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渋谷から東急バスにのって成城へ。皇紀二千六百年の東京写真を見る。

日曜日の午後、雨上がりの渋谷から東急バスに揺られてトロトロと、終点の成城学園駅へ。渋谷から東急バスにのって成城へゆく、というのを、ずっとしてみたいと思っていたので、念願かなってやれ嬉しや、だった。


成城といえば「砧撮影所」。砧撮影所といえば、代表的な「東京戸板名所」のひとつ。藤本真澄の誘いで、戸板康二は昭和31年10月より昭和46年まで、プロデューサー会議に出席のため、毎週水曜日の午後、砧撮影所に通っていた。

 藤本さんから電話があった。そして、まだ今の本社の建物ではなく、日比谷映画の隣の小さなビルにあるオフィスにゆくと、「週に一度でいいのだが、うちの撮影所に来て、昼飯を食べながら、スタッフと雑談してくれないか」といわれた。
 同時に、映画のほうは、東和映画の宣伝部長で、評論も書く筈見恒夫、文学のほうは十返肇の二氏に、たのんだという。
 快諾して、毎週水曜に、砧まで行くことになった。いわゆる嘱託という名義で、毎月給与をもらう。渋谷(のちには田園調布)から、東急バスで、成城にある撮影所の門をはいり、すぐ右手の建物の階下でランチを食べたあと、二階の小さな部屋で、プロデューサーや監督と、話した。
 つまり、芝居と映画のことは戸板と筈見、最近読んだ作品については十返がしゃべるわけだ。固苦しい話は一切せず、洒落をいったり、ゴシップを聞いたりもする。それでも、多少は、撮影所で仕事に没頭している映画人の参考にはなったかも知れない。

【戸板康二『思い出す顔』(講談社、1984年11月) - 「砧撮影所」より】

藤本真澄が招集した、戸板康二、十返肇、筈見恒夫の三人は明治製菓、森永製菓、東和映画という、いずれも戦前の宣伝部出身であり、藤本自身も昭和9年から P.C.L. に入る昭和11年まで、明治製菓宣伝部の内田誠のもとにいた。というわけで、砧撮影所のプロデューサー会議は、戦前の宣伝文化の素敵な余沢だったわけで、戦前の明治製菓宣伝部あれこれを追う身にとっては、なんとも魅惑的なトピックなのだった。


と、砧撮影所のプロデューサー会議に魅了されるばかりに、『思い出す顔』にあった、戸板康二の砧通いコース、《渋谷(のちには田園調布)から、東急バスで、成城にある撮影所の門をはいり……》をたどってみたいなとずっと思っていた次第。というわけで、渋谷から東急バスにのって成城へ向かう日曜日の午後は、念願かなってやれ嬉しや、なのだった。バスに乗り込んで、道玄坂を通って246に出たあたりから、いつもの通りにトロトロとしてしまいしばし寝入ってしまうのだったが、世田谷通りに入ったあとはずっと目が覚めていたので、バスが砧撮影所の脇を通りすぎる瞬間を無事に堪能することができた。渋谷からは40分くらいだったかな、意外に早く着いた。渋谷からバスに揺られて砧撮影所に向かうときの戸板さんはどんなだったのだろう。車窓をぼんやり眺めていたのか、ゲラ刷りに目を通していたのか、バスでの移動は絶好の息抜きでもあったかもと思う。



世田谷美術館分館・清川泰次記念ギャラリー(http://www.kiyokawataiji-annex.jp/)で《大東京 清川泰次が写した昭和十五年のメトロポリス》展を見物。渋谷から東急バスに乗りたいがためにやって来たと言っても過言ではない感じだったけれども、初めて訪れることになった清川泰次のアトリエ、展示点数は多くはないけれども、天井の高い空間に展示された、昭和15年の東京写真を見る時間はとてもよかった。元からあったと思われる古いソファに座って、清川泰次の作品集を見る時間も素敵だった。今までほとんど気にとめたことがなかったのに、いざその作品を目にしてみると、かなり好みで、嬉しかった。



《大東京 清川泰次が写した昭和十五年のメトロポリス》展は、昭和15年11月10日、慶應の日吉キャンパスから帰宅後に部屋でライカを手にすぐさま銀座へ繰り出して撮った写真を展示したもの。その街頭風景は臨場感たっぷりで、映画のショットのまっただなかに自分が入ったような感覚がたまらなかった。資料的価値はもちろんのこと、いかにも垢抜けした抽象画を描く人といった感じの構図がなんだかよかった。一室だけの展示なので、すぐに見終わってしまうのだけれども、ぜひともまたここに来たいなと思った。もちろん、渋谷から東急バスにのって。




お土産にかった絵葉書、1940年頃撮影の、今回の展覧会と同時期の写真。





「皇紀二六〇〇年」東京写真として、「スヰート」昭和16年1月発行号掲載の京橋の明治製菓本社。「皇紀二六〇〇年」当時、明治製菓宣伝部に在籍していた戸板康二は宣伝冊子「スヰート」の編集に従事していた。この写真が掲載された号の前号、祝典行事と同月に発行の「スヰート」は《奉祝・紀元二千六百年》と銘打った号で、表紙は小村雪岱による菊の花の意匠となっている。釈迢空として折口信夫が巻頭に和歌を寄せている。この号の表紙原画を雪岱邸へ受け取りにいったのは戸板康二で、4日後に雪岱急逝の報に接し、愕然とすることとなった。雪岱は昭和15年10月15日に脳溢血で倒れ、17日に他界した。




「スヰート」第15巻第1号(昭和16年1月25日発行)。上掲の写真が載っている「スヰート」の表紙は岡鹿之助のカトレア。戸板康二は明治製菓宣伝部での仕事の傍ら、宣伝部長内田誠の私設秘書的な仕事もしていて、その一環で、同年3月に小山書店から刊行された、内田誠の随筆集『遊魚集』の編集を手伝った。「はい、ごほうび」と内田誠が私費で購入していた岡鹿之助の表紙原画をもらったというくだりが、『思い出す顔』(講談社、1985年)の「『スヰート』と『三田文学』」にある。あいにく昭和20年5月の空襲で焼けてしまったという。上記の雪岱と合わせて、「スヰート」表紙原画にまつわるストーリーとして、ずっと心に残っている挿話のひとつ。