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後藤明生を買いに東京堂へゆく。千代田区図書館の内田嘉吉文庫。

朝。荷風の『つゆのあとさき』をひさしぶりにじっくり読み直したいと思いつつ、かれこれ1ケ月以上が過ぎている……ということを、出がけに突発的に思い出した。本棚の岩波文庫コーナーから『つゆのあとさき』を取り出し、谷崎の「『つゆのあとさき』を読む」もついでに読み直すとするかなと『谷崎潤一郎随筆集』も一緒にかばんに放りこんで、イソイソと外出。いつものお店でコーヒーをすすりながら、じっくりとなめるように『つゆのあとさき』を読んで、いつも以上に夢中になってページを繰る。手持ちの文庫本には、なつかしや旭屋書店渋谷店にて1998年7月に367円で購入したことを示すレシートがはさみっぱなしだった。「中央公論」昭和6年10月号に掲載され、同年11月に中央公論社より単行本が刊行された、1930年代東京の都会小説の最右翼。この10年、たまにひょいと思いだして『つゆのあとさき』を読み返すのはいつも都市風俗観察が目当て。野口冨士男を知ってからは『わが荷風』とセットで読むのが格別なのだった。さいわい、移動および待機の多い一日で細切れ時間には事欠かなかった。『つゆのあとさき』を全篇読了し、巻末の中村真一郎の解説に目を通したあとで、谷崎の「『つゆのあとさき』を読む」のページを繰るところで日没となった。


そして、岩波文庫の『つゆのあとさき』巻末の中村真一郎の解説の《江戸末期の通俗小説の、偶然を利用しながら、物語に変化を与え、作品にひとつの形式的完成をもたらす手法》云々という一節で、後藤明生の『小説は何処から来たか』に収録されている、一連の荷風論ないし都市小説論のことをとたんに思い出して、なんだか急にウキウキしてくるのだった。第6章「『都市小説』の構造――宇野浩二と永井荷風」のなかの、

横光利一は「純粋小説論」(一九三五年)の中で、『罪と罰』における「偶然」の多発を指摘しているが、『罪と罰』に限らず、ドストエフスキーの小説には「偶然」と「突然」が氾濫している。実際、『罪と罰』には「突然」が「五百六十回」出て来ると勘定した研究家さえいる。その意味では横光の指摘は正しい。ただ、その「偶然性」を横光は、「感傷性」とともに「通俗小説の二大要素」と書いているが、わたしはドストエフスキーにおける「偶然」と「突然」は、通俗小説ではなくて、「都市小説」の要素だと考えている。

という一節が共感たっぷりだったりして、嬉しがっていたものだったなアと、つい最近、光文社古典新訳文庫の亀山郁夫訳『罪と罰』を読んだことで(最終巻の刊行が待ち遠しい!)、以前夢中になって読んだ後藤明生の『小説は何処から来たか』を読みたくなって、こうしてはいられないと図書館へ借りにゆき、数年ぶりにランランと読みふけり、これはぜひとももう一度買い直さねばと思っていた矢先だった……ということを思い出して、もういてもたってもいられない。


今回、『つゆのあとさき』を読み直したことで、後藤明生による、たとえば、

十九世紀ペテルブルクの、新奇な風俗、建物、路地、商店、看板、各種職業と、その種族の服装、食い物、ゴミや排泄物などなどを、誇張とグロテスクの表現で書くゴーゴリやドストエフスキーの方法は、“生理学派”的といわれた。都市を生理学的に解剖するという意味であるが、その方法はそのまま『つゆのあとさき』に当てはまる。 

とか、

……「ドンフワン」というカフェーを、カーニバル的な場として設定し、そこに集まって来る“新時代”の男たち、そこで生きる“女給族”を、カタログ式に描いている荷風の“都市の生理学派”的な方法を、わたしは重視したい。

というような、『小説は何処から来たか』の第5章「『生理学』の方法――永井荷風」の一節をイキイキと実感して、『つゆのあとさき』がわたしのなかで今まで以上に輝きを増した感じだった。


後藤明生の『小説は何処から来たか』を初めて手にしたときのことはいまでもよく覚えている。ゴーゴリを読んでにわかに興奮して、東京堂の2階(旧店舗のエスカレーターをあがった先の文学書売場がなつかしい)に駆け込んで参考文献を物色した折に立ち読みしてすぐに欲しくなってガバッと買ったのは8年前。以来、とびきりの愛読書だったものの、4年前に古本屋に売ってしまって、今は手元にない。本を買うのは楽しいけれども売るのはもっと楽しい、ので、いたしかたない。




小泉癸巳男《春の銀座夜景》(昭和6年3月作)、『版画 東京百景』(講談社、昭和53年3月)より。




織田一磨《銀座夜景(『東京新景』の内)》(昭和6年4月)、『織田一磨展図録』(町田市立国際版画美術館、2000年9月30日発行)より。奇しくもいずれも荷風が『つゆのあとさき』を執筆していたのとまさに同時期の、銀座東二丁目のカフェー街の夜景。

松屋呉服店から二、三軒京橋の方へ寄ったところに、表附は四間間口の中央に弧形の広い出入口を設け、その周囲に DONJUAN という西洋文字を裸体の女が相寄って捧げている漆喰細工。夜になると、この字に赤い電気がつく。これが君江の通勤しているカッフェーであるが、見渡すところ殆ど門並同じようなカッフェーばかり続いていて、うっかりしていると、どれがどれやら、知らずに通り過ぎてしまったり、わるくすると門ちがいをしないとも限らないような気がするので、君江はざっと一年ばかり通う身でありながら、今だに手前隣の眼鏡屋と金物屋を目標にして、その路地を入るのである。


【永井荷風『つゆのあとさき』(1931年5月22日脱稿)の第二章冒頭】

野口冨士男『わが荷風』(中公文庫・1983年3月→講談社文芸文庫・2002年12月)の「6 堤上からの眺望」に、酒井真人『カフヱ通』(四六書院、昭和4年12月)に《今や実際、カフェの黄金時代である》という一節があり、広津和郎が『女給』を「婦人公論」に連載したのは昭和5年9月から翌年2月にかけてであった、すなわち、『つゆのあとさき』は《空前のカフェーやバアの最全盛期に執筆された》という指摘がある。これらの版画もそんな時代背景のたまものといえる。



そんなこんなで、日没後。今日は、神保町シアターで溝口健二の『残菊物語』を見るつもりで、かねてより手帳に大きくメモしていた。意気揚揚と神保町に向かってズンズン歩き、映画までちょっとばかし時間があったので、『小説は何処から来たか』はまだ売っているかなと、ものはためしにとりあえず東京堂へ行ってみると、やれ嬉しや、検索機のモニターは3階の「リトルプレス」売場に在庫していることを示している。しかし、よろこぶのはまだ早い。半信半疑で3階へ確認にゆくと、今度は正真正銘やれ嬉しや、すぐに白地社の「叢書L'ESPRIT NOUVEAU」が並んだ一角が目に入り、1階の検索機が示していたとおりに、後藤明生の『小説は何処から来たか』もしっかり在庫していた。帯もついているし言うことなし、ガバッと手に取って、大喜び。8年前とまったく同じように、突如駆け込んだ東京堂でふたたび『小説は何処から来たか』を買うことができるのが、ただただうれしい。


などと、肩から羽が生えてバタバタと飛んでいるような心境になって、リトルプレスコーナーのくまなく眺めて、上機嫌は続く。散々見て回ったあげく、今日のところは、本日のお目当て、後藤明生『小説は何処から来たか』叢書L'ESPRIT NOUVEAU 14(白地社、1995年7月)と合わせて、小野十三郎『日は過ぎ去らず わが詩人たち』(編集工房ノア、1983年5月)、藤沢桓夫『回想の大阪文学』なにわ塾叢書11(ブレーンセンター、1983年8月)、杉山平一『詩と映画と人生』なにわ塾叢書54(ブレーンセンター、1994年9月)を買うことにする。目当ての本を一番買いたかったお店で買う瞬間はいつも格別だ。思ってもいなかった本を気まぐれにポンポン買うのはいつもとてもたのしい。と、ホクホクと階段を下りているうちに、神保町シアターの『残菊物語』の時間がとっくに過ぎてしまっていることに気づいた。


映画を見逃して時間がたっぷり、今夜はゆっくり本を読むとするかなと、九段下方面へ機嫌よくズンズン歩いて、千代田区図書館へ。内田嘉吉文庫の展示を見ながらカリカリとノートをとったあと、九段坂上の喫茶店でコーヒーを飲んで、買ったばかりの本を次から次へと繰る。8年前に買って4年前に売った後藤明生の『小説は何処から来たか』を4年ぶりにわが書棚に収めることができて、かさねがさね嬉しい。本を買うのは楽しいけれども売るのはもっと楽しい、ので、また4年後ぐらいには売ってしまうかもしれないけれども……。




《実務家の本棚から見る近代日本 千代田区図書館蔵 内田嘉吉文庫》展、2009年1月27日〜3月21日。

千代田区図書館所蔵「内田嘉吉文庫」は、内田嘉吉の蔵書を没後、昭和9年に当時の東京市立駿河台図書館(千代田図書館の前身)が受託したものです。内田嘉吉は、明治から昭和のはじめにかけて官僚として、また、実務家として、様々な実績を残した人物です。パネル解説とともに、普段目にする機会が少ない資料を展示いたします。

先月中旬のとある夜、届いたばかりの「日本古書通信」をホクホクと繰っていたら、八木正自氏の連載で、このたびの内田嘉吉文庫の展示のことを知って、ワオ! と大興奮だった。今回の展示は「内田嘉吉検索システム(http://www.library.chiyoda.tokyo.jp/search/uchida.html)」の完成を記念したもので、戦前の明治製菓宣伝部を追っている身にとっては、宣伝部長内田誠の厳父の内田嘉吉について追求せねばと思いつつも数年が過ぎていたところだったので、これはよい機会と極私的にも大喜びだった。『内田嘉吉文庫稀覯書集覧』(故内田嘉吉氏記念事業会、昭和12年2月)という本がある。装幀は小村雪岱、校閲は幸田成友、解説編纂は弥吉光長。内田誠の人脈がいかんなく発揮された立派な本で、文庫そのものというよりも、文庫に関わった人脈にうっとりというのがまずあって、今回初めて、内田嘉吉の書物探索に協力した丸善の八木佐吉の『書物往来』(東峰書房、昭和50年11月)を読んで、年明けからの丸善気分がますます盛り上がったりして、なにかと嬉しいことであった。




都市美協会編『建築の東京 大東京建築祭記念出版』(都市美協会、昭和10年8月20日発行)より、「東京市駿河台図書館・東京市・佐藤廣吉・昭4」。




内田誠『父』(双雅房、昭和10年7月18日)より、挿図《駿河台図書館之図》、五所平之助撮影。内田嘉吉は逓信省を経て、大正12年から13年にかけて台湾総督に就任、内田嘉吉のおかげで台湾に製糖会社を設立できた明治製菓の相馬半治が、一人息子の内田誠を社に招いて宣伝部の椅子に座らせたと、戸板康二は『思い出す顔』(講談社、昭和59年11月)の「『スヰート』と『三田文学』」に書いている。と、台湾総督のあと1925年に、内田嘉吉は渋沢栄一とともに日本無線電信株式会社を設立して産業界をリード、というくだりが、千代田区図書館のパネルにあって「おっ」だった。彼らの御曹司、内田誠と渋沢秀雄は「いとう句会」に興じているわけで、そんな息子たちのありようがおもしろいなと思った。二人とも父上を尊敬することこの上なく、内田誠は『父』というあきれるくらい立派な本をこしらえた。「内田嘉吉文庫」の設立も内田誠の献身のたまもので、受託先の駿河台図書館をとらえた写真が『父』に挿入されている。撮影は五所平之助でここでも「いとう句会」つながり! ニコライ堂をしたがえた構図がいかにも凝っていて、いいなあと思う。




同じく、内田誠『父』より、挿図《駿河台図書館之図》、長谷川りん二郎筆。あきれるほど豪華な造本の『父』には、長谷川りん二郎による絵がたいへんうつくしく繊細に印刷されてはさみこまれている。明治製菓宣伝部での内田誠の片腕だった香取任平の妹が長谷川海太郎(谷譲次・牧逸馬・林不忘)夫人の長谷川和子だったという関係で(たぶん)、長谷川りん二郎は「スヰート」の表紙画を描いたりしていた。

 神田駿河台の坂を上って主婦之友社の少し先きを曲った横町の、もう小川町から聖橋への大通りに出ようとする処に駿河台図書館はある。
 あの図書館のある通りは道幅もゆったりと広く、人通りも余りはげしからず、如何にも閑雅な趣むきをそなえている。
 そこにならび立つ建物は洋館が多く、悉くが相当の大きさのものばかりだ。Y・M・C・Aの前には時々大型の自動車がとまっていて車上には主を待つ狆がしきりにほえている。日本大学の洋風の校舎は何か丸の内辺のビルヂングめいてはいるが、路面に深ぶかと、しっとりとした影を落としているのだった。
 図書館の向い側にある西園寺公爵の御座敷の質素な御門内は蕭然たる気にみちていて、あたりはいつも水を打ったように静かなのだ。
 ささやかな灰色の門を持つ極めてひくい塀にかこまれた図書館は、白く小がらでしとやかな風に見える。
 館内は概して清楚で、詰襟のたくましい学生服の人々の姿さへ見えなければ、その廊下のがらりとした気配のうちにどこか修道院めいたところさえ感じられるのである。
 この心持のよい図書館に父の愛していた二万余冊の書物が移されたことはこの上もない幸であった。そこに附属した三階建の書庫のうち最上階の一室全部が父の文庫のためにあてられたので、三十五、六坪ほどの広さの中に充分のゆとりをとって数列に米国製の鋼鉄の書架がならんでいる。


【内田誠『父』(双雅房、昭和10年7月18日発行)より】