなのでちょいと町歩きをするかなと、適当な道を曲がって商店の方へと歩を進める。とにかくも今はコーヒーを飲んでひと休みしたいなアと、全身コーヒー渇望人間となりながら、目を皿のようにしてコーヒーを飲めるお店を探し出し、やっとのことで1軒発見し、まさに砂漠のなかのオアシスだとよろこぶ。「くたぶれた、くたぶれた」と店内で涼んで、ふたたび中央前橋駅前に戻る。




復路・西桐生行きの上毛電鉄は「風鈴電車」。




「風鈴電車」とは何ぞやと思っていたら、天井には風鈴がひしいめいており、短冊に人びとの投稿した俳句が書かれてある。



電車が発車すると、風鈴の音は思っていたよりも大きくはなくて、チロチロと静かに音がする程度、そんなかすかに響く風鈴の音とともに西桐生行きの車内ではコンコンと寝入ってしまい、車窓をたのしむことなく、西桐生の駅に到着。ふたたび桐生の地に立ち、これから先は思う存分、歩きまわるのだとハリきる。




初三郎の鳥瞰図片手にモダン桐生探索・その2。桐生駅から錦桜橋へ。「のこぎり屋根」の工場をめぐって、日没。

駅の待合室で入手した『駅からめぐる近代化遺産 桐生市まちなか散策案内図』と題された桐生市教育委員会文化財保護課発行の「まちなか散策マップ」がとても行き届いていて、これがあれば桐生町歩きは鬼に金棒だと、上毛電鉄の車内や前橋市内のコーヒーショップで眺めては、来るべき桐生町歩きに胸を躍らせていた。2008年3月に初めて桐生を訪れたとき、織物産業で栄えていた当時の古い建物の多くがそのまんま残っていることにまず魅了された。なんとはなしに目にする、一見どうってことのないような数々の古い建物が眼福で、桐生の町にただよう「地方都市のモダニズム」といったものがいいな、いいなと思った。モダン東京の周縁として「近代化遺産」が数多く残っているのを目の当たりにすると、おのずと昔の東京の町並みをも髣髴としてくる。桐生を歩くということは、戦前のモダン東京に思いを馳せるということにもなって、勝手な思い込みではあるけれども、歩いているだけでふつふつと嬉しくなってくる町だと思った。



上毛電鉄を下車したら、今日の夕方から明日の午後まで思う存分、桐生の町を歩くのだと、昭和3年竣工のモダーンな西桐生駅の駅舎を背後に、ズンズンと桐生駅方面へと歩を進める。桐生駅構内を横断した先のビジネスホテルにチェックインして、気分は地方出張。もう5時を過ぎているけれども、日没までまだ間があるのがありがたい。イソイソと外に出て、日没後のワインをたのしみに、『桐生市まちなか散策案内図』を片手に、まずは石内都の写真に写っていた錦桜橋を目標に、歩行を開始する。





桐生駅前から歩を進めて、さっそく遭遇するのがこの絹撚記念館。「旧模範工場桐生撚糸合資会社事務所棟」で、『桐生市まちなか散策案内図』には、《大正期には国内最大の撚糸会社であった旧日本絹撚糸株式会社の事務所棟で大正6年に建築されました。県内最古級の洋風石造建造物で現在は市内文化財の案内所として活用されています。》と解説されている。





建物正面左手に設置してある案内板の解説をフムフムと熟読するとともに、「旧模範工場桐生撚糸合資会社事務所棟」が「旧」ではなくて現役だった当時の昔の写真を凝視して、ふつふつと嬉しい。事務所の周囲は低層の三角屋根の建物が連なっていて、その背後には桐生駅の線路がうっすらと見える。さらにその背後は、吾妻山に連なる山なみ。





《昭和30年当時の桐生機関庫》、小林一好編『写真集 桐生市80年 1921〜2001』(あかぎ出版、2001年5月)より。両毛線の線路は高架化されていて、かつての桐生機関庫の風情は失われており、車中心の市民生活を反映するように、ガード下は駐車場になっている。





初三郎の桐生鳥瞰図を確認すると、絹撚記念館の建物がしっかりと描きこまれている。絹撚記念館の周囲の低層の織物工場と、その背後の桐生駅機関区もしっかりと描かれている。鳥瞰図の上方には、上掲の写真の右上方に写る鉄塔もあったりして、漫画チックでチャーミングであると同時にしっかりとリアルでもあるという、初三郎の鳥瞰図にはつくづく感嘆しきりなのだった。



と、「近代化遺産」として華々しく紹介されている建物、その建物の合間合間に残る同時代のたくさんの無名の古い建物、今はなくなってしまった建物……それらが混然一体となった桐生の町を、初三郎の鳥瞰図を参照しながら、モダン桐生に思いを馳せながら、歩いてゆくのだった。




むしろ、桐生町歩きのたのしいのは、特に遺跡指定されてない古い建物がたくさんあるということなのだと、いちいち反応していてはキリがないくらいに、歩を進めるとあちらこちらで古い建物に遭遇する。




そうこうしているうちに、桐生の目抜き通りに出た。JRの線路をはさんで桐生市を縦断しているこの通りは、2008年3月に初めて桐生を訪れたときに、傘を片手にハイテンションになって歩いた道で、古い商店建築が軒を連ねているサマが、ただ歩いているだけでふわふわとたのしかった。1950年代の成瀬巳喜男の映画に出てくるような昔の東京を歩いているような気分だった。あのときは雨が降っていて、二度目の来訪の今回はもう日暮れどき。そんなちょっと薄暗いなかを歩くのがいかにも似つかわしいような感じ。この通りを右折して、大川美術館の石内都の記憶を胸に、錦桜橋を目指す。





通りを渡良瀬川に向かってズンズン直進して、錦桜橋に到着。橋を渡った先には、東武の新桐生駅がある。川の向こうがはるかさきに見える。





《歩道が付けられる以前・昭和30年頃の錦桜橋の賑わい》、『写真集 桐生市80年 1921〜2001』より。

錦桜橋は大正4年(1915)伊勢崎線道路の開通に伴い木造の橋で開通した。その後大正11年(1922)8月15日、折からの洪水に見舞われ流出した。同14年、鉄鋼ワーレントラス構造の永久橋となったが、敗戦直後の三度の台風で改築の必要に迫られ、堤防の改修と併せ延長工事が行われ昭和28年(1953)に完成した。同41年(1966)2月には両側に各3mの歩道工事が竣工した。

本書刊行の翌年の2002年、錦桜橋は老朽化により架け替えられる折に、石内都は自身の生誕地での唯一の記憶である錦桜橋の鉄鋼を写した。





大川美術館図録の『石内都 上州の風にのって 1978/2008』にある、石内都による《見渡せば風景は変り、ワーレントラスの鉄骨で組まれた錦桜橋の姿は消え、単なる普通の橋となり、人は次々と去り、空気の匂いは希薄になり、時間の長短が身にしみる歳になって……》という一節を反芻しながら、渡良瀬川に架かる「単なる普通の橋」をしばし眺めるのは、ずっと心にとどめておきたい感覚だった。





このたびの桐生訪問は、大川美術館で石内都の写真を見たことで、一層深い印象となって、いつまでも心に残った。美術館の展示室での石内都の写真との邂逅は予想外の出来事だった。


当地で初めて出会ってモクモクと刺激を受けて、大まかにしか練っていなかった遊覧コースに新しいコースを加味してゆくというのは、いつもたのしい。駅の待合室で入手した『駅からめぐる近代化遺産 桐生市まちなか散策案内図』と題された桐生市教育委員会文化財保護課発行の「まちなか散策マップ」は、「駅からめぐる近代化遺産」というサブタイトルどおりに、地図のあちらこちらに、たくさんの「のこぎり屋根」のマークが散りばめられてある。かねてより、近代建築の工場の三角屋根を目にするたびに「いいな、いいな」と思っていたものだったけれど、その三角屋根は、建築学会の語彙として「ノコギリ屋根」という名称で統一されている、ということをこのたび初めて知った。古くから桐生は織物産業で栄えた町で、小規模の織物工場が町中にひしめいていた。別の用途に再利用されていたり、そのまま物置ないしは廃屋になっていたりするのだけれど、いずれにしても、現在も桐生の町では、200を超えるたくさんの「のこぎり屋根」の建物を今も見ることができて、町全体が「近代化遺産」なのだった。




昭和9年秋に印行の吉田初三郎の桐生鳥瞰図に、錦桜橋がワーレントラスの橋として、描きこまれている。上掲の絹撚記念館と同じように、漫画チックでありながらも、形はしっかりとリアル。そして、さらに感動的なのが、吉田初三郎が桐生の鳥瞰図を描くにあたって、町全体のあちらこちらに「のこぎり屋根」の織物工場を描いているということ。ワーレントラスの錦桜橋の上部にも、折り目の右にも「のこぎり屋根」の絵。



錦桜橋に立って、渡良瀬川を見つめたあとで、ふたたび桐生駅方面へと戻るのであったが、それまで錦桜橋のことで頭がいっぱいだったけれども、『桐生市まちなか散策案内図』を参照すると、これまで歩いてきた大通りの脇にも、数件の「のこぎり屋根」がある! ということ気づいて、帰りはそれまで歩いてきた大通りではなくて、「のこぎり屋根」をたどりながら、脇道を歩きながら桐生駅方面へと戻ることに決めた。と、思いついたとたんに、「のこぎり屋根」を探せ! と燃えて、ふたたびズンズン薄暮の町を歩いてゆく。




わが「のこぎり屋根」めぐりはこの建物で始まった。典型的な「のこぎり屋根」! と、よろこぶ。青のトタン屋根。三角屋根の短辺から採光をする仕組み。この建物は採光面は北東に向かっている。




このあたりかなと思うと、地図のとおりに「のこぎり屋根」がひょっこりと姿をあらわす。




日没直前の大通りも人通りは少なかったけれども、脇道に入ると、人っ子ひとりない。小川のせせらぎを渡ったりして、路地裏の散歩がたのしくて、萩原朔太郎の『猫町』気分を味わったりもする。この「のこぎり屋根」も法則どおりに短辺に採光面。




薄暮の空が独特の美しさ。「のこぎり屋根」探索もたのしいけれども、「のこぎり屋根」の合間合間の路地裏の風情が素敵で、桐生を歩いていると、やっぱり「昔の東京」をヒシヒシと感じるのだった。




なんでもないような「歩行」や「移動」がいつも一番楽しいなアと、すっかりハイになって、さらにズンズン歩く。日没に追い越されないように、ピッチを早める。




線路沿いへとたどりついて、『桐生市まちなか散策案内図』に紹介されている「旧堀祐織物工場」に到着して、本日の「のこぎり屋根」はこれでおしまい。屋根はスレート瓦で外壁は大谷石。《桐生市民には堀マラソンで知られる堀祐平により明治38年に創業された堀祐織物の大谷石造りの鋸屋根工場で大正10年頃に建築されました。現在は美容室アッシュとして改装され活用されています》とのこと。大谷石の風合いがいつも大好きだ! と外壁を眺めて嬉しい。





錦桜橋に立ちすくんだあとは、ことのほか「のこぎり屋根」めぐりに熱中してしまい、なかなか興奮はおさまりそうになかった。明日はたっぷり桐生町歩きの時間があるので、暑くてもくじけることなく工場見学に励むのだと、『桐生市まちなか散策案内図』をにぎりしめながら、決意を新たにする。桐生市立図書館が近いということに気づいて、明日は早起きして地域資料室へ行かねばとメラメラとハリきったところで、日没。


日没と同時に、本日の歩行は終了。古い建物を改造した店内で好物のボルドーの赤ワインをグビグビ飲んで、すっかりいい気分になってふたたび外に出ると、一面の暗闇。こんなにも暗い夜道を歩くのはずいぶんひさしぶり。昔の東京の夜もこんな感じに真っ暗だったのだろうなあと思った。