徳田秋声の『心の勝利』を読んで、「1930年代東京」をおもう。

先月初め、昭和十年代の徳田秋声の著書が2冊、浅見淵『現代作家卅人論』(竹村書房、昭和15年10月20日)と一緒に届いて、なんて見事な並び! と悦に入ることしばしだった(浅見淵の秋声論がまた嬉しくなってしまう文章だった)。届いた秋声本は、以前からの念願だった『勲章』(中央公論社、昭和11年3月28日)とそのついでに申し込んだ『心の勝利』(砂子屋書房、昭和15年3月5日)の2冊。で、届いてまっさきに読んだのは、実は『心の勝利』の方なのだった。




徳田秋聲『心の勝利』(砂子屋書房、昭和15年3月5日)。『徳田秋聲全集 第41巻』(八木書店、2003年5月18日)巻末の紅野謙介さんの解題によると、『心の勝利』は、昭和13年9月1日から昭和14年2月5日まで「河北新報」朝刊に全154回にわたって連載。毎回吉田貫三郎の挿絵がついていたとのことで、この砂子屋書房の単行本でも、画像の函のみならず、本文のところどころに吉田貫三郎の挿絵が挿入されている。


徳田秋声の「通俗小説」は初めてということもあって、『心の勝利』を手にとってパラパラと繰り、吉田貫三郎の挿絵をちらっと垣間見ただけで、1930年代東京を舞台にした秋声の「通俗小説」! ととたんに心が躍ってしょうがなかった。日頃の古本読みのたのしみのひとつに、戦前昭和のいわゆる風俗小説を読んで、その舞台装置の「1930年代東京」に勝手な思い込みとともに胸躍らす、というのがあって、いまだ倦むことがないのだった。



で、秋声の『心の勝利』、ひとたび読みだすと、さっそくヒロインの叔母が渋谷道玄坂に喫茶店を経営していたりなんかして、その舞台装置の「1930年代東京」にしょっぱなからウキウキだった。次の章の冒頭は、妹と一緒に《日比谷映画劇場にケイ・ジョンソン主演の「雁」を見た》というくだりではじまる。まあ、三信ビル向かいのドーム天井の日比谷映画劇場……と、頭のなかは一気に、『建築の東京』なのだった。


その日比谷映画劇場で偶然くだんの叔母に会い(いかにも「通俗小説」らしく、このあともくどいくらいに「偶然」が頻出して次第に辟易することとなる)、映画館の外に出ると、

盧溝橋事件に口火を切った北支事変も、やがて一月になったが、銀座あたりの空気には何の変りもなく、今日は特に二三日降りつづいたあとの天気なので、軽装した若い男女の姿が、強烈なネオンの光を浴びて柳のそよぐ歩道に溢れ、何処に戦争があるかという風だった。しかし日の丸の旗を手々に振りながら、出征兵士を送る人達のぎっしり詰ったトラックは、その晩も湧きあがる万歳の嵐のなかを通り過ぎ、緊張の色が人々の顔にあった。立ち止って千人針の針を動かしている女の群も所々に見えた。

という一節があって、こういう実感的な描写が「通俗小説」の醍醐味。頭のなかは一気に、先ほどの『建築の東京』から、福田勝治の写真集、『銀座』の諸々の写真のことでいっぱいになる。読み進めるにつれて、戦前松竹の女性映画そのまんまの「むちゃくちゃでござりまするがな」的な波乱万丈な展開に脱力しつつも、小説全体がかもしだす雰囲気はー貫して「福田勝治の『銀座』」的トーンに彩られていて、秋声の活字を追いながら、小説と同時代の東京、日頃接している古本、映画、美術なりで愛着たっぷりの「1930年代東京」にひたるという点では、なかなかよかった。固有名詞たっぷりなのがありがたかった。戦時下体制とモダン都市東京。




福田勝治『銀座』(玄光社、昭和16年7月5日)より。《一頃銀座の辻々に千人針を請う娘さんが随分出た。恐らくこの娘さんの兄や恋人が戦っているのだろう。華やかな銀座に立っているのだが、戦場の景色を考えているに違いない。》という写真家の言葉は、そのまま『心の勝利』の背景となっている。海野弘先生言うところの「1930年代文化」そのものはもちろん、それが段々戦時体制に組み込まれてゆく過程に興味津々なのだった。



そして、『心の勝利』を読んで一番うれしかったのは、野口冨士男のたとえば以下のような文章をイキイキと実感できたこと。

 秋聲は令息一穂氏の影響を受けて『仮装人物』を書いた、『仮装人物』にみられるモダアニティは一穂氏の影響によるものだといったら、一穂氏が秋聲に影響されることはあっても、秋聲が一穂氏に影響を与えられることなどあるものかと、多くの人は嗤って私の推測を取合わないだろう。が、浄瑠璃や歌舞伎劇が好きだった秋聲は、一穂氏よりずっと知的水準の低かった順子氏の影響すら受けて映画好きになっている。ダンスは一穂氏の影響ではなかったかもしれないが、音楽好きな一穂氏の嗜好によって、大正十五年から昭和二年にかけて、徳田家には洋楽のレコードが入った。レコード・コンサートなどにしばしば歩をはこんだり、いわゆる銀ブラをしていた当時の秋聲の行動には明らかに一穂氏の影響がみられる。趣味そのものが変ったのに、文学作品が微動もしなかったということは、ほとんどまず考えられない。


【野口冨士男「『仮装人物』と『縮図』」(初出:「学鐙」昭和45年3月)→『徳田秋聲ノート』(中央大学出版部、昭和47年6月24日)所収】

小説全体はいかにも「通俗小説」の陳腐さにみなぎりつつも、1930年代東京を闊歩する秋声の見聞、すなわち、まれにみる仲よし親子だった徳田一穂と連れ立って「いわゆる銀ブラをしていた当時の秋聲」の見聞が、『心の勝利』のあちらこちらに反映されている様子で、ディテール描写にウキウキという都会風俗小説の醍醐味という点では実によかった。秋声は惜しげもなく「1930年代東京」の固有名詞を自身の小説に取り入れていて、「1930年代東京」の都市風俗観察者(←わたしのこと)にとっては、絶好の資料を提供してくれているのだった。「現実密着の深度」というのは野口冨士男著『徳田秋聲ノート』のサブタイトルだけれども、秋声の「通俗小説」でも細部の描写あれこれがまさしく「当時の秋聲の行動」の現実に密着しているような感じなのだった。


たとえば、秋声の映画好きは、しょっぱなに日比谷映画劇場が登場したところですでに、映画の具体的な感想を地の文に織り込んでいるところに反映されていて、にんまりだった。中盤の、ヒロインたちが帝劇へ出かけるくだりは、

 帝劇はちょうど此の劇場で編成されたダンシング・チイムによるレビュー開演中であり、少女歌劇を卒業した二人に取っては、映画の余興として以上に楽しむことが出来、それが済むと、政府宣伝の出産と育児の映画があり、亮子は多数の子供が洗ったり目方をかけたり、混雑を究めている産院の光景を見て、自分達の誕生について、思いがけなく暗示を得たように感じ、呆然として夢のさめたような心地がしている時に「モスコーの夜は更けて」の映写が初まりホテル生活をしている一人の妖婦と、コックと清純な女中の恋愛三重奏から、女に翻弄された男の復讐的殺人となり、容疑者としてのコックの脱獄となり、道楽の果のコックが女中の恋に引かされて行く筋の運びと共に、革命以前の大都会モスコーの暗黒面が銀幕を塗り潰しており、グロテスクな場面に、亮子も一枝も刺戟されたが、ドイツ映画という事も忘れて見ていた。……

というふうに描写されている。ヒロインの令嬢「亮子」と薄幸な「一枝」が産院で取り違えられ実の親と育ての親とがそれぞれ入れ替わっているという数奇な運命があとで発覚し、それはそれは脱力感たっぷりなのだけれども(ああ、通俗小説)、そんなストーリーはさておいて、銀座、喫茶店、レストランに映画館と、秋声が長男の徳田一穂に連れられて闊歩していた1930年代の都市風景のディテールが『心の勝利』に散りばめられているを目の当たりにすることで、上記の野口冨士男の文章にあるように、『仮装人物』と『縮図』に思いが及んでくるのが一番の収穫だった。それにしても、1930年代の秋声のモダンぶりといったら! 野口冨士男が秋声に知遇を得たのはまさにそのまっただなかのことなのだなあと、あらためてしみじみ感じ入るものがあった。



「映画之友」昭和14年5月号より。戦前の「映画之友」のおたのみのひとつが、文士を訪ねて映画についての雑感を伺うという趣旨の「フォトインタビュー」。昭和14年5月号に、「気まぐれな映画観客」と題して秋声登場。開口一番、《映画はよく見ますよ》と語る秋声。外国映画の方が好きで、《日比谷へ出ると、どうしても外国映画をみてしまう》とのことで、『心の勝利』に登場の日比谷映画劇場へもよく出かけたことであろう。続いて、《評判の日本映画を見ようと思って、浅草へ出掛けることもある。でもつい、外国映画を見てしまう。大勝館にはいったりして》と語っている。『心の勝利』の素材として使われていた『モスコーの夜は更けて』が面白かった映画として挙がっている。《映画は、発声映画になってから、面白くなった。口をきかない頃は、不自然で見ていられなかったが…》というくだりにも注目だった。




「映画之友」昭和13年8月号の裏表紙の森永製菓の広告。



その昭和13年8月号の「フォトインタビュー」には永井荷風登場! 冒頭は《なにもわざわざ私なんかを引き出して映画を語らせなくてもいいでしょう》というにべもない対応だけれども、記者が小さくなって何も質問しないでいると、自分の方から少なからず話してくれる結構な親切な荷風。秋声とおなじく、浅草の大勝館によく行くとのこと。『葛飾情話』上演中のオペラ館文芸部にて撮影の写真を見て、同時代の高見順をおもう(翌昭和14年より『如何なる星の下に』連載開始)。『断腸亭日乗』を参照すると、オペラ館文芸部に日参する荷風は踊子たちとやたらと森永キャンデーストアで食事をしている。




「映画之友」昭和14年11月号には内田百間が登場していて、日本郵船ビルの六四三号室で取材、グラビアは「夢獅山房」における孫の手を手にする内田百間のおなじみの写真が使われていて「おっ」だった。《否、覧ません。音がする様になってから殆んど覧ません。未だ映画が無声だった頃は、毎週観に行った程でしたが…》というふうに、「近頃映画を御覧ですか」との問いに秋声と逆のことを、不機嫌に語っているのがたいへん興味深いのだった。

一番最近に観たのは当会社の郵船の秩父丸、今は鎌倉丸と名を変えたが、それで神戸迄往復した時の船中で、ニュース映画と一緒に天然色の映画を一本映ったが、見ている最中に波が解らないというだけで――、船酔不感にでも役立てば、天然色映画以て瞑すべしと、映画愛好の念では他に譲らぬ筆者も諦めた。

という一節ににっこり(記者は伴宗江)。『菊の雨』(新潮社、昭和14年10月26日)所収の「鎌倉丸周遊」(初出:「改造」昭和14年9月号)に、《食後に社交室で天然色のトーキー映画あると云うので上がって見たら、人いきれで暑苦しいから甲板に出た。》という一節がある。




徳田秋声『心の勝利』における、「1930年代東京」あれこれ。




『心の勝利』(砂子屋書房、昭和15年3月5日)の89ページに掲載の、吉田貫三郎による挿絵。《近頃新しく装うた此のフルーツ・パーラー》であるところの、銀座の千疋屋2階。




福田勝治『銀座』(玄光社、昭和16年7月5日)より、千疋屋1階の果物売場。写真家は《路ばたにある温室へ入った。そこはもう一杯の花と香気で充ちていた。温かいよい香りは羽のように体を包んだ。しんとした温室のなかには小鳥さえ啼いていた》と記す。




『夢の町 桑原甲子雄東京写真集』(晶文社、1977年8月発行)より、「銀座・トリコロール 昭和10年(1935)」。ヒロインと婚約者がお茶を飲む。桑原甲子雄は《この喫茶店は今でも続いているが、当時はもっと洒落た構えだった。フランス映画「禁男の家」の広告がガラスに描かれている》と書いている。




銀座文化研究別冊『震災復興〈大銀座〉の街並みから』(銀座文化史学会、1995年12月)より、昭和9年11月撮影のマツダビル8階のレストラン「東京ニューグランド」。古川緑波の日記でおなじみのニューグラントにはかねてよりこの写真集でうっとりしていたものだったので、ヒロインが「マツダ・ランプのビルディング」の食堂でお見合いをするくだりには大興奮だった。控え室や食堂の内装など、秋声の描写はとっても具体的で、写真を参照しながら読むのがたのしい。その『震災復興〈大銀座〉の街並みから』には《横浜の本店ホテルニューグランドとは対照的に、アール・デコ風の内装になっている。天井を高く取り、周囲に中2階のバルコニーをめぐらせているのは出雲町の資生堂パーラーと共通する感覚である》とある。




というわけで、ついでに、福田勝治『銀座』(玄光社、昭和16年7月5日)より資生堂。写真家の言葉は、《資生堂はしっとりしている。午後の日は静かに当って客はその中でお茶をのんでいる。春のさざなみのように低く優しく、そうして花のような匂いもして。》。





この写真は、「アサヒカメラ」昭和12年新年号別冊附録の「アサヒカメラ フォト・カレンダー 1937」より、濱谷雅夫《雪の日》。銀座3丁目の明治製菓銀座売店がチラリと写っている! と狂喜乱舞した写真。市電の向こう側に写っているという構図がすばらしい。戦前の明治製菓宣伝部探索者(←わたしのこと)にとっては、秋声の『心の勝利』に「明治製菓売店」が登場するとしたらどんなに嬉しいだろう! と思うのだけれども、残念ながら登場ならず。しかし、『縮図』をひさしぶりに読み返していたら、主人公の芸者銀子を時々呼ぶ人物として「製菓会社の社長永瀬」というのが登場していて大興奮だった。

 この製菓会社も、明治時代から京浜間の工場地帯に洋風製菓の工場をもち、大量生産と広範囲の販路を開拓し、製菓界に重きを成していたもので、社長の永瀬は五十に近い人柄の紳士だったが、悪辣な株屋のE――某とか、関東牛肉屋のK――某ほどではなくても、到る処のこの世界に顔が利き、夫人が永らく肺患で、茅ヶ崎の別荘にぶらぶらしているせいもあろうが、文字通り八方に妾宅をおき、商売をもたせて自活の道をあけてやっていた。……

うーむ、前回読んだときはまったく記憶に残っていなかった。戦前のお菓子ないし製菓会社あれこれを探索する者(←わたしのこと)として、この件に関して鋭意調査せねばならぬのだった。