田島柏葉の句集をもって府中ピクニック。工場と競馬場と是政のお寺。

連休よりも、平日にはさまれてポンと1日の休日の方が断然好きだ。府中ピクニックに出かけたいな、4月中に決行できたらいいなと思っていたなかで、ふと「昭和の日」というのがあることに気づいたときは、大喜びだった。そして、いざ当日になってみると、朝からよいお天気、ちょっと天気がよすぎるくらいだけど、絶好のピクニック日和。






わーいわーいと新宿駅の京王線のホームにたどりついて、11時半発の北野行きの「準特急」というのに乗って、約20分後、府中駅に到着。もっと遠いかと思っていたけど、準特急に乗ったら、あっという間だった。車窓をたのしむ間もないくらいにあっという間だった。



府中ピクニックを思い立ったのは、今月最初のとある古書展が発端だった。会場に足を踏み入れたとたんに、あれよあれよと安くて欲しい本が見つかってしまって、これ以上見つかるとかえって困るので、そろそろ退散するかなと思ったところで、ふとパラフィン越しの背表紙にうっすらと『続多摩川』の文字が視界に入り、もしやと手に取ってみたら、思ったとおりに、田島柏葉の遺稿句集であった。加藤郁乎著『俳の山なみ』(角川学芸出版、平成21年7月)の「第一部 俳人ノォト」の「田島柏葉」の項で存在を知って以来、ずっと気になりつつも今日まで未見だった。取るものも取りあえず、まずは編集を担当した籾山仁三郎(籾山梓月)による「巻のはじめに」を立ち読みして、ジーンと立ちすくむ。夢見心地で帳場へ歩を進める途上、齋藤隆三『趣味の旅 古社寺をたづねて』というのが視界を横切り、なんとはなしにこちらも手に取ってしまった。




田島柏葉『続多摩川』(寶性院、昭和30年8月28日)。田島柏葉は明治33年に京橋明石町に生まれ、大正13年より増田龍雨の指導を受け、昭和9年12月の龍雨の死後は籾山梓月に指導を仰いでいた。龍雨と梓月の門人という立場を生涯貫いた俳人。柏葉は大正15年より寶性院住職として多摩是政に居住、戦後は『春燈』に投句をしていたが、昭和30年1月7日、競馬場近くで交通事故に遭い俄かに他界。数ヶ月後に遺稿句集として刊行された本書を編纂した籾山梓月は「巻のはじめに」で、

遺稿は俳句と俳諧の附合と文章との三部から成るものであるが、そのうち俳句については曩に昭和十八年の春、家集「多摩川」がある。依て之に因みて、此の遺稿を「続多摩川」と外題することにした。

と記している。柏葉の生前唯一の著書である昭和18年刊の『多摩川』には、加藤郁乎曰く《柏葉の人と句を述べてすこぶる美しい擬古文》の梓月による叙言がほどこされているという(『俳の山なみ』でさわりを読むことができる)。

柏葉師不慮の死を遂げてこのかた、言ひあらはすことの出来ない気の弱りのうちに日を送りつゝ、さかさまながらこの遺稿を編んだことである。書写の筆が佳吟に逢著し、或は文の妙所に到るごとに、おのづと涙がこみあげて来るのであつた。

と『続多摩川』の巻頭に綴った梓月は明治11年生まれ、昭和33年4月28日没。終の棲家は鎌倉の寿福寺内だった。「明治27年生まれ・人物誌」に引き続いて、このところ「明治11年生まれ・人物誌」にちょっと夢中だ。沼波瓊音、松根東洋城、真山青果、寺田寅彦……。





齋藤隆三『趣味の旅 古社寺をたづねて』(博文館、昭和3年9月15日四版=大正15年8月13日初版)の函(下部が半ば壊れている)。著者の名前は山口昌男『「敗者」の精神史』を読んで以来のおなじみ。箱の挿画があまりにチャーミングなので、一目見ただけで欲しくなってしまった。中の文章もなかなかいい感じなので、全国の社寺を紹介しているこの本、これから遠足のたびに参照したい。……などと、このところの古書展のたのしみのひとつが、遠足の戦前実用書。



田島柏葉は府中是政の寶性院の住職だったので、その句集を初めて手にしたことで無意識のうちに「古社寺」気分が盛り上がっていたらしい、『趣味の旅 古社寺をたづねて』なんていう本まで買ってしまったわい……などと、機嫌よく古書展会場をあとにしたその日から、ちょっとした煙霞の癖のようなものが胸にふつふつと湧きあがり、田島柏葉のいたお寺をたづねたくなったという次第だった。よって、このたびの府中ピクニックの最終目的地は、是政の寶性院なり。



1930年代東京の「俳諧的な随筆雑誌」、『春泥』。龍雨と梓月の高弟、田島柏葉のこと。

田島柏葉の名前は、増田龍雨を追うなかで(俳誌『しまき』を通して)、何年も前から一応は知っていたけれども、ひときわ親しみを抱くようになったのはごくごく最近のこと、今年2月に『春泥』を創刊号から第八十三号まで、計83冊の『春泥』を入手したのがきっかけだった。


1930年代に『春泥』という俳句雑誌があった(昭和5年3月創刊、昭和12年12月終刊、全89冊)。支柱的存在だった久保田万太郎は、創刊号に掲載の座談会にて《一種俳諧的な随筆雑誌》と称している。その表紙の多くを小村雪岱が手がけている。戸板康二曰く《何から何まで、ぜいたくな料理を味わうような記事が毎号出ていて、何とも、わくわくする贅沢な思いがする》、《「春泥」は採算を全く考えず、好きなだけの金をつかって、中身を充実させた雑誌で、これはやはり、内田さんが私財を投じた出版であったと思われる》(『句会で会った人』)。戦前の明治製菓および宣伝部長内田誠とその周辺を探索していくと、内田誠の公的仕事である明治製菓宣伝誌『スヰート』のみならず、『スヰート』とパラレルに刊行されていた『春泥』、すなわち内田誠の私的趣味をとりまく人物誌へと、世界はどんどん広がってゆく。


このたび『春泥』をまとめて入手して、夜な夜な繰っては、誌面に登場する文人たちの錯綜とその舞台としてのモダン都市東京にますます夢中になった。これまで何度も閲覧したことはあったけれど、実際に入手してみたら、今まで見えていなかったいろいろなことが実感をもって迫ってくる。今まで何を見ていたのだろうというくらいに。所有することで、初めて見えるものがあるということがよくわかった。やっぱり入手するものだと思った。『春泥』のルーツをたどると、大正6年創刊の『俳諧雑誌』、すなわち籾山梓月という存在へとたどりつく。その第一次『俳諧雑誌』と震災後に復刊した第二次『俳諧雑誌』、そして1930年代東京の『春泥』を舞台に登場する、震災前から震災後に至る「東京の文人」たち。その交錯にますますのめりこんで、たのしみはいつまでも尽きそうにない。というか、おたのしみはこれからだ、という気がしている。




『俳諧雑誌』第1巻第1号(俳諧雑誌社、大正15年4月1日発行)。編集兼発行者:大場惣太郎。表紙絵:小田島十黄。籾山書店発行の第一次『俳諧雑誌』は籾山梓月を主宰者として大正6年1月創刊。この第二次『俳諧雑誌』は、大正12年6月(第7巻第6号)を最後に発行が途絶えていた第一次の復活号として発刊したもので、白水郎こと大場惣太郎の主宰。昭和4年2月をもって休刊し、翌年3月創刊の『春泥』へと引き継がれることになる。




『春泥』第83号(春泥社、昭和12年6月5日発行)。表紙:小村雪岱。昭和12年新年号より、内田誠作の小唄「見立寒山拾得」に合わせて描かれた作品が表紙画となった。印刷の美しさに目を見張る。わたしの手元にある創刊号からの『春泥』の最後の1冊がこの83号。『春泥』昭和12年12月発行の第89号をもって終刊。のち、昭和15年に第二次『春泥』が4号まで刊行されている(以降は現時点では未詳)。



わたしの手元に舞い込んだ創刊号から第83号までの、全部で83冊の『春泥』を昭和5年3月の創刊号から1冊ずつ大事に大事に読み進めてゆくなかで、今ここにある『春泥』の旧蔵者は田島柏葉その人にほかならないことを証拠だてるような紙片が挟み込まれてあるという事態に何度か直面して、そのたびに胸が躍ることこのうえなかった。第二次『俳諧雑誌』創刊号から『春泥』に至るまで、ほぼ毎号その俳句を見ることができる田島柏葉は、『俳諧雑誌』と『春泥』を象徴するような「東京の文人」のひとり。加藤郁乎は『俳の山なみ』の「田島柏葉」の項のサブタイトルを「龍雨と梓月の高弟」としている。この一言以外に言葉はいらないくらい。この一言だけでわかる人にはわかる。




『春泥』に挟み込まれていた紙切れのうち、『しまき』の「七月例会案内」、ガリ版刷りの紙面に掲載の、例会開催場所「雪中庵」の地図。

龍雨先生はその年、即ち昭和五年の六月に雪中庵十二世を襲うて、浅草から滝野川の西ケ原に移られた。さうして俳句の世界に専心されることになり、所々の句会にも出席され、また門葉の立机を図られたりして、所謂宗家の為事に没頭された。私はこゝにも足繁く通ふことを怠らなかつた。八汐の芽がほぐれ、木瓜の咲きたつ明るい庭を前に、また時雨ふる夜、鉄瓶の沸る音を聞きながら、泌々とお話を承つたり、連句を巻いたりするのは心楽しいものであつた。

と、これは生前唯一の著書『多摩川』の柏葉自身による「跋」の一節。震災後の東京を舞台にした自身の俳歴をつつましく語っているこの文章は、『続多摩川』の巻末に再掲されている。『春泥』が創刊された昭和5年、増田龍雨は「雪中庵」を襲名して、浅草千束町から滝野川西ケ原に移った。柏葉らはその門には加わらず、俳誌『しまき』を刊行して、引き続き龍雨に個別に指導を仰いだ。

昭和六年十月、雪門とは関係なく、先生を中心とした純粋の俳句研究誌「しまき」を創刊した。これは寔に小冊子であつたが、先生はその創刊号に「わたしたち、うるほひある詩を好むわたしたちには、尠くとも過ぎ行く月日の糧である。――たとへば、それが、いかに片々たるものであつても、凩に吹き飛んで了ふ雑木の木の葉ではない。――所詮は、わたちたちの、露持つ花片なのである。」と序を寄せられて、心から指導をして戴いた。私達はこゝに又勉強の道場を得て、先生が他界される迄懸命の精進をつゞけた。

昭和9年12月3日の龍雨の他界と同時に『しまき』は廃刊。このあと若干の紆余曲折を経て、柏葉は昭和12年1月に創刊の俳誌『不易』の主幹となり、籾山梓月に指導を仰ぐことになる。昭和9年4月に「いとう句会」が発足して以降、『春泥』は「いとう句会」の機関誌的な面を帯びてくるようになる。同年12月の龍雨他界以降も、毎号のように柏葉の句を誌面で見ていたけれども、『春泥』が終刊する昭和12年には少し疎遠になっていたようだ。柏葉旧蔵の『春泥』が、第84号以降終刊までの6冊を欠いているのはその証しなのかも。




『春泥』に挟み込まれていた紙片のうち、《春泥浅草誌友会創立句会》の案内状の葉書、昭和9年2月8日付け(宛先「府下府中町是政 田島柏葉先生」)。場所:浅草公園池の端一仙亭楼上。日時:二月十七日午後五時より。兼題:春霖 雪解 雀の子(各二句)。賓選:大場白水郎 阪倉得旨 山田螵子 鴨下晁湖。この会については、『春泥』第44号(昭和9年3月5日発行)の六号欄に、以下のように報告がある。

此度、林蟲、蓬郎、草僊、黄雀、都の諸君と私らの発起で、「浅草春泥誌友会」といふ会を創立し、その創立句会を二月十七日浅草六区池畔の一仙亭で開催しましたが、珍しく白水郎、鴎二、十黄三先生の出席を見、又遠く府中から柏葉、犂子両氏来り会して後援され、出席三十一名、頗る盛会でした[。]兼題のほかに席上螵子先生から「浅草風景」(春雑)出題、流石にいろいろおもしろい句がありました。この会は是から隔月に開きます。来会御希望の方は当方へ御住所御一報ねがひます。(浅草公園一仙亭内 山本淇有)

上の葉書の差出人は、この山本淇有。「当日には是非尾お越し下さい」の旨、手書きで書き添えられてある。この日、「浅草風景」として柏葉の詠んだ句は、「奥山に木立はありぬ雀の子」「如月やいてふ枯木の中のみち」「二天門早春の日向ありにけり」の三句。



生前唯一の著書、『多摩川』(昭和17年12月刊)の「跋」で、田島柏葉は自身の俳歴をつつましく語っているのだったが、籾山梓月が編んだ遺稿句集『続多摩川』に再掲されたこの文章によると、柏葉の俳歴は沼波瓊音の俳句作法を座右に校友会誌へ投句を始めた中学時代にはじまり、大学進学のため下谷の根岸に引っ越した大正10年より、より深く俳句に没頭するようになった。やがて、世尊寺の近所の印刷所の息子、中村泰堂を知り、生涯の友となる。二人でしきりにあちこちの句会へ出かけていたが、大正13年秋、

おのれの姿のない俳句といふものが頻りに淋しく感じられて来たのである。そこで泰堂君とも相談して、誰か先生に就いて俳句の正道を勉強しやうではないかといふ事になり、誰彼と思案の上、その頃増田龍雨先生が赤壁(引用者註:泰堂の紹介で柏葉が最初に参加した俳句会)の課題句の選者をされてゐたゆかりをたどり、同先生にお願ひする事になつたのである。

増田龍雨はその頃、浅草千束町で「震災後のバラック建築で二軒間口の小さな店」の本屋を営んでいた。《私達は大抵夕食を済ましてから、句稿を懐中にして、入谷の暗い裏通りを龍泉寺へ出て、揚屋町から吉原を真つ直ぐに千束の通りを抜けては、こゝのお店先に坐つた》。3日に一度くらいの頻度で通った。

こゝは座敷といつても六畳そこそこの一と間きり、膳があり炭斗があつて、三人と膝を容れて坐るのには稍々狭い。随て客は大抵三尺そこそこの、お店と台所をつなぐ土間に小さな椅子を入れて、そこで話をした。

しかし、龍雨は留守のことが多かった。3回のうち2回は不在だったという。

たまたま先生が在宅の折は、俳諧のお話はもとより、芝居の事、食べ物の事、昔の東京のことなぞ承つて、時間ももう廓内の騒ぎの聞こえなくなつた事に気がついで、慌てゝお暇する事も尠くなかつた。先生が在宅の時はお客様がたて込んで、時にはお店の本なぞ見ながら、例の椅子の空くのを待つこともあつた。私が吉井勇、梅島昇なぞといふ人に紹介をして戴いたのも、さうした或る時の、夜寒の灯に張壁の明るいこゝのお店先であつた。さうかと思ふと、官服のお巡りさんが、ひとりで春さきの暖い日向に椅子を持出して、所在なげに売物の本を読んでゐる事もあつた。この人も某といふ俳人で、先生を訪ねて来て、先生は留守、却て奥様に束の間の店番を頼まれてのかゝる仕儀としれた事もあつた。

柏葉は明治44年、12歳のときに中野の宝仙寺に入り得度した。大正10年より下谷の世尊寺に寄宿し、大学生活を送る。大正12年の春に是政の寶性院の住職を拝命し、日本大学法文学部を卒業した大正15年3月に、是政の地に移住する。下谷から吉原の龍雨のもとへ、足しげく通っていたのは大正13年秋から是政移住までの1年と数か月のこと。

 明けて大正十四年二月に、私の寄寓先の世尊寺に、呉竹吟社と称する赤壁関係を中心とした俳句研究の集りを設けて、毎月八日例会を開くことになり、龍雨先生にも出席を乞うて指導を仰ぐことになつた。この会には出口叱牛、山口秋雨といつた赤壁系の幹部をはじめ、町絵師の濱田如洗、歌舞伎作者の平田音吉といつた人達も見え、又当時龍雨先生を中心とした浅草の花火吟社の連衆との往来もはじまり、今は個人になつた天野星雨、辻示敬といつた人達を識り、また石橋丁字路、安藤赤舟、同じき林蟲、川上梨屋、山本蓬郎、田中青沙などゝいふ俳句の達者な人達を識つて、この会は毎月盛に開催された。しかし私は既にして大正十二年の暮に現在の寺の住職となつてゐたので、十五年三月学校を卒ると直ちに根岸から多摩川畔に移らなければならない事情になつて、この会も自然消滅のかたちになつて了つた。この呉竹吟社の詠草は、纏めて一本と為し、龍雨先生の序文を戴いて昭和九年十一月句集「くれたけ」として刊行した。

と、柏葉の下谷時代を記念しているかのような格好の『句集 くれたけ』が刊行されたのは、龍雨の他界(昭和9年12月3日)の直前のことだった。




『句集 くれたけ』(しまき社、昭和9年11月15日上梓、非売品)。編者:田島明賢、発売者:中村英夫、発売処:しまき社=東京入谷鬼子母神際、印刷:泰文堂印刷所=東京下谷坂本裏町、150部印行。「明賢」は田島柏葉の僧号。柏葉と中村泰堂によって編まれた和綴じの句集。

震災前後まで運座歩きに没頭して居つた私は、龍雨先生を訪ね、そして花火吟社の御連中と交遊するやうになつてから、やがて其の透徹した句境を探り得たことを、柏葉君と喜び合つたのである。

と、泰堂による「跋」冒頭にある。『春泥』第54号(昭和10年1月5日発行)の六号欄では、本書を

句集くれたけ 田島柏葉編

 旧冬惜しいことに病歿された増田龍雨先生をその生前永く師として斯道に真摯精進して来られた「しまき」の人々の句集で同人田島柏葉氏の編に成り、序文は龍雨先生が寄せられたもので跋は同人中村泰堂氏が草してゐる。収むる所三百有余句、いづれも龍雨先生の再選校閲を経たもので、流石に景情共にしつくりと美しい霑ひを帯びた作品に富んでゐ、それによく難題や新題を研究的に詠みこなされた句もなかなかに面白い。和本綴で渋い装幀がこの吟社の育つた呉竹の根岸の里の昔をおもはせるやうにゆかしきものである。東京入谷鬼子母神際 しまき社上梓、非売品。

というふうに紹介している。




『句集 くれたけ』の扉絵にほどこされた、田島柏葉による木版画。遺稿句集『続多摩川』の「巻のはじめに」に、

故人は図案、木彫等の余技に秀でてゐた。その作品はわづかながら「しまき」の誌上に見ることが出来る。それを此の集に再現せしめ得ないのを残念に思ふのである。

という一節を籾山梓月は書き残している。『くれたけ』には上掲の扉絵と合わせて、春夏秋冬のそれぞれ最初のページに、版画がゆかしくほどこしてあって、この籾山梓月の証言を裏付けている格好。




たとえば、「冬」のページの最初にほどこされた版画は「雪中」の文字のある湯呑み。柏葉は『春泥』誌上でも、俳書を語る合評会では装幀に特別のこだわりを見せていて、その頑固ぶりに頬が緩んだものだった。



つづいて、『多摩川』の「跋」より。是政移住後の自身の俳歴を、田島柏葉は以下のように語ってゆく。

私は多摩川畔に引き籠つてからも、機会あるごとに浅草へ通つた。それが草深い田舎にゐた私の一番楽しいことであつた。又この大正十五年の正月には俳書堂から二番目の「俳諧雑誌」が創刊され、それには増田龍雨先生選の雑詠欄も設けられていたので、こゝにはじめて道場を得た私は専心投吟を試みることになつた。この雑誌は昭和四年十二月迄続いて廃刊になり、翌五年代つて「春泥」が創刊になつた。この雑詠欄即ち春泥集は久保田万太郎先生の選で、非常な厳選を以て知られた。こゝには龍雨先生をはじめ野村喜舟などゝいふ大家も出吟されたので、私達も心魂を打込んで俳句に没頭した。しばらくして春泥集の選者は大場白水郎先生に交替したが、龍雨先生のお勧めもあつて、私は引続いて指導を戴いた。

と、記憶違いによる誤記が若干混じっているけれど、つまり、柏葉は自身の是政移住とほぼ時をおなじくして、大正15年4月の第二次『俳諧雑誌』創刊を機に、のちの『春泥』同人のネットワークに、龍雨経由で仲間入りしたということになる。一方、内田誠は明治製菓本社が丸の内にあった頃に、毎日昼休みに立ち寄っていた籾山書店(三菱21号館)で、主任をしていた長谷川春草と知り合ったことで、そのネットワークに入り、やがてパトロン的な存在となっていった。『俳諧雑誌』と『春泥』の刊行が続いていた歳月のなかには、「東京の文人」たちの様々な交錯がある。


大正13年の秋から是政に引っ越す大正15年3月までの、句稿を持って下谷から吉原までの夜道を急いだ日々。たかだか2年に満たないものであるけれども、短いからこそ濃密さが増す。是政の地で思い返すことで、下谷の日々の記憶は柏葉の胸のうちにますます純化していったことだろう。大正15年以降は下谷から遠く是政へ移住し、遠く浅草千束町の龍雨を思いながら、俳句に精進した。第二次『俳諧雑誌』の刊行と同時に是政の地に移住し、昭和5年の『春泥』創刊の年は龍雨が「雪中庵」を襲名して、昭和9年12月に龍雨没。そんな、下谷から龍雨のいる吉原まで通った最初の二年間、『俳諧雑誌』と『春泥』の発刊された是政に移ってからの日々。そんな「龍雨の高弟」としての柏葉の十年の歳月。

 ことしは例年に比べて春が早めに来たやうである。私のところでいちばん早く咲くものは後庭の白梅である。(中略)
 草も、いぬのふぐり、なづな、たんぽゝ、すみれが咲きたつて、鶯の遠音の中に、つぶやくやうな枝蛙の声が聞かれるやうな日もあつた。
 野蒜の酢味噌、嫁菜の胡麻和、土筆のつくだ煮など、庭先から摘んで来ては、毎日のやうに喰べされた。
   こ の 寺 で 死 に た く 思 ふ 花 菜 か な   龍雨
 私は[セン]々堂の春を先生にも頒ちたく思つて、庭の嫁菜を摘み、速達小包で瀧の川のお宅て送つたことがあつた。
   拝啓今朝八時に到着いたし候おこゝろ入れありがたく早速ごまよごしにして拝味致し候お礼上候
     嫁菜をひろげて
    是 政 の 蝶 鳥 思 ふ 日 向 か な   龍雨
 これはその時の御返事である。お亡くなりになる前年であつたから、それからはもう一と昔になる。
 今年の春は、遽かに臻り、慌ただしく去るらしい。
 雀交る堂の檐のもと、故師の墓前に、
   梅 ち る や 青 み の り く る 碑 の お も て   柏葉


【田島柏葉「褪春記」より-『続多摩川』所載(初出:「不易」昭和17年5月号)】

今年2月にわが書斎に舞い込んだ全部で83冊の『春泥』が、かつて是政の寶性院の田島柏葉のもとにあった『春泥』一式であるということに対して、偶然と言ってしまえばそれまでだけど、どうしても運命的なものを感じずにはいられないのだった。さらに、4月にはそれまで未見だった『続多摩川』を入手することとなり、柏葉への思いはつのる一方だった。『春泥』と『続多摩川』を入手したせめてもの記念に、田島柏葉が《私は多摩川畔に引き籠つてからも、機会あるごとに浅草へ通つた。それが草深い田舎にゐた私の一番楽しいことであつた。》と書いていた歳月に思いを馳せるべく、是政の地へ行ってみることに決めた。



京王線にのって、新宿から府中へ。1930年代東京の『春泥』同人たちの「府中吟行雑記」。

『春泥』は俳句雑誌であるので、同人たちはしばしば吟行に出かける。そして、吟行の行程と詠まれた俳句はそのつど、誌面で報告される。書斎で夜な夜な、『春泥』の誌面を繰っていると、『春泥』同人たちによる「吟行雑記」を読むことで、1930年代東京のモダン都市の行楽、といったものがおのずと浮かび上がってくる。


『春泥』第2号(昭和5年4月1日)の「研究会紀要」欄に「研究会府中吟行」の告知がある。幹事はもちろん田島柏葉。

研究会府中吟行  一般読者参加御随意
□日時 来る四月六日(第一日曜)晴雨不拘 午前十時迄に新宿追分京王電車停車場に参集のこと
□行程 府中駅下車、六社明神参拝、中河原散策(昼飯)府中町在是政寶性院(柏葉居にて)披講、夕五時多摩駅より帰京
□幹事柏葉氏の案内にて多摩川原散策
□会費不要(但し乗車賃弁当等御自弁のこと)
追而遅参の方は府中駅下車、掲示板を御覧下さい。

この「府中吟行」の報告は『春泥』第4号(昭和5年6月1日発行)にたっぷりと掲載されている。府中への吟行は5年後の昭和10年5月26日にふたたび開催されており、こちらもほぼ同じ行程、第60号(昭和10年7月5日発行)にてたっぷりと報告されている。いずれも「一種俳諧的な随筆雑誌」の面目躍如の読み物で、田島柏葉のいた是政の寶性院をたずねるこのたびの2010年府中ピクニックの絶好のお手本なのだった。





『春泥』第4号(春泥社、昭和5年6月1日発行)。表紙:小村雪岱。創刊号(昭和5年3月1日発行)より第10号(同年12月1日発行)までの10冊がこの表紙。




その第4号に所載の「府中吟行雑記」の最初のページ。昭和5年4月6日を、山田螵子、天野寛哉、中村泰堂、安藤林蟲、浅野青白、池田犂子、最後に幹事の田島柏葉がリレー形式で執筆。





『春泥』第60号(昭和10年7月5日発行)。表紙:小村雪岱。第56号(昭和10年3月5日発行)から第65号(昭和10年12月5日発行)の10冊がこの表紙。この表紙がはじまる第56号は増田龍雨追悼号。「春泥叢書」の伊藤鴎二『鴎二句集』や大場白水郎『縷紅抄』の本体の挿画に似ているけれども微妙に違う。




その第60号の口絵写真、《府中吟行・大國魂神社境内》。昭和10年5月26日の大國魂神社の若葉の影は初夏の匂い。二度目の「府中吟行」についても、5年前と同じように、同人が「府中吟行」と題した記事を分担して執筆している。「いとう句会」発足1年後の二度目の府中吟行には、5年前には参加していた久保田万太郎、槇金一、内田誠の姿はない。昭和5年でも昭和10年でも大場白水郎が同人のまとめ役的存在だった。白水郎は後列左から5人目。柏葉は前列右端。





田島柏葉旧蔵の『春泥』全83冊と遺稿句集『続多摩川』入手を記念しての、このたびの府中ピクニックは、昭和5年と昭和10年の二篇の「府中吟行雑記」をお手本に、『春泥』が発刊されていた1930年代東京とその郊外に思いを馳せながら、府中の町を歩いてみるという計画だった。4月末に実現の運びとなったわが府中ピクニックは、昭和5年4月6日と昭和10年5月26日の『春泥』の二篇の吟行のちょうど中間の日程とあいなった。





このたびの府中ピクニックを記念して買った戦前の紙モノ、《京王電車沿線案内》(京王電気軌道株式会社発行)。《名所、史蹟に富み、山水の勝景に恵まれた当社沿線武蔵野を探勝する事は此の上もなき愉快なプランの一つでございます。当社線は京王新宿を起点として京王多摩川、東八王子、多摩御陵前に至り、更に進んで高尾山上までの連絡交通機関を併せ、帝都との交通を便ならしむる為め、常に快速の電車を運転して居ります。沿線には多摩川原遊園京王閣、東郷元帥御霊所、府中大国魂神社、東京競馬場、明治天皇御聖蹟記念館、百草園、高幡不動尊、多磨御陵、高尾山等著名な名勝、史蹟、巨刹多く敬神に、保健に何れも一日の旅に好適でございます。》。





上掲の沿線案内より、京王新宿駅を拡大。昭和5年4月と昭和10年5月のいずれも、『春泥』同人たちは「新宿追分京王電車停車場」に集合している(昭和5年は午前10時、昭和10年は午前9時半)。


京王電車の終着駅はかつては新宿追分の地にあった(以下、参考文献:『特別展 特急電車と沿線風景 小田急・京王・西武のあゆみと地域の変遷』新宿歴史博物館発行・2001年10月)。大正2年4月、笹塚・調布間にて営業を開始した京王電気軌道は少しずつ新宿へ路線を延長して、大正4年5月、晴れて「新宿追分」駅が開業。当初は市電へ乗り入れることを前提に設計されていたものの、結局実現せず、昭和2年10月に新宿追分の地に京王ビルが竣工し、この1階部分に新宿追分駅が移されて、ここにターミナルビルが誕生した。都内初のターミナルビルだという。「新宿追分」の駅名は昭和5年3月6日に「四谷新宿」、昭和12年5月1日に「京王新宿」に改称しているので、この沿線案内は少なくとも昭和12年5月以降の印行ということになる。




《京王新宿ビル》昭和15年、『京王電気軌道株式会社三十年史』に掲載の写真、図録『特別展 特急電車と沿線風景』(新宿歴史博物館)より。「新宿追分停車場」のあった京王ビルは、現在地下を都営新宿線が走っている真上の新宿通り沿いに位置していた(現在は「京王新宿三丁目ビル」が建っている)。



京王線がターミナルを現在の新宿西口に移したのは昭和20年7月のこと。5月の空襲で天神橋変電所が被災したため、甲州街道陸橋が使用不可になったため、急遽小田急線の西側に新駅を建設したためだった。よって、新宿追分の地に私鉄ターミナルがあるというのは、戦前の東京ならではの都市風景ということになる。先日満喫した池上線の五反田駅とおんなじように、新宿追分の地にかつてターミナルビルがあった。関西遊覧のときとおなじように、モダン都市東京における私鉄を追究してみると、これまで特に気にとめたことがなかった路線が、モクモクとおもしろくなってくる。




東京日日新聞発行《復興完成記念東京市街地図》(昭和5年3月)より、新宿追分京王停車場付近を拡大。新宿追分から甲州街道の路上を京王電車が走ってゆく。新宿追分を出発して、新歌舞伎座(昭和4年9月開場、昭和9年9月に「新宿第一劇場」と改称。跡地は大塚家具の店舗が入るビル)の前を通って次の駅、省線新宿駅前は甲州街道陸橋上にあり、ここで省線と連絡していた。京王電車終点の「新宿追分」は同年同月「四谷新宿」に改称したばかりだけど、この地図でも『春泥』誌上でも「新宿追分」のまま記載されている。




絵葉書《新宿大通り》、『主婦之友』第16巻第9号(昭和7年9月1日発行)附録、《大東京完成記念発行 大東京名所絵はがき集 七十二枚一組》より。

大東京の中心を以て目される新宿の大通りです。デパートの進出、劇場の簇出、銀座の繁華も浅草の雑沓も、今やこの新宿の殷盛には比すべくもない有様です。こゝは昔、青梅街道と甲州街道の分岐点に当るところで、追分の名が昔のまゝに残されています。現在はこゝが京王電車の新宿終着駅になつてをります。

という解説が裏面に附されている。新宿通りを追分から四谷方向に向かって写している。この写真の右側に京王ビルが隠れているはず。道路の左沿いの真ん中あたりにうっすらと見える三角屋根の建物が明治製菓新宿売店。




明治製菓新宿売店、『三十五年史 明治商事株式会社』(昭和32年5月2日発行)より。大正14年3月26日開店、昭和3年2月に4階建て地下1階として増築完成したことで、この写真の姿となった。かつて、明治製菓新宿売店が京王ビルの斜め向かいに位置していた。白木正光著『大東京うまいもの食べある記』昭和八年版(丸ノ内出版社、昭和8年4月)には、《恰度京王電車前で位置もよし比較的古くからあつて馴染も深く、新宿では指折りの喫茶部ですが、売場の模様替のせいか、階下はどうも以前のやうな落付きがありません。》というふうに紹介されている。





戦前の《京王電車案内》を参照しながら、1930年代東京の『春泥』同人たちの「府中吟行」に思いを馳せ、午前11時半、新宿駅から京王線の「準特急」に乗って、いざ府中へ。新宿出発は『春泥』同人たちに大分遅れをとってしまった。


『春泥』第4号所載、同人による「府中吟行雑記」の書き出しは、山田螵子。

その朝、私は早めに出かけて、約束の新宿追分京王電車停車場前で、みんなの来るのをたのしみに待つた。花時で、駅はひどく雑踏してゐた。(中略)……飄然として白水郎氏が見えた。相踵いで鴎二氏も見えた。やがて、我々一行は騒がしい花見の連中のなかをぬけて、八王子行きの電車にのる――

昭和5年4月の最初の日曜日は、停車場も車中も花見客で大混雑。郊外電車におけるモダン都市の行楽、の典型がここにある。上掲沿線案内によると、京王沿線の「櫻ノ名所」として、上北沢の玉川上水べり、京王閣の五色桜、聖蹟桜ヶ丘、高幡不動、高尾山が紹介されている。




上掲《京王電車沿線案内》より、桜上水から調布の手前あたりを拡大。つい松沢病院に目が行ってしまい、徳川夢声著『夢諦軒随筆』(秋豊園出版部、昭和11年12月)……というか種村季弘編『東京百話 人の巻』(ちくま文庫、1987年2月)でおなじみの葦原将軍を思い出して悦に入りながら、沿線案内のはるか上部の小金井まで続く玉川上水べりの桜が実に見事でうっとり。この沿線案内、あちらこちらで桜が満開で、見ているだけでお花見気分なのだった。

行く程に武蔵野の景色はやはり調布辺からずつと佳くなつた。それは長閑な日で、多摩の横山も霞んでゐた。そしてとある駅に停ると、車窓にひらひらと花が散りこんだりした。

と、京王電車を府中駅で下車したところで、昭和5年4月の「府中吟行雑記」の開幕、山田螵子の文章はここでおしまい。一方、第60号(昭和10年7月発行)に所載の同人たちによる「府中吟行」では、

車中は行楽の一家とおぼしい人々で満員。車窓より見る武蔵野の新緑は眼に痛いほどすがすがしい。麦、桑、蚕豆。遠くは森も、木立も、丘も、すべて緑の一ト色。

という一節が、岩下南子が担当した「東京―府中駅」にある。いずれも絶好の行楽日和。





《京王電車沿線案内》でひときわ目を引くのが、調布駅から延びる京王多摩川駅への支線。かつて、多摩川原には「京王閣」という遊覧スポットがあった。私鉄による「モダン都市の行楽」建設の典型で、それだけで胸が躍る。図録『特別展 特急電車と沿線風景』(新宿歴史博物館)によると、調布・多摩川原(現京王多摩川)が大正5年に開通すると、多摩川での水遊びや船遊び、沿いの鮎などの魚料理などを目当てに、多くの行楽客がやってくるようになった。「多摩川原京王遊園 京王閣」の建設計画が具体化されたのは大正10年で、土地の買収等の準備が整い、大正15年9月に工事が始まり、昭和2年6月1日、「京王閣」が開園、戦前の京王沿線随一の行楽スポットとなり、同年10月竣工の新宿追分のターミナルビルとともに、戦前の京王電車のシンボル的存在だった。京王と東急が合併中の昭和22年に京王閣は売却され、現在は競輪場となっている。新宿追分のターミナルビルとおなじく、京王電車の戦前ならではの沿線風景ということになる。


実は井の頭線以外の京王線にはあまりなじみがないまま今日まで来ていて、調布以西の京王線乗車は今回が初めてかも。調布から二又に分かれているということも、このたび戦前の沿線案内を見て、初めてはっきり認識したというていたらく。大正5年に開通した調布・多摩川原間が開通して、昭和12年5月1日に「多摩川原」は「京王多摩川」に改称、「四谷新宿」が「京王新宿」に改称したのと同日のことだった。同時にいくつもの駅が改称されていて、昭和12年5月、京王電車の路線全体が大刷新している。もしかしたら、この沿線案内は大刷新を記念して印行されたものなのかも





調布から京王多摩川まで、たった一駅の支線。京王閣の近くの「日活撮影所」に目が釘付け! というわけで、沿線案内より日活撮影所を拡大。




《京王多摩川駅を出発する新宿行き電車》昭和14年8月6日、撮影者:高松吉太郎、図録『特別展 特急電車と沿線風景』(新宿歴史博物館)より。この写真の後方に見える「N」の字にうっとり。のどかだなア。


昭和9年、日活は東京多摩川撮影所を建設し、京都の現代劇部の移転を決行した。翌年、根岸寛一が東京撮影所長に就任するも、昭和13年に多摩川を去り、満州映画協会に移る……というふうに、かねてよりの愛読書、岩崎昶著『根岸寛一』(根岸寛一伝刊行会、1969年4月21日)のことを思い出して、思いがけないところで興奮だった。

 根岸は多摩川に、多摩川の精神を植えつけることに成功した。彼が今日の多摩川の恩人であり、彼が多摩川時代に、かくの如き会社の財政的混乱をバックとしながらも、発表した数本の力作が、単に多摩川の為のみならず、広く日本のトオキイの世界の軟骨症に滋薬を与へ、昭和十年代に於ける発展に尠からず寄与した功績には変りはない。彼は確実に日本の産んだプロデューサーとしては異彩ある人物であった。

と、これは同書で岩崎昶が引用している、津村秀夫の文章(「日活映画論」-『キネマ旬報 2』昭和15年8月下旬号所載)の一節……などと、戦前日活映画が大好きな身としては、思いがけないところで興奮なのだった。今まであまり深く考えたことはなかったのだけど、日活多摩川撮影所はここにあったのか! という、ただそれだけのことに感激。単に沿線を通過したというだけで、あらためて戦前の日活に目を見開かされて、今後の追究をメラメラと誓う。



そんなこんなで、車窓をたのしむ間もなく、正午前、京王線の準特急はあっという間に府中に到着。調布以西の京王沿線を下車するのはたぶん今日が初めてということもあり、近場だというのにすっかり旅行気分。


『春泥』第4号の同人による「府中吟行雑記」の二番目の書き手、天野寛哉は府中までは一行と別行動だった。

 先発した私は満員すゞなりの電車から吐き出されて、府中駅に下りたが、困つたことにはさつぱり見当がつかぬ。仕方がないから同行の紫雪君と相談の上、告知板に先着したことを記して出かけることにし、山田螵子さん――とまで書くと、さつきから改札口に居られた和服と洋服のお二人が、
「研究会の方ですか」
と声をかけられた。それが柏葉さんと犂子さんで、趣味の友の有難さだ。

田島柏葉登場! 昭和5年4月、『春泥』同人たちは無事に府中の地に落ち合って、次は大國魂神社、別名六社明神の散策がはじまる。一方、昭和10年5月の『春泥』同人たちも、神社へ続く欅並木で無事に全員が落ち合った。第60号の「府中吟行」では、新宿追分から1本あとの京王電車に乗った岩下南子と伊藤鴎二が、神社に続く欅並木にて無事に一行に合流している。

 駅前の広場では、頬冠りの媼が、河鹿を売つてゐる。都塵を離れた気分である。二つの竹籠に何十匹となく這ひ廻はつてゐる河鹿と、天秤棒を持つてうづくまつている老婆の顔とに心を惹かれて、しばらく足をとゞめた。
 欅並木の方を見ると、はるかに犂子さんとおぼしき姿が、手まねきで呼んでくれてゐる。並木道には償n子、柏葉、文虹の諸氏をはじめとし、十幾人かの人びとが三々五々、緑蔭を逍遥してゐる。

第60号の「府中吟行」において、岩下南子が担当の「東京―府中駅」のくだりは、かように締めくくられる。



下河原線の廃線跡を歩いて、東芝工場を一周する。武蔵野線にのって北府中から府中本町へ。

正午前、京王線を下車して府中駅の改札を出るとすぐに欅並木にさしかかる。おそらく1930年代とまったく変わらない欅並木の新緑にスーっといい気持ちになったところで、右折して神社とは逆の方向へ歩を進めると、ほどなくして甲州街道との交差点となる。この瞬間、京王電車は新宿からずっと甲州街道沿いを走っているということをイキイキと実感するのだった。


駅からまっすぐに伸びる欅並木から神社に向かう1930年代の『春泥』同人たちとは、午後に合流することにして、それまで眺めていた戦前の《京王電車沿線案内》をかばんにしまって、代わりに『日本鉄道旅行地図帳 関東2』(新潮社刊)と今日のためにわざわざ購入した『でっか字まっぷ 東京多摩』(昭文社刊)を取り出す。関東でも関西でも、電車に乗ってのちょっとした遠出の際は『日本鉄道旅行地図帳』が必携だ。地図を眺めて電車に乗りながら、廃線跡や各路線の駅名データを参照して、その路線の来歴が少しでも垣間見えてくると、電車に乗っているだけでうっすらと「近代日本」を体感しているような気になって、いつもそれだけで感興が湧くのだった。しかし、毎回こんなものを持って出かけていると、どんどん鉄道づいてしまうことは避けられない。


このたびの府中ピクニックにあたって、『日本鉄道旅行地図帳 関東2』所載の東京西部の「廃線鉄道地図」を眺めていたら、京王線の府中駅のすぐ近くを武蔵野線とは別にかつて国分寺から競馬場に至る路線があったことを知った。中央線の国分寺駅から貨物駅の下河原駅に至る通称「国鉄下河原線」という電車が戦前から走っていたという(一方、東府中から府中競馬正門前に至る「京王競馬場線」は昭和30年4月29日の開業)。府中といえば、昭和8年に開設の東京競馬場はとびきりのモダン都市の観光スポットとして、同時代の映画や版画、都市小説にイキイキと活写されている。その競馬場ゆかりの電車というだけで、そこはかとなく心がウキウキ。是政に行くまでに時間はたっぷりあることだし、府中到着後、まずは下河原線の線路のあったあたりを歩いてみたいなと、『でっか字まっぷ 東京多摩』の「府中」のページに大きくメモをしていた次第。


と、その『でっか字まっぷ 東京多摩』片手に、欅並木の美しい大通りを横断して、国道20号、すなわち甲州街道沿いをしばらく直進する。欅並木を横断せずに直進するとほどなくして都立農業高校があって、田島柏葉は僧侶のかたわら長らくここで教鞭をとっていたのだった。甲州街道をしばらく直進して、直射日光にいいかげん疲れてきたころ、ようやく左手に遊歩道が見えてくる。




この遊歩道がまぎれもなく下河原線の廃線跡。単線の線路の名残りが地面に残っているので、以前は線路だったことが容易に伺えるのが嬉しい。駅を模した遊歩道の演出がいいじゃありませんか。



遊歩道を少し歩いて、上の写真のあたりを振り返る。先ほど歩いていた甲州街道の奥に、京王線の高架が見える。府中の次は分倍河原。遊歩道の地下には現在武蔵野線の線路がある(北府中・府中本町間)。


遊歩道沿いには「下河原線の歴史」と題された案内板があり、

 ここは、かつて国鉄下河原線の線路でした。
 明治四三年(一九一〇)、東京砂利鉄道が多摩川の砂利の採取運搬を目的に、国分寺から下河原(府中市南町三丁目)まで貨物専用鉄道を開通させました。その後、大正三年(一九一四)の多摩川大出水による被害で一時閉鎖しますが、大正五年(一九一六)に軍用鉄道として復活し、大正九年(一九二〇)に国有化され、名称も下河原線となりました。昭和八年(一九三三)に東京競馬場が開設すると引き込み線がもうけられ、昭和九年(一九三四)より競馬開催日に限り乗客を輸送するようになりました。戦時体制が深まってきた昭和一九年(一九四四)に、国分寺〜東芝前間で通勤者専用電車を運転、戦後の昭和二四年(一九四九)からは国分寺〜東京競馬場間の常時運転が開始されましたが、昭和四八年(一九七三)の武蔵野線開通にともない旅客が廃止になり、昭和五一年(一九七六)には貨物線も廃止され、六六年にわたる歴史の幕を閉じました。
 この跡地は、府中市が国鉄から用地を受けて自転車・歩行者道、花と緑の緑道として整備し、郷土の森や市民健康センターなどを結ぶ、市民のための道として生まれ変わりました。(府中市)

と説明文をフムフムと熟読。多摩川の砂利、東京競馬場、東芝の工場といった、戦前の府中の風景にモクモクと感興が湧いてくるのだった。




と、感興が湧いてきたところで、さらに歩を進めると、早くも遊歩道は終点となり、突き当たりの道路を渡った先に、武蔵野線が地下に入っていくサマが見える。武蔵野線の開通は昭和48年4月1日。この先には北府中駅、すなわち東芝工場のまん前。その次が中央線の西国分寺駅。





下河原線は、中央線の国分寺から東芝の工場と東京競馬場を結ぶ電車だったというわけで、東京競馬場と並ぶ「モダン都市」スポットとして、東芝の工場の存在に急に目が見開かされた。先日、東海道線沿いの移動及び平塚市内でなんとなく「工場」に注目していたところでもあった。こうしてはいられないと、『でっか字まっぷ 東京多摩』を参照し東芝の工場、すなわち「東芝府中電力社会システム工場」の広大な敷地まで行ってみようかなと急に思い立った。


ピクニックはいつだって行き当たりばったりだ。工場に向かってテクテクと、巨大なホームセンターや会社の研修所など無機的な建造物が軒を連ねる、「郊外」感ただよう殺風景な道を歩いてゆくと、ほどなくして東芝の工場沿いの塀が見えてくる。






正面に東芝の工場が見えたところで、工場の広大な敷地を一周するべく左折、武蔵野線の線路を背中に延々と続く工場の塀に沿って、直進。道路沿いには、花水木が咲いていて、いかにも晩春から初夏の陽気。休日の工場沿いの静かな道路をひたすら直進。高層の塔がそびえたっているのが目を引いて、この塔を目印に工場の外側を歩くのがたのしい。だんだん塔に近づいたかと思ったら、いつのまにか背後になっていて、思い出して振り向くと、塔は三角の屋根越しに遠くに見えた。あとで参照した Wikipedia にて、これは「エレベーター試験塔」であることを知って、なるほどと思った。



工場の塀に沿った道路は花水木が咲いているほかはいたって殺風景で、さすがに飽きてきたところで、工場の角となり、交差点を右折すると、左手に巨大なスーパーマーケットが見えてきた。買い物客のほとんどが自転車か自動車で、徒歩で訪れる人は少ないような印象の、いかにも郊外ならではの巨大なスーパーマーケットはなんだかアメリカみたいだ。ちょいと疲れたところだったのでこれ幸い、キョロキョロと店内に足を踏み入れ、体育館のように広大な店内をめぐる。太陽の下を歩いてきた身にとっては、空調の冷気が嬉しい。店内のパン屋に併設のコーヒースタンドでサンドイッチを食べて、手短かにお昼休みとする。周囲には家族グループ、親子、老夫婦に若夫婦と、さまざまな家族の肖像があって、それぞれの日常があるのだった。なんだか妙に和んでしまった。すっかり生き返って、ふたたび外に出る。ここは、東芝の工場ひとまわりのちょうど中間地点あたり。




しばらく直進してふたたび工場の角に来て、二回目の右折。今度は武蔵野線の線路の方向へとテクテク歩いてゆく。先ほどまで見上げていた塔の前に複数の三角屋根。





ほどなくして、眼前に鉄塔が迫ってきた。鉄塔の右遠くに先ほどからずっと目印にしていた塔が見える。こんな感じの無機的な工場風景が不思議と眼福。





いい気分になって歩いているうちに、ふと気づくのは工場の端に沿って、線路が敷設されていること。架線がはるかかなたまで伸びているということに、ワオ! と興奮し、早足で歩を進めると、いよいよ本格的な線路が視界に入ってくるのだった。





この道路沿いには、工場の反対側とおんなじように、花水木の並木道となっている。葉っぱのまじった花水木を振り返った向こうに、工場内の線路上部の架線が見える。





工場沿いを一周すべく、2度の右折を経て武蔵野線の線路に向かって歩いて、待望の3回目の右折、すなわち最後の右折が待ち遠しくなったところで、フェンス越しの線路上に古びた電車が停まっているのが見えてきて、ふたたびワオ! と興奮。




上の電車を拡大。ボロボロの電車の行先表示板には「東芝府中」の文字がある。



やがて待望の武蔵野線の線路に行き当たった。武蔵野線の地下道をくぐって、府中街道を右折。その前方にうっすらと北府中駅が見えて、やれ嬉しや。向かって右手には先ほどまで一周した東芝工場、府中街道をはさんで左手は府中刑務所の敷地となっている。巨大な工場と刑務所、駅の向こうは由緒正しい大きな神社に競馬場、府中はなかなか迫力のある町だなあと感心することしきりなのだった。などと、しばし地図を眺めていたら、地図上にしっかり、北府中駅のあたりから工場内へと伸びる線路が細く記入されているということに気づいた。




そして、右手のフェンス越しの工場には、また別の電車が停車中。先ほどの廃車風の電車とは対照的には、こちらの「東芝府中」電車は現役である模様。




テクテクともうすぐ北府中に到着という頃にくるっと振り返って、「東芝府中」電車を見納める。取り急ぎ参照した Wikipedia にて、東芝府中事業所は昭和15年、鉄道の車両工場として操業を開始したことを知ったのだった。





先ほど、下河原線の廃線跡を歩いて、地下に入ってゆく武蔵野線を見たばかりだった。今度は北府中から府中本町への一駅、武蔵野線に乗って、遊歩道の地下を通るのだ。





人生初の武蔵野線乗車は、北府中から終点の府中本町までの一駅。府中街道の歩道橋の上から駅構内に入る。正面に「東芝専用口」があり、休日でシャッターが下りて、駅は閑散としている。





階段を降りてホームに立つと、「東芝専用口」が工場までにょろっと伸びてゆくサマが目にたのしい。





そして、ホームからは工場内の2台ある「エレベーター試験塔」のうち低い方の塔がすぐそこに見える。向こう側の線路の先が工場内の線路につながっているらしい。



そんなこんなで、武蔵野線に乗りこんで、遊歩道下の地下線路を入る瞬間を堪能したあと、電車はいつのまにか再度地上に出て、終点の府中本町に到着。1930年代の『春泥』同人たちの府中吟行に合流すべく、次は大國魂神社へと向かう。



モダン都市の行楽地としての東京競馬場。大國魂神社から競馬場の脇を歩いて、多摩川へ。

廃線跡と東芝工場の周囲をテクテク歩いて、北府中から武蔵野線で一駅、終点の府中本町で下車。正午前から昼下がりにかけて、ダイナミックに府中市内を迂回したところで、ふたたび大國魂神社の近くに戻ってきた格好。駅出口から競馬場への直通通路が迫力たっぷりなあまりに、思わず吸い込まれそうになってしまう。競馬場が眼前に迫っている! というだけでなんだか物珍しくて、ついはしゃいでしまうのだった。


昭和5年4月第一週日曜日の『春泥』同人による府中吟行は、午前10時に新宿追分で集合して京王電車に揺られて、府中駅下車。改札で全員が落ち合って、欅並木をまっすぐに、大國魂神社に入り、境内の妙光院の縁側で昼酒をたのしみながら、のんびり昼食の時間を過ごしている。折しもお花見の最盛期のまっただなか。長閑な春の昼下がり。そのあと、多摩川の河原を散策して、午後2時から田島柏葉の寶性院にて句会がはじまり、午後5時、多摩駅(現在の駅名は多磨霊園)より一同帰京。


『春泥』第4号(昭和5年6月1日発行)に掲載の「府中吟行雑記」の末尾に、幹事の是政寶性院住職の田島柏葉は、こんな後日譚を書き記している。

 その晩のことでした。
 近所の青年のひとりがやつて来て、わたしの机のそばに坐るなり、「けふは先生、お寺になにかあつたんですか、競馬場のことでせう」と、突然言ひ出したのです。といふのは例の目黒の競馬場がこちらに移転するといふ話が前から持上つてゐて、地主は小作争議で収入は減るし、その上、米は年々安くて算盤がとれないから売つてしまうといふし、小作人は親代々からの耕作地だから売られてたまらぬもんか、といふやうなわけで、五六年この方ごたごたした揚くの果が、とうとうこの七月から登記が始まるといふ段取になつて了つたのです。そんなわけで……で、わたしも面喰ひましたが、「何故?」と申しますと、「だつて今日、畑で仕事をしながら見てゐると、洋服を着て眼鏡をかけた、とても偉さうな風をした人たちがお寺に集つて、大勢で何かガヤガヤ相談をやつてましたよねぇ。そこへ自動車で二三人連の人が駆けつけたでせう、そん中で、とても肥つた背の小さい、眼鏡をかけた人が競馬倶楽部の重役でせう、え、さうでせう。畑にゐたみんなも、きつと競馬のことにちげヱねえ、そんでなくてあんなにドツサリ洋服がお寺へ来る筈がねえ、いよいよ俺達の作場もあいつ等に取られるんだ……で……」と云ふんです。わたしも驚きましたねえ。そんなものになぜ寺を貸したんだと言はぬばかりに、まるでわたしをキメつけるやうな口ぶりでした。で、「おい待つてくれ。あれは俳句の会だつたんだよ」といふと、先生キヨトンとしてゐましたが、感違ひに輪をかけて、「ふむ、競馬の俳句でしたか」とかうです。
 多摩川のほとりは春日遅々です。

午後2時より是政の寶性院にて句会がはじまったところで、「府中吟行雑記」の安藤林蟲が綴るところの、《春深い午後の日ざしがいつぱいにあたつてゐる本堂で、白水郎先生、鴎二先生を中心にして、一同途上吟を練》っていたら、突然、久保田万太郎、槇金一、内田誠の3人が自動車で駆けつけ、《うれしいことは、申しあはせたやうにすべての人がここに会合したことである。丁度黙阿弥物の大詰めを見るやうに――》というくだりとなる。ふだんはいたって静かな是政のお寺に、ドヤドヤと客人が押し寄せるだけでも眼を引くというように、自動車で重役出勤のお三方はかなり目立つ。田島柏葉の「近所の青年」が久保田万太郎を「競馬倶楽部の重役」と勘違い、というのがいいなア。


1930年の府中の町では、のどかな河原沿いの田園地帯のまんまん中に、いよいよ3年後に開場の運びとなる競馬場建設のことで、古くからの住民たちは戦々恐々としていた。この「府中吟行雑記」が掲載されている『春泥』第4号(昭和5年6月発行)では、久保田万太郎の俳句として、


《新 緑 のカ ジ ノ フ オ オ リ イ レ ビ ユ ー か な》


というのがあったりと、1930年代東京を舞台にした「一種俳諧的な随筆雑誌」の『春泥』を見通してみると、誌面のあちらこちら「モダン都市東京」のトピックを見出すことができて、「1930年代東京」の追究という点においても、数十冊の『春泥』は極上の資料なのだった。このたびの昭和5年および昭和10年の「府中吟行雑記」では、京王電車と東京競馬場のくだりで、馬鹿の一つ覚えの「モダン都市の行楽」にしょうこりもなく、胸躍らせることとなった。





《東京カンツリークラブ 東京競馬場鳥瞰》(久野節建築事務所・清水組・昭8)、都市美協会編『建築の東京 大東京建築祭記念出版』(都市美協会、昭和10年8月20日発行)より。府中の東京競馬場の開業は昭和8年11月。多摩川沿いの府中の田園地帯に、東京競馬場のために舗装されたとおぼしき道路が白く輝いている。この写真の右下角あたりが大國魂神社。




濱谷浩《東京府中 東京競馬場大入満員 1936年》、図録『モダン東京狂詩曲』(東京都写真美術館、1993年)より。1930年代の競馬場の観客のほとんどが背広に帽子の紳士姿。桑原甲子雄の早慶戦開催中の神宮球場の群集を写した写真の観客たちもみんな背広に帽子だったことを思い出す。






戦前の東京競馬場がロケ地として登場する映画として、木村荘十二『都会の怪異 7時03分』(昭和10年10月9日封切・P.C.L. )より。明日の夕刊を入手しレース結果を知っている中野英治が馬券を買いに訪れて、まんまと一攫千金をつかむ。ドキュメンタリー風の東京競馬場のシークエンスがたっぷりと続いて、さながら濱谷浩の写真をそのまんま映像にしたような感じ。





おなじく、『都会の怪異 7時03分』より。競馬場の門がいかにも近代建築。石畳の舗道の上に自動車がたくさん停まっている。『都会の怪異 7時03分』は、牧逸馬の遺作『七時〇三分』の映画化。映画はちょいと不気味で陰気なつくりになっているけれども、原作の牧逸馬の文章はいつもながらに軽快そのもの。ストーリーはほとんどおなじだけど、映画と原作では印象はまったく違う。『七時〇三分』の初出は『日の出』昭和10年9月号で、未完部分を編集部の和田芳恵が補筆して掲載された。昭和10年6月29日、ふっつりとこの世から姿を消した長谷川海太郎は、最後の最後まで長谷川海太郎そのものだった。享年35。





都内へ向かう帰路、競馬場からの自動車が鈴なりになって走ってゆく。車窓はのどかな田園風景。牧逸馬の『七時〇三分』に、銀座の酒場の女給のセリフとして《明日は競馬帰りのお客が崩れこんでくるから、書き入れだわ!》という一節があり、映画でも運転手が大穴をあてた乗客に向かって、「旦那はこれから銀座で豪遊ですか?」と言う。





そんなこんなで、『春泥』誌面によむ「1930年代東京」のトピックとしての東京競馬場に夢中になるあまりに、競馬場が間近に迫っているのが嬉しくてたまらない。早く競馬場へ! と、気が急いて仕方がないのだけれど、『春泥』同人の「府中吟行」に合流すべく、武蔵野線を府中本町で下車して、脇道から大國魂神社に入る。うっそうと繁った木立の下、土の地面を踏みしめる。見上げると、大木のはるか上方に青空、木漏れ日が心地よく、気分がスーっとする。先ほどまでの廃線跡と工場散歩の無機的なひとときから、突如気分一新の昼下がり。昭和5年および昭和10年の『春泥』同人たちと同じように、府中駅から欅並木をまっすぐに神社に入った方が風格たっぷりでよかったに違いないけれども、脇道から入った昼下がりの大國魂神社もなかなかのもの、うっそうと繁った木立の下、生命が延びるようであった。


『春泥』第4号(昭和5年6月発行)所載「府中吟行雑記」、天野寛哉の文章より。

 保護天然記念物になつてゐる通りの桜並木は木の芽といふより早くも若葉の感じがした。時に『大寺をつゝみてわめく木の芽かな』という虚子先生の句がふと思ひ出された。そのうち白水郎先生の厚意で正宗の二合瓶が十本ばかり幹事の手に持ち運ばれた。だんだん心がはづんで来る。かくて葷酒は山門に入ってしまった。(中略)
 それから妙光院に到れば、暖かな縁側で伸び伸びと心ゆくまで足を休めることが出来た。庭には、牡丹の赤い葉、芍薬の芽、蘖などが長閑な春の日の光りに恵まれてゐた。生垣の外には陽炎がもえてゐた。
 そこで白水郎先生は此処までの写生を出句しようとおつしゃる。「そりや聞こえませぬ……」とも云へなかつた。

おなじく、「府中吟行雑記」より安藤林蟲による大國魂神社、別名六社明神のくだり。

 六社明神の山ざくらは殊にめざましいものである。わたしは今までにこれほど美しい桜を見たことがない。
 元来わたしは世間で云ふお花見が大嫌ひで、ついぞ誘はれても行つたことがないので、何処にどういふ桜の名木があるのか、とんと知らない。然しこゝの境内にある山ざくらは関東名木の一つとして諸人に知らしめたいと思ふ。宮司も、先年徳富蘇峰先生がお出でになつて、ここの桜を賞賛された――と大変な自慢である。
 この桜をめぐる、神寂びた社殿、玉籬、太鼓堂、竹藪甃、目に見ゆるものすべてが四條派の絵である。永久に眺めたい静かな絵の姿である。

というふうに、「かくて葷酒は山門に入ってしまった」という『春泥』同人たちに思いを馳せつつ、大國魂神社でのんびりくつろぎたいところだったけれども、やっぱり早く競馬場の近くに行ってみたい! と気が急いてならなくて、早々に境内の外に出てしまった。もったいないことをしてしまった。




イソイソと、大國魂神社の境内を出ると、ほどなくして木立の向こう側前方に競馬場の広大な敷地の片鱗が見えてくる。この写真の背後は神社の敷地で、ちょうど妙光院、『春泥』同人たちがくつろいだ神社境内の縁側があるあたり。眼前に迫ってくる競馬場の視覚がとてもおもしろい。競馬場の近くに来るのは今日が初めてで興奮だった。競馬が開催されていない日の競馬場はガランとしていて、ちょっとした廃墟感が味わい深い。



昭和10年5月の府中吟行においても、5年前とおなじように『春泥』ご一行は大國魂神社で歓待を受け、めいめいが思い思いにくつろいでいる。欅を登ってゆく蛇の姿に驚く一幕もある。


第60号(昭和10年7月発行)の「府中吟行」の立花青葵郎の文章より。

……今日の御遍路さん銘々は、先刻の六社様の神主さんからいただいた烏団扇を持つて居る。神主さん好いものを呉れたもので、羽団扇でない所、烏団扇の類よなと思ふたに相違ない。と、天狗氏の銘々は、此の世の此の道の地上のもろもろは総てを我が詩嚢の中にと、しきりに観察の余念もない。
 麦の細道もながながと、龍雨さんが俥から落されたといふ坂を見返り見返り、桑道へと差しかゝる。競馬のない競馬場はあつけらかんとして潤ひのないこと夥しい。此所には詩がないと見えてさすがの天狗上人のもろもろも、此処は対手にせず、ひたすら、水の流れ、麦穂の光りにまなざしを注いで居る。

昭和5年4月には競馬場関係者に間違われた『春泥』同人だったけれども、昭和10年5月の時点では競馬場は府中の地にしっかり定着している。




『春泥』第60号の「府中吟行」に掲載の写真。『七時〇三分』に東京競馬場を書きこんだ長谷川海太郎が急死するのはこの吟行の翌月のこと。長谷川海太郎と田島柏葉はともに明治33(1900)年生まれである。





たしかに、競馬のない競馬場はあっけらかんとして潤いのないこと夥しい。ちょっとした廃墟感をたのしんだあとで、今度は河原が待ち遠しい! と府中街道をまっすぐにひたすら直進。左手にたまに見える競馬場の監視塔が目にたのしい。などと、つい何度も競馬場の方角を見上げてしまうのだった。




府中街道を多摩川に向かって歩いて、待望の是政橋に到着。『春泥』第4号(昭和5年6月発行)の「府中吟行雑記」の中村泰堂の文章を全文抜き書き。

 私は今、多摩の流れを前に、柏葉君の隣りに腰を下ろした。
 白水郎先生のスケツチブツクには鉛筆が頻りに動いてゐる。
 のびのびした気持で、あたりを眺めながら、雑草の美は春が一番だと、私はつくづく思つたのである。
 枯れ残つた草、
 野焼に焦げた葉、
 萌えそめた草、
 溌溂と伸びて来た葉、
 花の咲いてゐる草、
自然の乱雑には美の極致がある。
 砂の起伏に投げた草影にも曲線美の味ひはある。
 目の前の鉄橋を南武電車が通る――電気機関車が古めかしい客車(昔両国線で使つてゐやうな)を二三輌、引きづるやうにして行く。
「妙なコントラストだ」と誰かが言ふ。
「これが本当の尖端的だ」とまた誰かが言ふ。お蔭で私のもとめてゐる静観の世界が掻きむしられてしまふ。
 鮎さしがピイピイと啼いて、燕のやうに飛んだ。
 あまりの暖かさに眠むくなつて寝転べば草の葉を渡る風が美の金線を響かせて耳もとを過ぎる。
 乱雑の美――
 雑草の美――
 唯すべて自然のまゝであれ
 われもこのまゝであれ、
 なんて妄想に耽つてゐる間に、白水郎先生のスケツチブツクには、鴎二先生、林蟲君、貞子君など四五人がスケツチされてゐるのであつた。

増田龍雨の高弟として、下谷時代に田島柏葉と行動をともにしていた中村泰堂によるこの文章が大好きで、一読して以来ずっと心の残っていた。よって、府中ピクニックでもっともたのしみにしていた瞬間のひとつが、河原から南武線の走る鉄橋を見る瞬間だった。


そして、念願の是政橋の欄干に立ちすくむ瞬間を心の底から堪能。泰堂先生とおんなじように、あまりの暖かさに眠くなって、雑草の美は春が一番、などとひとりごちていたら、あ、鉄橋の上には南武線。



寶性院は田島柏葉のいた時代と変わらぬたたずまいだった。西武多摩川線にのって、武蔵境へ。

午後2時半、是政橋を背に府中街道をちょっと戻った先に、西武多摩川線の終点、是政駅がある。静かな静かな終着駅の風景。




多摩川を背中に府中街道を右折して、花水木の向こうに是政駅の改札口が見える。静かな改札口の手前には砂利が積まれてある。大正6年に現在の武蔵境からの電車が開通し(多摩鉄道)、大正11年に是政まで伸びた。先ほど廃線跡を歩いた国鉄下河原線と同様に、建築材料として多摩川の砂利の運送することを目的として開通された鉄道で、当初から旅客輸送は少なかったとのこと。昭和2年に旧西武鉄道に合併されて「西武多摩川線」となり、現在に至っているという(参考文献:『特別展 特急電車と沿線風景 小田急・京王・西武のあゆみと地域の変遷』新宿歴史博物館発行・2001年10月)。




《ガソリンカーの交換 多磨墓地 昭和12年》撮影:高松吉太郎、『特別展 特急電車と沿線風景』(新宿歴史博物館)より。のどかだなアとうっとりのこの写真の下には、《多摩鉄道時代はSL牽引の貨客混合列車が運転されたが、旧西武合併後ガソリンカーが投入され貨客分離がはかられた。戦前の多摩線は小形ガソリンカー単行でまかなえる程度の輸送量だった。》という解説が添えられている。

 冷え冷えとした川風がアカシアの真ツ白い花房を揺すつて、是政の駅いつぱいに吹込んで来る。燻るやうな新緑の横山を背景にして、灰色の背に腹の白い、小柄な鮎鷹が澄んだ高音で、一羽一羽づつ啼いて通る頃になると、この多摩川の小駅は釣人で混雑する。もともとこの鉄道は砂利を運ぶのが仕事で、客はつけたりに運んでゐた。明治の開国当時を思わせるやうな、古風な小さい汽罐車が、やはり小さい客車を一つ後ろにつれて、二時間に一度くらいの割合で、中央線の境駅まで通つてゐた。客といへば子供を骨摂ぎへ連れて行く農家のおかみさんか釣人くらいで、いつも空つぽのところから土地の子供たちはギツチヨカンゴ(きりぎりす籠)と称んでゐた。それがやがて戦争中に、燐寸函ぐらいのガソリンカアになり、戦後は電化して二台連結の立派なボウギイ車に変つた。もちろん乗降客も殖え、運転回数も多くなつたが、駅は昔のまゝに小さい。待合室は釣人が十人もはいるといつぱいである。何の飾りもなく四十年そのままの素朴さである。


【田島柏葉「魚拓」(初出:「不易」昭和28年5月1日再刊号)-『続多摩川』(昭和30年8月発行)所収】

田島柏葉がここで綴るような釣り人は、現在の是政駅にはたぶんもういないのだろうけれど、砂利は今でも健在。そして、「何の飾り気もなく四十年そのままの素朴さ」の田島柏葉のいた時代を鮮やかに髣髴させる風情もそのまんま。花水木越しに見る是政駅の砂利が嬉しかった。『春泥』の「府中吟行」では、多摩駅(昭和12年5月に「多磨霊園」に改称している)から一同京王線に乗って帰京している。寶性院からは是政駅の方が近いけれども、当時の西武多摩川線は客車の本数は極端に少なかった。


是政駅を通り過ぎて、多摩川を背に中央自動車道の高架に向かって歩を進めて、数分。持参の『でっか字まっぷ 東京多摩』(昭文社刊)の「府中本町」のページに大きく目印をつけていた「宝性院」はもうすぐそこ。あまりに思い入れが強かったあまりに、寶性院が近づいてくるとさすがに胸がドキドキ。



そして、このたびの「府中ピクニック」の最終目的地の寶性院に無事に到着。






いざたどりついてみたら、『春泥』や『続多摩川』で勝手に想像していたとおりの、寶性院がまったくそのまんまの姿で眼前にあった。今もひょいと、田島柏葉その人が現れそうな風情。陶然となるあまりに、しばし門前をふらふら、それにしても、なんと見事なことだろう。



『春泥』第4号(昭和5年6月発行)所載「府中吟行雑記」の安藤林蟲の文章。

 午後二時頃柏葉さんのお寺寶性院にたどり着く。こゝで、南崖、木瓜、婉外、緑瓶の諸氏と落ちあひ、春深い午後の日ざしがいつぱいにあたつてゐる本堂で、白水郎、鴎二先生を中心にして、一行途中吟を練る。処へ突然、久保田先生、水中亭さん、槇さんの御三方が遅れ馳せに自動車でかけつけて来られた。
 うれしいことに、申しあはせたやうにすべての人がこゝに会合したことである。丁度黙阿弥物の大詰を見るやうに――
 さうして柏葉犂子の両君は、一行のために数々のお馳走を調へられた。その心づくしのお馳走のうちで、かきもちが大変結構で実によい風味があつた。久保田先生も大変このかきもちをほめられた。あの有名な八百屋のかきもちでも遠く及ばない。細工のない純なうまさがあつた。
 選句の終りごろ、寺の近所を散策された水中亭さんが気流しで鳥打帽子といふ姿で目笊を手にして帰つて来られた。その風采を即座に、「若き日の乃木将軍」とは久保田先生のお見立である。実に面目が躍如としてうれしかつた。

昭和5年の府中吟行、このくだりが大好きだ。




『春泥』第60号(昭和10年7月発行)所載「府中吟行」のページに掲載の写真。むりやり引き伸ばしたので不鮮明だけれど、写っている人物はたぶん田島柏葉、その背後に『春泥』同人が俳句を詠んで、柏葉の心づくしの応対を受けた本堂。寶性院の現在の本堂は当時とほろんど変わっていないようだ。


その『春泥』第60号所載「府中吟行」のうち、池田犂子の「寶性院」と題する一文。

 寶性院では、一行のために広々と戸をはなたれてある。
 麦の穂風は隅もなく流れ込んで来る。幾分汗ばんだ額を吹きはらふ風の心地よさ……。思ひ思ひに着座して、あたりの風景をほしいまゝにする。
 院主の心づくしの品々を戴きながら、多摩の瀬音を消して時々走るトロの音や、松ケ杖をつたふてくる松蝉の声、また墓原で時々ゴトゴト、々々となく蛙も面白く、新緑の横山とともにその趣きの深さ見あきぬさまである。
     こ の 寺 で 死 に た く 思 ふ 花 菜 か な
 と、龍雨先生のありし日を偲び、
     障 子 し め き れ る留 守 の 花 曇 り
 つい先日久保田先生のこの寺にいらしつたことどもが走馬燈の如く脳裏をめぐる。
 わけてもきぬかつぎの馳走は一行をすつかり朗かにした。
「きぬかつぎむきつゝ……ですか」
「……春泥研究会には、つきものですね……」
「越ケ谷の雲龍梅にもありましたつけ……」
 すつかりくつろいだ気分で、のんびり披講に聞きとれる。
     忘 れ め や 寶 性 院 の は な あ や め
 と、白水郎先生が短冊に一句をおのこしになつて散会する。
 庭の朴の花は、白々と夕空高く咲きみちてゐる。

2010年4月末の寶性院も、多摩川を歩いてきた身体をここちよく通り過ぎる風がとても気持ちよかった。花鳥風月にいたって疎いので名前はよくわからぬながらも、境内にはさまざまな植物が咲き乱れている。気分は、シューマンの《詩人の恋》の第1曲「素晴らしく美しい月、五月に」なのだった。




と、境内の庭木や花々を愛でながら境内を散歩。すーっと生命が伸びるような心地よさ。柏葉が境内に建立したという龍雨の分骨塔がとても気になっていたのだけれど、一見したところではよくわからず、今回は断念。でも、柏葉がいた時代とほとんどおなじ風情の本堂の屋根だけでも十分過ぎるくらい。




2月に入手した83冊の『春泥』が柏葉旧蔵であったことと、ほどなくして籾山梓月の編んだ遺稿句集『続多摩川』を入手したせめてもの記念に訪れた是政の寶性院は、ここ三カ月胸をとどろかしていた「龍雨と梓月の高弟」その人の印象そのまんまの風情だった。あまりにそのまんまの風情だった。

 大正十五年の初夏、わたしは府中の現在の地に居を定めることになつた。併し、馴染薄き土地は、とかくに寥しく、足しげくわたしは出京いたした。而して、その東京へ出向くことの愉しみの第一は、千束町に先生を訪れて、あの温容に接しつゝ作りためた俳句の批評を仰ぐことであつた。(中略)
 先生はわたしにとつて、どこまでも俳句の師である。而して、年少なくして両親に別れたわたしではあるが、先生を亡き父とも思ふ感情は有つてゐない。併し、わたしは、誨へられる、といふ厳しい意味の師としてゞはなく、又慈父といふやうな感情でゞもなく、たゞ、ひたすらなる尊敬と懐かしみとを先生の上にいだくのである。それは一つの人格でもある。而して、その人格と云へるものは、謂ふところの高邁とか崇高とか云ふべきものではなくして、寧ろ、平凡と云ひ得るものであるかも知れない。(中略)そこには、虚飾のない生活、衒気のない生活があつた。而して、その総べての源流を成すものは、実にものをいとほしむと云ふ温い、純一な心であつた。そこにオレンヂのやうな香気と潤ひとを感受し、典型的な明治の東京人のもつ人柄の良さを覚えるのである。そこに、限りなき尊敬と懐しみとをおぼえるのである。
 虚飾なく、衒気なく、而して、潤ひあり、趣きある生活を生活することが、実に先生の宗教だつたのである。


【田島柏葉「をもかげ」-『春泥』第56号(昭和10年3月5日発行)、故増田龍雨氏追悼篇より】


もと来た道を戻って、西武多摩川線の終着駅、是政駅へ向かう。その途中、通りがかりの和菓子店でお土産をみつくろった。初めて来る町では、いつも和菓子屋で買い物をするのがたのしみ、是政にも和菓子屋があって嬉しかった。青木屋という府中の老舗の菓子司の支店であった。いくつかの和菓子とともに、「レーシングサブレ」という馬蹄形のビスケットを買った。初めての町の和菓子やさんではなにかしらご当地商品があって、いつもたのしいのだった。




是政駅に到着し、改札を通ってホームに出ると、向こうには砂利運搬の貨物列車が停車中。ベンチに座って、買ったばかりの柏餅を食べて、おやつの時間とする。





やがて、西武多摩川線がホームに到着。存在は知っていたけれども乗車するのは今日が初めて。こぢんまりとした西武線の古い車両が使われている。





乗ったことがないからせっかくの機会なので乗ってみるとするかなと深い考えもなく乗りこんだ西武多摩川線は、いざ乗ってみたら、単線の線路の上を何層もの鉄筋がはるかかなたまで続いている。単線の電車に乗っているだけでも興奮だというのに、鉄筋がさながらトンネルのようで、実にすばらしいのだった。思いがけなくたいそう満喫してしまった。