「戸板康二ダイジェスト」更新メモ(#055)

「戸板康二ダイジェスト(http://www.ne.jp/asahi/toita/yasuji/)」に、ここ十日間の戸板的読書日記のようなものを、「戸板康二よろずひかえ」として掲載。→ http://www.ne.jp/asahi/toita/yasuji/news/32.html


先月のとある土曜日の午後、何年ぶりかで、早稲田の古本屋を流してずいぶんたのしかった。最初に足を踏み入れた平野書店で、保昌正夫『横光利一随伴記』(武蔵野書房、1987年12月)と稲垣達郎『角鹿の蟹』(講談社文芸文庫、1996年8月)の2冊を購って、そのいかにも「早稲田」という並びにしょっぱなから大よろこびだった。と、これを機に、あらためて保昌正夫に、そして稲垣達郎とその周囲に燃えた、燃えた。大変なことになってしまった。


保昌正夫『横光利一とその周辺』(帖面舎、1989年3月)所収の「横光利一よろずひかえ」(『横光利一見聞録』にも再録)に、

三十日。きのう、本屋で購ってきた森銑三『びいどろ障子』(小沢書店)を読んでいて、横光のことも、こういうふうに書けぬものかと思う。森さんのように、よく読んで、親しんで、しかもおもしろく書けなければ、ウソだと思う。へんに知ったかぶりの紹介では、所詮読んでもらえぬのではないか。森銑三のように横光利一を。(p65)

というくだりがある。その言葉をそっくりそのまま保昌正夫に返したい。ジーンと感激のあまり、保昌正夫の横光利一のように、わたしは戸板康二を! というような心境になるのだった。というわけで、保昌正夫の「横光利一よろずひかえ」の真似をして、とりあえず「戸板康二よろずひかえ」というのを書き始めてみる。「その2」以降が続くかどうかはわからない。





矢崎弾『過渡期文芸の断層』(昭森社、昭和12年7月)。






「ひと」丙子二号(銀座天金内天釣居、昭和11年3月20日発行)。表紙は《明治元辰歳改刻 東京切繪圖 銀座附近》。





不喚楼主人『はせ川雑爼』の挿絵、「春泥」33号(春泥社、昭和9年4月1日発行)より。

 はせ川といふ足溜りができて私はとても重寶をしてゐます。癖三酔君になるとその唯一の外出目標たる銀座ゆきの日々の足溜りにして、可なり頻繁に行く上得意の大常連、その上後援畫會まで開いてやるといふ力の入れ方で、云はゞはせ川の大パトロンであるのです[。]私は昨年六月からの新米で、翠影君と三良君につれてツてもらつたのが始まりでした。主人長谷川春草君はかくかくの人だといふので、二三べん行く内に、昔から知つてた人のやうな氣持にすぐなれるのでした。私は昔の築地の江戸庵にあつた句會には、月に一回づゝ行つていたのですがそこにゐたといふ春草君の記憶を私は持たないのです。でも発句をやつてゐたといふことが、黙つてゐても仲間の仁義のやうなものになつて、大きに氣易くなつてしまつたのでした。爾来私は左韋人君、小朶女とも行きました。前に書いたことですが癖三酔君、井泉水両君とも行き、また長谷川世民、伊藤稚山などといふ人とも二三度行きました。長谷川老人は同姓の縁以て相憐むべしツてんでそれから屡々はせ川を利用してゐるさうです[。]この人は歌讀みで、新聞社を持つてゐる人で、谷譲次のお父さんです。いつの間にか世界がお互の伜の世界になつています。……