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平井一麥編『人物書誌大系42 野口冨士男』のこと。

野口冨士男にはますます夢中になる一方で、もはやわたしは野口冨士男を中心に本を読んでいると言っても過言ではない気がする。全著書蒐集を目指して早数年、自分用に「野口冨士男・著書リスト」【http://www.ne.jp/asahi/foujita/kanako/carnets/noguchi/a.html】をこしらえて、折に触れ参照して、野口冨士男を繰り返す読み続ける日々。



5月末、日外アソシエーツの「人物書誌大系」シリーズとして、野口冨士男の書誌と年譜が一冊の本として刊行された。入手と同時に『人物書誌大系42 野口冨士男』は、一生の宝物になった。




平井一麥編『人物書誌大系42 野口冨士男』(日外アソシエーツ、2010年5月25日)。ご子息の平井一麥氏によって編まれた本書については、紅野敏郎が巻頭の「『人物書誌大系42 野口冨士男』刊行によせて」にて、

平井一麥氏のこのたびの本は、野口冨士男の全文業の「初出目録」「著作目録」「年譜」「参考文献」の四本柱で編まれている。抜群に興味深いのは、野口本人の「自筆」の「年譜」を、残された「日記」その他で猛烈に補強された「年譜」の章である。

というふうに端的に書いている。一人の文学者の書誌として一見きわめてオーソドックスな構成でありながらも、初めて手にしたときにまず圧倒されたのは、「年譜」が約250ページのうち100ページ以上の分量を占めているということ。そして、その「年譜」は、紅野敏郎曰く《野口本人の「自筆」の「年譜」を、残された「日記」その他で猛烈に補強された》という代物なので、野口冨士男の日記の断片を読むという側面を多分に含んでいるのだった。




平井一麥著『六十一歳の大学生、父 野口冨士男の遺した一万枚の日記に挑む』文春新書664(文藝春秋、2008年10月20日)。野口冨士男の日記といえば、当然思い出すのが、平井一麥氏が2年前の秋に上梓した『六十一歳の大学生』のこと。刊行と同時にガバッと買って、入手と同時に一気に読みふけったものだった。ちょうど同時期に、町田の文学館で八木義徳展が開催されていて、よろこびいさんで出かけたのだったけど、『六十一歳の大学生』を手にした直後に出かけたことで、さらに格別な時間になった。当時の感激は今でもとっても鮮烈。『六十一歳の大学生』が刊行された2008年10月以降、わたしはますます深く、野口冨士男にのめり込むようになった気がしている【当時の「日用帳」→ id:foujita:20081019】。



『六十一歳の大学生』の第二章の「父の遺した日記が一万枚」に、《二〇〇五年春からはじめた作業は、二年余りかかって〇七年》夏に一段落し、

 日記の整理にメドがついたと思っていたとき、「野口冨士男文庫」に保管されていた資料のなかから、父の「自筆年譜」がみつかった。内容は、執筆記録と生活事項が記載されていた。
 すでに父は、一九八二年に筑摩書房から発行されたエッセイ集『文学とその周辺』、八五年の花曜社『虚空に舞う花びら』、最晩年の九一年に発行された河出書房新社『野口冨士男自選小説全集』などにも、年譜を掲載していたが、みつかった「自筆年譜」とは若干の相違点もあった。
 そんななか、「野口文庫運営委員会」の委員のおひとりに、法政大学教授の勝又浩氏がおられ、「平井さん、ちゃんとした年譜をもっていない作家が多いのだから、この年譜を「書誌」として、キチンと整理するのは、あなた以外だれもいない」というお話があった。(p.42)

というくだりがある。このたび日外アソシエーツより刊行された『人物書誌大系42 野口冨士男』は、まさに『六十一歳の大学生』の上掲のくだりが成果となって一冊の本としてまとめられたというわけで、『人物書誌大系42 野口冨士男』は、『六十一歳の大学生』に引き続く、平井一麥氏の営為の産物ということになるのだった。



『人物書誌大系42 野口冨士男』を入手して、その書誌や年譜を一通り眺めたあとで、あらためて『六十一歳の大学生』をじっくり読み直してみたら、初読時以上に、万感胸に迫るものがあった。『六十一歳の大学生』では、著者が定年後に「父 野口冨士男の残した一万枚の日記」に対峙して、その60年分の日記をパソコンに打ち込む日々を綴ることで、野口冨士男の文学者としての一生と平井氏の半生とがパラレルに語られている。『六十一歳の大学生』の随所に刻みこまれている野口冨士男の日記本文の一節一節を目の当たりにすれば誰だって、いつの日か「野口冨士男の遺した一万枚の日記」を全部読み通したいと思ってしまうに違いないけれども、このたび刊行の『人物書誌大系』と前著の『六十一歳の大学生』を2冊セットで参照することで、ある程度はその望みが叶えられているともいえそう。『人物書誌大系』で平井一麥氏によって編まれた「年譜」を繰り返し参照することで、野口冨士男の「一万枚の日記」を垣間見ている気分を味わうことができて、野口冨士男の愛読者にとっては、なんとも格別の時間。誰にも教えたくないような、自分だけで一人占めしたいくらいの極上の時間。


『人物書誌大系』の「年譜」をひとたび眺めると、野口冨士男の文章ですでにおなじみだったことが別の角度から照らし出されることで新たな発見をしたような気分になったり、新たに知った事実と対照させることで、今後の野口冨士男読みがますますふくらみを増すような思いに駆られて、初出目録や年譜を眺めては野口冨士男を読み直したり、野口冨士男のみならず野口冨士男と同時代に居合わせた文士のありようを思ったりして、あっちをふらふらこっちをふらふら、いろいろな本を取り出して……と、『人物書誌大系42 野口冨士男』を入手してからというもの、一カ月ばかりずっとそんな日々が続いている。もう、何をみても野口冨士男を思い出す、という状態。





『六十一歳の大学生』で野口冨士男の徹底的な記録癖について言及されていたけれども、『人物書誌大系』の「年譜」は、その「記録癖」がいかんなく発揮されていて、読み物としても興趣が尽きなくて、とにかく素晴らしい。紅野敏郎が、巻頭の「『人物書誌大系42 野口冨士男』刊行によせて」に、《野口の記録魔、メモ魔的要素は、その周辺の人はもとよりのこと、外縁の人にまで及んでいる。先輩、友人、後輩、また日本文芸家協会、日本近代文学館、日本近代文学会などにおいて、彼が接し、触れた人びとが、なんと多数、しかも幾回も記録されていることか。》という一節とともに、《野口冨士男の眼鏡=記録を通すと、昭和文壇、昭和文学のある種の側面が、実に鮮明に浮かびあがってくる故である。》と記しているとおりに、昭和文学の資料という点で秀逸。しかし、そういった資料性はもちろんこと、読み物としてもすこぶるおもしろいのだから、もうたまらないッと、あちらこちらで興奮してばかりいる。


たとえば、根っからのコーヒー党の野口冨士男の立ち寄った喫茶店の名前が、戦前戦後を通して「年譜」の随所に記録されているので、「年譜」全体がちょっとした喫茶店文献の様相を呈していたりもする。青山斎場に列席の折に毎回のように立ち寄るのがウエスト、駒場の文学館の帰りには駅前のコロラドか渋谷のトップ、近所では早稲田通りのユタ、神楽坂のパウワウ、東京會舘の際にはもちろん1階のカフェテラス……などなど、わたしも行ったことのあるお店が結構多いのが嬉しかった(有楽町ビルのストーン、野口冨士男に似合いすぎ! 昼休みにひさしぶりに思わず行ってしまった)。『人物書誌大系』の「年譜」は、都市生活者野口冨士男の「見た/歩いた」東京風景という点においても、たいへん胸躍るものがあった。


野口冨士男を読むということは、「東京」を読むということであり、野口冨士男の生きた「感触的昭和文壇史」を読むということであるということが、『人物書誌大系』の「年譜」を入手したことで、それまで以上にヒシヒシと実感するのだった。戦前戦後の「年譜」を概観すると、野口冨士男の「感触的昭和文壇史」の断片断片に何度も目を見開かされるということになり、野口冨士男はもちろんのこと、「野口冨士男とその時代」に接触するさまざまな事象を追究したくなり、野口冨士男の生きた時代、磯田光一言うところの《モダニズムの洗礼を受けた私小説作家》たる野口冨士男の文学全体へ、さらに思いがつのっている。




福田勝治『銀座』(玄光社、昭和16年7月5日)より、《並木に日があたる裏と表。モナミの扉はあいてゐる。キラキラと娘さんが駆けこんでくるかもしれない、》。



戦前の「年譜」でちょくちょく登場する銀座のお店のひとつが、モナミ。たとえば、昭和12年6月7日では、「あらくれ会」散会のあと、

銀座へ出るという岡田三郎、尾崎士郎、榊山潤と一緒に東京茶房へ行く。3人の話をきいていると、私等の仲間が話し合っているのと大した変りがない、こういう人達が何時まで若いのに驚かされる。岡田だけ残して、外へ出たら10時ちょっとすぎなのに、雨のせいか街はすっかり暗くなっていた。尾崎が食事をしたいというのでモナミに腰を落ちつける。

というふうにして登場している。この年、野口冨士男は26歳。岡田三郎が一人だけ東京茶房に残ったのは、当時東京茶房の女給と恋愛中だったからということをふと思い出して、頭のなかは一気に、野口冨士男の『ほとりの私』および、岡田の恋愛を描いた『流星抄』のことでいっぱいになる。






いずれも濱谷浩撮影、上が《東京銀座 喫茶ガール東京茶房 1935年》、下が《東京銀座 東京茶房(6丁目) 撮影年不詳》、図録『モダン東京狂詩曲』(東京都写真美術館、1993年)より。

 銀座西六丁目の東京茶房という店は、コロンバンの右隣りにあたる洋品店の二階にあって、私は年長の友人がその店の経営者としたしかったために、開店当時からの常連であった。
 昭和十年代に発生した新興喫茶という存在は、この店あたりがはじまりではなかったかと思うが、当時の銀座の代表的な喫茶店モナミや資生堂やコロンバンでは十五銭であったコーヒーが五十銭であった。岩波文庫の星一つが二十銭の時代だと思えば、そのころの五十銭の価格もほぼ想像がつくだろう。
 注文の品をはこんで来た少女が客とおなじボックスに坐ることは許可されていなかったが、脇においてあるストゥールに腰を掛けて話の相手をするというのがその店の新しい営業様式で、注文をすればビールもあった。ビールのほうはコーヒーと違って、裏通りの酒場などにくらべれば数段格安であったが、そればかりではなく、当時の酒場にはかなり退廃的なものがあったので、この店には一種の新鮮さをもとめて集まる中年の客がすくなくなかった。……


【野口冨士男『ほとりの私』(初出:「風景」昭和43年2月)-『暗い夜の私』(講談社・昭和44年12月12日)所収】

いつもながらに野口冨士男の微細にわたった、「感触的」かつ「実感的」な描写が感動的。さて、時は過ぎゆき、20年後、「年譜」の昭和32年5月20日のところには、

芸術座で〈あらくれ〉試写。豊田三郎と、有楽座裏の喫茶店へ入ったら、東京茶房という店だったので驚く。岡田三郎の作品【流星抄】を書いている最中だし、延子のいた店が東京茶房だったからだ。

というくだりがある。『流星抄』はこの8年後、「文藝」昭和40年6月号に掲載された。





『人物書誌大系』では、「年譜」だけに興奮しているわけではなくて、「初出目録」や「著書目録」、「参考文献」のあちらこちらでも「おっ」の目白押しで、『人物書誌大系』を入手してから、毎日のように倦むことなく眺めていたので、毎週末の図書館行きがいつも待ち遠しくてたまらなかった。好きな文学者の書誌が刊行されるということがこんなにも嬉しいことだったなんて! の一語に尽きる。


たとえば、加藤郁乎著『俳の山なみ』(角川学芸出版、平成21年7月)を読んだとき、

 若いころ、荷風散人の『雨瀟瀟』を耽読したにより薗八節の哀調切々森々さながらの古曲の運命、師弟の色模様を探りたくなったひとりである。のちのち籾山梓月の句文を知るに及び、荷風は俳人梓月を通してはじめて薗八節の奥深い味わいに引きこまれていったのではないかという推測が深まった。梓月には薗八節の句が時を置いて二、三にとどまらず詠みなされ、鸞鳳軒忌(天明五年五月九日)を吐吟として示したのは梓月ひとりであり『江戸庵句集』に収められ異彩を放っている。いつぞや『わが荷風』を書かれた野口冨士男氏と対談した折、薗八や梓月の名が出たので麻布十番だったかの蕎麦屋で荷風が稽古に通った薗八節の師匠を知る婦人と語ったことがある、と云うと野口氏はそのひとなら自分も知っていると云われ花が咲いた。(p.207-208)

というくだりが強く印象に残っていて、加藤郁乎と野口冨士男の対談のことがずっと気になりつつも、それっきりだった。このたび、『人物書誌大系』で加藤郁乎との対談のことを突如思い出して、その初出誌を知ることができたのが嬉しかった(『東京気まぐれ散歩』、「小原流挿花」昭和57年2月)。などと、いちいち挙げているとキリがないくらいに、今すぐに閲覧したくなるような記事が盛りだくさんだった。


とりわけ、対談や書評は著書に収録されることが少ないので、貴重だった。「初出目録」で知った記事のうち、嬉しかったうちのひとつが、「週刊読書人」昭和57年4月27日号に掲載の師岡宏次写真集『東京モダン 1930〜1940』の書評。ここで、野口冨士男がかなり強い調子で、桑原甲子雄の『東京昭和十一年』(晶文社、1974年)への違和感について書いていたことに「おっ」だった。『江戸東京学事典』(三省堂、昭和62年11月)では、「レビュー」と「花柳界」の項を執筆していたりと、野口冨士男には、著作には収録されなかった類の、書評や対談をはじめとする、「モダン都市東京」文献が宝物のようにたくさん潜んでいるということが、『人物書誌大系』は教えてくれる。わたしの図書館での野口冨士男記事蒐集はこれからもずっと続きそう。





師岡宏次写真集『東京モダン 1930〜1940』(朝日ソノラマ、1981年2月28日)より、《東京暮しには談話室や食事目的で銀座が利用される。(昭和14年)》。明記はされていないけれども、この写真はいずれも銀座東三丁目にあった、明治製菓売店の店内を写している。上の写真は、小津安二郎の『淑女は何を忘れたか』(昭和12年3月封切・松竹大船)で佐野周二と桑野通子が向かい合っていた窓際のテーブル。【以前の「日用帳」→ id:foujita:20071110】





同じく、師岡宏次写真集『東京モダン 1930〜1940』より、《アメリカをまねて、日劇ダンシングチームがつくられ、21名の踊り子によるラインダンスが初公演した。昭和11年1月13日である。前年に東海道線に丹那トンネルが開通。背景はその感激の図である》。

 日劇の開場は昭和八年の十二月だが、私にとって忘れられないのは九年三月に催されたマーカス・ショウの公演と、それに前後して階上でおこなわれた福島コレクションの公開展である。前者は上海あたりでかき集められた二、三流の芸人の集団だということであったが、私にとってははじめてみた外人のショウで、日本人の踊り子によるレヴュウのパンティが股下三寸だと規定されていた時代だけに、かぶりつきでみた私は白人の踊り子の腿に静脈が蒼く浮いているのを目撃して固唾をのんだ。全身を金粉で塗った裸女のアクロバットも、まことに刺激的であった。この一行にダニイ・ケイが加わっていたと知ったのは、後年になってからである。また、福島コレクションは、それまで印刷でしか接したことのなかったピカソ、ルオー、ゴーギャンなどの実物をはじめてみた機会であった。


【野口冨士男「銀座二十四丁」-『私のなかの東京』(文藝春秋、昭和53年6月刊)より】