観劇と建築写真。神奈川近代文学館へ行き、満月の夜、洗足でワイン。

三連休はいつもより休日が一日多いのが、毎回しょうこりもなく嬉しい。土曜日は東京宝塚劇場(苦労して入手した甲斐あった!)、日曜日は新橋演舞場(奮発した一階席を心ゆくまで満喫の実盛!)と、観劇続きで座りっぱなしだったので、連休最終日はちょいと遠出したい気がする。というわけで、ここ数週間、出かけたくて出かけたくてムズムズしつつも、つい機会を逃していつのまにか数週間の、神奈川近代文学館へ出かけるべく、張り切って早起き。弁当をこしらえて、曇り空の下、イソイソと外出。京浜東北線に揺られてトロトロと、ぼんやりと車窓を眺めながら、石川町へと向かう。川崎にさしかかるところでは、明治製菓の川崎工場跡地はどのあたりかしらッとついキョロキョロ、鶴見あたりでは、エンゼルマークが燦然と輝く森永製菓の工場があるわッ、と心のなかではしゃぐ。などと、相変わらず製菓会社に取りつかれている自らを胸の底に見出しているうちに、電車は目的地に近づいてゆくのだった。地下鉄以外の電車に乗るのはほぼ休日に限られるので、車窓を眺めるだけで、ああ休日だなあといつも思う。




都市美協会編『建築の東京 大東京建築祭記念出版』(都市美協会、昭和10年8月20日発行)より、「東宝・有楽座・日比谷映画劇場ヲ望ム」。昭和9年1月開場の東京宝塚劇場、出来たてほやほやの有楽町歓楽街。『建築の東京』に夢中のここ数ヶ月、「『建築の東京』スクラップ・ブック」と化す「日用帳」なのだった。




同じく、『建築の東京』より「日比谷劇場街附近鳥瞰」。左下に写るライトの帝国ホテルがものすごく異彩を放つ。日劇がまさしく白亜の殿堂。




「コレクション・モダン都市文化」第21巻、西村将洋編『モダン都市の電飾』ゆまに書房(asin:4843321214)所収の、鈴木徳彌編『輝く日本 輝くネオン』(整電社製作所、昭和12年4月5日)より、《築地橋畔より新橋演舞場を望む》。築地界隈からテクテクと新橋演舞場へ向かって歩いて、采女橋にさしかかったとき、思い出した写真。かつての水の都を髣髴とさせる東京写真として。『モダン都市の電飾』も所有欲モクモクの一巻だった。東京電気株式会社の PR 誌「マツダ新報」を論じた巻末の編者の解説も秀逸であった。



無事に文学館にたどりつき、閲覧室であれこれ閲覧。ここにしか所蔵されていない、とある稀覯雑誌、つい先日さる古本屋に売っているのを見つけて、「ウム……」としばし惑ってよろけていたのだったけれども、こうしてあらためてじっくりと閲覧してみると、「うーむ、買うほどのものではないなあ」ということがよくわかった、などなど、チマチマとあれこれ閲覧してはカリカリとノートをとる。お昼をはさんで、昼下がり、まだちょっと時間があるので、よい機会であるので、野口冨士男の未読作品を読むとしようと、今日は『いのちある日に』(河出書房、昭和31年12月)を読んだ。初めて手にしたこの小説のヒロインの名が「加奈子」なので「おっ」となる(どうでもいいが)。



「かなぶん」の帰りはいつも東横線直通の「みなとみらい線」。目黒線はいつのまにか日吉まで伸びていたのだなあと感激しながら、日吉で目黒線に乗り換えて、洗足で途中下車。ドトールでのんびり読書し、日没後、駅前のイタリア料理店でワインをグビグビ飲む。今日は満月のはずだけれども、夜空はどんより曇り空、月は見えない。外に出ると、雨がポツポツ降ってきた。


野口冨士男著書リストをこしらえる。


ホームページ(http://www.ne.jp/asahi/foujita/kanako/)の「帖面」と称するコンテンツ(http://www.ne.jp/asahi/foujita/kanako/carnets/)に、「野口冨士男・著書リスト」を追加しました。→ http://www.ne.jp/asahi/foujita/kanako/carnets/noguchi/a.html


このところ「日用帳」をさぼって、夢中になって作っていた野口冨士男の著書目録の土台がようやく出来上がる。書誌(のようなもの)を作るのは、それだけでたいへんたのしいお道楽。このためだけにホームページを残しているといっても過言ではない。これから、随時修正をほどこしてゆく所存。野口冨士男関係では他にもファイルを作成中。十返肇のデータも整理したい。



以下、野口冨士男資料として、しつこく、『建築の東京』より切り抜き。



都市美協会編『建築の東京 大東京建築祭記念出版』(都市美協会、昭和10年8月20日発行)より、「都新聞社」(昭和10年・松田軍平)。昭和10年9月、勤め先の紀伊國屋出版部の閉鎖により失業した24歳の野口冨士男は、翌月、岡田三郎の斡旋で都新聞社の臨時採用試験を受けて見事合格、校正部員として都新聞社に勤務することとなった。《夜勤、宿直の連続のため観劇の時間をうしなって新劇との接触を断たれ、演劇への興味も喪失》と自筆年譜にある(『文学とその周辺』所収)。野口冨士男にとって紀伊國屋との決別は演劇との決別でもあった。都新聞は翌11年7月に病気のため退社したので、一年足らずの勤務であったが、新聞社社員として二・二六事件を経験することとなった。

 ……私は同年十月に「東京新聞」の前身である都新聞社へ就職したが、当時の都新聞社は日比谷図書館の筋向いにあって、文化部長は上泉秀信、文芸欄の担当記者には中村地平がいた。(中略)
 中村といえば、二・二六事件のあった昭和十一年は雪の多い年で、事件の数日前にも大雪が降って交通が途絶した。そのために、歌舞伎座、東劇、日比谷映画劇場などの観客が帰宅不能になるという事態が生じて、家族や保護者に他の口実で外出していた女学生らが泣き出すということがあった。題名を忘れたが、中村にはそのありさまをえがいた作品がある。

【野口冨士男『私のなかの東京』(文藝春秋・昭和53年6月) - 「銀座二十四丁」より】

野口冨士男も『神の箱』(初出:「新潮」昭和63年5月号→『少女』所収)という短篇で、「そのありさま」を描いている。