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三田で小泉信三展を見て愛宕山へ。藤牧義夫の《隅田川絵巻》を見る。

雨があがって嬉しいなアと、午後、三田界隈へ出る。菊地寛生誕120年の今年は、小泉信三の生誕120年でもあるのだった。慶應義塾大学旧図書館にて《生誕一二〇年記念 小泉信三展》が賑々しく開催されているという、が、会期はたった二週間、見逃しては大変だ、こうしてはいられないとイソイソとはせ参じる。演劇博物館のそれのような閑散とした展覧会場に違いないとタカをくくっていたら、場内大混雑。ほんの物見遊山気分で、そう期待はせずに、しかし小泉信三と聞くと無視できないのでとりあえずここまでやって来たのだったけれども、展覧会は丁寧に設計され、たいへん充実していて、隅々まで行き届いていた。展示の隅からスミまで凝視して、思ってもいなかったくらいに深い感銘を受け、あるところでは思わず涙目になって鼻水まですするのだった(安藤鶴夫の「感動する夫」状態)。水上瀧太郎や久保田万太郎、そして戸板康二といった「三田の文人」のキーパーソンとしての小泉信三、ということを考えられればそれでいいかなというくらいの軽い気持ちだったのだけれども、小泉信三の生涯の特に戦前のトピックの何箇所かに心の奥底に眠っていた私的感慨が喚起されて、あちらこちらで胸を揺さぶられるものがあり、背筋が伸びる思いだった。ジーンととりあえず図録を買って、会場をあとにする。



図録《生誕一二〇年記念 小泉信三》(慶應義塾、2008年5月8日発行)。迷わず購入した図録(1500円)はレイアウトがなかなか洗練されていて、美しい仕上がり。戸板康二の『あの人この人 昭和人物誌』の「小泉信三のステッキ」を思い出して、小泉の写真を見るといつもステッキに目が行ってしまう。



そもそものお目当ての「三田の文人」のキーパーソンという点でも、過去に読んだいろんな本の記憶がよみがえってくるのがとてもたのしいのはもちろん、将来の本読みの意欲がモクモクという、展覧会の典型的たのしみを随所で満喫。テニスをする小泉信三のところでは、かつてランランと読んだ山口昌男の『「挫折」の昭和史』を思い、水上瀧太郎の『倫敦の宿』の自筆原稿を目の当たりにした瞬間はゾクゾクッと興奮、ここに記録されている滞欧文人のネットワーク(澤木四方吉や島崎藤村など)に胸躍ったことを思い出して懐しかった(しかし小説そのものはつまらなくて、文学作品というよりも「記録」として読んだ)。と、ここで思い出すのは、久保田万太郎が大正3年5月に書いた『五月』(全集第10巻「随筆一」に収録)という随筆のこと。《倫敦の水上君から、小泉君や澤木君や松本君と寄せ書の端書が届いた。》という一文ではじまる『五月』のことを思い、ここから10年以上の歳月を経て、大正15年4月に水上瀧太郎を「精神的支柱」に復刊された第二次「三田文学」に思いが及んで、和木清三郎の戦前・戦中・戦後についてもっと深く追求せねばならぬという長年の懸案で頭のなかがいっぱいになった(懸案ばかりが多すぎる)。



福沢諭吉から始まる小泉信三の生涯はまさしく「日本の近代」そのものなのだなアと、展覧会の興奮を胸に背筋をのばして、日比谷通りを東京タワーに向かってズンズン歩く。戸板女子短大を右に見ながら直進するとやがて芝園橋をわたる。芝公園と増上寺を左手にテクテクと、愛宕山へ。NHK放送博物館へゆくべく、エレベーターに乗りこむ。ここから見える東京タワーの眺めがいつも大好きだ。




『大東京観光アルバム』(東京地形社、昭和12年4月5日発行)より、戸板康二在学時の「慶應義塾大学」の図書館の建物。5月25日の空襲で焼失し(書庫は幸い無事だった)、戦後修築工事がなされてその落成式は昭和24年5月5日。小泉信三展が開催されたのはこの旧図書館の建物で、改修後の建物ながらも戸板康二在学時を髣髴とさせるに十分なたたずまいで、いつも建築見物がたのしい。




同じく、『大東京観光アルバム』(東京地形社、昭和12年4月5日発行)より「JOAK」。『大東京観光アルバム』は実用品的な単なる「観光アルバム」でありながらも、写真の並びが描きだす当時の東京地図と、「資料写真」ならではの味わいがなんだか好きだ(ちなみに撮影は穂刈三寿雄)。上の「慶應義塾大学」のひとつ前の写真がこの「JOAK」で、今日の歩行コースをそのまま逆行した格好、「JOAK」のひとつ前は「大倉集古館」で、休日の午後にこの界隈にきたらホテルオークラでのんびりと喫茶するのをたまにたのしみにしているのだけれども、今日は時間がなくて行かれず、残念なことであった。



放送博物館はいつものとおりに展示室は無視して「放送ライブラリー」に直行。本日のお目当ては1986年7月27日放映の「日曜美術館」、特集タイトルは《隅田川絵巻 ある版画家の生と死》。この藤牧義夫を特集したプログラムには、なんと野口冨士男が出演しているらしい! と聞いて、こうしてはいられないとイソイソとここまでやってきた次第だった。で、いざ視聴してみると、たいへん丁寧に作られているプログラムで、藤牧義夫の短い生涯と作品にシンシンとひたって、胸がいっぱいだった(ほんの短い出演ながらも、野口冨士男の紳士的かつ理知的なしゃべりにも惚れ惚れ)。藤牧義夫の数々の版画作品は同時代のモダン都市の版画ブームの典型的作品で、それだけで胸躍るものがあるのだけれども、やはり心に突き刺さるのは「隅田川絵巻」で、隅から隅までを写す画面を凝視する時間に、彼の名を知るきっかけとなった2001年夏に出かけた東京都現代美術館の《水辺のモダン》展と(これまで見た展覧会で最も心に残っているもののひとつ)、その直後に読み始めた洲之内徹のことを思い、そして、野口冨士男の『相生橋煙雨』を思って、そしてモニターに映し出される「隅田川絵巻」を凝視して、すっかり腑抜け状態に。

線がほそい。いかにも、かぼそい。ある意味では、ひよわである。それは、明らかに体力といえるものをうしなってしまった画家の絵以外のなにものでもなかった。が、対象をじいっと喰い入るようにみつめて、そのかぼそい線描で彼は凝視から得たあらいざらいのすべてを無比と言っていい精確さで克明にとらえている。実も蓋もない言い方をすれば、彫刻刀で版木を彫るだけの体力もうしなっていた彼は、毛筆で絵を描くことに美術家としての活路――結果からいえば最後の拠りどころをみいだした。さぐり当てたといってもいいだろう。それが、版画家藤牧義夫の遺していった『隅田川絵巻』であったに相違あるまい。


【野口冨士男『相生橋煙雨』(初出:「文学界」昭和57年1月→文藝春秋・昭和57年6月刊)】


野口冨士男は『相生橋煙雨』を書くにあたって、編集者に

「書けるか、書けないか、そんなことは今のところ雲をつかむようでまったくわかりませんけどね、その藤牧義夫っていう人は明治四十四年の生まれだそうだから、僕と同年なんです。しかも、書くものが売れなかった点では僕にも身におぼえのあることなんですが、ごく少数の例外をのぞけば昭和十年代前後の無名の芸術家の生活はさんたんたるもので、彼もよっぽど苦しかったんでしょうね、友人の版画家に自分の作品を預けて、浅草の姉の家へ行くと言いのこしたまま、それきり消息が絶えちまったんだそうです。死んだっていう証拠もないけど、誰も遭った者がないっていうんですから、今で言う蒸発なんでしょうが、それがまた昭和十年の九月で、僕自身も勤め先が倒産してちょうどそのころ失業中だったもんですから、へんな因縁を感じるんです」

と語っているとおりに、藤牧義夫と野口冨士男は同年生まれで、同じ時代の東京の空の下を歩いていた。だからこそ、『相生橋煙雨』の以下のくだりはとても感動的で、モニターに映し出される藤牧義夫の『隅田川絵巻』を凝視しながら思ったのは、野口冨士男のこの一節だった。

 そこにある風景をあるがままに描いている彼の『絵巻』の背景は広い空なのに、どこまで行ってもただ一つの雲もない。わずかに翔んでいる一群の鳥が塵のように小さく配されてはいるものの、一片の雲とてもない。生きることに追われて地上にしか関心がなかった彼の心理内容の反映を、そこに見ては思いすごしとなるだろうか。雲が見えるということは晴天のあかりでもあるから、彼のえがいた雲ひとつない空は曇天を暗示しているのかもしれない。人間生活の底辺を這うようにしてしか生きられなかった彼の短い生涯の象徴を、私はそこに見る。彼が隅田川をえがいた昭和九年から十年にかけての東京――延いては日本は、そんな時代でもあった。その意味で、藤牧義夫の『隅田川絵巻』は時代をえがいているとも言えるだろう。


野口冨士男を見たいッという単なるミーハーで視聴することとなった「日曜美術館」の藤牧義夫に心が吸い込まれているうちに、磯田光一が野口冨士男を「モダニズムを通過した私小説作家」という言葉で評していたのを急に思い出したりもした。




藤森静雄《愛宕山放送局》昭和4年、版画「新東京百景」より。帰宅後まっさきに手にとったのは、海野弘監修『別冊太陽54 モダン東京百景』(平凡社、1986年6月)。洲之内徹が「文・構成」を担当した藤牧義夫の『隅田川絵巻』の図版を眺め、洲之内徹の「『隅田川絵巻』雑感」と題した文章を読み返す。『さらば気まぐれ美術館』(新潮社、昭和63年3月)の一番最後の文章、すなわち「気まぐれ美術館」の最後は『隅田川絵巻』を扱ったもので、

前回に書いているとおり、この界隈の二つの部屋を、私はあっちへ行ったりこっちへ行ったりして暮らしているが、つい先程も、清洲橋に近い方の部屋の窓から(従ってやや下流の方から)、隅田川のこの辺を眺めていたところなのだ。いまは深夜の隅田川にも静寂というものはない。高速道路の車の騒音が、騒音というより遠い轟音になって、夜の川面をか籠めている。夜が更けるとかえってそれが耳につく。広告燈の灯が消え、船の往来も耐えた暗い水面を、水上警察の巡視艇が、赤いランプを点滅させながら通って行く。失踪した藤牧義夫がこの水の底に沈んでいるという説もあるが、私は信じたくない。

という一節で締められているのだった(「藝術新潮」昭和62年11月号掲載)。