読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

国会図書館で手にした、沼波万里子の『五十銭銀貨』のこと。


先月末、山口昌男著『本の狩人 読書年代記』右文書院(asin:4842107189)を読んで初めて、沼波万里子著『五十銭銀貨』という本のことを知った。沼波瓊音の娘である筆者が少女時代の折の北一輝とのつかのまの交流を「瑞々しい筆致」で綴っているという。と、このくだりを目にしたとたん、週末の国会図書館が待ち遠しい! と、いてもたってもいられなくなった。しかし週末はまだ遠い、体勢をたてなおして、前のページへと戻って、伊藤正雄『新版 忘れ得ぬ国文学者たち』右文書院(asin:4842100079)のくだりを再び読んでみる。沼波瓊音のことが急に心にベタリと貼りついたそもそものきっかけは、伊藤正雄の『忘れ得ぬ国文学者たち』だったなあということを思って、しみじみ。森銑三が「沼波瓊音・岩本素白の面影」という文章で紹介している伊藤正雄の『忘れ得ぬ国文学者たち』。


と、山口昌男の書評を読んで、いてもたってもいられず、書棚からひさびさに『忘れ得ぬ国文学者たち』を取り出す。ここに収録の「瓊音先生片影」は読み返すたびに、いつもなんてすばらしいのだろうと、胸がいっぱい。《今にして思えば、私は生涯の“心の師”たる先生のために、夙に一部の『沼波瓊音評伝』か『沼波瓊音研究』を著すべきであった。遺憾ながら、もはや頽齢に及んで、その時機を失したが、せめて自分の見聞に属する限りの面影だけでも記録しておくことが、私の義務のように思われる。本稿はそうした気持で筆を執ったものである》という「瓊音先生片影」。そして、このあとも、『忘れ得ぬ国文学者たち』をあちらこちら読み返して、夜が更けていった。『忘れ得ぬ国文学者たち』は読み返すたびに、吉田秀和著『音楽紀行』(中公文庫、1993年4月)のなかの一節、《ぼくにとって、本当に「体験」だった。つまり、単に新しい経験というだけでなくぼくの精神はこれを聞く前にもってなかった拡がりを増し、今後来るものに対する新しい触覚を拓かれたような気がした位だ。》というような心境になるのだった。


そんなこんなで、今月最初の週末となり、開館時刻とほぼ同時に国会図書館に入りまっさきに、沼波万里子著『五十銭銀貨』を繰った。


まずは、書誌的メモとて。『五十銭銀貨』(岩波ブックサービスセンター、昭和63年9月25日発行)。四六判上製 76ページ。著者紹介には、《本名:杉山まり子 大正10年8月、国文学者沼波瓊音の七女として本郷に生れる。昭和10年、兵庫県立第一高女在学中、歌誌『帚木』に入社、同13年『潮音』に転社。妹の華子は「沼波輝枝」の名でテアトル・エコーに所属》とある。本全体の構成は、「はしがき(昭和六十三年六月」のあと、「五十銭銀貨」(p3)、「つうさま(昭和五十四年五月記)」(p59)、「おかあさんとよばれるもの」(p61)、「月に寄す」(p64)、「笑顔の中に……(昭和五十五年八月記)」(p68)、「ボランティア日誌より」(p71)というようになっていて、少女時代の北一輝との交流を描いた表題の「五十銭銀貨」を柱とした小文集という体裁。


国会図書館の天井の高い廊下の薄暗いベンチに腰かけて、沼波万里子の「五十銭銀貨」を読んで行く時間はなんとも格別だった。その書き出しは、

 暑い日だった。病室の窓近く、朝から蝉がじーじーと啼いている。枕元のガラス窓がカタカタとなって、生ぬるい風が汗のにじんだ首筋をなでるように吹き過ぎていった。
 昭和二年七月、当時五歳の私は重い赤痢にかかり、T大学病院の個室に入院していた。一時は生命を危ぶまれた病状からようやく危機を脱した私が、起きているともなく、眠っているともなく、うつらうつらしていた時のことである。
 「まり子……」ふと名を呼ばれたような気がして、反射的に「はい……」と答えたが声にならない。もう一度返事をしようと、一生懸命唇を動かすのだが、どうしても声が出ないのだ。あたりは薄暗く、時間の感覚が全く分からない。
 見ると、足元のドアの傍に父の姿があった。いつも病床で苦痛に堪えていた父からは、想像も出来ないほど柔和な眼差しが、じっと私の顔にそそがれている。少し笑っているようにみえた。
 「元気をだせ。いいか元気を出すんだ。……」声だけが聞こえてくる。
 (おや?…)と私は思わず目を移した。父の左肩のあたりから、もう一人の男の顔がみえる。石のような動かない表情。ぼんやりと浮かんだ暗い顔の中に、口ひげだけが妙に頭のなかにやきついた。知っている顔だ、誰だったろう。……ふと男の顔が消えた。気がつくと父もいない。

というふうになっていて、この直後に父沼波瓊音の他界を知り、病院で見た幻の父の傍らにいた「もう一人の男の顔」が北一輝だったとあとで知る。《その時、危篤だった父が、かけつけて下さった北一輝氏の到着を待っていたかのように、彼のお題目に送られて静に息をひきとったという事は後になって知らされた》、《亡父瓊音が互いに先生と呼び合って親しんでいたという北一輝氏を、私が初めて身近かに感じたのは此の時からである》。


そして、父が死んで、本郷から渋谷氷川町に引っ越しての生活もすっかり落ち着いてゆく。

 そんな或る日、我が家の門前に見たこともないような大きな立派な乗用車が止まった。母のはずんだ声が聞える。
 「まり子、華子……」
 北さんが、貴女達二人を御馳走して下さるそうだ。
 「北さん? ああ、一輝のおじさまね。」小学校三年生になっていた私は、同じく一年生の華子と二人、お揃いの外出着を着せられ、まるで王女様になったような気分で、ぴっかぴかの大型自動車の後部にちょこんと坐った。車中に既に一輝のおじ様が乗っていらっしゃった。
 真黒い中国服、頭にはトルコ風の毛皮の帽子を真深かにかぶり、これも何やら獣の皮で作られた腰掛けで、下半身をすっぽりおおっておられる。車中は、ハッカのような一種独特の香料がたちこめており、その匂いはおじ様の服にも座席にも、しみわたっているようであった。

北一輝の乗用車で、二人の少女は「一輝のおじさま」に銀座へと連れられ、革の素敵なお財布を買ってもらったり、瀟洒なレストランで御馳走になったりする。北一輝は何も食べず、ただレモン水をすするだけ。夜道を家まで自動車で送られ、お別れの折には買ってもらったお財布におこずかいをジャラジャラと注がれた。お母さまにこのことを告げたら、お財布はお母さんが預かり愛用することになってしまった。「一輝のおじさま」が名付け親となった妹の華子のお財布はそのまま彼女の手に残されているのに……。


それからもたびたび、北一輝の自動車のお迎えがあって、妹の華子とともにおじさまに連れて行ってもらうこととなる。少女時代を遠くいとおしむような沼波万里子の筆致が美しくて、ちょっと幻想的でもあって、なにか美しい絵本を読んでいるかのような心持ち。成長するにつれて、万里子お嬢さんも女学校入学のための勉強やら日曜学校やらで忙しくなって、おじさまとのお出かけも間遠になってゆく。ある日北一輝の邸宅で手に入れた「五十銭銀貨」が秘密の宝物として残され、そんなこんなで幾年月、氷川町から宇田川町へ引っ越したあとに、二・二六事件が勃発、大久保百人町の北一輝宅へ葬式の折に、五十銭銀貨が沼波万里子の手を離れたところで、締めくくられる。


というような、沼波万里子と北一輝との一連の交流は、沼波万里子の「少女時代」の通奏低音ともいうべき年月であり、それは二・二六事件の勃発によって幕が閉じることとなった。北一輝と沼波万里子との年月には「モダン都市・東京」が通底していて、二・二六事件の勃発とともに沼波万里子の少女時代も幕を閉じた、というような図式的な言い方をあえてしたくなってしまう。国会図書館の天井の高い廊下の薄嫌いベンチという舞台装置は、沼波万里子の幻想的な筆致ととても調和して、格別の時間だった。


北一輝が沼波万里子と妹の華子を連れていってくれたレストランはどんな感じだったのかなと思いを巡らせるべく、帰宅後、「コレクション・モダン都市文化」第13巻『グルメ案内記』ゆまに書房(asin:4843315419)に翻刻されている、白木正光編『大東京うまいもの食べある記 昭和八年版』(丸ノ内出版社、昭和8年4月30日初版)を眺めるのもたのしいことだった。




白木正光編『大東京うまいもの食べある記 昭和八年版』(丸ノ内出版社、昭和8年4月30日初版)より、新宿の二幸食堂の挿絵。

四階は純然たるデパート式の食堂です。エレベーターからはき出された目の前左右に見本棚があって、左は和、支、右は洋食。品数の豊富なのに一驚します。この外地下はオートマット食堂になっていて、入口からすぐ階段を下りますと、つき当りに見本棚があり、奥の壁のオートマット機の中に飲物や、お料理が並べてあり、白銅一ヶ又は二ヶ三ヶと指定の数丈け入れますと自動的にすべり出してきます。こうした自動式食堂は、広い東京でもここ丈けと云って良く、近代味覚に精進する人達は、是非一度云って見ることです。

ある日、沼波万里子はお母さんに連れられて、「新宿の食品店の地下の無人レストラン」にゆく。一輝のおじさまの前で恥をかかないようにと、ここで母からテーブルマナーの伝授を受ける。『五十銭銀貨』の中盤に登場のこのレストラン、新宿の「二幸食堂」だったのね! と、『大東京うまいもの食べある記』にしっかりと載っていて、感激。『五十銭銀貨』ではこの自動機械で食事が出てくるという無人レストランの描写が文章全体の幻想的なムードとよく調和していた。『五十銭銀貨』で描かれていることがたしかに実在していたのだ、ということが当時の資料で実感できて、それだけで嬉しいものがあった。




小泉癸巳男《昭和大東京百図絵版画 市政会館と勧業銀行》(昭和7年)。左下の女生徒の姿に当時の沼波万里子を思う。この画像は、図録『近代版画にみる東京 うつりゆく風景』(東京都江戸東京博物館、平成8年7月29日発行)より。最近入手して大喜びだった、秀逸な図録。オールカラーなのが嬉しい。




一輝のおじさまが沼波のお嬢さん方を連れて行った当時の銀座の夜の風景として、藤森静雄《大東京十二景の内 五月 夜の銀座》(昭和8年)。真ん中に見える伊東屋のネオンの向こうには、同年2月に新装開店の明治製菓銀座売店がネオンを輝かせている。おなじく、図録『近代版画にみる東京 うつりゆく風景』(東京都江戸東京博物館、平成8年7月29日発行)より。




沼波のお嬢さんがたも当時食べていたかしら、ということで、東郷青児《森永チョコレート ポスター》(昭和6年)、図録『図案の変貌 1868-1945』(東京国立近代美術館工芸館、1988年9月20日-11月6日)より。





沼波万里子『五十銭銀貨』(岩波ブックサービスセンター、昭和63年9月25日発行)より、沼波瓊音の親族が出てくるので、ここにこっそり全文抜き書き。

つうさま

 つうさまの本名つね。私の父の妹である。満二歳の時、子守に背負われたまま物干場から転落、怪我一つしなかった子守の下敷となって両眼の視力を失った。法事で帰郷する度、関西風の格子戸から、つうさまの弾く琴の音がいつも聞こえていた。時折、NHKの放送局などで演奏するつうさまは、幼い私にとって何となくこわい存在であった。
 それは当時小学生だった私が、珍しく長逗留した時のことである。朝の茶の間で、私は何気なく昨日の日付のままになっているめくり暦を一枚めくった。とたん、母は私の袖をひいてこわい顔をした。
 「あの暦をめくるのと、鳩時計の鎖をひくのは、つうさまの日課なのだから……。」
 そしてその日から暦の日付はいつも一日ずつずれていた。子供心に日付の違う暦を不合理に思った私は、思いきって暦をめくろうとするつうさまの手を押えた。
 「おばちゃま、ごめんなさい。この暦こないだ私が一枚めくっちゃったの。」
 「えっ、いつ?」
 「三日前。」
 暦から手をはなしたつうさまは、その手をそっと私の頭にのせて微笑んだ。
 「教えてもろて、ほんと有難う。だあれも気い使うて、言うてはくれんのや。」
 母には叱られたけど、その時からつうさまと私は何となく仲良しになれたような気がした。
 空襲で家を焼かれ、つうさまが亡くなってから三十年たつ。私の母も既にない。
 今、ボランティアとして盲人のためのテープに声を録音していると、床の間に立てかけた琴から、つうさまの笑顔がこぼれてくるような気がする。


(昭和五十四年五月 記)