東京昭和八年。丸の内の海上ビルの明治製菓売店と東和商事。

戦前の明治製菓宣伝部とその周辺を追う身にとっては、フィルムは残っていないと勝手に思いこんでいた、昭和8年11月23日封切の『純情の都』を見たということは、すなわち、P.C.L.第1回作品の大日本麦酒タイアップの『ほろよひ人生』(昭和8年8月17日封切)に続く、P.C.L. の第2回作品で明治製菓全面タイアップであるところの『純情の都』を見たということは、たいへんエポックメイキングなことだった。……であるので、先月に引き続き、しつこく余波は続くのだった。





上は『ほろよひ人生』のはじまりとともに映し出される三角の旗、中は同じく『ほろよひ人生』の、下が『純情の都』のタイトルロールの「写真化学研究所」の文字。『ほろよひ人生』のタイトルロールは、「P.C.L.」の三角の旗が砧村の空高くに掲げられたあと、クレジットとともに P.C.L. の「白亜の殿堂」のスタジオあちらこちらを映し出すというもので、BGMは映画のテーマ曲の紙恭輔作曲「ビールの唄」。このタイトルロールの、第1回作品にふさわしい清新な気分は何度見ても胸躍るものがある(本篇が始まってさっそく映るあまりにチャチな駅のセットとの落差がご愛嬌。ちなみに駅名は「ようようまち」。「酔う」と昭和8年に大流行した「ヨーヨー」をかけたのかな?)。第2回の『純情の都』では、さすがに撮影所を映すということはしていない。




徳川夢声『あかるみ十五年』(世界社、昭和23年5月15日発行)。装幀:東郷青児。トーキー時代が幕を開け、昭和8年3月31日をもって新宿武蔵野館を馘首、活動弁士を廃業した夢声は翌月、古川緑波らと「笑の王国」に参加、さらに同年、『ほろよひ人生』に緑波とともに出演、映画俳優としてのキャリアをスタートさせることとなった。昭和23年に発行の『あかるみ十五年』はその昭和8年から15年間の映画俳優としての仕事について綴ったもので、弁士時代を回想した『くらがり二十年』に続く書物。粗末な装幀の本だけれども、自身が出演した映画についておかしみたっぷり、かつ詳細に綴られていて、読み物としてとても面白い上に、資料性もバッチリ。夢声ファンのみならず、戦前日本映画ファンの必読書。とりわけ、P.C.L. および東宝初期を語る上では絶対にはずせない本(「超特愚作」の昭和10年封切りの山本嘉次郎『すみれ娘』の記述は読み返すたびに大爆笑)。




徳川夢声『くらがり二十年』(春陽文庫、昭和32年5月10日)。装釘:鈴木信太郎。『くらがり二十年』の初版はアオイ書房版(昭和9年3月26日初版)。次いで、初版に大幅に加筆して春陽堂文庫大衆小説篇(昭和15年4月5日発行)として刊行されたあと、昭和32年に春陽文庫として再刊された。夢声本には鈴木信太郎の装釘がよく似合う、といつも思う。『くらがり二十年』の連載開始は「新青年」の昭和8年1月号だったので、『あかるみ十五年』の直前の弁士廃業と「笑の王国」参加の同時期に連載されていたということになる。


……と、この2冊で折にふれ、徳川夢声を通した「東京昭和八年」というのを思っているのだった。武蔵野館馘首、「笑の王国」、P.C.L. 参加という一連の流れ。「昭和八年という年は興味ある年だと思うのである」(←高見順『昭和文学盛衰史』の一節)。


戦前の明治製菓を語る上でも、「昭和八年という年は興味ある年だと思うのである」。昭和8年2月、銀座売店新装開店、5月に京橋に新社屋落成、11月に『純情の都』封切。翌昭和9年に P.C.L. へ移籍する成瀬巳喜男が蒲田で『君と別れて』と『夜ごとの夢』を撮った年。



これまで、『純情の都』に関しては、当時の映画雑誌と合わせて、折りに触れ『あかるみ十五年』を読み返しては、しきりに思いを馳せていたものだった。明治製菓全面タイアップであるところの『純情の都』について、夢声は《日曜日の休業をしている、海上ビル一階の、明菓売店を使用して数カット撮った》、《海上ビルの私の撮影は、事務所から出てくる早智子嬢を、待ち受けてどっかへ、連れて行くという一カットだけ。次に、銀座の明菓売店二階喫茶室のロケである。社長は、彼女をここへ連れ込み、紅茶を一杯誂えただけで、彼女に厭味たっぷり、長々と口説くのである。もし云う事をきけば、月給を上げてやるが、厭だと云えば馘首である、然しワシはそういう残酷な事は嫌いでね、ヒヒヒヒ、てな事を云うのである》というふうに書いていて、まア、『純情の都』は海上ビルと銀座の明治製菓売店がロケ地に使われたのね! と、たいそう心を躍らせていたものだった。


そして、『純情の都』の「海上ビル」ロケのシークエンスを実際に見てみると、撮影後一度もこの映画を自分で見たことはなかったという夢声の回想はとても正確で、あらためて『あかるみ十五年』の資料性にうなった。



以下、木村荘十二『純情の都』(昭和8年11月封切、P.C.L.)より。



千葉早智子がタイピストとして勤める雑誌社の社長の徳川夢声はいやなジジイで、同僚の島耕二は希代のドンファン、純情な東京勤労女子・千葉早智子のまわりには危険がいっぱい(というのが物語の設定)。この画像では暗くてよく見えぬが、窓の外に Meiji の看板。



あいかわらず画像が暗いけれども、定時は午後5時。どこの時計台だろう? 『純情の都』の元タイトルは『恋愛都市東京』。チャチなセットだけでなく、あちらこちらで、モダン都市東京がロケ地として使われている。ニコライ堂をはじめとする西洋建築のショットを挿入することで、巴里風ムードをただわせてようとしているのが見てとれる(そのルネ・クレールの模倣はギャグそのもの)。



同僚島耕二は会社を退ける千葉早智子に言い寄るべく、海上ビル1階のレストランで千葉早智子が通るのを見張っている。白木正光編『大東京うまいもの食べある記』(丸ノ内出版社、昭和8年4月30日初版)の「丸の内界隈」の「海上ビル」を参照してみたら、ロケ地は「IOKランチ」というお店と見て間違いないようだ。曰く、《正面から這入った、左側の小部屋を、巧みに応用したランチ食堂。ここの特色は軽便な食事のとれることと、調理場が目の前にあって、お客の目の前で、調理して呉れることで、洵に気持がよろしい。お馴染客はその厨房前のスタンドに陣取って、コックと談笑しながら自分の註文品の焼けるのを待っている、という気易さです。とにかく近代人の心理を掴んでいますね。洋食一品三十銭内外。外に飲みもの、おしる粉もあります》。



と、島耕二が「厨房前のスタンドに陣取って」、虎視眈々と見張っていると、千葉早智子が海上ビルのエントランスをうつむきかげんで歩いてゆく。



千葉早智子を追いかけるべく急いで外に出てみると、社長の夢声が千葉早智子を待ち伏せていたのだった。



先を越されてしまった島耕二。呆然と立ち尽くすところに不自然にぶつかる女がひとり。



その女は海上ビル1階の明治製菓売店のウィンドウの前で振り返り、島耕二にあやしげな視線を送る。互いに見交わす顔と顔、と、このあと彼女に近づく島耕二。先にあげた『大東京うまいもの食べある記』は、海上ビルの明治製菓売店を《富士アイスクリームと通路一つ隔てて並んでいます。ここも丸ビルの店よりずっと広いが、矢張飲ものと洋菓子本位です》というふうに紹介している。この本では、海上ビルの飲食店は、全体的に《丸ビルよりも後に設けられただけに、すべての設備がよく、感じも整ってい》るとして評価が高い。



あわれ、千葉早智子は夢声に無理やり明治製菓銀座売店に連れ込まれる(千葉早智子の花の形の髪飾りがかわいい)。白木正光編『大東京うまいもの食べある記』(丸ノ内出版社、昭和8年4月30日初版)は、銀座の明治製菓売店を《伊東の隣りに四階建の素晴らしい新築がなって、喫茶と軽い食事が何階でも間に合いエレベーターで上下されます。銀座喫茶の最豪華版》というふうに紹介。同年2月に新装開店したばかりの明治製菓銀座売店は当時燦然と輝いていたようだ。『大東京うまいもの食べある記』はその明治製菓銀座売店と同時代の書物で、モダン都市東京の「外食」ブームの象徴する刊行書なのだった。



……などと、しつこく海上ビルロケ画像を貼り付けてしまったけれども、実際に『純情の都』を見て、『あかるみ十五年』で夢声の回想の正確さにしみじみうなった次第。で、昭和8年の海上ビルというと、思い出すのが、筈見恒夫なのだった。


というわけで、ひさしぶりに『筈見恒夫』(「筈見恒夫」刊行会、昭和34年6月6日発行)を取り出して読みふけったのだったが、よくよく見てみると、筈見恒夫に東和商事の宣伝マンとして入社したのは昭和8年11月末で、奇しくも P.C.L. の『純情の都』の封切とほぼ時を同じくしているという事実に気づいて、興奮だった。野口久光も同時入社し、以来、野口の図案と筈見のコピーで、東和商事のポスターが華麗を謳われるようになったのは周知の事実。


昭和3年の発足以来、東和商事の事務所は上で長々と貼り付けた海上ビルの7階にあった。その後、昭和10年4月に、海上ビル新館1階へ移転している。当時森永製菓宣伝部にいた新井静一郎の『ある広告人の日記』(ダヴィッド社、1973年9月)を読むと、さかんにここの事務所に出入りして筈見とあれこれ打合せしている様子が伺えて、胸を躍らせていたものだった。


先月に念願の『純情の都』を見たことで、1930年代東京にまつわるあれこれにますます胸を躍らせて、ちょっと収拾がつかなくなっている。とりあえず、「昭和八年という年は興味ある年だと思うのである」ということだけは確実。


……という折も折り、フィルムセンター(http://www.momat.go.jp/fc.html)でもうすぐ、川喜多かしこ関連の上映と展示がはじまる。なんと、グッドタイミング! 昭和7年に森永製菓の宣伝部に入社した新井静一郎がのちに、

殊にチョコレートは、その頃新鮮でモダンな製品であったから、広告表現の上でもアップ・トゥー・デートな新しさを出そうとして努力したことを覚えている。感覚からもムードからも、チョコレートと対比させられるものは映画だった。コピーを書く上で師も参考書も持たなかった私には、学ぶべき相手は映画広告のコピーであり、事実、東和映画の筈見恒夫氏のコピーには感心させられるものが多かった(『広告のなかの自伝』マドラ出版・1989年12月刊)。

と回想している時代に少しでも思いを馳せることができればいいなと思う。




『筈見恒夫』(「筈見恒夫」刊行会、昭和34年6月6日発行)より、《昭和9年、PCLスタジオにて映画雑誌記者とスタアたち。前列左から堤真佐子、竹久千恵子、森岩雄、内田岐三雄。後列松崎啓次、筈見恒夫、滝村和男、岸松雄、飯田心美、大黒東洋士、橋弘一郎、岸井明、藤原釜足、小島浩の諸氏》。顔ぶれは、『純情の都』のスタッフをかなり重なり、ワオ! この写真が体現するところの戦前日本映画に、そして、筈見恒夫や岸松雄が体現するところの戦前映画ジャーナリズムにますます興味津々で勉強せねばというところ。




「錯覚」創刊六月号(錯覚社、大正14年6月1日発行)。表紙:徳田耕作。徳川夢声主宰の映画随筆誌。

大正十四年、私は神田シネマパレスに勤めていて、「錯覚」という雑誌を七号あたりまで続けました。その時、筈見君が編集を手伝ってくれたのだそうですが、どうもハッキリした記憶がありません。楽屋などで青い顔をした、ニキビのあるおとなしい筈見青年が遊びにきていたこと、これはアリアリと思い出します。

というふうに、夢声自身は『筈見恒夫』(「筈見恒夫」刊行会、昭和34年6月6日発行)で証言している。当時筈見は17歳、昭和8年に東和商事の宣伝部に入るまで映画界を渡り歩いて迷走していた。そんな筈見青年の背後の日本映画史をさらに勉強せねばというところ。東和映画に入る前年の昭和7年、筈見は不二映画の脚本部にいて、岡田時彦のためにマルセル・パニョルの戯曲『トパーズ』を翻案したシナリオ『もだん聖書』にとりかかったものの、脚本の書き方がよくわからず、最終的には監督の阿部豊がほとんど書き直す、というようなこともあったという。と、ここで、いつも惚れ惚れと見とれてばかりの「しっぷ・あほうい!(id:el-sur)」であっと驚く素敵なスチール(id:el-sur:20080125)を発見!