夏休み関西遊覧その2:富士正晴と天野忠。極私的モダン京都めぐり。

午前9時。宿を引き払って梅田駅に向かってテクテク歩いてゆく、その前に、まだまだ大阪が名残惜しいので、ちょいと寄り道。駅と逆方向へ歩を進めて渡辺橋の欄干に立って、堂島川を眺める。年内にあともう一回くらいは関西の風に吹かれたいなあと、朝日新聞社の建物に向かって、心の中で願かけをしたあとで、梅田へ向かう。照りつける太陽のもとでは、地下道がありがたい。中央電気倶楽部の建物を見た直後に地下に潜入して、阪急電車の乗り場までズンズン歩いてゆく。




大阪に来るたびに心ときめかす都市風景の筆頭は、朝日新聞社の建物その向かいのビルヂングのてっぺんの鉄塔だった、けれども、鉄塔は前回来訪時(id:foujita:20090301)が見納めになってしまった。近々建て替えられるという朝日新聞社も今日が見納めかな。




図録『1920年代・日本展 都市と造型のモンタージュ』(1988年刊)より、「竹中工務店(石川純一郎) 大阪朝日ビルディング 1931」。






地下街へ降りてゆこうとしたまさにそのとき、脇道にいかにも古びた近代建築がひっそりと建っているのが視界に入ったので、「おっ」と見物にゆく。手持ちの地図を確認すると、この建物は「中央電気倶楽部」。建物上部の装飾の壺が独特で、ワオッと見上げる。




中央電気倶楽部の全体像、『近代建築画譜』(近代建築画譜刊行会、昭和11年9月15日)に掲載の写真、『復刻版 近代建築画譜〈近畿篇〉』(不二出版、2007年6月25日)より。竣工は昭和5年7月。建物自体は当時とまったくおなじだけれども、並びの瓦屋根の建物の連なりがいい感じで、高層の建物が林立する現在とは印象はだいぶ違う。低層の建物の連なりのところどころで近代建築が威容を誇っていた当時の町並みを思い浮かべる。かつては、遠くからもこの壺が見えたのかなと思う。




おなじく『近代建築画譜』より、「大阪毎日新聞社」(竣工:大正11年4月)。大阪に来るたびに、かつての大阪毎日新聞社の敷地にそびえたつ堂島アバンザのジュンク堂へ行くのをたのしみにしているのだけど、今回は行き損ねてしまった。行き損ねたばかりでなく、紫外線を遮断すべく行きも帰りも地下道を通ったので、前を通ることすらしなかった。敷地に申し訳程度に保存されてある大阪毎日新聞社の門の残骸がいつも味わい深いのだった。堂島アバンザのジュンク堂へ出かけると、なんとはなしに大阪毎日新聞社の北尾鐐之助に思いを馳せてみたりするのもたのしい。朝日新聞社の建物がなくなってしまうのは観光客としても残念だけれども、なんとか間に合ったのは本当によかったと、毎日新聞社の建物を知らない身としては嬉しく思う。


富士正晴記念館のあと、四条通の大宮と大丸で極私的モダン都市京都にひたる。

関西遊覧のたびに、しょうこりもなく大興奮の阪急梅田駅。昨日は三宮から梅田、今日は梅田から京都、というふうに、このたびの遊覧では、阪急梅田駅および阪急電車および十三の鉄橋を心ゆくまで満喫できて、こんなに嬉しいことはない……のであったが、当初の計画では、夏休みなので今回は欲張らずにゆっくり過ごすとするかなと、2日目の午前中は中之島図書館で読書のあとで、京阪電車に乗って京都へ向かいたいなと思っていた。しかし、前回の遊覧で行き損ねた、茨木市立図書館内の富士正晴記念館が依然気になって仕方がないばかりでなく、6月に竹内勝太郎の詩集をひょいと古書展で入手したのを機に、先月から富士正晴周辺に盛り上がっているところなので、なにがなんでもいまのうちに行っておきたいという気持ちをどうしても抑えることができなかった。というような次第で、2日目は梅田から阪急電車にのって、茨木市で途中下車をしてから、京都に向かう、ということにあいなった。京阪電車は次回のおたのしみとしたい(二階建て車両希望)。




『近代建築画譜』より「阪急ビル1階ホール」。わたしの見逃してしまっている風景(というか、無意識に歩いていたのは確実だけど)、なんとモダーンなドーム天井! 堂島界隈から阪急梅田駅へ向かうときの歩道橋からの阪急百貨店の建物の眺めが大好きだったけれども、そちらも消えてしまった。しかーし、阪急梅田駅のホームの威容は永久に不滅だ。




午前10時過ぎ。図書館に向かうバスは「川端通り」なる道を走ってゆく。通り沿いには、川端康成文学館がある。そうか、茨木は川端康成ゆかりの土地でもあるのだなあと遅ればせながら気づいたりしたあとで、無事に茨木市図書館に到着。

茨木の富士正晴記念館をはじめて訪れたのは昨年(一九九四年)の十一月三十日のことであった。設立のために尽力した廣重聰に敬意を表しに一度は足を運ばねばなるまいとかねてから考えていたのだが、どうも腰が上らない。訪れた以上は復元された富士さんの書斎なるものを見ざるをえまいが、それがいやなのである。その種のものは他にいくつか見たことがあるが、どれもニセものくさく、はなはだ興を殺ぐ。ニセものくさいのではなく、ニセものそのものなのである。私が何度もお邪魔してよく知っている富士さんの部屋の場合はその感がことさら深かろう。記念館の番人のごとき廣重氏にもそれが重々わかっているだろうから気の毒である。


【山田稔『富士さんとわたし――手紙を読む』(編集工房ノア、2008年7月1日) - 「はじめての手紙」冒頭(p14)】

茨木市図書館内の富士正晴記念館(http://www.lib.ibaraki.osaka.jp/fuji/fuji.html)の展示室は時間がとまったような空間だった。無人の薄暗い室内で展示物のひとつひとつを凝視してゆく。竹内勝太郎関係のところをとりわけ時間をかけて見つめる。同人雑誌「三人」の表紙や当時の写真に写る富士正晴の不敵な面構えを見て、富士正晴著『竹内勝太郎の形成』のページを繰っているときのことを思いだして、帰宅後のさらなる精読を決意、というふうに将来の本読みないし勉強へと気持ちが鼓舞されるのが、文学館での一番のよろこびで、それは今回でも一番のおみやげだった気がする。と、展示をソコソコたのしんではいたけれども、予想の範疇を超えるようなあっと驚くものは特にはなくて、常設展示としては「まあ、こんなものかな」というのが正直なところだった。富士正晴の書斎の再現は、机に近くに立てかけてあった帆布のズタ袋(のようなもの)がいいなあと思ったりと、日用品やちょっとした小道具の配置が嬉しかった。


富士正晴記念館において、書斎の再現以上に胸躍ったのは、通路のガラス越しに見える書庫だった。ここに、富士正晴の生資料、山田稔の出した書簡などが収められているのだなあと、保存に携わる方々の仕事ぶりを思って、背筋が伸びる。日頃から敬意を表してやまない、越谷市立図書館の野口冨士男文庫のことを思い出す。好きな作家の旧蔵書や生資料などが公的機関に保存されているということの幸福を思う。さらに、日頃から図書館通いを道楽にしている身からすると、茨木市立図書館そのものの見物も面白く、初めて足を踏み入れる公共図書館でのたのしみといえば、なんといっても地域資料コーナーだてんで、富士正晴のあと、こうしてはいられないッと突進。棚の並びを眺めてしみじみ味わい深くて、次から次へと手にとって、興奮だった。富士正晴の資料もここに集まっている。前々からその存在が気になっていた富士正晴著『ビジネスマンのための文学がわかる本』(日本実業出版社、1980年11月刊)を初めて手にして、ちょっと拾い読みしただけで一気に物欲が刺激された。




竹内勝太郎『詩集 明日』(アトリヱ社、昭和6年11月25日)。装釘:榊原紫峰。最近買った詩集は、届いてみたら岩崎一正宛署名本だった。岩崎一正は四高にいた富士の友人で、井口浩と富士正晴を引き合わせた人物。




茨木市駅からふたたび阪急電車にのって、京都へ向かう。車窓から山崎の工場が見えて、よろこぶ。3年ほど前に一度出かけた大山崎山荘はどのあたりかなと目をこらす。桂に停車中の嵐山行きの電車を見て、いつかあれに乗りたいなと思う。というようなことをしているうちに、電車はいつのまにか地下に入っている。こ、こうしてはいられないと、大宮で途中下車。


阪急大宮駅といえば、溝口健二の『浪華悲歌』なのだった。『浪華悲歌』の DVD 観察の折に、映画のなかで山田五十鈴が乗っている「大阪の地下鉄」が、実は京都の繁華街の地下を走る阪急電車の車両だと発見して、たいへん愉快だった。以来、現在の大宮駅の観察をしたいものだとかねがね思っていたので、念願かなってやれ嬉しや、なのだった。




溝口健二『浪華悲歌』(昭和11年5月28日封切・第一映画)より、道修町の薬屋の主人のお妾になり、「大阪パンション」を髣髴させるアパルトマンに囲われている山田五十鈴が、「地下鉄」で大阪市内を移動し、いままさに下車するシーン。映画のなかでは「大阪の地下鉄」ということになっているこの車両は、実は阪急電車の車両。正確に記せば、この路線の当時の名称は「京阪電気鉄道」、昭和18年1月に現在の阪急である「京阪神急行電鉄」に合併される。現在の大宮駅の開通は昭和6年3月31日で、当時の名称は「京阪京都駅」。昭和18年の合併で「京都駅」となり、昭和38年6月17日に烏丸駅と河原町が誕生するまで、長らく阪急電車の終点だった。烏丸と河原町への開通と同時に、かつての終着駅「京都駅」は「大宮駅」となり、現在に至る。




というわけで、阪急の大宮駅はわたしのなかでは『浪華悲歌』ロケ地として、極私的京都名所! もちろん外壁は補修されているけれども、骨組部分は『浪華悲歌』当時とまったく変わらず、




特に、この階段の形状に映画当時をしのぶことができて、階段に立ちすくんでワオ! と興奮だった(通行人には大いに迷惑なことであった)。当時の溝口の住まいは北野線の御宿だった(現在の駅名は「御室仁和寺」)。日頃から愛好してやまない戦前日本映画、モダン都市時代の映画人と京都地図、というようなことを思って、いつまでも嬉しい。また近いうちに、四条大宮から嵐電に乗りたいのだった。




『浪華悲歌』に登場の阪急電車について調査すべく、神保町の書泉グランデ6階の鉄道本売場へ出かけてみたら、すばらしい資料を発見してホクホクだった。この画像は、「鉄道ピクトリアル」1998年12月臨時増刊号《特集・阪急電鉄》に掲載(p65)、《京阪京都駅》、すなわち現在の大宮駅。と、書泉の鉄道コーナーでハイになってしまい、さらにマニアックな追究を試みたところ、『浪華悲歌』で山田五十鈴が乗っていた車両は「阪急P-6」という車両で(正式名称は「新京阪鉄道P-6形電車」。Wikipedia をフムフムと読みふける)、上の写真に写っているのはまさしく『浪華悲歌』で山田五十鈴が「大阪の地下鉄」として乗っている車両とおなじ車両ということがわかって、感動のあまり、吉岡照雄著『RM LIBRARY110 阪急P-6』(ネコ・パブリッシング、2008年10月)というのも同時に購入。しかし勢いにのって買ってしまったものの、2冊ともわたしにはあまり読みこなせず、わが書架の「京阪神モダン」コーナーに押し込んだまま。とりあえず、『浪華悲歌』は「阪急P-6」資料である、ということを主張したい(誰に?)。




『近代建築画譜』に「新京阪京都地下鉄」として掲載の写真。《昭和6・3、関西最初の地下鉄として竣工せしものなり》とある。終着駅なので、これも当時の「京阪京都」、現在の大宮駅の写真とみて間違いあるまい。この写真に写る終着部分から、烏丸、河原町へ線路が伸びていった。

【追記:この写真は『近代建築画譜』には「新京阪京都地下鉄」として掲載されているものの、阪神電車の三宮駅の間違いではないかと、あとで気づいた。ひとたび気づいてみると、柱や階段の装飾が明らかに異なる。この件については、後日詳記したい。】





山田五十鈴が『浪華悲歌』のなかで乗っている「大阪の地下鉄」は実は阪急電車の車両で、下車駅も実は阪急の大宮だけれども、駅の階段をあがってゆくと、大阪市内へワープ! ここは当然御堂筋沿い、駅名と正確なロケ地に関しては現時点では確信は持てないのだけれども、淀屋橋ではないかと推察しているところ。淀屋橋だとしたら、上の画像の奥の方角は中之島?




『近代建築画譜』より「大阪地下鉄」と称された図版のうち、こちらは「本町停車場出入口上家」。




とかなんとか、大宮での途中下車を大いに満喫して、もう思い残すことはない。烏丸で阪急電車を下車。地下鉄の四条駅改札近くのコインロッカーへ手荷物(主に昨日購った本)を押しこんで、帰り仕度も万端だ。鎧をといてスッキリ、イソイソと地下道を戻ったところで、次なる目的地は京都大丸なり。

 私は百貨店の売場づとめをしていた頃、陽のあたらぬ悪い空気と埃の中で一日中立ち働きだったから、しきりの太陽のひかりが恋しかった。休日で好天気だと心が弾んで、いいことがあるような気がした。陽あたりの良いところへごろりと横になって居眠りするのが何より楽しく思えた。一週間分の悪い仕事場の汚れた空気をすっかり吐き出し、思う存分躰の中に、新鮮な日光を貯めこもうという気持であった。
 その頃は街の盛り場を歩いても、電車のゴロゴロ走る音ぐらいで、いまの自動車の数ほどもない自転車が走っているだけで、ちょいと通り筋を離れると、しもたやばかりで、すぐしーんとしずまりかえった家並みの通りに入ることが出来た。ときには謡曲や琴の音がしめやかに聞こえてくることもあった。
 街歩きという文字通りの暢気な散歩が出来た。陽なたに存分にひたりながら、ぼんやり考えごとをしながら歩くことの愉しみがあった。


【天野忠「陽のあたる場所」- 『余韻の中』(永井出版企画、1973年7月30日)より。】

天野忠は昭和3年3月に京都一商を卒業して、同年大丸百貨店京都店に入社。昭和18年11月に退社するまで、15年間勤めていた。

就職難のきつい時代で、上海の紡績会社へ勤め口があったのが、こっちの家庭の事情で御破算になり、実業学校を卒業して大分たってやっと仕事にありついたのが七月のあつい熾りで、それがデパートの一階帽子売場であった。かんかん帽が山積みにカウンターに乗せてあった。一個五十銭ぐらいからあった。特価三十銭というのまであった。眼がまわる程よく売れた。古参の店員が主としてパナマ帽子の上客にあたり、新米の私達が、かんかん帽を売る方にまわされた。……大抵の人は値段の廉いのと一夏きりという気安さで、中折帽子のときほどには然程文句もつけず買っていった。売場の鏡の前に立つと、ま新しいかんかん帽子の下の顔まで涼しげに写るような気がしたようである。アメリカの喜劇俳優ハロルド・ロイドみたいに、一寸斜めに気障っぽくかぶるのが流行った。


【天野忠「かんかん帽子の頃」-『そよかぜの中』(編集工房ノア、1980年8月1日)より】

天野忠は、京都市立第一商業学校で出会った藤井滋司と詩の同人雑誌を通して生涯の友となり、また天野忠の一級上にいた山中貞雄はもともと藤井と親友だったので、天野は山中とも親しく交わった……というふうな、1920年代の京都っ子の映画青年たちの交友を思うと、それだけでなんだか胸がキュンとなる。山中貞雄は昭和2年に卒業後、まずはマキノ撮影所に入所し、藤井滋司は病身のため卒業が1年遅れたことで天野忠と同年の昭和3年に卒業し、ふたりそろって京都大丸に入社している。大丸の社史を閲覧した折の手持ちのメモによると、京都大丸は大正15年に東館4階を建て増し、即位の大典のあった昭和3年の11月には西館も6階に拡張したという。いわば、昭和3年という年は、大丸が京都唯一の大百貨店として大いに発展した年だったわけで、そんな年に天野と藤井はそろって大丸に入社したのだった。天野忠は昭和18年まで勤めていたけれども、藤井滋司は昭和5年に療養のため退社し、昭和8年に松竹京都撮影所脚本部に入社している。


天野忠の散文を好むようになって年月が過ぎていた一方で、天野忠を知るずっと前から、山中貞雄が体現するところの戦前日本映画に耽溺している身としては、天野忠と戦前日本映画というまったく別ジャンルのものが、1920年代京都の地でつながっていたということを知ったのは大きな歓びだった。キーパースンは藤井滋司。天野忠と藤井滋司が昭和3年にそろって大丸京都に入社しているという事実には、かねがね注目だった。……と言いつつ、いままで何度も京都に出かけているというのに、大丸の建物見物をしたことがなかったのは、なんということ! と、ある日、ハタと気づいて、次回の京都行きの折には、ぜひとも大丸の建物を見物しようと心に決めていた。天野忠が入社した昭和3年の建物はその後ほとんど改修されているものの、一部わずかにその残骸をしのぶことができるのだ。


と、まあ、通りがかりに大丸の建物をちょいと観察するという、ただそれだけのことなのだけれども、大宮駅のホームで『浪華悲歌』を思った直後に、大丸の建物を見上げながら、天野忠と藤井滋司とその親友山中貞雄、といった京都一商・人物誌(山中の一年上にはマキノ正博が)に思いを馳せる、というのは大きな歓びなのだった。という次第で、コインロッカーに手荷物を預けて心持ちよくウカウカと、地下道を大丸目指して小走り、気もそぞろに地上に出る。四条通りの脇から大丸の建物を見上げて、ワオ! と感嘆。期待どおりに素晴らしい。わーいわーいといつまでも大はしゃぎだった。





見上げて嬉しい、京都大丸の外観。昭和3年竣工の建物はヴォーリズ建築事務所によるもの。




『近代建築画譜』で紹介されている大丸京都店の全景写真。上の写真は向って右の側面を写したもの。ここだけは当時とほとんど変わっていないようだ。




ワオ! と見上げたあとで内部に潜入、デパートの近代建築見物のときはいつも階段の細部観察がたのしいのだった。



 


 
大丸京都観察の断片写真。拡大するとなんだかよくわからぬ感じだけれども、百貨店の建物にほどこされた意匠を並べて、悦に入る。




とかなんとか、懸案だった大丸京都の建物観察をひととおり満喫して、とにもかくにも大満足であった。昭和3年から昭和18年。京都大丸に天野忠がいた時代と、同時代の日本映画が体現するような、極私的モダン京都といったものを、これからもっともっと思いこみたっぷりに追いかけたいものだなと、大いに鼓舞されて嬉しかった。



そうこうしているうちに、そろそろ時分どき。大丸の隣りの建物の地下のイノダコーヒの支店の前をたまたま通りかかったので、吸い込まれるように中に入り、本日の昼食はオムライスとあいなった。食後にコーヒーを飲んで、上機嫌。無事に腹ごしらえが済んで安心したところで、四条通を鴨川に向かって歩いてゆく。人混みにまぎれながら、ぶらぶら辺りを見回しながら、歩を進める。上掲の天野忠の「かんかん帽子の頃」の続きに、こんな一節がある。

私も初めての給料で買ったかんかん帽子をかぶって、休日の晴れた午後、京都の一番の盛り場である四条河原町へんをぶらついた。角っこの大きな硝子窓のブラジレイロ喫茶店へ入っていくと、隅のうすぐらい席にポツンと式亭三馬が坐っていた。京極の寄席「富貴」に出ている東京の噺家である。地味なというよりは陰気な語り口の老人で、そのためだろうかいつも寄席の寂しい前座に出ていた。江戸の戯作者そっくりの名をつけた老芸人は、あたりの人が季節柄皆コール珈琲をのんでいるのに、彼だけは匂いの高いあつい珈琲をのんでいた。私のそれを注文してたっぷりミルクを入れてのんだ。この店自慢のぶらじる珈琲である。

わたしも先ほど、イノダコーヒの支店で「匂いの高いあつい珈琲」を飲んだばかり。東京の町中を歩いているときとおんなじように、京都の繁華街でも、書物を通して妄想しているモダン都市風景(のようなもの)を思いながら歩くだけで、ずいぶんたのしいのだった。林哲夫著『喫茶店の時代』(編集工房ノア、2002年2月刊)によると、天野忠が珈琲を飲んだブラジレイロ京都支店は、《昭和六年四月五日に四条河原町富士ビルに開店した後、同年末頃同じく四条河原町招徳ビルへ移っていた》とあり、住所の京都市四条通御旅町は《現在の高島屋百貨店の並び》になるという。さらに、『喫茶店の時代』にはブラジレイロ京都支店のメニューの図版が!





京都四条通沿いの不二家、『失われた帝都 東京』(柏書房、1991年1月10日)より。初田享氏の解説によると、《この建物が建ったとき、古い町屋の並ぶ四条通りの角地で、一際目立ったという。入口脇のショーウィンドーに「ソーダファウンテン」「ライトランチ」とあるように、2階がグリルになっていた。祇園・先斗町と花街に近い立地で若者たちの待ち合わせ場所になったほか、同志社・京大などの学生も多かったという》。これとまったくおなじ建物が『近代建築画譜』には「カフヱー交詢社」として掲載されている(昭和7年12月竣工)。備考欄に《持主交詢社は地下室のみ使用し、1、2階は不二家洋菓子店に賃貸す。》とある。建物はまったく変わってしまってはいても、銀座や心斎橋とおなじく、京都でも不二家は戦前とおなじ立地なのが嬉しい。




戦前の明治製菓宣伝部とその周辺を追うのを日頃の道楽にしてみる身にとっては、明治製菓の京都売店についても言及しないわけにはいかない。というわけで、『三十五年史 明治商事株式会社』(明治商事株式会社、昭和32年5月2日発行)より、明治製菓京都売店(昭和3年12月25日開店)。場所は三条だけれど、正確な位置については営為調査したい。「スヰート」昭和11年12月発行号掲載の紹介記事には、《盛り場、京極、河原町を東西に挟んで五彩のネオンも、みやびやかな京都の明菓売店》とある。




と、四条大橋をわたって、京阪電車の乗場へと向かう。駅名が「祇園四条」に変わっている、いつの間に! と思ってあとで確認したら、2008年10月の中之島線開通とともに変更の由。いつか中之島線に乗りたい。





『近代建築画譜』より「四條大橋」(大正元年竣工)。橋を渡った左手には東華菜館(大正15年竣工)、橋の手前の路上には京阪電車の線路。右後方にうっすらと蜃気楼のように大丸の建物が見える、ような気がする。京都大丸の宣伝部長、井上甚之助は「デパートの窓から」というタイトルの昭和24年7月執筆の文章に、《私が通っているデパートの私の事務室は、五階の東北の一隅を占めている。》、《私が回転椅子にもたれて、遠く東山の方に目をやると、先ず目にはいってくるものは、丁度、私の位置から真正面になっている知恩院の建物である。》と書いている(『青塵居随筆』私家版・昭和41年4月1日)。


叡山電車で終点へ。比叡山の空中ケーブルカーにのって、モダン京阪神の行楽に思いを馳せる。

2日目の午後こそは、気張らずに夏休みらしくのんびり過ごしたいな、ということで、ふと思い立ったのが、叡山電車のこと。修学院から先はまだ一度も行ったことがなくて、叡山電車の終点がどんな感じなのか、前々からそこはかとなく気になっていたのだった。というわけで、比叡山のふもとまで叡山電車で行って、そのまま折り返して、出町柳まで戻ったら、あとは本とコーヒーの時間、下鴨の古本市は明日が最終日、云々と、行き当たりばったりに過ごしてみようというスケジュール(というほどのものでもないが)とあいなった。


昼下がり。祇園四条から京阪電車に乗って、終点の出町柳で下車して、叡山電車の改札へ。あたりは、ワイワイガヤガヤと行楽客でいつもよりだいぶ人が集まっていて、いかにも夏休み気分が横溢していた。鞍馬までの往復切符を買っている人が多いようだった。出町柳を出発した叡山電車は宝ヶ池で、鞍馬行きと八瀬比叡山口行きの二又に分かれる。フムなるほどと、手持ちの『鉄道旅行地図帳 関西2』(新潮社刊)で位置を確認して納得したところで、運よく座れてよかったよかったと、電車が出発。叡山電車でも未知の土地を移動しているだけで物珍しいという、観光客のよろこびが全開、一乗寺といえば宮本武蔵だ、内田吐夢だ、中村錦之助だと、突如スクリーンが白黒になるあの瞬間を思い出して、ひとりでジーンとなったりする。


鞍馬行きほどではないにしても、八瀬比叡山口行きの電車も、今まで乗ったなかで一番混んでいる気がする。行楽の人びとは比叡山へ遊山に出かけるのかなと、ぼんやり思っているうちに、突如思い出したのが、戸板康二が少年時代、夏休みに神戸在住の伯父に連れられて初めて京都を訪れ、そのときに比叡山にのぼった、ケーブルカーのあとロープウェイにも乗った云々ということを、なにかのエッセイで書いていたこと。山の手育ちの東京っ子、戸板康二は、親戚が阪神間にいたおかげで「京阪神モダン生活」の一端に触れているのだ、ということに突如ハッとなった。





京都電燈株式会社叡山電鉄課発行の戦前絵葉書、《京洛ノ霊峰 眺望絶佳 叡山案内図》。気分は一気に橋爪紳也著『京阪神モダン生活』(創元社、2007年12月刊)! 叡山電車の分岐点、現在の宝ヶ池駅はかつて「山端」という名前だった(昭和29年に改称)。叡山電車の先には、プールに温泉、遊園地、そしてケーブルカーと、都会生活者の絶好の行楽スポットの数々が用意されていたことが、この絵葉書を手にとると鮮やかに体感できる。



当初は、叡山電車で八瀬比叡山口まで行って、『鉄道旅行地図帳』に紹介の「名駅舎」であるところの八瀬比叡山口駅を見物して、そのまま折り返して戻って、そのあとは古本めぐり、という予定だったのだけど、1920年代の戸板康二少年の夏休みの行楽を思い出したとたんに、こうしてはいられないと思った。ケーブルカーとロープウェイに乗って、比叡山の高いところまで出かけて、戸板少年の1920年代の行楽に思いを馳せる絶好のチャンスをみすみす逃す手はないと、スクッと立ち上がって、目には炎がメラメラ。と、比叡山観光を決意したとたん、それまで傍観者風に叡山電車に乗っていたのが、急に行楽気分が盛り上がって、ますます気持ちがフワフワ。そうこうしているうちに、電車はあっという間に終点の八瀬比叡山口に到着。わーいわーいと下車すると、さっそくその古風な駅舎に、ワオ! だった。




八瀬比叡山口の駅舎。深い考えもなく出かけてみたら、あんまりすばらしいのでびっくり。オルセー美術館を彷彿とさせる、かまぼこ状の屋根が嬉しい。『鉄道旅行地図帳 関西2』の解説に、《終着駅のホームを覆う鉄骨の大屋根と一体化した珍しい駅舎。大正14年の開業時は隣接した八瀬遊園地(閉園)の駅だった。大屋根の下は戦時中工場にも利用されたという。》とある。写真で見ただけでは想像もつかないような見事な空間だった。



上掲の絵葉書の駅舎部分を拡大してみると、大正14年創業時と現在と、駅舎の形状がまったく変わっていなくて、頬が緩む。かつての「八瀬遊園地」の敷地は、現在高齢者用の住宅になっている。「少子高齢化」という言葉をマザマザとつきつけられて暗い気持ちになったところで、改札の外に出てみると、電車でたった15分揺られただけなのに、いきなり山の麓の景色が眼前に拡がっている、ということに、ただただ感嘆。橋の欄干からせせらぎを見下ろすと、子供たちが水遊びの真っ最中。明らかに町なかよりも気温が低く、ああ、なんていい気持ちなのだろう! と、さらにハイになる。このままケーブルカーで上の方へ行けば、さらに涼しさが増すこと請け合いだ。



またまた、上の絵葉書を拡大。ケーブルカーの乗車駅「ケーブル八瀬」は、大正14年12月の開設以来、「西塔橋」という駅名だった(昭和40年に「ケーブル八瀬遊園」に改称、平成14年に「ケーブル八瀬」に)。


わーいわーいと、ケーブルカーの乗り場へ走って、ケーブルカーとロープウェイのセット乗車券(往復で1620円也)を買って安心したところで、行列に並んで10分ほどで、ケーブルカーに乗り込む。こんな山景色を目の当たりにしたのは、ずいぶんひさしぶり。スーっと生命が延びるようだ。その車窓に、ただただ感嘆。中央線に延々と揺られてやっとのことで高尾山口にたどりついたわが幼少時代の行楽を思い出して、市街地からちょっとだけ電車に揺られただけで、山に来ることができるというのは、関西独特の感覚だなあと、いつまでも感嘆なのだった。車窓の急斜面と山景色を満喫しているうちに、早くも「ケーブル比叡」に到着。




ケーブルカーの到着地「ケーブル比叡」駅は、大正14年開業時は「四明ヶ嶽」という名称だった(「西塔橋」と同様に昭和40年8月に改称)。




「ケーブル比叡」駅に到着して、イソイソと次はロープウェイにのって、比叡山の山頂を目指すのだけれども、その前に、駅舎のまわりをくるっとひとまわりして、





ケーブル比叡駅、かつては「四明ヶ嶽」という名の駅舎を見物。石造りの柱がいかにも大正14年の創業時を髣髴とさせて、ふつふつと嬉しい。




戦前絵葉書《比叡山四明ヶ嶽駅発車スル鋼索電車》。この絵葉書に描かれている創業時の石造りの駅舎を、今も残る柱の装飾に見出すことができるのだった。現在の「ケーブル比叡」の駅舎全体を見ると、その骨組だけが残っているようだ。




ケーブル比叡駅には、唐突にロープウェイの古い車両が展示(というか放置)してあった。いつごろの車両かな。




そして、無事にロープウェイに乗って、いざ比叡山の山頂へ。「絶景かな、絶景かな」としか他に言いようがない。このロープウェイからの眺めは、戸板少年が乗った創業時とまったく変わらないのは確実。こんな山のてっぺんのすぐ向こう側に市街地が見えるというのがいかにも盆地だなあと、観光客のよろこび全開、ここでもひたすら感嘆なのだった。




戦前絵葉書《比叡山空中ケーブルカー》。「ロープウェイ」のことを当時は「空中ケーブルカー」と呼んでいたようだ。「空中ケーブルカー」と呼ぶ方がいかにも実感的! なだらかな山の斜面の上をゆく空中ケーブルカー。なんて、のどかなのだろう。



山頂にたどりついて、大きく伸びをして、さらに気分上々。「土器投げ」のスペースが目に入り、「おっ」といきなり落語の『愛宕山』を思い出して、大喜びだった。愛宕山はどっちの方角だろうと、ちょっと思ったりもした。上の「空中ケーブルカー」の絵葉書ののどかさは、落語の『愛宕山』のあの感覚をいかにも思い出させるのだった。と、戸板康二の1920年代の京阪神行楽に思いを馳せるという点でも、観光のよろこびという点でも大満足の、比叡山ケーブルであった。




あんまりここでのんびりしていたら、かねてからの計画の、本屋行きとコーヒーとビールの時間がなくなってしまうッとそこはかとなく危機感をいだいて、ロープウェイで下山のあと、イソイソとケーブルカーに乗り込む。行きはくだり斜面を眺めながら登ったので、帰りは進行方向と逆向きに座って、上の斜面を眺めながら下ってゆく。



ふたたび叡山電車にのって、もと来た道を戻る。比叡山のふもとの駅が大正14年の開業であった一方、叡山電車のもうひとつの終着駅、鞍馬は昭和4年の開業だ。いつか鞍馬へも出かけて、モダン都市の形成、鉄道網の整備、行楽の誕生、ということに思いを馳せたいなと思う。ケーブルといえば、六甲ケーブル(こちらは昭和7年開業)にも乗ってみたいなあと夢が広がる。




京都電燈株式会社叡山電鉄課発行のパンフレット、《比叡めぐり》。関西遊覧から戻ると、戦前の紙モノをいくつか見つくろって、遊覧の追憶をして、次なる関西遊覧を心待ちにするのがいつものお決まり。比叡めぐりのよき思い出とともに、このグラフィカルな表紙を眺めて、いつまでもうっとりだった。


古書善行堂で本を買って、バスにのって寺町通りへ。三月書房とスタンド。


比叡めぐりを満喫して、ふたたび叡山電車で機嫌よく出町柳へ戻る。テクテクと百万遍へ向かって歩いて、おなじみの知恩寺の前に出て、嬉しい。11月にふたたびここに来ることができたらいいなと、気の早いことを思う。通りがかりの進々堂でコーヒーをすすって、ひと休みをして英気を養ったところで、わーいわーいと古書善行堂へ向かって競歩。無事に開いていてよかったッと、歓喜にむせんで、オズオズと店内へ。ジャズが流れるかっこいい空間で、心ゆくまで棚を眺めて大満足であった。いくらでも買いたい本が見つかってしまって、いつのまにかハイになっている、という、よき古本屋の典型がここにあった。今日のところは、大庭柯公と石塚友二を買った。お店からちょっと歩くと、北白川のバス停があって、ここからバスにのって、寺町通りに出ることにする。都内で都バスに乗っているときとおなじように、京都で市バスに乗ると、かつて路面を走っていた電車を実感することができるのが嬉しくて、ランランと目を輝かして、車窓を眺めてしまう。


京都市役所前の停留所でバスをおりて、寺町通りに入る。わーいわーいと三月書房に向かって競歩。無事に開いていてよかったと(向かいの村上開新堂は夏休みで残念)、歓喜にむせんで、店内に入る。さっそく天野忠の『我が感傷的アンソロジイ』が当たり前のように「新刊本」として売っているのを目の当たりにして、ガバッと手にとって、狂喜乱舞だった。




天野忠『我が感傷的アンソロジイ』(書肆山田、1988年3月25日)。装釘:宮園洋。表紙のマッチは「リアル書店」のマッチ! 以前、都立中央図書館の閲覧室で読みふけって以来、念願の本だったけれども、なんやかやで入手し損ねていた。お昼に大丸に出かけときに、この本のなかの一篇のことを思い出していたところだったので、タイミングもよかった。『我が感傷的アンソロジイ』は1968年6月に文童社より、天野忠曰く「ひどく粗末な体裁で、極く小部数を内輪の読者のための限定本として、小さな世間へ送り出したものであった」あとで、20年ぶりに世に出たこの書肆山田版は初刊の文童社版を増補したものだけれども、文童社版もいつか手にしたいのだった。



と、『我が感傷的アンソロジイ』1冊だけでも涙滂沱だったというのに、三月書房でもいくらでも買いたい本があって困ってしまうくらいなのだけれど、なんとか3冊みつくろって、お会計。それにしても、古書善行堂で本を見たあとに、市バスにのって寺町通りへと歩いて、三月書房で本を見る、という一連の時間のなんとすばらしいことだろう! と、しみじみ思う。これから末長く、京都遊覧のたびにこの行程を取り入れたい、この行程を軸に京都遊覧を設計したいとすら思う。古書善行堂から銀閣寺方面へと歩を進めると、白沙村荘がある。戦後、戸板康二が長らく定宿にしていた旅館は白沙村荘に隣接していたというから、涼しい季節に京都に来た折には、戸板康二に思いを馳せながら、その界隈を歩くとするかな、などと、残り少ない京都の時間を、将来の遊覧を夢想して気を紛らわせつつ、寺町通りをテクテク歩いてゆく。早くも夕刻なのだった。


新京極のスタンドでハイボールをグビグビ飲んで、三月書房でちょうだいした「海鳴り」を拾い読みする。スタンドで「海鳴り」、なんという至福! と、ちょっと信じられないくらいに見事な瞬間だった。明日は歌舞伎座で三津五郎の『六歌仙』なので(奮発して一等席)、あまり飲み過ぎないようにと理性を残しつつ、ハイボールをグビグビ飲んでいるうちに、新幹線の時間が近づいてくるのだった。




帝国館(昭和9年12月竣工・白波瀬工務店設計)、『近代建築画譜』より。

……尾上松之助の昔から私も大の映画好きだったが、この友人のように「本筋」に相渉って身を入れる勇気も器量もなかった。まわりには、山中貞雄だとか藤井滋司だとかその本筋の人が居たが、うしろからついて行って、いい工合にその列に引っ張ってもらおうという気持ちまでは起こらなかった。地道なしかしいっこう映えない安月給取りでムッツリと暮らし、週に一回の休日に映画館の暗闇で、やむなくホッコリしているのが、まあ身に合っているようだった。その世界に入って苦労に塗れながら、それを創り出そうという気構えのある人と、出来上がったものを賞味して気晴らしだけで結構がっている人という荒っぽい分け方ではなくて、どっちにもなれるようで、どっちにもすっぽりと嵌りきらない型もあって、それが凡庸な私であった。


【天野忠「茶の間の郷愁」-『木洩れ日拾い』ノア叢書11(編集工房ノア、1988年7月15日)より。】

伊丹万作『赤西蠣太』(昭和11年6月封切)上映中の帝国館。去年新装版が出た、加藤泰著『映画監督 山中貞雄』(キネマ旬報社、1985年9月)は大好きな本。山中貞雄の生涯を通した、映画をとりまく戦前京都の空気というものにうっとり。この本で初めて、《山中貞雄少年たちが通ったころの、京都一番の活動写真館街、新京極の地図》(p49)を目の当たりにしたときの幻惑感といったら! 天野忠もこの帝国館(のち京都日活)で映画を見ていたに違いない。




戦前絵葉書《京都大丸 売場ノ一部》。天野忠が昭和3年から昭和18年まで勤めていた京都大丸は、新京極スタンドから程近い。今回の京都遊覧は、京都大丸に始まり、京都大丸へと戻った恰好。

 私はいま、赤い表紙のうすぺらい一冊の詩集を机の上に置いて眺めている。ただ眺めているだけでも、私にはいろいろな感慨がわいてくる。それはのろのろとした、たいぎな身振りで、すこしばかり陰気な思い出をつれてやってくる。
 『聖書の空間』というこの書物は、三人の合著詩集である。即ち、野殿啓介、大沢孝、それに天野忠の三人、タテ十四糎ヨコ十一糎の四角ばった体裁のこの赤い表紙には、右横書で、詩集、聖書の空間とあり、その下に右タテ書で三人の名前、そしてその全部を裏ケイのふとい枠で二重に囲んである。見事なばかりに何の意匠もない、ただ赤字に黒文字のぶあいそで、どこかひたむきな稚さ、右下隅っこに一九三〇年の数字が小さく入っている。その一九三〇年、私たちは最下級の貧しい月給取であった。
 野殿啓介と私は百貨店の売子であり、大沢孝は日赤系の病院の事務員であった。私は紳士服用品売場に立っていたが、野殿啓介の持場は呉服売場で、客の前でいつも、帯や着物の反物をクルクルとまいたりひろげたりしていた。……


【天野忠「Moment Musical――野殿啓介のこと」-『我が感傷的アンソロジイ』より】 



天野忠編『京都襍記』(矢貴書店・昭和18年7月18日発行)。装釘:内藤賛。京都遊覧のすぐあとの古書展で、念願のこの本を入手して、今回の遊覧の絶好の締めになった。天野忠は、北川桃雄のすすめでこの本の編集に従事したあとに、京都大丸を退社した。自筆年譜(『木洩れ日拾い』初出、『天野忠随筆選』に再録)を参照すると、

京都に就いての諸名家の随筆、エッセー、小説等の抜萃集である。定価は「停」として四円であるのに「特別行為税相当額拾九銭」「合計売価四円十九銭」と奥附にある。発行部数も五〇〇〇部と明記。よく売れたが再販は、時局に適せずとして情報局から許可されなかった。

とある。「二銭のハガキなど」(『そよかぜの中』初収、『天野忠随筆選』再録)という随筆には、この『京都襍記』にまつわる回想が。《紙質は当時のことだから随分悪かったが、写真も何枚か入り、形ばかりだか箱付の(図柄模様の入った)、まあそのころとしては、まずまずの出来の本であった》とある。きれいに画像がとれなかったけれども、本体の町屋の格子戸の図版がなかなか洒落ていて、嬉しかった。この本で初めて、横光利一の『比叡』(初出:「文藝春秋」昭和10年1月号→『覺書』沙羅書店刊(昭和10年6月15日)に初収)を読んで、舞台がそのものずばり、比叡山ケーブルなので大喜びだった。モダン京阪神の行楽!