古書展で高見順を買って以来、久保田万太郎を読み直す日々。

先月のとある土曜日、小川町の古書会館でなんとなく気が向いて、高見順『東橋新誌』(六興出版部、昭和19年11月10日)を手にとった。戦時下の浅草を舞台にした新聞小説。去年に『高見順日記』を通読して以来、気になりつつもずっと読む機会を逸していたので、とりあえず買っておくことにした(800円)。つづいて、その翌週の土曜日の古書会館では、同じように「なんとなく気が向いてとりあえず買った本」のなかに、高見順『対談 現代文壇史』筑摩叢書231(筑摩書房、1976年6月20日)があった(300円)。「文藝」昭和30年5月号から昭和31年12月まで断続的に掲載された「対談現代文学史」を収録したもの(昭和32年7月発行の中央公論社版が底本)。


喫茶店に寄り道して、高見順『対談 現代文壇史』をペラペラと繰ってまっさきに読みふけったのは、「『三田文学』その他」と題された久保田万太郎との対談(「文藝」昭和31年6月号初出)だった。そして、

久保田 ぼくは、今言うとね、お前、いつが一番勉強したかって言われたら、戦争中ですよ。戦争中ほど、愉快に過した時間、ないな。朝五時に起きてね、半日がかりで書いて自分で間に合うように新聞社へ持って行きましたよ。見てると、「東京新聞」の社屋がね、だんだんと防備厳重になって来た、空襲ははげしくなるし。
――― 「樹蔭」ですね。
久保田 読んで下さったんですか。
――― 戦争中の小説って、誰でも、ちょっと出せないんだけれども、久保田さんのだけは、……。
久保田 あれ、ぼくなんか、よほどお目こぼしがあったんだね。よく書かしておきましたね、あれを。
――― 私もちょうどあの前後に、あとくらいに書いたおぼえがあるんですがね。
久保田 しかし反戦の線は、心ある者が見ないと判らなかったんだな。ハッキリ出したわけじゃないから。

というくだりで、突然ハッとなって、コーヒー片手にしばし放心だった。おなじ「東京新聞」誌上に(昭和17年10月1日、「都新聞」は「東京新聞」に)、戦争末期に前後して、高見順は昭和18年10月30日から翌19年4月6日にかけて『東橋新誌』を、久保田万太郎は昭和19年6月28日から同年9月9日まで『樹蔭』を連載していた、ということに、しみじみ感じ入るものがあった。


久保田万太郎の『樹蔭』は初読時から、万太郎のなかでも特に好きな小説だった。吉田健一が『樹蔭』のことを、

……殊に「樹蔭」で久保田さんが戦争中、どんな思いでいらしたかをはじめて知った。それは今度の戦争が「樹蔭」という傑作を生んだことをはじめて知ったということでもあって、何だかあの戦争が漸く立体的になったという感じがした。「樹蔭」に出て来るどの人物に久保田さんご自身は当るのだろうか。そんな詮索がしてみたくなる位、この小説には愛着を覚えた。

【吉田健一「久保田万太郎氏のこと」 - 『久保田万太郎回想』(中央公論社、昭和39年12月)所収】

というふうに書いている。ここを読み返すといつだって心の奥がキューンとなるくらい、わたしは久保田万太郎の『樹蔭』が好きだ。と、高見順と久保田万太郎の対談を読んで、ひとりで熱くなったところで、先週、高見順の『東橋新誌』を買ったばかりというのはちょっとした奇縁と言っていいかも、『東橋新誌』を読んだら、そのあとすぐに、何年ぶりかで久保田万太郎の『樹蔭』を読み直すとするかな……などと、急に気持ちがウキウキしてくる古書展帰りの喫茶店のひとときなのだった。




高見順『東橋新誌』(六興出版部、昭和19年11月10日)。挿画:三雲祥之助、題字:池田木一、装幀:大門一男。六興出版部の創立は、昭和15年春、大門一男が清水俊二に話しをもちかけたのが端緒。その頃、大門一男はユナイテッド・アーティスツの宣伝部から東宝に移って PR 雑誌の「エスエス」を編集、当時の「エスエス」の編集長は西村晋一、スタッフに大山功がいた……云々というくだりは、清水俊二『映画字幕五十年』(ハヤカワ文庫、1987年3月)を初めて読んだとき、もっとも心躍ったくだりのひとつだった。宮田昇『戦後「翻訳」風雲録』(本の雑誌社、2000年3月)をひさびさに読み返したくなってくるような芋づるがたのしい(みすずの「大人の本棚」の新版をまだ入手していないのが急に気になってきた)。高見順と清水俊二は府立一中で同学年。


で、いざ読んでみると、『東橋新誌』は、作品それ自体はだいぶ迷走しているけれども、『高見順日記』における、たとえば昭和18年12月13日付けの、《近くギルバードの玉砕の発表があるというので、そうした紙面に浅草の話や義太夫のことを書いたのでは何か油に水、否、不謹慎な感じになりそうだと恐れられ、予定の筋を急に変更して、新しく工場の話にした》といったくだりを知っている身で読んでみると、作品の迷走具合もそれはそれでなかなか味わい深いものがあって、いろいろな意味で、読んでよかったと思いたくなるような小説だった。

 高見順の詩について論ずるのに、『如何なる星の下に』についての感想をくだくだ述べることから始めたが、わたくしにとって高見順といえば、まず『如何なる星の下に』の作家なのであった。今度は読み直して落胆したが、時間の波が凶暴な歯で文学作品全体をかじりつづけているからには致し方ないことなのであろう。
 しかし時間が人とともに消え去っても
 過去が今なお空間として存在している
 『死の淵より』の「過去の時間」と題する詩の中の二行だが、時間が消えたときに、ただ単なる空間が、ではなく、空間としての過去が存在する、という捉え方に、たぶん高見順の痛恨がこめられている。偽悪、強がり、放蕩など、都会の秀才はさまざまな策略でミスティフィケーションを計り、また、ときには文学者よりも率直単純な心に返ったりしたものの、彼が消え去ったあとも、心の痕跡が「空間」として残ることを知っていたのである。その思いは、彼にとって慰めであったかもしれない。初めに引用した「おれの期待 三」で「思想の陰湿を蒸発させて/一箇の物質と化したい」と書かれているが、そのような弱い心との格闘が高見順の一生であった。


【北村太郎「高見順――危機の詩人」(初出:『現代詩読本 高見順』思潮社・1980年2月)- 『詩人の森』(小沢書店、1983年2月)所収】


『如何なる星の下に』完結から3年を経て、自家薬籠中のはずの「浅草」の小説を書くべく格闘する高見順。その意味では、『東橋新誌』は高見順の「敗北」の過程ともいえるのだろうけれども、わたしにとっては困ったことに、戦前の「浅草」が盛り込まれているというだけで魅惑的で、小説としての完成度などどうでもよくなってしまう感じだった。なぜ「浅草」はこうも魅惑的なのだろうと、震災後から敗戦までの「浅草という町についての評伝」であるところの、堀切直人『浅草』栞文庫(asin:4990170326)を読み返したくてたまらなくなって、堀切直人の『浅草』はなんと素晴らしいことだろう! といつもながらに陶然、と『東橋新誌』を機に、堀切直人を読み返す時間がまた格別だった。




高見順『東橋新誌』(六興出版部、昭和19年11月)、第五章の扉に描かれている三雲祥之助の挿絵、《東京名所鑑より吾妻橋》。

 然し、「東橋」はアヅマ橋のことである。吾妻橋にほかならない。然らば何故、吾妻橋を東橋としたかと言ふに、それは、かの依田學海の「墨水廿四景記」、――荷風散人が「墨東綺譚」の所謂「溝際の家」に初めて足を運ばれた際、電車の内での讀書にと、手に觸れるがまゝに携へて行つたとある「墨水廿四景記」、――それには、吾妻橋の朝靄、即ち「東橋曉靄」が廿四景の筆頭にかゝげられてゐる。私はその「東橋」に據つたのであった。

という一節が、第五章の冒頭にある。こんな感じのちょっとしたブッキッシュな記述が散見できるのもたのしかったこと。


高見順は『東橋新誌』連載中、昭和18年12月31日の日記には《浅草は暗く、人もまばら、戦前の浅草の面影なし》という一節を、その一週間後の翌19年1月7日には、

金竜館の角で永井荷風に会う。黒い帽子を阿弥陀にかぶり、膝のとび出た細いズボンをはき、黒足袋に下駄ばき、レビューの女の子ひとり連れている。何がギョッとした。かなわないと思った。

と書いている。「おっ」と、すぐさま『断腸亭日乗』を参照すると、同日の記述は、

一月初七。晴。祁寒昨日の如し。午後オペラ館に至り見るに河合澄子三番叟を踊りゐるところなり。元日より満員にて毎日大入袋一円五十銭なりと踊子のはなしなり。公園内外の喫茶店飲食店大半閉店。天麩羅屋ところどころ店をあけたり。群集寒風にさらされながら列をなして午後五時営業時間の来るを待つさま哀れなり。この日七草の故にや行き帰りとも地下鉄道雑沓して殆乗るべからず。寒月皎々たり。

というふうになっていたのだった。……などなど、古書展でふらりと手に取った『東橋新誌』を機に、いろいろな本に寄り道をするのがなによりもたのしかったこと。





「東京新聞」で高見順の『東橋新誌』が始まったばかりの昭和18年11月は徳田秋声が長逝したのと同時期であり、「都新聞」連載の秋声の『縮図』が軍部の圧力で中絶を余儀なくされたのは昭和16年9月、以来、秋声はかたくなに小説の筆を執らなかった。久保田万太郎の『樹蔭』の連載が始まった昭和19年6月は、久保田万太郎が戸板康二に日本演劇社への入社を勧めたのと同時期であり、『樹蔭』が完結した昭和19年9月に戸板康二は演劇ジャーナリストとしてのキャリアをスタートさせた。……というようなことを思いながら、当時の「東京新聞」の読者のように、『東橋新誌』のすぐそのあとで、久保田万太郎の『樹蔭』を読み直すのが、格別であった。そして、『東橋新誌』のすぐあとに『樹蔭』を読むと、久保田万太郎のすばらしさ、文学者としての純度の高さが際立つ感じで、心が洗われる思いであった。昭和26年9月に中央公論社より刊行された単行本あとがきで、万太郎は、昭和17年の東京を戯曲『波しぶき』、昭和18年の東京を戯曲『月の下』、昭和20年の東京を戯曲『あきくさばなし』のなかに描いたように、昭和19年の東京を、《東京のありのままを、この作の中に、他意なく写そうとした》、《すべては空想でも、その裏うちをしているのは、ぬきさしならぬ実感》、《その日その日の実感》だったというふうに書いている。


昭和19年6月、『樹蔭』は「梅雨どきのはッきりしない」東京の空の下で幕を開け、なんとなく秋めいたころ、最終回を迎えた。その「東京新聞」の昭和19年9月9日、登場人物の書簡というかたちで、万太郎は

 最近は楽天地といったのだそうですが、とにかく、十二階といえば花やしき、花やしきといえば十二階、わたくしの知っている浅草といえば、この二つにとどめをさしたものでした。が、その一つは震災でなくなり、一つはこんどの疎開でなくなりました。十二階にしても、たとえ震災のとき無事であっても、今度の疎開にあえば、一トたまりもなかったにちがいなく、けっきょく、まぬかれがたき、それだけの運だったかと存じ候。
 その夜の三日月、こよいは、はや、まんげつにちかく、なんとなく秋めきてみえ、おはなしにうかがいたる豊夫さんのお宅の庭の水の音のどこかにきこゆるここちいたされ候。湯島の宅の萩もそろそろもう花をつけるころと存じ候。
 それにつけても東京を、
   だいじなだいじな東京を、
      くれぐれも空襲よりおまもり下されたく候。
                       敬具

という一節で、『樹蔭』を締めくくった。



あ さ が ほ や は や く も ひ び く 哨 戒 機


万太郎はこの句の前書きに《毎日、五時起きにて樹蔭一回づつ執筆》と記している。戸板康二は、『万太郎俳句評釈』(富士見書房、平成4年10月)に、《当時、東京新聞文化部には、万太郎に私淑してやまなかった安藤鶴夫がいて、その三枚宛の一回分を毎日受けとりにかよったと聞いている》、《この執筆中、日本演劇社に私は入社したので、小説が完成した時、いかにも嬉しそうな顔をした万太郎を見ている》と回想している。……というような、当時の万太郎の周囲に思いを馳せてみると、なおいっそう余韻が深まるのだった。『樹蔭』の執筆開始とほぼ同時に、複雑な関係だった一人息子、久保田耕一の応召に直面していることが『樹蔭』に多分に反映していることに今回初めて気づいたりもした。高見順の『東橋新誌』の挿絵は、『如何なる星の下に』以来の名コンビの三雲祥之助であった一方で、万太郎の『樹蔭』の挿絵は久保栄の弟の久保守だった。そんな戦前の新劇の人びとのつながりやらなにやら、久保田万太郎の『樹蔭』を読んで、いろいろなことに思いが及ぶのだった。『樹蔭』を読み直したのを機に、単行本あとがきをなぞるように、『波しぶき』、『月の下』といった戯曲をつれづれに読み直したりなんかして、ひさしぶりに万太郎全集を次から次へと繰っているうちに、短い2月はあっという間に過ぎてしまいそうな勢い。……という折も折、毎年3月恒例のみつわ会の久保田万太郎公演の今年の上演は、『町の音』と『釣堀にて』だと知った。キャー! 




『樹蔭』は、昭和17年作の戯曲、『町の音』(初出:「中央公論」昭和17年8月号)と登場人物が一部重複しているので、合わせて読むとさらにたのしい。画像は、『町の音』が初演された折の、文学座公演のプログラム(昭和17年12月1日〜15日・国民新劇場)。翌18年10月、明治座で新生新派により再演された。『町の音』は、初演時は杉村春子(再演時は花柳章太郎)演じる女房が「製菓会社の掃除婦として勤めに出る」という設定になっていて、戦前の製菓会社をとりまくあれこれを追う身としては捨て置かれぬッ、と大興奮したものだった。いざ読んでみると、特に明治製菓が登場しているわけではないのだけれども。




しかーし、昭和17年2月の文学座公演(上田廣『黄塵』、於:国民新劇場)のプログラムの裏には、明治製菓の広告が登場していて、大喜びなのだった。当時、内田誠のもとで明治製菓宣伝部に勤務していた戸板康二も「国民新劇場」と名を変えたかつての築地小劇場へ観劇に出かけて、このプログラムを手にしていたに違いない。




さらについでに、昭和15年9月公演の文学座プログラム(真船豊『廃園』、マルタン・デュ・ガール『ルリュ爺さんの遺言』)の裏表紙には、森永製菓の広告。上掲の昭和17年の文学座公演はいずれも、国民新劇場と名を変えた築地小劇場が会場だけれども、この公演の会場は、田村町の飛行館。このプログラムによると、6階に「つばさ」という喫茶店があったらしい。1930年代東京の演劇青年だった野口冨士男もこの喫茶店でコーヒーを飲んだのかな。




都市美協会編『建築の東京 大東京建築祭記念出版』(都市美協会、昭和10年8月20日発行)より、「飛行館・佐藤功一・竹中工務店・昭4」。野口冨士男が『私のなかの東京』(文藝春秋、昭和53年6月)を書いている当時、老朽化のため取り壊しとなり、航空会館として再出発することになった。今はだいぶ古びている航空会館の前を通りかかるたびに、いつも『私のなかの東京』を思い出している。二・二六事件の折にかのアド・バルーンが設置されたのがこの飛行館だったこととか。