年明けの歩行。茗荷谷からお茶の水へ。日本橋で学鐙とローズちゃん。

新年あけまして。


元旦。窓の外は青い青い空。正午外出。年賀状を投函し近所の神社で初詣を済ませて、ほっと一息ついたところで、お休みはまだまだ続く(……ような気がする)ことだし、今日も思う存分歩くとしようと、テクテクと散歩に繰り出す。牛込界隈を通り抜けて、神田川をわたり、ゼエゼエと坂をのぼって、小日向に入る。


このあたりを通りかかるたびに、茗荷谷に住んでいた安藤鶴夫が丸ノ内線の工事のため立ち退きにあったという挿話を思い出して、思い出すたびに茗荷谷の地下鉄の車庫の脇を歩いてみたいと思っていたものだった。ずっと機会を逸していたけれども、今日は時間がたっぷり、小石川方面へ直行せずに、ちょいと迂回して茗荷谷へ行ってみることにする。

 地下鉄とは、読んで字の如し。
 まさしく、地べたの下を通る鉄道である。
 ところが、池袋からお茶の水をつなぐ路線が、小石川の茗荷谷から春日町まで、なんと、路面の上を通ることになった。
 地下鉄の計画によれば、恰度その車庫のあたりに当ることころが、ほかならぬわが安藤家なのである。
 安藤家は六畳に三畳、それに板の間が一寸あって台所という、落語流にいうならば、どうぞどうぞと客を誘うと、そのまま裏口に出ちまうであろうが如き、まことに渋く、簡素な草庵であった。
 雨が降ると、トントン葺きの屋根からは容赦なく滴りが落ちるので、常設で、天井には紐で大小の鍋が吊るしてある。
 大雨の場合にあっては、到底、風流などとは申されぬが、しかし、手頃な雨の場合は、その滴りが鍋に落ちて、それぞれ微妙な音階を奏でた。
 つまり、ポンがあったり、チンなどという音もあるのである。これは主人は天井音楽会、或はお鍋コンサートなどと称して、大いに風流がったものである。……


【安藤鶴夫『名作聞書 落語と講釈』-「御慶」より】

須貝正義著『私説 安藤鶴夫伝』(論創社、1994年5月)によると、安藤鶴夫は昭和23年6月13日に疎開先の桶川から東京都文京区茗荷谷町98に転居。キネマ旬報社の4戸の社宅のうちの1戸で、社長の友田純一郎が新築、当初は安藤鶴夫、利倉幸一、旗一兵と営業部の石綿達夫が住んでいたという(ほどなくして利倉幸一は転居)。地下鉄からの立退き料と住宅公庫の当選とでめでたく新宿区若葉の新居に引っ越したのが、昭和27年11月。創元社版の『落語鑑賞』の刊行とほぼ同時期だった。



そして、東京町歩きの真似ごとをしていると、いつも頭のなかは、野口冨士男の『私のなかの東京』のことでいっぱいになっている(そして、いつも帰宅後まっさきに読み返す)。

 都新聞で私の同僚だった中村地平と、都新聞社を病気のため馘首されて日本橋通三丁目にあったころの河出書房につとめていた時分しばしば私が姿を見かけていた真杉静枝が同棲していたのが、その茗荷谷ハウスである。そのころ、やはりそのアパートにはまだ東大生だった青山光二がいて、彼から聞くところによれば昭和十一年のはずだというから、中村は都新聞にいたころ真杉と恋愛して、退社と同時に同棲生活に入ったのだろう。私が青山を識ったのはその五年ほどあとだから人間関係のアラベスクは複雑だが、真杉はそれまでに武者小路実篤と恋愛関係をもって、中村地平とわかれたあと中山義秀との結婚生活に入っているのだから、多情ながら巨漢ぞろいの点で彼女の男性に対する好みは一貫している。
 が、それはそれとして、私はやはりその時分に茗荷谷ハウスへ誰かを訪問したことがあって、それだからこそそのアパートを知っていたのだが、誰であったかはどうしても思い出せない。記憶や歳月の不思議さを痛感させられる。


【野口冨士男『私のなかの東京』- 「小石川、本郷、上野」より】

丸の内線の車庫を右側に坂を上がってゆくと、野口冨士男が「切支丹坂は、坂下から地下鉄丸ノ内線下のトンネルをくぐりぬけるようになってい」ると記すそのトンネルが右手に見えてくる。それを背に左折、切支丹坂をのぼる。このあたりは初めて歩く道で、どのあたりを歩いているかが段々わからなくなってくる。何度か坂道をのぼりおりするうちに、いつのまにか大通りに出ることばかりを考えている。と、静かな坂道が続いて、地形の変化を満喫したところで、念願の春日通りに出た。



春日通りに出てからは、小石川に向かって、通りを直進。伝通院前で左折し、ここでいつもの散歩コースへと合流する。善光寺坂を下り、春日に出て、本郷界隈へ。いつもの菊坂下から路地に入るコースではなくて、ぐるっと迂回して本郷館の前を通って、秋声旧宅のあたりへと歩いてゆく。秋声旧宅前はいつものとおりの静寂さに包まれているのだった。




本郷通りを直進し、順天堂の間の緩やかな坂道をくだると、神田川がふたたび眼前に現れる。お茶の水に出る。山の上ホテルのコーヒーパーラーで珈琲を飲んで、ひとやすみ。そろそろ夕暮れかなというころに外に出て、ひさしぶりに男坂の急な階段をくだって、嬉しい。白山通りに出る。



2日。今日も窓の外は青い青い空。正午外出。年賀状を投函し地下鉄で日本橋に出る。まずは、丸善へ。目当ては、先月に刊行されたばかりの、紅野敏郎著『「學鐙」を読む ―内田魯庵・幸田文・福原麟太郎ら―』雄松堂出版(asin:4841905162)。


「學鐙」を読む―内田魯庵・幸田文・福原麟太郎ら


忘年会に行きしなふらりと足を踏み入れた新宿の紀伊国屋ですでに現物はチェック済みだった。紅野敏郎が「学鐙」に1989年1月から現在にいたるまで連綿と連載している「『學鐙』を読む」を1冊の本にまとめたもので、もう何年も本になるのを待っていたのだ、というわけで、嬉しい。古本読みの際に「学鐙」とその周囲に親しむ、というのを長年の愉しみにしている身にとっては、迷わず買う本なのだった。


「学鐙」とはどんな雑誌かと尋ねられるたびに、わたしはただ一言、「福原麟太郎がいかにも似つかわしい雑誌」と答えていたものだった(……実際に尋ねられたことはないので、自分内対話だけど)。今回刊行のこの本は、1998年3月までの連載が収められているので、図書館でコピーを入手済みの「野口冨士男と戸川エマ」(第121回・1999年3月)とか「戸板康二」(第162回)といった記事は次回の刊行を待たねばならぬのだけれど、極私的に長年にわたっての関心人物でありながらもいまいち実態をつかみきれていない水木京太(「学鐙」の二代目編集長)や、古本読みにおいてもっとも愛読している著者であるばかりでなく、生涯にわたって愛読するのは確実の福原麟太郎のまとまった記述があるだけでもジーンと感激。それから、「学鐙」の隠れた常連執筆者のひとりが網野菊。……などと、年末の紀伊国屋で立ち読みしてジーンと感激していた『「学鐙」を読む』であったが、忘年会への行きしなであったので荷物になるからその日は見送り、そして、ぜひともこの本は日本橋の丸善で買おうとメラメラと思ったのだった。


というような次第で、計画どおり、年明けの日本橋丸善にて、紅野敏郎『「學鐙」を読む』を購入して、丸善のカバーをかけてもらう。紺色の包装紙を選んでしまったけれども、あとになって地図のデザインのおなじみの包装紙にすべきだったかなとちょっと後悔。『彼岸花』で佐分利信が有馬稲子の結婚式の前日に買ったネクタイの包装紙とおなじ紙!


そんなこんなで、ズシリと重たい荷物が嬉しい。機嫌よくエスカレーターをくだって1階の出口に向かうその途中、デーンと積んであった高島屋の「ローズちゃん」の記念本、『ローズちゃんブック』と題された本に目が釘付けになる。



『ローズちゃんブック』(株式会社高島屋、2008年12月1日発行)。「ローズちゃん」50周年の記念で刊行されたもので、ローズちゃんの製造元、ノバ・マネキン(http://www.novagroup.co.jp/m.top1.html)特製のミニローズちゃんがおまけについて、税込3990円。わたしは昔からローズちゃんが大好きであった。その誕生に前々から興味津々だった高岡徳太郎が関わっていると遅ればせながら去年になって初めて高島屋史料館(http://www.takashimaya.co.jp/corp/info/library/index.html)で知って、ますますローズちゃんに愛着を持つようになったものだった。というような次第で、ガバッと『ローズちゃんブック』を手にとり、ふらふらっとレジに直行するのだった。衝動買いおそるべし……。




ノバ・マネキン創立三十五周年記念『高岡徳太郎「平地の大木」』(株式会社ノバ・マネキン、平成元年12月)。高岡徳太郎は昭和29年に実業の世界にも身を投じ、マネキン制作会社を設立、その35周年の記念本。高岡徳太郎の名前を初めて知ったのは、獅子文六の『達磨町七番地』(白水社、昭和12年)の装釘者として。ずっとお気に入りだったけれども、獅子文六の本はあらかた古本屋に売ってしまって、今は手元にない。『達磨町七番地』だけでも手元に置いておくべきであった(id:foujita:20050304)。……とそれはさておき、そこはかとなく気になりつつもこれまで深くは追求していなかった高岡徳太郎の生涯については、この本に詳しい。最近存在を知った本で、こんな本があったとは、と大喜びであった。

高岡さんは堺出身なので学校は違うと思うが大阪の天王寺中学出身のグループに作家の宇野浩二、新国劇の辰巳柳太郎、絵描きの寺内万次郎、鍋井克之、大久保作次郎、耳野卯三郎氏がおり高岡さんの関係でその方々の知遇を得、さらに宇野さんとの関係で広津和郎氏とも知り合うようになった。当時文壇を沸かせた芥川龍之介氏もお仲間であり、その挿絵を描かせていただいたこともあったがそれもこれもみな高岡さんのお蔭であった。
 高岡さんはまた日活京都撮影所の人達をよく知っていて、後に東京に出てきた、日活多摩川撮影所で小杉勇、内田吐夢、田坂具隆氏などを紹介してもらった。(中略)
 その頃九段上にあった“三楽”で、後には築地の“米村”で、鍋井さん、宇野さん、高岡さん、それに京都出身の向井潤吉さんも加わり、私たちは日活多摩川の内田、田坂、小杉さん、それに築地の小劇場の舞台装置の吉田謙吉さんなどとワイワイ、ガヤガヤ飲んだり食ったりしていた事など青春の懐かしい思い出である。

というふうに、鈴木信太郎はこの本に「高岡徳太郎さんとの出会い」と題して文章を寄せている(病床での執筆で絶筆とのこと)。ノバ・マネキンのこの本は、鈴木信太郎が懐かしそうに回想するそんな時代のことも、豊富な図版とともに十分に伝えてくれている。と、そんな時代の高岡徳太郎をこれからも追ってみたい気がする。




《関西のグラフィックデザイン展 1920〜1940年代》図録(西宮市大谷記念美術館、2008年)より、高岡徳太郎「大観艦式記念 国防大展覧会 ポスター」(昭和5年)。高岡徳太郎は本郷洋画研究所で絵の修業に励むも関東大震災を機に、堺に帰郷。しばらく故郷にとどまるつもりで大正12年より大阪高島屋の宣伝部に入り、昭和6年まで在籍していた。21歳から29歳までの高岡徳太郎の大阪高島屋時代。




同じく、《関西のグラフィックデザイン展 1920〜1940年代》図録より、今竹七郎「第53回秋の百選会ポスター」(昭和7年)。昭和2年に神戸大丸(中山岩太!)に入った今竹七郎は、昭和5年に大阪高島屋に転じる。高岡徳太郎と入れ替わるようにして高島屋で活躍する今竹七郎のポスターは、高岡徳太郎のあとに見てみると、斬新さが際立つ感じ。帯のあたりが素敵。



丸善を出て、松屋の古本市に出かけるべく、銀座に向かって直進。青い青い空のした、気分爽快。明治屋の後ろが普請中のため空地になっているので、向こうにある明治製菓の本社ビルの建物が明治屋のすぐ後ろに見えて、実にいい眺めなのだった。今年もしょうこりもなくいつまでも戦前の明治製菓の宣伝部とその周囲を追うのだ! と新年の誓いをたてるのだった。



昭和8年の明治屋の建物の背後に、同じく昭和8年の建物だったビルが取り壊されて2002年に新装なった明治製菓の建物。ちょいとひと休みするべく、京橋交差点近くのドトールで珈琲を飲む。明治屋と明治製菓のビルの眺めに感激のあまり、まわるアサヒペンを見上げるのを忘れていたことに気づく。買ったばかりのローズちゃんの本を眺めて、なにも買うほどのものではなかったような気がヒシヒシとしてきて、新年早々衝動買いを反省して、冷めたコーヒーをスルスルとすすって、うなだれる。


その反省が尾をひき、松屋の古本市では買い物意欲が大いにそがれてしまい、残念なことであった。今日は早々に地下鉄で帰宅。部屋で、蜂蜜花梨のお湯割りをのみながら、『「學鐙」を読む』を繰って、日が暮れた。