読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

和田博文編『紀伊國屋書店と新宿』の刊行が嬉しくてたまらない。

月曜日、今週も週明け早々力が出ないなアと、へなへなと帰宅したら、刊行がたいへん待ち遠しかった、ゆまに書房の「コレクション・モダン都市文化」第37巻、『紀伊國屋書店と新宿』(asin:4843321370)が届いていたものだから、帰宅したとたん、わーいわーいと、大はしゃぎ。また高いものを買ってしまった……と若干の慙愧もなくはないけれども、ここ数年の最大の執着事項の「1930年代東京」はもちろん、昭和8年9月に紀伊國屋出版部に入社し、豊田三郎のもとで「行動」の編集に携わっていた野口冨士男を追う上で、合わせて、翌9年に「レツェンゾ」の編集を手伝った十返肇を思う上で、さらに、このところ急に夢中の「ムーラン・ルージュ」と同時代の諸相を考える上で、前々から胸躍らせている「コレクション・モダン都市文化」シリーズで、「紀伊國屋書店と新宿」というテーマが用意されていることは、極私的にもたいへん嬉しいことなのだった。




和田博文『テクストのモダン都市』風媒社(asin:4833131161)。ゆまに書房の「コレクション・モダン都市文化」の監修者、和田博文さんの著書。この本は、「コレクション・モダン都市文化」全体のさながら索引のようなつくりになっている。高価な「コレクション・モダン都市文化」を何冊も買うのはさすがにちょっと無理でも、『テクストのモダン都市』に散りばめられてある諸々の固有名詞、トピックをきっかけに、図書館へ出かけて、図書ないし雑誌をあれこれ閲覧することで、「コレクション・モダン都市文化」の追体験ができるし、もちろん、ゆまに書房の「コレクション・モダン都市文化」を繰るときに、参照するのもよい。……というふうに、折りに触れ、繰っているとびきりの愛読書。注釈に紹介の書影を見るだけでも、あちらこちらの写真(どれもこれもがいかにも「モダン都市」!)を見るだけでも眼福。



というわけで、バタバタと家事諸々をすべてすっきりと片づけて、ソーッと梱包をほどいて、ソロリソロリと、「コレクション・モダン都市文化」第37巻、和田博文編『紀伊國屋書店と新宿』のページを繰ったのだったけれども、「ムーラン・ルージュ」前夜ともいうべき昭和6年の『紀伊國屋月報』の、野口冨士男が紀伊國屋出版部に入社する昭和8年から出版部が解散する昭和10年の『レツェンゾ』の、掲載記事がさながらスクラップ・ブックのように抜粋されているページがただただもう、まばゆいばかりで、胸が躍ってしかたがない。


昭和9年と昭和10年の『レツェンゾ』は近代文学館で一通り閲覧しているのだけれど、昭和8年の『レツェンゾ』の誌面は今回初めて。その未見の昭和8年の『レツェンゾ』で、ボン書店店主の鳥羽馨(鳥羽茂)が「立ち読みする諸氏よ」という文章を寄せていた! 文学館で閲覧の折に、『レツェンゾ』のところどころで見ることのできる、つつましいたたずまいながらもレイアウトがいかにも洒落ているボン書店の広告のことを思い出て、ジンとなった。「昭和八年という年は興味ある年だと思うのである(by 高見順)」ということで、思い出づるは「光画」の時代、ということで、、昭和8年に銀座紀伊國屋ギャラリーで野島康三の『女の顔』写真展が開催されていて、『レツェンゾ』でその展覧会の記事がある! と思ったら、同じ号の昭和8年8月号には「築地小劇場改築後に予期される観客層」という記事があったりもする(築地小劇場の改築は翌9年、早稲田大学演劇博物館の「坂本万七展」図録にある、改築後の劇場の写真を眺めてみたり)。……などと、「おっ」となったところを挙げようとすると、本当にもう、キリがない。いろいろと尽きないのだった。


近代文学館で閲覧の折での印象だと、昭和10年3月、「レツェンゾ」の誌面がガラッと変わり、本来の「新刊紹介誌」の範疇にとどまらないような、「モダン都市」のグラビア誌というような趣きとなっていて、「街の新人推薦」と題した、東京で働く新進女子を紹介したページが象徴しているような、海野弘先生言うところの「女性都市東京」色の強い誌面がとても鮮烈だったと記憶する(同じ号に堤真佐子や長谷川春子も小文を寄せている。)。編集後記の名義は「H・T」となっていて、あきらかに十返肇が率先して編集にあたっていたことが推測できて、あらためて若き十返の才気というか、「青年の客気」がとても微笑ましかったものだった。そのあたりの、「近代東京春粧十六景」とか「百貨店の設計」といったグラフページがとても好きだったので、ここに復刻されてとても嬉しい。「街の新人推薦」と合わせて、驚くほど、北尾鐐之助の「ホーム・ライフ」と似た誌面だなあと思った。そんな同時代の、「レツェンゾ」や「ホーム・ライフ」が体現するところの、1930年代モダン都市にますます心ときめき、文学、映画、写真、美術といった様々なジャンルが交錯する1930年代モダン都市文化あれこれについて、もっともっと自分なりに深めていけたらいいなと、気持ちが高揚してくるのが、なんとも嬉しいのだった。


ちなみに、明治製菓の広告が「レツェンゾ」に載ったのも昭和10年のこと(1935年5月号)。昭和10年の「レツェンゾ」は、1月号は全ページにわたって《新春コント集》という特集を組んで、61人にわたる大家から中堅、若手、新進作家が「新作コント」を寄せている(野口冨士男も登場!)。田辺茂一が『能動精神パンフレット』を刊行したりと昭和10年、大いに盛り上がったかと思いきや、紀伊國屋出版部は同年8月に解散し、翌月「行動」が終刊、「レツェンゾ」の刊行も翌年11月2月までとなった。「行動主義」とおなじように一瞬の盛り上がりという感じだけれども、そんな一瞬の輝きのようなものが、なんだかとてもいとおしい。


「コレクション・モダン都市文化」に収録の、『紀伊國屋月報』『レセンゾ』『レツェンゾ』掲載作品を彩る固有名詞を一望することで(巻末の年表には詳細な内容細目あり)、昭和8年9月に文化学院を卒業した野口冨士男が、文化学院で教わっていた阿部知二の紹介で紀伊国屋出版部に入社して「行動」の編集に携わる、「行動」の編集長は豊田三郎で、翌9年、「あらくれ会」の一員に加わることで徳田秋声の知遇を得る……といった一連の流れが実感をもって、胸にせまってくる。ここ数か月夢中の、戦前の野口冨士男をその周辺、を考える上でも座右におきたい1冊なのだった。

しかもその年度――昭和八年は全文壇を制圧していたといっても過言ではないプロレタリア文学が思想弾圧のために壊滅状態におちいって、その隙間につけこむがごとく芸術派の復権のために呼号された「文芸復興」の気運が高まった年で、十月には「文学界」と「行動」、十一月には「文芸」の三誌が踵を接して創刊されて、今日では考えられぬほど絶大な権威をもっていた総合雑誌を別とすれば、「新潮」一誌しかなかった文芸雑誌がいちやく四誌に急増したばかりか名作傑作も続出した、日本近代文学史にとっても画期的な年度であった。

【野口冨士男「消えた灯――新宿」- 『いま道のべに』(講談社、昭和56年11月発行)より】

紀伊國屋書店と新宿、のみならず、文化学院と紀伊國屋、銀座6丁目に紀伊國屋書店と紀伊國屋画廊があった時代……といったような諸相を今後考えていけたらと思う。戸板康二の『あの人この人 昭和人物誌』(文藝春秋、1993年6月)所収の「田辺茂一の大鞄」は、

私の学生時代、銀座6丁目の松坂屋の側の新橋寄りのところに、紀伊國屋書店があった。2階には画廊があり、近藤や教文館とはまたちがった雰囲気を持っていたが、この店で買う特製の便箋は、上を余白にして、中川一政画伯のハサミだの、魚のカレイだのの絵がはいっているのがうれしくて、愛用したものである。

という書き出し。戸板康二が三田に通っていたのは昭和7年から昭和13年夏(昭和14年4月に明治製菓入社)、東京育ちながらも父の転勤で実家が阪神間になったことで長期休暇の折は関西に「帰省」していたのが昭和7年から昭和12年まで。1930年代モダン都市文化を謳歌していた青年戸板康二について、もっと考えたい。新宿の新歌舞伎座(開場は昭和4年9月)にて昭和7年7月から「青年歌舞伎」がはじまり、戸板康二は毎興行見に行っていたという。「紀伊國屋書店と新宿」の時代はなにかと無尽蔵なのだった。



とかなんとか、週末に北尾鐐之助の「ホーム・ライフ」にむやみやたらに心ときめかしたかと思ったら、週明け早々、『紀伊國屋書店と新宿』を目の当たりにすることになって、ソワソワしっぱなしで、一週間が終わってしまった次第。『紀伊國屋書店と新宿』はいつものとおりに伊勢丹のチェックの紙袋でブックカヴァーをこしらえて、何度何度も繰っていた。カヴァーをくるくるっとはずして、部屋の本棚に架蔵するときは、「Scripta」の記事を切り抜いて製本している、内堀弘さんの連載『予感の本棚 戦前の紀伊國屋書店』(http://www.kinokuniya.co.jp/02f/d05/scripta/yokan/yokan-8.htm)の隣りに並べたい。『予感の本棚 戦前の紀伊國屋書店』が一冊の本になる日が待ち遠しい。


ブックカヴァーとしていつも愛用している伊勢丹の紙袋の在庫が少なくなってきたので、このところ足が遠のいている新宿へ出かけて、また伊勢丹で買い物せねばと思う。紀伊國屋書店本店で、「コレクション・モダン都市文化」第37巻『紀伊國屋書店と新宿』の刊行を記念して、現在フェア開催中とのことだから(参照:http://bookweb.kinokuniya.jp/bookfair/prpjn421.html)、その帰りに紀伊國屋書店に立ち寄らねばと思う(いつもはついジュンク堂の方へ行ってしまう)。





都市美協会編『建築の東京 大東京建築祭記念出版』(都市美協会、昭和10年8月20日発行)より、「武蔵野館」(昭和3年)。紀伊國屋書店と同時代の新宿で、まっさきに思いつくのは、武蔵野館! 徳川夢声が武蔵野館に移籍したのは大正14年9月。『くらがり二十年』(春陽文庫、昭和32年5月)によると、田辺茂一が紀伊國屋書店を開業した昭和2年が「説明者黄金時代最後の年」で「サイレント映画全盛の極点」、「武蔵野館でも最大の栄光を有した年」だったという。同年年末に、夢声は荻窪に自宅を新築している。上の写真は、昭和3年12月に落成した「新武蔵野館」。




「ナヤマシ会」第3回公演プログラム、昭和2年6月1日、於:日本青年館。夢声が武蔵野館に移籍した同年の大正14年秋、第一回「ナヤマシ会」が開催された。「ナヤマシ会」というのは夢声プロデュースによる活動弁士のかくし芸大会で、夢声の漫談と古川緑波の声帯模写が呼び物だった。以後、回を重ねるごとに規模を増し、人気も絶大なものとなり、地方公演も行われることになる。岡田嘉子や鈴木伝明、岡田時彦といった人気俳優も特別出演し、多くの映画ファンが人気弁士や俳優のかくし芸に熱狂した(参考文献:濱田研吾『職業“雑”の男 徳川夢声百話』私家版・2003年)。「ナヤマシ会」は昭和7年の第9回をもって終了し、昭和8年の「笑いの王国」へと発展することとなる。画像の第3回公演は、『くらがり二十年』で夢声自身が「すごいセンセイションを起した」と回想している記念すべき公演だった。

何はとまれ、はじめ、ほんの遊びごととして発会した「ナヤマシ会」が、みごと、映画界年中行事の一つ、東京名物の一つにまで、喧伝されるにいたったということは、めくらめっぽうに振ったバットが、偶然、偶然、ホームラン・ヒットになったほどの驚きである。確かに、ああしたものを時代が要求していたんである。見よ、今や、世をあげてナンセンス・レビュー時代! エノケン一座、ムーラン・ルージュ、ヤパン・モカル、しかして「笑いの王国」等々々、まさにナンセンスの氾濫、ギャグの洪水である。これらの先駆をなすものの曰く、NAYAMASHIKAI のネオン。

【徳川夢声『くらがり二十年』 - 「喜劇と怒劇の紙一重」より】


上の「ナヤマシ会」第3回公演プログラムより、「東京パン」広告、《武蔵野館のお帰へりには東京パン新宿喫茶部へお立ち寄りを》。かねてからの愛読書、岩崎昶『映画が若かったとき』(平凡社、1980年9月)の「武蔵野館―新宿文化の水源」を読み返す。当時、岩崎昶は「ムサシノ・ウィークリー」の編集に携わっていて夢声とは毎日顔を合わせていて、溜り場は「東京パン」だったという。





深沢索一《新宿カフェ街》昭和5年、版画「新東京百景」、海野弘監修『別冊太陽54 モダン東京百景』(平凡社、1986年6月)より。現在の三越裏あたり。





(以下、自分用に、目次を書き写し)

「コレクション・モダン都市文化」第37巻、和田博文編『紀伊國屋書店と新宿』目次


ゆまに書房・2008年6月25日発行
ISBN:9784843321379

目次


織田一磨『画集新宿風景』(1930年)

田辺茂一編『能動精神パンフレット』(1935年2月、紀伊國屋出版部)
【内容細目:青野季吉「能動的精神の台頭について」、阿部知二「芸術主義の積極性」、小松清「行動主義理論」、窪川鶴次郎「インテリゲンチヤの積極的精神」、新居格「芸術派の思想性」、阪本越郎「文学を指導するもの」、豊田三郎「文学的指導精神の確立」、十返一「意志と行動の文学」、藤原定「実験文学試論」、福田清人「昂揚する文学精神」、森山啓「知識階級と文学」、矢崎弾「能動的精神の価値と第一の過程」、田村泰次郎「現代文学に於ける意欲の根柢」、春山行夫「新知識階級文学論」、舟橋聖一「能動的精神について」】

小松清『行動主義文学論』(1935年6月、紀伊國屋出版部)



『紀伊國屋月報』『レセンゾ』『レツェンゾ』掲載作品


◆1931年

林芙美子「アンニユイ」(『紀伊國屋月報』第1年第2号、1931年3月)
「去る二月十一日B、G、C、なるクラブが文化学院卒業生によつて、銀座の一角紀伊國屋楼上に生れました」(『紀伊國屋月報』第1年第2号、1931年3月)
「B・G・Cの報告」(『紀伊國屋月報』第1年第3号、1931年4月)
平林たい子「近頃の煽情的な出版物について」(『紀伊國屋月報』第1年第4号、1931年5月)
Le Katsue「伊藤道郎舞踊団帰朝第一回公演(『紀伊國屋月報』第1年第4号、1931年5月)
大田黒元雄「ドビュッシイとサティ」(『紀伊國屋月報』第1年第6号、1931年7月)
ル・カツエ「海のスキヤンダル」(『紀伊國屋月報』第1年第6号、1931年7月)
吉行エイスケ「男心・女心」(『紀伊國屋月報』第1年第6号、1931年7月)
田辺茂一・北園克衛「オ・ララ」(『紀伊國屋月報』第1年第6号、1931年7月)
伊藤整「外来書グリンプス」(『紀伊國屋月報』第1年第7号、1931年9月)
飯島正「映画の本に就いて」(『紀伊國屋月報』第1年第7号、1931年9月)
中條辰夫「上海の本屋さん」(『紀伊國屋月報』第1年第7号、1931年9月)
久野豊彦「海の胡瓜」(『紀伊國屋月報』第1年第7号、1931年9月)
瀬沼茂樹「東京書店風景」(『紀伊國屋月報』第1年第8号、1931年10月)
有馬生馬「制作の感想」(『紀伊國屋月報』第1年第8号、1931年10月)
Le katsue「誌的精神の歴史」(『紀伊國屋月報』第1年第8号、1931年10月)
仲田定之助「二科を透して見た一九三一年の横顔」(『紀伊國屋月報』第1年第8号、1931年10月)
雅山滉「野球」(『紀伊國屋月報』第1年第9号、1931年11月)
黒田辰男「ソヴエート・ロシヤのスポーツ」(『紀伊國屋月報』第1年第9号、1931年11月)


◆1933年

井伏鱒二「新宿の味」(『レセンゾ』5月号、1933年5月)
内田岐三雄「五月の映画随想」(『レセンゾ』6月号、1933年6月)
山野一郎「新宿から浅草へ」(『レセンゾ』6月号、1933年6月)
蔵田周忠「『白色の組織体』――最近の建築の傾向に就て」(『レセンゾ』7月号、1933年7月)
西川武郎「紀伊國屋ギヤラリーに就いて」(『レセンゾ』7月号、1933年7月)
滝口武士「夏至/庭/港/夏」(『レツェンゾ』8月号、1933年8月)
隆松秋彦「築地小劇場改築後に予期される観客層」(『レツェンゾ』8月号、1933年8月)
野島康三「『女の顔』写真展雑談」(『レツェンゾ』8月号、1933年8月)
深尾須磨子「異国の夏――パリ…ハーヴル」(『レツェンゾ』8月号、1933年8月)
中居正躬「インチキ洋酒二筋道」(『レツェンゾ』8月号、1933年8月)
山下三郎「印度洋」(『レツェンゾ』8月号、1933年8月)
東郷青児「二科二十年展の仕事」(『レツェンゾ』9月号、1933年9月)
百田宗治「装幀・本・読者層」(『レツェンゾ』9月号、1933年9月)
春山行夫「装幀・本・読者層」(『レツェンゾ』9月号、1933年9月)
鳥羽馨「立ち読みする諸氏よ」(『レツェンゾ』9月号、1933年9月)
金杉惇郎「此の秋のプラン」(『レツェンゾ』9月号、1933年9月)
豊田三郎「『行動』創刊号発刊近し!!」(『レツェンゾ』9月号、1933年9月)
野村光一「音楽時評――ナティスの暴挙と吾が楽界」(『レツェンゾ』10月号、1933年10月)
阿部ツヤコ「九月の海――御宿にて」(『レツェンゾ』10月号、1933年10月)
戸川エマ「秋の初めに」(『レツェンゾ』10月号、1933年10月)
林房雄「秋の花束」(『レツェンゾ』10月号、1933年10月)
T「『行動』編輯部だより」(『レツェンゾ』10月号、1933年10月)
阿部知二「脱獄者」(『レツェンゾ』10月号、1933年10月)


◆1934年

十返一「打倒既成文壇」(『レツェンゾ』第3巻第1号、1934年1月)
東郷青児「広津さんの話」(『レツェンゾ』第3巻第4号、1934年4月)
外山卯三郎「美術時評」(『レツェンゾ』第3巻第5号、1934年5月)
村野四郎「SPORTS」(『レツェンゾ』第3巻第8号、1934年8月)
八十島稔「海」(『レツェンゾ』第3巻第8号、1934年8月)


◆1935年

庄野誠一「生理」(『レツェンゾ』第5巻第1号、1935年1月)
南川潤「蝙蝠」(『レツェンゾ』第5巻第1号、1935年1月)
「街の新人推薦――石井美笑子(ムーラン・ルージユ)」(『レツェンゾ』第5巻第3号、1935年3月)
「街の新人推薦――林寿枝子(スヰート美容室)」(『レツェンゾ』第5巻第3号、1935年3月)
「日大建築展覧会」(『レツェンゾ』第5巻第3号、1935年3月)
「喫茶店巡り――新宿・上野・銀座」(『レツェンゾ』第5巻第3号、1935年3月)
吉行あぐり「流線型の流行――美容時評」(『レツェンゾ』第5巻第3号、1935年3月)
「街の新人推薦――ミセス・マスケート(マルケーフアツシヨン・スクール)」(『レツェンゾ』第5巻第4号、1935年4月)
「街の新人推薦――南里枝(松竹少女歌劇)」(『レツェンゾ』第5巻第4号、1935年4月)
「近代東京春粧十六景」(『レツェンゾ』第5巻第4号、1935年4月)
「街の新人推薦――野津美智子(音楽家)」(『レツェンゾ』第5巻第5号、1935年5月)
「街の新人推薦――三益愛子(笑の王国)」(『レツェンゾ』第5巻第5号、1935年5月)
小松清・木下雅子「五月若葉の巴里」(『レツェンゾ』第5巻第5号、1935年5月)
「アニマ洋画展(於銀座紀伊國屋画廊)」(『レツェンゾ』第5巻第5号、1935年5月)
阿部知二・小松清「ダイヴイング」(『レツェンゾ』第5巻第6号、1935年6月)
十返一(文)・長井早苗(ライカ)「百貨店の設計」(『レツェンゾ』第5巻第7号、1935年7月)
「新宿紀伊國屋ギヤラリー開設に際して」(『レツェンゾ』第5巻第7号、1935年7月)
「サロン・行動の開設」(『レツェンゾ』第5巻第8号、1935年8月)
表紙(『レツェンゾ』第5巻第9号、1935年9月)
「サロン『行動』に集る人々」(『レツェンゾ』第5巻第9号、1935年9月)
坂本正春「くろも展開く(於銀座紀伊國屋画廊)」(『レツェンゾ』第5巻第10号、1935年10月)
木庭典三「お二階さん」(『レツェンゾ』第5巻第11号、1935年11月)


◆1936年

柳亮「レベイヨン」(『レツェンゾ』第6巻第1号、1936年1月)
江間章子「詩壇の訃報」(『レツェンゾ』第6巻第2号、1936年2月)



エッセイ・解題・関連年表・主要参考文献  和田博文