鈴木信太郎表紙の「三田文学」で、三宅由岐子の戯曲を初めて読んだ。

今週も週明けにあたって、張り切って早起きして朝の静かな喫茶店でゆるりと、本棚に放置されたままの本を読んでゆくとしようと、先週の中戸川吉二読みの余韻を胸に、里見とん『おせっかい』(新潮社、大正12年7月)を持って外出……したものの、突発的に一緒に持参していた「三田文学」昭和9年10月号を繰っているうちに、先月の古書展でまあ500円だしととりあえず買っておいた「三田文学」昭和9年10月号の方に夢中になっているうちに、いつのまにか時間になっていた。




「三田文学」昭和9年10月号(第九巻第十号)。表紙が鈴木信太郎で、裏表紙が明治製菓の広告になっている号は、古書展で(安く)売っていたら、いつもとりあえず買っておくのだった。戸板康二が世に出た時期にあたる、いわゆる「第二期」の「三田文学」(大正15年4月号から昭和19年11号まで。和木清三郎が編集主幹をつとめたのは昭和3年12月号から昭和19年3月まで)にまつわるあれこれは長年の関心事。鈴木信太郎の「三田文学」への登場は、昭和7年8月号でカットを担当したのが最初、そして、翌月の昭和7年9月号以降はほとんど毎号、表紙画を描いている。



同号の裏表紙は鈴木信太郎の「明治チョコレート」。「三田文学」に初めて明治製菓の広告が登場したのは昭和7年12月号で、表紙に鈴木信太郎が登場のとほぼ時と同じくしている。裏表紙が明治製菓になった最初は昭和8年3月号。当初は足立源一郎(こちらも実に愛らしい)のカットなどが使われていたけれども、上掲の昭和9年10月号の裏表紙の明治製菓の広告が初めて鈴木信太郎によるもので、以降、裏表紙が明治製菓の広告だと、その号の「三田文学」は表表紙も裏表紙も鈴木信太郎! 両面が鈴木信太郎! ということとになった。和木清三郎の「三田文学」全盛時代を象徴するかのような、魅惑的なヴィジュアル。弱冠二十歳の戸板康二が劇評家として「三田文学」に颯爽と登場した昭和10年5月号は、まさにそのまっただなかにあった。



などと、つい第二次「三田文学」に熱くなってしまうのだったが、この「三田文学」昭和9年10月号(和木の編集後記によると、毎年10月号は「創作特集号」として新人の紹介につとめていたようだ)には、前々から気になっていた、三宅由岐子の戯曲『喪服』が載っているので、よろこび2倍だった(同号では「三宅悠紀子」名義)。



なーんて、「前々から気になっていた」というのは嘘で、三宅由岐子の名前を意識するようになったのは、実はごく最近のこと。武藤康史著『文学鶴亀』国書刊行会(asin:4336049912)所収の「日本語探偵帖」の「お上通り」のところで、成瀬巳喜男の『君と行く路』(昭和11年9月封切、P.C.L.)の原作の、三宅由岐子の戯曲『春愁記』についての言及のところで、《三宅由岐子は昭和十一年の二月に死去。満三十歳であった。同じ年の四月に戯曲集『春愁記』(双雅房)が出版され、九月にこの『君と行く路』が封切られている》とあるのを見て、「あっ、双雅房」とにわかに気になったのだった。


よくよく確認してみると、三宅由岐子は戸板康二の先輩である三田の劇評家、三宅三郎(「三田の両三宅」として三宅周太郎と並び称されることで有名……でもない)の妹で、水木京太に師事して戯曲書きの勉強をしていたものの三十になるやならずで病没、遺稿集として『春愁記』が双雅房より刊行されたようなのだった。久保田万太郎の肝入りであったことは確実で、事実、万太郎は『さんうてい夜話』というコラム集(「東京日日新聞」昭和10年8月より翌11年7月まで連載、単行本は春泥社より昭和12年5月刊)で、「三宅由岐子さん」と「映画化された『春愁記』」という文章を残している。こ、これは、「双雅房勉強」の一環で無視できない事実だ! と、にわかに興奮し、とりあえず、三宅由岐子の名前をくっきりと心に刻んだ次第だった。発端の、『文学鶴亀』によると、武藤康史は2005年6月に、《三宅由岐子『母の席』と田中澄江『遺族達』という絶妙の二本立てを両国のシアターXで見た》のだそうで、三宅由岐子の上演という千載一遇のチャンスは逃してしまっていて、残念至極なり。


戸板康二著『演芸画報・人物誌』(青蛙房、昭和45年1月)の「三宅三郎」の項に、

 印象深いのは、「三田文学」に三宅周太郎という同姓の先輩を訪問した日のことを記した随筆と、この妹の思い出を書いた「貢と震災と妹」とである。
 あとの文章は「歌舞伎劇鑑賞」(昭和十七年七月三田文学出版部刊)にのった。戦後鵠沼にこもって観劇生活から離れている頃、たまたま菊五郎が初役で福岡貢を演じることになった時、ぼくが劇評を雑誌に依頼したのは、このあとの文章の中で、震災の日、市村座が焼けるのも知らずに、翌日(大正十二年九月二日)初日の『油屋』の(その時初役だった)六代目の貢を予想して兄妹で話し合っている場面が出てくるからなのだ。

とあるのを見て、そのあたりの文献をいろいろとひもとくのもたのしかった。それから、くだんの「シアターX」での上演に際しては、演出をご担当の川和孝さんが「三田文学」2005年夏号(第82号)で、「尋ね人・三宅由岐子」という一文を載せていたのを発見したりとか、双雅房の書物雑誌「読書感興」で『春愁記』が刊行された際のいくつかの同時代評を見て、コピーをとってファイルに綴じたりとか、武藤康史の『文学鶴亀』以来、ワキからジリジリと三宅由岐子にしのびよる、ここ数か月だった。と言いつつ、肝心の双雅房より刊行の遺稿作品集、『春愁記』はいまだ入手していない。



とかなんとか、例によって、前置きが長いのだったけど、いつものように先走って『春愁記』を買ったりはせずによかったと思う。たまたま手に入った、三宅由岐子在りし日の「三田文学」でその作品を読むことになっためぐりあわせが、偶然とはいえ、ちょっと嬉しい。


というわけで、ここ数か月気になっていた、三宅由岐子の戯曲を初めて読むこととなった。で、いざ読んでみると、この『喪服』というタイトルの、ごく短いシナリオがしみじみ巧い、というか、手だれなのだった。若くして病歿したとある夫人の三回忌に際しての、母と妹、夫の母、夫、亡き女性の友人のサマを描いていて、当初はしめやかに会話が繰り広げられているかと思ったら、亡き女性は夫の母に生前かなり疎んじられていたこと、母と妹はもちろんそれを百も承知でいること、妹によると亡き姉は夫と友人の間柄を疑っていたことなどなど、そういった背景がじわりじわりと、浮かび上がってくる。そして、その山の手言葉が読んでいると実に心地よい。言葉が実に美しい。まさに成瀬巳喜男の女性映画を見ているかのような、よくある「世間」を描写しつつも読後感に不快さはなく、全体的にはひとつの抒情のようなものへと昇華しているような感じで、すっかり惚れてしまった。ほんの20ページ足らずの戯曲で。



帰宅後さっそく、まさに満を持してという感じで、三宅由岐子『春愁記』(双雅房、昭和11年4月)の購入手続きをする。跋を師の水木京太が書いているというのも、たのしみ。戸板康二は、《三宅さんは劇評家の中では文壇とはじめて接触した人で、里見とん氏と最も親しく、同世代の親友は中戸川吉二、水木京太だった。早く親友の二人に死なれて、さびしがっていた》というふうに書いている(「三宅周太郎さんのこと」/「学鐙」昭和42年3月→『夜ふけのカルタ』所収)。三宅周太郎の同時代文士との大正からの交流、というのも長年の関心事なのだった。


 『晩秋』の演出もすれば、『春愁記』の演出もしたくせに、わたくしは、三宅由岐子さんに逢ふをりをもたなかつたばかりか、つひに一度、いかゞですか、御病氣はの、はがき一枚書かずにしまつたのである。……といふことは、『晩秋』のあとでも、『春愁記』のあとでも、由岐子さんのはうからは、御鄭重すぎるほど御鄭重な御挨拶を頂戴してゐるのである。……だから二重にも三重にも申譯のないわけなのである。
 たまたま今年になつて、どッちかといふと工合のわるい方にむかつて來てゐると聞き、とたんにおもひついて、眞船豊君の『鼬』を出した双雅房に『三宅由岐子集』を出す交渉をしてみたのである。
 幸ひにそのおせッかいは成功し、とんとんと話は運び、由岐子さんの先生、水木京太君からわたくしのところまで原稿がとゞいた。それにそへて本の名まへは『春愁記』、表紙のいろはもし出來るなら若草いろ、さうした由岐子さんの希望をさへわたくしは知ることが出來たのである。
 と、その前後、創作座で『春愁記』を再演する話がきまつた。初演のときの縁でわたくしがまた演出をすることになつた。……早速、わたくしは、關係者をあつめて本讀みを行つた。
 そのとき、三幕目の終りに近いところまで讀みすゝんで
 ――萌黄色とでもいふかな、草の色をした、金銀で霞を描いた振袖を着てな……
 さうした空木子爵の臺詞に出ッ喰した。……萌黄いろ……草の色……由岐子さんの希望した表紙のいろは自殺した霞の衣裳のいろに外ならなかつた。
 しかもそのとき、由岐子さんはもうこの世にゐなかつたのである。さうした希望を殘したまゝ本の出るのもまたず、再演されたそのしばゐの評判をきくことなしに帰天してしまつたのである。……


【久保田万太郎「三宅由岐子さん」 - 『さんうてい夜話』(春泥社、昭和12年5月)より】