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溝口健二と1930年代東京の都会小説。岡田三郎『舞台裏』のことなど。

野口冨士男を知ってから、岡田三郎はつねに気にかかっている作家だけれども、本を買う機会はなかなかめぐってこなかった。1月下旬、とある古書展で買った、函なしの『舞台裏』(慈雨書洞、昭和11年2月)が初めて買った岡田三郎の本。函つきの完本だとなかなか手が出ないけれども、本体のみなので気軽に中身を偵察してしばし立ち読みしてみたら、とたんに全部読みたくなって「続きはあとで」と棚に戻さずに買ってしまう、ということが古書展では往々にしてある(本体のみなので買いやすい値段でもある)。と、そんなふうにして、初めて岡田三郎を買った。




岡田三郎『舞台裏』(慈雨書洞、昭和11年2月20日)の本体。「舞台裏」、「三枝子」、「痴愚のはて」、「銀座裏のラプソディ」、「顔と腹」、「雨霽れ」、「なんぢゃもんぢゃ」、「出発」、「泥まみれ」の計9篇の短篇を収録している。



古書展でふらりと岡田三郎の『舞台裏』を手にとってペラペラと目次を偵察して、まっさきに目にとまったのが「三枝子」の文字。岡田三郎の「三枝子」といえば、溝口健二の『浪華悲歌』のストーリーの土台になっている、ということでかすかに記憶に残っていた、というか、前々からそこはかとなく気になりつつもそれっきりだったので、思いがけず記憶がよみがえってちょいと興奮だった。さっそく立ち読みを開始してみると、チラリと目を通しただけでいかにも典型的な「都会小説」でモクモクと嬉しくなり、その舞台装置の1930年代の東京描写だけでもハートに直撃、今すぐにでも全篇読みたいッと、函なんてなくてもいいやとガバッと買ってしまった次第だった。


《1936年、第一映画作品『浪華悲歌』で溝口との宿命的出会いののち名コンビをうたわれる》と著者紹介にある、依田義賢著『溝口健二の人と芸術』現代教養文庫1588(社会思想社、1996年3月)の『浪華悲歌』のくだりが、前々から涙が出るほど大好きだった。昭和10年3月頃、依田義賢は第一映画に入れてもらうべく、仁和寺前の溝口宅を訪問、嵐山電車の御宿の停留所を下りる。

溝口さんは私のことを原君(原健一郎)からきいたが、シナリオを書いて下さい、その上で話をしてあげようということで、奥から持って来られたのは、「新潮」かなにかの雑誌で、それに載っていた岡田三郎氏作の「三枝子」という小説を示されて、「これを、大阪を舞台にして、考えてくれませんか」ということでありました。(中略)後にわかったのですが、助監督の寺門君や高木君が、「これは面白いから是非やりなさい」とすすめてあったそうです。

というわけで、依田義賢は岡田三郎の『三枝子』の大阪版ということでシナリオを書き始めるが、溝口に見せるたびに、「生活が少しも書けてない」と女主人公の勤め先を道修町の薬屋にしてくれと注文を受けたり、「荷風の『つゆのあとさき』を読みましたか」、「西鶴を知らないのか、上方のものが、西鶴を知らないでどうするんだ」……などなど、お伺いをたてるたびにダメ出しが出る。夏が来て秋になり、十何度書き直し、《終わりの方の芝居がもう一つだが、『父帰る』などを参考にしてやってくれといわれて直したのが最後の直し》となって、冬になってやっと撮影が始まった。こうして翌年に公開されたのが、『浪華悲歌』だった。

あの作で私はシナリオライターとして、はじめて世に出ることになったのでしたし、ほんとうに是が非でも、石にかじりついても、という気持ちで懸命になって書いたものですし、またこの作が、その後、二十年にわたり溝口さんとの仕事の初めになった……

と、このくだりを目にすると、『浪華悲歌』のすばらしさとあいまって、いつも胸がいっぱいになる。さらに、溝口と依田をとりまく、助監督の高木孝一や助監督チーフの寺門静吉といった周囲のスタッフについてもたいへん興味深い。寺門が溝口によいアドヴァイスをしていたこと、「博学で古書にも通じ、新しい思潮にも鋭い把握」をしていたこと、水谷浩が寺門の推挙で溝口の映画に関わるようになったこと、そして、《明治物に深入りした溝さんに、大きい転換をもたらしたのは、寺門君や高木君、水谷君であった》といったことを依田は指摘している。と、「映画が若かったとき」のモダン都市を闊歩していた当時の映画人の同時代文化の受容のありようにたいへん胸が躍るものがあるのだった。彼らのあとをついてゆくようにして、同時代の書物や映画を見たり当時の雑誌や建築を眺めたりする、という道楽にこれからも倦むことなくひたれたらいいなと思って、ふつふつと嬉しくなってくる。


溝口は、依田の「京都弁が出て、大阪弁はあまり十分ではなかった」という関西弁の調子を面白がっていて、《関西弁から出てくる、ねっとりとした、人間の体臭というようなもの》に心惹かれていた、というのにもなるほどなと思う。『浪華悲歌』の素材として、岡田三郎の『三枝子』、荷風の『つゆのあとさき』という映画と同時代の1930年代東京の「都会小説」がある、そして、その土台になっているのは西鶴を象徴とする上方風土なのだ、ということを、『浪華悲歌』のスクリーンは見事に体現している。映画の断片をあれこれ、ちょっと思い起こすだけでジンと胸が熱くなり、とにかくも、1930年代東京の「都会小説」に上方風土がはんなりと加わった、モダン大阪を舞台にした『浪華悲歌』が大好きだ! と、何度も倦むことなく DVD を再生するのだった。




溝口健二『浪華悲歌』(昭和11年5月28日封切・第一映画)より、山田五十鈴が道修町の薬屋主人、志賀廼家弁慶に囲われる「浪華パンション」なるアパートメントの入口。村野藤吾設計の大阪パンション(1931年)をモデルにしているらしい、ということで、東京都美術館の図録『1920年代・日本展 都市と造型のモンタージュ』(1988年刊)の「〈大大阪〉の建築家たち」をじっくりと見つめて、1917年に大阪にやってきて1929年に独立した村野藤吾という観点で「大大阪」を思うのだった。





モダーンなアパルトマン(のセット)の直後に文楽座のシーンがあるのがいかにも『浪華悲歌』なのだった。愛人山田五十鈴が本妻梅村蓉子と劇場で鉢合わせ、というのが、いかにも「都会小説」のお決まりのパターンを踏襲していて微笑ましい。舞台は『野崎村』のお光が久松を追ってきたお染の姿を見て悋気する場面の真っ最中、客席のそれとオーヴァーラップさせるという、実は凝った趣向(人形遣いは頭巾をかぶっている)。昭和20年3月に戦災で焼けた四ツ橋文楽座でロケされていて、初めて見たときは「ワオ!」と大興奮だった。大正15年に御霊文楽座が火災で焼失したあと、昭和2年から4年まで道頓堀の弁天座で興行があり、谷崎の『蓼喰ふ虫』に登場しているのはこの弁天座、四ツ橋文楽座は昭和5年1月開場……などと、この時期の文楽の隆盛を通した「モダン大阪」を思い、三宅周太郎の『続文楽の研究』を読み返したくなってくるのだった。溝口と文楽といえば、『浪花女』(昭和15年9月封切)がフィルムセンターの《発掘された映画たち》で上映されたらどんなにいいだろう! と何年も前からずっと思っている。





四ツ橋文楽座の直後に、心斎橋のそごうがタイアップ的にロケ地として登場して、この展開がまたいかにも『浪華悲歌』! と大興奮は続く。橋爪節也著『モダン心斎橋コレクション』(国書刊行会、2005年9月)を参照しながら、そごうのシークエンスをリピートするとたのしさ倍増。山田五十鈴が原健作と偶然会う「美粧室」は3階にあったことが、『モダン心斎橋コレクション』を見るとわかる。同書で紹介されているエレベーターの装飾を映画でチラリと見ることができる。二人はそのエレベーターにのって喫茶室へゆくのだけれど、その喫茶室は藤田嗣治の壁画のある6階の「そごう特別食堂」ではなくて、2階と3階の吹き抜けになっている「そごうパーラー」であるようだ。依田義賢のシナリオでは《小鳥がさえずる声が賑やかである。》と描写されている。



そんなこんなで、溝口健二の『浪華悲歌』をきっかけに、ある日の古書展でふらりと岡田三郎を買った、そのすぐあとで一気に読んだのは1月下旬のこと。それから一ケ月以上たって、『浪華悲歌』つながりということで、荷風の『つゆのあとさき』をじっくりと読み直し、それを機に後藤明生の『小説は何処から来たか』を4年ぶりに書棚に収めることになったりと、岡田三郎の『舞台裏』を買ってからの2ヵ月間、3月下旬の現在までなにかと愉快なことが続いているのだった。





映画との関連で、あらためて文学に目を見開かされるときはいつだって胸躍る。溝口健二の『浪華悲歌』に導かれるようにして手にとった、岡田三郎の『舞台裏』を古書展帰りの喫茶店でさっそく読み始めてみたら、冒頭の「舞台裏」と「三枝子」の2篇が「三枝子もの」で、さっそく舞台装置の1930年代東京の都市風俗に胸が躍って仕方がなかった。情痴小説以外のなにものでもないストーリーだというのに、岡田三郎の筆はあくまでも軽やかでモダンで洒落っ気および諧謔味たっぷりで、湿ったところが皆無。多分に露悪的な筆致が妙なユーモアをかもしだしている。ストーリーそのものはべっとりとしているのに、この軽やかなこと! などと、「三枝子もの」(2篇だけだが)のあとも次々と短篇を読み進めて、岡田三郎の文筆そのものに思いが及んで、この作家をもっと追ってゆきたいものだと思った。因果なことに今後の蒐書をメラメラと決意せずにはいられない。


「三枝子もの」以外でとりわけ嬉しかったのが、『銀座裏のラプソディ』(初出:「新潮」昭和6年3月)。その名のとおり、銀座裏のアパートを舞台にした都会小説で、その都市風俗描写がピチピチしていて、典型的「1930年代東京」の実感的な風俗資料。銀座裏のアパートの手洗いの窓からは歌舞伎座が見えるというくだりが嬉しかった。

……ちょうど眼の前の小窓から、前方に聳える破風造の大劇場の側面が見えるのだ。歌舞伎座の殿堂だ。十二時過ぎの劇場は、上階の硝子窓にあかりがさしているだけで、廃墟のように沈黙していた。充満するはでやかな観客を前に、賑賑しく歌舞伎劇が演ぜられて、劇場内が活動している時よりも、むしろ夜なかすぎて、この大建造物が空洞のように沈黙している時の方が、はるかに物物しく人間の生活を私に感じさせた。

『銀座裏のラプソディ』は、岡田三郎自身の、銀座裏の酒場通いで親しくなった女給の合鍵をもらって、そのアパートに自由に出入りしていた歳月を背景にしている。




織田一磨《松屋より歌舞伎座遠望(『画集銀座』の内 第1輯第3図)》(1929年1月)、『織田一磨展図録』(町田市立国際版画美術館、2000年9月30日発行)より。岡田三郎の『銀座裏のラプソディ』を読んで脳裏に思い浮かんだのが、この織田一磨の版画。楢崎勤著『作家の舞台裏』(読売新聞社、昭和45年11月)によると、岡田三郎が出入りしていたアパートは《歌舞伎座の近くの、築地川にのぞんだ高級アパート》とのことなので、アパートの小窓から見えるのは松屋から見た歌舞伎座を反対側になるのだけれど。



岡田三郎の小説は自身の実体験を背景にしているものが多い。岡田三郎のこなれた筆致それ自体だけでも十分たのしいけれども、実体験(狂気じみた情痴生活)を素材にした作品を読むことで、その舞台のモダン都市東京に胸躍らす歓びがまずある。と、作品を通して岡田三郎の歳月を追体験しながらも、たまにチラリともらす文学への見解、大衆小説や都会小説に対するちょっとした意見のようなものを垣間見たりすることで、次第に、岡田三郎がハツラツたる調子で活躍していた昭和初期の「文壇」、岡田三郎の活躍した「不同調」から「近代生活」、「行動」ないし「あらくれ」といった一連の流れを体感しているような心持ちになってワクワク、そして諸々の文壇資料を読み返してさらにモクモクと刺激を受け、……というふうに芋づるがどんどん続いてゆくのがたいへん愉快なのだった。


『舞台裏』のなかでは異色の、『雨霽れ』(初出:「新潮」昭和9年1月)は、37歳の若さで病没した「K君」の臨終を書いている。「K君」とは嘉村礒多のことであることはすぐにわかる(昭和8年11月没)。「N君」は楢崎勤、「R氏」は中村武羅夫、「T先生」は徳田秋声、「A君」は浅原六朗、同年3月に死んだ「S君」は佐左木俊郎、「F社」は「不同調」で「K」は「近代生活」……というようにモデルの詮索をしているうちに、彼等のいた「文壇」の空気がイキイキと感じられて、まさしく実感的な文壇資料。

 ……F社にはK君が奥さんと一緒に住んでいて、K君は雑誌の原稿依頼だの印刷所だの、そうした外廻りの方を担当していた。外廻りの仕事といっても、それほどのこともなく、大概の日は机を向いあいにして、K君と私とは文学の話や、また次第には一身上のことまでも語りあうようになっていた。 
 一点一画もゆるがせにはしない、まるで活字のような文字で整然と書いた、分厚な小説の原稿を、K君がとりだして見せてくれたのも、その三畳の編集室であった。その小説はやがてF雑誌にK君の処女作として発表され、一躍にして文壇にみとめられることにもなった。

「K君」との思い出が岡田三郎の半生(主に女性遍歴)とともに『雨霽れ』のなかであくまで淡々と書かれているのだけれど、淡々としているからこそ、かえってジンとくるものがあった。


古書展でふらりと買った岡田三郎の『舞台裏』の余波で、前々から愛読している文壇よみもの、高見順『昭和文学盛衰記』(文春文庫、1987年8月)や楢崎勤『作家の舞台裏』(読売新聞社、昭和45年11月)、そして、野口冨士男『感触的昭和文壇史』(文藝春秋、昭和61年7月)等々を読み返しつつ、岡田三郎を描いた野口冨士男の『流星抄』を以前とは違った感慨で読み直したあとで、今まで未読だったのでこれはよい機会と、嘉村礒多『業苦・崖の下』(講談社文芸文庫)を購って、読み始めたとたん夢中、今まで未読だったのは大損だったわいとヒクヒクしながらその緻密かつ粘性たっぷりの文章に夢中になった。嘉村礒多の私小説を読んで、ますます昭和初期文壇に夢中になって、芋づるはどこまでも続きそうで、ちょっと収拾がつかないのだった。



岡田三郎といえば、前々から高見順の『昭和文壇盛衰史』(文春文庫版)の以下のくだりがとても印象的だった。

この稿が雑誌に掲載されたとき(注:「文學界」昭和31年10月号&11月号)上林暁氏より――日本に初めて『コント』という名称を将来し、それを流行させたのは、巴里から帰って来た岡田三郎だったと思う。『コント』は今日も通用し、書かれているので、そのことに一言触れて貰うと、岡田氏の遺した仕事を記念することになるではないか――という意味のハガキを貰った。本文にそのことを追加しようとも思ったが、上林氏の御注意をそのままここに書き記させて貰うことにした。(p444)

上林暁はいいことを言うなアと、今ちょうど、『上林暁全集』の随筆、評論の巻(13巻以降)を熟読している真っ最中、ますます上林暁気分が盛り上がってゆくのだった。




上林暁『入社試験』河出新書(河出書房新社、昭和30年8月31日)。装幀:向井潤吉。上林暁の感想随筆ないし昭和初期文壇に夢中になっているうちに、上林暁の改造社編集者時代(昭和2年4月から昭和9年4月)を述懐した短篇を収めた河出新書の『入社試験』、前々から気になっていた『入社試験』が今すぐに欲しい! と突如注文し、届いてホクホクと一気に読んだ。「古木鐵太郎兄を弔ふ」と副題のついた『インバネス』(初出:「新潮」昭和29年7月号)にジーンと感激しているうちに、鈴木地蔵著『市井作家列伝』(右文書院、2005年5月)所収の「古木鐵太郎の矜恃」を思い出し、さっそく読み返し、右文書院の鈴木地蔵の著書の最新刊、『文士の行蔵』(平成20年7月)に収録の「心境の鍛錬としての文学 古木鐵太郎の生涯」をじっくりとかみしめるように読み、こうしてはいられないと、上林暁の次は古木鐵太郎を取り寄せるのだった(そして、さっそく読みふけっているところ)。