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五反田から池上線。東海道線で平塚と大磯。長谷川りん二郎展のこと。

平塚市美術館で開催される《明・静謐・孤高―長谷川りん二郎展》が待ち遠しいあまりに、思い余って初日に出かけることに前々から決めていた。その日はちょうど五反田の古書会館では「本の散歩展」が開催中、あらためて五反田の都市風景をじっくり観察したいと思っていたところだったのでよい機会、午前中は五反田へ出かけたいな、せっかくならそのあとひさしぶりに池上線に乗るとするかな、となると、終点の蒲田で JR に乗り換えて、川崎から東海道本線で平塚へ向かうとしよう、そして、夕刻までのんびり長谷川りん二郎展……というようなスケジュールを練りあげて、悦に入っていたところで、いよいよ待ちに待った当日がやってきた。近場だというのに、すっかり気分は観光旅行、出かける前からワクワクだった。



五反田から大崎広小路へ歩いて、「1930年代東京」の都市風景をおもう。池上線にのって蒲田へ。

南部古書会館の古書展のおかげで、五反田駅周辺は、ここ十年来おなじみの景色。当初は古書会館と駅の往復でしかなかったけれども、『新東京百景 木版画集』(平凡社、昭和53年4月刊)の前川千帆の版画をきっかけに、山手線のホームと池上線の高架の交差している、五反田独特の都市風景にモクモクと愛着を抱くようになった。




「新東京百景」より、前川千帆《五反田駅》1932年



いや正確には、「別冊太陽」の海野弘監修『モダン東京百景』(1986年6月)所収の、海野弘さんの「一九二〇年代のモダン都市 『新東京百景』を歩く」と題した文章の、

前川の「五反田駅」は、メカニックなもの、無機的なものに興味を持っていた二〇年代らしく、レールや鉄骨の青黒い、むきだしの構造がうまくとらえられている。これもまた、モダン都市の美学の一つの極みなのである。それに対比して、ホームに立っている人々の、単純化されてはいるが、ほのぼのとした描写がなにかほっとさせる。女の子を見つめる両親のまなざし、三人の親子の語らい、といったものは、モダン都市における家族像を描き出している。巨大な都市の中で、小さな家族がひっそりと寄り添って暮らしている。圧倒的な鉄の街と、その隅で、ささやかな幸せを守ろうとしている親子を、私は見た。

という一節を読んだあとで、前川千帆をあらためて目にして初めて五反田における「1930年代東京」に目が見開かされた。以来、五反田駅に降り立つたびに感興が湧いて、五反田に行くのがますますたのしくなった。



と、そんな、たかだかここ2、3年の五反田における「モダン都市」の残骸見物において、ダントツで嬉しかったのが、明治製菓タイアップの戦前東宝映画、山本薩夫『街』のロケ地として、大々的に当時の五反田が映し出されていたこと(id:foujita:20081115)。




山本薩夫『街』(昭和14年8月20日封切・東宝映画東京)より。大崎広小路から池上線の高架をのぞむ。五反田駅から今まさに発車する池上電車。ホーム左に山手線ホームへ下る階段がうっすらと見える。そして、池上電車の駅の向こう側には、ターミナルビル白木屋の尖塔。




《五反田百貨店》(位置:東京市品川区五反田一丁目、設計:目黒蒲田電鉄株式会社工務課)、株式会社清水組発行『工事年鑑 皇紀二五九八』(昭和13年3月25日)より。




午前11時。山手線を下車して、五反田駅のホームに降り立つ。本日の南部古書会館は半年に一度のおたのしみ、「本の散歩展」なり。先日、上掲の清水組発行『工事年鑑』で池上電車に隣接している白木屋の五反田百貨店の写真を初めて見て、ちょっと感激だった。いつもは古書会館へ直行するのだけれど、清水組の建築写真に鼓舞されてあらためて五反田駅をじっくり観察したいなと思っていたので、古書展の前、五反田駅をしばらくうろついて、悦に入ることにする。山手線を下車して、まずは、池上線ホームへの階段へと向かう。




山手線ホームから池上線の高架をのぞんだあと、階段をのぼって、池上線の改札へ。現在の JR 五反田駅の開設が明治44年10月であった一方、池上電鉄の五反田駅の開業は昭和3年6月。大正11年10月の蒲田から池上に至る路線が最初で、それが少しずつ伸びて、昭和3年五反田が終点となり、現在の池上線が出来上がった。こんな高いところにホームが作られたのは、当初は白金の方向へ延伸する計画があったからとのこと(以下、参考文献:宮田道一『東急の駅 今昔・昭和の面影』キャンブックス(JTB パプリッシング・2008年9月))。




その池上線の高架を強固な鉄筋が維持するさまを、山手線ホームから池上線の改札へ向かう階段の窓からのぞむ。写真になると、どうってことがない感じだけど、見ているときは、その無機的な都市風景がそこはかとなく琴線に触れるのだった。




政府の交通政策により市内中心部は公営鉄道のみと定められたことで、白金への乗り入れを断念した池上電鉄は、昭和7年に5階建て地下1階のターミナルビルを造り、白木屋五反田分店が開業。それが上掲の清水組の『工事年鑑』所載の写真。昔の白木屋そのまんまにいまは東急ストアがそびえ建っている。東急ストア内のエスカレーターをくだって、隣接の歩道橋方面へと出て、さきほど上ったばかりの階段をのぞむ。この歩道橋から見える、着工時から変わらず残る古びてひなびたこの階段が、前々からなんだか好きだった。




ここで、五反田駅附近の観察は一時停止して、南部古書会館へ出かける。1冊200円の本や雑誌を計5冊買って(心ならずも買い物振るわず)、ちょっとだけ荷物が重たくなったところで1時間後、ふたたび五反田駅に戻る。次は、線路の向こう側、大崎広小路へとゆっくり散歩する。




昭和7年10月、東京市が郊外の隣接町村を合併して15区から35区に広がったのを記念して発行された版画集、『大東京百景 版画集』(日本風景版画会、昭和7年10月1日)より、木村荘八による版画と小文、《荏原区展望》。

 品川区の歴史に富むのに反して荏原区の歴史に浅い姿は……図は池上電車の五反田駅構内から行手を展望したものであるが、昔から変らないのは只空のたゝずまひ有るだけの、正に蜃気楼だ。直下の流れは目黒川である。一昔前には羊腸とした野川で、夏はいつでも出水の心配をした。
 筆者は十六年前に此の五反田駅の直ぐ近傍に住んだことがある。と云へば、その昔と今の比較なぞは細かく述べないでも、如何に元は此の辺にも独歩の所謂「四顧し、傾聴し、睇視し、黙想」するに適する場所は少なくなかつたらう。その度々夜道に困つた畑地や丘がどう云ふ工合に今の「銀座」に成つたのか、この転変の程は、誰でも瞠目するばかりの、大東京見物の一たるに恥しからぬ大飛躍だ。
 願はくはそこから新規に此の辺の将来の歴史を手堅く発表させたいものである。今年十歳の此の土地生え抜きの大東京っ子に、昔の竹藪の話や、筧の話、赤土の山の話、緑のスロープの話、どうかすると塵芥と石炭殻の話など、そんなつまらない神代の話は、当分聞かせなくつてもいゝ。
 図の中景に成る右手寄りの小高いビルディングはホシ製薬である。遠景の空に小さな琴柱の様なものが二つ三つ擢るのはこれが電車の軌道を示すもので、従つて荏原区の範囲がこの下に在る。

東京35区成立。白木屋五反田分店が開業した昭和7年という年は、五反田にとってエポックメイキングな年だったということになる。




同様に東京35区を記念して発行の、《東京日日新聞附録 大東京最新明細地図 隣接町村合併記念》(昭和7年10月1日発行)より、五反田附近を拡大。上掲の木村荘八の版画および文章を参照しながら眺めると、さらにたのしい。星製薬の工場の下部の赤い網掛け線が品川区と荏原区の境界線、その第二京浜沿いに、かつて池上電鉄の「きりがや」があった(桐ヶ谷駅は昭和28年に廃止)。




と、そんな昭和7年10月の東京35区成立後の、すなわち上掲の昭和14年の東宝映画『街』のスクリーンに映る五反田界隈の情景を頭のなかで思い描きながら、五反田から歩いて目黒川を渡って、大崎広小路までを歩く。




目黒川沿いに立ち、五反田駅を背後に池上線の高架。向こう側に、五反田の隣駅(駅間はたったの300メートル)の大崎広小路駅。




そして、目黒川にかかる橋から高架を眺めて、大崎広小路を背後に五反田駅の方向をのぞむ。ホームに停車中の池上線の先頭車両がすぐ上に見える。





小津安二郎『東京暮色』(昭和32年4月30日封切・松竹大船)より。上の写真と同じ、池上線の五反田駅ホームをとらえたショット。五反田駅のホームの端が二本の線路に挟まれている。すばらしきショット! 大の鉄道ファン・厚田雄春が撮影者だったおかげで、小津映画ではあちらこちらに冴えわたる鉄道シーン(車体・駅・線路・鉄橋等)がちりばめられている。




おなじく『東京暮色』より、五反田から大崎広小路に向かって高架を走る池上線。




大崎広小路から池上線に乗る。山手通りに面した改札口が高架上の二本の線路に挟まれた格好になっている独特の駅構造が目にたのしい。こぢんまりした階段をあがって、ホームで蒲田行きの電車を待つ。




だいぶ補修がほどこされているけれども、昭和2年10月の開業当時のたたずまいを実感できるような、木造屋根が嬉しい。小津安二郎の『東京暮色』当時の東京風景をも髣髴とさせて、ふつふつと嬉しい。ここに限らず、池上線はこぢんまりしたチャーミングな駅が目白押しで、散歩に出かけたいなとしょっちゅう思っているけれども、思っているだけで日々が過ぎている。




昔も今も3両編成のチャーミングな池上線は、子供時分からのおなじみ。今は乗る機会があまりめぐってこないけれども、それでも池上線には今もとっても愛着がある。というわけで、ひさしぶりの池上線乗車が嬉しい。本当に嬉しい。などと、胸を躍らせ、窓の外はのどかな春の晴天。




ひさしぶりの池上線乗車を記念して、買ってしまった紙モノ、戦前の沿線案内《東横・目蒲電車沿線案内》。多摩川を描いた牧歌的な表紙絵に頬が緩む(鉄橋を東横線が走っている)。関西遊覧を機に戦前の沿線案内を買うのが趣味になり、それがついに関東にも波及しているのだった。




と、大崎広小路から蒲田行きの三両編成の電車に乗りこんで、のんびり車窓を眺める。大崎広小路の次は戸越銀座。その間にかつてあった桐ヶ谷の駅の跡をいつか見てみたいなと思っているうちに、いつのまにか高架から地上の線路になっていた。高架でなくなる瞬間を見逃してしまった。




小泉癸巳男《版画東京百景 第27 戸越銀座》(昭和15年7月作)。『版画東京百景』(講談社、昭和58年3月25日)より。線路の上の鉄筋と、遠方に見える工場の煙突がいかにも小泉癸巳男に似つかわしい。小泉癸巳男の描く無機的な東京百景が琴線に触れるのだった。駅前に立つ少女の上に「日本創作版画聯盟」の看板。版画集の制作目録の本人による「詞」には《銀座駅の鉄塔 郊外地のなごりめづらしく》と記入されている。




おなじく、小泉癸巳男《版画東京百景 第94 洗足池雨情》(昭和12年7月作)。小泉癸巳男は池上線沿線の版画を二枚も描いてくれている。制作目録の本人による「詞」には《日蓮上人が足をお洗ひになつたと云ふ池ボート屋二階から》と記入されている。




大崎広小路の『東京暮色』と並んで、小津安二郎における池上線といえばなんといっても『秋刀魚の味』に登場の石川台がおなじみだけれど、戦前映画では、『生れてはみたけれど』(昭和7年6月封切)に池上電車の車両が頻繁に登場しているし、フィルムの残っていない『カボチャ』(昭和3年8月封切)では池上電車の宣伝のためその車両を登場させているという(厚田雄春・蓮實重彦『小津安二郎物語』リュミエール叢書1(筑摩書房・1989年6月))。そもそも池上線の終点は蒲田撮影所! 蒲田映画をこよなく愛する身にとっては、蒲田という地にも愛着を覚えずにはいられないわけで、小津安二郎の存在で池上線および蒲田近郊はますますその輝きを増すのだった。






小津安二郎『秋刀魚の味』(昭和37年11月18日封切・松竹大船)より。線路を走る池上線のショットのあと、笠智衆の長男・佐田啓二とその妻・岡田茉莉子の住む団地のシークエンス。夫妻を訪れた、佐田啓二の妹・岩下志麻と佐田啓二の同僚・吉田輝雄が最寄りの石川台駅ホームにて池上線を待つ。線路の上の鉄筋が、上掲の小泉癸巳男の戸越銀座の版画で描かれている鉄筋そのまんま。




こぢんまりしたシャーミングな駅舎が嬉しい池上線沿線。今日は大崎広小路から蒲田へ直行しただけだけど、また折に触れて、池上線途中下車をたのしみたいものだなと、あらためて思うのだった。




上掲の《東横・目蒲電車沿線案内》を開くと、さながら絵巻のように「東横・目蒲電車」の沿線を鳥瞰できる(手持ちのスキャナからはみ出してしまい、この画像では両端が切れてしまっている)。図案家の職人芸が光る、シックに端正に描かれた沿線風景がすばらしい。


戸板康二が戦前から終世居を構えていた洗足をはじめとして、田園調布、奥沢、尾山台、久が原等の会社経営の分譲地が緑色で描かれているのが目を引く。戸板康二読みの一環で、渋沢栄一らによって大正7年に設立された「田園都市株式会社」の都市開発のことをちょっと調べたい、と思いつつそれっきりになっていたことを、この沿線案内を開いて思い出した。古い紙モノを入手したことでモクモクと感興が湧いて、今後の調べものがたのしみになるという展開が嬉しい。それから、渋谷の東横百貨店、多摩川園、東横会館ダンスホール、ゴルフ場(駒沢、等々力)といったモダン都市の遊覧スポットにも注目。1930年代東京の遊覧生活を、同時代の映画や文学を通して、探索していきたいなとさらにモクモクと思う。




たとえば「東横映画劇場ニュース」。裏表紙はもちろん東横百貨店の広告。




上掲の昭和13年12月14日発行号に掲載の映画は、明治製菓タイアップ映画の『チョコレートと兵隊』と滝沢英輔監督『武道千一夜』、大河内伝次郎が山内伊賀亮で黒川弥太郎が天一坊。タイムマシンにのって見に行きたい!




いつも重宝している、宮田道一『東急の駅 今昔・昭和の面影』キャンブックス(JTB パプリッシング・2008年9月)の最初の章で、

東急電鉄の発祥は、ガーデンシティー(田園都市)を目指した、明治財界の大御所である渋沢栄一の発想が具体化がなされた田園都市会社。田園都市会社の開発地区の交通機関として産声をあげた目蒲電鉄の建設開業に力を発揮した後藤慶太専務取締役のたまものであった。さらに東横電鉄も3年後に開業を果たし、目黒への直通運転によって、東京―横浜間のインターアーバン(都市間鉄道)が実現した。この二つの電鉄会社は姉妹会社として同一歩調を取りつつ、沿線への学校誘致により住宅地の販売、乗降客の増加も相乗効果として発展してきた。

というふうに端的に「目蒲・東横時代」の幕開けが解説されている。田園都市会社は大正7(1918)年9月設立。大正11(1922)年9月に鉄道部門を分離して、大正12(1923)年3月、目黒蒲田電鉄が開業。一方で、大正11年10月に開業していた池上電鉄は昭和9年10月に目黒蒲田鉄道に合併されている。現在の東横線の開業は大正15年2月。小田急(昭和2年4月開業)とほぼ同時期の開業で、典型的なモダン東京の郊外電車なのだった。


戦前の沿線案内によるグラフィカルなたのしみを満喫したあとで、その路線の来歴、「モダン都市」の行楽スポットと同時代の映画や文学、建築写真を嬉々と蒐集して、モダン都市の残骸探しをしつつ沿線を遊覧、というのは、関西遊覧で知ったたのしみ。それを関東の各路線でも少しずつ進めてゆきたいな……というようなことを思って、はしゃいでいるうちに、池上線はあっという間に終点の蒲田駅に到着。蒲田駅の東急線のチャーミングなターミナル駅のさまがいつも大好き。ホクホクと改札を出て、JR の蒲田駅改札へ移動。




小津安二郎『早春』(昭和31年1月29日封切・松竹大船)より、通勤客で混雑する蒲田駅ホーム。丸ビルへ通うサラリーマン池部良とその同僚たちもここに交じって、「今度二番線に参ります電車は八時十八分蒲田始発大宮行きでございます」の京浜東北線に乗って、丸ビルに出勤する。



とかなんとか、池上線では『東京暮色』と『秋刀魚の味』を思い出したところで、蒲田駅ホームではもちろん『早春』! とはしゃいだところで、京浜東北線がやってきた。「蒲田行進曲」のメロディとともに、電車は川崎に向って出発。





その『早春』の最初のショットは、《早朝 六郷の土手 白々と消え残っている広告塔のネオン》。続いて、六郷沿いの線路を上り電車が通過するショット。



川崎で東海道線に乗り換えて、平塚へ。日没前の大磯を歩いて、内田誠と高田保をおもう。

平日はもっぱら地下鉄道での移動なので、地上を走る電車に乗っているというだけで、一気に休日気分を満喫。車窓が見えるというだけで、嬉しい。とりわけ、電車が川を渡る瞬間はいつもとびきりに嬉しい。というわけで、蒲田から乗った京浜東北線が、川崎に向かって、多摩川を渡ってゆくひとときを、今日もこころゆくまで堪能。気持ちがスーっとする。なんて、すばらしいのだろう!




上掲の戦前の《東横・目蒲電車沿線案内》より、蒲田・川崎間を拡大。



神奈川近代文学館を定期的に訪問しているので、都内から石川町まで約50分ほど、折に触れて京浜東北線に乗っているのだったが、東京駅近くの明治製菓本社、田町駅隣接の森永製菓本社といった、近代日本を彩った企業の本社の所在地を通過したあとで、蒲田から多摩川を渡ると、そこから先はいわゆる京浜工業地帯、かつて川崎には明治製菓の工場があった、鶴見には森永製菓の工場が今もある……というふうに、東海道線に沿って西へ移動するとおのずと、本社ビルの密集地から工場への密集地へと移動しているという、ただそれだけのことが、毎回なんだかとってもたのしい。東海道線沿いのそんな「移動」が、単なる「移動」がいつもなんだかとってもたのしい。




小津安二郎『秋刀魚の味』(昭和37年11月18日封切・松竹大船)より。先ほどの池上線の石川台に引き続いて、今日は『秋刀魚の味』を思い出してばかり。『秋刀魚の味』の一番最初のショットは川崎の工場地帯。このあと、笠智衆が監査役をつとめる工場の事務所のシーンとなる。いつもながらに、赤色が素敵。




上掲のすぐあとに、川崎球場の薄暮の空に輝くナイターの電光のショット。「サッポロビール」の赤のネオンサインが点灯。




そして場面は、西銀座の小料理屋「若松」の店内へと切り替わる。ナイター中継(はめこみ画像)を見ながら、客たちがカウンターで呑んでいる。いつもながらに小道具配置が眼福。「若松」の小座敷では笠、中村伸郎、北龍二が同窓生同士で気ままに呑んでいる。川崎ではネオンサインだった「サッポロビール」が、銀座では瓶ビールとして登場。念が入ったタイアップ映像に頬が緩む。




以前に、高見順の『外資会社』(初出:「新潮」昭和12年7月)をとてもおもしろく読んだことがあった(id:foujita:20080323)。自身のコロムビアレコード宣伝部勤務時代(昭和5年秋から昭和11年6月)を反映させたホワイトカラー版プロレタリア小説ともいうべき一篇で、ヒロインは、大森から「東京市中」の逆方向へ向かう「省電」にのって、川崎の工場に隣接の本社に通勤している、車内は空いていて読書に最適……と、そんな実感的な都市風俗描写がおもしろかった。以来、多摩川を渡って、電車が神奈川県に入るところで思い出すのは、かつてこのあたりにあったという、わたしは見たことのないコロムビアレコードのネオンサインなのだった。




鈴木徳彌編『輝く日本 輝くネオン』(整電社製作所、昭和12年9月7日)に紹介の一枚、コレクション・モダン都市文化」第21巻、『モダン都市の電飾』(ゆまに書房・2006年12月)より。




《東京日日新聞附録 大東京最新明細地図 隣接町村合併記念》(昭和7年10月1日発行)より、川崎附近を拡大。まさに高見順が「外資会社」の宣伝部員をしていた時期の地図。この画像では不鮮明だけれど、東海道線の線路沿いに多摩川に隣接する「明治製糖工場」が記載されている。そして、川崎から多摩川沿いを海に向かって延びる京急線の、川崎大師の手前に、そのものズバリ「コロムビアまへ」という駅と「あじのもとまへ」という駅があるということにびっくりだった。『日本鉄道旅行地図帳 4号 関東2』(新潮社)を参照すると、コロムビア前の駅名は昭和7年3月から昭和18年6月まで存在し、それが昭和31年に移動して現在の港町駅となっている。味の素前は昭和4年12月に開業し、昭和19年10月に鈴木町に改称し、現在に至っている。ワオ! と、一気に京急大師線に乗ってみたくなった。






牧逸馬の遺作(初出誌『日の出』編集部の和田芳恵が補筆)の映画化、木村荘十二『都会の怪異 7時03分』(昭和10年10月9日封切・P.C.L. )より、主人公中野英治が横浜に向かって、タクシーで六郷橋を疾走するシーンでチラリとコロムビアのネオンが見えて、ワオ! だった(この映画は全篇、すばらしきロケが満載で絶好のモダン東京の映像資料)。逃走中で焦燥の中野英治、窓の外を見やると、コロムビアのネオンサインがうっすらと見える、次のショットでは窓の外に六郷橋の鉄骨が映る。中野英治の洋装といい、タクシーの車体といい、コロムビアのネオンといい、橋の近代建築といい、ここのシークエンスだけでも、いかにもモダン都市!



京浜東北線を川崎で下車して、東海道本線に乗り換える。かつて明治製菓の工場があった川崎の次の駅は、今も森永製菓の工場のある鶴見。ボックスシートに座って、ごきげん。森永製菓の工場のエンゼルマークを眺めたあとは、並走する京急の線路を眺める。そんなことをしているうちに、次第にウトウト、気がついたら電車は茅ヶ崎に停車していた。「宮田自転車」の工場が見える。宮田自転車といえば大場白水郎! 東海道線の車窓は工場見物が実にたのしいなア! と目を覚ましたとたん、興奮する。次は平塚。



午後2時半。東海道本線を下車して、平塚駅に降り立って、端っこの改札からイソイソと外に出て、平塚市美術館に向かって、ズンズンと直進。平塚はまったくの未知の町だったけれども、そこはかとなくいい雰囲気で、感じのよい町だなあと思った。せっかくなので、ちょっとゆっくりしていきたいところだったけど、しかし、もうすぐ念願の長谷川りん二郎展を見られると思うと、気が急いてしかたがなくて、町歩きをたのしむ気持ちの余裕はない。ズンズンと直進し、あともう少しで美術館に到着だとほっと息をついたそのとき、いかにも古びた工場が視界に入り、その建物の形状がいかにも近代建築なので、思わず立ちどまる。




平塚市美術館にたどりつく直前に目の当たりにした、「富士チタン工業平塚工場」の建物。この三角屋根が典型的な近代建築、思わぬところでモダン都市時代の残骸を目の当たりにして、ちょっと興奮。東海道線の車窓で工業地帯をたのしんでいたばかりで工場気分が盛り上がっていたタイミングで目にしたこともあって、さらに感興が湧いたのかも。



しかし、頭のなかは長谷川りん二郎のことでいっぱいだったので、美術館のあとでゆっくり見物することにしようと、いったん去って、数十分後、すばらしき展覧会を全身で堪能したあとで、すっかり上機嫌。今日はもう思い残すことはない。まずは心おきなく、「富士チタン工業平塚工場」の観察を試みることにする。





構内に足を踏み入れるのはさすがにためらわれるので、塀の外から観察。


と、なんだかよくわからないながらも「富士チタン工業平塚工場」の近代建物に大いに感興をそそられたところで、駅に向かって歩を進めてみると、今度は、また別の洋館が視界に入り、「おっ」となった。今度は古風な明治期の建築。




平塚市観光協会(http://www.hiratsuka-kankou.com/)によると、戦災によって焦土と化した市の中心部に敗戦直後の昭和21年に造営されたのが、ここ八幡山公園。その一角に移築保存されている、旧横浜ゴム平塚製作所記念館(http://hiratsuka-yokan1906.jp/)。


現在の横浜ゴムの敷地にかつて海軍火薬廠があり、明治40年に設立の日本火薬製造会社を海軍省が大正8年に買収、以来、敗戦まで世界有数の火薬製造工場だったとのこと。かつて横浜ゴムの地にあったこの洋館は将校の倶楽部として使用されていたという。駅から美術館に向かうときは、長谷川りん二郎のことで頭がいっぱいで気づかなかったけれども、進行方向の左手の塀の向こうに位置する広大な敷地に「横浜ゴム」の工場があり、ここにかつて海軍火薬廠があったという次第で、道路を挟んで右手に位置していた、さきほど見とれていた「富士チタン工業」の工場の近代建築は、海軍火薬廠のあった時代の名残りということになるのだった。


海軍というと横須賀にばかり目が入っていたけれども、海軍火薬廠を有したことで、平塚も海軍の町だった。それゆえ戦災の被害が甚大で、平塚は戦争の傷が深い町なのだった。ここに八幡山公園が造営されているという来歴に感じ入るものがある。美術館までの往復で、なんとなく近代建築に心惹かれたのを機に、ちょっとだけど、近代日本における平塚、ということに思いを馳せることができた。




などと、平塚の町にしみじみ感じ入りながら、駅正面に戻る。行きは駅のはじっこの改札から外に出たのでわからなかったけれども、駅前広場はこんなにも賑やかなのだった。駅ビルのてっぺんのドームを見て、先ほど見物したばかりの八幡山公園の洋館の屋根のことを思い出した。



長谷川りん二郎展のことで頭がいっぱいで、来るときは特に気にとめていなかったのだけれど、東海道本線に乗っていざ平塚にたどりついてみたら、隣駅は大磯ではありませんか! と、とたんに胸がキュンとなった。内田誠と高田保の終の棲家のあった町ということで、大磯についてはその地誌をふくめて深く追究したいとかねがね思っていて、その手始めにまずは実際に出かけてみたいなとずっと思っていた。かねてから念願の大磯! せっかくならもうちょっと心の準備をとたい気もしたけれど、せっかく隣りの駅まで来ているのだから、展覧会のあと、行けたら行ってみたいなと思った。来るべく大磯散歩に備えてちょいと下見するとしようと、今日のところはとりあえず行ってみるだけ行ってみようと思った。とりあえず、「名駅舎」の誉れが高い大磯の駅舎だけでも見てみたい。


そんなこんなで、美術館から平塚駅に戻ってみたら、日没まではまだ間がありそうだ、わーいわーいとよろこびいさんで、大磯駅まで行ってみることにする。と、大磯に行けると決まったら、もう嬉しくってたまらない。わーいわーいと改札を通り、ホームに行ってみると、次の東海道本線の下り電車は15分後だった。ベンチに座って、駅前でうっかり買ってしまった「都まんじゅう」を食べて、おやつの時間とする。




平塚から一駅。東海道本線を大磯で下車して、イソイソと改札の外に出る。シックでモダーンな天井にさっそく陶然。「名駅舎」の誉れが高いので十分予想はしていたけれども、それでも実際に来てみると、びっくり。こんなにまで素晴らしかったなんて! と改札でさっそく大興奮だった。




天井に見とれたあとで、くるっと改札の方を振りかえる。白壁とランプと窓の調和が見事。




窓の格子がシック、うっとり見上げたところで、




外に出て、駅の外観。今度は外から窓を眺める。三角屋根がチャーミング!




道路を渡って、大磯駅の全景をのぞむ、あらためてなんてチャーミング! などと、「!」を連発せずにはいられないくらいに、大磯駅は一見の価値ありのすばらしさだった。




夕刻の大磯。いつまでも駅を見つめていると日が暮れてしまうので、前々から手帳にメモしてあった内田誠の終の棲家のあった住所を目指して(駅から徒歩十分弱)、線路沿いを平塚方向に直進。



と、駅を背に線路沿いの道を直進しにたら、とたんに静かな住宅街となり、今も住宅として現役の古い洋館の前を通ったりする。鎌倉とはまた違った閑雅さがしみじみ素敵で、ただ歩いているだけでいい気分だった。しばらく直進したところで、左手に線路の下を通る地下道があり、そのちょっと先に、内田誠の終の棲家の住所の地となる。何棟かの宅地として分譲中で、今はその工事の真っ最中。内田誠の住んでいた頃の雰囲気もうわからなくなってしまっているけれども、ここに分譲中の宅地がもとは内田誠邸の敷地だったのことだけは確かで、そのお屋敷の広大さは容易に想像できた。ちょっと山の方へと狭い路地を歩いていくと、内田誠のいた頃から変わっていないような古い日本家屋を見ることができたりして、森閑とした路地に居合わせるだけで心が和む。大磯の町全体の閑雅さは昔も今もあまり変わっていないような気がする。




雑誌『雑談』創刊号(白鴎社・昭和21年5月1日発行)。題箋と表紙:安田靱彦。強制疎開で大森不入斗の邸宅を追われた内田誠は、軽井沢での疎開生活を経て、敗戦後は大磯の別宅に住み、はるばる京橋の明治製菓まで通勤していた。『雑談』はそんな生活にも慣れた頃に創刊された随筆雑誌で、昭和21年の5月に第1号が出て、同年12月の7号をもって終刊した( 自サイトに総目次を作成:http://www.ne.jp/asahi/foujita/kanako/carnets/zatsudan/zatsudan.html )。

大磯から東京へ通ふ汽車の中の往復三時間といふものを、毎日もて余して、岩波文庫のヘンリイライクロフトの私記といふものを愛読し、美しいイギリスの田園やなつかしい煤煙のロンドンを思ひだしたりしながら、これが本格の随筆といふものであらうと思つた。あの本のなかに「――この地上を暗くする罪悪悪行の大部分は心を平静に保つことの出来ない人達から生れるものである。そして人類を破滅から救ふ福祉の大部分は思慮深い静穏な生活から来るものである。日を追うて世界は騒がしくなつて行くが、人は知らず自分はこの高まり行く喧噪の中に身を投じまい。――」といふ一節があるが、随筆はさういふ心境から生れたものであらねばならない。そこにはゆたかな空想や思想があり、美しい詩も存在してゐた。比類のない卓越した感覚や見解が示され、深い含蓄のある知識が語られているのであつた。


【『雑談』第1号・内田誠「同人雑記」より】

『雑談』は、大磯のお屋敷での内田誠と高田保の「雑談」から生まれた雑誌だった。創刊に一役買ったのが車谷弘で、その著書『わが俳句交遊記』にて当時のことが鮮やかに回想している。

 高田保は戦争中、大磯の内田誠の別荘を借りて住んでいた。内田さんは軽井沢に疎開していたのだが、終戦と同時に、大磯へ帰ってきて、ふたりの同居生活がはじまった。一つの家を二つにしきって、二家族がくらしたわけだが、別荘といっても、それほどひろい家だった。高田さんの方の出入りには、裏玄関がつかわれたが、裏玄関といっても、一間間口のちゃんとした玄関だった。
 私は戦争中も、伊東の疎開先から、東京へ通っていたので、よく大磯へ途中下車して、高田さんをお訪ねした。
(中略)
 高田さんはじっとしている事がきらいで、一度高熱を発して病臥したとき、内田さんが心配して、そっと病室をのぞいてみると、仰臥したまま、枕もとのスタンドの傘に、ひとりで絵を描いていたという。そんなひとだから、仕事の計画をたてると、急に生々してくるのだが、あるとき、内田さんや私を相手に、例の雑談がはずんでいるうちに、
「おい、みんなで、同人雑誌でもやろうじゃないか」
と、いう話になった。
「雑談からうまれたんだから、雑誌の名を『雑談』というのはどうだろう」
「うん、それは面白いね」
と内田さんも賛成して、
「表紙の字は、安田靱彦さんにおねがいしよう」
「口絵は、梅原龍三郎さんがいいね」
などと眼をかがやかせて勝手なことを云い出した。私は呆れて、口をはさんだ。
「同人には、どんなひと達をあつめるのですか」
「そうだ、同人雑誌だから、先ず同人をきめなくちゃ……」
と、それからいろんなひとの名をあげて、あれはどうの、これはどうの、といっているうちに、大体の顔ぶれが決定した。石原龍一、高田保、久保田万太郎、益田義信、徳川夢声、福島繁太郎、小島政二郎、佐佐木茂索、宮田重雄、水原秋櫻子、渋沢秀雄、森暢の十三人で、それもほとんど、無断できめたのだからかわっている。「雑談」創刊は、昭和二十一年五月号からだが、雑誌をみて、はじめて自分が同人であることを知ったひともいた位だ。
 その頃新橋駅近くの白鴎社という出版社が、私の友人で、発売元になってくれて、せまいビルの一室に、このお歴々がよく集まった。(中略)
 「雑談」は、毎号梅原さんの口絵がついて、本文は七十余ページ、定価は五円だった。同人以外の執筆者には、幸田露伴、武者小路実篤、折口信夫、佐藤春夫、吉井勇、鏑木清方、小絲源太郎、木村荘八、といった錚々たるメンバーがそろっていて売行もわるくなかったが、その年の十二月号でやめてしまった


【車谷弘『わが俳句交遊記』(角川書店、昭和51年10月15日)所収、「月あかり」より】

『雑談』の発行元を引き受けた白鴎社の社主・中村正利は、戦前『婦人画報』の編集長をしていた。中村正利は十返肇と親しく、敗戦後、十返肇もほんの一時期白鴎社に在籍していた(が、十返は『雑談』についての回想は残していないので、特に関わっていないと思われる)。



大磯の内田誠邸には高田保が同居していたわけで、わたしにとって大磯をおもうということは、内田誠と高田保をおもうことなのだった。大磯の邸宅は二人にとって終の棲家となった。高田保が昭和27年2月に他界した一方、内田誠は昭和26年5月に病中の人となり昭和30年8月に他界している。内田誠の邸宅のあった場所の向こう側に見える丘の上には、高田保の碑があるという、その名もズバリ「高田公園」がある。眼前の急勾配をゼエゼエと登ってゆく体力も気力も今日はもうもう残っていなかったので、近日の再訪を誓ったところで、先ほどと反対側の線路沿いを駅に向かって歩いてゆく。




やがて大磯駅のホームが見えてきた。フェンスの向こう側のなだらかな下り坂が先ほど歩いていた道。ホームの上の歩道橋を渡って、ふたたび駅正面に戻る。駅前の「風月」でお土産に焼き菓子とぶどうパンを買って、駅ホームへ行き、東海道本線の上り電車を待つ。




電車を待ちがてら、駅舎を裏側から眺めて大磯を惜しむ。晩春の一日がもうそろそろ暮れようとしている。



ふたたび東海道本線のボックスシートに座って、のんびり東京駅に向かっているうちに日没。この電車に乗って、昭和20年代前半の内田誠は京橋の明治製菓まで通勤していたのだなあと思いながら、車窓を眺める。大磯から東京駅に向かっての東海道本線での「移動」が、内田誠をおもうことで格別の時間となる。電車が藤沢駅を出ようとするところで、ホーム上の往年の東海道本線の車両を模してつくられたキオスクが視界に入った。「おっ」と車窓から振り返る。




藤沢駅のホームのキオスク。去年9月に鎌倉に遊覧に出かけた折に、なんとなく気が向いて撮影した写真が残っていた。あとで知ったところによると、このキオスクは、昭和25年3月より「湘南電車」の愛称で運行開始の「80系電車」を模して造られているという。なるほど、これが「80系」! とこれを機に覚えておくことにしたい。


昭和26年5月に病臥するまで1年ほど、内田誠はこの「80系電車」にのって京橋の明治製菓に通勤していたのだ、いつもなにかしらの本を読みながら。「113系」が2006年3月をもって引退したことで、緑とオレンジのツートンカラーの電車が東海道線の線路を走っている姿はもう見られなくなった。改装工事による休業の直前、東京ステーションホテルで気分よくブルゴーニュのワインを飲んでいたら、レストランの窓から夜の東京駅のホームに殺到する大群衆が見えて、いったい何事かと思っていたら、翌朝の新聞で「113系」の引退に押し寄せた鉄道ファンの大群衆だったことを知った。奇しくも「さよなら湘南電車」に立ち会うめぐりあわせとなったわけで、「113系」の引退は東京ステーションホテルの記憶とともに深く印象に残っている。


高田保は『ブラリひょうたん』で湘南電車の塗装の色調をくさしているけれども、内田水中亭もおんなじようにちょっと苦々しい顔をして電車に乗りこんでいたのかもと思うと、ちょっとおかしい。

 あの電車の塗装の色調、何んともいえず不快である。品川の車庫にあるのを見た時から感じたのだが、これも私は一度も誰にも話したことはない。しかし、あの色の不評判は圧倒的に世論である。みかん、オレンジの実る南の方へ通うのだから、その実と歯の色とをとつたというのだそうだが、中華料理の看板みたいだという、オイナリさんのお祭りみたいだという、いやあれはどうしても炎の色だよという。「南京電車」とか「コンコン電車」とか、さらには「発火電車」などと不吉な名をつけているのもある。公社は各種さまざまなこの名前を集めてみるといゝ。


【高田保「テスト」-『第3ブラリひょうたん』(創元社、昭和26年6月)より】

昭和25年3月に運行開始の「80系電車」の湘南電車。内田誠も高田保も、その歴史のほんのはじまりのところで病中の人となり、湘南電車にはあまり乗ることなく他界してしまったと思うと、ちょっとしんみりもする。






小津安二郎『秋日和』(昭和35年11月13日封切・松竹大船)より。岡田茉莉子と司葉子が勤務中に屋上へ走って、熱海へ新婚旅行に向かうお友だちの乗る湘南電車を見送るシーン。青い空にはアドバルーン。東京中央郵便局の向こう側を、《下りの湘南電車が走り過ぎて行く》。この電車も藤沢駅ホームのキオスクでおなじみの「80系電車」かな。



長谷川りん二郎展の至福。戦前の明治製菓宣伝部の「スヰート」の長谷川りん二郎からつながるもの。

五反田から池上線、蒲田から JR に乗り換えて川崎から東海道本線……と、平塚市美術館へ出かけるに際してのちょっとした遠足を心ゆくまで満喫、念願の大磯にも初めて行くことができた。そして、そもそもの目当ての長谷川りん二郎展の時間はとても満ち足りていた。もうなにもかもが最高だった。



画家・長谷川りん二郎のことを知ったのは、2001年夏、洲之内徹に耽溺したのがきっかけだった。以来、その存在が心に残っていたなかで、2、3年の年月を経て、別の方角から長谷川りん二郎の存在が照らし出されることとなった。あのときの興奮といったらなかった。




長谷川りん二郎《薔薇》1938年。そのタイトルにひるみつつ手にとった、洲之内徹『芸術随想 おいてけぼり』(世界文化社、2004年1月)で初めて、この《薔薇》が明治製菓の広報誌「スヰート」の表紙画として使われていたと知った。洲之内は入手の経緯を、同書で以下のように回想している。

画商らしきものになって間もないころ、ある日、神田へ額縁を探しに行き、通りがかりの古道具屋へはいったら、のきの裏側の薄暗いところにこの絵がかかっていた。値段は私のほうでつけた。絵の値段としてではなく、額縁の値段だったが、主人は大喜びで、絵はおまけにしてくれた。

洲之内が「画商らしきもの」になったのは昭和35年前後くらいなので、その頃に入手したということになる。明治製菓宣伝部で内田誠のもとで「スヰート」の編集に従事していた戸板康二の回想によると、「スヰート」の表紙画はそのほとんどが内田誠のポケットマネーで買い取られていたとのことなので、もとは内田誠の持ち物だった可能性が高い。その内田誠は昭和30年8月、大磯で他界。戦前に内田誠のもとにあった絵がめぐりめぐって昭和30年代の洲之内徹と長谷川りん二郎との出会いを生んだ。そして、わたしとおなじように、多くの人が洲之内の『気まぐれ美術館』を通して、長谷川りん二郎に魅了されたに違いない。この《薔薇》は現在は「洲之内徹コレクション」として宮城県美術館に所蔵されている。




明治製菓広報誌「スヰート」昭和14年11月25日発行(第14巻第5号)の表紙。上掲の長谷川りん二郎の《薔薇》が表紙に使われてたのは、戸板康二が明治製菓の宣伝部に入社した年の「スヰート」。ちなみに、この号の目次は、内田百間「カステラ」、丹羽文雄「菓子漫筆」、長谷川時雨「秋うらら」、馬場秀夫「羊羹とロシア人」といった並び。




内田誠『浅黄裏』(文体社、昭和10年4月8日)より。書物展望社の斎藤昌三の傍らにいた岩本和三郎が斎藤と袂を分かって「双雅房」をはじめる(初の刊行書は昭和10年7月刊の久保田万太郎『夜光虫』)、その前身の文体社の名義で刊行の内田誠の随筆集には、長谷川りん二郎の《巴里祭》と題する絵が、内田の小文「巴里祭」の隣りに挿入されている。




内田誠『父』(双雅房、昭和10年7月18日)より、挿図《駿河台図書館之図》、長谷川りん二郎筆。内田誠が厳父の三回忌に際して編んだ本書は双雅房のはじまりとほぼ同時に刊行された。東京市立駿河台図書館にて昭和9年に内田嘉吉の旧蔵書が受託され「内田嘉吉文庫」が設立され、現在は千代田区図書館が引き継いでいる。



明治製菓の宣伝部に古くより在籍し、内田誠の片腕として辣腕をふるっていた香取任平が、長谷川海太郎夫人・長谷川和子の実兄だった、すなわち長谷川海太郎の義兄が宣伝部にいたことが、内田誠と長谷川りん二郎の交流のきっかけとなっていることは間違いないと思う。ちなみに、「スヰート」昭和2年10月発行号(第2巻第4号)には、谷譲次の『甘々茶話』と題する小文が掲載されている。


香取任平をきっかけにはじまった、内田誠周辺と長谷川家との交わりを追ってみるとなかなか奥深いものがあって、なにかと尽きないものがある。内田誠とお友だちの長谷川春草が昭和5年に銀座の出雲橋河畔の地に開業した「はせ川」を同姓のよしみで四兄弟の父・長谷川淑夫が贔屓にしていたとか、同じく内田誠のお友だちの好漢・槇金一(坂倉得旨)の夫人が昭和8年末に開場した「いとう旅館」に最初に逗留したのは長谷川海太郎で、仕事場としてとても気に入っていた、というような挿話があったりする。夫人とその兄にスケジュール管理されていた海太郎は、渋谷大和田町のひっそりした日本旅館に逗留して、一人になってさそがしほっとしたことだろう。長谷川りん二郎が上掲の内田誠の著書を彩っていた頃、昭和10年6月、長谷川海太郎は急死した(享年35)。




宇野浩二『大阪』新風土記叢書1(小山書店、昭和11年4月4日初版)。装釘:長谷川りん二郎。小山書店は昭和8年創業、社主の小山久二郎はそれまで岩波書店に在籍していた。小山久二郎『ひとつの時代 小山書店私史』(六興出版、昭和57年12月)によると、《現代の選りすぐった文人に自分の故郷を語らせ、またその土地出身の画家に挿絵を書いてもらうという案》の「風土記叢書」のアイデアは、小山久二郎と親しかった河盛好蔵によるもの。小山書店の新風土記叢書は第1編の宇野浩二『大阪』あと、第2編:佐藤春夫『熊野路』(昭和11年4月)、第3編:青野季吉『佐渡』(昭和17年11月)、第4編:田畑修一郎『出雲・石見』(昭和18年8月)、第5編:中村地平『日向』(昭和19年6月)、第6編:稲垣足穂『明石』(昭和23年4月)、第7編:太宰治『津軽』(昭和19年11月)の全7冊が刊行された模様。


宇野浩二の『大阪』のことは、若き日の戸板康二の愛読書だったということでずっと心に残っていて、数年前に入手したときの感激はひとしおで、以来大切に架蔵している。ページを開いて、表紙の静物画が長谷川りん二郎によるものだということを、「装幀 長谷川りん二郎」の文字で知った。そして、ページを繰ってゆくと、精興社印刷で中の活字は実にうつくしい。『大阪』を買ったのは、「スヰート」の長谷川りん二郎の表紙画のことを知ったあとだったから、思わぬところで、りん二郎に再会することになった。


佐藤春夫に荷風を紹介されて、小山久二郎は念願の荷風の本、『すみだ川』を刊行することができた(昭和10年11月刊)。その装幀者としても長谷川りん二郎の名前がクレジットされている。久保田万太郎は小山久二郎と旧知で、内田誠はのちに『遊魚集』(昭和16年3月刊)を小山書店から刊行している。小山書店と長谷川りん二郎との関わりも、内田誠をきっかけにしているのかなと想像できるのだった(きちんとした確証はないけど)。


ところで、「日本古書通信」2006年1月号から12月号まで連載された松本八郎さんの『書物のたたずまい』の第二回は、「小山書店《新風土記叢書》」。小山書店本の長谷川りん二郎の「装幀」について、以下のような卓見がある。

 『大阪』『熊野路』には「装幀長谷川りん二郎」と扉裏に明記されている(以降はそうした表記がない)。しかし、ほんとうに長谷川四兄弟(三つの筆名を持つ海太郎、露文学者の濬、作家の四郎)のりん二郎が、「装幀」まで行なったのだろうか? 表紙のデザインは、装幀のみならず本文組版や製本工程まで、本造り全般にこだわりを持つ小山書店店主、小山久二郎自身が手掛けたに違いない(この叢書の口絵や本文には、写真や挿画がふんだんに入っていて、この時代としては珍しいヴィジュアル志向の展開が試みられている)。
 昭和十年に刊行された永井荷風著『すみだ川』の表紙や紋様は、りん二郎の筆になるものである。しかしこの本は、小山の『ひとつの時代――小山書店私史』(六興出版社・一九八二年)にも小山自らが装幀を施したと記し、りん二郎自身も「文章は文章であり、画は画である。私は芸術上のジャンルの混合を嫌う」と、昭和十一年の「時計のある門」と題したエッセイに書いている。


【松本八郎『書物のたたずまい (2) 小山書店《新風土記叢書》』より。「日本古書通信」平成18年2月15日発行(通巻919号)掲載】


長谷川りん二郎《アイスクリーム》1981年。『書物のたたずまい』、最終回で取り上げられたのは《版画荘文庫》、

二月号に取り上げた《新風土記叢書》前半の、その表紙の装画を手掛けた長谷川りん二郎のタブローのなかに、《版画荘文庫》をモチーフにした作品が数点ある。描かれた本の表紙には書名が書き込まれていないので、その色合いから推測するしかないが、りん二郎のアトリエに、この《文庫》が何巻架蔵されていたのだろうかと、想像するだけでも楽しい。

という一節が冒頭にある。本当に、想像するだけでも楽しい。




長谷川りん二郎を知ってここ十年、思いがけないタイミングで、長谷川りん二郎に遭遇ということが今まで何度かあって、そのたびに胸を躍らせていた。その間、川崎賢子著『彼等の昭和 長谷川海太郎・りん二郎・濬・四郎』(白水社、1994年12月)という決定的な名著を精読した。それから、海野弘著『久生十蘭『魔都』『十字街』解読』(右文書院、2008年4月)を新刊として読んだことで、ちょっと忘れかけていた十蘭や「新青年」をめぐるあれこれにあらためて魅了されたりした。一番最近の長谷川りん二郎との偶然の邂逅は、裏表紙が明治製菓の広告であるうえに、連載第2回の徳川夢声『映優五年生』はちょうど明治製菓タイアップ映画『純情の都』(昭和8年12月封切)のくだりだ、この号の「新青年」は戦前の明治製菓宣伝部を追っている身にとっては絶好の資料だ! といさんで入手した昭和14年3月号に地味井平造の作品が掲載されていたこと。




「新青年」昭和14年3月号(第20巻第4号)。表紙:松野一夫。以前とは比べるとだいぶ洗練味が薄れてしまっている表紙が、「新青年」がその全盛期を過ぎていたことを如実に語っている。でも、久生十蘭の『キャラコさん』が連載中!




同号の裏表紙の「明治紅茶」。《もはや輸入の時代は過ぎ、国産最優良種明治紅茶が、世界の一流品を凌駕する時代となりました。》。時局を反映した誇大広告に微苦笑。




ここに連載中の『映優五年生』が、のちに刊行される『あかるみ十五年』(世界社、昭和23年5月)の元になっている。この号では、明治製菓銀座売店のロケの様子など、『純情の都』が書かれていて、夢声の文章に合わせた清水崑による挿絵がこのあとのページもとってもチャーミングなのだった。(『純情の都』について:id:foujita:20080710)




明治製菓目当てで入手した「新青年」は、たまたま長谷川りん二郎こと地味井平造が、短篇ミステリ『顔』を寄せている号だったとは、なんという幸運! 洋行中の紳士の体験するちょっとした異聞奇譚。初山滋の挿絵も嬉しい。



昭和14年という年は、上掲の《薔薇》が「スヰート」の表紙を飾った年であるわけで、戦前の明治製菓宣伝部資料という名目で入手した「新青年」で初めて、地味井平造の作品を読むことになったというめぐりあわせが極私的にたいそう嬉しかった。地味井平造が作品を発表するのは、「新青年」昭和2年4月号の『魔』以来のこと。このあと、矢継ぎ早に「新青年」に『不思議な庭園』(昭和14年10月号)、『水色の目の女』(昭和15年6月号)と、地味井平造の作品が掲載された。このことについて、海野弘著『久生十蘭『魔都』『十字街』解読』(右文書院、2008年4月)では、

 一九三二年に帰国したりん二郎は、二科に入選し、一九三四年、日動画廊で個展を開いた。とにかく精密に、ものすごい時間をかけて描くので、作品がなかなか完成しない。一九三七年と一九三九年に、日動画廊で個展を開いた。一九三九年の時であったろうか、水谷準が展覧会に来て、ひさしぶりに再開し、また書いてくれといった。それでこの年、十二年ぶりに地味井平造が復活したのであった。
 しかし、戦時になってきており、「新青年」もかつてのモダン路線を継続することはむずかしくなっていた。一九四〇年で地味井が消えるのは、そのような時局を反映していたのだろう。

というふうに述べられている(p.44-45)。また、『夢人館4 長谷川りん二郎』(岩崎美術社、1990年3月)所収の小柳玲子編の「長谷川りん二郎年譜」には、

日動画廊の個展に、水谷準と久生十蘭が訪れる。水谷準の記憶では竹林の絵が記憶に残っている。「こんなに、こまやかも神経をつかうのはよくない。」という意味の苦言を呈した。そして、また、小説を書かないかと、当時編集していた<新青年>へ原稿をもらった。

とある。明治製菓の「スヰート」の表紙に《薔薇》が使われたのは、まさにその頃の出来事。




2001年夏、洲之内徹をきっかけに、画家・長谷川りん二郎を知った。そのあとで、戦前の明治製菓宣伝部を追うなかで、もっとも魅惑的な登場人物のひとりとして、長谷川りん二郎は極私的に特別な存在となっていった。思えば、ここ十年というもの、長谷川りん二郎をとりまくいろいろなこと、特に書物とのかかわりのなかで、長谷川りん二郎の存在には魅了されっぱなしだった。


しかし、肝心の画家としての仕事には、室内でときどき画集(『夢人館4 長谷川りん二郎』岩崎美術社・1990年3月)を眺めてたのしんでいたに過ぎなくて、実際に目にしたのは、とある画廊でたまたま遭遇した桃の絵と、去年の黄金週間に出かけた宮城県美術館で開催の《洲之内徹コレクション展》の展示作品だけだった。


そんなこんなで、このたびの《長谷川りん二郎展――平明・静謐・孤高――》が、長谷川りん二郎を知って十年目にして初めて出会う大がかりな展覧会となった。《長谷川りん二郎展――平明・静謐・孤高――》は初期から晩年までの作品を網羅した公立美術館では初の回顧展で、平塚市美術館(4月17日から6月13日)、下関市立美術館(7月1日から8月15日)、北海道立函館美術館(8月28日から10月17日)、宮城県美術館(10月23日から12月23日)を巡回するという。函館の地で立ち会う長谷川りん二郎展はさぞかし格別であろうととっても羨ましいけれども、待ち切れずに初日にいさんで平塚に行ってしまった。長谷川りん二郎で心が満たされたあとで内田誠終焉の地の大磯をほんの少しだけど歩くことができたわけで、わたしにとっては、初めて長谷川りん二郎の展覧会に立ち会ったのが平塚だったということは、かえすがえすも幸福なことだった。と、あとになって、しみじみ思った。


《長谷川りん二郎展――平明・静謐・孤高――》は、装釘や地味井平造のことにも触れてはいるけれども、全体的には多くの絵画をほぼ時系列に展示するという、きわめてオーソドックスな回顧展。長谷川りん二郎の絵画、こんなにもたくさんの絵画に触れる稀有の時間に意識を集中させて、なんともいえないような満ち足りた時間だった。きわめて純度の高い静物画、終世ほぼそのスタイルを変えることなく描き続けられてきた長谷川りん二郎の一貫性。親の建てたアトリエに住んで終生その庇護を受けていたりん二郎には、古風な探偵小説の登場人物のような、現実感のなさがあって、そのちょっとした幻想性のようなものが、彼のきわめて具象的な絵に通底している。長谷川りん二郎の徹底した一貫性は不思議ととてもあたらしい。唐突だけど、幸田露伴の饗庭篁村評(「明治文壇雑話」)にある、《篁村は別に新しがる気もなく、自分の勝手で物を書いたが、それが却って真の意味に於ては後の人々の新しいことになっていた。》という一節を思い出したりも。




『長谷川りん二郎画文集 静かな奇譚』(求龍堂、2010年3月31日)。今回の展覧会に際して、「公式図録兼書籍」として刊行されたもの。先月、サンシャインの古本市の帰りに深い考えもなく足を踏み入れたジュンク堂でに初めて遭遇して「キャー!」だった。が、チラリと様子を伺っただけでそっと棚に戻して、「公式図録兼書籍」は当日に展覧会場で買おうと決めていた。長谷川りん二郎のアトリエの写真が紙面に大きくあしらってあるのが嬉しい。長谷川りん二郎世界そのもののアトリエ写真は展覧会場でも大きく紹介されていて、しばし見とれていたものだった。図版も資料も充実していて大満足。印刷は、戦前の明治製菓の広報誌「スヰート」の印刷をうけおっていた光村印刷。



あらゆる意味で、作品そのもの、書物とのかかわり、その関連人物、時代との連関……全方位的に堪能して、展覧会場に居合わせてお土産の図録も嬉しく、そのあとの生活がさらにちょっと充実したものになったような、昨日よりも自分が新しくなったと錯覚してしまうような、嬉しい展覧会。そんな展覧会にこれまで何度か遭遇していたものだった。たとえば、ギンザ・グラフィック・ギャラリーにおける河野鷹思や山名文夫、八王子で見た鈴木信太郎、記憶の新しいところでは去年の晩秋の宇都宮の杉浦非水、等々。このたびの長谷川りん二郎展はまさにそんな展覧会だった。函館でもう一度見たいという思いがふつふつと湧いているけれども、どうなることやら。