阿佐ヶ谷で『縮図』。東武野田線で遊覧。醤油の広告。年の瀬の浅草。

冬休み3日目。


順調に早起きをして、まずは阿佐ヶ谷へ。行きしな通りがかりの郵便局で今年最後の古本代(昭和8年の「アサヒカメラ」等)の支払いを無事終えて、すっきりしたあとで、ラピュタ阿佐ヶ谷のモーニングショー《昭和の銀幕に輝くヒロイン乙羽信子》にて、新藤兼人『縮図』(昭和28年4月封切・新東宝)を見る。つい先日、秋声の『縮図』を読み返していたら、後半に「製菓会社の社長永瀬」というのが、

この製菓会社も、明治時代から京浜間の工場地帯に洋風製菓の工場をもち、大量生産と広範囲の販路を開拓し、製菓界に重きを成していたもので、社長の永瀬は五十に近い人柄の紳士だったが、悪辣な株屋のE――某とか、関東牛肉屋のK――某ほどではなくても、到る処のこの世界に顔が利き、夫人が永らく肺患で、茅ヶ崎の別荘にぶらぶらしているせいもあろうが、文字通り八方に妾宅をおき、商売をもたせて自活の道をあけてやっていた。……

というような文脈でいきなり登場し、いきなり大興奮だった。明治製菓をはじめとする日本近代の製菓会社ないしお菓子あれこれを追う身(←わたしのこと)にとっては捨て置かれぬ、前回読んだときにはまったく記憶に残っていなかったのは不覚だった。


で、ふと思い出したのが、乙羽信子主演の映画版『縮図』のこと。これまでたびたび上映の機会があったというのに特に気にとめたこともなかったのだけれども、プレスシートを参照すると、製菓会社社長の「永瀬」も映画にしっかり登場していて、清水将夫が演じているという。こ、こうしてはいられない、今後『縮図』がどこかの映画館で上映される際には、ぜひとも「製菓会社の社長永瀬」だけを目当てに見物にいかねば、とメラメラととりあえず決意してみたら、なんとタイミングのよいことに、ラピュタ阿佐ヶ谷のモーニングショーで上映があるというので、日程を手帳に大きくメモ、冬休み中の上映なので、見逃すこともなさそうだとほくそ笑んでいた次第だった。と、予定通り無事に『縮図』を視聴できて、よかった。実際に見てみると、プレスシートと配役は異なり、「製菓会社の社長永瀬」は清水将夫ではなくて、柳永二郎だった(清水将夫は医者役だった)。製菓会社社長の登場はワンシーンだけだったけれども見てみるものだと思った。小説では森永製菓っぽい言及だけれども、映画では「川崎に大きな工場」というセリフがあり、明治製菓を髣髴させるような感じ。


無事に懸案の『縮図』を見ることができて、気分は爽快。映画館の外に出てみると、一面の青い空で、この季節ならではのツンとした冷気が頬に気持ちよくて、さらに気分は爽快。ひさしぶりに長いアーケードを歩いて、ドトールで一服したところで、時刻はちょうど午後1時。阿佐ヶ谷から中央線にのって、新宿で山手線に乗り換える。日暮里で今度は常磐線に乗り換えて、柏で下車。


阿佐ヶ谷での『縮図』視聴と並ぶ、冬休みのお出かけ計画に「東武野田線に乗る」というのがあった。ここ数ヶ月、ずっと東武野田線に乗りたかったのだけれども、なんやかやで機会を逸していた。この瞬間を待ち望んでいたのだと、わーいわーいと東武野田線のホームへ駆けてゆき、わーいわーいと停車中の大宮行きの東武野田線に乗り込むのだった。わざわざ持参した、『日本鉄道旅行地図帳 3号 関東1』(新潮社)を参照して、とにかくもう胸が躍って仕方がない。これほどまでに、電車に乗るという、ただそれだけのことに興奮するのは、関西旅行のとき(阪急、阪神、京阪)以来。



これまで存在すらほとんど認識していなかった「東武野田線」に急に興味津々になったのは、ある日のキントト文庫で衝動買いした小冊子(2000円)がきっかけだった。




正確な年代は未詳だけれど戦前の発行と思われる「キッコーマン」の小冊子。


ページを開くと、「キッコーマン醤油とマンジョウ味醂」と題されている、「宮内省御用達 野田醤油株式会社」発行の小冊子で、内容はタイトル通りに、「キッコーマン醤油」と「マンジョウ味醂」の原料や製造方法について解説しているもので、おそらく工場見学者へ配布していたものと思われる。



工場見学者への配布を目的とした小冊子としては、



『お菓子の出来るまで』(森永製菓株式会社、昭和11年8月5日発行、非売品)。全32ページでサイズはハガキより一回り大きいくらい。編集発行兼印刷人として、池田信一(=池田文痴菴)の名前がクレジットされている。『森永五十五年史』(昭和29年12月20日発行)を参照すると、「工場参観者のための案内書(昭和3年〜12年)」として『お菓子の出来るまで』の書影は全部で4種類掲載されていて、表紙デザインがどれもこれもなかなか洒落ている。内容は、お菓子の製造方法に加えて、会社の沿革や全国のキャンデーストアの店舗が紹介されていたりと、コンパクトな会社案内という趣き。



こちらは明治製菓株式会社発行の『明治の菓子の出来るまで』。発行年月の記載はなく、キャラメルが20円(大)と10円(小)で、カルミンが10円(大)と5円(小)だった頃の発行、としかわからない(昭和30年代前半)。お菓子の製造方法をきわめて簡略的に紹介するもので、吹けば飛んでしまうようなペラペラの小冊子。


……の以上2種類をこれまで架蔵していたのだけれども(戦前の明治製菓も欲しい!)、ある日のキントト文庫でうっかり買ってしまった「キッコーマン」の小冊子は、これまで架蔵していた「工場参観者のための案内書」のなかでもグンを抜く素晴らしさだった(って、上掲の2種類しか見ていないけど)。




ページを開くとさっそく、田中比左良による《野田情調》と題された画が掲載されていて、田中比左良が登場するあたり、いかにもモダン都市時代の文献という感じで、にっこり。


しかしイラストはこの1枚のみで、「キッコーマン」の小冊子は以下、風景写真が全24ページの見開きに1枚ずつ、すなわち全12枚掲載されていて、そのどれもこれもいかにも1930年代のカメラブームを象徴するかのような雰囲気の写真で、まさに同時代の写真雑誌を眺めているよう。冊子の冒頭に、《収録した写真の大部分は総武鉄道株式会社及び総武探勝会で懸賞募集せられたものであります》というふうに書いてある。たとえば、目次の隣りに最初に目にする写真は、



《工場 第十工場の遠望》と題されているもので、この構図がいかにも「やってる、やってる」という感じで、実にほほえましい。




こちらは、《昼休み》と題された写真。《昼食の後を壁にもたれて一休み(原料倉庫風景)》というふうに説明が添えられている。


掲載されている写真は、醤油工場を写したものに加えて、「総武鉄道株式会社及び総武探勝会で懸賞募集」されたものだけあって、沿線風景をとらえた写真も何枚か見ることができる。「野田町郊外の清水公園」に「総武鉄道の江戸川鉄橋」に「利根川と江戸川とを結ぶ二里の運河」……。ここに写る総武鉄道は現在は「東武野田線」として運行されているという。詳しい来歴については、とりあえず Wikipedia をフムフムと参照して、「キッコーマン」の小冊子を見ているうちに、思いは現在の東武野田線へと及ぶのだった。

日本の国土と歴史や産業、人々の生活に対する関心と知識があれば、車窓のたのしみは無限にひろがっていくにちがいない。

という宮脇俊三の言葉(『鉄道旅行のたのしみ』)を思い出して、「キッコーマン」の戦前の小冊子片手にジーンと東武野田線を思っているうちに、実際に乗ってみよう! とメラメラと決意し、今日に至っていた次第だった。



柏から東武野田線に乗り込んで、まずは野田市へと向かう。これまで高速の常磐線にビュンビュンと運ばれてきた直後に乗ってみると、東武野田線ののんびりムードにたいそう和んでしまって、さっそく頬が緩んで、とにかくもう嬉しくって仕方がない。わざわざ持参したので参照せねばと、『日本鉄道旅行地図帳 3号 関東1』(新潮社)を開きながら、車窓を眺める。「流山おおたかの森駅」は3年前に出来たばかりなんですって、などと思いながら、路線図を眺めていると、程なくして「運河」という名の駅を通りかかることを知る。「キッコーマン」の冊子にあったように、江戸川と利根川とを結ぶ利根運河のほぼ中心部分に位置する駅ということが、『日本鉄道旅行地図帳』を参照すると手にとるようによくわかって、たのしさ倍増。まずは、「運河駅」を通過する瞬間が待ち遠しい! と思わず立ち上がってしまうのだった。




「運河駅」を発車した直後に、電車は利根運河を渡る。見るからにのどかな風景に、「ああ、いいなあ」と和むことこの上ない。




「キッコーマン」の戦前の小冊子に掲載の、《運河の秋》と題された写真。《悠久な武蔵野の空を写して水はいつも静かに澄んでいる・利根川と江戸川とを結ぶ二里の運河・春は両岸花に埋れる》というふうに書いてある。



そして、この運河駅を通過すると、あらびっくり、線路はいつのまにか単線になっている。単線の電車に乗る、というのはそれだけで非日常、さらにハイになったところで、電車は「野田市駅」に到着。現在の醤油工場附近を視察するべく、張り切って下車したとたんに、眼前には煙突がそびえたっていて、改札を出ると、目の前にさっそく醤油工場、タンクには大きく「萬」の文字。



工場風景。煙突と青い空。



戦前の「キッコーマン」の小冊子に掲載の煙突。



駅前は閑散としていて、冬休み中の工場のまわりはシンと静まりかえっている。醤油工場の敷地に沿った長い壁沿いを歩いていると、古本屋で入手した戦前の「キッコーマン」の小冊子の気分そのまんまの古風な風景が続くのだった。近代建築見物ということで、「興風会館」を目指して、テクテクと歩く。




目当ての「興風会館」に無事たどり着いた。隣りには、キッコーマン株式会社の本社。




「パピリオドオル化粧品」の文字が似合いすぎの木造建物。古色蒼然とした建物はあちこちで見ることができて、あちらこちらで「おっ」と立ちどまる。



キッコーマン株式会社の本社敷地をぐるっと迂回するように、通りを右折すると、古い蔵や煉瓦塀などなど、眼の歓びはいつまでも続く。「近代化産業遺産」というプレートを何回か眼にすることになるのだけれど、町全体がまさしく「近代化産業遺産」という感じで、野田市駅を下車してのしばしの散歩がこれほどまでに楽しいとは、実は思ってもいなかった。なんてすばらしかったことだろう!



ふたたび、大宮行きの東武野田線に乗り込んで、ふたたび『日本鉄道旅行地図帳 3号 関東1』を開いて、「川間駅」と「南桜井駅」の間の江戸川を渡る瞬間が待ち遠しい! と大はしゃぎ。と、その前に、戦前の「キッコーマン」の冊子に掲載の清水公園を通過。電車に乗りながら実際の地形を参照できる『日本鉄道旅行地図帳』は実に便利なのだった。




戦前の「キッコーマン」の小冊子より、《穂芒》と題された写真。《野田は亦水郷としても地方色に富んでいる(総武鉄道の江戸川鉄橋)》とある。




電車が江戸川鉄橋を渡る瞬間を撮影。鉄橋は上掲の戦前の「キッコーマン」の小冊子とまったく変わっていない(と思われる)。



ここを通過したら、春日部はすぐそこ。もう夕暮れなのだった。東武伊勢崎線に乗り換えるべく、春日部で下車。




野田市駅で撮影の東武野田線の車両(6両編成)。「8000系」というらしい。Wikipedia によると「私鉄の103系」と呼ばれているという。うーむ、なるほど。以前、鶴見線に乗りに行ったときに車庫で見かけた「103系」の車両を思い出すのだった。




キントト文庫でうっかり買ってしまった、戦前の「キッコーマン」の小冊子に導かれるようにして、わざわざ乗りに出かけた東武野田線は思っていた以上にたのしいものだった。とりわけ、野田市の醤油工場近辺の「近代化産業遺産」のありようは実にすばらしいものだった。


戦前の「キッコーマン」の「工場参観者のための案内書」の洒落たつくりを目の当たりにしたあとで、気をつけてみると、戦前の雑誌閲覧の折に散見する「キッコーマン」の広告は実にセンスがよくて、たとえば、このところたいへんご執心の昭和10年代の「婦人画報」でも毎号のように「キッコーマン」の広告が載っていて、なかなか見事だったりした(ここで画像紹介したかった……)。


醤油の広告というと、『聞き書きデザイン史』六耀社(asin:4897374162)に掲載の、戦前戦後に「ヒゲタ醤油」の広告に携わっていた川崎民昌の聞き書きが実に面白かったことを思い出す。川崎民昌は昭和10年に営業部員としてヒゲタ醤油に入社、昭和13年より広告業務を併務することになる。

関東には野田のキッコーマン、銚子のヤマサ、ヒゲタの三大醤油メーカーがありますが、ともに日本橋小網町に事務所があって、ヒゲタの隣はキッコーマンでした。キッコーマンの業量はヒゲタの八倍、広告宣伝の費用は十倍以上でした。ヒゲタでは、不況が進んだことから外注を続けられなくなり、またレディメードでは力強い個性のある広告をつくれないとの判断から、社内で広告宣伝の原稿を制作することになりました。

というふうに、当時が回想されている。川崎民昌は慶應予科時代からの友人の森永製菓の黒須田伸次郎に広告の技法を教えてもらったとのことで、ここでも製菓会社の宣伝部が話しに絡んでくるのが嬉しい。




図録『杉浦非水展 都市生活のデザイナー』(東京国立近代美術館、2000年5月30日-7月29日)より、非水によるヤマサ醤油のポスター(1920年代)。以前は、醤油の広告というと、まっさきに杉浦非水を思い出していたものだったけれども、




図録『暮らしを彩ったグラフィックデザイナーの60年 大橋正展』(松戸市教育委員会、2002年8月31日発行)より、大橋正によるキッコーマンのポスター(1952年頃)。たいへんお気に入りのこの図録を入手して以来、醤油の広告というと、ほぼ同時代に明治製菓の広告も手がけていた大橋正をまっさきに思い出す。昭和24年、元森永製菓で当時は電通にいた新井静一郎より依頼されて、野田醤油に携わるようになった大橋正は「野田キッコちゃん」なるキャラクターをつくる。キャー、プリティ! 昭和26年の光文社の「少女」誌上に掲載されているという「キッコーマン醤油」の漫画形式の広告、「キッコとマン太郎」を見たいと、手帳にメモ。



春日部で東武野田線を下車して、浅草行きの東武伊勢崎線に乗り換えて、終点の浅草へ向かう。特急、ではなくて区間快速(普通乗車券でボックス席!)、春日部の次は北千住、あっという間に終点の浅草に到着。車内は行楽帰りの人たちで賑わっていた。いつの間にか日は暮れていて、車窓は真っ暗。小菅の東京拘置所を通り過ぎる瞬間、その独特な照明がいつも目にたのしい。隅田川の鉄橋をわたって、松屋の建物のなかの浅草駅に東武電車が滑り込む瞬間はいつだって格別だ。敗戦後、しばし越谷に疎開していた野口冨士男もこの風景を見ていたのかなと思う。

 いうまでもなく、『浮沈』にいくつか出て来る駅のなかで、最も重要なのは「浅草花川戸」の東武電車の駅である。この駅こそはさだ子の故郷、「栃木県××町」と東京をつなぐ接点であり、さだ子のアイデンティティが、そこから都会の空間に拡散しはじめる起点でもある。
 そして、それが駅である以上松屋百貨店の建物のなかにあるこの駅は、出逢いの場所でもあり偶然の発生しやすい場所だということにもなる。

【江藤淳『荷風散策――紅茶のあとさき』(新潮社・1996年3月→新潮文庫・1999年7月) - 「浅草と上野の駅」より】

というような、昭和10年代の浅草の荷風を思い出し、堀切直人著『浅草』栞文庫(asin:4990170326))を急に読み返したくなったところで、浅草に到着。


浅草の地に降り立ったとたん、「東京に来たなア!」というような心境になって、急にハイ。浅草に来ると、それだけでいつも気持ちがふわふわ。




イメージ画像として、木村荘八による浅草。『生誕100年 木村荘八展 大正モダンと回想的風俗』(練馬区立美術館、1993年4月29日)より《浅草風景》(年代不明)。



今日はたくさん電車に乗ったなアと、今度は急に歩行気分が盛り上がり、田原町に向かってズンズン歩き、稲荷町、上野広小路を経て、湯島で今年最後の忘年会。湯島天神の男坂、女坂をのぼりおりしたあと、聖橋に至り、ここまで来たら歩いて帰ろうと、テクテクと夜道をゆくのだった。