読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

冬休み関西遊覧その2:後藤明生『しんとく問答』片手に大阪めぐり。

午前8時外出。早々に地下に入り、「ドージマ地下街」をテクテク歩いて梅田へ向かう。道順はよく覚えていないのに、適当に歩いているといつもなんとなくたどりついてしまう、梅田地下のとある喫茶店にてモーニングセットを食べる。何年か前にほんのゆきがかりで食べたこのお店のモーニングが一見どうってことがないのに妙に気に入ってしまっていて、今回の2泊の関西遊覧、2回の朝食のうち1回はホテルの朝食をキャンセルして、ひさびさに梅田の地下街の喫茶店に行ってみたくなった。喫茶店のモーニングとホテルの朝食、両極的にいずれも旅行中ならではの非日常、ふだん朝食を外食にすることは皆無なのでいずれも旅行中ならではのおたのしみ……などと、梅田の地下の喫茶店(店名も正確な場所もいまだに把握していない)で、朝っぱらから上機嫌。




寺島珠雄『私の大阪地図』(たいまつ社、1977年8月10日)。挿画:野尻賢司。

 私は西梅田駅をよく利用するし、地下鉄に乗らないでもドージマ地下街から大阪駅への通路を歩くこともある。その度に何か一つ、ときには二つ三つも工事中の思い出が浮かんでくるのは、もう条件反射な恒例だ。
 たとえば桜橋交叉点の東海銀行前へ出る階段では、防潮扉の上部枠の五ミリとはない隙間をモルタルで充填する作業があった。長さは三メートルぐらいか。モルタルの所要量にしたらバケツ一杯かそこらだが、いやそんな程度だからこそ、はっきり言えば阿呆らしい、しかしやらねばならない。……

西梅田駅工事の現場に通っていた寺島珠雄。四つ橋線の開通は昭和40年10月1月。ドージマ地下街の四つ橋線の西梅田駅あたりを歩くと、いつも寺島珠雄の『私の大阪地図』のことを思い出す。もう条件反射な恒例だ!


糸屋町を歩いて宇野浩二をおもう。大手前で『警視庁物語』に思いを馳せて、JOBK に至る。


午前9時。東梅田から谷町線にのって、谷町四丁目で下車。地上に出ると、ツンと澄んだ冬の朝の空気が頬に心地よい。閑散とした休日のオフィス街の朝が好きだ。愛用の『でっか字まっぷ 大阪24区』(昭文社刊)をコートのポケットにしのばせて、方角を間違えないようによく確認したあとで、まずは糸屋町へと向かう。




谷町筋を北上してほどなくして左手に、糸屋町1丁目に入る通りがある。町名表示の札で「糸屋町」の文字を目の当たりにしただけで、もう大喜び。糸屋町といえば、宇野浩二が宗右衛門町へ引っ越すまで住んでいた場所(明治28年から32年まで)。宇野浩二は明治30年に陸軍偕行社附属尋常高等小学校(現・追手門学院小学校)に入学、糸屋町から大手前までテクテクと通学していた、というわけで、明治の宇野少年と同じ道を歩いて、糸屋町から大手前へ歩く、ということをしてみたいなと何年も前から思っていたのだった。念願かなってやれ嬉しや。とりあえずは、無事に糸屋町にたどりついた。




宇野浩二『遠方の思出』(昭和書房、昭和16年5月20日)の函。装釘:鍋井克之。

 私の家のあった糸屋町と並行して、大手通と云う大阪城の大手門に通じる町があった。この二つの町は、東西に延びていて、糸屋町は南側、大手通は北側、糸屋町と大手通の間は半町程あった。私の家は糸屋町の御祓筋、私の級友の一人である永井の家は大手筋の御祓筋にあったので、私の家から彼の家までは子供の足で五分もかからなかった。彼の父は『元寇』『雪の進軍』、など作詞作曲した、永井建子で、当時、陸軍軍楽隊の楽長であった。

谷町筋から左折して糸屋町に入り、しばらく直進すると、その宇野浩二が住んでいた「糸屋町の御祓筋」に出る。その先に中大江公園がある。




愛用の『でっか字まっぷ 大阪24区』の「農人橋」のページにある中大江公園にはかねてより「宇野浩二」と大きくメモして、いつの日か実際に歩いてみたいなと思っていたものだった。しつこいようだが、念願かなってやれ嬉しや。中大江公園をミシミシと踏みしめながら、ふつふつと嬉しい。そして、すぐさま宇野浩二の文学碑を見つけて、突進。
《私は私の過去の小さい生活
を思ひ浮べる時 その何處ま
てが眞實で その何處からが
私の夢であるかを判ずる事が
出來ない
 さういふ私は 凡ての事實
を夢と見る事が出來  凡て
の夢を事實と見ることが出來
る様に 思はれる

宇野浩二
 「清二郎 夢見る子」より》
念願の文学碑を目の当たりにすることができて、さらにふつふつと嬉しい。
 



そして、宇野浩二文学碑の向こう側の道路沿いには教会が! 後藤明生の『しんとく問答』(講談社、1995年10月)所収の『十七枚の写真』(初出:「群像」1992年5月号)そのまんまに、宇野浩二の文学碑の向こう側には教会の礼拝堂が! と興奮。



宇野浩二文学散歩と言いながら、ここ糸屋町までやって来たのは、実のところ、後藤明生の『しんとく問答』の真似をしていたのだった(上掲の『遠方の思出』からの抜き書きも『しんとく問答』の真似)。




後藤明生『しんとく問答』(講談社、1995年10月16日)。装釘:田村義也。このなかの一篇『十七枚の写真』でかねてより愛読の宇野浩二の文学碑のことを初めて知って、わたしも後藤明生の真似をして、この界隈を歩きたいなとかねがね思っていた。でもなかなか実現の機会がなくて、『でっか字まっぷ 大阪24区』片手に『しんとく問答』を何度も読み返して気晴らしして、そのたびに胸躍らせていたものだった。



……というような次第で、冬休み関西遊覧2日目のテーマは、後藤明生『しんとく問答』ごっこ、なのだった。書きこみでいっぱいの『でっか字まっぷ 大阪24区』をコートのポケットにしのばせての大阪町歩きは始まったばかり。中大江公園を後にして谷町筋に戻って、ちょいと北上。このまま直進すれば天満橋なのだなと位置を確認したところで、谷町筋を横断して、大阪府庁の裏手あたりに出る。




偶然、「司法書士センター」なる通りを目の当たりにして、思わず撮影した写真。この写真だとあんまり雰囲気が伝わってこないのだけど、軒を連ねる司法書士事務所の古い建物がなんだかキッチュで、頭のなかに突然、松鶴の『代書屋』が鳴り響いて、大はしゃぎだった。こんなところで突然上方落語気分が盛り上がるとは思わなんだ。 


ここに司法書士事務所が軒を連ねているのは、大阪府庁の裏手の谷町筋沿いに大阪法務局があるためだった。うむ、なるほど、このあたりは東京でいえば東京法務局のある九段にあたるらしいと勝手に納得したところで、大阪府庁の正面に出た。





大正15年竣工の大阪府庁は大阪城を眼前に今も健在。大阪府庁の目の前は大阪城公園のお濠。『しんとく問答』にあった宇野浩二の通学路をたどって追手門学院へ歩くのはサボって、府庁前の道路を横断して、お濠沿いをテクテクと追手門学院とは逆方向へくだってゆく。前回のガスビル食堂で昭和6年再建の大阪城は「モダン大阪」のシンボルだ! と身をもって実感したことで、ますます大阪城に愛着が湧いている。左手遠方に外濠越しに大阪城を見やりながら、いい気分。



ほどなくして、右手には大阪府警本部。東京に置き換えると、ここはそのまんま桜田門だ。皇居のお濠を目の前に控える警視庁と、府警本部は立地の雰囲気がまったくおんなじ!  などと思ったところで、頭のなかは『警視庁物語 深夜便一三〇列車』(昭和35年1月封切・東映)のことでいっぱいになる。添え物映画でロケ地は東京がほとんどの「警視庁物語」シリーズのなかにあって、『深夜便一三〇列車』においては東京と大阪の両方で捜査が敢行(東京と大阪の両方でロケ)、東京の「警視庁」と大阪の「府警」を舞台にしていて、同シリーズのなかでは上映時間も長め。




飯塚増一監督『警視庁物語 深夜便一三〇列車』(昭和35年1月封切・東映)より、府警本部。今は真新しい府警本部がそびえたっているのだけれど、わたしのなかでは『警視庁物語』のみを通して、こっちの府警本部の建物の方に愛着がある。関西のみで放映の『部長刑事』という刑事ドラマ(大阪ガス提供)で、関西人にとってはおなじみの建物、と小耳にはさんだことがあるけれども、わたしは詳らかでない。




おなじく、『警視庁物語 深夜便一三〇列車』より。警視庁より花沢徳衛が派遣されて、府警本部の加藤嘉と山茶花究と対面。花沢徳衛と山茶花究は研修所で顔馴染、ひさしぶりの対面となった。奇遇だなあと3人和やかに対面。




府警本部の加藤嘉のデスクの背後には大阪城。




一方、東京では捜査本部は愛宕署におかれていて、窓からは東京タワー。警視庁と府警本部が登場する『警視庁物語 深夜便一三〇列車』。それぞれの窓からは「東京タワー」と「大阪城」という一目で東京と大阪だと判別できる仕掛けになっている。事件の発端が貨物駅の汐留駅だったので、捜査本部は愛宕署におかれた。東京の貨物駅の汐留駅と隅田川駅、大阪は天王寺駅と梅田貨物駅というふうに、「警視庁」と「府警本部」、「東京タワー」と「大阪城」とおなじように、貨物駅でも「東京」と「大阪」がパラレルにスクリーンに登場していて、実におもしろいのだった。



……などと、府警本部を横目に『警視庁物語』を思い出して感興にひたりつつ直進、馬場町の交差点になる。




馬場町の交差点の先にはだだっ広い空き地がある。ここにかつて、大阪放送会館、すなわち JOBK の建物があったのだなあと胸がいっぱいになる。「JOBK」の「BK」を「馬場町の角」というふうにしている一節をなにかの本で読んだ記憶がある(「JO」は JAPAN OSAKA)。あ、本当に馬場町の角だ! となんだかとっても嬉しかった瞬間。





《大阪放送会館》(起工:昭和9年2月)、『近代建築画譜』より。『近代建築画譜』刊行の昭和11年の時点では「工事中」。

 瓦屋町から地蔵坂を上って中寺に入る。ここも寺の多い町だ。谷町筋をこえ、さらに東の上町筋にでる。ここは南区と天王寺区の境界になっている。北上して、長堀通、中央大通をすぎ、大阪城の外濠に近い馬場町の角に大阪放送会館がある。一九三五年、渡辺仁建築事務所の設計である。三〇年代の、より機能的で装飾が節約されたデザインで、垂直線が強調されている。角を落として、そこを正面にしており、全体は、台形のような平面になっている。正面はややくぼめられ、凹面をなしていて、上部に飾りがついているところがしゃれている。
 ところで、古い地図で見ると、放送局はもとは、この上町筋をずっと南に行った上本町九丁目の天王寺区役所のとなりにあったようだ。大阪でラジオ放送がはじまったのは一九二五年で、三越の屋上から放送されたという。一九二六年には上本町九丁目に放送局がつくられ、本放送が開始された。出力一キロワットで、三十マイル(約四十八キロ)まで鉱石ラジオで聞くことができた。
 三越、上本町九丁目、馬場町という一九二五年から三五年にいたる放送局の移動のうちに、大阪のモダン都市の形成の様子を見ることができる。はじめは、いろいろな公的な機関を分散的に配置しているが、三〇年代に入ると、しだいに大阪城を中心とする区画はそれらを集中していく傾向が見られるのである。この区画はもともと歩兵連隊などのあるところであったが、やがて府庁舎、放送局などがつくられる。その時期がちょうど日本が戦争に向かいつつある時期と重なっているのは、偶然かどうかわからないが、ともかく放送という宣伝メディアの役割は極めて大きくなっていたのであった。


【海野弘『モダン・シティふたたび』(創元社、昭和62年6月1日)より「ラジオ文化 大阪放送会館」】

などと、関西遊覧のたびに海野弘著『モダン・シティふたたび』が手放せない。手放せないばかりか、関西遊覧のたびにますます輝きが増して、本当にもう、まばゆいばかりにすばらしい。


大正15年に大阪府庁が完成し(当時の建物が今も健在であることのすばらしさ!)、昭和10年に大阪放送会館が竣工、もともと軍事基地だったこの界隈に近代建築が誕生してゆく過程、昭和6年に市民の寄付で再建された大阪城が象徴するような「モダン大阪」の形成というようなものを、もっともっと自分なりに深めていって、そして休暇のたびに遊覧を楽しめればいいなというようなことを思ったところで、右手の大阪歴史博物館が視界から消えて、法円坂の交差点に至る。近々再訪して、みっちり「お勉強」したいなと歴史博物館を振り返ったあとで、信号を渡って、難波宮跡公園を歩いてゆく。


法円坂から森ノ宮、玉造から鶴橋へ。大阪環状線のガード下で北尾鐐之助の『近代大阪』をおもう。


馬場町の交差点をわたり、大阪歴史博物館を横目に次は法円坂の交差点。この信号を渡った先には難波宮跡公園。難波宮跡公園をミシミシと歩いているうちに、頭のなかはふたたび、後藤明生の『しんとく問答』のことでいっぱいになってゆく。『しんとく問答』の一篇『大阪城ワッソ』を思い出して、ふつふつと嬉しい。後藤明生は谷町4丁目駅近くの「国立病院北門前」の停留所からバスにのって上本町の駅にゆき、近鉄電車にのって勤め先の近畿大学文芸学部に通っていた。今日の午後は、かねてよりの念願だった近鉄電車での「移動」が控えているので、わたしもこのあと上本町の駅にゆくのだけれど、まだまだ時間はたっぷり。これからゆっくりぐるっと迂回してテクテク歩いて、上本町の駅に向かうのだった。という次第で、まずは難波宮跡公園を横断して、『しんとく問答』所収の『マーラーの夜』の道筋をたどる。書き込みでいっぱいの『でっか字まっぷ 大阪24区』をコートのポケットにしのばせて、歩いてゆく。




『しんとく問答』所収『マーラーの夜』に登場する聖マリア大聖堂に向かって歩いている途中で見かけた煙突。煙突を見かけるとなんだか嬉しい。思わず近くに寄って、わおっと見上げる。これは「法円坂温泉」の煙突。




聖マリア大聖堂の横道は「歴史の散歩道」という名の舗道で、なかなかいい雰囲気の散歩道で、もっとゆっくり歩いてみたい感じだった。『マーラーの夜』の「私」の真似をして、ちょっと先に行ってから戻ってくる恰好で、この通りを歩いてゆく。聖マリア大聖堂を右手に歩いた先は越中公園。




越中公園を右に歩いた角に「越中井」の遺跡がある。

 越中公園のはずれで、道路は公園に沿って直角に右折するが、その少し手前の、道路の向う側に小さな繁みが見える。何だろうと思って行ってみると狭い三角地帯で、古い井戸と顕彰碑と小さな地蔵堂があり、その由来を記した立札が立っていた。……

という『マーラーの夜』の「私」の真似をして「小さな繁み」に近づいて、よろこぶ。遺跡そのものよりも、この「昭和十二年」と書かれた古い木の札が嬉しかった。昭和12年の大阪といえば、3月に大阪歌舞伎座で《新派創立五十年祭記念興行》の公演があった。演博の新派展にてその公演の折に松竹が角藤定憲の碑を四天王寺に建立したという展示を目の当たりにしたときは、大阪歌舞伎座とあいまって「まあ、近代大阪!」とちょっと興奮だった。新派の歴史には多分に「近代大阪」がオーヴァーラップしている。四天王寺の新派記念の碑もいつの日か見に行ってみたい。


と、順調に『しんとく問答』所収『マーラーの夜』における「私」とおんなじ道を歩いてご機嫌。《越中公園のはずれで、道路は公園に沿って直角に右折》、というとおりに、直角に右折して、森ノ宮駅へと向かって歩いてゆく。

……越中井跡の小さな繁みを斜め左前方すなわち北西の方角に見ながら、越中公園の角を右折すなわち東へ折れると、道は更に下り坂となる。坂に沿って子供専用の運動場、カトリック系ミッションスクール、中学校、一階が会社や商店や町工場などになっている中層ビル、マンション、そしてそれらに挟まれたレトロ風木造二階建ての家がとつぜん出現したりした。
 私はなおも東へ東へと坂を下る。海老フライの五位となって下り続けた。小さな公園を斜めに横断し、少し行って左折すなわち北へ折れると、ペンキで緑色に塗られた日生球場の裏塀が見えて来る。そのスコアボードの裏側を見上げるようにして球場の外側を通り過ぎて行くと、めざすレストランGまで、あと五、六百メートルである。そして坂も次第にゆるやかになって、やがて森ノ宮駅の西側を南北に走る大通り=玉造筋に突き当たるのである。

執拗に進行方向を東西南北で示しているのは、これより前の《大阪では道をたずねると、左右ではなくて東西南北で答えられる。これまた大変なカルチャーショックで、最初は文字通り「西も東も」わからなかった。いまなおほとんど五里霧中であるが、マンションから森ノ宮、マンションから大学へのコースに限り、何とか大阪式表現が出来るようになった。》という一節を踏まえている。宇野浩二も大阪では左右ではなくて東西南北で道を示す、ということを書いていた。今もそうなのだろうか? ま、とりあえず、わたしも真似して、これから大阪を歩くときは極力「東西南北」を念頭に入れようと思うのだった。 


『しんとく問答』所収『マーラーの夜』は、「私」がその夜、マーラーを聴きに大阪厚生年金会館へ出かけるにあたって、どの経路で行くかを思案し、食事の場所との兼ね合いもあって、森ノ宮の「レストランG」にてお気に入りの「海老フライライス」で早めの夕食としたあとで(ときどき、《『芋粥』の五位の某のように、無性にレストランGの海老フライライスが食いたくな》る「私」)、森ノ宮から地下鉄中央線に乗って本町で下車する案をたてるというのが発端。


今回の遊覧にあたって『しんとく問答』を読み返して最終確認をしていた際に「おっ」となったのが、《ペンキで緑色に塗られた日生球場の裏塀》の「日生球場」のくだりだった。『マーラーの夜』が「群像」に掲載された1992年当時は「日生球場」は健在だったんだ! 今年の春先の1泊2日の関西遊覧にて、1日目に南海難波の大阪球場の跡地、2日目は阪急の西宮北口の西宮球場の跡地、というふうに、期せずして立て続けに球場の跡地に遭遇した(車窓を通してだけど)のがなんだかとってもおもしろかった。帰京後は、永井良和・橋爪紳也著『南海ホークスがあったころ』(紀伊國屋書店、2003年7月)を読んだりして悦に入っていたものだった。と、そんな折り、なんとタイミングのいいことに、佐野正幸著『昭和プロ野球を彩った「球場」物語』(宝島社 SUGOI 文庫、2009年3月)に遭遇、ガバッと購入して、一気に読んだものだった。以来、プロ野球の球場の跡地に遭遇するのをなんとはなしに心待ちにするようになった。関西遊覧の思わぬ余波。




というような次第で、愛用の『でっか字まっぷ 大阪24区』に「日生球場跡」と大きくメモしていて、森ノ宮駅に至る直前、その跡地に突進してみたら、フェンス越しに普請中の敷地を見ることができて、その地上の形状が明らかに、もとは球場だったことが見てとれて、ジーンだった。こんな町中にプロ野球の球場があったなんて、なんていい時代だったのだろうと、廃墟を見ながらいつまでもジーンだった。


日生球場を過ぎれば、『しんとく問答』所収『マーラーの夜』の「私」が、《海老フライの五位となって》目指してゆく「レストランG」はすぐそこのはず。さあ、「レストランG」は今でもあるのかな、とドキドキしながら歩を進めてゆくと、




あっ、「レストラン グリーンエイト」なるお店が! これぞまさしく「レストランG」ではありませんか! とシャッターを眼前に大興奮。日生球場が消えている一方で、『しんとく問答』所収『マーラーの夜』そのまんまに「レストランG」は健在なのだった(道中の「ローソン」も健在)。のみならず、「レストランG」は『マーラーの夜』そのまんまにシャッターが閉まっているではありませんか!

 信号が青になった。私は横断歩道を渡り、真正面のローソンの前で左折すなわち北へ向かって、森ノ宮駅の方へ歩きはじめた。そのあたりから歩道に面して、喫茶店、そば屋、スナック、寿司屋などが軒を並べていたが、もちろん私は海老フライのレストランGだけを目当てに歩いて行った。しかし思わず「おや?」と立ち停った。どうやら勢余ってレストランGを通り過ぎてしまったらしい。私は五、六歩あと戻りした。そして今度は思わず「あっ!」と声を上げた。私は森ノ宮のレストランGの前に立っていた。それは海老フライのレストランGに間違いなかった。「本日休業」の貼紙は見えなかった。しかし、レストランGの入口にはシャッターがおろされていた。とつぜん、どこかで鐘が鳴りはじめていた。それからボヘミアン風の葬送行進曲「狩人の葬式」の旋律がはじまり、それが耳の奥の方で鐘の音と混り合った。

『しんとく問答』ごっこをして、法円坂から森ノ宮まで歩いてきた身にとっては、「レストランG」のシャッターはなんとも見事な幕切れであった。頭のなかで、ボヘミアン風の葬送行進曲「狩人の葬式」の旋律を奏でつつ、森ノ宮駅に至る。



そんなこんなで午前11時前、玉造筋の森ノ宮駅前の交差点に立つ。谷町四丁目からここまで歩いてすっかりハイ、もっともっと歩きたい気分だったので、JR環状線の高架下を玉造に向かって、「南へ」歩いてゆく。小さな町工場ふうの建物が軒を連ねていて、その都市風景がしみじみいとおしくて、視覚的に歩いていてとってもたのしい。さらにハイになって南へ南へ、玉造に向って歩いてゆく。




こんな感じの環状線ガード下の風情がたまらない。感興たっぷり。気分はいきなり北尾鐐之助の『近代大阪』なのだった。

大阪城の新興天守閣に昇って、南を望むと、大阪市の東を区切って、蜿蜒と引かれている白い長い塀が第一に目につくであろう。新しく築かれた省線城東線の高架で、やがて電化されるものだが、これがため市内の俯瞰風景が一変した。

北尾鐐之助著『近代大阪』(創元社、昭和7年2月25日初版)の「城東線」の書き出しは以上のようになっている。北尾鐐之助は前年に出来上がったばかりの「大阪城の新興天守閣」の上から大阪の町を見下ろしているのだった。大阪城の近くから森ノ宮まで歩いてきた身にとっては、臨場感たっぷりの一節。

 この高架線が、更に、天王寺から今宮を経て、浪速駅(福崎町)から大阪港に至る線、現今貨物線=を連絡し、それからまた一方大阪駅から西へ、福島、野田、西九條を経て、桜島に至る桜島線(北西線)を連絡して、安治川口のギャップは川底をくぐり、完全な大阪市内の環状線を描く時はいつのことであろう。そういう日の来るまで、当分はまだこの閑散を続けなければなるまい。高架になって、中央部から端々に通ずる交通状態のみは大に一変され、夥しい踏切の障害とそのために起る交通事故とは、すっかり跡を絶つに至ったが、その代り附近の住民は、庭園や住居の一部を割きとられ、高架特有の騒音に悩まされている。

現在の大阪環状線の全線開通は昭和36年4月を待たねばならない。それまでの来歴はわたしにはちと複雑なのだけれど、Wikipedia で大急ぎで確認してみると、北尾鐐之助が『近代大阪』で章立てしている「城東線」の名称は明治42年に成立、省線の天王寺・大阪間を指している(つまり現在の「大阪環状線」の一部分)。『近代大阪』の前年の昭和6年に、玉造と京橋の間に猫間信号場が開設(昭和36年4月の「大阪環状線」成立時に廃止)。そして昭和7年3月に、桃谷と猫間信号場間が高架化されている。『近代大阪』初版時の昭和7年2月は高架化完成の直前、まさにアップトゥーデートな話題だったということがわかる。おお、近代大阪!

 玉造駅は、こんどの高架駅の中で一番大きな駅で、また貨客の取扱数から云っても、最も主要な駅である。森下仁丹、日の本足袋などの大工場をもっているので、ここのラッシュ・アワーは可なり混雑する。切符の売れ方も、昼は短距離、夜になると長距離の切符が多く売れるのもこの駅である
……玉造駅附近から、沿道の景色がやや調うて来る。いままでの工場風景がなくなって、同じ借家風景でも、入口に同じような鉄柵を廻らした、新しい家並が目につく。物干場の赤く整った鉄骨がモダンである。ときどき大きな別荘らしい庭園が、高架線に切り裂かれて、真下に池などを見せているのがある。右の車窓にはずっと上町、生玉附近の高台がつづき、放送局のアンテナや、天王寺の塔や、市立のアパートなどの建物が見える。

昭和7年当時は上本町9丁目にあった放送局に市立のアパートと、この一節、海野弘著『モダン・シティふたたび』とオーヴァーラップする。


よい気分で高架下を南へ歩いて、長堀通にゆきあたり、玉造駅に到着。前々から『でっか字まっぷ 大阪24区』を見ながら将来の大阪遊覧を空想するとき、いつか歩いてみたいと思っていたのが「玉造日之出通商店街」。というわけで、狭い商店街をさらに南下して、ふたたび大阪環状線の高架にたどりつき、ふたたび高架下の風景を満喫しつつ鶴橋に向かう。


ほどなくして、鶴橋に到着。鶴橋も前々から行ってみたい場所の代表格だった。わーいわーいと大はしゃぎしながら、駅前の雑然とした市場を練り歩いて、何を買うでもないのに気持ちがふわふわ、たいへんたのしい。そして、市場の外に出てみると、今度は年の瀬の静かな町並み。市場とのコントラストが見事。鶴橋で大阪環状線の高架と近鉄電車の高架が交差しているのだな、そうか、このあと上本町から乗る近鉄電車は鶴橋を通過するのか、ふむなるほどと、きわめて初歩的な地理を把握したところで、いい気分で界隈を散歩。途中、ちょっと古本屋で本を見たりもする(心ならずも何も買わず)。と、鶴橋界隈を散歩しているうちに、せっかく鶴橋に来たのだから、本日の昼食はお肉だーといつのまにか全身肉食動物と化していた。歩いているうちに頭のなかは肉のことでいっぱいに。




偶然前を通りかかった「鶴橋温泉」がなんだかキッチュ。さきほどの「法円坂温泉」に引き続いて、大阪の銭湯がなんだか琴線に触れるのだった。そうこうしているうちに正午が近づいてきたので、駅前にもどって、通りがかりの適当なお店に入り、本日の昼食はビビンパ定食なり。たいへんおいしゅうござると、肉食動物の歓びにひたる。


村野藤吾と近鉄電車。都ホテルでお昼のコーヒー。本を繰って、仁丹をおもう。


溝口健二の『浪華悲歌』(昭和11年5月封切・第一映画)に夢中になったのを機に、「村野藤吾と近代大阪」ということに興味津々になった。大阪パンションをモデルにしたアパルトマンや、心斎橋のそごうのロケを目の当たりにしたことで、大正7年に早稲田の建築科を卒業して渡辺節建築事務所に入所、昭和4年に独立してから亡くなる昭和59年までの長きにわたって大阪で仕事をしていた村野藤吾が体現するところの「近代大阪」を追ってみたいなとずっと思っていた。明治24(1891)年生まれの村野藤吾は宇野浩二と同い年でもあるのだった。


……と思っていたら、このたびの関西遊覧の直前に絶好のガイドブックが発売になって、狂喜乱舞だった。



村野藤吾研究会編『村野藤吾建築案内』(TOTO 出版、2009年11月26日)。


今回の関西遊覧では、同書に収録のコラムのうち、川島智生氏による「村野藤吾と近畿日本鉄道」をお手本に、近鉄電車のターミナル、上本町駅から近鉄電車に乗るという計画をたてて、計画を立てただけで早くもウキウキだった。関西私鉄に夢中になって数年、近鉄電車が懸案だったので、ちょうどよい機会。


『村野藤吾建築案内』所載の川島智生氏のコラム「村野藤吾と近畿日本鉄道」によると、戦後に一層緊密になるものの、村野と近鉄との関わりは戦前にさかのぼることができて、近鉄の前身である「大軌」の旧社屋、昭和11年に改装の旧社屋が、村野が正式に近鉄に関わった最初の建物とのこと。

この建物はスタイルも含め新しい試みがなされたものではなく、大軌側の建築技術者・竹内孝によれば「現代風であって式と言うのではない」とされ、事務所スペースを目一杯にとっただけの空間だったが、施主の要求に応えた設計内容の事務所ビルだったという意味で、大軌側からは評価され、以降近鉄は村野のもっとも大きな取引相手となる。そのような出会いが村野にとっては、旧本社屋は記念碑的な建造物の1つと考えられる。このような地味な建築であってもそつなく完成させたところにこそ、村野が施主に信頼を得た秘密が隠されているのではないだろうか。

というふうに、同コラムにきわめて懇切に解説されている。




《あやめ池温泉》(竣工:昭和4年6月)、『近代建築画譜』より。「村野藤吾と近鉄電車」の戦前といえば、まっさきにこのあやめ池温泉のことを思い出す。夏休みに兵庫県立美術館で見学した《日本の表現主義》展でも大きく展示があったから、なおのこと印象に残っていたのだけれども、川島智生氏のコラムによると、《史料的制約もあってどの程度参画していたのかについては不明である。》とのこと。


戦前の村野藤吾の近鉄電車では唯一、昭和15年竣工の橿原神宮前駅の駅舎が今も健在だと知って、『村野藤吾建築案内』片手にぜひとも今度の冬休みに出かけたいなと思った。橿原神宮前駅へゆくためには当然近鉄電車に乗らなければいけないので、関西私鉄に夢中の身としては、懸案の近鉄電車に乗る絶好の機会でもあるのだった。というわけで、本日午後は上本町から近鉄電車にのって、橿原神宮へ行くという計画。そして、近鉄電車で阿倍野橋(天王寺)に向かって、途中車窓から藤井寺球場の跡地をのぞむのだ。と、冬休みの関西遊覧、昨日は阪神電車であった一方、本日は近鉄電車というふうに、関西私鉄沿線風景を満喫することに決めた次第。



橿原神宮前駅へゆく近鉄電車の始発駅は上本町駅。昨日の阪神三宮駅とおんなじように、近鉄電車の上本町駅も典型的な関西私鉄のターミナル駅。ここにも、鉄道会社によるターミナルビルの建設、百貨店の開店、沿線の行楽風景の典型があって、そんな「京阪神モダン生活」がしみじみいとおしいいなアと、そんな「京阪神モダン生活」に沿うようにして「観光」するのが関西遊覧の毎回のおたのしみとなっている。そして、その関西遊覧に沿うようにして、遊覧を機に戦前の紙モノをちょいと購ったりとか、「調べもの」の真似っこをして資料の閲覧をするのが毎回とてもたのしい。(橋爪紳也著『京阪神モダン生活』(創元社、2007年12月)が究極の目標であるのは言うまでもない。)


というわけで、まずは『近畿日本鉄道 80年の歩み』(平成2年10月1日発行)を閲覧。同書の「会社の沿革図」によると、現在の近鉄電車の起源はとりあえず、明治43年9月創立の「奈良軌道」に設定することができて、その「奈良軌道」は同年の明治43年10月に「大阪電気軌道」に社名変更する。以後、怒涛の勢いで数々の路線を合併してゆき、「大軌」はどんどん膨張、大阪から奈良、京都、三重にいたるまで、まさしく網の目そのまんまの鉄道網を形成して、昭和16年3月に「大軌」は「関西急行鉄道」に社名変更、そして昭和19年6月に社名が現在の「近畿日本鉄道」となる。その合併の様子を文章化しようとすると煩雑を究めること必至、社史の「会社の沿革図」がとてもわかりやすい、一本の太い線である明治43年の「大阪電気軌道」に周辺の路線がどんどん吸い込まれている様子が鮮やかで、近鉄電車における「関西モダニズム」の形成は「大阪電気軌道」、すなわち「大軌」の名のもとに敢行されていたということがよくわかる。一方、「近鉄」の名称は戦後を象徴しているということになる。そして、近鉄の戦後は、村野藤吾との密接な関係がパラレルになっている。


大阪の上本町から伊勢中川にいたる「近鉄大阪線」のもとになったのは、大正3年4月開通の、上本町・奈良間の「大軌電車」。

 初代の上本町駅は、現在の千日前通り上に位置していたが、大阪市の都市計画道路建設のため、南側の現ターミナルビルの場所に近代的な駅敷設およびビルを建設して移転することとなった。新駅は出発線4本、到着線2本を設備し、ビルは、地上7階 、地下1階、延べ約9,400平方メートルで、いずれも大正15年8月に完成した。ビルには本社事務所、直営食堂およびテナントの三笠屋百貨店、ストア、銀行等が入居、9月16日には大阪の東玄関にふさわしい一大ターミナルとしてお目見えした。  

と、『近畿日本鉄道 80年の歩み』にある。大阪府庁とおなじく大正15年に竣工の大軌ビルもまさしく「大大阪」のシンボルなのだった。




《大軌百貨店》(竣工:大正15年8月31日)、『近代建築画譜』(昭和11年9月15日初版)より。大正15年に竣工の大軌ビルは約10年後に「大軌百貨店」となる。

当社は新しい兼営事業として、大軌ビルにおいて直営の大軌百貨店(現 近鉄百貨店上本町店)を経営することとなり、昭和10年8月ビルの改装工事に着手した。そして翌11年7月1日まず1階と地階に食料品売場を開業し、続いて9月26日5階まで全館を開業した。営業面積7,706平方メートル“自慢の百貨”をモットーに実用品を主体とした品揃えを行い、好評のスタートを切った。

と『近畿日本鉄道 80年の歩み』は誇らしげに語る。『近代建築画譜』には《大軌百貨店》となっているけれども、『近代建築画譜』の刊行と大軌百貨店の開店はほぼ同時期、ここに掲載の写真は「大軌百貨店」開店以前の撮影かも。




《大軌百貨店 店内お知らせ》。表紙を開くと、昭和11年9月25日付けで、

当店の位置は大阪市天王寺区上本町六丁目で、一般に「上六」で通じ、上六と云えば大軌即ち我が大阪電気軌道株式会社線の起点であり大阪終点であり、日々莫大な乗降客が集散しています。此処は当社創立当時には大阪市の東端として考えられていましたが、東大阪の発展は上六をして大大阪中心部の一角たらしめ、また大軌参急両者線によりて河内平野、奈良、三重両県に亘る交通網が完備され、之れが沿線の開発に拍車をかけて此の方面の急速な発展を加え、ここ上六は大阪の東玄関口として重要な地点となりました。

という導入のあと、《此の状勢に伴い自然の要求に応じて生まれたのが当社直営の大軌百貨店であり、……》と続く挨拶文が印刷されている。大軌百貨店の開店に際して配布されたパンフレットであるようだ。




上掲パンフレット写真より、《一階広間より見たる一階売場 向って右側に階段及びエレベーターあり》。




おなじく上掲パンフレット掲載写真、《一階広間より見たる南入口 南入口東側にエレベーター西側に階段あり》。1階は電車乗場。周辺は大きな広間になっていた。




しつこく上掲パンフレット掲載写真より、《一階売場の一部》。1階の売り場は北側のこの一角にあり、高い天井から吊るされた電燈が素敵。おみやげのお菓子やらなにやらが売っている。大軌百貨店の全店開業に先駆けて地下と1階だけ営業を開始していた(昭和11年7月1日開店)。




であるので、五階の食堂は開店前の写真が掲載されている。天井の装飾が素敵。全店の開業は9月26日。




一方、地下のフルーツパーラーはすでに営業を開始していて、ご覧のとおりに大盛況。なぜかお客は殿方ばかり。




上掲パンフレットの裏見返しに印刷されている、当時のポスター。



鶴橋ですっかり満腹。腹ごなしがてら、千日前通りを西へ向かって歩いて、ほどなくして大阪上本町駅に至る。近鉄百貨店を見上げながら、ここに大正15年竣工の大軌ビルがあって、昭和11年には大軌百貨店が開店したのだなアと、ますます「モダン大阪」気分が盛り上がって、いつまでも上機嫌。




念願の上本町駅にたどりついて、まずは近鉄百貨店の外壁を観察。上掲の大正15年竣工のターミナルビル、すなわち昭和11年開店の「大軌百貨店」の建物が取り壊されて、村野藤吾の設計で現在の「近鉄上本町ターミナルビル」、すなわち近鉄百貨店上本町店が昭和44年に竣工した。正方形の連なりがハッとするような美しさ。写真は二階の装飾部分。




こちらは近鉄百貨店の店内の装飾。いかにもミッドセンチュリーという感じで感興たっぷり。



しかし、もっとたっぷり観察するつもりが、ムズムズと上の階にある書店に行きたくなって、イソイソとエスカレーターに乗りこむ。なかなかいい本屋さんでついハイになってしまって、旅行中で荷物になるというのに、つい何冊も買い込んでしまった。


このたびの大阪遊覧においては、「村野藤吾と近鉄電車」のテーマのもとに、ぜひとも橿原神宮前駅に行かねばならなかった。さらに橿原神宮へはなにがなんでもビスタカーに乗って行きたかった。全席指定席の特急電車、万が一満席で売り切れていたら困るので、事前に都内の旅行代理店において特急券を買っておくという念の入れようだった。気合い十分! しかし、買った指定席は上本町駅午後1時50分発。だいぶ時間が余ってしまったので、近鉄百貨店のあとは隣接のシェトラン都ホテルで喫茶。今日の午前中だけでずいぶん歩いたし、ずいぶん食べた。次の間に下がってしばし休息いたそうといったところだった。というわけで、喫茶とともに買ったばかりの本を眺めるという、極上の昼休みとあいなった。


『村野藤吾建築案内』所収の川島智生氏のコラム「村野藤吾と近畿日本鉄道」によると、戦後、村野が近鉄と密接な関係を築いたのは、昭和26年に佐伯勇が社長に就任して以降で、同年竣工の志摩観光ホテルを嚆矢とするとのこと。上掲の近鉄百貨店は昭和44年竣工、そして、隣接の「都ホテル大阪」、現シェトラン都ホテル大阪は昭和60年竣工、村野の近鉄における遺作となった。

このような近鉄での建築活動は、佐伯勇の社長在任期間と合致する。佐伯勇は1973(昭和48)年まで近鉄社長を21年間つとめ、その後1987(昭和62)年まで会長として君臨した。この時期わが国は高度経済成長期にあたり、近鉄もまた電鉄業のほかに、近鉄百貨店、近畿日本ツーリスト、都ホテルチェーンなどのグループ会社の拡大化をはかり、わが国第一の私鉄となる。その建築部分の主だった設計を担ったのが村野藤吾だった。

という一節が、同コラムにある。近鉄の佐伯勇、近代日本の実業家群像として、その名を覚えておくことにした。


そんなこんなで、都ホテル2階の瀟洒なラウンジで心ゆくまでくつろいで、ご機嫌。昨日の六甲山ホテルと比べると、さすがは都会の瀟洒さがあった。コーヒーをゆっくりすすりつつ、近鉄階上の書店で購った本を次々に繰ってゆく。




井上理津子『はじまりは大阪にあり』(ちくま文庫、2007年9月)。カバーデザイン:倉地亜紀子。「月刊大阪人」に2004年6月号から2006年9月号まで連載の『起源ハ大阪ニアリ』を改編補筆して「チキンラーメン」の項を追加して編んだ文庫オリジナル。「月刊大阪人」はリアルタイムで買うことは少なくて、特集に興味がわいてバックナンバーを東京堂3階で購うというのがほとんど。特集目当てで買っても、連載記事も面白いのが「月刊大阪人」のすばらしいところで、バックナンバーを買うたびに思わぬところでいい記事を読んだなアと得した気分になることが多い。そんな楽しみな連載の代表格、井上理津子さんの「起源ハ大阪ニアリ」がこうして、チャーミングなちくま文庫というかたちで1冊にまとまっていたなんて! と、近鉄の本屋さんの大阪本コーナーで今さらのように知って、ガバッと買った。


というようなわけで、機嫌よく『はじまりは大阪にあり』を拾い読みしていたら、「森下仁丹」の項目に「おっ」となった。そうだ、仁丹は大阪生まれだった、フムフムと読み進めてゆくと、先ほど歩いたばかりの玉造に仁丹の本社があることに遅ればせながら気づいて、地団太を踏む思い(先に抜き書きした北尾鐐之助著『近代大阪』の「城東線」にもその名が登場しているのに!)。あわてて、『でっか字まっぷ 大阪24区』を参照してみると、森ノ宮駅から程近い高架沿いにしっかりと「森下仁丹」の建物があった。高架沿いの仁丹、まさしく「近代大阪」! 仁丹本社を見逃してしまったことがこんなにも悔しいのは、日頃から戦前広告ばなしあれこれを追うのを道楽としているから。そんな道楽にひたっているうちに、戦前広告でおなじみの会社の社屋の近くを通りがかるのをそこはかとなくたのしむようになっている。




『広告六十年』(博報堂、昭和30年10月6日発行)に掲載の図版より、《「銀粒の仁丹」の全頁広告(昭和5年1月)》。

「仁丹」はこの年代に入って、新聞に全頁、二頁見開き広告を屡屡活用して、その華やかな宣伝を展開したが、新たに「煉歯磨チューブ入り」、「小粒仁丹」、「仁丹象牙容器附き」、「仁丹ハミガキアルミ缶入」等を販売し、十四年浅草に広告塔を建て、東洋一の大ネオン広告塔と宣伝、また、十三、四年頃、満州国建設や、日独伊三国防共協定などにちなんで「仁丹」の、防共容器、体育容器、満州容器などを発売、時勢を巧みに反映させた。

森下仁丹を語るということは、明治大正昭和の広告文化を語るということでもあるのだ、といわんばかりに、博報堂刊行の『広告六十年』の各時代に「仁丹」が登場する。新聞雑誌の紙面のみならず、ネオンや広告塔でモダン都市風景でおなじみの「仁丹」をおもうということは、近代日本の都市風景を思うことでもあるのだ(「都市美」の観点から当時から多分に批判は多かった。それも含めて)。……などと、「仁丹」とは特に縁のない生活を送っている身ではあるけれども、モダン都市の紙モノおよび都市風景を彩った「仁丹」には愛着たっぷり。






いずれも仁丹広告写真(1935-45年)、『中山岩太 MODERN PHOTOGRAPHY』(淡交社、2003年4月)より。いまいち洗練味に欠ける「仁丹」の広告も、中山岩太の手にかかれば、こんなにもソフィストケート! 同書の解説に、中山岩太の広告写真について《1927年に帰国した中山は、その後芦屋に写真館を構え、本格的に制作を始める。当時の神戸、芦屋の環境は中山の創作意欲を駆り立て、また海外でのモダンな生活体験は、神戸大丸の広報誌などにいかされた。広告写真の習作には、中山独自のトリックが多く見受けられる。》とある。



などと、都ホテル2階のラウンジで買った本を次々に繰って、心ゆくまでくつろいでいるうちに、ビスタカーの出発する午後1時50分が刻一刻と近づいていた。都ホテルの村野藤吾建築の観察する時間がうっかりなくなってしまった。あわてて、上本町駅の改札へと向かう。


ビスタカーにのって橿原神宮へ。竹中郁と小野十三郎、安西冬衛をおもう。


午後1時半。改札を通って、上本町駅ホームに入る。改札をくぐってさっそく、典型的なターミナル駅構造が目にたのしい。




こぢんまりとしたターミナル構造の上本町駅、ちょっとレトロな電燈がうれしい。




進行方向左端からホームをのぞむと、ホームには近鉄電車の各車両が停車中。一番奥の右端に停車中の黄色と青のツートンカラーが、今まさに乗ろうとしている「ビスタカー」。




午後1時50分、上本町発鳥羽行きのビスタカー。売店で好物のエヴィアンを買って、車内の指定席へゴー!




二階建て車両の側面に燦然とかがやく「VISTA CAR」の文字。




わたしの席はこの車両。ビスタカーは関西私鉄では例外的に乗車券に加えて特急券500円が必要。でも、いざ座ってみると、特急券500円の価値大いにありの座り心地とスピードと車窓を堪能できるのだ(たぶん)。



などと、本日午後のハイライトともいえる近鉄ビスタカーであったが、わたしが「ビスタカー」のことを知ったのはほんの偶然。きっかけは、国会図書館で閲覧した近鉄電車の広報誌「ひかり」だった。古雑誌で本当に「広報」されて、本当に乗りに来ることになるなんて! まったく何が起こるかわからないのだった。と、その「ひかり」昭和33年7月28日号(第13巻3号)に、世界初の二階建て車両という触れ込みの「近鉄ビスタカー」が華々しくデビュウするにあたって、《広報部では、ビスタカー試乗者の感想を聞くために7月9日上本町発13時50分に便乗して、マイクを移動録音しました。》という前書きとともに「車内座談会」が掲載されていたのだけれども、その「車内座談会」、第一部は「日本交通公社、交通博物館勤務」という肩書きの鷹司平通夫妻に広報部が印象を尋ねるという体裁、広報誌にありがちな企画で特に驚くにあたらぬのだけれど、ページを繰ってびっくり、ビスタカー「車内座談会」の第二部の来賓はなんと、安西冬衛、小野十三郎、竹中郁の3人の関西詩人なのだった。その座談会には、「なんといってもデラックスだよ」というキャプションが添えられている。この座談会そのものが「なんといってもデラックスだよ!」と発見して、とにかくも大はしゃぎだった。




「ひかり」昭和33年7月28号より、「ビスタカー車内座談会」第二部。写真左から、竹中郁、佐伯勇社長、小野十三郎、安西冬衛。と、村野藤吾と近鉄が戦後密接な関係を築くきっかけになったという近鉄社長の佐伯勇が同席していることにも「おっ」だった。3人の関西詩人が招かれたのは、佐伯社長の「引き」によるものなのかな、どうかな。この3人、かなりの「鉄道好き」なので、企画的にもバッチリなのだった。「日生球場進出は成功でしたね」と社長に話かける安西冬衛に、「あれは地勢の面からも、興行面からもいいんですが、肝心どうも弱いもんじゃから申し訳ないと思っていますよ」と応じる佐伯社長。佐野正幸著『昭和プロ野球を彩った「球場」物語』によると、昭和33年に日生球場に本拠を移してから十年間、近鉄は阪急と最下位を競っていたというから、佐伯社長の苦悩はこのあとも続いていたのだった。



竹中郁、小野十三郎、安西冬衛は、杉山平一著『戦後関西詩壇回想』(思潮社、2003年2月)に、

……松竹座のある道頓堀と、南海電車の難波駅の間の、銀杏並木の御堂筋に、うるし塗り表紙の『春琴抄』や、ジュラルミン表紙の横光利一の『時計』で有名な創元選書の版元の創元社が出版物の展示用に小さな書店を出し、その一隅を、テーブルを五六脚置いた喫茶室にした。店の名前は「創元」だった。

というふうに登場する、御堂筋の創元社の喫茶店「創元」をたまり場にしていた。安西冬衛は『難波発二十二時佐野行終』に、《「創元」で夜ふかしをするのがつひ半年ほど前からの風習になった》、《二十一時三十分。市電アベノ行の終が通つてしまふ。そろそろおみこしをあげる汐時となる。同じ南海沿線の連中とつき合って「創元」を出る》、《難波駅の壮大なドーム。紅いネオンで6と標識した急行線六番ホーム。モネの描いた「サン・ラザール駅」の構図を彷彿させる》、《既に、二十二時発佐野行終の列車は二輌乃至四輌編成の車体を心持カーブをもつ歩廊に駐めて河用砲艦のやうに強靭な曲率で夜の旅客達をひきずつている》という言葉を織り込んでいる。


……というようなことを、春先の関西遊覧の折に、南海電車に乗るために難波駅のホームにたどりついたときに鮮やかに胸に浮かんで、ジーンと感激したものだった(id:foujita:20090228)。あのときの感激が、国会図書館で近鉄の広報誌「ひかり」を閲覧したとき、ジーンと胸にふつふつとよみがえって、次回の関西遊覧の折には、ぜひとも「ビスタカー」に乗らねばならぬ、なにがなんでも乗らねばならぬと心に決めた。春先は南海難波駅で、年末は上本町で詩人をおもうというわけで、それぞれのターミナル駅がいいなアと、ますます関西私鉄への愛着が湧いてくるのも嬉しいではありませんか。というわけで、ビスタカーに万が一乗り損ねたらたいへんがっかりなので、事前に都内の旅行代理店であらかじめ指定席券を買っておくという念の入れようを発揮した次第だった。まったくの偶然だけど、「ひかり」誌上で詩人が試乗したビスタカーも上本町13時50分発(誌上の電車の行先は宇治山田)。




「ビスタカー車内座談会」、写真左より、竹中郁、小野十三郎、安西冬衛の各氏。3人ともとってもたのしそうで、さらに「PR」に甘んじることなく、座談会では結構率直なことも言っていたりする(それを広報誌「ひかり」にしっかりと記録する近鉄広報部)。一人だけ立っている竹中郁、「ビスタカー」は世界初の二階建電車なのだからもちろん二階の展望室へも出かけている。

竹中郁氏は、展望室で車窓の景色にウッとりしておられる。マイクを二階へ移動してご感想を伺ってみました。


 今日はご試乗ねがいまして有難う存じます。
 さて列車は間もなく名張に到着する予定でございますが、この列車の乗り心地、或いはサービス、それから、今後のビスタ・カーは、どうあるべきか、といったご希望などをおきかせ下さいますように。


 【竹中】私はこのビスタカーの三カ処に座ってみました。一番下と、中どこと、一番上のビスタ・ドームと、安定は下が一番いいですネ。だが下の方はプラットホームとスレスレに、窓の高さが丁度私らの目の高さ、あすこが、むしろスリリングで面白い。むしろ高い処より低い処の方が面白いですネ。それでネ、高い処は下と異って動揺が若干あるが、又高い処は下と違って、カーブにかかると、前方が見えて、運転室が見えるところなんか、あの時、ちょっと自分が運転している見たいでネ錯覚ですが、それが面白い。そこへ雨が降って呉れないかと待ってるのですがネ。(さすが詩人です)長谷あたり通る時なんか、下の眺めは確かにビスタドームの方がいいように思います。雨がどうも降らんようです。待っていますがネ。ネッからポツリともしない。それと部屋が三段に分れているんで、今までの列車の単調さから救われ、何んといいますか、動く小さなサロンとか、小さなホテルとかいった感じ、それから丁寧に敷物がある、これなんか実に気持ちがいいです。これは日本人は敷物があるということは珍重しませんけどネ、やはり靴などはいている以上は、これあって柔かい足ざわりで動けるということは非常に気持がいい。この敷物があるということは、大成功で、やはり、リノリュームじゃ困りますネ。まあ、そんなものです。


 スピードの点はどうでしょう。


 【竹中】今到着間際に110k出ましたネ。あの時は直線で、余りゆれませんでしたネ。高い処は若干ゆれるのですから、これは誰が如何にうまく設計したって無理ですよ。私はネ、車内であまりヂャブ、ヂャブ動くものを飲むよりも、固定したものを飲む方がスチールカーに似つかわしい。それともう一つ面白いことは、椅子がほんとに「斜[シャ]」に構えてある。“いき”に構える、ホンとに斜に構える、外の景色を見るために、此だけの角度をご考慮なさったことは意義があります。……


小野十三郎『日は過ぎ去らず わが詩人たち』(編集工房ノア、1983年5月20日)。装幀:粟津謙太郎。本書所収の「サテン文化人」は、

富岡多恵子と会うとき、私が電話で彼女とやくそくする場所が、東京でなら新宿あたりの、大阪なら難波の喫茶店なので、このあいだも、先生あいかわらずサテン文化人ねと笑われた。

という一文ではじまる。小野十三郎が「創元」でとぐろを巻いていたのは昭和23年開店からの閉店までの五年間(《私の四十代はこの「創元時代」で総括することができる》)。

この間、私は安西と「創元時代」を共有したことになる。次いで「ルル」時代というのが来る。これも喫茶店である法善寺の水かけ不動の筋向いにある列車食堂みたいな小さな細長い喫茶店で、ここを私が根城にするようになってからなんと約三十年になる。「創元」の全盛時代にも、安西冬衛はときどきこの店にきて原稿を書いていたらしいが、彼が死んでから、私がこの店の常連の筆頭になった。

上記の座談会は昭和33年、小野十三郎の「ルル時代」がはじまって数年のこと。座談会前半では竹中郁の発言は少なくて(後半に上掲のようにほとばしる)、安西と小野が気ままにおしゃべりしている。そのサマがそのまんま、「サテン」でのおしゃべりを彷彿とさせる感じでなんだか嬉しい。執拗に「アイスウォーター」常備を要望する安西冬衛。喫茶店でも長居してガブガブ飲んでいたのは間違いない。



そんなこんなで、鳥羽行きのビスタカーは午後1時50分発。エヴィアンを飲みつつ車窓を眺めて、上機嫌。先ほど歩いていた鶴橋を通過して、布施で線路が二又に分かれて、俊徳道、長瀬を通り過ぎる瞬間、後藤明生の『しんとく問答』を思い出してよろこんでいるうちに、眼前の低山の連なりが徐々に迫ってきて、阪神間とおんなじように、低山の眺めに陶然だった。




大軌参急電車発行《大軌参急沿線案内》、昭和9年5月印行。上本町始発の現「近鉄大阪線」は大正3年4月に「大阪電気軌道」によって開通された。昭和4年10月、「大軌」は「参宮急行電鉄」(昭和2年9月創立)と提携。




布施から二又に分かれる大軌電車、まっすぐ奈良方面行けば、あやめ池温泉、下の伊賀方面へ行けば、橿原神宮。戦前の「村野藤吾と近鉄」が沿線案内の行楽地の両極をになっている恰好。大軌百貨店が開店する昭和11年以前も、上本町の大軌ビルは竣工の大正15年9月より、直営食堂と売店を設けていた。地下1階に天満市場経営の食料品店、1階から3階まで三笠屋百貨店が入り、2階と3階に大軌直営食堂。



と、布施で二又に分かれる近鉄電車、三重方面へとひた走るビスタカーの車窓、どんどん低山が目の前に迫ってくる、いったいこの電車は目の前の山をどういうふうに越えてゆくのだろうかと不思議な気持ちになる。『日本鉄道旅行地図帳第8号 関西1』(新潮社刊)をあわててかばんから取り出して参照してみると、電車が目の前の山をなだらかに迂回するサマが地図上で鮮やかに描かれていて、なるほどという感じだった。ビスタカーの車窓の低山には鉄塔は何本もそびえ立っていて、鉄塔の眺めが妙に琴線に触れて、いいな、いいなとさらに上機嫌。車窓から先ほどまで見えていた山が消えようとするとき、ふたたび『日本鉄道旅行地図帳』を参照して、次回の関西遊覧はあの山の上へ! ぜひとも生駒ケーブルへ! との決意を新たにするのだった。




《年末・年始の関西御旅行にはゼヒ大軌・参急電車のご利用を》、「大軌・参急ニュース」昭和8年12月発行。今の季節にぴったりの紙モノ(サイズが大きいので二つに分けてスキャン)。

大軌、参急電車とは――大阪電気軌道と参宮急行電鉄との姉妹会社の略称でその線路の延長実に三百粁余(百九十哩)、河内、大和、山城、伊賀、伊勢の五ヶ国にまたがり敬神の国、崇仏の国、歴史の国、美術の国、景勝の国を抱擁網羅する点に於いて日本随一の遊覧電車であります。

うーむ、たしかに、阪神電車の沿線案内のあとだと、モダン気分は皆無だけれど、近鉄は古代史の深淵を思うという点においてはすばらしい。駅名を眺めただけで「まほろば」気分が盛り上がる。




上掲の「大軌・参急ニュース」の「近畿交通略図」を拡大。見慣れている地図と南北が逆になっていて、新鮮。大阪が環状線になっているのが目を引く。紙面には《上本町の次の「鶴橋」は最近電化された省線城東線鶴橋駅と接続し、梅田又は天王寺方面との連絡が一層便利になりました》という一節がある。この紙面は、北尾鐐之助著『近代大阪』の翌年の発行だと思うと、さらに感興が湧くというもの。




表面に伊勢大神宮、橿原神宮が掲載され、裏面は、《お伊勢まいり・大和めぐりは大軌・参急電車で……》として、春日神社や吉野神宮、生駒聖天と、お参り先には事欠かない。



さあ、わたしはちょいと早めに初詣気分で橿原神宮だとばかりに、午後2時半、大和八木駅に下車。ビスタカー乗車はあっという間だったけれども、その車窓といい、乗り心地という実にすばらしかった。広報誌「ひかり」の「車内座談会」で、竹中郁が「もう景色でタンノウだ」と言っていたとおり。もう景色でタンノウだ、ビスタカー! ああ、たのしかった!


と、途中居眠りすることなく、大和八木で機嫌よく下車。ここで近鉄橿原線に乗り換えて、2時45分、念願の橿原神宮前駅に到着。




ホームに降り立つと、さっそく駅舎の屋根が異彩を放っている! 『日本鉄道旅行地図帳 関西1』所載の「名駅舎100選」には、《昭和14年、皇紀2600年の前年に大神宮の駅に建てられた駅舎。村野藤吾設計で大和棟を真似たモダニズム建築。》というふうに解説されている。ビスタカー乗車と「村野藤吾と近鉄電車」追跡を兼ねるという点で絶好のスポットだと軽い気持ちで訪れた橿原神宮前駅だけれど、皇紀2600年をとりまくあれこれにそこはかとなく関心を持っている身にとっては、モクモクと刺激的だなとちょっと嬉しい。




橿原神宮前駅は、橿原線と吉野線と南大阪線の3線のターミナルなので、駅はちょっとだけ賑やかで、構内にはドトールがあって嬉しかった。あとであそこでひと休みするかなと、改札の外に出てみると、高い天井にワオッと圧倒される。初詣での群衆の歩行経路の設計のために、臨時に構内を白い板で仕切っていて、観察に支障をきたし、景観的にもちょっと残念だった。





しかし、壁を見あげると、ガラスや壁面に「まほろば」感をかもしだす文様があしらってあって、目にたのしい。『村野藤吾建築案内』によると、《コンコース上部には漆喰を塗ることで鉄骨梁を模した木製梁が架け渡され、また正面エントランスには陶管を縦積みとした鉄筋コンクリート風丸柱が並ぶ。その内側には木製柱と縦樋が入る。鉄やコンクリートの使用に制限のあった時代の苦肉の策と言える。》とのこと。と、皇紀二千六百年という時代背景は「まほろば」感だけではなくて、建築の資材にも影響を与えているのだった。そんな資材の限界を逆に持ち味に変えて、独自の建築をなしている手腕に感嘆だった。




橿原神宮前駅の外観。『村野藤吾建築案内』には《外観上は大和棟とよばれる奈良地方に特有の屋根形状をもつ民家のスタイルが用いられている》とあって、うむなるほどとそんな地方色がしみじみおもしろい。しかし、橿原神宮前駅の一番の魅力は、《モダンデザインの影響》の内部かも。




橿原神宮前駅、午後3時。ちょいとはかなげな冬の午後の空の色が実に美しいのだった。橿原神宮参りはサボってしまったけれども、駅と空だけで気持ちがスーっと浄化されていくかのよう。



さて、ターミナル駅の利点をいかして、帰りは気分を変えて、南大阪線に乗る計画だった。当麻寺、道明寺といった風流な駅名が嬉しくて、路線図を見ているだけで「まほろば」気分が盛り上がる(ような気がする)のが近鉄電車の醍醐味なのだけれども、橿原線沿線には「新ノ口」なる駅が! と頭のなかは一気に十三代目仁左衛門になってしまって、嬉しいあまりに駅まで行ってみようかなとも思ったけれども、おのれが時間に追われる観光客の身であることを忘れてはならぬのだった。心を鬼にして、早々に大阪に戻るとしようと奮発して特急券500円を買って、停車中の南大阪線の特急電車に乗りこむ。2両編成の特急電車が実にかわいらしくて、ニンマリだった。


帰りの南大阪線ではコンコンと寝入ってしまって、目を覚ますと終点の阿倍野橋駅の直前。藤井寺駅から車窓越しに球場跡を見ようという計画が泡と消えてしまったと、ヨロヨロと下車したところで、午後4時。


天王寺から工芸高校へ歩いて、地下鉄で難波に出る。波屋書房でお買い物のあと、宗右衛門町へ。


帰りの南大阪線ではうっかり寝てしまったけれども、絶好のお昼寝タイムになったのはよかった気がする。なにやら英気がみなぎってきた! と日が暮れてしまう前にと突如張り切って、コートのポケットから『でっか字まっぷ 大阪24区』を取り出して、方角を確認。南大阪線の線路沿いを東へ直進し、大通りで右折、南へと直進する。この道路の下には御堂筋線が走っているのだなあと思いながらズンズン歩いていって、目当ての大阪市立工芸高校にたどりついた。




海野弘著『モダン・シティふたたび』で知っていつか行ってみたいなと思っていた大阪市立工芸高校。何度目かの大阪遊覧で晴れて実現、念願かなってやれ嬉しや、と実際に目の当たりにすると、ワオ! と、1925年竣工のモダーンな校舎が今も残っているということの素晴らしさに圧倒されて、嬉しくってたまらなかった。

 工芸高校は、大阪市建築課の設計である。この時期の建築課はなかなかユニークな才能を持っていたようである。このデザインは、ベルギーのアール・ヌーヴォーの建築家ヴァン・デ・ヴェルデがつくったワイマール工芸高校を模したといわれている。ワイマールでは、モダン・デザインのバウハウス運動がはじまるが、大阪でもそれに呼応するかのように新しい工芸高校がつくられていたのである。赤松麟作、須田国太郎、中村貞似、鍋井克之、田村孝之介、小磯良平などがここで教え、若いデザイナーが育っていった。
 この学校を見ていると、二十年代の大阪が、パリやベルリンといったモダン都市と敏感に交感しあっていた様子が浮んでくる。この学校には直接関係はないが、同時代にパリに渡ってデザイナーになった阿倍野出身の若者について私は考えている。ムネ・サトミとして知られる里見宗次である。彼は十六歳の時というから、一九二一年ごろ、パリに行って国立美術院に入り、絵画を学んだ。卒業後、家が没落したので、商業美術に転じ、一九三二年にパリの工芸美術展で一等に入選した。一九三三年には、オートー新聞社の「六昼夜兼行自転車競走会」の懸賞ポスターの一等になり、デザイナーとして認められた。……


【海野弘著『モダン・シティふたたび』(創元社、昭和62年6月1日)より「大阪バウハウス 大阪市立工芸高等学校」】

それにしても、海野弘さんの『モダン・シティふたたび』のすばらしいこと! これからずっと、折に触れて関西遊覧に出かけて、自分のなかの「モダン・シティふたたび」のようなものを追究したいものだなアと思って、なにやらふつふつと嬉しくなっている。


大阪工芸高校の出身といえば、早川良雄(昭和6年入学)。『聞き書きデザイン史』(六耀社、2001年6月15日)にて在学中のことを、

工芸高校では、山口正城先生から大きな影響を受けましたね。先生はバウハウス的カリキュラムを組んでおられたわけですが、後年になって考えてみますと、先生も東京高等工芸学校を出られてすぐだったはずなんです。そうすると、先生そのものがバウハウスを覚えたて(?)で、もうホヤホヤのアツアツを僕たちに教えられていたはずですよ。年齢で考えますと、先生もそのころ二十四、五歳じゃないですか。とにかく黒板に英語やドイツ語が乱舞するわけですよ。まだこちらは英語の初等教育をうけている段階なのに、そういうことは考えない人でした。僕たちはみな唖然としてしまって、これが新しいものだとか、面白いとか、そんなふうに考えられる学力すらなかった。とにかく闇雲ですよ。世の中にはすごいことがあるんだな、という程度だったでしょうね。先生は、相手のレベルを考えて手加減することがなかった。教えたくてしようがないというような情熱でしょうね。

というふうに証言していて、まさに「大阪バウハウス」! なのだった。




山口正城《連結せざる構造による縦線に伴う横線》(第5回美術創作家協会展・1941年)、図録『視覚の昭和 1930―40年代展』(松戸市教育委員会・1998年発行)より。



地下を御堂筋線が走っている道路を直進すれば昭和町駅に至るのだけれど、手前の文の里駅から谷町線に乗って天王寺駅で下車、御堂筋線に乗り換えてなんばに向かう。




御堂筋線の天王寺駅のホーム。御堂筋線はなんばまでで天王寺駅のホームに来たのはたぶん今日が初めて。モダーンなホームにいつもながらにうっとりだった。




そして、高島屋を見るのは春先の関西遊覧以来(id:foujita:20090228)。あの日、安西冬衛と小野十三郎に思いを馳せて難波から南海電車に乗ったことを懐かしく思い出す。あのとき補修中だった高島屋はすっかりきれいになっていた。




《12月18日より南海高島屋一部開店》ポスター(1930年)作者不詳。図録『関西のグラフィックデザイン展 1920〜1940年代』(西宮市大谷記念美術館、2008年)より。同年の非水の三越のポスターを彷彿とさせる気がすると、11月の宇都宮での杉浦非水展のよき記憶にひたる。



そろそろ日没。なんばの人混みをぬって、波屋書房に向かって早歩き。今回の関西遊覧では、波屋書房で『芸能懇話』の最新号の第20号(平成21年11月29日発行)、「特集 肥田晧三坐談――大阪の人と本――」を買うという大事な用事があったのだった。




というわけで、無事に手中に収めて、おなじみのカヴァーをかけてもらってご満悦。




カヴァーの側面に、宇崎純一のカヴァー絵の紹介と中公文庫版の藤沢桓夫著『大阪自叙伝』の扉の《ナンバの波屋書房は「辻馬車」時代の文学的フランチャイズだった。》。



波屋書房をあとにしたところで本日の関西遊覧の行程が無事に終了。千日前を北上して、日没後の道頓堀散歩に出る。




水島爾保布《千日前(大阪)》、『現代漫画大観第七編 日本巡り』(中央美術社、昭和3年9月5日)より。水島爾保布の絵が嬉しい。

御一新前迄は草茫々たる原つぱで獄門台があつたところ、今では代表的天下の熱闘地殊に法善寺裏の路次の左右、飲食店が櫛比した有様は、正に食道楽の大阪を如実に示してゐるものといへやう。


前川千帆《大阪の夜》、『現代漫画大観第七編 日本巡り』より。

川の都、橋の都、牡蠣舟の都、光の都、歓楽の都、夜の大阪は殊にこの感が深い、道頓堀がいゝ見本だ。知己を訪ねて見玉へ、キツト牡蠣舟へ引ぱつて行かれるだらう。そして行く道々、幾つかの橋を渡るだらう、橋の下には狭い川があつて番頭さんがボートをギツチラ漕いでゐるだらう。

道頓堀に出るとすっかり夜で、気分はそのまんま《大阪の夜》。三宅周太郎が通い詰めていた道頓堀五座に思いを馳せていると、相合橋に出た。



相合橋筋は朝日座の横なので、通称「朝ヨコ」! と気分は一気に橋爪節也編著『モダン道頓堀探検』(創元社、2005年7月)。朝ヨコにちょいと入ってみると、「道頓堀名物 相合餅」の看板のもと、おいしそうなお餅がたくさん並んでいた。




お正月用のお餅を買っておくとするかなと、嬉々と購入。大阪のお餅は丸い。




『はんなり大阪 和多田勝イラスト画集』(東方出版、1995年3月1日)より、「相合橋筋」。看板は少し変わっているけれども、かもし出す雰囲気は今もまったくおんなじ。



朝ヨコの古本屋さんで本を見たりしてふらふらと散歩のあと、もと来た道を戻って、相合橋を渡って、宗右衛門町へ。橋のたもとの食満南北の句碑(「盛り場をむかしに戻す はしひとつ」)を見逃したッと後になってきづいた。



糸屋町ではじまった本日の大阪町歩きは、宗右衛門町でおしまい。大きく迂回して、「宇野浩二の大阪」へと戻っていった恰好。宗右衛門町の小体なお店で河豚を食べて、今年最後の忘年会。二次会はホテルのバーでギムレット。いつのまにか、おおつごもりに突入していた。