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『徳川夢声の小説と漫談これ一冊で』のこと。

無事に新しい一週間が始まって一安心、毎週月曜日の日没後は、心持ちよくウカウカと本屋へ出かけるのがお決まりで、意欲があるときは神保町までズンズン歩いて東京堂で本を見る、力が出ないときは徒歩5分の丸善本店をへなへなと巡る。とは言うものの、月曜日は力が出るということがほとんどない、丸善へゆくことの方が圧倒的に多い、しかし、今週の月曜日の日没後はめずらしく気が向いて、ズンズン歩いて30分、神保町にたどりついてまずは東京堂に足を踏み入れた。と、心持ちよくウカウカとまずは新刊台へと歩を進めてみたら、清流出版の新刊の虫明亜呂無と徳川夢声、いずれも新たに編まれた虫明亜呂無と徳川夢声の著作集が隣り合わせでデーン! と積んであるのを目の当たりにして、ジーン! と感激。虫明亜呂無と徳川夢声、この並びのなんと絶妙なこと! なんとかっこいいこと! なんと見事なこと! ……などと、東京堂の新刊台に隣り合わせで虫明亜呂無と徳川夢声がデーン! と積んであるのを目の当たりしたときの興奮はとてもではないけれどもうまく言葉にできず、「!」を連発するしか他にすべがないのだった。


とにかくも、あまりに素晴らしくて、もう大変。いずれも高崎俊夫さんの編集本。次はこう来たかと毎回歓喜と驚きと心からの敬意をもって手にするという点で、高崎俊夫編集本とウェッジ文庫は双璧といえよう、ところでウェッジ文庫といえば次の新刊は野口冨士男と薄田泣菫なのだった、これまた、あまりに素晴らしすぎてもう大変! 嬉しすぎて目眩すら覚える、来月21日発売のウェッジ文庫を手にすることだけを心の支えに年の瀬の怒涛の日々を乗り越えたいものだなア……云々というようなことを思いながら、心持ちよくウカウカと家路をゆく月曜日の日没後、であった。




『徳川夢声の小説と漫談これ一冊で』清流出版(asin:4860293010)。装丁・本文設計:西山孝司。編集協力:高崎俊夫。巻末に、収録作の選定を担当した徳川夢声研究家の濱田研吾さんによる解題と徳川夢声著書目録、本書の生みの親である高崎俊夫さんの跋文「徳川夢声ふたたび」を収める。

本書は、徳川夢声が一九二〇〜四〇年代に執筆した作品のなかから、「創作性の高いナンセンス小説」「再読の機会が少ない短篇」「幽霊もの」を中心に新編集したユーモア小説集である。

と解題の冒頭に書いた濱田研吾さんの選定した徳川夢声のユーモア小説は、「錯覚劇筋書 ステッキ」「オドドいた話」「軟尖時計奇談」「河鹿殺人事件」「即席実話」「37年型浦島太郎」「37年型花咲爺」「37年型桃太郎」「37年型猿蟹合戦」「37年型かちかち山」「菜切包丁恐怖症」「蛞蝓大艦隊」「噂の戦慄」「幽霊大歓迎」「連鎖反応 ヒロシマ・ユモレスク」「九字を切る」の計16篇。特別付録の、《徳川夢声 SP 盤音源集 活動写真弁士・片岡一郎氏所蔵 SP 盤コレクションより》と題されたコンパクトディスクには、「二十五時」「新四谷怪談」「名人会・大藪先生の話」「押しが第一」「湧き立つ感謝」「日本伝承童話『こぶとり』」「日本伝承童話『ぶんぶく茶釜』」の7篇が収録(収録時間は60分を超えている)。『徳川夢声の小説と漫談これ一冊で』というタイトルそのまんまの、「小説」の本と「漫談」の CD がセットになって、定価は2400円(+消費税)なり。



と、月曜日、意気揚々と帰宅して寝る前に付録 CD の音源を全部 iPod に落として、翌日の火曜日から、『徳川夢声の小説と漫談これ一冊で』を肌身離さず持ち歩き、朝の喫茶店では本文を最初の1篇からチビチビと読み進め、昼休みはスターバックスのソファで iPod で夢声の漫談にのんびり耳を傾ける、というようにして勤労の一日一日が過ぎて、あっという間に金曜日。この一週間で『徳川夢声の小説と漫談これ一冊で』の1冊全体を味わいつくしたという恰好だった。こうして味わいつくしてみると、この本は CD が付くことで初めて完璧になったというか、『徳川夢声の小説と漫談これ一冊で』というタイトルどおりに、「徳川夢声の小説と漫談」に同時に接することができるというのが、いざ味わいつくしてみると「なるほど」と唸らずにはいられない絶妙さ、ということが骨身にしみてよくわかった。高崎俊夫さんの跋に、都筑道夫の夢声論を紹介しているくだりがある。

徳川夢声の小説の魅力を具体的に分析したのは、博覧強記のミステリー作家、都筑道夫である。都筑道夫は、「小説家 徳川夢声」という評論(『死体を無事に消すまで』晶文社・所収)で、とくに、そのユーモア小説をフランスの作家カミのナンセンス・コントと比較し、そのベースには「落語とサイレント喜劇と、洗練された笑いの感覚」と「言文一致――漫談をそのまま速記にとったみたいな書きかた」があると指摘し、「その洗練が話術のそれと同時進行だったところに、特徴がある。坂口安吾のひところの八方やぶれの文体には、夢声の影響があったのではないか、と勝手に私は想像している。」とまで喝破している。さらに、当時、ニュー・ジャーナリズムとして話題になっていたトム・ウルフやレックス・リードの本を読み、「奇抜でいて即物的から主観的、自在に跳躍する描写力に感心しながら、ふと気付いたのだ。こりゃあ、ムセイの前衛版じゃないか、と。」と卓見を述べている。

と、この都筑道夫の夢声論をヒシヒシと実感をもって体験できるのが、この『徳川夢声の小説と漫談これ一冊で』なのだった。



火曜日の朝に、『徳川夢声の小説と漫談これ一冊で』の最初の一篇、「錯覚劇筋書 ステッキ」を読んでさっそく、横溢するモダーンぶりのそのかぐわしさにすっかりいい気分になって、しょっぱなからウキウキだった。濱田研吾さんの解題によると《安月給のサラリーマンと一本のステッキが主人公の、映画説明台本のような一作》の「錯覚劇筋書 ステッキ」は夢声のわりと初期の作品で(大正14年作)、昭和4年にはマキノ映画で映画化が試みられたが未完に終わったという。夢声の映画説明とともにくらやみの中でサイレント映画を眺めている時間がそのまんま活字になったような1篇で、それだけでなんだかもうむやみに嬉しくなってくる。日頃からなんとなく追いかけている震災後から戦前昭和までのモダン都市文化のいろいろなこと、都市とかサラリーマンとか、このごく短い寸劇を彩るモダン都市的要素がしみじみいとおしくて(そもそもステッキという小道具がいかにもモダン都市!)、「ただの気分」と言ってしまえばそれまでだけれど、そんな「モダン都市」気分に勝手な思い込みで胸がキュンとなるのだった。今からちょうど10年前、ラピュタ阿佐ヶ谷のスクリーンで初めて小津安二郎の『東京の合唱』を見たときの、むやみやたらに嬉しくてたまらなかったあのときの感覚を鮮やかに思い出して、そうそうあの感覚と、「錯覚劇筋書 ステッキ」をもう一回読み返してみたら、今度は主人公の安サラリーマン木村の顔が、わたしの頭のなかでは『東京の合唱』における岡田時彦の顔になってしまって、ひとりでニヤニヤだった。


「錯覚劇筋書 ステッキ」ですっかりいい気分になった、そのモダーンさは、付録ディスクの最初の1篇「二十五時」(昭和5年)にも横溢していて、このかぐわしさはいったいなんだろう? と、スターバックスのソファでジーンと耳を傾けて至福だった。「二十五時」は決まったストーリーがあるわけではない、ちょっとした寸劇のようなものが時計の音を通奏底音に、様々な BGM とともに全編に矢継ぎ早に繰り広げられるというもので、おのおのの寸劇が面白いというわけでは全然ないのに、それなのに全編のムードがなんだかとってもいとおしいのだった。スターバックスのソファですっかり惚れてしまった「二十五時」は以来、音楽みたいに何度も何度も聴いている。「二十五時」に続いて収録の、夢声の十八番ともいえる「新四谷怪談」(戦前)は、夢声の語りそのものがとっても男前でとってもかっこよく(夢声は実際もかなりの男前だけれども)、他の音源でも、かつては落語家を志したこともあったという経歴に深くうなずかずにはいられない話術が手だれで(「押しが第一」後半の芝居がかりのくだりの見事なこと!)、夢声の話芸に酔いしれたのは今回が初めてだなあと思った(かつて『宮本武蔵』に挫折したことが……)。夢声の話芸とは? というような理屈なんて、わたしにはどうでもよくて、音楽みたいに何度も何度もつい聴きたくなってしまう、という一言で足りるのだった。


これが「洗練」って言うのかな、「都会的」って言うのかな、わたしにはよくわからないけれども、都筑道夫の「落語とサイレント喜劇と、洗練された笑いの感覚」という言葉が夢声の「小説」と「漫談」の双方に当てはまるということは、『徳川夢声の小説と漫談これ一冊で』を手にしたことで、初めて実感としてわたしにもよくわかって、それが一番嬉しいことだった。徳川夢声というと、バカの一つ覚えみたいにして、戸板康二の「その字づらだけで胸がときめくようなある種の誘惑に通ずるものがある」(『演劇人の横顔』白水社・1955年2月刊)という一節を思い出すのだけれども、わたしにとっての徳川夢声から通じる誘惑ってなんだろう、「サイレントからトーキーへ」のモダン都市の映画のこと、1894年生まれの夢声が闊歩した震災前と震災後のモダン都市化した東京のこと、夢声が活躍した戦前の出版界のこと……、いろいろと思い浮かぶけれども、そんな徳川夢声から通じる誘惑ないしは徳川夢声へと通じる誘惑を、自分なりにもっと追いかけたいなというようなことを思いつつ、 iPod で夢声の漫談を繰り返す日々がしばらく続きそう。


そんな不定形の徳川夢声の気分、というようなものを勝手に思って、ひとりで悦に入っていた『徳川夢声の小説と漫談これ一冊で』だけれども、高崎俊夫さんが跋で「恐るべき傑作」と書いていた『連鎖反応 ヒロシマ・ユモレスク』は、本当にもう怖いくらいに素晴らしい傑作だった。夢声の生涯の渾身の一作という感じ、読んでいて涙(と鼻水)が止まらなくて、朝の喫茶店では困ったことになってしまった。この透明感はいったいなんだろうと胸が詰まって仕方がなかった。『徳川夢声の小説と漫談これ一冊で』の最後の1篇、『九字を切る』もすばらしかった。解題によると初出は「文藝讀物」昭和24年2月号で単行本未収録、なんと今回が初の単行本収録というのだからすごい。と、そんな「傑作」だけでなく、この本に収録の夢声のユーモア小説は、金井美恵子言うところの「ケッサク」揃い。『河鹿殺人事件』と『菜切包丁恐怖症』の「最栗淡亭」探偵もの、探偵小説のパロディとも読めるバカバカしさが好きだなア。


『徳川夢声の小説と漫談これ一冊で』は、濱田研吾さんが蒐集した徳川夢声著書と長年の徳川夢声研究、活動写真弁士であると同時に研究家でもある片岡一郎さんの集めた SP 音源がなかったら存在しなかった本である。『徳川夢声の小説と漫談これ一冊で』は、年季が入ってお金のかかったお二方の営為の賜物であり、そんな年季が入ってお金のかかった営為の産物を新刊書として世に出した高崎俊夫さんの英断の賜物である。今年は、右文書院の『柳田泉の文学遺産』全3冊と今回の『徳川夢声の小説と漫談これ一冊で』と、立て続けに「1894年生まれ・人物誌」の歓びにひたって、極私的に嬉しいことが続いているところで、気がついてみたらもう年の瀬なのだった。





「キネマ旬報」昭和4年7月21日号に掲載の『ステッキ』の広告。未遂に終わったもののいかにも公開されたかのような広告が「キネマ旬報」に掲載されているのだった。本文を読んだときは、主人公木村を勝手に岡田時彦の顔に当てはめて悦に入っていたのだけれども、実際は近藤伊與吉が扮している。しかし、ここまで大々的に広告が出ていて、立派なスチールが出来上がっているというのに、未完に終わってしまっている『ステッキ』映画化。残念。





『夢聲軟尖集』(往来社、昭和6年4月)に掲載の、「軟尖時計奇談」の小川武による挿絵。小川武は、同時代の明治製菓の宣伝誌「スヰート」に全国各地の明治製菓売店の訪問漫画を連載している。その著書『流線型アベツク らんでぶうのあんない』(丸ノ内出版社、昭和10年5月)は、『近代庶民生活誌 10 性と享楽』(三一書房、1988年7月)で翻刻されている絶好のモダン都市文献(であると同時に明治製菓売店文献)で、前々から気になっている漫画家なのだった。『夢聲軟尖集』はあちらこちらで目にする小川武の挿絵が実にチャーミングで、本のムードにぴったり。







挿絵といえば、『徳川夢声の小説と漫談これ一冊で』の最後をかざる単行本未収録の「九字を切る」の初出誌(「文藝読物」昭和24年2月号)を参照すると、挿絵は鈴木信太郎で、キャー! だった。夢声の文章には鈴木信太郎の挿絵がいかにも似つかわしい。





徳川夢声『くらがり二十年』(春陽文庫、昭和32年5月)の鈴木信太郎によるカバー挿画。