「日本古書通信」の徳田一穂を読んで、秋声の『勲章』を繰る一週間。

先月中旬のとある夜、届いたばかりの「日本古書通信」をホクホクと繰っていたら(このひとときが毎月一番のおたのしみ)、日本古書通信社の新刊として徳田一穂著『秋聲と東京回顧』なる本が「11月中旬」に出ると知り、「えー!」といきなり大興奮だった。驚きと歓喜、まさしく「驚喜」の一語に尽きる。《徳田一穂没後27年目の公刊。昭和53〜56年「日本古書通信」に連載の一穂版「日和下駄」。》と広告にある。日頃から愛用の『日本古書通信総目次』をガバッと書棚から取り出して、徳田一穂が昭和53年10月から死の間際の昭和56年5月まで32回にわたって「森川町界隈」と題した連載をしていたことを確認、これまでまったく知らなかったのはとんだ不覚だったけれども、こうして思いがけないタイミングで1冊の本として対面できるのだなあと思うと、とにかくもう、嬉しくってたまらない。というわけで、徳田一穂著『秋聲と東京回顧』の刊行を知ったとたん、気もそぞろ。以来、神保町には毎日寄り道、東京堂の日本古書通信社の新刊が積んであるあたりにまっさきに突進し「秋聲と東京回顧」という文字を探し、「今日もまだ並んでいなかった…」とシオシオと退散、ということを幾度か繰り返し、ソワソワしっぱなしの数日間となった。


と、そんなこんなで、11月最後の金曜日の日没後。「待ちかねたわやい」と念願の『秋聲と東京回顧』を東京堂で発見、こんなに嬉しいことはない。ガバッと買って、ズンズンと帰宅し、大急ぎで夕食を済まして、ミルクティを入れて、体勢をととのえて、ランランとページを繰るのだった。





徳田一穂『秋聲と東京回顧――森川町界隈』日本古書通信社(ISBN:9784889140323)。装丁装画カット:池谷伊佐夫。表紙に描かれている、愛用のライカとともに東京歩きに繰り出す晩年の徳田一穂の背後の秋声の旧宅は現在も「東京都史蹟」として、秋声の臨終時(昭和18年11月18日没)とおんなじ姿を残している。神田川沿いの印刷博物館脇を直進して、「川口アパートメント」に程近い荷風の生誕地の脇の金剛坂をのぼり、伝通院へ向かい善光寺坂をくだって、春日駅に出て菊坂の左の道をゆき、本郷森川町の秋声旧宅の前を通って本郷通りに出る……というのは、野口冨士男の本を読んで練ったとびっきりのお気に入りの散歩コース。ツンとした冬の日の朝、ひさしぶりにこの道を歩いて、上野へ出かけたいと思っているところ。



週末の図書館の閲覧室で、「この絶妙な散文、絶妙な批評、ああ、いいなア……」とうっとりしながら、浅見淵『蒙古の雲雀』(赤塚書房、昭和18年5月20日)をホクホクと繰っていたら、徳田一穂の感想随筆集、『受難の芸術』についての一文があった(初出:「早稲田文学」昭和17年5月)。

「受難の芸術」には、文学感想を主にして、父秋声の印象や、作家論、訪問記、それから東京の町や、映画、音楽、などに関する文章が収めてあるのだが、どの文章もケレン気がない上に、妥協せぬ主観的な自分の眼で、しかも、都会人特有の繊細な神経やフレキシビリティを通わせ、近代感を漲らして描いてあるのでじつに面白いのだ。

と、なんとも嬉しくなるようなことが書いてある。わたしも徳田一穂の『受難の芸術』という本が前々からなんだか好きだったので、浅見淵から御墨付きをもらえて、嬉しい。



……と、「徳田一穂没後27年目の公刊」と浅見淵の評に後押しされた格好で、週明けの朝は、喫茶店でコーヒー片手に、徳田一穂著『受難の芸術』(豊国社、昭和16年9月20日)をひさしぶりに読み返した。没するまで約3年にわたって「日本古書通信」に「森川町界隈」と題して連載されていたメモワールを読んだ直後に、そこで回想されていた秋声在りし日当時に書かれた文章集を読むということになって、感慨もひとしおだった。たとえば、「森川町界隈」で、

『新潮』に訪問記を書くために、わたしが飯倉の藤村の家を訪ねたのは、昭和九年の暮れも押迫った十二月の二十六日の事だったから、四十五年も前も昔である。飯倉の、その頃の中華民国公使館の真ん前の険しい細い路地を降り切って、直ぐ右のほうへ狭い露地へ石段を降りたところの左側が藤村の家であった。……

というふうに回想されている当時の、「新潮」昭和10年2月号に掲載された訪問記を、45年後の徳田一穂の回想を目にした直後に、たっぷりと『受難の芸術』で読み返すのが格別だったり、などなど。


『受難の芸術』に「江東風景」という文章がある。

 勝鬨の渡しが今日限りで廃止になるという日だったので、私たちは銀座通りからゆっくりと歩いて、二十分とはかからない渡し場まで出て見ることにした。
 その日、吉田謙吉さんと私は、本所を一緒に歩く打合せをする為めに、ジアーマン・ベエカリーで落合い、冷たいコーヒーを啜りながら話し合っていたのだが、歩き馴れた銀座の雑踏から離れて、築地河岸へ出て来ると、気分は一変していた。

という書き出しで、たっぷりと読むことができる東京町歩きがたいへんおもしろいのだけれども、『受難の芸術』のあとがきで徳田一穂自身は、

「江東風景」や「深川」などは挿絵が入ると面白みが出ると思はれるもので、「江東風景」などはスケッチ・ブックを手にした吉田謙吉氏と一緒に歩き廻り、雑誌に載った時は氏の緻密にして妙味ある風俗画を十数枚挿入して、文章を引き立たせてあったのだ。

と書いているのだった。ワオ! と、その初出誌(「婦人画報」昭和15年8月)をぜひとも見てみたい! と手帳にメモして、朝っぱらからはしゃぐ。「1930年代東京」の終焉を象徴するかのような勝鬨橋は当時の雑誌のグラビアでいかにも「モダーン!」なオーラを放っている。武藤康史著『文学鶴亀』国書刊行会(asin:4336049912)で、井上立士の『男性解放』が昭和15年6月14日に開通したばかりの勝鬨橋を小説の舞台として取り入れていることを知って、胸躍らせたことを思い出した。



徳田一穂があとがきで「江東風景」とともに挙げている「深川」(初出:「ペン」昭和12年1月)は《電車が永代橋へ差掛ると、気分が一変する》という一文ではじまる(隅田川を目の当たりにするといつも「気分」が「一変」する徳田一穂は山の手の子)。

再び明るい高橋通りに出ると、揚物を売っている店先に、時事新報の写真ニュースがあったが、親爺の「勲章」を芝居にした、舞台稽古の写真も出ていて、こんな処で見る親爺の写真も何となく懐かしいものだったが、「勲章」は最初、「江東風景」という題であったので、勿論この地帯の生活状態、人情風俗が描かれているのだった。

というくだりがある。ちょうど先月初めに、徳田秋声の『勲章』』(中央公論社、昭和11年3月28日)が届いたばかりなので、これまたタイミングがいいわえというわけで、『受難の芸術』を読み返してホクホクした翌朝の喫茶店では、伊勢丹のチェックの紙でこしらえたカバーをかけた『勲章』の最初のページを繰った。届いて一ヶ月してやっと手にした秋声の『勲章』、この一週間は、秋声の『勲章』にひたりっぱなしだった。


ここで読む短篇の大部分が未読だった。昭和十年代の秋声というと、『仮装人物』と『縮図』の二つの長篇小説が燦然とそびえたっているのだったが、『仮装人物』と『縮図』それぞれに、野口冨士男曰く「先行的な短篇群」があって、『勲章』では主に『縮図』のそれを読むことができる。そのしみじみと微妙な味わいがたまらないものがあって、秋声読みの歓びで胸がピクピク。『仮装人物』の「副女主人公」が登場する短篇にもうなった。あらためて、『縮図』と『仮装人物』を読み返さねばと、昭和8年以降の秋声、すなわち1930年代の秋声をこれからどんどん追及していこうとメラメラと燃えて、12月最初の一週間は終わるのだった。


大正末期から昭和初めの停滞を経て、昭和8年、秋声は『町の踊り場』(「経済往来」昭和8年3月)で突如文壇の第一線に復活する(川端の文芸時評!)。ちょうどこの年は、野口冨士男が紀伊國屋出版部で「行動」の編集に携わった年、翌年秋声と知遇を得ることとなり、終生師事した。昭和11年に出た秋声の初版本をチビチビと繰って、1930年代東京の秋声の短篇群を読んで、秋声と野口冨士男と1930年代東京を思って、本読みの歓びは無尽蔵だなあとしみじみ思う。





徳田秋聲『勲章』(中央公論社、昭和11年3月28日)。装釘:深澤索一。「勲章」、「死に親しむ」、「部屋、解消」、「一つの好み」、「一莖の花」、「稲妻」、「霧」、「旅日記」、「裸像」、「和解」、「金庫小話」、「町の踊り場」、「チビの魂」、「二つの現象」、「彼女達の身のうへ」、「目の暈」の計16篇を収録。野口冨士男著『徳田秋声伝』(筑摩書房、昭和40年1月20日)の、昭和8年の復活から昭和18年の死を綴った最終章のタイトルは「菊かおる」。ここに、《秋声の文学を強いて花にたとえよと言われたなら、やはり菊と応える以外にあるまいと、それはもう私の固定観念にすらなってしまっている》という一節がある。

先生の一周忌の折には海軍に応召中であったから、ぼくは家内を自分の代理に出した。家内は横須賀の下士官兵集会所へ面会に来たとき、ご仏前へ菊の花を持参したといった。先生からご署名いただいて、ぼくが今も大切に所蔵しているご遺著『勲章』の表紙と外函には深沢索一氏の装画で菊の花がえがかれている。その二つの事柄が、菊の花をみると、ぼくに先生を連想させるのだろうか。そういえば、先生のお棺の中にも、菊の花がたくさん入れられた。


【野口冨士男「菊の花」(初出:「報知新聞」昭和24年11月18日)- 『徳田秋聲ノート』(中央大学出版部、昭和47年6月24日)所収】

この一節を目にして以来、徳田秋声の『勲章』は念願の一冊だった(野口旧蔵の秋声署名本は現在越谷市立図書館の「野口冨士男文庫」に所蔵されている)。12月最初の一週間は、徳田一穂没後27年目の著書『秋聲と東京回顧――森川町界隈』を読んで、『受難の藝術』を読み返したあとで、『勲章』の初版本を繰る日々となった。『勲章』刊行当時、中央公論社は「丸ノ内ビルデイング五九二区」にあった。「森川町界隈」のおしまいの方に、丸ビル界隈を歩く徳田一穂の姿がある。この文章が「日本古書通信」に掲載されたのは、野口冨士男の『風のない日々』(文藝春秋、昭和56年4月10日)が刊行された頃。多くの人が野口冨士男の最高傑作として挙げている『風のない日々』。「二・二六事件の生じる四十二日前」までの「風のない日々」。東京昭和十一年。徳田秋声の『勲章』も昭和11年。





図録『野口冨士男文庫』(越谷市立図書館、平成6年10月26日発行)より、《昭和31年(1956)3月(44歳)/丸ビル前にて 撮影・徳田一穂》。今年3月に届いた、越谷市立図書館の小冊子「野口冨士男文庫」第十号(平成20年3月1日発行)に掲載の、松本徹氏の「ひとり離れて――徳田一穂さん葬儀の日の野口さん」に、《野口さんが秋聲伝に本格的に取り組むとともに、一穂さんとの仲は急速に冷却、激しく対立、絶交するに至った》という一節がある。この写真の翌月、野口冨士男は「秋声年譜の修正」という一文を「三田文学」に寄せている。これが、昭和25年から準備態勢に入っていた秋聲伝の片鱗が活字化された最初だったようだ(要確認)。徳田一穂とは逆に、「秋聲伝に本格的に取り組むとともに」急速に親交が深まった和田芳恵と野口冨士男に関する挿話は思い出すたびに胸が熱くなる。……いずれにせよ、なにかと考えさせられる。





徳田一穂『取残された町』都会文学叢書(青木書店、昭和14年12月10日)。装幀:大橋文子。昭和14年7月より野口冨士男は文化学院の友人、山口年臣に乞われて、青木書店に嘱託として勤務、この「都会文学叢書」は野口の企画だった、というわけで、愛蔵の1冊。青木書店の「都会文学叢書」は、高見順『化粧』(昭和14年11月25日)、徳田一穂『取残された町』(昭和14年12月10日)、井上友一郎『残夢』(昭和15年3月20日)、日比野士朗『霧の夜』(昭和15年8月5日)、楢崎勤『蘆』(昭和15年12月15日)の計5冊。「近刊」と予告されたものの結局未刊だった(と思われる)ものに、丹羽文雄『古風な人形』と北原武夫『踊子』の2冊がある。それにしても「都会文学叢書」だなんて、いかにも野口冨士男でにんまりしてしまう。全5冊ともすべておなじ表紙で(四六判フランス装)、装幀の大橋文子は野口の文化学院の友人。徳田一穂の『取残された町』では2回ほど「明治製菓売店」が登場して極私的にも大喜びだった。