野口冨士男『海軍日記』。島津保次郎『私の兄さん』と『純情の都』。

朝の喫茶店。野口冨士男『海軍日記 最下級兵の記録』(文藝春秋・昭和57年8月=現代社・昭和33年11月刊行の新版)をもう一度ざっと読み返すことにする。海軍に応召された昭和19年9月14日から昭和20年8月24日の復員までこっそりつけていた当時の日記を詳細な註を付して刊行したもの。今までずっと機会を逸していたけれども、いざ読んでみるとやはりクイクイと引き込まれてしまったなアと、付箋をはさんであった箇所の確認作業をしてゆく。昭和19年10月24日の日記に《快晴にて暖かし。防空演習のため、夕食は乾パンとジャムなり。菓子配給さる、十銭。夜、退避訓練。月明皎々たり》とあって、「菓子」のところに、

配給される菓子は何時も大抵ビスケット類か、紅梅焼ふうの干菓子であったが、いずれも奈良の鹿に喰わせるセンベイのようなものだと思えば間違いがなかった。甘くも辛くもない。ウドン粉の臭いがあるだけで、ぜんぜん味がないのである。艦船や病院では虎屋のヨウカンなどが配給されるらしかったが、海兵団では品質まで劣等であった。私は今でもその菓子袋の一つを保存してあるが、日本の二大メエカアの一つであるМ製菓の製品である。私はその紙袋を見て、あの会社も下落したものだなと考えさせられた。そして、一麦も配給でこんなものを食べさせられているのかなと、息子のことを思い出したりもした。

というふうに註釈がある(と、この本は昭和33年初刊当時の野口冨士男の詳細な注釈が実にすばらしい)。この「М製菓」は森永だろうか明治だろうか、仮に明治製菓としても、昭和19年10月というと、戸板康二は一年以上前に退社していて、この頃は日本演劇社に入っている頃だ。戸板康二が明治製菓を去る頃(昭和18年夏ころ)はお菓子の生産は「軍用」ばかりになっていたという。軍とか国策にいたって協力的だった明治製菓のお菓子はこういうふうに供給されていたのだなア(いつのまにか明治製菓に決めつけている)……などと、こんなちょっとした記述が日記本の醍醐味だ。とりあえずノートにメモして、付箋をはがす。




「スヰート」第18巻第1号(昭和18年3月10日発行)。表紙:林重義。大正15年10月に創刊された明治製菓の PR 誌「スヰート」はこの号をもって終刊となった。深田久弥「荒船山」、内田百間「風流」、三好達治「来宮さま」といった文芸記事がある。裏表紙は《強い子がお国の宝》という惹句とともに「明治滋養糖」の広告。「スヰート」は「時局に鑑み」て「栄養之友」と改題して第1号が同年6月に刊行するも、12月発行の第3号で終刊となり、昭和18年をもって戦前の明治製菓の広報誌の幕が下りた。最終号の「栄養之友」第3号には、同年に明治製菓を退社して、女学校の国語教師をしていた戸板康二が「のっぺいと鴨」という、春日若宮の御祭の折の食味について綴った格調高い文章を寄せている。戸板康二が春日若宮の御祭に訪れたのは明治製菓に入社する直前の昭和13年12月のことだった。



日没後。鍛冶橋通りをズンズン歩いて、明治製菓本社の手前で左折。明治屋に寄り道してワインを物色して、外に出て空を見上げると、ビルの陰でアサヒペンがクルクルとまわっている。鍛冶橋通りからはアサヒペンが見えなくなってしまって、寂しいことである。《スターと監督 長谷川一夫と衣笠貞之助》特集開催中のフィルムセンターへ、島津保次郎『私の兄さん』(昭和9年12月封切・松竹蒲田)を見にゆく。この映画についてフィルムセンターの広報には、

すねた弟(林)と富豪令嬢(田中)の恋、彼が立ち直るのを優しく見守る義兄(河村)たちの人間関係を、《蒲田調》の代表監督・島津保次郎がモダンな作風で描いている。『或る夜の出来事』(フランク・キャプラ)の影響も指摘された。

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'34(松竹蒲田)(出)林長二郎(文雄)(監)島津保次郎(撮)桑原昂(美)脇田世根一(音)早乙女光(出)河村黎吉、鈴木歌子、田中絹代、坪内美子、坂本武、大山健二、石山竜兒、赤地重雄、野寺正一、奈良眞養、河原侃二、山口勇、小林十九二、南里コンパル、松井潤子

とある。


島津保次郎の未見映画だというただそれだけで、気が向いてふらりと見に来たのだったけれども、そのものズバリの「日本映画における外国映画の影響」的演出にしょっぱなからにんまり、「やってる、やってる」と頬が緩んでしかたがない。BGM がくどいくらいに多用されているところが、いかにもトーキー初期なのだった。島津保次郎というと、『隣の八重ちゃん』(昭和9年6月封切)や『兄とその妹』(昭和14年4月封切)が大好きなのだけれど(いずれも数年前に一度見ただけで再見の機会は今までない。初見でメロメロだった『家族会議』は再見時にはそうでもなかったので、これらも再び見たらそうでもないのかも……)、それらの映画に典型的な「モダーン!」さと、河村黎吉や田中絹代が体現するところの戦前松竹の都会市井の雰囲気(通りがかりの食事処のちょっとしたやりとりとか)がいい具合にまじりあっていて、全体的にはだいぶゆるいつくりではあるけれども、戦前松竹好きにとっては、大いに嬉しい映画だった。田中絹代がたいへんかわいらしかった。林長二郎よりも河村黎吉に「いいなア!」のいいどおしだった。




島津保次郎の『隣りの八重ちゃん』というと、まっさきに思い出すのが、帝劇でベティ・ブープのアニメーション映画を見ているシーン! というわけで、この画像は、木村荘十二『純情の都』(P.C.L.、昭和8年11月封切)より。場面が変わってベティが大写しになったと思ったら、舞台は屋内遊園地(のようなところ、ロケ地は何処?)で、竹久千恵子と堤真佐子と藤原釜足と岸井明が遊んでいるシーン。遊戯道具にベティがあしらってある。



手前が堤真佐子で、奥に竹久千恵子と藤原釜足。こちらの遊戯道具(?)ではミッキーマウスの絵があしらってあるのが見える。巴里風アパルトマン(ニコライ堂の近所)に同居する千葉早智子と竹久千恵子のところに、失業中だった仲間たち、堤真佐子、藤原釜足、岸井明がとあるモダーンなキャバレー(支配人がロッパ。明治製菓のお菓子やポスターが陳列してある謎のキャバレー)にレヴュー群として職を得たと報告に来るのが発端。千葉早智子と竹久千恵子はインチキ雑誌社(社長が夢声。窓の外からなぜか明治製菓ビルが見える)の同僚で、このとき竹久千恵子が会社をさぼって、仲間の就職祝いに遊園地へ遊びに行ったため、まじめに出勤した千葉早智子はひどい目にあう。




『純情の都』は『ほろよひ人生』に続く、 P.C.L. の第2回作品。『ほろよひ人生』が大日本麦酒の全面タイアップであったのと同様に、『純情の都』は明治製菓の全面タイアップ。戦前の明治製菓宣伝部あれこれを長年(でもないが)追っている身にとっては「切望」という言葉をいくら使っても足りないくらいに見たい映画だった。フィルムは残っていない(とどこかで読んだ記憶があった)と思いこんでいたのだったけれど、先月またもた CS で放映があると知り、驚愕であった。またもや DVD をいただいて、無事念願の『純情の都』を見ることができた。島村竜三のムーラン・ルージュの脚本タイトルは『恋愛都市東京』で、『純情の都』は映画公開に際して改題されたもの。初出は「モダン日本」昭和8年5月号で、同年11月号には撮影所訪問記事があった。と、近代文学館で「モダン日本」をランランと繰って、映画に思いを馳せていたものだったけれども、本当に見る日がやってくるなんて! 『ほろよひ人生』同様、いざ見てみると脱力するだけかと思いきや、突っ込みどころも満載だけれども、キラリと光るところも大いにあった。一番の収穫は、ムーランルージュの雰囲気のようなものをほんの少しだけ実感できたことかなと思う。……などと、『純情の都』については、今後もしつこく追記したい。