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『柳田泉の文学遺産』のこと。

4月に入って最初の東京堂行きの折、『柳田泉の文学遺産』の内容見本が積んであるのに遭遇して、ワオ! と欲張って3枚ほどちょうだいして、新年度早々、大喜びだった。右文書院から全3巻で刊行されるという『柳田泉の文学遺産』の第1回配本は5月で、以下隔月刊行予定で9月に完結、全巻購入後、帯についている応募券を官製はがきに貼付して投函すれば、半年後には「本巻に収めきれなかった柳田泉の文章を収録した特典CD-ROM」が手元に届くのだという。いただいた内容見本のうち、1枚は自宅の書斎(と称している小部屋)の机に立てかけ、1枚は平日日中に坐している机の引き出しにしまい、残りはどなたかに差し上げて(押しつけて)、そのあとは、折に触れ眺めては、ただただ刊行を心待ちにするばかりだった。(→ 内容見本: http://www.yubun-shoin.co.jp/pdf/iy_sample01.pdf


同じく4月中旬のとある土曜日の午後、何年かぶりに早稲田の古本屋を流して、ずいぶんたのしかった。最初に足を踏み入れた平野書店で、稲垣達郎『角鹿の蟹』(講談社文芸文庫、1996年8月)を見つけて、しょっぱなからホクホクだった。保昌正夫の師ということで前々から読まねばならぬと思いつつも、生来のズボラゆえついつい機会を逸していた。講談社文芸文庫に入っていたとは知らなんだと、手に取って目次を偵察すると、「柳田泉さん」の文字があって「おっ」となった。懸案の稲垣達郎を読み始めるのが、『柳田泉の文学遺産』を手にする直前になった、というめぐりあわせがいいではないかと、ひとり悦に入って、即購入。


そして、4月下旬、岩佐東一郎『書痴半代記』をウェッジ文庫の新刊というかたちで、ひさしぶりに読み直すこととなった。ホクホクとページを繰っていると、「『昨日の花』」という文章に登場する、岩佐東一郎宛ての堀口大學のお手紙に、《柳田泉氏の文章には敬服しました。達人の名文だと思う。(古書通信)には色々教えられるので愛読しています。》という一節があるのが目にとまった。日頃から、閲覧室で古雑誌を繰っているとき、柳田泉の名前を見つけると、そのたびにそこはかとなく嬉しかったものだった。閲覧室では、そもそものお目当てよりも、ちょいと気になっている著者のごくくつろいだ短文を偶然に読むことをたのしんでしまうことが往々にしてある。古雑誌で偶然出会うと、ちょっと得した気持ちになる、わたしにとって、柳田泉はそんな書き手だった。堀口大學が「達人の名文」と書いている柳田泉の文章はどんな文章なのかな、と、愛蔵の『日本古書通信 総目次』を繰りながら思いをめぐらせて、ますます『柳田泉の文学遺産』を手にするのが待ち遠しいのだった。




「日本古書通信」昭和35年7月号に掲載の柳田泉の写真。《日曜日の午後、(中略)、八木氏がやって来て、今月の書斎めぐりは私の番にしたから写真をとらしてくれという。私は驚いて、イヤ僕には書斎というほどのものがないのだから勘弁してくれといったが、きかない。書斎のないというのも一風流だから、やはり写真をとるという。……》というふうにして、撮影された写真。ここに掲載の「書斎随筆」は、『書斎随筆十人集』こつう豆本35(日本古書通信社、昭和53年7月15日)に収録されている。

……私は明窓浄机、好みの文具や照明などをそろえた書斎でなくても、どんなところでも書物がよめる。多年の貧乏書生の習慣が、私をそう仕立ててくれたものであろう。野道を歩いているとき、庭の樹かげ、玄関前の空地、畑のすみのいちょうの樹の下、どこでも読書にさしつかえがない。そうして、そのときどきに私は、その読書の場所に私なりの名をつけて仮の書斎にするのである。野道のときは、野斎という。庭前の樹かげでは木斎、玄関前の空地は空斎である。そのほか、そのときどき、その場その場でいろいろな名前がある。縁側に腰かけて青空をのぞみながら読むときは星雲軒である。八畳の客間の真中に臥ころんで読むときは、虚白堂という、ガランとして何の装飾もない室だからである。それから庭に何かの花がさいたとき、花の香をかぎながら読むときは花前亭としゃれる。およそそういう臨時の書斎と斎名がまだまだある。その点になると、私はもう貧乏書生どころではない。天下王公の豪奢をしのぐわけで、書斎がないどころか、ありすぎるほどあることになる。


【柳田泉「野斎・木斎・空斎」(「日本古書通信」昭和35年7月号初出→『書斎随筆十人集』こつう豆本35)より】

4月にウェッジ文庫になった(asin:4863100469)、岩佐東一郎の『書痴半代記』は、昭和31年4月から56回にわたって「日本古書通信」に連載された「書痴半代記」を中心に編んだもの。文庫巻末の内堀弘さんの解説には、日本古書通信社の八木福次郎さんの名前がまっさきに登場する。その内堀弘さんの文章が含蓄深くて余韻たっぷりで、繰り返し読むと、さらにしみこんでくるものがあった。1920年代から30年代にかけての《書物誌がいくつも登場した時代、それこそ書痴時代とか古本時代とでも呼びたくなる》時代に《流れていた豊かな精神》と、『書痴半代記』が「日本古書通信」に連載されていた昭和30年代の《書痴たちのおおらかな雑談》。柳田泉はまさしく、そんな《豊かな精神》と《大らかな雑談》のまっただなかにいた人だ。内堀さんの文章の余韻とともに、机の上に置いてある『柳田泉の文学遺産』の内容見本をしょうこりもなく眺めて、ますます刊行を待ち遠しく思う。そして、岩佐東一郎と柳田泉を立て続けに「新刊」として読むことができるという幸福にしみじみとひたるのだった。



そんなこんなで5月になって漫然と日々が過ぎて、いつのまにか6月が近づいている頃に、『柳田泉の文学遺産』の第1回配本を無事に入手して、ほっと一安心。それにしても、これほどまでに発売が待ち遠しかった本は近年なかった気がする。




『柳田泉の文学遺産 第三巻』右文書院(asin:4842107294)、装幀:吉田篤弘・吉田浩美、解題:川村伸秀、解説:坪内祐三。カヴァーの挿画は、月岡芳年画、二葉亭四迷『浮雲』より。


『柳田泉の文学遺産』の第1回配本を手にしたのは、徳田秋声『思ひ出るまゝ』(文學界社、昭和11年4月20日)を3年ぶりに再読して、前回読んだとき以上にヒクヒクと妙にツボで、なんだか変にハイになってしまった、明日は満を持して、去年年末の古書展で入手したまま未読だった徳田秋声の自伝的小説『光を追うて』(新潮社、昭和14年3月16日)を読むとするかな……というようなことを思っている真っ最中のことだった。というわけで、もともと秋声でハイになっていたのがさらにハイになってしまって、もう大変。紅葉の死で終わる秋声の自伝エッセイを読んだばかりで、身体全体が「明治の文学」になっていたというタイミングで手にすることになったのは幸運だったと思う。


『柳田泉の文学遺産』の第1回配本を入手したら、もともとの興味関心に関係なく、編者に敬意を払って、背筋をただして最初のページから順番にじっくりと読んでゆくことに決めていた。が、坪内祐三の解説を読んでしまうと、この巻は、最後に二葉亭四迷のところを読んで締めくくりたいな、というふうにちょっとだけ気が変わった。二葉亭四迷といえば、まっさきに思い出すのが内田魯庵の『思い出す人々』に収録の一連の二葉亭についての文章。思い出しただけで胸が詰まる。そうだ、柳田泉の二葉亭を読んだあとは、魯庵の二葉亭をじっくりと読み直すとするかな、と思ったところで、その日の夜にさっそく、『柳田泉の文学遺産 第三巻』を読み始めた。二葉亭のところだけ最後に残して、最初のページから順番に。


『柳田泉の文学遺産 第三巻』は「文学者とその周囲」という章からはじまる。目次の文字を見ただけで、いかにもおもしろそうで胸は躍るばかりだったけれども、坪内逍遥と会津八一、二葉亭は最後にとっておくのでとばして、その次は尾崎紅葉、そして樋口一葉……というふうに読みだしたとたん、目次を眺めて胸を躍らせていたとおりのたのしい時間がいつまでも続いて、ホクホクとページを繰る指がとまらなくて、ひさびさに宵っ張りになってしまって、もう大変。「一葉女史と鏡花」という文章に、鏡花の『薄紅梅』に「付録のやうにして」収められている『雪柳』と『縷紅新草』を読んで、《近ごろになく、夜ふけまで燭を翦つて書に親むといふ清興を勝ち得たことであった》という一節がある。ここが目に入った瞬間は愉快でたまらなかった。柳田泉にその言葉をそっくりそのままお返ししたい。今のわたしがまさしく《近ごろになく、夜ふけまで燭を翦つて書に親むといふ清興を勝ち得たことであった》という心境だわ! とひとりごちて、にんまりだった。と、ここで、続きは明日の朝の喫茶店にしようと、ようやく就寝ということになった。


と、『柳田泉の文学遺産』の第1回配本を入手した日の夜にさっそく読み始めて、翌日はいつもよりも早起きしてイソイソと外出、朝の喫茶店で背筋をただして、ページを繰ってゆく……ということが幾日か続いて、最後は予定どおりに「二葉亭とその周囲」で締めくくって、スミからスミまでズズズイーッと全編読了。カヴァーをかけてじっくり読んでいた本を読了してすっきり達成感、そのカヴァーをはがして今度はパラフィン紙でパリッと包んで、部屋の書棚に収める瞬間はいつだって格別だ。先ほどまで長々と書き連ねていたように、刊行がたいへん待ち遠しかった『柳田泉の文学遺産』であったけれども、いざ読んでみたら、期待以上というべきか期待どおりというべきか、とにかくもたいへんな歓びをもたらす書物だった。手にする前、読んでいる最中、読了後のすべてにわたって、たいへん充実した時間をもたらしてくれる本、存在しているということ自体がすばらしい本、うまく言葉にならないけれども、『柳田泉の文学遺産』はそういう本だった(あと2冊続きがあるなんて、夢のようだ)。



単行本未収録のいろいろな文章、さまざまな媒体に掲載された文章を編んだ本書の魅力について、巻末の解説で坪内祐三は、

生前に単行本に収録しなかったのはそれなりに理由があっただろうが、ここに並ぶ文章は『随筆明治文学』や『明治文学研究夜話』より以上に肩の力がぬけ、楽しくて読みやすい。その文章の幾つかは口語的で、だからまるで火鉢に手をあて、センベイを食べながら、柳田の明治文学談義を聴いている気分になってくる。

というふうに書いていて、まさにこの言葉に尽きるのだけれども、ふと思い出したのが、野口冨士男の『徳田秋声ノート』(中央大学出版部、昭和47年6月)のこと。秋声についてさまざまな媒体に(学術誌から劇場のパンフレットまで)寄稿した文章を収録した書物、そのあとがきで野口冨士男は、《重厚な評論や科学的な考証の類いを渉猟することはむろん必要だが、気軽な随筆を通じてその世界へ参入する経路にも捨てがたいものがある。》というふうに書いている。『柳田泉の文学遺産』は、まさしく「気軽な随筆を通じて」明治文学の世界へ導かれるという本。しかし、重要なのは、その「気軽な随筆」というのは「重厚な評論や科学的な考証の類い」をものしていた柳田泉にしか書けない深さと重みがあるということ(野口冨士男と同様に)。であるので、背筋をただして最初のページから順番にというお行儀よく読みたくなる本なのだった。でありつつも、スラスラと読めてとてもおもしろいのだから、たまらない。さらに、とっても生真面目な柳田泉の文章に横溢する、その生真面目さが端からみるとたいへんユーモラスでもあって、文章そのものの魅力も得難いものだった。文章にひたっているうちに、柳田泉その人にますます愛着を覚えることこの上なかった。これも嬉しかったこと。


坪内祐三の解説に、柳田泉と勝本清一郎を対照させているくだりがある。本書の「勝本清一郎氏のことども」を読むと、あらゆる点で、柳田泉と勝本清一郎は対照的だったということがわかる。明治文学の資料収集という点では共通しつつも、「筋のよい美本」しか買わない勝本と「利用一辺倒の安本結構主義」の柳田、「集めるものも本筋の明治文学だけで、種々雑多なものには及ばなかった」勝本と《ただ、文学だけの研究に限らず、それはひろい明治文化から見ての文学で、此の頃の研究のように狭く限つたものではなかつたので、私どもも文学のことを調べる傍ら、明治文化のいろいろなことをやつたものである》と、別の文章(「おもいでの片々――斎藤昌三翁」)で「明治文化研究会」のことを回想している柳田泉。「人から借せとか見せろとかいわれるのを嫌って、あまり自家の所蔵を口にしたことがない」勝本……云々と、列挙すると要するにヤな奴ということになる勝本だけれども、それはそれでなかなか味わい深い人物。柳田泉の「勝本清一郎のことども」の最後の方で語られる逸話がかなり可笑しくてクスクスしているうちに、そんな対照性もそれはそれでいいではないか、とおおらかな気持ちになってくる。と、こんな感じのたのしい文章が満載の一冊だった。クスクスしつつも深くて、軽く読もうと思えばそれだけでも十分面白いし、ちょっと深く考えようとしてみるとなにかと示唆に富んでいる(ような気がする)文章が、巧みに編集されて一冊にまとまっている。行き届いた解題がたいへんありがたい。


明治27(1894)年生まれの柳田泉は三十代に突入する直前に関東大震災に遭遇、坪内逍遥を慕って早稲田の英文科に学んで(卒業論文はメレディス)、たいへんな秀才だった柳田泉は、多くの本が震災で失われたことからくる危機感を胸に明治文学研究を志し、大正13年創立の「明治文化研究会」に参加……云々というプロフィールについては前々から知ってはいたけれども、今回『柳田泉の文学遺産』を精読したことで、そんな一連の流れがいっそうヴィヴィッドに体感できた気がして、あらためて目を見開かされた思いだった。震災後の「明治文化研究会」をとりまくいろいろなことに前々から興味津々だったけれども、『柳田泉の文学遺産 第三巻』を精読したことで、あらためて、というか、ますます「明治文化研究会」をとりまくあれこれに心が向かうのだった。「明治文化研究会」の文学部門の顔ぶれ、木村毅、石川巌、神代種亮、高橋邦太郎、石井研堂、野崎左文といった人たちのことと、会外の大先輩として内田魯庵に教えを乞うといった一連のことは、震災後のモダン都市文化と同時代のこと。その背後には円本時代があって、柳田泉はその印税のおかげで研究に没頭できた。いくつかの書物雑誌に関わったり、その折から盛んになった古書展に足しげく通ったり、宮武外骨の「明治新聞雑誌保存文庫」の資料整理を手伝ったりした。柳田の前月に手にして深く感じ入っていた、ウェッジ文庫の岩佐東一郎『書痴半代記』の内堀弘さんの解説の、1920年代から30年代にかけての《書物誌がいくつも登場した時代、それこそ書痴時代とか古本時代とでも呼びたくなる》時代に《流れていた豊かな精神》というくだりを、『柳田泉の文学遺産』を精読したあとでさらにヴィヴィッドに体感したような感じだった。大きな歓びだった。


『柳田泉の文学遺産』を読んだあとは、予定どおりに、内田魯庵『新編 思い出す人々』(岩波文庫、1994年2月)を手にとった。目当ての二葉亭のみならず全編丁寧に読み直して、これまた、本は時間をおいて読み直すと熟成するという典型で、今までこれほどまでに深く魯庵を読んだことはなかった気がした。『柳田泉の文学遺産』を全篇精読したことで、ますます魯庵が面白くなったのは当然といえば当然のことなのだろう。そして、紅野敏郎による編者解説に、《柳田泉は内田魯庵に親炙した有力な一人で、明治文学研究の先駆的人物である。内田魯庵への親炙という点で勝本清一郎との差が出てくる。》という一節があって、『柳田泉の文学遺産』を読了して目にすると、実に端的というか象徴的だなあとしみじみ感じ入ってしまうものがあった。とにかくも、キーパースンは内田魯庵だ。


ちょっとした収穫もたっぷりで、手元の『柳田泉の文学遺産』メモはだいぶ大部になっている(しつこいけれども、あと2冊も刊行されるなんて、夢のようだ)。神代種亮の「種亮」は「タネスケ」ではなくて「タネアキ」と読むのが正しいとか、「校正の神様」というのは神話でしかなくて、実際の腕前は大したことがなかったとか、斎藤昌三が久保田万太郎の俳句をくさしていたこととか、興味深い逸話にも事欠かない。「子規と湖村と」の《わたしは子規の「歌よみに与ふる書」のきびきびしたところが大すきで、子規の文章の中で、特に執着をもつものであるが、……》という一節を見て、昼休みの本屋でさっそく岩波文庫の『歌よみに与ふる書』を購って、さっそく読みだしたり、同時に「藤村詩の面白さ」を読んで、岩波文庫の『藤村詩抄』を買って、日中の細切れ時間にちょくちょく眺めていたりした。島崎藤村が思っていた以上に深い余韻があって、明治26年の藤村を思い、寝床で『眼鏡』を読み返したのも楽しいことだった(『春』も読み直さないといけない)。「透谷と藤村」という文章に、「インナー・ライト」という言葉が登場する。《インナー・ライト(内部の光明)に従った生き方に終始した》透谷に、柳田泉は二葉亭四迷との類似を見ているのだったが、そんな柳田泉の二葉亭への共感具合がたいへん感動的だった(このあたりにも魯庵が通底)。しかし、透谷への共感を持ちながら、島崎藤村を語る柳田泉の筆致もとてもよくて、全体を読みとおすと、碩学ならでは目配りに心が洗われる。碩学ならではの筆致といえば、長谷川天渓や二葉亭四迷の経歴を語ると、おのずと明治文学史の流れが極めて明快に語られているのを目の当たりにすることになって、明治文学史そのものの「お勉強」にももってこいなのも、実によかった。書評を読んで、中村光夫の『二葉亭四迷伝』と岩本素白の『日本文学の写実精神』(奇しくも平凡社ライブラリーになったばかり)を読まねばというところだけれども、こういった直接的なものだけではなくて、間接的に刺激を受けて、読みたい本が(再読を含めて)盛りだくさん。


「二葉亭四迷「余の思想史」解説」には《二葉亭の勉強した書物はどんなものであったのだろうか。》と、何冊か書名を挙げて実際に読んだあとで、

事は一古書の繙読というだけでなく、これをよんでもジャーナリズムの上なり、物質的なりには些の益はうけないかも知れないが、真実の探求の上からいえば大きな意味があろう。人のよまぬ古書をよんで、ひとり会心の興を得るのも、私は大丈夫の事業の一つだと思っている。

という一節がある。それから、「未完成の批評家・福島静斎」に、《私が明治文化史、明治文学史の資料をひとりでコツコツとあさつてゐたところ、あるとき早稲田大学の図書館で雑誌日本人をずつと通して読んでみたことがある。あるとき、明治二十八九から三十年ごろのところのその雑誌に、「福島静斎」といふ号で時々鋭い評論や感想をかいてゐる人物に注意を引かれた。》という発端で、福島静斎を「発見」して、詳細な論考が続く。解題で川村伸秀氏が《柳田が筆に留めておかなければ、その存在自体全く無視されていたであろう》と書いている。などと、例を挙げようとするとキリがないけれども、わたしもこういう柳田泉のように本を読んでいきたいものだと、本を読むということに対する、姿勢、と言うと大袈裟だけれども、一言で言うと、本を読むということの歓びの根幹に、柳田泉その人を通して、ひたったのが『柳田泉の文学遺産』だった。かさねがさね、あと2冊残りがあるなんて、夢のようだ。





「歌舞伎」第百號、明治四十一年十一月一日発行、《故三木竹二君追善號》。表紙絵については、久保田米齋が《森先生の御家の定紋は、至難かしい菊と葉の、斜に組合したものでしたが、少し離れて拝見すると、線が細いのでどうしても、白月の中に黒く雁の一行のある紋と見えるのでした。それがまた自分は非常に面白いと思つて、いつかも未亡人の換紋としておすすめした事がありました。それに恰かも菊の盛りの時季である處がから御覽の如き圖案にしたのでした》と書いている。……などと、ひさしぶりにこの「歌舞伎」を取り出したのは、ここに収録の饗庭篁村の「三木竹二氏を懐ふ」が以前大好きだったことを思い出してのこと。柳田泉の「二葉亭四迷「余の思想史」解説」に、二葉亭が愛読していた本として饗庭篁村の名前が挙がっていることに「おっ」だった。柳田は、

殊に注目すべきは、当時の小説界で、逍遥出現前、大きな明星のような存在になっていた饗庭篁村の文学に傾倒したことである。「浮雲」は、こういう立場から新しく見直されてよいところがあると思う。同時に、逆に篁村の文学というものも、逍遥にもほめられ、魯庵にもほめられ、二葉亭にもほめられ、露伴にも感心されている点で、文学史上十分新しい認識を要求してよいものではないかと考えられてくるのである。

というふうに書いていて、何年かぶりに饗庭篁村熱が盛り上がっているのだった。




「歌舞伎」同号に掲載の、丸善の広告。この画像では見えにくいけれども、「演劇歌舞伎關係書類續々新着す」の文字の下、「ジョーンスは現代英国劇壇の河竹黙阿弥也」と続く広告文。これは、魯庵の文案かしらッと嬉しかった。





徳田秋声『光を追うて』(新潮社、昭和14年3月16日)の函。装幀者は明記されていないけれども、なかなか愛らしい本。『柳田泉の文学遺産』を手にしたことでしばらく中断していた、秋声読みを再開。今週末一気に読了して、たいへんおもしろかった。秋声の自伝小説には、露伴の『露団々』と紅葉の『拈華微笑』と鴎外の『文使ひ』に読み浸り、近松や西鶴を読み、篁村のコントに溺れる、というくだりがある。秋声にもほめられる饗庭篁村、であった。それから、二葉亭の愛読書でもあった、森田思軒訳の『探偵ユーベル』を愛読しているくだりもあった。……などと、『柳田泉の文学遺産』精読のあとで読むことになって嬉しいくだりが多々あって、秋声熱がますます燃え上がる。