《シュルレアリスムと写真》展で一九三〇年代東京をおもう。

明日から4日間も休日が続くなんて嬉しいなアと、午後になるとすっかり気持ちがフワフワ、心ここにあらずという感じで、来るべき休日のことで頭のなかがいっぱいになっている(毎週金曜日はいつもだけれど)。しかし、そうこうしているうちに、いつものように、明日からの休日のことよりも、今日の寄り道はどうしようか、ということで頭のなかがいっぱいになっていた。


今日は一日、天候不安定で雨がふったりやんだりだったので、日没時の空気はだいぶぬめっとしていて、いやな感じ、そうだ、迫りくる多湿の季節に備えて、そろそろ覚悟をしないといけないのだ……というようなことを思いながら、恵比寿三田通りの坂道をタラタラとのぼって、やっとのことでビール工場跡地に到着。今日は一日、なんとなく力が出なくてへなへなしていたので(いつものことだけれど)、歩いて行けるブリヂストン美術館にしようかなとギリギリまで迷ったのだけれども、なんとか力を振り絞って地下鉄にのって、あと数日間の会期となっている、東京都写真美術館の《シュルレアリスムと写真 痙攣する美》展を見物にここまでやってきたのだった。


と、こんなへなへなした身で大丈夫かしらと心配していたのだけれども、いざ展覧会場に足をふみいれてみると、次第に気持ちが高揚、力を振り絞ってここまでやって来た甲斐があったなアと嬉しかった。「シュルレアリスムと写真」というタイトルで括られている今回の展覧会はむしろ、飯沢耕太郎の本をランランと読んでいる時間がそのまま立体化したような、「都市の視線」といったものが通奏低音となっている感じで、そんなところが共感たっぷりで、嬉しかった。


展覧会は全部で4つの章で構成されている。はじまりは、ウジェーヌ・アジェとブラッサイ。都市の等身大の現実……云々といったような説明書きを反芻しつつフムフムと写真に対峙するのもモクモクとたのしいし、、そんなことは忘れて写真そのものが眼の歓びだったりもする。都市を写すことでやがて視線は細部へと向かい、第二章では「オブジェ」をうつした写真が並んでいる。マン・レイの《解剖台の上のミシンと蝙蝠傘の偶然の出会いのように美しい》は見るたびに大好きなのだった。ここにある写真を見ているうちに、なんとはなしに1930年代日本の写真界あれこれを思い出していたら、安井仲治の写真があって、大喜び。と、そのすぐあとで、大辻清司、瑛九、植田正治といった、かつて展覧会でたいへん満喫した写真と再会するひとときとなって、格別なものがあった。いつ見ても、何度見ても大好きな写真ばかり。部屋で彼らの図録をじっくり見返したくなってムズムズしてくるのも、またたのし、だった。


第三章は「ボディー」。都市のなかの広告や陳列窓に飾られたマネキンは、切断されることで「物質」として屹立する。そんな「物体」としての「ボディー」。何年も前に、展覧会で特に強い印象になっていたカレル・タイゲの名前をチラリと目にすることができたのも嬉しかった。展覧会に来る歓びは、過去の展覧会の歓びがあらためて喚起されることにあるのだなあと、いつも思うことをしみじみ思う。コラージュ作品が素敵だなアと、目の歓びも満喫。そして、ラストは「細部に注がれた視線」。最後にふたたび、アジェの写真を見ることで、一周まわった感じ。パリの町なかのアールヌーヴォー建築の細部の写真といった都市意匠は、撮られることで「都市」が「オブジェ」へと転換する瞬間を見る者に提示する、ということにハッとなって、ランランとなったところで、本日の展覧会はおしまい。全体的には、日頃から緩慢に追っている、一九三〇年代モダン東京、といったものへ思いが及んだひとときとなって、なかなかの快楽だった。いつもおなじところをグルグルとまわっているのだけれども。でも、グルグルまわるのが快楽なのだから、しかたがない。


いつもの通りに売店でしばし立ち読みして、いい気分で外に出る。ここから目黒へと歩いて、ウエストに長居して本を読むのがいつものおたのしみなのだけれども、今日は早く家に帰りたい気分だった。来るべき連休に備えて、英気を養うこととする。ミルクティを飲みながら、展覧会の余韻を胸に、大の愛読書、飯沢耕太郎著『写真に帰れ 「光画」の時代』(平凡社、1988年10月)を読み返したところで、いつもよりだいぶ早めに就寝。明日からも4日間毎日早起きするのだ。




「光画」第2巻第8号(昭和8年8月20日発行)掲載の、中山岩太の作品。今回の展覧会でまっさきに思い出した写真として。