読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

冬休み関西遊覧その1:阪神電車と六甲ケーブルと六甲山ホテル。

関西遊覧日記

午前8時東京駅発の新幹線は定刻通り、10時半過ぎに新大阪に到着。イソイソと在来線に乗り換えて、まずは大阪駅へと向かう。




新大阪から JR 大阪駅へ向かう電車に乗るのは意外にも今日が初めてなのだった(いつも地下鉄御堂筋線の方に乗っていた)。張り切って先頭車両に乗りこんで、正面の窓をうかがう。前回の遊覧の折は(id:foujita:20090814)、御堂筋線の車窓から見た鉄橋が、今日は真横に見える。ワオ! とさっそく興奮。大阪来訪のたびに、小津安二郎の『彼岸花』の鉄橋を車窓からのぞむ瞬間を心待ちにしている。




小津安二郎初のカラー映画、『彼岸花』(昭和33年9月封切・松竹大船)のラストシーン。『彼岸花』のラストが淀川の鉄橋になったのは厚田雄春の提案による。

 ……淀の鉄橋っていうのは、初めに一つ渡りまして、大阪駅に入って、またもう一つ橋がある。昔の東海道本線ですよ、それが二つあった。その上の方をねらえば、いいんじゃないか。あすこへ行けば大阪から西へ行くという感じが出るのではないですか、といったら、「それはいい、ハンティングしてみようか」ということになって、淀の鉄橋のあたりを見てまわりました。そしたら、ちょうどわびしい色が出ているのです。これはいい、アグファだからこの感じは絶対に出ますよ、ってぼくはいいました。その代わりに天気のいいときは逃げたい、曇天ねらいで行きたいって。大阪というのは工場が多くてむかしから青空というのは割合にないのです。「あれが大阪の特徴だから、あっちが曇っていればなおいいんですね」といったら「うまいところを考えた」って満足されました。……


【厚田雄春・蓮實重彦『小津安二郎物語』(筑摩書房、1989年6月) - 「7 お召列車に敬礼」より】

いつも御堂筋線で梅田に向っていたので、JR 大阪駅に下車するというだけで、なんだかとっても新鮮なのだった。駅到着直前に「ヨドバシカメラ」の巨大な建物が視界に入った。視界に入ったとたん、あの「ヨドバシカメラ」は大阪鉄道管理局の跡地なのだなアとしみじみとなる。海野弘著『モダン・シティふたたび』(創元社、昭和62年6月)のラストを飾る大阪鉄道管理局。わたしの関西遊覧はいつも『彼岸花』のラストシーンからはじまる。それが、今回は『彼岸花』のラストシーンと合わせて『モダン・シティふたたび』のラストシーンからはじまるということになった。……などと悦に入ったところで、大阪駅に到着。ホームに降り立つと、どこからともなく「播州赤穂〜」というアナウンスが聞こえてきた。心のなかで「御家老!」と叫んで、ついニヤニヤ。




《大阪鉄道局》(竣工:昭和3年3月)、『近代建築画譜』(近代建築画譜刊行会、昭和11年9月15日)に掲載の写真、『復刻版 近代建築画譜〈近畿篇〉』(不二出版、2007年6月25日)より。

 私の大阪の旅はターミナル(終着駅)に着く。大阪の駅ビルにのぼって見下ろすと、南には、私が歩いてきた街がひろがっている。そして北の方にまわってみると、はるかに淀川とそこにかかる新淀川大橋が見え、眼下には大阪鉄道管理局の黒っぽい建物が見える。私はこの建物を、私の大阪モダン都市紀行のターミナルと呼ぶことにしよう。
 鉄道管理局は、一九二八年に鉄道省神戸鉄道局工務課の伊藤滋氏によって設計されたものである。駅の裏側にあり、古びてくすんでおり、地味なこの建物をあらためて見る人は少ないかもしれない。しかし、もしこの前に立ち止って見るなら、モダン都市のしゃれたセンスがかすかにひびいているのを聞きとることができるだろう。三重のアーチを重ねた窓、その間の壁につけられた小さな黒い四角、そして玄関の庇の大らかな造型。玄関ホールの高い天井と、柱頭や天井枠の飾りは、やはりあの時代のものだ。


【海野弘『モダン・シティふたたび』(創元社、昭和62年6月)】

午後はピクニックへ出かける計画なので手荷物の軽減化を図るべく、今回はまっさきに定宿へと向かうのだった。と、大阪駅を出て堂島界隈へと歩を進めようとしたまさにそのとき、大阪中央郵便局の建物、もうすぐ取り壊されるという建物が間近に見えて、思いがけず、その美しさに陶然となった。大阪駅を下車するのは今回が初めてだったので、堂島へと向かうコースも、いつもとは違った方向から界隈へと入ることになった。そんなわけで、唐突に大阪中央郵便局の建物を目の当たりした格好だった。




現在取り壊し中の東京中央郵便局に匹敵するモダンぶりがまばゆいばかり。窓ガラスが冬空の太陽光線を反射させてキラキラ輝いている。そして、窓の向こうの階段の配置、窓と階段とが交差するその幾何学模様のハッとするような美しさ。



交差点から、大阪中央郵便局の建物を振り返る。窓の視覚の配置、上から二つ、三つ、四つと窓の数が増えてゆくという演出が心憎いばかり。東京中央郵便局も窓の配置が上が三つ、下が四つというふうになっていたっけ、と思いを馳せる。



無事に荷物を預けて身軽になったところで、スキップしながらもと来た道を戻って、ふたたび大阪駅方面へと向かう。その途中、毎日新聞社の跡地の堂島アバンザの前を通りかかる。




ビルの敷地に申し訳程度に保存されている、かつての大阪毎日新聞社の玄関部分。




遺蹟の下部に設置の案内板には、

 毎日新聞大阪本社は1876年(明治9年)、大阪最初の政論新聞として創刊された大阪日報の流れをくみ、1888年(同21年)、大阪毎日新聞となった。1911年(同44年)、東京初の日刊新聞・東京日日新聞を合併。1943年(昭和18年)社名、題字とも毎日新聞に統一した。
 大阪毎日新聞の社屋は大阪市東区(現、中央区)大川町にあったが、1922年(大正11年)3月、大阪市北区堂島一丁目の当地に社屋を建設し移転した。建物は地下1階、地上5階建て延べ12,000平方メートル、御影石を外壁に使った重厚な建物で、「大毎」の拠点として市民に親しまれ、太平洋戦争の空襲にも耐えた。
 毎日新聞大阪本社は1992年(平成4年)12月、西梅田の新社屋に移った。「堂島アバンザ」建設にあたり、大正時代の貴重な建築物である毎日新聞大阪本社堂島社屋の正面玄関の一部をモニュメントとして復元、保存する。


1999年3月

という解説が添えられている。




上の案内板にプリントされていた写真を拡大。大正11年竣工の建物。関東大震災後の一時期、三宅周太郎は大阪毎日新聞社に在籍して、今橋の未亡人の姉の家から出勤していた(大正13年1月に入社、同年7月に東京日日新聞に転ずる)。大正13年の半年間、この写真の奥の方角からテクテクと出勤してくる三宅周太郎をおもう。と同時に、この写真の手前の梅田駅方面から出勤してくる北尾鐐之助をおもう。


阪神電車にのって、モダン都市の沿線風景に思いを馳せる。


正午過ぎ、梅田から阪神電車にのって、三宮へ向かう。ホームに停車中の特急に足を踏み入れてみると、阪神電車ではいままで見たことのないボックス席なので、ワオ! といきなり興奮。この電車は山陽電鉄と乗り入れしているので、車両そのものは山陽電鉄のものが使われているのだという。実は山陽電鉄という路線をこのたび初めて認識したので、あわてて持参の『鉄道旅行地図帳 関西2』(新潮社、2009年1月刊)を参照する。海沿いを姫路に向って走る山陽電鉄の車窓はさぞかし素敵なことだろう、と将来の遊覧の夢が広がったところで、さらに詳細を確認すると、山陽電鉄の須磨あたりにはかつて、「一ノ谷」と「敦盛塚」という駅名があったのだという(いずれも昭和21年ないし23年にルート変更で廃止)。関西の路線図を眺めていると、それだけで歌舞伎気分が盛り上がることが多々あって、そのたびにふつふつと嬉しいのだった。


阪急電車か阪神電車で、阪神間を「移動」する、ただそれだけのことが、毎回の関西遊覧の最大のよろこびのひとつとなっているので、今回もしょうこりもなく、阪神電車に乗っただけで大はしゃぎ。今回は阪神沿線を下車することなく、単に三宮へ直行するというだけなのに、それなのにそれなのに電車に乗るだけでたのしいのだから、ずいぶん安上がりな「遊覧」なのだった。




《阪神電車沿線案内》。画家の名前は不明だけれども、いかにもチャーミングな表紙が嬉しいではありませんか。具体的な刊行年も不明だけれども、甲子園ホテルが描かれていること、昭和18年開通の阪神武庫川線の記載がないこと等々で、戦前の印刷物であることは確実。




梅田を出発した阪神電車は、福島の次の野田から地上に出る。そして、地上に出たとたんに、海の近くの淀川を渡る。この眺望が眼前に開けたときの歓喜といったら! もうぼんやり座っている場合ではなく、眼前の眺望に圧倒されて、車内のあっちをふらふらこっちをふらふら、いつも目がランランとなる(完全に挙動不審者)。左側一面に海が開けて、前方には関西ならではの低山のつらなり、その車窓の大パノラマに心がスーっと浄化されるかのよう。それにしても、なんてすばらしいのだろう! といつまでも胸躍らせているうちに、電車は尼崎に停車。尼崎から見えるガラス工場の眺めがいつもなんだか好きなのだった。




《旭硝子工場》(竣工:昭和3年)、『近代建築画譜』より。




上掲の《阪神電車沿線案内》より、尼崎近辺を拡大。上の旭硝子工場の写真に見える水面はここに描かれている港へ至る河なのだなあと、うなずくことしきり。出屋敷から東浜に至る路線は、昭和4年4月開通の「阪神尼崎海岸線」(昭和37年11月廃止)。尼崎と大物の間の細い曲線はなんだろうと確認してみたら、かつて「尼崎港線」と呼ばれていた路線であることを知った(正式には福知山線の一部で「尼崎港線」は通称。昭和59年2月1日に廃止。)。これがかの「尼崎港線」! 頭のなかは一気に宮脇俊三の『時刻表2万キロ』!

 「尼崎港線」は、福知山線の起点尼崎のつぎの塚口から尼崎港まで四・六キロの線である。大工業都市尼崎を南北に貫通しているから活況を呈しそうな線であるが、走るのは貨物列車ばかりらしく、旅客列車は朝夕の二往復しかない。
 夕方の尼崎港行は塚口を16時38分に発車する。それに乗るためには大阪発16時05分の福知山線に乗ればよい。
 大阪に近いのに田舎の駅のような塚口に着いて、一五分ほど待っていると、ディーゼル機関車に牽かれた二両連結の客車列車が入ってきた。私が乗った前の車両には客は一人もいなかった。連結器の衝撃が前後にがっくんがっくんときて、至極緩慢に走りだすと、まもなく東海道線の上を高々とまたぎ、土手の上のごみ捨て場のような無人駅に停車する。ホームの柵はこわれ、駅名標は傾きペンキも剥げているが、「尼崎」と書いてある。
 ちゃんとした尼崎駅は東方約三〇〇メートルの位置にあり、ここから見下ろせるが、こちらも粗末ながら尼崎であって、西尼崎でも尼崎土手でもない。
(中略)
 降りる客も乗る客もない尼崎を発車すると、線路は地平に下って、建て混んだ家並みのなかでまた停まる。これも無人駅の金楽寺で、近くにそういう名の寺がある。駅前広場などまったくないから、路地裏で臨時停車しているような感じがする。
 国道二号線と阪神電鉄の下をくぐり、右へ急カーブしながら、きいきいと車輪を軋ませて16時52分、終点尼崎港に着いた。


【宮脇俊三『時刻表2万キロ』(1978年7月発行)より】

などと、宮脇俊三の文章が絶妙なので、つい長々と抜き書き。


今回も無事に車窓からガラス工場を見ることができて嬉しい。興奮しすぎてちょいと疲れてきたので(アホ)、右側のボックスシートに座ることにする。のんびり電車に揺られながら、車窓の山なみがしみじみすばらしいなアと、いつまでもうっとり。電車は武庫川を通過してゆく。一度だけ下車したことのある武庫川にまた下車したいと思いつつも、今回も降りそこねた、またいつか近いうちにと思っているうちに、電車は甲子園に到着。野球に特に関心があるというわけでもないのに、阪神電車から甲子園球場が見えてくると、いつもそれだけで祝祭的な気分になって、気持ちがフワフワになる。




さながら絵巻の様相を呈す上掲の《阪神電車沿線案内》で、もっともにぎやかな雰囲気を醸し出すのが、ここ甲子園あたり。いかにも、鉄道会社による郊外の遊覧スポット経営という感じ。阪神パークでのいちご狩りもたのしそうだし、武庫川のしじみ狩りもたのしそう……などと、いつまでも眺めてたのしい。


と、《阪神電車沿線案内》の甲子園風景は、関西遊覧のたびに胸躍らす関西私鉄の鉄道網の整備による「京阪神モダン生活」の形成といったものの典型をまざまざと突きつけられた格好で、とにかくもたいへん興味深い。鉄道会社がターミナルにはデパートを、沿線には住宅地、海水浴場や遊園地といった遊覧スポットを建設したという、明治末から昭和初期の関西私鉄拡張について、言葉ではすっかりおなじみでありながらも、こうして沿線案内というかたちで視覚としてあらためて提示されると、さらに感興が沸いてくるのだった。買ってよかった沿線案内ということで、このたびの阪神電車乗車(と沿線案内購入)を記念して、詳細を確認しておくとしようと、『阪神電気鉄道百年史』(2005年7月発行)をフムフムと参照してみると……。


阪神パーク、すなわち《甲子園球場をはじめとする各種スポーツ施設の建設、住宅地の造成・分譲などに加えて、動物園や水族館を備えた遊園施設》は、昭和3年の「御大典阪神大博覧会」の会場を利用して建設され、昭和4年7月6日に「甲子園娯楽場」の名前で営業を開始したという。その「御大典阪神大博覧会」は昭和3年9月から11月にかけて開催されたとのこと。「御大典」といえば、井上甚之助が宣伝部長をしていた京都大丸の昭和3年における大拡張も御大典のためだったことをまっさきに思い出して(同年、天野忠と藤井滋司がそろって大丸に入社)、関西モダン都市の各方面における「御大典」の余滴のようなものにについて、ちょっと注目してみたいなと思った。昭和4年開設の「甲子園娯楽場」は、昭和7年9月に動物園と遊戯設備を増強したのを機に、「阪神パーク」と改称、昭和10年3月には、水族館が開設された。




北村今三《秋色ノ阪神パーク》(「新日本百景」昭和14年頃)、図録『特別展 川西英と神戸の版画』(神戸市立小磯良平記念美術館、1999年10月7日発行)より。『阪神電気鉄道百年史』に《猿のコレクションとしてモンキーアパートを設けたことが自慢であった》とある。




そして、戦前の《阪神電車沿線案内》の甲子園あたりで、阪神パークとともに目をひくのが、北上に位置する「甲子園ホテル」。かつて、東神戸から野田までぐるっと走る路面電車、すなわち「阪神国道線」という電車があったことを、この沿線案内を見て初めて知った。甲子園ホテルは、その阪神国道線の線路の北側、「上甲子園」と「武庫大橋」(ともに昭和2年7月開通)の駅の間に位置している。この阪神国道線、今も同じ路線を阪神バスが運行しているようなので、いつかの阪神間遊覧の折にはバスに乗るのもよいかも! と将来の遊覧のたのしみがさらに増える。




《甲子園ホテル》(南側外観)、『近代建築画譜』より。現在武庫川女子大学内の「甲子園会館」になっている(http://www.mukogawa-u.ac.jp/~kkcampus/)。いつか見学に行ってみたいものだなあと思い続けて、幾年月なのだった。

 阪神電鉄では、甲子園に大規模なホテルを建設すべく、当初は海浜ホテルとして甲子園浜の立地を計画していた。ところが、阪神電鉄が専門家として迎えた帝国ホテル元常務の林愛作は、島社長も同意していた海浜に近い場所が気に入らなかった。そのため、ホテルの立地は松林が鬱蒼とした武庫川畔の景勝地である鳴尾村小曽根に変更されることになり、同地の東側に土地を買い足す必要が生じた。建物の設計は、東京の帝国ホテルをつくったフランク・ロイド・ライト門下の遠藤新で、鉄筋コンクリート4階建て、延べ面積2000坪であった。
 甲子園ホテルは、1930(昭和5)年2月設立の株式会社甲子園ホテルによって経営され、同年4月に開業した。阪神電鉄が直営形式をとらず、別会社形式としたのは、ホテル経営の専門性を十分考慮したうえでの判断であった。甲子園ホテルの社長には井上周、専務には林愛作が就任し、阪神電鉄は同社に土地を貸与するとともに、建設資金の全額を長期・低利で融資するなど、必ずしも順調とはいえなかったホテル経営を一貫して支援した。群を抜く広大な敷地に端麗な建設美と鬱蒼たる庭園美をあわせもった甲子園ホテルは、阪神間の社交クラブとして機能するとともに、甲子園経営地の象徴として彩りを添えた。
 しかし、外観の華やかさとは裏腹に、甲子園ホテルは経営的には恵まれなかった。(中略)。甲子園ホテルの華やかな時期はきわめて短く、1944年6月に川西航空機の施設に転用されたあと、翌7月には大阪海軍病院として海軍省に接収された。ホテル経営が継続できなくなった甲子園ホテルは、すでに44年6月の株主総会で解散を決議していた。


【『阪神電気鉄道百年史』(阪神電気鉄道株式会社、2005年12月27日発行)- 「第3章 競争の激化と戦時体制」より】


川西英《灘酒蔵》(1936年7月26日)、『神戸百景』(1933〜36)。図録『特別展 川西英の新・旧「神戸百景」』(神戸市立博物館、2001年7月20日発行)より。


阪神間を移動すると、毎回しょうこりもなく灘五郷に胸躍らせ、近年すっかり苦手になってしまった(かつては大好物だった)日本酒復帰への思いが煮えたぎるのがいつものお決まり(来年以降の懸案)。そして、西宮で思い出すのが、灘の酒蔵と縁の深い「西ノ宮のえびす神社」なのだった。古海卓二が西宮の戎神社を紹介したあとで、《私が、京都の映画会社にいた時分、よく灘にロケーションに行ったものである。灘には有名な醸造元の蔵が軒を並べていて、時代劇の撮影には打ってつけであった。》と書き添えていたことを思い出して(「酒」昭和25年10月号、酒の友社発行)、西宮通過の際も大いによろこぶ。尼崎ではガラス工場が嬉しく、甲子園では球場が嬉しいのとおなじように、西宮では戎神社が嬉しい。




というわけで、「沿線案内」より西宮と香櫨園あたりを拡大。赤い細線は阪神経営の「西宮循環バス」を示している。阪神間きっての海水浴場、「コーロエン海水浴場」。今年の早春の関西遊覧で、南海電車にのって浜寺公園へ出かけて、モダン関西における海水浴場に思いを馳せたのが懐かしい。また南海電車にも乗りたいなと思う(今度は戦前の沿線案内片手に乗車したい)。




早川源一《「海へ」甲子園香櫨園海水浴場 ポスター》(昭和15年)、図録『関西のグラフィックデザイン展 1920〜1940年代』(西宮市大谷記念美術館、2008年)より。



阪神電車で三宮へ向かっているだけで、駅を通過するたびに大騒ぎして本当にアホだけれども、阪神電車のなかで、わたしにとってもっとも心躍る瞬間は、なんといっても住吉と御影を通過する瞬間なのだった。


東京山の手育ちの戸板康二の実家が、父の転勤により昭和7年から昭和12年までの約五年間、阪神間の住吉にあった、というくだりに前々から愛着たっぷりで、「阪神間モダニズム」まっただなかの時期に、年3度の休暇に阪神間に「帰省」していたという「阪神間の戸板康二」にまつわる諸々のことを追究したいと思い続けて、幾年月。戸板康二の阪神間の「実家」は住吉のどのあたりだったのか。慶應義塾在学時の名簿には帰省先の住所として「神戸市外住吉村畔倉」と記録されているので、現在の「東灘区住吉宮町」の2丁目か3丁目のあたりになるようだ。というわけで、最寄りは阪神電車の住吉駅。戸板康二の父山口三郎は5年間の転勤生活を、阪神電車にのって大阪へ「通勤」するモダン関西のサラリーマンとして過ごしたのだった。




北村今三《御影停留所》(『黄楊』1所収「駅構内の風景」、昭和6〜8年頃)、同じく図録『特別展 川西英と神戸の版画』より。戸板康二は住吉への「帰省」時の昭和9年の春先に、父の友人の実業家で、大の古書通である藤木秀吉の書斎に招かれて、隣の御影へと出かけてゆき、歓待を受けた。昭和4年に高架化した阪神御影駅、この傾斜具合は当時とまったくおんなじ。


前回の夏休みの関西遊覧の折に小磯良平記念美術館で購った図録がすっかりお気に入りで、川西英のみならず、その周辺の作家も佳品ぞろい。この北村今三も実にいいのだった。創作版画における「モダン都市」という点で、関東同様に関西の版画も実に見どころたっぷりで、創作版画とその時代への思いがますます煮えたぎっている。上の北村今三が描く御影の高架駅も、典型的な「モダン都市」の風景だなあと思う。


今回の関西遊覧に際して、フムフムと読みふけった『阪神電気鉄道百年史』では、

1920(大正9)年に阪急神戸線が開通すると、阪神間の私鉄競争は現実のものとなり、しだいにその競争が激化していった。

という、「大石―住吉間の高架化」の冒頭の一節が指し示すような、阪急と阪神の攻防と両者の熾烈な競争による「阪神間モダン」形成にたいへん胸躍るものがあった。まさに手に汗をにぎるような興奮。1920年代とともにはじまった「阪神間モダン」における阪急と阪神の攻防のカケラを探索することが、いつのまにか、今回の関西遊覧初日のテーマになっていたのだった。


『阪神電気鉄道百年史』によると、大正9年開通の阪急神戸線に対抗するうえで、まっさきに検討されたのが、「併用軌道部分の専用軌道化」と「大阪・神戸の本線両端における地下延長路線の建設」だった。阪神電車にはかつて、条例の適用により、やむなく「道路との併用軌道にした区間」があった(神戸―岩屋間と御影付近)。いわゆる路面電車で、道路上を自動車と一緒に走るのだから、当然安全上運転速度に制限が加えられていた。これを電車の「専用軌道」、すなわちふつうの線路を新たに敷設することで、梅田・三宮間を阪急より早くに電車を走らせるのが阪神にとって急務となった。とにかく阪急よりも早くに三宮―梅田間を走らせないといけない。




『阪神電気鉄道百年史』より「御影付近高架線」(p135)。昭和4年7月15日、大石―住吉間の高架化をもって、阪神電車は全線の「専用軌道化」へ向けて大きく前進したという。ウムなるほど、北村今三が版画に描いた御影の駅は、そんな阪神電車の悲願の達成によるのだなあと、梅田から三宮に向かうとき、電車が住吉(たいてい通過)に着いたら、このことに思いを馳せたいと思った。




住吉駅の階段。阪神沿線でもっとも乗降客が少ないという小さな駅、住吉。昭和4年の高架化によるモダーンな丸窓の階段が今も残っていて、眺めてうっとり(この写真はさる方からのいただきもので、実はわたしは下車したことがない。いつか必ず……)。



そういう次第で、三田在学中の戸板康二が、昭和7年から12年までの5年間に阪神間に「帰省」した時期は、すでに住吉と大石の間の高架化が実現していた時期だった。一方、阪神電車の悲願だった完全「専用軌道化」の実現は、三宮―岩屋間の地下線路の開通、すなわち昭和8年6月を待たねばならない。昭和8年の夏休みの帰省のおりに、阪神電車にのって住吉から神戸へ出かけようとしたら、岩屋を過ぎると電車が地下に入るので、戸板青年びっくり、ということになっていたのかも、と想像してニヤニヤ。




上掲『阪神電車沿線案内』より、岩屋―神戸間を拡大。誇らしげに赤い直線で「神戸地下鉄」と記入されてある。岩屋の下の「東神戸」からの路線が今回初めて存在を知った「阪神国道線」(昭和2年7月開通、昭和49年3月と翌50年5月に段階的に廃止)。


阪神三宮駅とそごうの「モダン神戸」の残骸さがし。阪急に乗り換えて、六甲へ。


阪神電車の三宮駅が地下にあるということについて、今まで深く考えたことがなかったけれども、『阪神電気鉄道百年史』を閲覧したことで初めて、昭和8年6月の阪神三宮駅の地下化はまさしく「阪神間モダニズム」だ! ということがヒシヒシと実感を持って胸にせまってきた。


阪神電車の三宮駅のことが初めて気になったのは、夏休みの関西遊覧の折に、溝口健二の『浪華悲歌』のロケ地ということで、阪急京都線の大宮駅に途中下車して、大はしゃぎをしていたときのこと(id:foujita:20090815)。帰宅後に参照した『近代建築画譜』(昭和11年9月15日初版)に「新京阪京都地下鉄」として掲載されている写真が、阪神三宮駅の間違いだと気づいて、それがなんだかおもしろくて、今まで何気なく通り過ぎていた、阪神の三宮駅を一度じっくり観察したい気になった。




これが、『近代建築画譜』に「新京阪京都地下鉄」として掲載されている写真。




川西英《阪神地下鉄のりば》(1933年11月20日)、「神戸百景」(1933〜1936)。図録『特別展 川西英の新・旧「神戸百景」』(神戸市立博物館、2001年7月20日発行)より。夏休みの関西遊覧の折に、小磯良平美術館で購った図録『特別展 川西英と神戸の版画』に感激のあまり、こうしてはいられないとあわてて、戦前と戦後の両方の「神戸百景」を全て収録する図録を購って、ホクホクしていた。戦前の『神戸百景』は1936年10月に神戸大丸で発表されたもので、この図録には、川西の友人池長孟が昭和19年に書いた解説が図版に添えられている。この《阪神地下鉄のりば》には、

阪神電車は阪急などよりは余程早くからついた。兵庫から態々この電車で大阪の三越などへ買物に出かけたものだ。始の駅は磯上通、即ち今の十合百貨店の南側にあった。地下鉄がついてからは元町と三の宮の2ヶ所に乗り場が出来たのである。

というふうに、池長孟は書いている。『阪神電気鉄道百年史』を熟読したあとに目にすると、いかにも実感がわいて、ふつふつと嬉しい。


と、川西英のこの版画を見て、『近代建築画譜』の写真とまったく同じ! と遅ればせながら気づいて、このまんまの柱が今も阪神三宮駅のホームに残っているのだ、そういえば今まで阪神電車の三宮駅のホームに行くたびに、柱のレンガがそこはかとなくモダンだなアと思っていたものだった。次回の関西遊覧の折には、もっとしっかりと観察しないと! と俄然張り切っていたところで、このたびの年末の関西遊覧がやって来た次第。



ちなみに、『近代建築画譜』においては、阪神の三宮駅は「鉄道」ではなくて「ビルディング」のページの《阪神ビルディング》のうちの1枚として掲載されている。




「阪神ビルディング 地下乗降場」、『近代建築画譜』より。昭和8年6月の阪神三宮駅の地下駅完成の三ヶ月後の、同年9月に「阪神ビルディング」が開業、「十合百貨店」をテナントとして、はなばなしく三宮地下駅直結の百貨店が開店した。これが現在の「そごう」。鉄道会社が自ら百貨店経営を行うのではなくて、自社ビルをテナントとして利用しているという点で、東武ビルディングの浅草駅の松屋(昭和6年11月開店)、南海ビルディングの難波の高島屋(昭和7年7月開店)とまったく同じパターン。一方、梅田は、阪急百貨店(昭和4年3月開業)と阪神百貨店(昭和8年3月に前身の「阪神マート」開業)ともに、鉄道会社の直営というのがおもしろい。……などと、モダン都市におけるターミナル駅の百貨店に関してはなにかと感興が尽きないのだった。



正午過ぎに梅田から乗った阪神電車の特急は岩屋を過ぎると地下鉄となり、やがて三宮駅に到着し、ゾロゾロと乗客が降りてゆく。




いっせいに乗客が降りて、電車が姫路に向って去ったあとの閑散としたホームで、阪神三宮駅の柱のレンガを間近に観察して、ふつふつと嬉しい。




『近代建築画譜』の写真や川西英の版画を思い浮かべつつ、階段の上からホームを振り返ってみる。

地下を13m掘り下げて設けられた終点の三宮停車場は、8両連結の発着が可能な長さ125m・幅25mのホームを4本備え、地下2階の改札口からは、4個のエスカレーターで建設中のターミナル・ビルと省線三ノ宮駅に連絡していた。当時、わが国では最大級の地下駅と言われた。

と『阪神電気鉄道百年史』にある阪神三宮駅の完成は昭和8年6月17日のこと。このあと、三宮―元町間の地下延長線の建設工事を経て、昭和11年3月18日に延長線の営業を開始する。それが現在残っている三宮駅。



戸板康二は昭和9年夏に、「演芸画報」の懸賞論文(テーマは「尾上菊五郎に寄す」)が見事採用されて(『歌舞伎を滅ぼす勿れ』昭和9年8月号に掲載)、住吉への「帰省」の折りに、稿料(3円)を持って神戸のそごうに出かけて、谷崎潤一郎の『春琴抄』(創元社、昭和8年12月初版)の朱漆塗り本(定価2円80銭)を購った。……と、いままで何気なく聞き過ごしていた、そんな挿話に対しても、『阪神電気鉄道百年史』を参照してみると、さらなる感興が湧いてくるのだった。


阪神電車の当時の終点だった三宮停車場の地下ホームが完成した昭和8年6月時点では建設中だった「ターミナル・ビル」は、地下鉄完成3ヶ月後の同年9月24日に竣工。

延べ3500坪を有する地下2階・地上7階のターミナル・ビルで、地下鉄改札口から「上下二段ノ各幅員十米ノ通路デ南に向ヒ、終点ビルヂングノ下ニ至リ(中略)乗車専用ノ四台ノエレベーターハ間断ナク運転」する好立地にあった。その後、37年3月に三宮阪神ビルは左隣の増築工事が認可されたが、戦時体制によって中断を余儀なくされた。また、元町への延長線敷設にともなって、36年9月3日には5階建て・延べ1000坪の元町阪神会館を建設し、ニュース映画場、食堂、喫茶店などが入居した。

と、『阪神電気鉄道百年史』にある三宮の「ターミナル・ビル」は、当初は三越が入る予定だったのが、昭和6年1月に賃貸先が十合呉服店に変更され、最上階の食堂のみ阪神の直営とする契約が取り交わされたとのこと。





《阪神ビルディング》(竣工:昭和8年9月)、『近代建築画譜』より。



戸板康二が「演芸画報」の稿料で、昭和9年の夏休みにホクホクと住吉から阪神電車に乗って三宮駅の地下ホームにたどりついて、出来たてホヤホヤの連絡通路を通って、神戸のそごうへ出かけたという挿話が実感をもって迫ってくるのだった。昭和8年9月に開業の神戸そごう。戸板青年が阪神電車にのって神戸に出かけた昭和9年、三宮停車場とそごう、それをつなぐ地下通路のどれもこれもが完成から1年を過ぎた頃で、おなじみの都市風景として神戸市民に定着した頃なのだなあ、まさしく「阪神間モダニズム」だなあと、しみじみとなる。




そんなわけで、改札を出て、そごうに向かうときのその地下通路の観察にも興趣が尽きないのだった。


と、地下通路を歩いてゆくといつのまにか、そごうの地下売り場に入っている。買い物どころではなくて、このそごうの建物の骨組みは空襲でも震災でも倒壊することはなかったということを思って、胸がいっぱい。だいぶ補修がほどこされていても、ところどころでモダン都市時代の残骸を見出すことができるのが、戦前のデパート観察の毎回のおたのしみ。というわけで、いつものとおりに階段へと向かってみると、




いかにも重厚な階段を発見して、ワオ! となった。この写真ではなんだかよくわからぬ感じだけれども、階段脇のガラス窓からして、いかにも洒落ていて、にっこり。




そして、上を見上げると、こんなステンドグラスもある。





薄暗い階段の上の天井のランプは8個の電灯のうち3個は点灯せず、さらに薄暗く、壁にもつつましくランプが灯っている。



と、だいぶ改修がほどこされつつも、戦前に建設のデパートにゆくと、階段やエレベーターに当時のおもかげを見つけることが多くて、発見のたびに嬉しい。通行人の迷惑になりつつも、しばし立ちすくんでしまうのだった。




外に出ると、青い青い空。阪急三宮駅に向かう途中、そごうの外観を眺める。全体はほとんど補修がほどこされていて、半円状の形態のみに「1930年代神戸」をしのぶことができる。カーヴの左奥にある窪みは、のちに増築された部分。この部分だけ阪神大震災で倒壊して、いまも窪んだままになっているという。




中山岩太《神戸風景(三宮)》1939年頃、『中山岩太 MODERN PHOTOGRAPHY』(淡交社、2003年4月)より。




「ヨシモト」第2巻第11号(昭和11年10月)の広告。この号の表紙は益田義信。表紙をめくると、見返しのポリドールの広告(高田浩吉主演『浮名囃子』松竹下賀茂映画主題歌)、「神戸そごう」の広告。



東京の浅草松屋、上野松坂屋とおんなじように、戦前の百貨店見物はたのしいなアと、極私的「神戸モダン」を堪能したところで、阪急電車に乗り換えるべく、イソイソと阪急三宮駅へ向かう。と、その前に、古い地下出口を発見して、寄り道をする。




そごうから地上に出てしまったので、出口を先に見ることになってしまったけれども、




ちょっとズルをして、阪神三宮駅の地下停車場から通路をたどってここまで来たと想定して、地上にあがってみる。壁面といい、ドーム状の狭い天井といい、なんとも雰囲気たっぷり!




川西英《地下道出口》(1936年7月22日)、「神戸百景」(1933〜1936)。まさしく川西英の「神戸百景」そのまんまの地下道出口を発見したのだった。池長孟はこの版画の解説として、《十合百貨店前。これから阪神電車の三宮駅に下る。》と寄せている。



阪急乗場へ向かう途中の、JR の改札口もなかなかみどころたっぷりだった。しかし、観光客は時間に追われているので、いつまでも観察していたらキリがないのだ。イソイソと阪急電車の切符を買って、高架の阪急三宮駅のホームへ。「地下」の阪神と「高架」の阪急、それぞれの三宮について、これまで深く考えたことはなかったけれども、『阪神電気鉄道百年史』を閲覧したおかげで、1920年代とともにはじまった阪急と阪神の攻防の結果としてのそれぞれの三宮を深く心に刻むことになって、なんとも格別なことであった。


しかし、「阪神間モダニズム」における、阪急と阪神の熾烈な攻防の残骸はまだまだ数多い。次は六甲山へと向かう。


六甲ケーブルにのって、六甲山上駅で近代建築と眺望を満喫して、「阪神間モダニズム」をおもう。


阪神電車を下車したばかりだというのに、三宮から早くも次は阪急電車の各駅停車に乗り込んで、六甲駅で下車。いかにも「阪神間」という感じのこぢんまりとしつつも瀟洒な(のような気がする)駅近辺がたいへん好ましい。ちょっとお茶でも飲んでいきたいところだったけれども、いつだって観光客は時間に追われている。イソイソと目当ての停留所を探して、無事にたどりついてほっと一息。六甲ケーブルの「六甲ケーブル下駅」前に停まるバスを待つ。このあたりは学校がたくさんあるようなので、いつもだったらバスは学生でいっぱいなのかなと思う。ちなみに、阪急六甲駅前から「六甲ケーブル下駅」に向かうバスは阪急バスではなくて、神戸市バス。


このたびの冬休みの関西遊覧の初日のテーマは、1920年代とともにはじまった「阪神間モダニズム」における阪急と阪神の攻防のカケラ探索となっていたのだけれども、その阪神と阪急の手に汗にぎる熾烈な争いのハイライトともいえるのが、六甲山における諸事業なのだった。『阪神電気鉄道百年史』(2005年7月発行)の当該ページには、《1920年代以降に繰り広げられた両社の熾烈な競争のなかでは、最後の勢力圏争奪競争として位置づけられる。》とあり、

1927(昭和2)年5月26日に兵庫県有野村から251町歩の土地を買収した阪神電鉄は、34年ごろには六甲山において、「土地経営、ホテル、貸別荘を直営し、傍系の六甲越有馬鉄道会社をしてケーブルカー、自動車(バス及貸切車)を経営せしめ」ていた。これに対して阪急も、「土地経営、貸別荘を直営し、傍系の宝塚ホテル会社をしてホテル、食堂を、同六甲登山架空索道会社をしてロープウェーを、六甲山乗合自動車会社をして乗合自動車を経営せしめ」るなど、「殆ど同一の事業を両者各個に経営して競争せる」という状況であったのである。

と続いている。


冬休み、関西遊覧に出かけることになってまっさきに思い立ったのが、六甲ケーブル。前回夏休みの叡山ケーブルがたいへんすばらしかった(id:foujita:20090815#p2)。山上からの眺望もさることながら、町中から20分ほど移動しただけで山の麓にたどりついて、すぐにハイキングを楽しめるという、関西独特の都市構造がとても面白かったのだった。東京育ちの身にとってはそれだけで驚異的、「これぞ関西」と目から鱗だった。子供時分、ハイキングに出かけるとなると決まって高尾山だった。中央線に延々揺られて山のふもとで早くも疲労困憊になっていたものだった(生まれながらの根性なし)。と、叡山ケーブルがあんまりにもたのしかったものだから、「京阪神モダン生活」における鉄道会社の観光事業のひとつとしてのケーブルカーをちょっと追究したくなり、叡山ケーブルの次はぜひとも六甲ケーブルだ! とメラメラと決意したのだった(さらにその次は生駒ケーブルと決めている)。


そんなわけで、六甲ケーブルについてちょいと調べたいなと思ってみたら、上記の『阪神電気鉄道百年史』でさっそく1920年代とともに始まる阪神と阪急の熾烈な競争をマザマザと見せつけられることとなって、ますます面白がっていた次第。




《山は朗らか 一番便利な六甲ケーブルで》、六甲ケーブルの戦前のパンフレット、六甲越有馬鉄道営業係発行。




上のパンフレットを広げると片面には《六甲山案内図》。パーっと広がる六甲山の全体図。まさにここが、阪急と阪神の両者によって、「殆ど同一の事業を両者各個に経営して競争せる」状況となった現場。



今まさに乗ろうとしている「六甲ケーブル」は、六甲越有馬鉄道の経営で昭和7年3月に開設された。阪急からの方が近い六甲ケーブルがなぜ阪神の傍系になったかについては、『阪神電気鉄道百年史』に詳しい。大正12(1923)年に六甲越有馬鉄道が設立し、六甲ケーブル建設を始めようとしたとき、起点を八幡(阪急六甲駅)に設定して阪急に支援を求めたもののはっきりした回答を得られなかったため、起点を阪神の石屋川停留場に変更して、阪神にそっくりそのまま計画を持ち込んだ結果であるという。その後紆余曲折を経て、「六甲ケーブル」は土橋駅―六甲山駅(昭和48年に「六甲ケーブル下」駅―「六甲山上」駅と改称)に敷設されて、新在家から土橋まで阪神バスが運行されることになった(当初は路面電車が計画されていた)。同年の昭和7年の12月には、六甲山上の巡回バスの営業も開始された。……というわけで、現在、阪急六甲駅からケーブル下に至るバスが阪急バスではなくて神戸市バスである、というのも、その戦前の熾烈な競争の名残なのかなと思って、ニヤニヤだった(六甲方面へ向かう阪急バスは一気に六甲山上へ行ってしまう)。




というわけで、上掲の「六甲山ケーブル」のパンフレットの《六甲山案内図》においては、新在家から土橋へのバス路線がかきこまれていて、上方には山上遊覧バスのコースも明確に示されている。阪神傍系の六甲越有馬鉄道発行のこのパンフレット、阪急電車に関してはことごとく省略されている。ちょっと微笑ましい。



無事に待望のバスがやって来て、「六甲ケーブル下」へと向かう。駅の案内板によると距離は2キロとのことだったから、健脚を誇る身としては2キロなんてすぐだから歩こうかなと一瞬思ったのだけれども、大事をとってバスを待った。で、いざバスに乗ってみると、歩かなくてよかったと心から思うのだった。だんだん急になってゆく道路を走って、午後2時前に六甲ケーブル下駅に到着。




到着したとたん、わーいわーいと、山小屋のような駅舎に大はしゃぎ。開業は昭和7年だけれども、昭和13年の阪神大水害を機にこの山小屋風に建て替えられたとのこと。上掲のパンフレットの《六甲山案内図》における「土橋駅」は大水害以前の駅舎。



午後2時。六甲ケーブルは山上に向かって、出発。冬の寒い季節なので、乗客は数人ほどで車内は閑散としている。窓がないので、吹きっさらしで山上へ行かねばならない。雨が降ってなくてよかったッと、寒いなか、わーいわーいといつまでも大はしゃぎ(しかし、寒いので写真撮影は断念)。




川西英《六甲ケーブルカー》、画集『神戸百景』(1952〜61)。図録『特別展 川西英の新・旧「神戸百景」』より。今もまったくこの雰囲気そのまんま!



10分後、六甲山上駅に到着して、ゼエゼエと急勾配の階段をのぼってゆくと、




六甲山上の駅舎の建物がいかにもモダーンで、これほどまでにすばらしいなんて! と、ワオ! と感嘆だった。




2時10分にケーブルカーが到着し、六甲山上を巡るバスは5分後の2時15分発だけれども、このバスは見送って、次のバスの時間(2時45分)までゆるりと駅舎見物をすることにする。古い柱と不釣り合いな真新しい時計。





2時15分発のバスが行ってしまって、作業中の係員の方以外は人っ子ひとりいない静かな駅構内。石造りの薄暗い構内で灯る電燈のなんと素敵なこと!




壁の丸窓がモダン建築ならではのチャーミングで、じっくりと眺めて嬉しい。





チャーミングな円形といえば、階段が実に見事で、デパートと同様に、建物見物の際には階段に要注目なのだった。見とれるあまりについ階段を上り下り。現在、階段の先は立入禁止になっているけれども、




上掲の六甲ケーブルのパンフレットの《六甲山案内図》の「六甲山駅」を拡大してみると、当時はここに「阪神食堂」があったとのこと。もしかしたら、かつて階段の先は食堂だったのかもと思う。




それにしても、六甲ケーブルを上がった先の六甲山上駅(昭和7年の開業時は「六甲山駅」)は実に見事な空間だった。夏休みの叡山ケーブルでも、モダン建築の残骸が面白かったけれども、まさに「残骸」でここまで見事に残ってはいないので、駅舎見物、近代建築見物という点では六甲ケーブルに軍配を上げたい……などと、夏休みの叡山ケーブルを追憶しつつ、ベンチでひと休み。次のバスまでの30分間、さすがに待ち時間としてはちと長かった(寒さが身にしみてくる)。





座っていても身体が冷えるだけなので、外に出てみる。外観を眺めて、あらためてふつふつと嬉しい。右のバスが2時45分発のバス。




そして、駅の左脇の階段をよいしょと登ると、「絶景かな、絶景かな」としか他に言いようがないような風景が眼前に広がった。



そんなこんなで、ケーブルが到着して2時10分過ぎからバスが出発する2時45分までの30分間、駅舎見物と眺望を十分すぎるほどに満喫。なんと、すばらしかったことだろう!




六甲山上駅の片隅にひっそりと据えられたアーサー・ヘスケス・グルームの胸像。《このグルーム氏の胸像は六甲オリエンタルホテルに設置されていたものを移設いたしました》とある。


アーサー・ヘスケス・グルームの名前は、『阪神電気鉄道百年史』の「六甲山の諸事業」なる章で大きく登場している。

海抜1000m弱の六甲山は、1895(明治28)年にイギリス人の A.H. グルームにより初めて山荘が創設され、別荘・観光地として開発の端緒が開かれた。以後、外国人の建てた山荘が徐々に増加していき、1898年に20〜30の山荘が確認されるが、1903年にグルームが六甲山上にわが国最初のゴルフ場を開設すると、その利用者をはじめ登山者や別荘所有者など、六甲山を訪れる日本人も数多くみられるようになった。

というのがその導入。いかにもハイカラな六甲山の来歴。来日後、貿易商として多くの事業を手がけたグルーム氏は大の日本好き、六甲山で登山や狩猟に興じるうちにますます六甲山に魅せられ、住宅建設など多数の事業を手がけ、日本人と結婚し、日本に骨をうずめた(1846−1918)。と、六甲山の開発がグルーム氏によりはじまったあとで、いち早く阪神が「避暑地としての六甲山」に着目していたと社史は主張、明治末期には技術長がスイスを視察、早くからケーブルカーの建設が計画されたという。


というわけで、六甲山開発の先達としてグルーム氏に敬意を払う阪神。その六甲山開発事業がほぼ完成した頃に開業した、阪神系の六甲オリエンタルホテル(1934年7月開業)にグルーム氏の胸像があったというのがいいじゃありませんか、とちょっと微笑ましかった。そして、今はもう六甲オリエンタルホテルはなく(2007年6月に営業停止)、グルーム氏の胸像も六甲山上駅の片隅にひっそりと鎮座している、その来歴もいいじゃありませんか、と、ニヤニヤだった。


上掲の「六甲ケーブル」のパンフレットの《六甲山案内図》に「六甲オリエンタルホテル」は記載されていないから、ケーブル敷設の昭和7年以降で昭和9年以前の印刷物であるということがわかる。一方、阪神系の「六甲オリエンタルホテル」のライバルの、阪急系の「六甲山ホテル」の開業は5年早く、昭和4年7月だった。とっくに開業している六甲山ホテルがこの「六甲ケーブル」の《六甲山案内図》には描かれていないというのが、いかにも対抗意識むきだしで、その露骨さがおもしろいなあと、「阪神間モダニズム」における阪急と阪神の攻防がかさねがさね手に汗握るおもしろさ! 獅子文六の『箱根山』の六甲山版を読んでみたいなと思う。




先ほどから違う角度で、海を臨む。港町神戸のすぐ近くに、こんな山が控えている。その立地が生んだ、独特のハイカラさの「阪神間モダニズム」にますます夢中。これからも、年に何度かの休暇に遊覧に出かけて、さらに自分なりに深めていきたいなとふつふつと嬉しい、年の瀬の昼下がり、であった。


そんなこんなで、2時45分になり、バスが出発。さらば六甲山上駅、さらば阪神。次なる目的地は、阪急系の六甲山ホテルなのだった。


六甲山ホテルでアップルパイの午後。日没の神戸駅にたたずんで、陶然。


夏休みの叡山ケーブルがあまりにも素晴らしかったものだから、次はぜひとも六甲ケーブル! の一念で、深い考えもなく、六甲ケーブルに乗りに来たのだけれども、ケーブル駅で入手した現在の「六甲山案内図」もなかなか魅惑的で、有馬温泉やら摩耶ケーブルやらロープウェイやら、目移りするばかり。今度はまた違った方向から六甲山観光に訪れたいなと思ったところで、バスは早くも六甲山ホテル前に到着し、イソイソと下車。明日の大阪遊覧に向けて英気を養うべく、これから先はのんびり静養といこうではないかと、昼下がりは六甲山ホテルで建築見物と喫茶の計画。




バスから降りて、この写真の奥の入口からロビーに入った。バスはホテルの裏口に到着して、こぢんまりとした山小屋風のホテルの建物におそるおそる足を踏み入れてみると、シックで上品で落ち着いたロビーなのだった。素敵な空間に囲まれて、とたんにハイになる。ミシミシと歩をすすめると、宝塚歌劇のポスターが貼ってあったりして、いかにも阪急! と先ほどの阪神気分から急展開、頭のなかが阪急一色に染まる。小林一三は偉大なり。




あらためて正面から外に出て、ホテルの旧館の全景を眺めて、なんてチャーミングなこと! と寒空の下、ふつふつと嬉しい。




旧館の玄関のランプ。道路沿いを新館の入口に向って歩く。どこぞやに設置の寒暖計が摂氏零度以下を指し示していた。



『阪神電気鉄道百年史』(2005年7月発行)に引き続いて、今度は阪急の社史を読みたいッと、『京阪神急行電鉄五十年史』(昭和34年6月発行)を閲覧し、阪神と熾烈な攻防を繰り広げた戦前の六甲山事業のあたりを参照してみると、阪神と比べると、大正期のグルーム氏への言及がしごくあっさりしていて、《まだ観光地というには程遠いものであった。》と、どこか冷たげ。そして、六甲山の開発について、

大正九年七月の当社神戸線の開通は、従来の何れよりも山麓近くを走ることになったので、六甲駅は最も利用されて、登山の駕籠屋もここに集中する有様であった。

というふうにこのあと縷々語られてゆくものの、終始「阪神」の固有名詞が登場しないのが見事といえば見事であった。


阪急の六甲開発は、摩耶ケーブルの開通と同年の大正14(1925)年、六甲山頂に「六甲クラブ」を開設し、食堂を設けたことからはじまる。

昭和三年に裏六甲ドライブウェイが完成したが、この昭和期は山上交通整備の時であり、同年、六甲登山バスの先駆をなす有宝バスが有馬―前ガ辻間を走ることになった。この年、神有電鉄(現神戸電鉄)が開通し、昭和四年表六甲ドライブウェイも竣功した。これにより六甲バス(阪急傍系 六甲山乗合自動車株式会社)が六甲駅から山上駅に通じ、駕籠屋に大打撃を与えてついにその姿を消させることになった。

などとオチがついたところで、同年の昭和4年7月、六甲山ホテルが開業することとなる。






『近代建築画譜』(昭和11年9月15日初版)に掲載の「六甲山ホテル」の写真。現在の旧館とまったくおんなじムードを醸し出している。玄関のランプはいつ設置されたのかな。



国会図書館の検索ソフトでお手軽に「六甲山ホテル」と検索して入手した戦前の新聞の紙面。



まず、開業直後の昭和4年7月20日の大阪朝日新聞に掲載の広告。阪急電車の車体をあしらったデザイン。六甲山ホテルについては「海抜三千尺暑さ知らぬ」「阪急六甲駅より登山バスあり」という惹句が添えられている。



おなじく大阪朝日新聞の、昭和4年8月10日広告。開業一ケ月目。「絶好の避暑地」「関西唯一の理想的ホテル」「眺望絶佳の六甲山頂海抜三千尺」。



おなじく大阪朝日新聞、昭和10年7月1日付け。「海抜三千尺眺望絶佳」「阪急六甲駅よりロープウェイにて僅か二十分」。


と、とにかくも「海抜三千尺眺望絶佳」がキャッチフレーズなのだった。昭和4年の開業時は「阪急六甲駅より登山バス」だったのが、昭和10年には「阪急六甲駅よりロープウェイにて僅か二十分」となっているのが目を引く。


ふたたび、『京阪神急行電鉄五十年史』を参照すると、昭和4年、阪急六甲駅から山上駅に至る「六甲バス」の開業に呼応するかのように(駕籠屋の消滅と連動するかのように)、

……記念碑台と称せられている高台の西に六甲山ホテルが営業を始めたのは四年七月十日のことである。昭和六年十一月六日、六甲登山架空索道(六甲ロープウェイ、六甲山架空索道株式会社−昭和四年設立)が土橋の北から前ガ辻間に開通し、六甲をアルピニストのものだけでなしに、大衆のレクリエーション地帯として飛躍発展させることとなったのである。
 このロープウェイは我が国最初のもので、延長約一哩、所要時間七分で、連絡の自動車賃とも往復八十銭であった。昭和七年、六甲ケーブル開通、九年、宝塚―六甲ドライブウェイ竣功と、六甲開発は着々と進んでいたが、昭和十三年、未曽有の大水害に見舞われた結果、各ドライブウェイは大被害を受け、その後復旧できぬまま、大戦に突入し、しかもロープウェイと摩耶ケーブルは運転休止となり、終戦直前にロープウェイは撤去されたことはその後の発展を著しく阻害した。ただ、昭和十八年に西六甲縦走ドライブウェイと結んで、六甲山脈縦走路を完成することとなり、戦時中唯一の収穫だった。

というふうに、昭和6年に開通したロープウェイは昭和13年の大水害を機に消滅してしまったわけで、数年間しか続かなかったということを初めて知った。ロープウェイは六甲山ホテル前まで一気につないでいたなんて! とそのダイナミックさに感激。『阪神電気鉄道百年史』にはこのロープウェイへの言及はなかったことを思い出して、それがまた微笑ましい。阪急と阪神が熾烈な競争を繰り広げていた時代、今となっては遠き日々のこと。



六甲山上駅2時45分発のバスにのって5分後、六甲山ホテルに到着。クラシカルな内装をひととおり満喫したあとで、新館の上の方にあるバー(午後は喫茶タイム)でコーヒーをすすって、名物のアップルパイをつまんで、ぼんやりと今年の反省会。




六甲ホテルのバーからの眺望。先ほどの六甲山上ケーブル駅からとちょっとだけ角度が変わる。写真の下部にホテル旧館の屋根が見える。この真下からロープウェイが「阪神間モダニズム」まっただなかの数年間、運転されていたなんて! とかさねがさね感嘆。そして、昭和13年の大水害について、ちょっと追究してみたくなった(『細雪』の鬼気迫るヴィヴィッドな描写に恐怖したことを思い出す)。戸板康二のお父さんが関西転勤生活を終えて東京に戻ったのは昭和12年。大水害を体験せずに済んでいる。


ホテルの方に伺ったところによると、一時間ごと(毎時15分)に利用客へのサービスとして、マイクロバスが山の下に向かって発車、ホテル・阪急六甲駅・ JR 六甲道駅を結んでいるとのこと。喫茶だけの利用でも乗車券入手の権利があるので、アップルパイの午後は六甲山下山の切符入手をも兼ねることになって、まさしく一石二鳥であった。


「絶景かな、絶景かな」とコーヒーとアップルパイの時間を満喫したところで、次のバスが出発する4時15分まで、もう一度六甲山ホテルの室内を味わうべく、そろりそろりと散歩。阪神間への「帰省」中、三田在学中の戸板青年はこのホテルに来たことがあったのかな。




旧館2階に「ライブラリー」と称する応接室があり、ワオ! と出かけてみたら、とても素敵な空間、ソファでしばしくつろぐ。しかし「ライブラリー」とあるからちょっと期待したのに、特になんということもないような本が数冊申し訳程度に置いてあるのみ。逸翁文献でも置いておいてくれればよかったのに! とちょっと惜しかった。



 
と、特に本はない「ライブラリー」だけれども、ステンドグラス状の天井がなんとも素敵で、アホみたいにいつまでも見上げてしまった。



4時15分、ホテルのマイクロバスで六甲山ホテルを出発。日没にかろうじて間に合うかなと、前回の夏休みの阪神間遊覧の折に行き損ねた JR の神戸駅に出かけるべく、JR 六甲道駅でバスを下車する。




川西英《神戸駅前》(1935年)、「神戸百景」より。今年8月、小磯良平記念美術館で図録『特別展 川西英と神戸の版画』を購った直後の阪神電車の車内で、川西英による阪神間風景の数々を目の当たりにした瞬間の感激は今もとても鮮烈。阪神電車の車中という舞台装置も完璧だった。そのとき、この《神戸駅前》を見てムラムラと現在の神戸駅に行ってみたくなったのだけれど、時間がないのと疲れてしまったのと暑いのとで断念し、次回のおたのしみにとっておくことになった。そして、このたび晴れて「次回」がやってきたという次第。


阪神間を JR で移動するのは今回が初めて。とても快適な車内。阪神、阪急との競争により上質な車内が実現しているのかなと、関西の鉄道文化(のようなもの)にあらためて舌を巻いているうちに、神戸駅に到着。なんとか日没に間に合った、かな。





三宮と比べると、静かで「郊外」という雰囲気すらかもしだしている神戸駅前、午後5時10分。薄暮のもとの神戸駅の駅舎が実に美しくて、陶然とたたずんだ。




あ、空にはお月さま。次の満月は元旦、新年1月1日。



午後6時から三宮で、神戸在住のご夫妻とワインを飲む予定。それまで神戸駅前でのんびりするかなと、駅前のちょっといい感じの喫茶店に入ろうかと思っていたのに、駅ビルの本屋で立ち読みしているうちにあっという間に時間が過ぎてしまい、あわててふたたび JR に乗って、三宮へ。お店に向かう途中、洋食店「もん」の前を通って、嬉しかった。もうすっかり夜だった。冬至から一週間後、まだまだ昼は短い。