読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

1930年代東京の上林暁が麦酒を飲んだ京橋交差点の第一相互館のこと。

『上林暁全集 十三』(筑摩書房、昭和42年3月)に、昭和9年の随筆として、「思案の辻」(巻末の書誌には「7月19日号、掲載紙不詳」と記載)という文章が収録されている。

 僕たちにとって、交番のある側からの尾張町のある角は、いつも思案の辻である。
 僕たちは、会社が退けると、気の合った同士四五人で、新橋の方から尾張町の方へ向って銀座を上ってゆく。会社は新橋駅前の或ビルヂングにあるのだが、僕たちは、目の前の新橋駅から省線に乗って、まっすぐにうちへかえるほど実直ではない。さりとて、程近い太田屋ビルのダンスホオルに出入りするほど洒落気もない。だから僕たちは、千疋屋で熱帯魚を見たり、七丁目の交番の人だかりを覗いたりしながら、うつらうつらと尾張町の角までやって来る。そこで僕たちは立ち止る。或者はここからバスで新宿まで帰ることが出来る。或者は市電で本郷まで帰ることが出来る。或者は有楽町駅まで歩いて行くことができる。そこで皆が散り散りに別れてしまうかと思うと、明日の朝はまた会社で顔を合せるというのに、なかなか別れられない。皆が言い合せたように、帰ろうかどうしようかと思案しながら立ち止る。そのとき誰か一人「ぢゃア失敬するよ」と言って立ち去れば皆はそのまま別れてしまう。そのかわり誰かが「一杯飲もうか!」と言えば、僕たちはぞろぞろビーアホールへ這入って行く。この頃お茶なんか問題にしない。すぐジョッキだ。

というのが、その書き出し。もう書き出しを見ただけで胸躍る。と、こんな感じの、ワクワクせずにはいられない東京読みものが、『上林暁全集』の随筆の巻(第13巻から15巻、増補決定版として第16巻から19巻が出ている)のあちらこちらに潜んでいる。


さて、このたびの『上林暁全集』精読に際しては、感想随筆の巻ではとりわけ戦前昭和の文章を重点的に読んでいた。上林暁は、東大英文科を経て改造社の公募に見事通過、「改造」の編集者になったのが昭和2年4月、昭和8年11月に創刊された「文藝」ではその編集責任者となるも、昭和9年4月に退社する。すなわち、上林暁は筆一本の生活に入るまで、円本の大流行、プロレタリア文学の隆盛とその沈下、昭和8年のいわゆる「文芸復興」まで、第一線の文芸編集者として昭和文学史の現場をつぶさに目撃していた、というわけで、昭和初期文学あれこれに夢中の身にとっては、上林暁の感想随筆はそれだけでとびっきりの文学資料なのだった。上林暁のちょっとした一言で芋づる式にいろいろつながってゆく愉しさといったら! と同時に、上林暁の文章を通して、文芸編集者の仕事の舞台としての、1920年代後半から30年代にいたる東京に思いを馳せる快楽といったら! 第13巻の冒頭を飾る、昭和3年2月筆の「地下鉄道見参記」でさっそくもうたまらなくて(「改造」昭和3年3月号に「藤島久」の筆名で掲載されているという)、しょっぱなからウキウキなのだった。




創刊第二号、「文藝」昭和8年12月号の表紙。表紙に関しては目次等に特にクレジットがないものの、同号の編集後記にのみ《表紙は佐野繁次郎氏のデザインである》と言及がある。上林暁の同期入社の「改造」編集者、水島治男『改造社の時代 戦前編』(図書出版社、昭和51年5月)にさかんに横光利一を訪問するくだりがあって、そこで多くの新人作家を見かけ、さながら「横光道場」の様相を呈していた、そんななか物干台で佐野繁次郎がのんきにゴルフの練習をしていた、というようなことが書いてある。昭和5年9月号掲載の『機械』で横光は文壇で揺るぎない地位を築いた、と昭和文学史は伝えているけれども(小林秀雄の文芸時評!)、それは水島の実感でもあったという。戦前昭和文学史の一側面に横光と改造社の密接な関係がある。それは改造社と佐野繁次郎の密接な関係でもあった。




同じく昭和8年12月号の扉絵も佐野繁次郎だと思われる。表紙のデザインは一貫している一方で、扉絵は毎号様々な画家が描いていて、古書展で見かけるたびにチェックするのがいつもたのしい。上林は昭和8年に「改造」の編集を離れ、同年11月創刊の「文藝」の編集責任の任につき、苦心惨憺同誌の創刊に尽力した。野口冨士男『座談会昭和文壇史』(講談社、昭和51年3月)所収の、野口冨士男、福田清人、平野謙による鼎談「文芸復興期の周辺」(初出:「風景」昭和46年8月号)に、

福田清人《ぼくらあのころもっぱら「新潮」に書いたんだけど、ほかの雑誌社からくると、キャッといったよ。ぼくらの仲間の上林暁が改造社にいた。あそこから「文芸」が出たでしょう。あいつ「改造」は手に及ばんだろうけど、「文芸」ならおれたちにも書かせるだろうといってたけど、一向に書かせんからね。伊藤君なんかまだ流行作家になる前で、上林というのは、といってね。ところが、上林が「文芸」をやめて、新しい編集者になったら、われわれの仲間にも書かせるようになった。(笑)上林は土佐なんだ。土佐の人は剛直で、私情を混えない。》
野口冨士男《ぼくも編集をやっていたことがあるけど、友だちって編集会議に出しにくいところがありますね。》

というくだりがあるのだけれども(野口冨士男のフォローが素敵)、「文藝」昭和8年12月号には、昭和2年4月の上林の入社当時、「改造」編集部に在籍していて、上林の先輩であった古木鐵太郎の『兄の死』が掲載されていて、これは明らかに上林の配慮だと思う。と、それはさておき、次月の「文藝」には秋声の『金庫小話』(『仮装人物』の副女主人公もの)が載り、同月の「経済往来」には尾崎一雄『暢気眼鏡』が掲載……というような、昭和8年以降の文芸復興期の諸相にはいつも胸躍る。この時期に限らず、初出誌に思いを馳せながら、文学作品を読むのはいつもたのしい。葛西善蔵の『椎の若葉』は古木鐵太郎が筆記したとか、瀧井孝作の『無限抱擁』や志賀直哉の『暗夜行路』の前篇は古木鐵太郎が原稿を受け取りに行っていたとか(……とかなんとか、このところ古木鐵太郎に夢中)。



「文藝」創刊当時の改造社の住所は「東京市芝区新橋七ノ一二」。「改造」編集者時代から「文藝」創刊時期にいたる歳月が反映されている上林暁の「思案の辻」は、以下のくだりで締めくくられる。

 今年も、と言えば、両国の川開きも近づいた。京橋の第一相互ビルの屋上ビーヤホールで飲んでいると、両国の川の花火が美しく夜空を彩るのが見えた。
 さて、ビーヤホールで酔っ払うと、もう家へかえることなんか忘れて、僕たちは次ぎの飲み場へ梯子をするのだった。そうなると、僕はもうそこからそこまで歩くのが大儀で、矢鱈に円タクを十銭二十銭に値切って、銀座を走らせてみるのだった。

鍛冶橋通りを歩いてフィルムセンターに行くとき、いつも京橋交差点のところで、「アサヒビール」の看板が目につく第一相互ビルの前を通る。ずっと前からおなじみの風景で今まで特に深く考えたこともなかったけど、あの第一相互ビルが古い建物だったとき、屋上には「ビーヤホール」があったのだなあ、ジョッキ片手に夜空の向こうに隅田川が見えたのだなあ……云々と、ちょっと空想しただけで、すっかりいい気分。と、上機嫌になっているうちに頭のなかは「京橋の第一相互ビル」のことでいっぱいになってしまって、架蔵の絵葉書を眺めて(このごろ古書展で見かけるたびについチマチマと戦前の東京絵葉書を買ってしまう)、第一相互ビルの古い建物を見つめて、上林暁の昭和9年のエッセイ「思案の辻」を思って、悦に入ることしばしなのだった。




絵葉書《(大東京)銀座より見た廈高楼の櫛比せる京橋附近》。銀座3丁目の松屋の屋上あたりから京橋交差点の方角をみやった図と思われる。右上に小さく、威風堂々とそびえたつ第一相互館。銀座通りの市電がすれ違う瞬間。




絵葉書《(新大東京名所)京橋ヨリ日本橋通りヲ望ム》。銀座通りを進んで、京橋の直前、もうすぐ京橋交差点にさしかかろうというところ。右に大きく第一相互館。左の震災後の近代建築の典型のような建物は、「福徳生命ビル」で昭和7年の建物で、都市美協会編『建築の東京 大東京建築祭記念出版』(都市美協会、昭和10年8月20日発行)でも紹介されている。




そして、先日の古書展で買ったばかりの絵葉書《第一相互保険相互会社》。周囲がまだまだ開発途上のような感じで、第一相互の建物がいかにも真新しい。





上林暁の昭和9年のエッセイ、「思案の辻」を読んで以来、京橋の第一相互館が頭から離れず、なにがしかの東京文献(のようなもの)を繰るたびに、なんとはなしに第一相互館を探している、というような日々が続いた。そんなある日、行きつけの京橋図書館の地域資料室でそのものズバリ、『第一相互館物語』なる小冊子を発見したときの歓喜といったらなかった。それにしても、こんな本があったなんて! 辰野金吾の設計により大正10年に完成して以来、関東大震災、太平洋戦争を経てもなお健在だった第一相互館であったが、さすがに老朽化をまぬがれず、昭和44年に解体されることになった。この『第一相互館物語』は新装に際して第一生命保険相互会社が発行した私家版。それにしても、このような本をしっかり所蔵してくれている、京橋図書館にはいつもながら大感謝なのだった。




『第一相互館物語』(第一生命保険相互会社、昭和46年10月13日)。口絵10枚に本文88ページ、シンプルな表紙のB6サイズの小冊子。シンプルな造本がたいへん好ましい。いざ読んでみると、心にベタリと第一相互館が貼りついてしまった身にとっては、まさしく痒いところに手が届く、とても行き届いた小冊子でホクホクとページを繰って、言うことなしだった。


大正3年12月、東京駅が完成。同じく辰野金吾の設計で現在の京橋交差点の地に第一相互館が建てられることになり、翌大正4年、南伝馬町3丁目にて整地が始まった。現在のフィルムセンターの場所は当時、日活の「第一福宝館」という映画館で尾上松之助の映画がさかんに上映されていた。何年か前に、フィルムセンターで尾上松之助映画祭のようなものが1日だけあって、暑い中を嬉々と見に行ったものだったけれども、あのときのことをなつかしく思い出した。今思えばたいへん貴重な体験だったなあと、映画祭に居合わせたことをとても幸福に思う。第一相互館の斜め向かいには当時、星製薬の建物があって3階建の西洋館の上の看板が特徴的だったけれども、震災で罹災後に7階建てのビルになりダンスホールやカフェテリアが入る。第一相互館の起工式は大正4年5月25日。工事には数年間を要し、完成を待たずに、大正8年3月、辰野金吾が急逝している。第一相互館とともに当時、中之島公会堂が工事中だった。次回の大阪行きの際には、中之島公会堂で同時代の今はなき京橋の第一相互館、と同時に、晩年の辰野金吾、震災前の都市建築の象徴としての辰野金吾ということに思いを馳せたいものだ。




『第一相互館物語』口絵より。京橋交差点の第一相互館の新築披露は大正10年3月31日、建物は7階建て、1階に貸店舗、2階から4階に貸事務所を入居させた日本初のテナントビルとして、丸ビルをはじめとする大正末期から昭和期にかけてのビルヂングのモデルケースとなった。モダン都市時代はビルヂングの時代。大家さんの第一生命は日本橋より移転、大正10年4月より昭和13年11月まで、お堀端の帝劇の隣りに第一生命館が完成するまで、5階と6階にその事務室があった。




通り沿いのガラス張りの広告窓、すなわち「ショウウィンドウ」を取り入れたのが第一相互館の大きな特徴のひとつ。大正10年5月以来、ライオン歯磨、サンエス万年筆、銚子醤油会社などなど、第一相互館の「貸し窓」には相当の申し込みがあったとのこと。モダン都市時代は「広告と商業美術」の時代。第一相互館はその先駆でもあった。




内部の構造は当時流行の「中空式」、すなわち1階から7階までの建物の中央が吹き抜けになっていた。《スウェーデンから輸入したステンド・グラスを透過する光線は、ヨーロッパの有名な教会堂のような雰囲気をただよわせて、人々の精神を落ちつけ、建築の妙味というものを感じさせたものであった》と同書にある。



……というふうに、『第一相互館物語』のページをホクホクと繰っていたら、日本で最初のテナントビルであるところの第一相互館の「テナントたちの素顔」なる章に、「一階の店舗に入った代表的な店」として、《東京菓子製造(現明治製菓)の今でいうコーヒースナック》がまっさきにあげられていて、びっくり。

風俗的な意味で話題をまいたのは、先にあげたコーヒースナックである。いまなら、たいていのビルの喫茶店の一つや二つあるのは常識といえるが、当時はコーヒーそのものが目新しい時代であったから、すぐにハイカラな紳士、淑女のたまり場となった。こうした店はやがて新時代の風俗営業として、銀座界隈に続々と誕生していった。

というふうに紹介されているのを見たとたん、戦前の明治製菓宣伝部あれこれを追っているというのに、第一相互ビルの売店について今まで深く考えたこともなかったのは迂闊であった、と大いに己の不明を恥じた次第。明治製菓の本社が丸の内から京橋の新社屋に移転したのは昭和8年5月。その直前に刊行の、白木正光編『大東京うまいもの食べある記』(丸ノ内出版社、昭和8年4月30日初版)では、京橋の第一相互ビルの売店については《第一相互ビルの一階で、場所に制限されて引き立たないのが損です。まあビル内のサラリーマン相手と云った程度です》というふうに、特になんということもないよう紹介がされているのだけれども、完成直後の第一生命館の1階の吹き抜けの空間、先の写真にあるようなスウェーデンから取り寄せたステンドグラスを見上げたあとに、甘味とコーヒーでひと休みするのはさぞかしいい気分だったことだろうと、ちょっと空想しただけでうっとり。上林暁のビールとおなじくらい、うっとり。


というわけで、こうしてはいられないと、あわてて明治製菓の歴史をおさらいしてみると、第一相互館が完成する前年の大正9年に明治製糖系の「東京菓子」が売り上げを伸ばし始め、独占状態だった森永製菓に次ぐ地位を獲得、「明治製菓」への改称は大正13年9月のことなので、宣伝誌「スヰート」が創刊した大正12年6月1日当時はまだ社名は「東京菓子」だった(その後、「スヰート」は大正15年10月に「チョコレート号」と銘打って再創刊)。『明治製菓40年史』(明治製菓株式会社、昭和33年10月9日発行)所収の年譜によると、大正11年12月に《各種製品の紹介ならびに販売のため京橋第一相互ビル内に京橋売店を開店》とあり、翌大正12年2月に丸ビル売店が開店、ただしこれらは直営ではなく委託で、初の直営の売店は震災後の大正13年3月に銀座3丁目1番地に開店の銀座売店であった。その半年後に「東京菓子」は「明治製菓」になった。……とかなんとか、『第一生命館物語』を手にしたことで、明治製菓の黎明期についてしっかり把握し直さねばならぬとメラメラと燃えてしまうことにもなって、大収穫なのだった。




図録『1920年代・日本展 都市と造型のモンタージュ』(1988年刊)に掲載の、《東京菓子株式会社ポスター》。明治製菓の元になった東京菓子株式会社の発足は大正5年だけれども、独占状態の森永製菓に次ぐ地位を獲得したのは大正9年、すなわち1920年。明治製菓の歴史は1920年代東京とともにはじまったともいえる。




第一相互館は7階建てで、1階が明治製菓の売店もあった貸店舗、中2階に鰻の竹葉亭、2階から4階が貸事務所、大辻司郎著『漫談集』(昭和5年10月15日発行)の版元としておなじみの千倉書房も入居していたという。

このビルの中で千倉書房を旗上げした千倉豊氏も、逸することのできない快男児であった。昭和初期の大きな経済問題だった金解禁について井上準之助蔵相に書いてもらった「国民経済の立直しと金解禁」という一冊三十銭の本を出版したのが大当たりをとった。これで、よい本は必ず最後の一冊まで売れるものだ、という信念を得て、書房の基礎を築いた。

大辻司郎の『漫談集』は最後の一冊まで売れたのだろうか(たしかにあまり見ない本ではある)。



5階と6階が大家さんの第一生命の事務所、そして最上階の7階にレストラン「東洋軒」が入り、《アイディアづくめの相互館の中で、ひときわ人気の的となった》、《西洋料理というと一般にまだなじみが薄く、時代の先端をゆく銀座界隈でも、専門のレストランはそう沢山はない時代である。そんな時代に、本格的な西欧風のレストランは人々の目をうばうのに十分であった》という。

この東洋軒は、料理もさることながら、窓外の展望が実にすばらしかった。地上百尺。東南にはお台場、東京湾が青く光り、晴れた日には遠く房総半島が水平線上に望まれた。西の空には丹沢連峰と富士山が、北の空には筑波山が浮かぶといった具合で、市内随一の展望台でもあった。この風景は当時、東京の名所絵ハガキには、かならず組み入れられて、東京見物の土産品になっていた。


『第一相互館物語』口絵より、《東洋軒の大食堂》。寺田寅彦のお気に入りだった東洋軒。最上階の7階は当初は第一生命の社員食堂にする予定だったのが、工事中に見学に来た大日本麦酒社長の馬越恭平のアイディアで、万平ホテル社長の佐藤太郎に経営をまかせて「東洋軒食堂」になったという(社員食堂は5階へ)。

東洋軒は四季を通じて、客を呼んだが、とくに盛夏はいちだんとにぎわった。どんなに戸外は暑くても、レストランの窓からは東京湾を渡ってくる海風で涼味満点。純白のテーブル・クロスがはたはたと風に動くのを見ているだけで爽涼の気があふれた。冷房もクーラーもない時代、これ以上の納涼はなかった。

大日本麦酒社長の馬越恭平の鶴の一声で誕生した東洋軒は、もともとビールは切っても切れない関係だった。

時期的にはやや後になるが、この東洋軒は、夏の間、ベランダによしず張りのビヤ・ホールを併設し、これまた、万都の話題を独占した。おそらく、わが国ではじめての屋上ビヤ・ガーデンであったろう。このシーズンには、ビルご自慢のイルミネーションを点灯し、今でいうブラスバンドの楽隊を招いて景気をつけたので、地上からは、さながら夜空に浮かぶ“おみこし”のように見えたという。

ここ東洋軒がまさしく、上林暁が麦酒を飲んだ「ビーヤ・ホール」! 





日比谷に第一生命館が元警視庁の地に着工したのは昭和13年11月のこと。第一生命が引っ越して、空き部屋になった第一相互館の5階と6階には大日本麦酒(昭和24年に朝日麦酒と日本麦酒に分割)が入居することになり、ますます第一相互館とビールの密接な関係が築かれることとなった。敗戦で第一生命館が GHQ の接収を受け、昭和20年9月に72時間以内の立ち退き命令を受けた。さあ、困ったというとき、救いの手を差し伸べたのが大日本麦酒の山本為三郎専務(初代朝日麦酒社長)で第一相互館を第一生命に譲り、大日本麦酒の事務室は銀座と恵比寿へと分散、昭和27年夏に接収解除になり、9月1日、第一生命は日比谷に復帰して、朝日麦酒も第一相互館に戻った。第一相互館の建直しの際には、アサヒビールが日比谷の第一生命館に間借りしていたという。これぞまさしく「ちょっといい話」! 銀座から京橋交差点に向かって歩くとき、第一生命相互館(が正式名所だと今知った)が見えてくるといつも「アサヒビール」と「第一生命」の看板が目についたものだった。いままで特に深く考えたこともなかったけれども、これから先ずっと、第一生命相互館のビルの近くを通りかかるたびに、これらの看板を以前とは違った感慨で見上げることだろう。そして、このたびの、上林暁の「思案の辻」から『第一相互館物語』に至るあれこれを心地よく思い出すのは確実。


『第一相互館物語』(第一生命保険相互会社、昭和46年10月13日)は、日頃からの最大の関心事項、1920年代から30年代にかけての「モダン都市東京」を思ううえで(戦前の明治製菓宣伝部をも含む)、かようにも大きな歓びを提供してくれたなんとも見事な小冊子であった。芋づるはまだまだ尽きなさそう。依然、わたしの頭の片隅には常に第一相互館があるのだった。


などと、胸を熱くしながら、いつの日かわが書架に収める日が来るといいなあと願いつつ、『第一相互館物語』を京橋図書館に期限どおりに返却してから、そう何日も過ぎていないある日の夕刻、神保町を通りかかった折に、深い考えもなくキントト文庫に足を踏み入れたら、『第一相互館物語』がひっそりと棚にささっているのを発見して、思わず声が出そうになりつつ、心のなかでスキップしながら購入(1575円)。こんなツボな本があったなんて! というような本に何度も出会うお店、それがキントト文庫。ほかではまず売っていない本がひょっこり売っているお店、それがキントト文庫。すばらしき、キントト文庫!




内田誠・片岡重夫『実際広告の拵え方と仕方』(春陽堂、昭和6年2月21日)。『第一相互館物語』入手に感激のあまり、ここ一年間ほど、キントト文庫に足を踏み入れるたびに、ガラスケース越しに眺めては「まだ売っている、よし」とほっと一安心しては購入を先延ばしにしていた本。『第一相互館物語』入手を記念して、後日、えいっと買いに行った。無事にまだ売っていてよかった。明治製菓が丸の内にあった頃の宣伝部の内田誠の広告に関する実用書。共著者の片岡重夫は春陽堂で広告の仕事に携わっていたようで、大正15年末に「現代日本文学全集」を改造社が刊行したのを機に始まった円本合戦の渦中でその宣伝にいそしんでいたことであろう。上林暁が入社した昭和2年4月は、春陽堂に対抗すべく改造社が第二回募集に着手した頃……とかなんとか、話はそもそもの発端、改造社の上林暁へと戻るのだった。




同書と同時期の映画として、小津安二郎『淑女と髭』(昭和6年2月7日封切)に登場の「明治チョコレート」。