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彷書月刊を読んで岡本一平『人の一生』を繰る。鈴ヶ森のポプラの家。

朝の喫茶店で珈琲を飲んで、のんびり岡本一平の『人の一生』を繰る。今月号の「彷書月刊」の特集、《大正十年書生生活 岡本一平『人の一生』を読む》はたいへんワクワクだった。なんて、実は『人の一生』のことを知ったのははじめてだ。あわてて、京橋図書館へ走って、『増補 一平全集 第六巻』(先進社、昭和4年9月発行)の復刻版(大空社刊)を借り出した次第。震災後の大正末期を舞台にしている「映画のイメージを取り入れた、日本最初のストーリー漫画」と清水勲の解説にある。海岸に子供を避暑にやったり、会社の任務で上海に短期間渡ったりと、『人の一生』の主人公、唯野人成(ただの・ひとなり)は戸板康二のお父さんの世代なのだなあと、ページを繰っているうちに、いつのまにかそんなことを思っているのだった。




「彷書月刊」2008年4月号(第24巻4号)、特集《大正十年書生生活 岡本一平『人の一生』を読む》。表紙もとてもキュート! 現在本棚に立てかけて悦に入っているところ。




岡本一平『続人の一生』より、《人成は定刻通り会社を退けて濠端にさしかかりました。向うから来るモダンガールといつても、ガールより少少歳は取り過ぎて居る女とパツタリ行き合ひました。『アラ人成さん!』『お、巻子さん!』》



東京會舘と帝劇が見渡せる御濠端の風景は、今もほとんど変わらない。今日の帰りは、わたしも「定刻通り会社を退けて濠端にさしかか」り、唯野氏とおんなじ道を歩いていったものの、誰にも会うことはなく三宅坂に向かってズンズンと直進、右手は桜が満開、「造幣局の通り抜け」のような気分(…行ったことないけど)で愉快だった。



戸板康二が、丸善の「学鐙」を例に、魅惑の「リトル・マガジン」の特質として、《後に本になって、その本が非常にいい文献であり、資料であるような原稿が連載で載る》ということや、《エッセイということばが、日本ではかなり乱用、あるいは誤用されていう傾向があるけれども、エッセイの本質はリトル・マガジンに載るものだという気がする》というようなことを、「風景」昭和46年2月号の「リトル・マガジンについて」というテーマの巌谷大四との対談で語っている。「彷書月刊」はまさしくそんな「リトル・マガジン」の典型で、「彷書月刊」が初出の本はとびっきりの愛読書ばかりなのだった。


最近だと、グレゴリ青山『ブンブン堂のグレちゃん』(asin:487257785X)、岡崎武志『気まぐれ古書店紀行』(asin:487502391X)がある。バックナンバーを図書館でくまなくコピーして綴じて長らく秘蔵していた坪内祐三の『極私的東京名所案内』が一冊の本になったときの歓びを忘れない(asin:4906287174)。しかし、別格のお気に入りは、中山信如『古本屋シネブック漫歩』(asin:4898300170)かも(つい最近、竹中労目当てに読み返していたら時間を忘れて夢中に。あらためてそのすばらしさに眩暈が…)。と、そんな「彷書月刊」初出の単行本には、橋爪紳也『モダニズムのニッポン』(asin:4047033952)もあって、これまた何度も何度も折に触れ繰っている本。その連載、橋爪紳也さんの「紙屑のモダニズム」は現在も継続中。


などと、いつもランランと読みふけっている橋爪紳也さんの「紙屑のモダニズム」、今月は「アパート経営虎の巻(上)」。《小野庄一が編集人、安藤更生が編集主幹を務めた月刊誌『住居』(住居社」》の昭和10年1月号の「アパート読本」という特集に、「日本最古のアパート二つ」の事例として、《明治末に上野不忍池畔にあって洋行帰りの吉岡二一郎と羽田幸之助によって建設された上野倶楽部と、ほぼ同時期に開設された麹町三年町の佐藤別館》が紹介されているという。フムフムと読み進めて、

もういっぽうの佐藤別館は、山内一光という人物が手がけたものだ。アパートの名称は義妹の姓からとったようだ。三階建てで一階は煉瓦造、上階は木造、水洗浄化槽を設置した便所を設備していた。劇作家の坪内士行も暮らしていたという。記事では「人間の巣」を研究した結果、このアパートを建設することになったというエピソードを紹介。山内を「理想家」と評価する。彼はほかにも、鈴ヶ森に「ポプラの家」と称する優雅なアパートを経営した。


【橋爪紳也『紙屑のモダニズム』連載69「アパート経営虎の巻(上)」- 「彷書月刊」2008年4月号(第24巻4号)掲載】

と、このくだりに「キャー!」といきなり大興奮。鈴ヶ森の《「ポプラの家」と称する優雅なアパート》は、ごく短期間ながらも若き日の野口冨士男が住んでいたアパートメント! 


野口冨士男がのちにシナリオライターになった高岩肇に、「大森のね、鈴ヶ森にいいアパートがあるんだけど、広すぎるから二人で入らないか」という誘いにのったのは昭和4年5月末のこと。

 その「ポプラの家」というアパートは鈴ヶ森の海っぺりになって、私たちの寝起きした奥の八畳の日本間と同じ面積の洋間の前には広いベランダがあった。ベランダの下が玄関で、そのむこうに海があった。
 そういう広い部屋であったからいろいろな友人が来た。同級の森(=森武之助)もその一人であったが、中でもいちばんよく来たのは、山下新日本汽船の会長になっている山下三郎と大塚(=大塚宣也)の二人であった。地理的な関係もある。山下の家も、高輪にあった。山下は高岩よりさらに二歳も年長であったが、友人づきあいをした。
 「あんた、川端康成に褒められているぞ」
 私が第一書房から出ていた「文学」の第四号を三田通りの岸田書店で買うと、『作家と作品』という文芸時評で山下の短篇『手紙』が取り上げられていた。……


【「出発点――大崎」(初出:「群像」昭和55年7月号) - 野口冨士男『いま道のべに』(講談社、昭和56年11月)】

と、松本八郎さんの「EDI 叢書」に導かれて心惹かれることとなった山下三郎が登場するので、ずっと心に残っていた「ポプラの家」。


「ポプラの家」には高田保も登場! 上掲の野口冨士男の「出発点――大崎」にはさらに以下のくだりがある。後日の資料のため、さらに抜き書き。

 そのアパートの前住者には高田保と宇野千代の両氏がおられたことを、高岩と私は両氏が転居された後まで寄贈されてきていた雑誌類を玄関先で見受けて知ったが、以下は昭和四年九月に改造社から発行されていた円本類似の『新選宇野千代全集』に収載されている『ポプラハウス物語』の冒頭の部分である。


《その小さなアパートはプラタナスの並木のある素晴しい二十間道路に沿うた海岸の、とある埋立の中に建つてをりました。通りがかりに道から見ると、くすんだアメリカ紅の屋根やぺつたりと蔓のはりついてゐる壁の具合や如何かすると近所の料理屋の出前持らしい上着を着た背の低い男が裏の小さな潜り戸から出這入りする有様など、そつくり西洋の田舎にある宿屋のやうでありますが、或朝のこと、沖までボートを漕いで、何の気なしに振り返ると、自分もそこに住んでゐるところ乍ら、へんに玩具のお城のやうだと思はれるところだなと思ひました。二階が三室、階下が三室、みな海に向いて扉のひらいた同じやうな窓を持つてゐます。そしてそれらの窓窓からは、何も植ゑてない一面にばうばうと草の生えた庭が見える。庭の外れは高いコンクリートの突堤でありました。》


 この『ポプラハウス物語』は氏の全集にも入っていないために初出誌不詳だが、文末に《一九二九、七、九》と擱筆の日附がある。一九二九年は私が高岩と「ポプラの家」に居住した昭和四年だから、宇野さんはそれ以前に転居していても、ほぼ私たちがいたころの有様が写されているとみて間違いない。


というわけで、たいへん気になって、週末の図書館でちょろっと雑誌探索を試みたけれども、「ポプラの家」に関する記事はうまく見つからず。しかし、1930年代東京のアパートメントというのに急に心ときめくひとときは、たいへんオツだった。極私的に長らく気になっているアパートメントといえば、三田の戸板康二が昭和12年に住んで、のちに池田弥三郎がうらやましがって越してきた「仙石山アパート」、敗戦間近の川尻清潭がいた明舟町の「芳盟荘」が双璧。「ポプラの家」に興奮したのを機に、これらのアパートに関しても関連記事をドシドシ発掘したいものだとメラメラと燃えているところ。



野口冨士男の自筆年譜(『文学とその周辺』筑摩書房・1982年8月)より抜き書き。

昭和四年(一九二九) 十八歳
 四月、慶應義塾大学文学部予科に進学。ドイツ語クラスに入って、史学科を志望した。同級に普通部四年から進学してきた森武之助(のち慶大国文科教授)、一年上級の重松宣也と同級で原級留となった高岩肇(のちシナリオライター)がいて、彼と鈴ヶ森のアパート「ポプラの家」(前住者に宇野千代、高田保がいた)に同室したため重松宣也、山下三郎、森武之助らがしばしば来訪した。庄野誠一、丸岡明、太田咲太郎、金行勲らを知り、水上瀧太郎邸でおこなわれた水曜会、「三田文学」の紅茶会などにも出席して、和木清三郎、倉島竹二郎、平松幹夫、今井龍夫、水木京太らの先輩を知る。この年ごろから築地小劇場に行きはじめて、新劇ファンの傾向が強まる。