お茶の水から荻窪へ。江戸東京たてもの園で「建物のカケラ」展。

紅野敏郎『「學鐙」を読む』雄松堂出版(asin:4841905162)を繰って、この一週間は、丸善のことばかり考えていた。と、丸善にまつわるあれこれに思いを馳せているうちにふと思い出したのが、東京都美術館の《1920年代・日本展》図録(1988年刊)に載っていた、「MAVO」の「O」の大浦周蔵による「丸善インキ」の広告塔のこと。《1920年代・日本展》図録はずいぶん前から図書館でちょくちょく閲覧していたものだった。この充実度、部屋の本棚に架蔵したいなあと思いつつも、まあ図書館にゆけばいつだって閲覧は可能だし、と、古書展などで見かけるたびになんとなく機会を逸してしまっていた。しかーし、頭のなかが大浦周蔵の丸善インキ広告塔でいっぱいになってしまった今こそ、《1920年代・日本展》図録を購入する絶好のチャンスのような気がする。


……というようなことを、昨夜さる席でつぶやいたところ、小宮山書店にて3000円で売っていたのを見たばかりだ、という目撃情報を得て、急にソワソワ。つぶやいてみるものである。とにかくも、こ、こうしてはいられない、さいわい小宮山書店は年中無休、日曜日だって11時から開店だー、というわけで、ズンズンと神保町へ向かって早歩きして、小宮山書店に開店とほぼ同時に足を踏み入れて、めでたく《1920年代・日本展》図録を購入。




図録『1920年代・日本展 都市と造型のモンタージュ』(1988年刊)より、「大浦周蔵 丸善インキ広告塔 1924」。巻末の作家略歴に大浦周蔵(1890-1928)について、

東京に生れる。幼少より丸善の店員となる。洋画を白馬会溜池研究所に学び、後に広告部に勤務し、店頭広告、新聞広告で活躍。1920年未来派美術協会結成に参加。1922年木下秀一郎らと三科インデペンデント展を開く。1923年村山知義らとマヴォを結成。翌年三科造型美術協会の結成に参加。同年丸善画廊を設置。1927年燕巣会を始める。

というふうに紹介がある。丸善の広告部! 「学鐙」でひさびさに火がついた丸善からの芋づるがどんどん伸びてゆくのだった。愉しき哉。



心持ちよくウカウカと駿河台交差点を渡って、お茶の水駅へと向かう。今日はかねてより、中央線にのって小金井公園に遠足にゆき、江戸東京たてもの園を見物する予定だった。その前に荻窪で途中下車して、ブルーベルでオムライスの昼食を食べる予定だった(ついでに、ささま書店)。神保町で懸案の《1920年代・日本展》図録を入手するという緊急事態が発生したゆえ、当初の予定は若干の変更、自宅から荻窪へ直行ではなくて、お茶の水から中央線にのって、荻窪へゆくこととなった。と、《1920年代・日本》展図録のおかげで、ひさしぶりに御茶ノ水駅から中央線に乗ることとなり、嬉しい。お茶の水駅に来るといつも、駅の細部のあちらこちらで1930年代の建築を凝視することができて、それだけでいつもふつふつと嬉しい。




都市美協会編『建築の東京 大東京建築祭記念出版』(都市美協会、昭和10年8月20日発行)より、「御茶の水驛 鐡道省・大倉土木・昭7」。




松本竣介《煙突のある風景》(1941年3月)、図録《松本竣介展》(東京国立近代美術館、1986年)より。上の「建築の東京」と同じく聖橋をとらえている。煙突は現在の東京医科歯科大学。




図録『1920年代・日本展 都市と造型のモンタージュ』(1988年刊)より、「渡辺義雄 御茶ノ水駅 1933」。巻末の作家略歴に、《板垣鷹穂の示唆で撮影された《御茶の水駅》(「フォトタイムス」1933年1月)は、近代建築の構成美をとらえた傑作である。》とある。中央線のなかで、買ったばかりの《1920年代・日本展》図録をホクホクと眺めて、「やっぱり買ってよかった!」と歓喜にむせんでいたら、渡辺義雄によるお茶の水駅の写真に遭遇して、ますます大はしゃぎなのだった。



などとはしゃいでいるうちに、あっという間に荻窪に到着、あわてて下車、いつもの三鷹寄りの改札から外に出て、線路沿いをテクテクと歩いて、ブルーベルに向かう。と、その途中、オレンジ色一色の中央線が三鷹方面に走ってゆくのが目に入った。オレンジ色一色の中央線を見たのはずいぶんひさしぶり。


ブルーベルでオムライスの昼食のあとは、いつものとおりにささま書店へ。まずは店頭の105円棚にて均一で売っていたらとりあえず買う著者の文庫本を2冊手に取って(今日は佐多稲子と宮脇俊三)、いざ店内へ。さんざん見て回ったあげく、今日は東京都写真美術館の図録、《日本近代写真の成立と展開》を買うことにする。今日は図録ばかり買っているなあと、小金井に行く前にドトールでコーヒーを飲んで、ひとやすみ。再び荻窪駅に戻り、ホームで下り電車を待っていたら、ちょうどやってきた東京駅行きがオレンジ色一色の中央線だった。先ほど、ブルーベルに向かうときに見かけた電車が折り返して戻ってきたのかな。




図録『日本近代写真の成立と展開』(東京都写真美術館、1995年)。表紙は、田村榮《白い花》(1931年)。1924年の淵上白陽ではじまり、1943年の「撃ちてし止まむ」のポスター(写真:金丸重嶺、監督:山脇巖、山脇写真研究所製作)で終わる展覧会図録。戦前に特化した写真史。ストライクゾーンな見事な編集の図録で、先月出かけた東京都写真美術館の中山岩太展で、近代写真史熱が再燃していたところだったので、グッドタイミングだった。




昼下がり、小金井からバスにのって小金井公園へ。江戸東京たてもの園(http://www.tatemonoen.jp/)は3年ぶりくらい。青い青い空の下、子供たちが大はしゃぎでかけまわっている。




前来たときとおんなじように、都電に胸躍らす。子供たちが大勢乗り込んで大はしゃぎ。今回は遠目に眺めて、冬空と木立の澄んだ風景にスーッとした気持になる。




池之端の不忍通りの小間物屋、「村上精華堂」(昭和3年)の店先に、ミツワ石鹸でおなじみの丸見屋商店のサーワ白粉が置いてある! とはしゃいだあと、裏手にまわってみたら、柱に正路喜社提供の温度計が据え付けてあった。前々から気になっている、内田魯庵が「広告の現在と近い未来」という一文を寄せて入る『広告文化』(正路喜社、大正14年5月)という本のことを思い出した。山口昌男『内田魯庵山脈』晶文社(asin:4794964633)で知って、図書館の閲覧室でランランと繰った本。『内田魯庵山脈』では『広告文化』について、正路喜社が《大正十三年、広告文化講演会を行い、三人の講師に講演を依頼した。『広告文化』という書物を刊行するに際して、その講演に加え、十三人の諸家に依頼した「意見」を併載》したもので、《内田魯庵と奥野他見男が目次の同頁に名を連ねた》というふうに紹介している。魯庵は丸善つながりでもあることだし、いよいよ『広告文化』を購入する絶好の機会かもしれぬ。……などと、《1920年代・日本展》図録を買ったばかりだというのに、正路喜社の温度計を見ながらまたもや本を買うことばかり考えているのだった。



いつもながらに、「江戸東京たてもの園」ピクニックはたいへんたのしいのだけれども、予算の都合なのか、復元された建物が3年前と変化がなく、単なる再訪になってしまったのが残念であった(前川國男の邸宅をはじめとして再訪でも十分たのしいけれども)。戦前の明治製菓宣伝部を通して、モダン都市時代のお菓子をとりまくあれこれに夢中な身としては、戦前の菓子店の店舗が復元されたら、どんなにいいだろう! と思う。




川喜田煉七郎『図解式 店舗設計陳列全集1 パンカシ店・喫茶店』(モナス、昭和15年1月)。パンとお菓子を商うお店の店舗設計の実例集で、当時のパン屋、菓子店および喫茶店の実際の店舗の写真と図面がたくさん紹介されていて、眺めてたのしい。戦前の建築写真などでおなじみの有名店はほとんどなくて、普段使いのお店ばかりなのでなおのこと貴重。江戸東京たてもの園で復元されるとしたらこの本で紹介されているようなお店になることだろうと、夢はふくらむばかり。川喜田煉七郎は仲田定之助の蔵書で、独学でバウハウスのデザイン理論を学んで、1932年には銀座7丁目の並木通り沿いの三ツ喜ビルに「新建築工芸学院」を設立、亀倉雄策、桑沢洋子らが学んだ(山脇巖も教壇にたったことがあった)。川喜田煉七郎が店舗設計を手がけたのは1935年以降とのことで、この本を眺めて、1930年代の建築の気分のようなものを思うのだった。




川喜田煉七郎『図解式 店舗設計陳列全集1 パンカシ店・喫茶店』(モナス、昭和15年1月)より、川喜田煉七郎設計の「芝田村町・キムラヤパン店」。これは、おなじみの田村町キムラヤのもとの店舗なのかしら! と大よろこびだった写真。大岡龍男をはじめとする、内幸町時代の NHK の面々の溜り場になっていた田村町のキムラヤ。




「江戸東京たてもの園」ピクニックをひととおり満喫したあとで、いよいよ本日のお目当ての企画展《建物のカケラ 一木努コレクション》展を見物する。路上観察学会のメンバーでもある一木努氏が40年にわたって解体現場に立ち会って蒐集した、今はなき近代建築のカケラを一堂に展示したもので、




「太陽」1987年11月号、《モダンシティ・ストーリー[東京・大阪・神戸]》特集号に掲載の、野口冨士男と石濱恒夫による「東西モダン談義」と題した対談で、野口冨士男が

去年でしたか、一木努という歯医者さんが、「建築の忘れがたみ」という展覧会をなさったんです。というのは、今、東京でビルをいっぱい壊しているんです。その壊したものの部分を拾ってきてコレクションなさってる方なんです。それらのコレクションを拝見しますと、現在壊しつつある建物は一九二〇年代、三〇年代のものなんで、それらはみんなアールデコなんですね。今、ここでアールデコが終わるんです。アールデコの世紀末なんです。

というふうに発言していたのを思い出してて、まあ! 野口冨士男が1985年に見た一木努コレクションの展覧会を現在見ることができるなんて! と開催を知ったときは大喜びだった。


と、野口冨士男に導かれるようにして、やってきた「建物のカケラ」展は期待以上の充実度で、丁寧に設計された展示会場がたいへん好ましかった。まずは、入口から展示室までの壁面に「一木努物語」と題して、昭和24年生れの一木努氏の人生とともに建物のカケラが紹介されている。1968年に大学受験を機に上京して、大学卒業後の10年間通ったという銭湯のタイルがわが自宅と同じ町内の銭湯なので、びっくりだった。そう今は町内に銭湯はないのだったが、いったいどのあたりにあったのだろうと思いを馳せて、たのしい。というふうに、いろいろと思いを馳せつつ、フムフムと一木氏の歩みとともに展示室に足を踏み入れるというのが、展覧会の絶好の導入となった。


「建物のカケラ」を個別に見ただけではピンとこないかも、という不安がなきしにもあらずだったのが、展示室の空間を目の当たりしたとたん、それはまったくの杞憂だったことが判明。たくさんの建物のカケラが、東京の町ごとに区分けされて展示室の中央に大きく配置してあって、さながら立体版東京地図、ワオ! となんとも壮観なのだった。備え付けの双眼鏡とともに、まずはおなじみの丸ノ内界隈を見物。知っている建物、知らない建物が地図とおなじレイアウトで置かれてある。次は霞ヶ関、赤坂……というふうに、大きくぐるっと「東京」を一周。


その中央の展示空間を取り囲むようにして、いくつかの違った切り口で「建物のカケラ」が展示してあって、どれもこれもが実にすばらしかった。出口の直前、一番最後に見ることになる「建物のカケラ」がまたすばらしかった。見事な幕切れだった。



 


 
『建築の忘れがたみ[一木努コレクション]』INAX BOOKLET Vol.5 No.4(1985年12月4日発行)。こ、こうしてはいられないと、当時、野口冨士男が見物した INAX ギャラリーの図録をさっそく入手してみると、「街と建物・明治以降」と題した野口冨士男と前田愛の対談が収録されていて、大喜びだった。上が表で千代田区六番町の旧伏見宮邸の階段手摺り、下が裏で野村證券江戸橋別館の換気口金具。細部を大写しにするとハッとする美しさ。