十一谷義三郎を読みながら横浜へ。野田書房の随筆雑誌「三十日」。

早起きして「音楽の泉」のスイッチは入れずに早々に外出。坂道をズンズンとくだって駅へ向かう。花冷えという言葉がぴったりのツンとした冷気が気持ちいいなア! と二日酔いになることなく、かねてからの計画どおり無事に外出できてよかったッと歓喜にむせぶ。秋葉原で京浜東北線にのりかえて石川町へ向かう。行先はおなじみの神奈川近代文学館。行きは東海道線で帰りは東横線経由、というふうに「かなぶん」行きの行程はいつからともなく決まってしまっている。東京駅を通過するときはいつも京橋の明治製菓本社へ視線が向かい、田町では森永製菓本社、多摩川をわたって川崎では今はなき明治製菓の工場を思い、鶴見からはいまでもエンゼルマークの森永製菓の工場が見える。などと、都内の本社から京浜工業地帯へと至る、日本の近代産業史(のようなもの)をまざまざと体感できる東海道線沿いの移動が好きだ。品川を通過してからは車窓からときどき並走する京浜急行の電車や駅が見えて、ますますウキウキ。京浜急行が見えてくると、運がいいときは空にペタリと飛行機が貼りついているのが見えるけれども、車窓が遮断されたらまたたくまに消えてしまい、ひとたび消えてしまうとそれは二度と見えることはない。


昨日図書館で入手したコピー一式がかばんにいれっぱなしだった。たまに車窓に飽きると、ゴソゴソと取り出して、次から次へと眺めてはまた車窓に戻ったりしているうちに、電車は関内を通過、秋葉原から約50分、ようやく石川町に到着だ。車窓のまん前に横浜スタジアムが見える。ちょうど一ヶ月前の関西遊覧の折の、車窓から間近に見えた大阪球場跡地と西宮球場跡地のことを思い出し、なんだかちょっと懐かしい。


かばんのなかには、神戸文学館の展示室で知った、「改造」昭和10年4月号に掲載の、十一谷義三郎の『ぎんざ・ぱらるうん』のコピーが混じっている。

 作家で詩人のラモン氏と一緒に銀座を歩く。ラモン氏は中年の西班牙人だが、齢の倍くらい本を書いている。その本の中味はサンタ・クロオスがカリガリ博士へ持ってきた贈物だ、ぺパアミントと薔薇とルナ・パークとメリ・ゴ・ラウンドの混合酒だ、人間の微笑に鏤めた宝玉だ――
 そのラモン氏が云う。
 月傘[パラ・ルウン]が、日傘[パラ・ソル]のように流行る国がある。貴婦人たちは、青い月焦けを防ぐために、月傘を翳してあるく。
 なるほどね、ラモン氏、君は銀座を見ているんだね。ほら白樺のように立っているこの街燈を見たまえ。何十本何百本あるかね、このうち水銀燈が八本あるんだ。三共の薬屋の前やら、恵比寿ビール屋の前やら、それからあちこち……。それが紫外線を放射しているんだ。だから散歩者の皮膚は日焦け――いや夜焦けするんだ。いまはたった八本だからいい。もしもこの銀座八丁の街燈の並樹がみんな水銀燈になってみたまえ、君の貴婦人たちは、きっと夜焦け止めのクリームを顔や手に塗って、君の月傘[パラ・ルウン]を翳してあるくに違いない。
 それからラモン氏、この街路樹の柳の糸を見たまえ。水銀燈のまえは特別に枝垂れているではないか。紅いネオンのまえのも、そうだね。生理作用が活発で、芽が他より重いんだ。月傘[パラ・ルウン]を売る見世はこの柳の下がいい。

という、「改造」昭和10年4月号に掲載の『ぎんざ・ぱらるうん』の冒頭の1ページを、神戸文学館のガラスケース越しに目の当たりにした瞬間の幻惑感を忘れない。いざコピーを入手してみたら、その幻惑感は、最後の8ページ目に近づくにつれてますます高まるばかりで、ひたすら陶然。

 ラモン氏また云う。
 旗の無い旗竿というものは、なにかしら魂が抜けて、無用の長物で、みっともなくて、悲しくて、退屈だ。旗を降した時には、竿も降してもらいましょう。子供が窓へステッキを括りつけたようで変だから……。
 まったくだラモン氏、君のその銀座観は正しい。ほら、あの、さっきの、共同便所のうしろの、鉄骨の、混凝土の、途方もないビルディングの三階の窓を見たまえ。硝子戸のなかに、もうひと重、紙の障子が覗いているじゃないか。このビルディングはカフェだがね、昇降機であがるお座敷が、四畳半があるのさ。見かたに依っちゃ恐ろしく入念な製本をしたものだ。洋綴のがっちりした脊皮のうらに、和本仕立ての角裂れが覗いている。君流に云えば、どうも依怙地な旗竿が、いつまでも残っているのさ。

神戸で十一谷義三郎の『ぎんざ・ぱらるうん』を知って四週間後、横浜へ向かう日曜日の東海道線の車中で十一谷義三郎の『ぎんざ・ぱらるうん』の全篇に陶然となり、十一谷義三郎への愛がますます燃えたぎったところで横浜の地に降り立った。神戸生まれの十一谷義三郎は、神戸(『街の犬』『跫音』)、下田(『唐人お吉』)、横浜(『街の斧博士』)というように、好んで海港都市をその作品の舞台にした。そんな十一谷義三郎を、上林暁は《海港を巡錫する十一谷義三郎氏は、飽くまでも海港、分けても海港の頽廃的な情緒を歌うロマンチックな詩人》と書いている(「十一谷義三郎論」・『上林暁全集』第14巻所収)。上林暁はいつもいいことを言うなア、と、横浜への車中で神戸を思い出しつつ、十一谷義三郎を読む時間は格別だったなアと、文学館のある海の見える丘公園に向かって、十一谷義三郎の余韻を胸にいい気分で、ゼエゼエと急な坂道をあがってゆく。だんだん海が近づいてくる。





福田勝治『銀座』(玄光社、昭和16年7月5日)より、《銀座に柳が植わつてゐる。藝者が二人歩いて行く。初夏なので日傘をさしてゐる。翡翠の簪と黒髪と初夏、如何にも初夏らしい》。





文学館にて。今日の一番の目当ては《子規から虚子へ》展の見物であったので、閲覧室では前から気になっている本をのんびり繰るとするかなと、岡田三郎や十一谷義三郎等々を閲覧。岡田三郎のコント集、『誰が一番馬鹿か?』モダン派傑作選集第2集(赤爐閣書房、昭和5年8月7日)が素敵におもしろく、軽く偵察のつもりがついランランと読みふけってしまう。そんなこんなで、本日最後の1冊は、網野菊『汽車の中で』(春陽堂書店、昭和15年11月7日)。当時春陽堂を手伝っていた浅見淵の推挙で出版の運びになったと知って以来、ずっと念願の書だったけれども、なんやかやで機会を逸している。いざ目の当たりにしてみたら、富本憲吉装釘のつつましくもうつくしい本。手にとっただけでジーンと感激、見返しを見ると「尾崎松枝氏寄贈」の文字とともに「尾崎一雄文庫」の判が押してあり、まあ、尾崎一雄旧蔵書! とさらにジーンと大感激なのだった。初めて『汽車の中で』を手にするのが尾崎一雄の旧蔵書になったというめぐりあわせが嬉しい。浅見淵や尾崎一雄のことを思いながら、最初の一篇だけじっくりと読んだ。いつの日か、今日繰った尾崎一雄旧蔵書に思いを馳せながら、『汽車の中で』をわが書架に収める日が来たらいいなと思う。


……などと、ひと通り、本を繰ったところで、ふと、昨日の趣味展で購ったばかりの、野田書房の随筆雑誌「三十日」のことを思い出した。扶桑書房コーナーで300円の雑誌を、野口冨士男や十返肇目当てに何冊か手に取ってハイになったところで、ふと目についたのが「三十日」だった。野田書房の随筆雑誌「三十日」のことは名前だけは知っていたけれども、実際に手にとったのは初めて。大正末期から戦前昭和の随筆ブームとその媒体あれこれに前々から興味津々で、戦前の随筆雑誌ときくとつい反応してしまうのだった。




「随筆雑誌 三十日」1月創刊号(野田書房、昭和13年1月5日)。表紙:阿部金剛。




そして、中身を見て、びっくり。見返しに、目次として「一月のカレンダア」が掲載、一人1日1ページずつ寄稿している格好、著者名の下にはご丁寧に曜日が記入されて、日曜日だけ赤字。まあ、目次がカレンダー! なるほど「三十日」とはそういうことだったのか! と一目見たら、この洒落っ気にはもう感嘆するばかり。記念すべき創刊号の「1月1日」は辰野隆の「元旦の感想」なる一文。(1月31日は「社中カレンダア」なので、三十日三十人三十ページ)。

編集後記(野田誠三)
 ……雑誌は、仏蘭西文学専門の「ヴァリエテ」というのをやったきりで、随分暫くやりませんでした。何かやりたい希望は何時も持って居りましたが、さてやるとなると中々いい雑誌といっては有りません。何か、こう気の利いて、明るくてたのしい雑誌、香りの高い紅茶を飲み乍ら、ちょっと手にとって洒落た雑誌、肩の凝るものではなく、電車の中、人を待ち合わせる合間にでも手軽に読める雑誌、それで居て読み捨てるには余りに惜しい綺麗な雑誌――こんなものをやりたかった。
 ところが、ストオブにあたり乍らお茶を飲んで居た時、俄然思い付いたのが、この雑誌。思い附けば仕事は早い、直ぐその場で、用意万端、出来上がったのだから、これまた凄い。
 一人一日一頁で御覧の通り三十日。今日は何曜日だったかしら? と思った時は、ちょっと頁を繰って下されば、直ぐ分る。いやそれよりも目次を一眼見渡せば、もう立派なカレンダーが出来上って居るんだから、楽しいぢゃありませんか。


ああもう、おっしゃるとおり、楽しいじゃありませんか! 素敵じゃありませんか! と古書展会場の隅でうっとりと目次をいつまでも眺めていたら、「1月10日」に内田誠が「きつね」というエッセイを寄せているのを発見して「おっ」となる。内田誠の随筆の初出誌のひとつに野田書房の「三十日」があったなんて! これはもう迷わず購入なのだけれども、それまで300円の雑誌ばかり見ていた身にとっては、1800円という値段がとてつもなく高価に見てしまい、しばし惑うのだった。上林暁『紅い花』(三島書房、昭和22年4月)が800円なので、これを買うのをやめれば、1800円の「三十日」が1000円になったとみなすことができるではないか……などと、よくわからない理屈をこねて、無事に「三十日」創刊号を買うことができた。


というわけで、昨日の古書展は、野田書房の「三十日」のことを知って嬉しかった。せっかくの文学館の閲覧室、「三十日」の他の号を閲覧してみるといたしましょう! と突如思い立って、まずは『日本近代文学大事典 第5巻 新聞・雑誌』を参照すると、「三十日」の項がしっかりと用意されていて、さらにその執筆者が保昌正夫なので、大喜び。保昌正夫が解説しているというだけで、ますます「三十日」に愛着を覚えるのだったけれども、

「三十日」随筆雑誌(昭和13・1〜8月)(野田書房)/かつての「手帖」(昭2・3〜11)に近い「一人一日一頁」じたて、一執筆者おのおのが一日=一ページ分を埋めている、日付けのある雑誌の体裁。随筆、雑記のほか、翻訳、詩、デッサンなどをも含む。限定出版で知られた野田書房の雑誌に似つかわしく、上質紙を用い、毎号特異、多彩な顔ぶれをそろえている。(後略)

という簡にして要を得た解説だけれども、行間にじんわりといかにも愛情がにじみでている感じがして、ますます嬉しくなってくる。そして、「三十日」全8冊をじっくり閲覧して、ますます愛着を覚え、もういてもたってもいられない。それにしても、三十日×8冊、ひととおり見渡すと著者の重複が一見なさそうに見えるのがすごいところ(きちんと確認したわけではないけど)。顔ぶれがとにかく豪華かつ多彩。と、そんななかで、びっくりだったのが、




「三十日」第2号(昭和13年2月)の裏表紙が明治製菓の広告だったこと(思わずカラーコピーを申請)。「三十日」は巻末に野田書房刊行書の広告があるだけで、他の7冊の裏表紙もすべて野田書房の広告だというのに、第2号に限っては明治製菓の広告なのだった。全8冊の「三十日」で唯一の他社広告が「明治の罐詰」なので、異彩を放つことこの上ない。1月創刊号に内田誠が原稿を寄せたことで、パトロン的に広告を出したのだろうか。松本竣介の「雑記帳」(昭和11年10月創刊、昭和12年12月終刊、全14冊)のことを思い出さずにはいられない。昭和12年新年号(第4号)の裏表紙が「明治クリーム」の広告で、同年11月号に内田誠は1度だけ「旗」というタイトルの文章を寄せている。ちょうど「雑記帳」と入れ替わるようにして「三十日」が登場しているのだった。1930年代のリトルマガジンに明治製菓宣伝部は広告を寄せることでさりげなく貢献している。ここに小出版に対する内田誠の憧憬をみる。「きつね」と「旗」はいずれも、『緑地帯』(モダン日本社、昭和13年7月12日)に収録されている。


というわけで、昨日の趣味展で買った「三十日」については嬉しいことばかり。宝物のような小冊子を入手したというだけでもすばらしいのに、戦前の明治製菓宣伝部と内田誠を思ううえでなかなか得難い資料を入手するという結果にもなったのだから、古書展へはゆくものだとあらためて強く思うのだった。





夕食後、喜久家のラムボールを食べながら、紅茶を飲む。横浜の文学館へ調べものに出かけた日の夜は、紅茶とラムボールがいつものおたのしみなのだった。本棚をゴソゴソと探してみたら、「サンパン」第2期第1号(1996年8月)に松本八郎さんの「野田誠三と『三十日』」という文章があり大興奮、同じ号に掲載の保昌正夫「『手帖』のこと(上)」と合わせてじっくりと読んで、次は第2号(1996年12月)の保昌正夫「『手帖』のこと(下) 『手帖』のなかの横光利一」へと進む……というようなことをしているうちに、今度は文藝春秋社の「手帖」のことが気になって仕方がない。「サンパン」第2期第9号(2000年4月)の、保昌正夫「『十一谷義三郎 五篇』追記」を読んだところで、EDI 叢書の『十一谷義三郎 五篇』(2000年3月30日)を取り出し、明日の朝、喫茶店でコーヒーをすすりながらじっくりと読み返すとしようと、汚れないようにカバーをかけたあと、「改造」昭和10年4月号の『ぎんざ・ぱらるうん』のコピーを EDI 叢書にはさみこんだ。





福田勝治『銀座』(玄光社、昭和16年7月5日)より、《ことにいゝ本の頁をぱらりぱらりとめくつてゐると、子供のやうにいきいきして、どこからか行進曲や進軍ラツパが聞えてくる、紀伊國屋の店。》。

 「これから銀座に行つて紀伊国屋にどんな本が来てゐるか覗いて来ませうか、」とそれでこつちは言つた。「さうすると本を読む気が起るかも知れない。」古木君の顔にそれを聞いて浮んだ表情でその頃は銀座が東京に住んでゐるものにとつて一種の外国だつたことを思ひ出す。(中略)
 ただ一番目に付く所の台に出てゐるのがフランスの新刊書でそれが発行された日付けからたつてゐる日数が日本の新刊書と殆ど変りがなかつた。恐らく発行されると同時にシベリア便で東京に送られて来たものだつたのに違ひない。それがフランスの本だつたのはこれを読むものが多かつたからで何故さうだつたかを説明しようとすれば所謂、文学の話になる。要するにジードでもコクトーでもと紀伊国屋の店先に本が並んでゐた作者の名を思ひい出すだけでもフランスよりも当時の銀座が戻つて来る。(中略)
 それで古木君と二人で紀伊国屋の店先に立つてそこに並んでゐる本を暫らく見てゐた。古木君はクレミユーの本を一冊買はうと思つた様子で取り上げてまだ切つてなくて開けて見られる所だけ拾ひ読みするのに時間を掛けた。こつちもまだ紙鋏を入れてないフランスの新刊書、或は要するにどこのでも店先に並んでゐる新刊書といふものに一応の昔懐しさに似た魅力は感じてもその一冊に手を出す前に実は又本かの気分になるのを免れなかつた。ただそこの本を並べた台が多彩だつたのは覚えてゐる。これはフランスの本に就てだけ言つてゐるのではなくて日本で当時読むに値するやうな本を作つて出すのはその点はフランスと違つて少しも割りがいい商売ではなかつたからやはりこれもさういふことをするのが好きな人間が多分に力を入れてやることで、それだけに造本もしつかりしてゐて眼を楽ませた。三才社とか野田書房とか創元社とかいふ出版社の本がさうだつた。


【吉田健一「東京の昔 二」より(初出:「海」1973年6月号)→『東京の昔』(中央公論社・1974年3月10日)】