野口冨士男と『ほろよひ人生』と高見順の、1930年代東京・蚕糸会館。

日没後、家に帰るまえに、今日はちょいと外でぼんやりしたい気分だった。連日さながら梅雨のごとし。イソイソと外に出て、傘を開いて、丸の内仲通りをテクテク歩いて、日比谷界隈に出て、東京宝塚劇場の前で今日は右折、帝国ホテルの正面を歩くと、やがて向こうには日比谷公会堂、交差点をわたると左手はダイビル、通りの向こうは元 NHK のあった場所。航空会館の前を過ぎて田村町交差点に至って外堀通りに左折したら、キムラヤはすぐそこ。硝子戸をグイッと引いて、奥の席にすわって、ふうっと一息つく。

 小山内薫の死後、劇団はプロレタリア系の築地小劇場と新築地劇団に分裂して本郷座、市村座、帝劇などに進出したが、友田恭助、田村秋子などの芸術派は築地座を設立していまの西新橋一丁目――以前には田村町といった交差点からすこし日比谷のほうへ行った右側の飛行館のホールにたてこもった。その築地座の後身といえば後身ながら、分派といえば分派でもあるいまの文学座が発足したのは昭和十三年で、その初演も飛行館で行われている。
 そこにもたらされたのは新劇の群雄割拠時代で、さまざまな劇団が誕生した。主としてフランス喜劇の翻訳劇を上演した岸田国士系の金杉惇郎、長岡輝子、森雅之、北沢彪らを輩出したテアトル・コメディもその一つで、仁寿生命の講堂を本拠とした。日比谷公会堂の裏側にある市政会館内の市政講堂にも舞台があって、当時「行動」にさまざまな筆名で新劇評を書いていた私はその時代を講堂時代とよんでみたことがあるが、新劇の勢力圏が銀座の東側から西側から拡張した時代で、その現象は両国近辺に結集していた相撲部屋が阿佐ヶ谷から千葉県下にまで分散した現状に通じるものがある。


【野口冨士男『私のなかの東京』(文藝春秋、昭和53年6月)- 「銀座二十四丁」より】

昭和8年に紀伊國屋出版部に入社して「行動」の編集に携わった野口冨士男は、昭和10年9月出版部閉鎖のため馘首され、翌月校正部員として都新聞に入社し、後年、自筆年譜に《夜勤、宿直の連続のため観劇の時間をうしなって新劇との接触を断たれ、演劇への興味も喪失》と記すことになる。野口冨士男にとって、紀伊國屋との決別は新劇との決別でもあった。都新聞社は日比谷図書館の筋向かいに位置しており、新劇公演の「講堂」の数々はことごとく徒歩圏だったにもかかわらず、野口冨士男と新劇との距離は遠くなった。

都新聞社にいたころの私は電車の走っていた日比谷通りを越えて、文藝春秋社のあった大阪ビルを右にみながら政友会本部と仁寿生命の先にある国電のガードをくぐると、土橋から数寄屋橋を経過して八重洲橋方面に通じていた外濠――現在の東京高速道路下の掘割にかかっていた木橋の新幸橋をわたって、どこまでも真直ぐ行けば銀座へ出る路地をなんど歩いたことだろうか。

という一節が、上のすぐあとにある。「政友会本部」が現在の東京電力の場所で、「仁寿生命」は第一ホテルの隣り。かつての田村町の飛行館、仁寿生命、市政会館、都新聞のあった日比谷公園周辺を歩いてから「銀座二十四丁」に入るというふうに、『私のなかの東京』のなかの野口冨士男は1930年代前半の東京を歩いている。


野口冨士男は昭和18年刊行の『黄昏運河』という作品で(昭和33年6月刊行の『ただよい』はその改稿)、

 僕はどの年齢にあって、あの当時を、東京という都会に住んで、わずかでも芸術ということに関心を寄せていたほどの青年たちにならば、誰にでも、多かれすくなかれ、そういう経験がなくてはならなかった筈である。――僕にもまた、築地小劇場(ああ、あのなつかしい灰色の小屋も、いまでは国民新劇場と名をあらためてしまったのだ)や、帝国ホテルの演芸場や、やがては本郷座や、市村座や、帝国劇場などでもおこなわれるようになった新劇の公演という公演は、ただのひとつも見のがすまいとして追い歩いていた、ひとつの時期があったのだ。(中略)
 そして、そこは、田村町の飛行館や、市政講堂や、あるいは蚕糸会館というような、つまり、ビルディングのホールを使用するようになった、謂ゆる新劇公演の「講堂時代」に相当する。
 云いかえるならば、それは、「大劇場進出時代」の直後につづく、研究劇団乱立の一時期でもあった。年代的に云えば昭和の初年であり、西欧派のかぞえかたにしたがえば、千九百三十年代のはじめにあたる時期であった。


【野口冨士男『黄昏運河』新鋭文学選集5(今日の問題社、昭和18年3月5日発行)】

と、《新劇公演の「講堂時代」に相当する》《ひとつの時期》、すなわち《千九百三十年代のはじめにあたる時期》のことを、一篇の小説に仕立てている。


平日の日没後、丸の内仲通りを歩いて日比谷界隈を経て田村町へ向かうときは、いつだって、『私のなかの東京』を歩く野口冨士男を思っていい気分になって、キムラヤと硝子戸をグイッと引く瞬間はその最高潮。家に帰る前にキムラヤでのんびりするという時間は、丸の内から田村町へ歩くという道筋があるとなおいっそう格別なものがあるのだった。……なんて言いつつも、霞が関から虎ノ門交差点を経て田村町キムラヤへ至るのもなかなかいいものなのだった。まったくもって、「港区の田村町なる木村屋は安くてうまくて居心地もよし」。キムラヤの椅子にすわると、いつだってそれだけで上機嫌。



野口冨士男は『黄昏運河』で、1930年代前半の「新劇の講堂時代」を彩った建物のひとつとして、有楽町の蚕糸会館を挙げている。丸の内から田村町へ歩く途上の、丸の内仲通り沿いの蚕糸会館のもとの建物は昭和8年の建物で、京橋の明治製菓ビルの前の建物と奇しくも同年の建物なのだった。




「新建築」昭和8年5月発行(第9巻第5号)。京橋の明治製菓と有楽町の蚕糸会館の、いずれも前の建物が同年の昭和8年の建築だということにことのほか感興がそそられたのは、明治製菓ビルの図面が掲載されている昭和8年発行の「新建築」を入手したのがきっかけだった。京橋の明治製菓ビルの次のページに掲載されていたのが有楽町の蚕糸会館だった。




「新建築」昭和8年5月発行(第9巻第5号)より、「明治製菓ビル」。上図:正面外観、下図:側面。

 東京市京橋区二丁目に建ち1622坪、六階建て、鉄筋コンクリート造、一部鉄骨鉄筋のビルディングで、渡辺仁建築工務所設計、大倉土木施工、本年二月竣工したものである。
 正面外部は一階は黒花崗石本磨、二階以上は白色タイル貼り二階に柱外側に長い連続窓をつけた以外、他は規則正しく窓を明けた何の装飾もない明朗なもので、先ず無難な外観と見られる。出入口及窓廻り金物は鋼製白ブロンズ鍍金である。
 内部は一階玄関は床壁共花崗石本磨を用い売店内はモザイック貼りである。
 建築設備として空気清浄機を具えている、



その次のページに掲載の「蚕糸会館」。上図:外観、下図:背面見上げ。

 東京市麹町区有楽町一丁目に建ち、総延坪1175坪、七階建ちの鉄骨鉄筋コンクリートである。設計は山下寿郎建築事務所、施工は大林組で本年四月竣工した。
 外部は一階は鉄平石水磨、二階以上は白色擬色タイル貼りのすっきりしたもので、丸ノ内に建つものとしては中央郵便局と共にその異彩を誇り得るであろう。
 四階には千人近くを容れる講堂を有し内部はトマテックス貼り全部間接照明になって居り、座席は寿式連結椅子が用いられて居る。外観に見られる四階部分の張出窓はこの講堂舞台裏の通路となっている。

と、この蚕糸会館の特徴的な、外階段と円柱の外観を見ているうちに「あっ」と気づいたのが、P.C.L. 第1回作品であるところの、木村荘十二『ほろよひ人生』(昭和8年8月10日封切)に登場していたということ。たまたまヴィデオでじっくりディテール見物(筈見恒夫がひょっこりいたりする)をした直後だったので、「あっ」だった。いてもたってもいられず、またもやヴィデオをじっくりと見直してみると、



川で釣りをしていたら偶然、ダイヤモンドを拾い上げた藤原釜足と丸山定夫。横取りすべく、逃げる、逃げる。空地の隣りの出来たてほやほやの白亜のビルヂングへと逃げ込み、外階段をどんどんあがってゆく。



ダイヤモンド逃すまじ、必死に追いかける横尾泥海男とその仲間。外階段をあがっておいかけて、やがて屋上に至る総勢4人。この外観が、まさしく「新建築」誌上に紹介されている蚕糸会館そのもの!



ダイヤモンドの取り合いをするが、なかなか横尾泥海男の手には渡らない。蚕糸会館の屋上からは、朝日新聞社をはじめとする1930年代東京を彩った近代建築の数々がパノラマのようにひろがっていて、まばゆいばかり。



屋上から建物の内部に入り、階段をくだって、藤原釜足と丸山定夫が走る、走る! 「新建築」の図面を参照しながら、何度もこのシークエンスを見直して、にんまりが止まらない。


……というふうに、『ほろよひ人生』を初めて見たときは冗長としか感じられなかったシークエンスが、昭和8年の「新建築」で京橋の明治製菓ビルのすぐあとに紹介されていた、有楽町の蚕糸会館だと知ったあとで見直してみると、なんとキラキラと輝きを増すことだろう! ここに登場している蚕糸会館は出来たてホヤホヤ、明治製菓ビルと蚕糸会館の昭和8年、銀座東三丁目の明治製菓売店が新装開店したのも昭和8年、野口冨士男が紀伊國屋出版部に入社した昭和8年……などなど、日頃から極私的に心ときめかしてやまない「東京昭和八年」を、 昭和8年封切りの P.C.L.第1回作品『ほろよひ人生』の銀幕のなかの蚕糸会館が重層的に呈示してくれているのだった。



という次第で、日頃のおたのしみ、「1930年代・東京」探索ないし「東京昭和八年」ウォッチングの一環で、有楽町の蚕糸会館に極私的に愛着をもつようになって久しい。丸の内仲通りの蚕糸会館の前を通りかかるたびに、そこはかとなく嬉しい(いつの日か、地下のアピシウスでワインをグビグビ飲みたい)。なにかしらの東京本を読んでいる折に「蚕糸会館」の文字を見つけると、そのたびに「おっ」と反応して悦に入っている。そんなわが「蚕糸会館」コレクション(…というほどのものではないが)のお気に入りのひとつが『高見順日記』の以下のくだり。


昭和20年1月26日、高見順は大阪ビルのモダン日本社から朝日新聞社の前を通って、銀座4丁目交差点まで歩いて、地下鉄で日本橋へ向かう。

……四丁目まで歩く。朝日新聞社の上に伝書鳩が舞っている。何か眼をひかれた。地下鉄で日本橋まで行く。清水君に会い「東橋新誌」二十部受け取る。帰宅すると三雲君が待っている。夜警報あり。三雲君泊る。

高見順はこの日、朝日新聞社の上を舞う伝書鳩にことのほか心惹かれたらしい。後日の日記に、以下のような追記がある。

 ……ふと、朝日新聞社の伝書鳩のことが頭にきた。あの鳩たちは無事だったのだろうか。爆撃の前日、何か心をひかれて見上げたものだったが、そのときの暗い空まで思い出された。
 灰色の薄暗りの空を私がひどく暗澹とした感じのものに見たのは、街の暗い表情から私の心も暗くさせられていたせいだったろうが、鳩は、鳩だけは明るく楽しげに群をなして飛び舞っていた。いつだったか、会があるというので、中村武羅夫氏と一緒に毎日会館に行ったとき、一番上の部屋から何気なく外を眺めてやっぱりこの鳩の群が眼についた。その時も空は暗く、鳩は明るく楽しそうであった。私はその毎日会館のすぐ傍の蚕糸会館の一番上の階の、ホテルになっているところに仕事部屋を借りて、営々と仕事をしていた頃、思えばもう十年近く前のことになるが、よくこの鳩の飛んでいる空に眼をやって疲れた頭を休めたものだった。その頃、下の街は明るく楽しく華やかなものであった。


【『高見順日記 第三巻 末期の記録』昭和20年1月〜4月(勁草書房、1964年11月3日)、昭和20年2月2日のところに記入】


とまあ、思いもかけない展開で、1930年代東京の空の下の蚕糸会館が登場! 蚕糸会館の最上階がホテルになっていること、そこに高見順が仕事部屋をもっていたことを初めて知ることとなった。なんと優雅な流行作家の生活。いわゆる「高見順の時代」を象徴するようなエピソードといえそう。




上掲の「新建築」昭和8年5月発行(第9巻第5号)より、蚕糸会館の最上階の平面図。浅草田島町の五一郎アパートに仕事部屋を移して浅草時代が始まる以前(昭和13年春に浅草へ)、高見順が仕事部屋にしていた蚕糸会館の最上階。ホテルであったことは「新建築」では特に明記されてはいなかったけれども、知ったあとで図面をみると、なるほどホテルのような、アパルトマンのような。




田中一郎写真集『郷愁の東京 昭和10年〜12年(1935〜1937)』(田中スタジオ、平成9年3月発行)より、「蚕糸会館」。最近発掘した秀逸な東京写真集にも蚕糸会館が掲載されていて、極私的に大喜びしていたところ。『ほろよひ人生』でおなじみの構図。




同じく、田中一郎写真集より、同じく「蚕糸会館」。この写真集には喫茶店およびウェイトレスを写した写真が何枚も収録されていて資料的価値満点。蚕糸会館にも喫茶ガールがいた! と、新事実発見、大収穫だった。上掲の七階図面の左上の一室と思われる。