読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

冬休み関西遊覧その3:大阪近代建築めぐり。京阪電車で京都。

午前10時、宿を引き払って、外に出てみると、空気がひときわ冷たくて、吐く息がフーッと白い煙のよう。新聞の天気予報によると、本日の最高気温は5度以下、京都では午後に雪が降るらしい。空気が澄んでいて空の青が濃くて、寒いとかえって気分が清々として、ちょっといい気分。堂島を去る前に、毎日新聞社跡地の堂島アバンザのジュンク堂をちょいとのぞいてゆくことにする。




《毎日新聞社屋上、右から井上靖、安西冬衛、小野十三郎、竹中郁、杉山平一》、杉山平一『戦後関西詩壇回想』(思潮社、2003年2月)口絵写真より。ちょうど3年前の大つごもりの三月書房で買って以来、関西遊覧のたびに帰京後まっさきに読み返している本。日をおいて繰るとそのたびに発見があって、ひとたび読み返すとそのたびにムズムズと文学館の閲覧室で雑誌探索をしたくなる。口絵写真の毎日新聞社屋上の詩人たちの背後に、大阪中央郵便局の建物が見えることに初めて気づいた。今回の関西遊覧の出発点だった大阪中央郵便局!




30分後、手荷物がますます重たくなったところで、もと来た道を戻って、いつものとおりに渡辺橋の欄干から、肥後橋の朝日新聞社の建物を眺める。何度来ても、この朝日新聞社の建物が大好きだ。来るたびに今日が見納めかなと思って、来るたびにじっくり眺めずにはいられない。




渡辺橋北詰、阪神高速の高架の下から朝日新聞社を見る。




そして、前回の夏休みの遊覧のときとおんなじように、しばし立ちどまって、朝日新聞社をのぞむ。隣りの鉄塔のあるビルは春休みが見納めになってしまって、現在は完全に更地になった。次回に来るときはどんな感じになっているのかな。




朝日新聞社の建物を背後に淀屋橋へ。「安井武雄の近代大阪」をおもう。


堂島川のキラキラ光る水面を見下ろしたり、前方に迫りくる朝日新聞社の建物をワオッと見上げたりしながら、渡辺橋を渡り、朝日新聞社の建物を右手に西に、さらに南下して、肥後橋を渡る。





渡辺橋の欄干からのぞむ朝日新聞社がかねてから大好きだったけれど、こうして間近で見上げると、これまた格別に美しい。




《朝日ビルディング》(竣工:昭和6年10月20日、設計:竹中工務店)、『近代建築画譜』(近代建築画譜刊行会、昭和11年9月15日)に掲載の写真、『復刻版 近代建築画譜〈近畿篇〉』(不二出版、2007年6月25日)より。堂島川の向こう岸に朝日ビルディング、ビルのてっぺんの航空標識が夜になるとキラッと光った。右の黒い建物が朝日会館。ああ近代大阪!



『新建築』昭和7年1月20日発行(第8巻第1号)の巻頭に、「朝日ビルディングを見る」という巻頭記事がある(友樹京二執筆)。

美しい白亜の近代的形態! ゆたかな水の流れる河に沿うて全く皮肉な明朗さを充分備えて居る、各層に程よく出された庇の裏には金属がはられて居る、Stainless steel の冷いとぎすまされた冴え返った色、繰型も何もない簡明な軒先、四角く何の奇もてらわず規則的に明けられた窓―これに比べるとあの Sensational であった数寄屋橋畔の朝日新聞社は流石に一昔前の建築思想をあらわす処の豊富な分離派風の形の遊びを持って居る。……

と、肥後橋の大阪朝日新聞社(竣工:昭和6年)と数寄屋橋の東京朝日新聞社(竣工:昭和2年)、それぞれの朝日新聞社を通して「大阪」と「東京」を対照させるのは、1920年代からのモダン都市の諸相(のようなもの)を思ううえで、とても興味深い気がする。




《東京朝日新聞社》(竣工:昭和2年)、都市美協会編『建築の東京 大東京建築祭記念出版』(都市美協会、昭和10年8月20日発行)より。




そして、『近代建築画譜』に掲載の、大阪朝日新聞社の背面。同じ竹中工務店の設計の東京朝日新聞社に比べると、外観のシンプルさが際立っていて、いかにも「1930年代」、という気がする。





『新建築』昭和7年1月20日発行号の巻頭の「朝日ビルディングを見る」に掲載の外観写真。上掲の現在の写真とほとんど変わらない視覚。数寄屋橋の朝日新聞社や堂島の大阪毎日新聞社の古い建物は見逃してしまったけれども、肥後橋の朝日新聞社、1930年代建築をこれまで何度もたのしめたのはかえすがえすも幸福なことだった。



よい気分で朝日新聞社を背後に肥後橋を渡って右折、土佐堀川を左手に東へ歩を進める。



ふりかえって、肥後橋の向こうの朝日新聞社の建物をふたたび眺める。奥が先ほどまで観察していた昭和6年の建物で、手前が昭和43年に増築された部分。戦前の建物と見事に調和させた増築。この戦後の方の建物の最上階にレストラン「アラスカ」がある。



……などと、朝日ビルディングの感慨にいつまでもふけっているわけにはいかないといわんばかりに、土佐堀通の右手にはさっそく三井住友のビルがそびえたっていて、ワオッと見上げる。




『近代建築画譜』に掲載の、《住友ビル》(竣工:第1期・大正15年4月、第2期・昭和5年4月、設計:住友合資工作部)。この写真の前面に写る川は、橋の感じからして現在の土佐堀川とは違うようだ、ハテと思っていたら、どうやら、この川は現在は埋め立てられている西横堀川らしい。であるので、『近代建築画譜』のこの写真は、今回の歩行と同様、肥後橋の朝日新聞社を背後に土佐堀沿いから撮影した写真ということになる。西横堀川は埋め立てられたのは昭和37年、今は阪神高速環状ルート1号線北行きが走っている。東京と同じように、「水都」の都市風景が戦後に一変しているわけで、長堀川のこととか、「水都」大阪の町並みのことを今後どんどん知っていきたいなと思っている。昨日大阪町歩きを満喫して、ますます大阪の都市構造に興味津々なのだった。



三井住友ビルのブロックを右折すると「魚の棚筋」という道になる。ここをそのまま南下したら、御霊神社と美々卯本店があるのだな、ウムなるほどとコートのポケットから『でっか字まっぷ 大阪24区』を取り出して、取り急ぎ位置を確認したところで、右手の住友ビルを見上げる。





この建物を間近で見てまず思うのは、外観の石そのものの美しさ。外観は「竜山石」という石が使われているとのこと。兵庫県高砂市原産。関西の石が用いられていると知っただけで、その風土感が旅行者にとっては嬉しい。褐色の石の幾何学的配置が間近で見ると、しみじみ美しくて感嘆だった。「竜山石」は、芝川ビル(昭和2年)の外壁やダイビル(大正15年)の玄関の装飾部分でも使用されていると知り、「近代大阪」における「竜山石」というものを追究したくなっているのだった。……と、先月宇都宮で「大谷石」に心惹かれてからというもの、石にとりつかれている。ついでに「御影石」の名前の由来は、阪神間の御影に由来しているということも初めて知って興奮。



と、三井ビルの昔の写真で、思いがけなくかつての西横堀川に思いを馳せることになったのは一興だった。しかし、いつまでも、三井ビルにいつまでも見とれているわけにもいかないのであった。ちょいと歩を進めた、次のブロックの右手には、本日一番のお目当て、大阪倶楽部が控えている。わーいわーいと寒空のした、つい小走り。






三井ビル脇の「魚の棚筋」なる道を南下して左手に、東側に大阪倶楽部がそびえたっていて、正面を見るより前にまず側面を見上げることとなった。茶色い煉瓦の、だいぶ古風な建物、窓の配置がとってもチャーミング。そんなディテールを満喫したあとで初めて、大阪倶楽部を正面から眺めるという展開。



夏休みの関西遊覧の折、ガスビル食堂の晩餐を満喫したあと、日没後の北浜散歩の折にガスビルの直後に「高麗橋野村ビルディング」の前を通りかかって、「昭和8年」のガスビルのあとは「昭和2年」の安井武雄! というふうに、奇しくも「安井武雄の近代大阪」を逆行するような歩行となって、たいそうたのしかった。淀屋橋界隈には、ガスビル(昭和8年)、高麗橋野村ビルディング(昭和2年)、そして大阪倶楽部(大正13年)というふうに、まさに「安井武雄の近代大阪」遺産といった感じに3つの建物が今も健在、淀屋橋界隈をちょいと歩いただけで、安井武雄という一人の建築家を通して、1920年代から30年代のかけてのそれぞれの時代背景といったものに思いを馳せることができるのはたいへん興味深いなアと感心することしきりだった。……などと感心していたのは実は帰京後のことで、夏休みのときは深い考えもなく、偶然通りかかったに過ぎなかったので、帰京後になって、ガスビルの9年前の大正13年の「大阪倶楽部」、1920年代前半の安井武雄を見逃しているのはとんだ欠落だ! と思うに至り、まっさきに次回の関西遊覧のおたのしみと相成った。関西遊覧のたびに、帰京後に行き損ねた場所をいくつか発見して、次回の関西遊覧へとつながっている(そんなこんなで関西遊覧は今後もとめどなく続いてゆく、と思う)。




山口廣『自由様式への道 建築家安井武雄伝』(南洋堂出版、1984年9月20日)。ブックデザイン:神田昭夫。関西遊覧のたびに、見聞の思い出とともに本を購うことで、次回の関西遊覧の資料を入手しているという塩梅。そんなことをしているうちに、本棚の一角には着実に「関西モダニズム」コーナー(のようなもの)が形成されつつある。ガスビルがあまりにたのしかったので購った安井武雄資料は、図版がたっぷりで大のお気に入り。表紙にはガスビルの写真があしらってある。


そんなこんなで、昨日「近鉄」を通してちょっとだけ追いかけてみた村野藤吾とおなじように、安井武雄を通して概観する「関西モダニズム」といったようなものにも興味津々、今後少しずつ追究していきたいのだった。戸板康二が阪神間に「帰省」していた同時代の建物ということで以前見物に出かけた、現在は滴翠美術館となっている芦屋の山口吉郎兵衛邸も安井武雄による設計と遅ればせながら知って(昭和8年、ガスビルの直後の6月竣工)、ますます安井武雄に愛着が湧いた。もう一度、滴翠美術館を見に行かねばッと思っているところ。




「安井武雄邸(自邸) 1931年 安井武雄 西宮市雲井町」、『自由様式への道 建築家安井武雄伝』より。急な坂道の途中にあるのがいかにも阪神間の邸宅! 安井武雄が阪急沿線の阪神間に新居を構えた当時、事務所は高麗橋野村ビルの6階にあった(昭和3年に「大阪信濃橋日清生命館」より移転)。明治17年生まれの安井武雄は阪神間に邸宅があり大阪へ出勤する、関西モダニズム紳士の典型だった。



当初の予定では、このまま足を伸ばして、ガスビルの外観を眺めて夏休みの追憶をしたあとで、高麗橋野村ビルディングの1階の「サンマルクカフェ」でひと休みするという段取りだったのだけれど、前夜の深酒による朝寝坊のため、だいぶ時間が押していた。そのまま御堂筋へと直進して、淀屋橋に出る。




淀屋橋の脇に立って、交差点の角の石原ビルディングの全景を見る。補修がほどこされているけれども、脇から間近でちょっと見物してみたら、モダン建築の典型を見出すことができて、細部観察がなかなかたのしかった。いつの日か、「コロンブス」の看板の真下のガラス窓から、淀屋橋交差点を見下ろしてみたいのだったが、この8階の大ガラス窓部分が「北浜画廊」。石原ビルディングは昭和14年竣工で、ガラス窓の配置が同年竣工の大阪中央郵便局となんとなく似ているような気がする。




《石原時計店》(竣工:大正4年2月、設計:眞水三橋建築事務所)、『近代建築画譜』より。大阪市南区心斎橋1丁目45ノ2。淀屋橋交差点でいつも見慣れていたはずの石原ビルディングのことを心に刻んだのは、大阪遊覧のガイドブックとしていつも重宝している、橋爪紳也監修、高岡伸一・三木学編著『大大阪モダン建築』(青幻社、2007年11月)がきっかけだった。昭和14年竣工の「石原ビルディング」は昭和11年刊の『近代建築画譜』には載っていないけれども、『大大阪モダン建築』で《日本におけるセセッション様式の代表作》と言及のあった、「石原ビルディング」と同じ経営の「石原時計店ビル」はもちろん掲載されている。モダン心斎橋!




そして、石原ビルディングをのぞむ交差点からちょっと土佐堀川の方を見やると、つい先ほど夢中になっていた朝日新聞社の建物が向こうの方に見えて、この視覚がいいな、いいなと思った。



寒気をしのぐべく地下に入って、北浜駅まで早歩き。年末の「天神橋筋商店街」を歩いてみたい! の一念で、わざわざ地下鉄に乗って、「天六」へと向かう。イソイソと堺筋線に乗りこむ。マルーン色の車体。堺筋線は阪急千里線が乗り入れているのだった。




天神橋で「渡辺節の近代大阪」。天神橋・京都間の「新京阪線」で、溝口健二の『浪華悲歌』をおもう。


堺筋線で「天六」(関西人は「天神橋筋六丁目」のことを「天六」と呼んでいる、ということを知ったのはつい最近。それがなんだかおもしろくって、以来、「天六」に遭遇するたびに妙に嬉しく、必要以上に「天六、天六」と心のなかで連発して悦に入っている。「谷九」「上六」も同様)で下車して、イソイソと地上に上がる。2年前の春休みの折、深い考えもなく、単に商店街を歩くのが好きで、「とにかく長い」ということで有名な「天神橋筋商店街」を一度歩いてみたかったので、南森町からのんびり北上してみたら、なんでもないような歩行がたいへんたのしかった(単なる「移動」がいつも大好き)。南森町から直進して到着の、天神橋筋六丁目駅は阪急が堺筋線に乗り入れていて、かつてはここが阪急電車の終着駅だったことをそのとき初めて知った。南森町からしばらくは古本屋めぐりがたのしい天神橋筋商店街を北上して、たどりついた先にあるいかにも古びている「阪急ファミリーストア」の建物がかつて阪急の終点、すなわちターミナル駅だったことを知り、「おっ」と大いに感興をそそられて、どれどれと見物してみると、一見どうってことのない「阪急ファミリーストア」の建物の細部のあちらこちらに「駅」の残骸を見出すことができて、「ああ、モダン大阪!」と思いがけないところで大興奮だった。あのときが、わたしが馬鹿の一つ覚えの「モダン大阪」に開眼した瞬間だった、と今となっては思う。


というわけで、天神橋筋商店街の終点の「阪急ファミリーストア」、すなわち、かつてはターミナル駅の建物だった、元「新京阪ビルディング」には愛着がたっぷり。ちょっと前から、近い将来に取り壊されると知って、ぜひとも見納めておきたいと思っていた。前回の夏休みは行き損ねてしまったので、今度こそはと行程的にちょっと無理をして、今回の関西遊覧の最終日に組み込んだ次第だった。というわけで、見納める気満々で、張り切って堺筋線を下車して、地上に出ると、「阪急ファミリーストア」の建物はまだ取り壊されていなかった。やれ嬉しや。




と、これがお目当ての「天六」の「阪急ファミリーストア」の建物。ただ古びているだけの一見どうってことのない建物だけれども、




戦前絵葉書《(大阪名所)新京阪電車乗場》。かつては絵葉書で華々しく紹介されている、モダン大阪の観光名所だった。浅草の松屋の東武ビルディングとおなじように、思いっきり補修を施されているとはいえまぎれもなく今も健在の近代建築。設計は、ダイビルや綿業会館でおなじみの渡辺節。奇しくも、安井武雄と渡辺節は明治17年の同年生まれ。彼らが体現するところの「近代大阪」のなんと魅惑的なこと!



モダン都市時代の代表的な建築家として、渡辺節は安井武雄と同様に『新建築』にさかんに登場している。発行所の「新建築社」が当時は大阪の堂ビルにあったこともあってか(東京事務所は神田区松富町)、関西の建築が東京と同じくらいの比重(やや上回る?)で紹介されているのが、関西遊覧愛好者としては嬉しいところ。その『新建築』第5巻第9号(昭和4年9月1日発行)で、渡辺節特集が組まれていて、わたしが馬鹿の一つ覚えの「モダン大阪」に開眼したきっかけとなった「新京阪ビルディング」も大々的に紹介されていて、大喜びだった。






《新京阪ビルディング(天六停車場) 大正十五年 渡辺節氏作》、『新建築』第5巻第9号より。絵葉書とほぼ同じアングルの写真のあとに、「側面」と「食堂休憩室」の写真が紹介されていて、いかにもモダーン。





《新京阪ビルディング》(竣工:大正15年6月、設計:渡辺節建築事務所)、『近代建築画譜』より。そして、毎度おなじみの『近代建築画譜』に掲載の写真。上掲の写真とアングルが変わっている。そして、完成直後を写したと思われる上掲の写真との一番の違いは、ビルの屋上のネオン看板が「新京阪電車」から「京阪」の二文字に変わり、正面に、京都嵐山への観光を宣伝する看板が掲げられているということ。



大正15年6月に竣工のあと、昭和4年9月発行の『新建築』と昭和11年9月初版の『近代建築画譜』の間に、「新京阪ビルディング」には何が起こったのか?


大正12年に京阪の子会社として発足した「新京阪」は、大不況の折の昭和5年9月、親会社の「京阪」に合併されているのだった。合併されるまでの間、もと「新京阪」だった路線はどんどん京都へと延びていって、昭和3年11月に高槻と京都西院間が開通。昭和3年という年は折しも御大典ブームのまっただ中だった。京都における御大典ブームとしてまっさきに思い出すのは、京都大丸の大拡張のこと。昭和3年は天野忠と藤井滋司が入社した年でもあるわけで、御大典ブームをとりまく京阪神モダン都市文化の形成、といったことにますます興味津々。そして、昭和5年の「新京阪」とその親会社「京阪」の合併を経て、昭和6年3月31日、「京阪の新京都線」の終点が西院から延びて「京阪京都駅」が竣工。同時に西院も地下駅となり、西院・京阪京都間は日本で2番目の地下鉄道となった(3番目が昭和8年の大阪地下鉄)。昭和6年3月に誕生の「京阪京都駅」は現在の大宮。溝口健二の『浪華悲歌』のロケ地として使用され、前回の関西遊覧時は、かつての京阪京都駅の面影が色濃く残る大宮駅に途中下車して大興奮していたものだった。懐かしいなア!


と、『近代建築画譜』掲載の「新京阪ビルディング」の写真当時、『浪華悲歌』のロケ地の「京阪京都駅」から「天神橋駅」まで京阪電車の「新京阪線」が運行していたわけで、話はむやみやたらに夢中の、溝口健二『浪華悲歌』(昭和11年5月28日封切・第一映画)へとつながるのだった。ああ浪華悲歌! と、ひさしぶりに DVD を再生、関西遊覧の度に『浪華悲歌』を見直して、そのたびにいつも大はしゃぎ。モダン関西探索者にとって、『浪華悲歌』のよろこびは尽きることがない。





溝口健二『浪華悲歌』(昭和11年5月28日封切・第一映画)より。大阪市内を「地下鉄」で移動する山田五十鈴だけれども、映画のなかで使われているのは実は、昭和18年に現在の阪急に合併される新京阪の車両。マニアックに追究すると、これは「P-6」という車両らしい。





吉岡照雄『阪急P-6 ―つばめを抜いた韋駄天―』RM LIBRARY 110(ネコ・パブリッシング、2008年10月)。『浪華悲歌』に登場する「P-6」について何か参考文献はないかしらと、軽い気持ちで足を踏み入れた書泉グランデ最上階の鉄道コーナーで発見して、こんな本があったなんて! と興奮にあまり思わず買ってしまい、とりあえず書斎の「関西モダニズム」コーナー(らしきところ)に押し込んだままだったのだけど、ひさしぶりに取り出して、あらためて「P-6」の名前を心に刻むのであった。同書の巻頭にある「新京阪鉄道とP‐6」は、

 第一次世界大戦が終わった大正中期―1920年代の日本では電鉄ブームが起こり、とりわけ京阪電気鉄道の動きは活発を極め、対岸の淀川西岸に鉄道の敷設を目論み、1922(大正11)年子会社として新京阪電気鉄道を設立した。
 この新京阪は、1918(大正7)年の設立で十三〜淡路〜千里山9.2kmを開業し、さらに淡路〜天神橋筋六丁目の敷設免許を持っていた北大阪電気鉄道を合併のうえ、大阪天神橋〜京都大宮間の敷設を始めた。

という一節ではじまる。現在阪急京都線としておなじみの路線はもとは京阪電車の子会社新京阪の路線で、昭和18年10月に国策により阪急と京阪が合併し、戦後の昭和24年12月に《淀川東岸の京阪線が分離されて京阪電気鉄道が発足する。もとの新京阪線は京阪神急行路線となった》。そして、昭和48年4月1日に「京阪神急行電鉄」は社名を「阪急電鉄」に変更、「P-6」車両はその一週間前に廃車となっている。Wikipedia によると、「P-6」の車体はかつて「宝塚ファミリーランドのりもの館」というところに展示されていたとのことで、宝塚ファミリーランドが健在だったら、モダン関西探索の一環でぜひとも見に行ってみたかった!





《沿線御案内 京阪電車》。関西遊覧のあとさきの恒例行事となっている、戦前の沿線案内蒐集。ボロボロの今にも破れそうな一枚の紙面が現在手元にある。




上掲沿線案内より、天神橋駅付近を拡大。長らく天満橋が始発駅だった現在の京阪電車と、天神橋から現在の大宮(当時は「京阪京都駅」)を結ぶ「新京阪線」(十三・淡路間は「十三線」)、すなわち現在は阪急の路線が、同じ沿線案内に掲載されている。




淀川の西岸を走る「新京阪」と東岸を走る「京阪」。現在は京阪と阪急でまったく別の会社のライバル路線がかつては同じ経営下だったというのはちょっと不思議な感じがする。





「ヨシモト」創刊号(第1巻第1号・昭和10年8月5日発行)。溝口の『浪華悲歌』の同時代の「モダン関西」資料としての「ヨシモト」。田村孝之介の表紙がおしゃれ! そして裏表紙は「京阪電車」の広告。《日本一早い電車 燕よりも早い京阪特急 京都大阪間三十四分》のあとに、《京阪地方の御遊覧には 極力御便宜を御計り 致します。御問合は 大阪天六京阪電車運輸課》とある。



そんなこんなで、大正14年10月に「新京阪鉄道」の淡路・天神橋間が開通して、翌年の大正15年6月に「新京阪ビルディング」が竣工、7階建てのビルの2階部分が「天神橋駅」のホームとなっていた(5階と6階に京阪の本社が置かれていたので、名実ともに京阪の中心地)。日本初のターミナルビルだった。「大大阪」の成立は大正14年4月1日だから、「新京阪鉄道」の淡路・天神橋間の開通も「大大阪」に連動した動きだったというわけで、昨日来訪の上本町の「大軌」同様に、「大大阪」成立にともなう鉄道会社における諸相といったものが、面白いなあとしみじみ感嘆なのだった。大軌ビルディングの竣工は大正15年8月なので、新京阪ビルディングとまさに同時期! のちに近鉄と密接な関係を築く村野藤吾は、当時、新京阪ビルディングの設計を請け負った渡辺節の事務所に勤めていた。新京阪ビルディングに村野藤吾はどれくらい関わったのかな(村野は昭和4年に独立)。


淀屋橋界隈で、「安井武雄の近代大阪」を満喫したあとは、安井と同年生まれの「渡辺節の近代大阪」だ! というわけで、イソイソと「天六」までやってきたというのに、近代建築というよりも関西私鉄の方に心奪われる恰好となってしまった。とにもかくにも、わたしが馬鹿の一つ覚えの「モダン大阪」に開眼したきっかけとなった天六ビルをきちんと見納めなければいけない。というわけで、とりあえず、建物の周りをぐるっと一周。




さて、現在の「阪急天六ビル」。建物の右側、「阪急ファミリーストア」の脇を通って裏手にまわってみると、いかにも電車のホームの残骸! 昭和39年のオリンピックを機に東京が大改造したのと同様に、昭和45年の万博で大阪の都市は大きく変貌した。堺筋線の開通は昭和44年12月6日(天六・動物園前間)、開通と同時に阪急千里線が地下鉄に乗り入れることになり、阪急千里線の天六駅も地下鉄の開通と同時に地下駅となったことで、「阪急天六ビル」の地上駅は廃止された(同時に駅名が「天神橋」から「天神橋筋六丁目」となる)。




ビルの外壁のもとは電車のホームだったコンクリート部分にからまった蔦が歳月を物語る。




見上げると、実は窓の配置がそこはかとなくモダーン!




初日の阪神間遊覧の折に使用した戦前の阪神電車の沿線案内より、天神橋附近を拡大。春先の関西遊覧の折、中津を歩いて大はしゃぎしていた折に、何とはなしに心に刻んだのが、かつて中津の路上を走っていた路面電車、「阪神北大阪線」のこと。Wikipedia で知ったところによると、北大阪線と同じ道路の野田阪神前と中津間を大阪市営バスが走っているという。1日目の阪神間遊覧の際に心に刻んだ「阪神国道線」と同様に、かつての路面電車に思いを馳せながらバスに乗る、ということを、今後の関西遊覧で実行してみたいなと思う。



正午前、天神橋筋商店街を南森町に向かって、のんびり歩く。大つごもりの商店街を歩くだけで、ずいぶんたのしい。天神橋筋商店街を歩くときはいつも南森町から北上していて、天神橋からくだるのは今日が初めて。寒いなかをずっと屋外ではしゃいでいたので、ちょいとくたびれた。しばし、ドトールでひと休み。この商店街を歩くとき、いつもこのドトールに入っている。いつも疲れたなと思うと、ちょうどこのドトールが視界に入るのだった。そのつもりはないのに、関西遊覧の行きつけになりつつある天神橋筋のドトール。南森町に近づくに従って、商店街がだんだん静かになってきて、あわよくばと思っていた古本屋はみんなお正月休みの真っ最中で、残念であった(次回こそは……)。




淀屋橋の地下鉄ホームで小野十三郎をおもう。京阪電車にのって、大つごもりの京都へ。


懸案の「阪急天六ビル」の見納めが無事に済んで、もう何も思い残すことはない。このあとは、日没後の京都から新幹線で帰京という段取り。行程的には堺筋線に乗って淡路で阪急京都線に乗り換えればよいのだけれども、このところずっと乗り逃している京阪電車に今回こそはどうしても乗りたかった。そういうわけで、ふたたび淀屋橋へ行かねばならぬのだった。南森町から谷町線で東梅田に出て、梅田から御堂筋線で淀屋橋に至るというコースをたどる。




今回あまりゆっくり見物できなかった大阪地下鉄だけれども、最後の最後、心ゆくまで御堂筋線の淀屋橋のホームを満喫。いつだって、大阪の地下鉄はこんなにもモダーン! と、しょうこりもなくうっとり。




戦前絵葉書《(大阪名所)地下鉄道》。淀屋橋の地下鉄ホームを写している。かまぼこ状の天井が今とまったくおんなじ!



師走はなにかと散財続き。とある古書肆の目録では、前々からの念願だった小野十三郎の詩集をえいっと勇気を出して注文して、無事に入手することができて、感無量だった。





小野十三郎『詩集 大阪』(赤塚書房、昭和14年4月16日)。装幀:菊岡久利。届いたとたんに宝物の1冊。そろりそろりとページを繰ると、紙といい活字といい、詩集としてのたたずまいがすばらしくて、造本や刊行の年月をすべて含んだ「初版本」というかたちで読むことで、初めて「詩」として完結するということが骨身にしみて、よくわかった。それくらいに見事な造本。装釘者が菊岡久利である、ということからして、完璧。




小野十三郎『詩集 大阪』(創元社、昭和28年6月30日)。装幀:中村眞。赤塚書房版の『大阪』に魅了されるあまりに、戦後の増補改訂版も欲しくなり、あわてて買い足した。

私がこの詩集の第一部をなす作品を、最初に同じく「大阪」という題の下にまとめて世に問うたのは、いまから十四年昔、昭和十四年である。私にとってはいろいろ想い出のある詩集だ。第二部は、それから四年後、昭和十八年に出した「風景詩抄」が骨子になっている。これは続「大阪」とも云ってよい。以上を戦争前の大阪だとすれば、第三部は大体戦後の大阪で、昭和二十二年に相前後して出した二つの詩集「大海辺」と「抒情詩集」から、この本の構想に適わしい作品をピックアップし、それに若干の未発表の作品を加えた。

というふうに、小野十三郎があとがきに記している。




創元社版『大阪』収録の写真のうち1枚。創元社版『大阪』には「丹平写真倶楽部」のメンバー、河野徹の写真が数枚挿入されていて、小野十三郎の詩と掲載の写真の工場の煙や鉄塔などが体現するところの「大阪」がしみじみ琴線に触れるのだった。





丹平写真倶楽部発行『写真画集 光』(昭和15年6月10日発行)。『光』は創元社版『大阪』と同じく、中村眞による装釘であることにも注目であった。手持ちの本は、国書刊行会の復刻版「日本写真史の至宝」シリーズの1冊(2006年6月発行)。帯もしっかり再現されている。




丹平写真倶楽部『光』掲載の河野徹撮影の写真、全4枚のうちの1枚、《示威》(昭和13年10月撮影)。小野十三郎と丹平写真倶楽部の人物誌の交錯について、追々追究していきたいなと思っている。



……などと、小野十三郎の『大阪』を入手したことで、丹平写真倶楽部やらなにやら、話はとめどなくつながってゆき、胸は躍るばかりなのだけれども、淀屋橋の地下鉄ホームで思い出づるは、小野十三郎の「九つの地下の停車場に」という一篇の詩のこと。


《大阪の
九つの地下の停車場に
朝早くから煌々と電気がついている。
どこかで勢いよく
ホースの水をまいているが
まだだれも階段を降りてくるものはない。

北の方のある停車場は
その上をながれる夜明けの大川の音がきこえるほどしずかだ。
長い長い夜のように
大阪の九つの停車場に
電気がついている。》


「九つの地下の停車場に」は、昭和28年の増補版『大阪』の方に収録されているので、赤塚書房の昭和14年と創元社の昭和28年の間の作品。大阪の地下鉄が「九つの地下の停車場」だった時期を確認せずにはいられない。昭和8年に梅田・心斎橋間で開通した当初は、本町と淀屋橋と合わせて、大阪の地下の停車場は4つだった。昭和10年に難波が加わり5つに、昭和13年に大国町、動物園前、天王寺が加わり全部で8つの停車場になったところで、敗戦をはさんで、「九つの地下の停車場」となるのは昭和26年12月20日に昭和町まで開通したとき。翌27年10月5日に西田辺まで開通したことで、大阪の地下の停車場は10個になってしまうから、小野十三郎の「九つの地下の停車場に」は昭和26年12月20日から昭和27年10月5日の間に作られた詩なのだった。



「北の方のある停車場」の淀屋橋で、小野十三郎の「九つの地下の停車場」を胸のなかで反芻したところで、イソイソと京阪電車の乗場へと移動。ひさしぶりの京阪電車はなにがなんでも二階建て車両(の二階)に乗りたい! という一念のもと、ホームへ小走り。次の電車までちょっとばかり時間があったので、あたりを散歩していると、「京阪百貨店」のポスターが視界に入って、「おっ」としばし立ちどまる。




早川良雄《京阪百貨店ポスター 2009》、図録『早川良雄―“顔”と“形状”―』(東京国立近代美術館、2010年)より。後日の話になるけれども、年明けの竹橋の美術館でおおつごもりの淀屋橋で遭遇したポスターの原画を目の当たりにして、ワオ! と興奮だった。展覧会もすばらしかった。大阪工芸高校出身の早川良雄を通した「近代大阪」ないしは戦後関西(近鉄百貨店、鴨居羊子、神戸の喫茶店「G線」等々)が実におもしろく、ますます関西探索への思いがつのった。



出町柳行きの京阪特急の2階建て車両に無事乗り込んで、大願成就の大つごもりの午後。無事に2階建て車両に乗ることができて、こんなに嬉しいことはないと、ふつふつと感激にひたりながら、車窓眺めてのんびり京都に向かう。淀屋橋を出た京阪電車は天満橋まで地下鉄で、京橋から地上に出る。地上に出た瞬間、車窓には大阪城が見えて、昨日のお濠端の歩行を思い出して、つい前日のことなのに遠い昔のことのように感じ、「さらば大阪」とちょっと感傷的な気持ちにすらなる。大阪から京都に向かう際、阪急電車の梅田の大ターミナル、淀川を渡る瞬間と十三までの並走が涙が出るくらいにすばらしいけれども、京阪電車が地上に出る瞬間も実にすばらしいのだった。どちらか1本を選ばなければならないということに本気で悩んでしまいくらい。すばらしき関西私鉄! と、あらためて胸を熱くする。




『京阪』昭和8年12月1日発行。京阪電気鉄道株式会社発行。正午前に思いを馳せていた、天神橋筋6丁目のターミナルビルの5階と6階の事務所からはこんなにモダーンな広報誌が発行されていた! 南座の顔見世にちなんだ表紙。




『京阪』同号の裏表紙の広告はおなじみクラブ化粧品。この小冊子の印刷を請け負っていたのがプラトン社(大阪市西区江戸堀南通二)。手持ちの大阪道頓堀の「松竹座ニュース」(昭和10年発行)の印刷所がプラトン社であるということがずっと印象に残っていたのだけれども、『京阪』の印刷も請け負っていたなんて! 出版活動を停止してからも印刷会社として存続していた「プラトン社」。その印刷の結果としての小冊子もいかにも「関西モダニズム」なのだった。




『京阪』同号の見返しは、前年の昭和7年に開店したばかりの「京阪デパート」の広告。




《京阪電気鉄道株式会社天満橋駅》(竣工:昭和7年3月、設計:同社工務課)、『近代建築画譜』より。大阪市東区天満橋橋畔。昭和38年に淀屋橋駅が開設されるまで、長らく天満橋が京阪電車の終着駅だった。竣工当時、天満橋は「京阪デパート」を有するターミナル駅だった。淀屋橋への延長と同時に天満橋は地下駅となった。




ちょうど4年前の2005年の年の瀬、出町柳から大阪に向かうときに京阪電車に乗った。断片的にしか乗ったことのなかった京阪電車に長時間乗ったのはそのときが初めてだった。京都から大阪に向かっているとき、伏見から大阪に至る淀川沿いを走ったり、「中書島」という駅名があることに気づいたとたん、頭のなかは落語の『三十石』一色になって、むやみやたらに大興奮だった(追加料金なしで快適なボックスシートというのも嬉しかった)。阪急、阪神に引き続いて、わたしが馬鹿の一つ覚えの「すばらしき関西私鉄」に本格的に開眼したのはあのときだったと今となっては思う。


そんなわけで、ひさしぶりの京阪電車が嬉しい。いつものように居眠りすることなく、愛用の『日本鉄道旅行地図帳 10号 大阪』(新潮社)の地図を参照しながら、心ゆくまで車窓を満喫して、大はしゃぎ。




「ヨシモト」に掲載の京阪電車の広告、《ひらかた菊人形 名實ともに日本一》、昭和10年10月5日発行号(第1巻第3号)より。



『鉄道旅行地図帳』の地図を見ていると、木津川と宇治川が淀川に合流する地点に大いに感興が湧いて、そしていつか八幡から「男山ケーブル」というのに乗ってみたいなアと、将来の遊覧のたのしみがどんどん増えてゆく。そして、八幡市の次は淀。淀といえば、淀競馬場! 上掲の京阪電車の広報誌『京阪』にも競馬場の記事が大々的に紹介されていたけれども、昭和8年12月発行当時は安井武雄設計の競馬場はまだ出来上がっていなかった。




《京都競馬場 1937-38年 安井武雄 馬見所を西側より見る》、山口廣『自由様式への道 建築家安井武雄伝』(南洋堂出版、1984年9月20日)より。





丹平写真倶楽部『光』より、小泉覺之助《蠅》。




『日本鉄道旅行地図帳』を眺めながら、京阪電車二階建て車両乗車を心ゆくまで満喫しながらも、大津方面にも行ってみたいなとか将来の遊覧計画がますますふくれあがって、収拾がつかない。と、そんなことをしているうちに、京阪電車は三条に到着、ここで下車して各駅停車で一駅、丸太町で下車。京阪電車を心ゆくまで満喫できて、京阪神の「移動」はなぜこうもたのしいのだろうと、馬鹿の一つ覚えの「すばらしき関西私鉄」のよろこびに思う存分ひたって、ああもうなんてたのしいのだろう! 早くも次回の関西遊覧が待ち遠しいのだった。




京阪電車の最大の「売り」のひとつは四条大橋の南座だった。上掲『京阪』(昭和8年12月1日発行)より《南座の顔見世》。吉右衛門の清正、幸四郎と魁車の『大森彦七』、梅幸の『土蜘』、猿之助の三番叟、福助の『河庄』の写真が並ぶなか、わたしが一番見たいのはダントツで、左團次の乃木将軍だ!





戦前の京阪電車の沿線案内(上掲)より、京都附近を拡大。新京阪の終点は、現在の大宮の「京阪京都」。京阪間の開通は明治43年、京都の最初のターミナル駅は五条で、大正4年10月に四条と三条が開通したことで、三条が終着駅となった。一方、現在の「京阪京津線」が大正元年に開通していて、三条大橋駅が起点。三条大橋は1997年に廃止されて、現在の京阪京津線の始発駅は御陵。京阪で大津、近鉄で奈良や三重など、『日本鉄道旅行地図帳』を繰ると、関西遊覧の展望がどんどん開けて、まったくもって収拾がつかない!





河野鷹思、ポスター《名勝の近江へ》、滋賀県観光協会、1935年。京阪電車の路線図で近江観光に大いに誘われていたところで、かねてから鮮やかに記憶に残っていた河野鷹思の近江の観光ポスターのことを思い出した。帰宅後、まっさきに愛蔵の『青春図絵 河野鷹思初期作品集』(河野鷹思デザイン資料室発行、2000年7月14日)を繰って、うっとり。





しつこく、上掲の広報誌『京阪』(昭和8年12月1日発行)より。裏表紙の見返しより、《心斎橋つるや前 京阪案内所》。現在の「京阪電車」と「阪急京都線」を経営していた上に宇治、琵琶湖まで路線が伸びる京阪電車は観光名所には事欠かない。大阪歌舞伎座や南座の芝居見物、愛宕山をはじめとする沿線のスキー場、桂のダンスホール、淀の競馬場、岡崎の京都美術館……。この広告の心斎橋の「京阪案内所」のかもしだす「モダン京阪神生活」を胸に、これからも折に触れて、関西遊覧に出かけたいのだった。



大つごもりの京都町歩き。かぎや洋菓子店で「鎰屋菓子舗」の宇野浩二をおもう。


午後2時50分、大つごもりの丸太町橋から下鴨神社方面をのぞむ。




写真に写らないけれども、青空の下でかすかにパラパラと粉雪が舞っていて、ちょっと幻想的な美しさだった。



鴨川を渡って、御所に向かって直進。丸太町交差点を渡って河原町通を右折してちょいと北上して、荒神口の地名を見たところでドキドキしながら歩を進めてみると、やれ嬉しや、目当ての「かぎや洋菓子店」が大つごもりでも営業中だった。大よろこびで店内に足を踏み入れて、「レモンケーキ」とコーヒーで休憩する。観光客の身ではあるけれども、ふだんづかいの場所を訪れるのが一番たのしい。カウンター席の煉瓦の感じがそこはかとなく洒落ていて、嬉しい。コーヒーをすすりながらの休憩中も、近所の人びと何度か買い物に訪れていて、いいな、いいなと「京都の日常」気分にひたる。


「かぎや洋菓子店」なるお店を知ったのは、梶井基次郎の『檸檬』に登場する寺町通りの「鎰屋菓子舗」のことを追究していた折のこと。現在は存在しない「鎰屋菓子舗」だけれども、「かぎや」の名前がつくお菓子屋さんが和洋問わず、何軒か京都で営業中であることを知った。京都来訪のたびに1軒ずつ巡ってみようかなとぼんやりと思ったところで、今回の冬休みは「かぎや洋菓子店」。「鎰屋菓子舗」で修行していた創業者が考案したのが「レモンケーキ」、梶井基次郎の『檸檬』にちなんでいるというがいいではありませんか! と愛らしくて素朴な味わいの「レモンケーキ」がさっそく気に入ってしまって、お土産をみつくろって、30分後、機嫌よく外に出て、寺町通りへ向って、大つごもりの京都をそぞろ歩き。




「鎰屋菓子舗(京都二條寺町)」、『新建築』昭和2年10月1日発行(第3巻第10号)所載、新名種夫『商店建築印象記』より。




「鎰屋菓子舗」、『時世粧』第3号(昭和10年10月15月発行)口絵より。

 『時世粧』の第三號のグラフを、一頁からゆつくり繰ってゆくと、三頁に次ぎのやうな詩を見出した。

   黄玉[トパアズ]の露のしづくを?
   いいえ 奥さん
   鎰屋のささ舟は
   あなたのお口へ
   美味を運ぶ

             堀 口 大 學

この詩に寫眞が附いてゐる。古い見覺えのある鎰屋の窓際に、切子硝子の菓子皿に多分この詩にある「ささ舟」が盛られてある。それと竝んで多分常夏の鉢植が置いてある。若しこれが私の見違ひでなければ、私は次ぎのやうな歌を思ひ出す。
    塵をだにすゑじとぞ思ふ咲きしより妹とわがぬるとこなつの花
 私が「古い見覺えのある」と書いたのは、私がこの京都の鎰屋の存在を初めて知つた今から二十三年前の秋、この寺町二條角にある鎰屋に、黒谷の友人の寓居から友人と毎晩ほど通つて、菓子を食ひ紅茶を飲みながら、鎰屋の窓から寺町通を眺めながら、青春と詩を飽きず語つたことがあるからである。


【宇野浩二『秋の京都の思ひ出』-「時世粧」第4号(昭和10年10月15日発行)初出、臼井喜之介編『随筆京都』(ウスイ書房、昭和16年11月5日)に収録】

丸太町通を左折して寺町通を歩く。「鎰屋菓子舗」のあった時代を今でも鮮やかに実感できる気がする寺町通のたたずまいがいつも大好きだ。左手に一保堂が見えたら、三月書房はすぐそこ。今年は大つごもりの三月書房来訪が実現して、こんなに嬉しいことはない。いつものように選択に難儀しつつも3冊ほどみつくろって、外に出る。向かいの村上開新堂は夏休みに引き続いて、今回も休業日で残念なり。しかしわたしには「かぎや洋菓子店」のレモンケーキがある! と気を取り直したあとで、このあたりに「鎰屋菓子舗」があったのだなと、右手のコンビニエンスストアの建物を見上げたところでかつて「八百卯」があったところでちょっと立ちどまる。19歳のときの京都散歩の折にここの2階でフルーツポンチを食べたことを思い出す。京都でもっとも好きな瞬間のひとつが、この十字路に立った瞬間。


かぎや洋菓子店から寺町通へ至る歩行では、京都の町ならではの静謐さを心ゆくまで満喫。三条から四条からは、大つごもりの活況を呈する繁華街の京都。三条でのそんな転換がたのしかった。と、三条で急にエンジンがかかって、このあとは買い物に邁進。お年賀の和菓子をみつくろったり、錦小路で自宅のお正月の食料品調達も土壇場で済ませる。


……と、京都で正月の買い物にいそしんでいるうちに、すっかり日が暮れてしまった。すべて万事抜かりなく終了し、達成感。あとは無事に家に帰るだけ、となったところで、新京極スタンドへ行き、正真正銘今年最後の忘年会。ハイボールをグビグビ飲んで、三月書房でちょうだいした編集工房ノアの「海鳴り」を繰っているうちに、午後7時の新幹線の時間が刻一刻と近づいている。スタンドはますますたくさんの人でにぎわっている。前のテーブルに座っている老夫婦は深夜八坂神社へ初詣に行くのだそうだ。




三月書房で買った本のうちの1冊、杉山平一『巡航船』(編集工房ノア、2009年11月2日)の本体表紙の杉山平一の描く中之島界隈。3年前とおなじく、大つごもりの三月書房では杉山平一。