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旭屋書店銀座店でコリンズを買う。1930年代東京の空にはアドバルン。

夜銀座で所用がある日は、なるべく早くに外に出て日比谷界隈へ向かい、東京宝塚劇場のところで帝国ホテルを正面に左折、みゆき通りを直進し線路のガード下をくぐると、やがて左手に泰明小学校、、旭屋書店で本を見て(立ち読みの方が多い気が…)、時間があるときは来た道をちょいと戻って、泰明小学校の向かいでコーヒーか気分がのったらシャンパンを1杯飲んで、買ったばかりの本(もらったばかりの PR 誌という方が多い気が…)を眺めているうちにとっぷりと日が暮れている……というのが、2年前にオー・バカナルが開店して以来のおきまりコースだったけれども(正面の泰明小学校の眺めが目当て)、旭屋書店銀座店は今月25日で閉店してしまうので、それも今月限りなのだなアと、日暮れどき、旭屋で本を見る。気になりつつも長らく未読だった、ウィルキー・コリンズ/中島賢二訳『白衣の女』(岩波文庫)の上巻を買うことにする。続きの中巻も下巻もぜひとも旭屋で買って、旭屋書店のわが歳月を締めくくりたいなと急に思ったところで外に出ると、とっぷりと日が暮れていた。


旭屋書店銀座店の閉店は、テナントになっている銀座東芝ビルが去年売りに出されたのと因果関係があるのかないのか詳らかでないけれども、数寄屋橋阪急の入っている「マツダビルディング」が大増築されて出来上がったのが現在の銀座東芝ビルだと知って以来、来るたびにそこはかとなく建築見物をたのしんでいた。長年旭屋書店は裏手の入口から足を踏み入れるのがお気に入りだったけれども、その裏の出入口が閉鎖されたのはいつだったっけかな。




銀座文化研究別冊『震災復興<大銀座>の街並みから』(銀座文化史学会、1995年12月発行)より、昭和9年12月撮影の、数寄屋橋公園の側からみた「マツダビルディング」。戦後に非常階段のある右手に大増築されてできたのが現在の銀座東芝ビルで、1階に旭屋書店。数寄屋橋公園を背に旭屋書店に入るとき、いつも頭に浮かんでいたのはこの写真だった。




「今日も空にはアドバルン」と、鈴木信太郎の《東京の空(数寄屋橋付近)》昭和6年。昭和9年9月施工なので、この当時の数寄屋橋にはマツダビルはまだなかった。




と、『震災復興<大銀座>の街並みから』で見ることができる、昭和9年のマツダビル屋上の写真があんまり見事だから、つい一緒に鈴木信太郎を貼り付けてしまうのだった。今の松屋のあたりに、当時明治製菓銀座売店があった。この写真でかすかに見える。伊東屋のビルの向かって左手に見える。よく目をこらさないと見えないのだけれども、戦前の明治製菓観察者のわたしにははっきりと見える。当時としては高層だったことが見てとれる。



明治製菓銀座売店は大正13年3月に銀座東三丁目に開店、隣の「鈴幸洋品店」の土地を吸収して増築して、昭和8年2月11月に新装開店と相成った。明治製菓銀座売店と同時代の銀座風俗、というか1930年代東京あれこれに夢中の日々。




高田保『舗道雑記帖』(時潮社、昭和8年7月)。明治製菓銀座売店が新装開店した昭和8年に刊行の『舗道雑記帖』所収の「銀座雑記帖」に明治製菓売店は以下のように登場している。

 明治製菓が四階新装の喫茶店を開いた。僕達は立停ってそのネオン広告を仰ぎ見た。その後で一人が
「時に、ここは以前何だった処かね?」
「眼鏡やだったよ!」
 と一人が答えた。眼鏡やといえば一昔前からの松島屋である。――だがこの江戸伝来の老舗はそのネオンサインの隣りに隠れて、昔ながらの姿をやっぱり其処に見せているではないか。
「いや、靴屋だったよ!」
 見給え! その靴屋だってあの通りちゃんとあるじゃないか!
 とすると?――と僕達は頻りに首を振ったのであるが、ついぞ思い返すことが出来なかったのは何故であるか? つい昨日のことですらかくのごとしとすれば、ましてや十年の以前なぞ、と思われるのだが、しかし眼つぶれば却ってその遠い日の事の方が瞭りと浮んで来る。あの頃はいまほどははげしく染返されなかったからであろうか?


『明治製糖三十五周年記念 伸び行く明治』(明治製糖株式会社、昭和15年12月)より。明治製菓銀座売店の夜景。高田保が見た「ネオン広告」はこんな感じだったのかな。1階売店にパン売場があるのが見える。




一方、昼の写真として、『株式会社明治商店一五周年史』(株式会社明治商店、昭和11年4月発行)より「明治製菓銀座売店」。高田保言うところの《江戸伝来の老舗はそのネオンサインの隣りに隠れて、昔ながらの姿をやっぱり其処に見せている》松島眼鏡店は、明治製菓の向かって左隣り。この松島屋に、荷風の『墨東綺譚』の「作後贅言」でおなじみの、帚葉こと神代種亮の息子が職人として勤めていたことを知ったのは枝川公一さんの本がきっかけだった。『断腸亭日乗』の昭和10年9月13日に《松島屋眼鏡店にて老眼鏡の修繕をなさしむ。今まで遠視十度なりしを八度となす。故人神代君の遺児先頃よりこの眼鏡屋の店員になりて住込みたる由番頭のはなしより。》という記述がある。神代種亮が死んだのは同年3月末のこと。帚葉翁は財産を一文も残さなかったという。……などと、『墨東綺譚』のあとさきとしての明治製菓銀座売店界隈。右となりにそびえたっている伊東屋には当時吉行あぐりの美容室があって、淳之介少年がしょっちゅう遊びにきていた。